14
瑞穂が蜜をたっぷりかけた甘餅の三杯目のおかわりを平らげたとき、いきなり、千秋と王子が部屋に入ってきた。
「まあ、入るならお声くらいかけてくださいまし。」
目を三角にする瑞穂に王子は言った。
「出かけるぞ、瑞穂。
風花の君に使われた毒が分かった。
その毒消しの材料を集めなければならない。」
「まあ、流石、殿下と千秋。
仕事のお早いこと。
それで、その材料とやらはどこにありますの?」
嫌味をこめて言う瑞穂を見つめる千秋の顔は、少し青ざめていた。
「とても珍しい草なのです、姉上。
どこにでも生えているものじゃない。
それでも、僕はつい最近、それがたくさん生えているのを見たんです。」
「まあまあ、それはまた都合のよろしいこと。
それで、それはどこなんですの?」
「水守山です。
先日、蛍さまとともに入ったときに、確かにたくさん生えていたのを見ました。」
「水守山ですって?」
瑞穂は今度は嫌味も忘れて目を丸くした。
「けれど、今、蛍さまはいらっしゃいませんし…
お帰りをお待ちするのがよいのではありませんか?」
「僕もそのほうがいいと殿下には申し上げたのですけど…。
蛍さまとともに入る口は、蛍さまがいらっしゃらない今は、開かないと思うんです。」
千秋も困ったようにそう付け加えた。
「そんな悠長なことは言ってられない。
在り処が分かっているのなら、取りに行けばいいだろう。」
王子はあっさりとそう言って、瑞穂の手をひっぱった。
「で、でも、水守山には封印が…」
おろおろと言いかける瑞穂を王子の目が黙らせる。
「そんなもの、ものともせず、お前は一度入り込んだんだろう?
その入り口を教えろ。」
王子にじっと見据えられつつも、それでも瑞穂は首を振った。
「い、いけませんわ、殿下。
あそこから入ると、いきなり怪に襲われますのよ。
こおおおんな大きな百足がうぞうぞと足を動かして…
いいえ、いいえ、いけません!
それはいけませんわ、殿下!
あのときは運良く蛍さまに助けていただけましたけれど、次も間に合ってくださるかどうかは分かりませんもの!
あんなもの、わたくしは二度とお会いしたくはありません!!」
「お前は入り口の場所だけ示してくれればいい。
あとは千秋と俺が行く。」
王子は逃げようとする瑞穂をひょいと抱えると、すたすたと大またで歩き出した。
「い、いけません、殿下!
殿下や千秋に適う相手ではありません!!」
瑞穂が大声で叫ぶ。
廊下を歩く仕え人たちが何事かと振り返る。
千秋は小さく舌打ちをすると口の中で何か唱えた。
途端に瑞穂は口を開けなくなって、ただもごもごと口の中で言うだけになった。
「おお、便利な技だな、千秋。
後で俺にも教えろ。」
明るく振り返る王子に、千秋は優雅に頭を下げてみせた。
「〇#$★☆△▽♀!!!」
瑞穂は何か叫んでいたが、もう誰もそれを気にするものはいなかった。
竜神が棲むという深い淵のほとりに淡海と蛍はたたずんでいた。
蛍の求めに応じて淡海が案内したのだった。
淵は崖に囲まれていて、足元のすぐ下にはもう底の知れないほど深い淵がどこまでも静かに広がっている。
淵の水はこの上なく透明に澄んでいるのに、その底は計り知れないほど深くて、見通すことはできなかった。
「落ちないように気をつけてください。
生き物の棲めない冷たい水ですから。」
淡海がそう言いかけたときだった。
ぽちゃんという軽い音と共に、となりにいたはずの蛍は姿を消していた。
「蛍さん!」
あまりのことに驚いた淡海が叫び声と共に淵を覗き込むと、底をめざして潜っていく蛍の姿がゆらゆらとゆれる水の中に見えた。
「いけません、蛍さん、戻ってください!」
淡海の叫びは聞こえなかったのか、蛍は振り返りもせずにあっという間に姿が見えなくなった。
水の中で蛍は守り珠の光を追うように深く潜り続けていた。
泳ぐのはそれほど苦手じゃない。
しかし、真冬の淵の水は、最初飛び込んだときには思ったよりも暖かかったが、そのうちに恐ろしいほどに冷たくなった。
蛍は自分の体から命の力が流れ出していくような気がした。
それでも蛍は、ただひたすらに光に導かれるまま、深く深くへと潜り続けた。
淵の畔に佇んで、淡海は激しく両手をもみしだきながら、ただおろおろと淵の中を覗き込んでいた。
蛍の姿はもうとっくに見えなくなって、様子を伺うことすらできない。
あんなに躊躇いもなく飛び込んだということは、泳げないということはないのだろうが、それでもこの冬の淵の水はあまりにも冷たいことを淡海は知っていた。
あの、とき。
はじめ、ごぼごぼという恐ろしい音が自分を包んだ。
体は重く、深く深くへ引きずり込まれるように沈んでいく。
やわらかいはずの衣がきつく体をしめつける。
苦しいのにもがくことすらできなくて、やがて淡海は静かに水に身を任せた。
冷たい。
冷たい…
命が少しずつ流れ出していく。
このまま、深く、深くへ。
何ももう届かない。
悲しみも、恐ろしさも。もう自分とは関りのないところへ遠退いていた。
それでも、まあ、いいか、という気になった。
ここで、この竜の棲むという深く美しい淵に、永遠に沈んでいくのも、それはそれで悪いことじゃない、かもしれない…
そして、深く、深くへ…
はっとして、淡海は目を見開いた。
たった今、何かが自分を貫いて走った。
深く沈みこんでいく記憶、それは、あのときの、自分。
そして、今このときの…
「蛍さん!」
小さくその名を叫んだとき、淵のほとりに佇んでいた淡海の姿は一瞬にして掻き消えていた。
王子と千秋を入り口まで連れて行った瑞穂は何度も何度も言ったことをまた言った。
「おやめくださいまし。
蛍さまももう直きお帰りになるでしょうから。
それからでも少しも遅くはないではありませんか。」
王子はもう何度も何度も答えたことをまた答えた。
「待つのは性に合わないんだ。
お前もよく知っているだろう?
なあに、その草は麓のところにいっぱい生えていたらしいからな。
ちょこっと入ってちょこっと摘んで戻るさ。
もしも怪が現れたところで、この俺の剣の敵じゃない。」
「殿下の剣技の優れていらっしゃるのは存じております。
けれど、怪というのはそういうことの通じる相手ではないと…」
「心配するな、瑞穂。
なあに、千秋もいる。
大丈夫さ。」
ぽんぽんと頭をたたく王子の手を瑞穂はいきなり握った。
「分かりました。
では、わたくしも一緒に参ります。」
それには王子がぎょっとした顔をした。
「いや、それは…どうかな。
やめたほうがいいんじゃないか?」
助けを求めるように千秋のほうを見る。
千秋も深くうなずいた。
「いざということになれば足手まといなだけです、姉上。
ここでじっと待っていてくださるほうがずっと助かります。」
「いやですわ、こんな寂しい場所にひとりで置いていかれるなんて。
一緒に連れて行ってくださるのでなければ、わたくし、決してこのお手を離しませんわ。」
王子の腕にそのまましがみつく。
力任せに振り払うこともできなくて王子はほとほと困った顔つきになった。
「無理を言うな、瑞穂。」
「ほら、早く参りませんと、時間の無駄なのでしょう?
ちょこっと入ってちょこっと草を摘むだけなら、すぐにすむことなのですから。
さあ、お早くなさいまし。」
「いや、だから…」
「分かりました。
では、わたくしが先に参ります。」
瑞穂はいきなり王子の腕を離すと、さっさと山の茂みの中へ顔をつっこむ。
ぎょっとした千秋が引きとめた。
「あ、姉上、少し待ってください。
あ、姉上?」
千秋の手は一瞬遅く宙をつかみ、瑞穂は勢い余って茂みの中に転がり込んでいた。
水守山に入った瑞穂は、ふと、何かがあのときとは大きく違っている気がした。
それが何かはよく分からないけれど、確かに何かが違う。
すぐ後に入ってきた千秋を不安げに見上げると、千秋も瑞穂のその思いを肯定するようにうなずいた。
「何かが、おかしいです。殿下。」
「そりゃおかしいだろうさ。
ここは普通の場所じゃないんだからな。」
王子は抜き身の剣を背中に担ぐようにして二人の後ろに立った。
隙のない目で辺りを見回している。
「早くしてくれよ。
なんだか、この俺ですら首の後ろの毛が逆立ってやがる。」
王子は油断なく目を配りつつ千秋に言った。
うなずいた千秋はふとすぐ近くに探していた草を見つけて、思わず叫んでいた。
「あ、ありました、殿下。すぐそこです。」
千秋は草の元に駆け寄った。
そして一本目の草に手をかけて引き抜いたそのとき、いきなり周りの木の上から何か大きなものが降ってきた。
「なんだ!」
とっさに剣でなぎ払った王子は、大きな狒々がそこらじゅうの木の枝にいるのを見つけた。
「殿下!千秋!」
瑞穂が悲鳴をあげる。
王子は瑞穂を背にかばいながら襲ってくる狒々を剣で追い散らした。
狒々はからかうように王子の剣をぎりぎりのところでひょいひょいとかわすと、あざ笑うかのように白い歯茎をきーっと見せる。
王子の瞳にあせりが浮かんだ。
「早くしろ、千秋。」
千秋は必死に呪言を唱えて狒々の攻撃から身を守っていた。
とても草を摘むどころではない。
そのとき何を思ったのか瑞穂がいきなり千秋のもとに駆け寄った。
「瑞穂!」
王子の叫びが追いかける。
狒々の腕が瑞穂の衣のすそに届く、そう思った瞬間、ぱちんと何かがはじける音がして、瑞穂に手を伸ばしていた狒々は腕をかかえるようにして逃げ出した。
「姉上!」
思わず目をぎゅっとつぶってしゃがみこんでいた瑞穂は、うっすらと白く光る丸屋根に取り囲まれていた。
その光に触れた狒々はみんな触れたところを痛そうに抱えて逃げていった。
「月澄様…」
瑞穂はつぶやいて、思わずとっさにつかんでいた手の中の石を見た。
肌身離さず身につけていた月澄の守り石が光の丸屋根と同じ白い色に輝いていた。
「いいぞ、瑞穂、そのまま、じっとしていろ。」
状況を読み取った王子は瑞穂の光の屋根の中にとびこんでくる。
千秋もその中に入って、せっせと草を摘み取った。
「もうこのくらいで十分です。さあ帰りましょう。」
両手にかかえた草を腰の袋に移すと、千秋は瑞穂と王子に言った。
けれど、王子はそれにはうなずけなかった。
「取り囲まれたか。
いったいどれだけいるんだ。」
狒々は何頭かは瑞穂の光にはじかれて逃げ去ったものの、その何倍もの数が集まってきて周りをぐるりと取り囲んでいた。
光に触れると危ないことを悟ったのか、ある程度以上は近づいてはこないが、それでも決して獲物が逃げられないように、何重にも取り囲んでいる。
王子はじっと狒々を見据えたままで低く瑞穂に聞いた。
「じりじりと動けるか?」
「え、ええ…でも…殿下…」
瑞穂がおろおろと王子を見上げる。
瑞穂の手の中の石の光が、少しずつ揺らいで弱まってきていた。
「くそっ、月澄のやつ、もう燃料切れか。」
王子は舌打ちをしつつ周りの狒々を油断なく見回した。
少しでも囲みの薄そうなところを探る。
しかし、どこを見回しても、狒々、狒々、狒々の列が続き、こうしている今もまだ山の奥から狒々は湧き出してくるようだった。
「仕方ありません、殿下。ここは僕に。」
千秋はそう言うと、懐から小さな懐剣を取り出した。
あまりにも頼りない小さな剣に王子の瞳にあからさまな落胆が浮かぶ。
「そんな顔をなさらないでください。
戦いはあまり得意なほうではないのですが、一応、これでも剣の巫女の血筋です。
やり方だけは心得ていますから。」
千秋はそう言うと、剣を抜いて呪言を唱えた。
千秋の力を受けた刃が青く輝き始める。
狒々の群の中に雷のように恐怖が走った。
「さあ、付いてきてください。」
千秋はそう叫ぶといきなり目の前の狒々に切りかかった。
剣に触れるか触れないかの瞬間、狒々ははじけるように掻き消える。
狒々の群に大混乱が起きた。
逃げ出すものと襲い掛かってくるものが入り混じり、互いにぶつかり、もみあっている。
その隙を的確に見破って、千秋は狒々に切りつけ道を開いた。
冷たい水の中で、蛍は何か暖かいものが口から流れ込んでくるのを感じた。
ふと目を開くと、すぐ目の前で淡海がにっこりと微笑んだ。
ああ、と思って、あとは目を閉じる。
力の入らない体を誰かがしっかりと抱えてぐいぐいとひっぱっていく。
背中とそうして体にしっかりと回された腕が温かい。
上へ上へと上っていく感覚がある。
初めて淡海に会ったときに見せてもらった淡海の放つ光になったような気がする。
そうだ、こうやって、上って…上って…
光は、はじけて世界を包む。
蛍の目の前でも光がはじけた。
「蛍さん!」
淡海の叫び声がする。
蛍は必死に目を開いてその声のほうを見た。
「しっかりしてください、蛍さん。」
淡海は半分泣きながら、蛍を抱えて水面を泳いでいた。
意外なことに淡海の手足はすいすいと難なく水を切っていく。
「泳ぐの、うまいんだなあ。」
思わず蛍がつぶやくと、淡海の笑い声が返ってきた。
「泳いだのは生まれて初めてなんですよ。
泳げるとはまさか自分でも思いませんでした。
ああ、でも、これでも一応、わたしは竜の子でしたっけ。」
「竜なら泳げるよなあ。」
我ながら間の抜けた言い方だと思った。
淡海の笑う声が耳にくすぐったい。
ほらやっぱり笑われた。
蛍も一緒に笑いたいけれど、力が入らなかった。
「ほら、もう着きましたよ。」
淡海は蛍を抱えたままぐいと岸に上がる。
華奢なのにどこにそんな力があるんだろうと蛍は不思議になる。
ああ、そうか、竜の子なら、力もあるのか…
無謀だ、とよく千秋に叱られた。
自分にも、そういうところがあるという自覚はあった。
けれど、いつもなんとかなってしまうから。
今回だって、ほら、なんとかなったじゃないか…
「蛍さん、蛍さん、しっかりしてください!」
岸に座り込んで、淡海はしっかりと蛍を抱きかかえて呼び続けている。
蛍は閉じていた目をまた開いた。
「蛍さん、どうしてこんな無茶を…」
淡海の涙が落ちてくる。
口に入ると塩辛い。
一瞬、あれ?と思って、それから、ああ、そうか、と思った。
「蛍さん、蛍さん。」
淡海は蛍をかかえて何度も何度も呼び続けている。
少し苦しいけれど、とても暖かい。
押し付けられた耳に淡海の心臓の音が響いてくる。
はっとして蛍は目を開いた。
ようやくしっかりと目が覚めた。
淡海の腕をにぎって、蛍はその顔を見つめた。
「この姿は…」
「蛍さん!」
淡海の抜けるような笑顔が蛍を迎えた。
けれど、その瞳に蛍の姿は見えていないようだった。
ああ、そうか、巫女姫は盲目だったんだ、と蛍が気づいたとき、淡海はそのままもう一度蛍をしっかりと胸に抱きすくめた。
淡海の体温はとても温かかった。
「あなたが水に沈んでいくのが見えたんです。
何とかしなければと、そう思ったとき、わたしも水の中にいました。
あとは必死にあなたを抱えて、そうして…」
そこまで話したところで、突然、淡海の表情が凍りついた。
けほっと小さな咳をして、淡海は血を吐いた。
ようやく狒々の群を抜けたところで、千秋たち三人は息をついていた。
そこはこんな場所が森の中にあったのかと思うほど、ぽっかりと開けた広場だった。
「ここは紋章の要に当たる場所です。
水守姫はここだと思ったのですが…」
千秋は辺りを見回した。
しかしどこにも人影らしきものは見当たらなかった。
「ここじゃないとすると…」
千秋はしばし考える。
王子と瑞穂の期待をこめた目が集まる。
「雪輪紋の形からすると、ほかに重要な場所は…」
つぶやきながら地面にくるくると一筆書きの紋章を描いてみせる。それを見た瑞穂が、あ、と小さく声を上げた。
「これは、わたくしの姫紋と同じですわね…?」
「あ、ああ、そうなんですよ。
大切な紋章を忘れないために里は代々の姫にこれを姫紋として覚えさせて…」
「ならば、大切な場所はきっとここです。」
瑞穂は紋章の一点を指し示した。それは一筆で描ききる紋章の起点であり、くるくると六花の模様を描いてまた戻る終点でもあった。
「そうか。なるほど。
では、姉上、この地を見てください。
ここがこの要だとすると、あなたのおっしゃる点はどこになりますか?」
千秋に言われて瑞穂はぐるりと山を見渡した。そして、きっぱりとある方角を指差した。
「あそこです。
あそこにきっととても大切な場所があります。
そこに参りましょう。」
瑞穂がそう言うか言わないかのうちに千秋と王子は歩き出していた。
口をぬぐった手にぬるりとした感触を感じて、淡海は呆然とした。
「あ、…」
淡海の手についた血を見て、蛍は跳ね起きた。
「そうか、毒だ!」
蛍の声のほうを見上げて、淡海はこの上なくきれいに微笑んだ。
「そうでした。忘れていました。あは、ははは。」
笑いながら淡海は蛍の手を引いて座らせると、蛍の頭をもう一度自分の胸に押し付けた。
「こんなことしてる場合じゃないだろ!」
蛍の叫びを淡海は押さえ込んだ。
「いいんです。
もういいんです。
こうしてあなたに直接触れることができたから。
あなたがちゃんと生きていてくださって、とてもよかったから。」
そう話す淡海の口から次々に血があふれてくる。
「淡海!」
蛍はからだを引き剥がすようにして淡海の顔を見上げた。
激しく後悔していた。
淡海がこんなことになったのは自分のせいだ。
自分があんな無茶なことをしたから…
蛍を救うために、淡海は現身に戻ってしまった。
毒に侵されたからだに。
無茶をしても、なんとかなる、とずっと思っていた。
ずっと、自分が傷つくことには、あまり躊躇いはなかった。
けれど、自分が傷つくより苦しいことが、この世界にはあるのだと知った。
今、初めて、無茶はいけないと悟った。
心の奥底から、深く深く、悟っていた。
しかし、淡海はこの上なく幸せそうな笑顔になって言った。
「やっとわたしをその名で呼んでくださいましたね。
ずっとずっと、待っていたんですよ?
あなたがわたしの名を呼んでくださるのを。」
そのままゆっくりと淡海は瞳を閉じた。
蛍に回された腕から力が抜けて、淡海の体は地に倒れこむ。
とっさに地面にぶつからないようにと差し出した蛍の手は、今度はしっかりと淡海を捕まえていた。
「淡海!淡海!」
蛍の声が届いたのか淡海はゆっくりと目を開けた。
けれど、その瞳にはもう力はなかった。
それでも淡海はそっと蛍の手を捜して捕まえると、にっこりと微笑んだ。
「蛍さん、あなたの手は温かいですね。
やっぱり。おもっていたとおりでした。」
ゆっくりと、ゆっくりと淡海は瞳を閉じる。
蛍の手を握ったその手から、ゆっくりと、ゆっくりと力がぬけていく。
「だめだ!」
「ええ、そうです、だめです!」
蛍の叫びを誰かが繰り返した。
はっとして振り返った蛍の目に、千秋の姿が映った。
千秋は何も言わずに淡海の側に駆け寄ると、膝をついてそっとその胸に手を当てた。
短い呪言を唱えて、千秋は淡海の体に強い力を送り込んだ。
強い気の力に、淡海の全身は光り輝いた。
「千秋?」
「任せてください。」
千秋は短くそう言って、もう一度力を淡海に送り込んだ。
王子と瑞穂が追いついてきた。
千秋はもう一度、淡海に今度はもう少し強く力を送り込んだ。
淡海の体が小さく震えた。
それを見て千秋は首にかけた小さな筒から丸薬を取り出すと、細かく砕いて淡海の口に流し込んだ。
けれど、淡海の口の中で丸薬はとどまったまま喉を通っては行かない。
千秋が竹筒の水を流し込もうとすると、蛍が千秋の手から筒をとって自分の口に水を含んだ。
「蛍さま?」
目を上げた千秋には答えず、蛍は淡海の上にかがみこむと、そっと口伝えに水を流し込んだ。
淡海の喉が小さく動く。
淡海の目にたまっていた涙が、つっと流れた。
淡海の変化を見届けた千秋は蛍に言った。
「今度は少し離れてください。」
蛍はおとなしく従って瑞穂と王子のもとまで下がった。
千秋は懐剣を抜いて淡海の上にかざした。
ゆらゆらと剣を揺らしながら長い呪言を唱える。
それから鋭い気合と共に淡海の額を剣の横腹で打った。
流石の蛍もこれには息をのんだ。
瑞穂が腕にしがみついてくるのを感じた。
王子も息を殺してただじっと様子を見守っている。
けれど、振りむいた千秋の顔は晴れ晴れとしていた。
「とりあえず、なんとか命は繋ぎました。
あとは毒を体から抜きます。
それには少し時間がかかります。
できれば王宮に運びたいのですが。」
王子がうなずいて淡海の体を軽々と抱きかかえた。
懐剣をかざそうとする千秋を蛍はそっと引き止めた。
「雪輪紋の封印はもうない。
水守姫はもういなくなったから。」
はっとして蛍を見返した千秋に蛍はうなずいてみせた。
千秋は納得したようにうなずき返してから王子と瑞穂を振り返った。
「帰りはもう襲われる心配はありません。
近道をします。」
千秋のその言葉を待たずに蛍は一番近い道をたどり始めていた。