13
すっかり通い慣れてきた感のある水守山への入り口を蛍は今度は一人でくぐった。
心なしか山の気配も以前ほどにはぴりぴりしないような気がする。
けれど、いつもの場所には淡海の姿はなかった。
怪訝に思いつつ珠を取り出して淡海の気配を探ってみる。
すぐにそれは見つかって、蛍は慎重にそして、急いでその場所へとむかった。
淡海は蛍と初めて出会った森の中の広場にいた。
蛍がそこにたどり着くと、淡海は蛍の来ることをまるで分かっていたように出迎えた。
「ようこそ、蛍さん。
お出迎えできなくてごめんなさい。
本当はずっとずっとあの入り口のところでお待ちしていたかったのですけれど、どうしてもここに戻らなければならない用があって。
ずいぶん遠くまで歩かせてしまいました。」
「本当はここはそう遠くはないんだろう?」
「ええ、本当はね、まっすぐに来ればすぐのところなんです。
けれど、あなたがお一人で封印に触れないように通るためには、ずいぶん遠回りをしなくてはならないでしょう?」
「それが道筋ならば、それをたどるだけ。」
「あなたはそうおっしゃるだろうと思いました。」
淡海は小さく笑って広場の中心を見た。
淡海の視線の先で小さな光がまぶしく輝いていた。
「もうお気づきかもしれませんけれど、ここは雪輪紋の要に当たる場所なのです。
封印に力を与えるためにはここから力を送るのが一番です。」
蛍は封印の要をじっと見て言った。
「封印は、弱っているのか?」
淡海もまた蛍と同じところを見てうなずいた。
「はい。
せっせと繕い続けても、あちらこちらからぼろぼろと乾いた土のようにこぼれていきます。
今度こそ、もう限界なのかもしれません。」
淡海は悲しそうにうつむいた。
「けれど、今のわたしにはもうこれ以上の力はありません。」
「何かわたしにできることはないか?」
即座にそう言った蛍を淡海は微笑みを浮かべて返した。
「有難う。けれど、…ぎりぎり、できるところまで何とかやってみるつもりですから。」
そう言って笑ってみせるけれど、淡海は心なしかやつれたようだった。
蛍は口の中で小さく、淡海のための呪言を唱えた。
それを見ていた淡海の瞳が、ふと、何かを思い切ったように光った。
「いえ、でも、もし、もしも、願いを聞いてくださるというのなら、ここにいてくださいませんか、蛍さん。
ここに、わたしと共に。」
堰を切ったようにそこまで言って、突然淡海は息を呑んだ。
「あ、いえ…ごめんなさい。
いいえ、今のは取り消します。
いけません、蛍さん。ここにいては。
すぐにお帰りなさい。あなたの風の中に。
あなたがいるはずだった場所へ。」
淡海の瞳がすっと表情をなくし、その横顔は冷たく凍りついた。
「…ここはもう直き大変なことになります…」
「わたしにできることがあるのなら、わたしはここにいる。
だから、何をすればいいのか教えてほしい。」
淡海の冷たい瞳を覗き込むようにして蛍が言った。
淡海の瞳から、みるみる氷が溶けるように、涙が溢れ出した。
それでも淡海は蛍のほうは見ようとしないで、言葉をしぼりだすようにして言った。
「この間、千秋さんにお話したでしょう。
わたしはこの地を守る竜神の血をひくもの。
最後までこの地を守らなくてはなりません。
けれど、蛍さん、あなたは違います。
あなたにはもうこれ以上ここにいる理由などないのです。
だから、どうかあなたはお戻りなさい。
あなたの風の中へ。
今ならまだ間に合います。」
淡海の瞳からあふれる涙は血のような赤い色に染まった。
それでも淡海は蛍のほうを見ようとしなかった。
淡海の心に反応するように、山の空気がびりびりと震えた。
遠くのほうで低い轟きも響いた。
淡海はうつむいたままで首を振り続けた。
「わたしは、ここにいないほうが、いいのか?」
ぽつりと蛍はそう尋ねた。
淡海の瞳が驚いたように蛍を見つめた。
「いいえ。そんなことはありません。
あなたの存在は、いつも、どこででも、あったほうがいい、そうにきまっているものです。」
「そうなのかな。」
珍しく自嘲的にそうつぶやいた蛍を淡海は怖いほどにじっと見据えた。
「何をどう間違っても、そんなことを口にしてはいけません。
いいですか、絶対にです。」
目を上げた蛍と淡海の目が合った。
淡海の涙は血の赤から悲しみの青へと色を変えた。
「…蛍さん…」
淡海はただそれだけつぶやいて、そのまま崩れ落ちるように膝をついた。
思わず手を出した蛍は、ただ、空だけを掴んでいた。
その蛍の手を、淡海は呆然と見上げた。
「わたしは、いったいどうすればいいのでしょう。
どれほど力を尽くしても、足りないのが見えるんです。
今年の闇風はわたしの力など遠く及ばないほどに強く手ごわい。
なのに封印の紋章はどんどん崩れていきます。
このままでは恐ろしいことになる。
何か手を打たなければならないのに。
なのに、わたしにはどうすることもできません!」
血を吐くようにして叫ぶ淡海を蛍はただじっと見ていた。
淡海は地にはいつくばり、こぶしを打ちつけて激しく泣いた。
どんなに激しくたたいても、淡海のこぶしに傷のつくことなどなかったけれど、それでも、蛍にはそこから赤い血の流れ落ちるのが見えるような気がした。
蛍は静かに淡海の前に膝をつくとそっと手を差し出した。
淡海ははっとしたように目を上げると蛍を見た。
蛍はただじっとそのままで淡海を待っている。
けれど淡海は悲しげに首を振った。
「さっき、お分かりになったでしょう?
わたしには実体はないのです。
あなたの手をとることはできません。」
「いいから。さあ。」
蛍はさらに手を差し伸べた。
淡海は恐る恐る自分も手を伸ばした。
蛍の手のひらに透けるようにして淡海の手のひらが重なる。
蛍が小さく呪言を唱えると、重なりあったところが淡く輝いた。
淡海は驚いた目をしてもう一度蛍を見上げた。
「…蛍さん…」
「こんなことくらいしか、できないけれど。」
すまなさそうに言う蛍に、淡海はぶんぶんと首を振った。
「いいえ、蛍さん、いいえ!」
淡海は蛍の手に浮かぶ光を両手で包むようにしてすくいとると、そこに頬を寄せた。
「どんな宝より尊い宝です。
蛍さん。有難うございます。」
蛍はぎこちなく微笑んでみせて、そっと淡海を引き起こすように手を引いた。
「わたしだけじゃない、千秋も瑞穂も、王子だって、あなたを助けたいと思っている。
一人で苦しまないでほしいんだ。」
淡海は蛍の手から手を離さないように立ち上がった。
「…いいのでしょうか、そうして頂いても。」
「いいんだと思うけどな。」
透けるようにして重なる手のひらを、淡海はじっと見つめる。
「あなたの手は暖かいのでしょうね、蛍さん。
あなたに手をとって頂ければ、わたしは不安も悲しみも忘れて何でもできるような気がします。
あなたの手に触れることができないのが、今はとても悲しい…」
「現身は、どこにあるんだ?」
蛍は問いかけに、淡海はその手を離れないようにただじっと重ねたまま、ゆっくりと首を振った。
「取り戻すことなどできませんよ。
深い深い水の底に沈んでいるんです。
魚すらも泳がない凍りつくほどに冷たい水の底に。
ただ竜だけが棲むことのできる深い淵の底に。」
蛍ははっとしたように淡海を見つめた。
「そうか。だから、あなたは、水守姫、なのか。」
「そこは竜神の棲むと言われている場所でした。
わたしは、永遠にその場所を守るために、封じられた。
水守の名はそのことをを意味しているのです。」
淡海は深いため息をついた。
「よしんば、そこからひきずりだしたとしても、もはや、体中に回った毒は、竜神ですら中和しきれないほどの力で、命の最後の糸を絶とうとしています。」
「毒を飲まされて水に沈められたのか。」
蛍は呆然とそうつぶやく。
淡海は小さくうなずいた。
「それでも、わたしはそれを受け入れようと思っていました。
それが義母上のご意思ならば、わたしに否やなどあるはずもなかった。
なのに、最後の最後の瞬間、わたしは抗ってしまったんです。
どうしてなのか…
いいえ、けれど、どうしても、どうしても、わたしにはそれを受け入れられなかった。
そしてわたしはこんな姿に成り果てて、何度も何度もこの山で雪を迎えることになりました。」
淡海は見えない雪を手のひらに受けるようにそっと手を差し伸べて空を見上げた。
「竜を眠らせ、わたしを眠らせ、雪がこの山を白く染め上げるとき、暗い風も白い風へと変わり、竜神の守護するうつくしの都は守られます。」
淡海の手のひらで幻の雪がそっと光って消え去った。
「本当は今頃はいつもわたしは冬の眠りに入っているのです。
わたしにとってそれはいつもとても甘美なものでした。
すべては大いなる力に委ねられ、ただじっと守られて。」
淡海の瞳はとても幸せな何かを思い出しているように揺らいだ。
ただそのときだけが、水守姫に許された休息のときだったのかもしれない。
けれど、その瞳を淡海は蛍に移すと、春の日差しのような笑みを浮かべた。
「けれど、もしも、いつものように眠りに入っていたら、わたしはあなたにはお会いできなかった。
…あなたにお会いできたことが、いいことだったのか、よくないことだったのか、わたしには、分かりません…けれど。」
淡海はじっと蛍の目を覗き込むようにした。
「それでも、わたしは、あなたにお会いできてよかったと思うんです。
いろんなことを、あれやこれやと考えるけれど、それでも、そのすべてが、もうどうでもよくなってしまうくらい、あなたの存在はわたしにとって大切なものです。
これだけはどうか覚えていてください。」
淡海は蛍の瞳の中に入り込むようににっこりと微笑んだ。
「そして、どうか許してください。
わたしはあなたを元の静かな風の中へと返してさしあげないといけないはずなのに、ずるずるとあなたを引き止めてしまっています。
どうしてなのか分からないけれど、どうしてもどうしても、あなたを手放せない。
生きることにしがみついてしまったあのときと同じように。」
淡海の瞳の中で蛍は静かに微笑んだ。
そのころ。
王宮の書庫では三人がせっせと書物をひっくり返していた。
いや、若干一名、せっせとという形容の当てはまらない姫君もいた。
書庫に収められていたのは古代から収集されてきた多くの書物と、王宮に仕えてきた女官や官吏たちの記録書、覚書、等々、等々…
公の文書もあればごく私的な日記の類もあり、とても読めたものでない文字に、うますぎて読めない文字、それが延々と、実に延々と連ねられている。
五冊目くらいまではそれなりに真面目に紙を繰っていた瑞穂も、そのうち面倒くさそうに中を二、三度めくっては、はいおしまい、と横に積み上げるようになっていた。
「姉上、もう少しちゃんと調べて頂かないと。」
恐ろしいほどの速度で頁を繰りながらも、書物から一時も目を離さずに、千秋は声だけを投げる。
一瞬びくりとして千秋のほうをうかがった瑞穂は、千秋が少しも目を上げないのを見て、なあんだという顔になった。
どうせ見もせずに瑞穂が怠けていると決め付けてそんなことを言うのだろう。
その瑞穂に千秋の声がもう一度飛んできた。
「姉上、僕の顔を見る暇があるなら、文字を読んでください。
急いでいるのですからね。」
瑞穂はびくりと首をすくめた。
千秋というのは本当にいやなやつだと思う。
「だあって、こんなものひっくり返して、なんの意味があるのかしら。
さっき読んだものなんて、毎日の夜食のおかずばかり書き連ねてありますのよ。
わたくし、その方の一年分のお夜食を隅から隅まで読んでしまいましたわ。
ええ、ええ、百年も前のその方が何をお好みで何をお好みでなかったかまで、よっく分かりましてよ。」
いやそうにつんつんと書物をつつく。
「まったく、どうしてこんなものまで後生大事にしまいこんであるのかしら。
いったい何の役に立つというのでしょう。」
「何の役に立つかは分かりませんが、いつか役に立つときがくるかもしれません。
書物は粗末に扱わないように。」
千秋はちらりと目を上げて瑞穂を一瞥してから再び書物に目を戻した。
王子は、わはははと笑いながらうーんと背伸びをした。
「ここには王宮に仕えた者の記録が公的私的に係わらずすべて収められている。
まあ、玉石いろいろあるのは仕方がない。
ん?どうした千秋?」
「今、百年前、とおっしゃいましたか?」
書物から目を離して千秋はじっと瑞穂を見ていた。
瑞穂がうなずくとおもむろに立ち上がってそちらの棚に近付き、何冊か抜き取ってぱらぱらと中をめくった。
「なるほど。やはり、この辺りにはその頃の書物が固められているようですね。
殿下、こちらを先に集中して調べてしまいましょう。」
そう言った千秋の目がふとさっき瑞穂の投げ出した書物の表紙に止まった。
「これは…?」
「ああ、それはなかなか面白いお話でしたわ。
雨の方というお妃のお話で。
当時の陛下がうんとお年を召してから迎えられた妾妃だったのですけれど、その方に嫉妬した正妃様がそれはそれはひどいいじめ方をなさるのです。
おなかの大きい雨の方の部屋にわざと毒蛇を送り込んだり、人食い熊の出る山へ薬草採りに行かせたり。
それでも雨の方がご無事だと分かると、とうとう正妃様は雨の方の薬湯に毒を入れさせるのですわ。
それを飲んだ雨の方はにわかに産気付き、月も満ちずに王子を産み落としてしまうのです。
その王子がまた玉のように美しい赤子だったのに、生まれつき目も見えず、声もほとんど立てることはなかったとか。
あまりの美しさ儚さゆえに、風花の君と呼ばれたそうですわ。」
よほど面白かったのかすっかり筋を覚えてしまった瑞穂は、そこまで一気に語ってから、自分を王子と千秋がまじまじと見ているのに気づいてきまり悪そうにうつむいた。
「あら、すみません。
あまりに面白いお話でしたので、つい最後まで読んでしまったのです。
関係なさそうだと思ったところですぐにやめて次に移るべきなのは分かっておりますから。
ええ、もういたしませんわ。」
「あ、姉上、それは…」
ぽんぽんと言う瑞穂を引き止めるように千秋が手を差し出す。
けれど瑞穂はその手を払ってそっぽをむいた。
「だから、謝っているでしょう?
さあさあ、こんなことでわたくしを責めていらっしゃるのは時間の無駄というものです。
早く水守姫の記録をお探ししなければ。
そういえば、この風花の君という方は、どことなくあの水守姫と似通うところがおありのような気もいたしますわね。
ああ、ああ、そうでした。
それで、わたくしもつい、最初から全部読んでしまったのですわ。
盲目で話すこともほとんどなかったという一文が目に付いたものですから。
でも、残念ですわ。
これでお生まれになったのが王子ではなく姫であったのなら、水守姫のことかもしれませんでしたのに。」
「なるほど。」
王子もうなずいて手に持っていた書物を棚に戻した。
千秋が王子のほうを見る。
「姫ではなく王子だったんですね。」
「いずれ水守姫にするために、あえて姫と偽ったのか。
自分の都合どおりにするには姫でないと具合が悪いいうのもあったのかもしれない。
王子であれば妾妃の腹であっても専属の世話集団がつき、王位の継承者としての教育を受ける。
つまりは、自分の息子の地位をおびやかしかねない子どもを処分するには、一石二鳥の手だったというわけか。」
「盲目の上、身近な世話係にも口をきくことを堅く禁じていたのなら、あるいはご本人ですら自分を姫だと信じて疑わなかったでしょう。」
王子と千秋の話に瑞穂はきょとんとした。
「え?え?では、これは大当たりだとおっしゃいますの?」
千秋がうなずいて記憶を探るように遠くを見る。
「風花の君。
なるほど、あの方には巫女姫という名よりもふさわしいような気がしますよ。」
「けれどけれど、あの方のお母様は樹雨様とおっしゃるのではなくて?」
「だから、雨の方なのでしょう。
尊い方ならば、真名をそうそう書き付けたりはしませんからね。」
千秋は分かりきっているという風に言った。
瑞穂は少し憮然とした。
「まあ、そんな意地の悪い言い方をなさらなくても。
わたくしがこの書を見つけましたのよ。
もう少しほめていただいてもいいのじゃなくて?」
「確かにそうだ。よくやった、瑞穂。」
王子はわはははと笑いながら、大きな手で瑞穂の頭をぐりぐりとなでまわした。
瑞穂は複雑な顔になる。
「あのう、これはほめてくださってるのですの?」
「ああ、そうだとも。
さて、そうとなれば、その辺りの書物をもう少し調べるとするか。」
「まだまだ何か出てきそうですからね。」
千秋と王子にさっきまでいた場所を占領されて締め出された瑞穂は、つまらなさそうに口をとがらせた。
「ちょっと、そんなになさるなら、わたくし、もう部屋へ帰らせていただきますわ。」
「ええ、そうしてください、姉上。
もう十分、猫の手は貸していただきましたから、後はお休みくださって結構です。
日ごろ読まぬ書物をたくさん読まれて、さぞかしお疲れでしょう。」
千秋がにこにこと言う。
瑞穂はますますむっとした。
「分かりました。ではそうさせていただきます。」
「おう。ゆっくり甘いものでも食べているといい。」
王子にまでそう言われて、瑞穂はぷんぷん怒りながら書庫を出て行った。