12
あくる朝。
両手いっぱいに食べ物を抱えて部屋に入ってきた王子に、思わず蛍は尋ねた。
「籠城でもするのか?」
王子はがはははと笑い飛ばしたが、蛍は半分は本気だった。
「今日はあと二人増えるからな。」
王子がそう言うか言わないかのうちにすいと戸口から千秋が姿を見せた。
重そうに飲み物の瓶を抱えている。
その背中から瑞穂がにこにこと現れた。
瑞穂は両手いっぱいに書物と紙の束を抱えていた。
「さあて、それじゃあ、まず朝飯を食いながら、千秋の話を聞くとしようか。」
王子に促されて千秋は書付の束の中からなにやら取り出して話しだした。
「昨日は一日、書物庫で調べものをしておりました。
流石王宮の書物庫です。
とても一日二日で全体を把握することなど不可能なのですが、ただひとつ貴重な記録を見つけましたので、一応、みなさんにもお話しておきたいと思いまして。」
千秋は古い書付を開いて全員に見えるようにした。
「これは百年ほど前のとある女官の日記です。」
「百年前というと、ちょうどあの頃だな。」
「はい。この方は巫女姫に直接お仕えした方のようですね。」
「巫女姫?」
「水守姫のことです。
あの方はお生まれになったときから巫女姫と呼ばれていらっしゃいました。
将来、竜神様に捧げられることをもう決められていたからです。
山の巫女は王の代替わり毎に新王の姉妹の中から選ばれて捧げられていました。
巫女姫も兄上の即位の折に捧げられると決まっていたため、小さい頃から既にそう呼ばれていたのです。
本当の名前はあったはずなのですけれど、既に直属の付き人でさえも、それを知らないということになっていたようです。」
蛍はじっとうつむいて一点を見つめていた。
王子に視線で促されて千秋は話しを続けた。
「ご生母はあの方がお生まれになったときにお亡くなりになりました。
あの方を引き取り育てたのは当時の王の正妃に当たる方です。
第一王子は正妃のお腹でしたから、あの方が巫女に立たれるのは自然な成り行きと言えば言えなくもありません。
巫女にはなるたけ王に近い血筋の姉妹がよいとされていましたから。
しかし、巫女姫と新王となった兄に当たる方との年の差は親子ほどもあったと言います。
いやな勘ぐりをいたしますと、正妃は息子の即位のときに巫女として捧げるために、妾妃腹の姫を育てたというふうにも考えられます。
正妃にはあと二人、実の娘がいるからです。」
「巫女姫というのは、やはり実の娘をそうさせたくはないようなお役目でしたのね。」
「巫女姫と決まったときから厳しい戒律を守った生活を強いられ、花の盛りの年頃に誰も通わないような山奥にたった一人で置き去りにされるのですからね。
次の王の即位のときまで生きていられた巫女姫はほとんどいらっしゃらないし、よしんば生きていらっしゃったとしても、髪は白く、姿は衰えて、およそ人としての幸せなど知りようもない一生を送らねばならなかった、といいます。
まあ、あまり娘にさせたくはないお役目でしょうね。」
「それはむごいお役目ですわ。」
「ええ。巫女姫を育てた正妃もそう考えていたようです。
だから、息子の即位のときに大后となった正妃は巫女姫の制度を廃止させています。
そもそも巫女姫とは竜神の妻として捧げられた姫なのです。
竜神の子を産みその子どもが竜神を継ぐことになれば、王家は神の血筋まで手に入れることになる。
だからこそ巫女姫に捧げられる巫女は王家のなるべく尊い血をもつ姫である必要がありました。
けれど、もう何代もの間捧げられ続けた巫女姫は竜神の子を産むどころか生きて戻ることすらめったにありえなかった。
そんな無駄なお役目は廃してしまえ、という方だったようですね。」
「廃してしまわれてよかったのかもしれませんわ。
けれど、ではその最後の巫女姫に正妃はご自身でお育てになった姫を差し上げたのですね。」
「まあ、育てたといっても実際に世話をしたというわけではないでしょう。
ただ名目上、自分の娘としての地位を与えた、というだけのことでしょうね。
巫女姫は後宮の中でももっとも強い後ろ盾のある姫の一人としてかしずかれてはいました。
お付きの女官たちも上級の貴族の姫君方が多かったようです。
ただし、巫女姫は生まれたそのときから巫女として厳しい精進潔斎の生活を続け、ただ巫女となるためだけに育てられました。
お付きの女官であっても、およそその身に触れることも話しかけることすら硬く禁じられていたといいます。
巫女姫は生まれつき盲目でしたが、口をきけないことはなかったはずだ、とこの日記には記されています。
けれど、本当に口をきけたのかどうかはこの女官ですら分かりませんでした。
それほどに、巫女姫と言葉を交わすことはなかったと。
巫女姫は幼い頃から子どもらしく遊ぶこともなく、日々厳しい精進を続け、ただひたすらに神への祈りを捧げている、凛とした人形のような姫だった、と女官は書いています。
およそ、心の移ろい、感情なども表に表したことはなかったのでしょう。」
「…あの、ちょっとお待ちくださいまし。
今話している巫女姫というのは、あの、あの方のことですわよね?」
瑞穂は思わずそう尋ねずにいられなかった。
それほどに千秋の見つけてきた記録の中の人物と、瑞穂や蛍の出会った巫女姫とは、印象が違っていた。
「まったく別人のようだとおっしゃりたいのでしょう。
ただ、この日記の最後のところの記述にこうあります。
それは巫女姫が山へと送られる前日の夜のこと。
滅多に姫のもとへなど訪れたことの無い兄上、つまり明日即位するはずの新王が姫のもとを訪ねたのです。
二人きりで部屋は締め切られていたようですが、この女官は一応一番の姫付きの女官だったために、用があればすぐに分かるようにと部屋のすぐ外に控えておりました。
部屋の中からは、内容を聞き取れるほどではありませんでしたが、しめやかな話声がしていたようです。
話していたのはほとんど新王となるその人でした。
やがて、新王の泣くような声と、その後に静かな静かな歌声を女官は聞きました。
その歌があまりにも美しかったので、女官は扉のすぐ側で思わず涙を流していました。
歌がやんでしばらくして部屋を出ていらした新王様は、来たときよりもよほど心の重荷を下ろしたようなお顔をなさっていたそうです。」
蛍はじっと話す千秋を見つめていた。
千秋はそっと蛍にうなずいてみせた。
「あの方に似ていらっしゃるでしょう。」
「けれど、その巫女姫は盲目でいらっしゃったって。
あの方はお目は見えていらっしゃるようでしたわ。」
瑞穂の疑問に千秋はまるで予想していたかのように即座に答えた。
「今のあの方は現身から離れたお姿。
肉体の枷などは受けないと考えれば、それは不思議なことでもありません。」
「それにしても、あのようによく笑われる方と、凛としたお人形とは…」
「あの方が巫女姫として立ってからも長い年月が流れています。
その間にあの方にとって変化をもたらすものがあったとしたら…。
そう、あの方は巫女姫として立ったその後で、お父上とも…」
何かを言いかけて、千秋はいきなり言葉を切った。
蛍と王子はじっとその千秋の口元を見詰めている。
千秋は小さく、いいえ何でもありません、とつぶやいて不自然に話をまとめた。
「百年の年月は決して人が変わるのに短い年月ではないと思いますが。」
「その話しには王族にしか伝えられていない秘密がある。
巫女姫の生まれたとき、大后は最初から巫女姫にするつもりで引き取った。
その姫を最後の巫女姫にするつもりで、そのためだけに最高の巫女姫となるように育てた。
そして、息子の即位とともに捧げた巫女姫を、大后は山の社で殺させた。
有無を言わせず竜神に捧げてしまうために。」
王子は淡々と語った。
「まあ、そんなひどいお話、本当のことなのですか?」
眉をひそめる瑞穂に王子はただうなずいて返した。
「その後、大后は巫女姫を廃止した。
つまり、最後の巫女姫はそのための生贄になったんだ。
竜神は巫女姫を受け入れ連れ去った、と民には説明した。
確かめようとするものがいたとしても、山の社にもはや巫女姫の気配すらない。
巫女姫の生まれたそのときから、大后は周到にその準備を整え、そして実行したんだ。」
「けれど、あの方は、死人ではない。」
ぼそり、と蛍が言った。
全員がぎょっとしたように蛍を見つめた。
「どうしてそんなことが分かる?」
全員の気持ちを代弁して王子が言った。
蛍は下をむいたままで言った。
「死人なら分かる。
あの方はもっと人に近い。
現身を離れているとしても、その体自体、まだ命があるのではないかと思う。」
「それは、僕もそう思います。
そして、あの方自身もそれをご存知だと。
僕はどうしてもあの方を現身に戻したい。
竜に戦いを挑むにしてもその後です。
殿下、あの方自身には何の責めもありません。
ひたすらに周りに翻弄され続けただけの方なのですから。」
王子はうーんとうなった。
けれどそれは真剣に千秋の言葉を考えているのだった。
「確かにそれもそうだ。
しかし、現身に戻すといっても、その現身とやらはどこにあるんだ?
見つかったとして戻す方法はあるのか?
だいたい、百年も経っているのに、その現身には問題はないのか?
戻したところですぐに死んでしまったら何にもならないだろう?」
「魂を現身に戻すのはそんなに難しいことではありません。
本人にその気さえあればいいのです。
ただし、現身の現在の状態は分かりません。」
千秋は淡々と答えた。
「けれど、魂を失った状態で百年の年月を越えているのです。
なんらかの方法で保存されているのでは、と考えるのですが。
ただ、もし、殺されたというのが事実ならば、その方法も調べなければなりません。
それによって命を救う手段も変わるからです。」
「殺した方法か。それは流石の俺も知らないな。」
「なんだか、恐ろしいお話ですわ。
わたくし、寒気がいたします。」
瑞穂は自らの体を抱きかかえるようにして体を小さく振るわせた。
その瑞穂にむかって、蛍は小さく呪言を唱えた。
けれど、千秋は淡々と続けた。
「毒を使ったのならば解毒薬を。
傷を負わせたのならば傷を治す術を。
息を詰まらせたのならば息を通わせる道具を。
準備しておかなければなりません。
なんとしても、あの方の命は繋がなければならないのですから。」
「つまりは、それを調べることが必要というわけか。
まあ、あんな女官の日記をしまってあるような書庫だからな、ひっくり返せばまだ何か出てくるかもしれん。」
「書物、ですか。」
瑞穂はため息をついた。
千秋が小さく笑った。
「あなたは昔から書物が苦手でいらっしゃったから。」
「あら、わたくしだけではありませんわ。
ねえ、蛍さま。蛍さまだって書物などより、実践実践、ですわよね。」
「わたしは、文字を知らない。」
蛍の短い言葉を引き取って千秋が付け足した。
「文字とはもともとシキのものではありません。
旅をするには書物は邪魔なものですからね。
古えのシキの言い伝えはすべて口から口へと伝えられたものなんです。
蛍さまが字を読まなくても、それは仕方のないこと。
むしろ、僕らの里の民のほうがあの地に定住するために、都の民の字を覚えたのですよ。」
「そうだったんですの?」
呆然とする瑞穂に蛍は頭を下げた。
「だからわたしは役に立てないと思う。
荷運び、くらいならできるかもしれないが。」
「その細腕なら荷運びにしたところで大した役には立つまい。
お前が三度かけて運ぶ分を俺は一度で運んでしまうさ。」
王子は蛍の腕をつかんでそう言った。
「ならば、蛍さまにはやはり、蛍さまにしかできないことをしていただくのがよいのではないかと。」
「そうだな。つまりは、巫女姫、か。」
「水守姫に会うことができるのは蛍さまだけなのです。
他の方は蛍さまと一緒にいることで会うことができるだけ。
水守姫への鍵を渡されていらっしゃるのはやはり蛍さまだけです。」
「というわけだ。蛍。異存はないな?」
王子の念押しに蛍は黙ってうなずいた。
その間に瑞穂が顔を挟みこんだ。
「あの、では、わたくしも蛍さまと共に…」
その瑞穂の後ろ首を千秋はひっぱって引き戻した。
「残念ですけど、今回はだめです、姉上。
手が必要なのですから。
一刻も早くその方法を見つけておかなければなりません。
病の風の吹く前に、すべて手は打たなければならないのですから。」
「ええーっ!わたくしなんて、あなたや殿下に比べたら、半人前分もお役には立たないと思いますけれど。」
「半分でもかまいませんよ。本当に僕の半分を読んでくださるのならね。」
千秋は意地の悪い笑みを浮かべた。
瑞穂が思い切りいやな顔をした。
「あなた、そんなところだけは、本当に、五つの頃から、少しも、変わっていないわ!」
「そりゃ、少しは残しておかないと、姉上に僕だと分かっていただけないでしょう?」
しゃあしゃあと言ってのけて千秋はくすくすと笑った。
「三分の一でも、十分の一でも結構ですよ。
それでも、少なくともあなたは文字が読めるのですから、今はこちらを手伝っていただきましょう。
猫の手でも借りたいのですから。」
「まあっ、それは、わたくしを猫と同じ程度だとおっしゃってるの!
猫よりはましですわよ、猫よりは!!」
「それはそうでしょう、猫は字を読みませんから。
姉上、あなたは猫よりもずっと優れていらっしゃるのですから、どうぞ、そのお手をお貸しください。」
話しが少しずつずれているのに知らん顔をして、千秋は馬鹿丁寧なしぐさで瑞穂の前に手を差し出した。
複雑な顔をして瑞穂はその手のひらをにらむ。
「なああああんか、馬鹿にされているような気がしますのは、わたくしだけかしら。」
瑞穂は王子と蛍に問いかけるように顔を見回した。
王子も蛍もぎょっとしたようにあわてて首を振った。
「なんだかんだ言って、千秋殿は姉上のご助力をお願いしたいのだろう。
手を貸してさしあげてはどうだ?
病だと聞いただけでわが身のことも振り返らずに禁じられた山にまで踏み込むほど大切な弟君だろうが。」
王子はさらりとそう言うと、優雅な仕草で瑞穂の手をとって宙に浮いていた千秋の手に重ねた。
そのままこっそりと千秋に目で合図をしてみせる。
千秋は瑞穂に見えないところで少しだけ笑ってから大真面目に姉の手をとって目の上に差し上げた。
あら、まあ、とまんざらでもない顔で瑞穂が微笑みを返す。
「じゃあ、決まりだ。」
蛍はあっさりとそう言って席を立った。