11
淡海とはほとんど何も話せないまま蛍は明け方には千秋とともに山を辞した。
千秋は何度も何度もしつこいほどに淡海に念を押して帰った。
山から帰った千秋は休息もそこそこに王宮の書物庫に籠って何かを必死に調べ始めた。
蛍が自室に戻って休んでいると早々に瑞穂が姿を見せた。
「おはようございます蛍さま。
今朝のお目覚めはいかが?
今日は殿下が朝からお召しですのよ。」
疲れていた蛍は不機嫌さをあらわにして顔をしかめた。
「まあまあ、そんなお顔をなさらずに。さあ、参りましょう。」
腰を上げようとしない蛍を瑞穂は手を持って引き起こす。
蛍は椅子にしがみつこうと手をのばしたが、その手をひょいとつかまれた。
「まったく。神出鬼没なやつだ。」
蛍は手の持ち主の顔を見ることもなしにぼそりと言うと、豪快な笑い声が頭の上から降ってきた。
「シキの民にそう言われるとは、俺もなかなかなものだな。
我らにはシキのような不思議の技はないが。」
「お前の存在自体が不思議だ。」
「お褒めに預かり、光栄至極。
さて、行こうか、わが后殿。
今日は婚礼の衣装合わせだ。」
「婚礼なんかしない。」
「まあ、そう言うな。
これでも一応一国の王子だ。
それなりに顔を立ててやらなくてはならんやつも多いんだ。
なになに、なるべく簡単に済むようにしてやるから。」
「だ、か、ら、そういうことじゃない!」
蛍が声を荒げてにらみつけると、王子はにっこりと笑った。
「おう、ようやくこっちを見たか、后殿。
今朝はどうした?
よく眠れなかったのか?
少し疲れているようだ。
あとでぬるい湯にでもつかるといい。」
わざとらしくため息をついてみせる蛍を、王子は強引に連れて行こうとする。
その手をそっと瑞穂が引きとめた。
「まあ、いけませんわ、殿下。
蛍さまはお疲れなのですから、少しお休みにならないと。
衣装合わせはまた後日になさったほうがよろしいわ。
お疲れの姫君をお連れ回しになるなどと、立派な殿方のなさることではありませんわ。」
瑞穂のほうに目をむける王子に瑞穂は訳知り顔でうなずいて見せた。
王子は怪訝そうにしながらもそうか?とつぶやいた。
「そうですとも、殿下。
姫君には殿方には分からないことがいろいろとあるものですの。
蛍さまを大切にお思いならば、あまりご無理もおっしゃってはいけませんわ。」
瑞穂に強く押し切られて、王子は、そうかな、とまだつぶやきつつもとりあえず部屋を出て行った。
王子の背中をにこやかに見送った瑞穂は、王子の姿が見えなくなるやいなや、くるりと振り返って蛍の元に駆け寄った。
「お加減がいけませんでしたの?
蛍さま、お医師をお願いいたしましょうか?」
心配そうに覗き込む瑞穂に蛍は苦笑した。
「いや、大丈夫。少し、寝不足なだけだから。」
「まあ、お眠りになれませんの?
もしかして、そんなに殿下のことがおいやなの?
あの方は本当にいい方ですわ。
わたくし保証して差し上げます。
きっときっとあなたのことを幸せにしてくださいますわ。
…それでも、どうしてもおいやなの?
あ…、分かりましたわ!
あなた思い人がいらっしゃるのね?
なるほど、それなら納得いきますわ。」
瑞穂の一人合点に苦笑しつつ蛍は寝台にひっくり返った。
しみひとつない天井を見上げていると、思い人という言葉が胸のどこかにこだましている。
それに気づいて、ふと、どきりとした。
「ねえ、どこのどなたなんです?その思い人は?
わたくし、とりもってさしあげますわ。
ええ、ええ、命の恩人であるあなたがお幸せになるのならば、殿下のお気持ちも二の次でかまいませんわ。
でも、よろしくて?
その思い人、このわたくしの目に適う方でなければ、わたくし全力で邪魔させて頂きます。
ええ、ええ、どうあってもあなたには幸せになって頂かないと。」
枕元で延々としゃべっている瑞穂を蛍はぼーっと見上げていた。
宙を見据えこぶしを握り締めて力説していた瑞穂は、ふと蛍の視線に気づいてこっちを見た。
「蛍さま?」
「いや。どうしてそんなに他人のことに熱心になれるんだ?」
蛍の問いに瑞穂は気を抜かれたように黙り込んだ。
答えを待たずに背中を向けた蛍に、瑞穂はぽつりと言った。
「だって、幸せは、うかうかしていると逃してしまいますもの。
わたくしはあなたや殿下に幸せを逃したりしないで頂きたいの。」
蛍は何も答えない。
ただゆったりと上下する背中の静かな息遣いはもう眠ったようだった。
「寝つきがおよろしいのね。蛍さま。
結構なことですわ。
わたくしは…もうずっとよく眠れないままですの。
あの方が去ったときから。」
瑞穂は独り言のようにつぶやくと胸元から紐に通して首にかけた白い石を取り出した。
「こんな石ころひとつだけ残して、あの方は行ってしまいましたのよ。
わたくしが思っていたほどにもあの方は思っていてはくださらなかったんです。
…それでもわたくしは後生大事にこんな石ころを持ち歩いて…」
瑞穂ははっとしたように目を上げた。
その目と蛍の静かな目が合った。
「それは、多分、ただの石ころじゃない。」
蛍は静かに言った。
「守り石。
シキの子どもが生まれたときから身につけているお守り。」
「本当ですか?もっとよくご覧になって。」
よく見せようとして首からはずして寄越そうとする瑞穂を蛍は手で押しとどめた。
「あなたの思い人は確か、シキの血を引いていた、と、言っていたな。」
「ええ、そうですわ。よく覚えておいでなのね。」
「なら、間違いない。
…いけない、わたしはその石には触れないほうがいい。
触れずともここからでも石にこめられた思いが伝わってくるくらいだ。
触ったりしたら、きっと、あなたの思い人の言葉のすべてを聴いてしまう。」
「言葉が聞こえるのですか?
ならば、教えてください。
なんと言っていらっしゃるの?」
「…他人が聞いてはいけない言葉、だと思う。
…水守姫なら光にあらわしてくれるかもしれないけれど…」
「あの方はそんなことがおできになるの?
ならば、今からお伺いしましょう。是非、そうしましょう。」
急き立てる瑞穂に蛍は困ったように笑った。
「今は少し休んで考えたいことがある。
もう少し待ってもらえないか。」
「ああ、そうでしたわ。蛍さまはお加減がお悪いのでしたっけ。」
素っ頓狂に叫ぶ瑞穂を見る蛍は苦笑していたけれど、その目は優しかった。
そのままぐっすり眠ってしまったらしい。
蛍が目を覚ますと辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「よお。お目覚めか。」
いきなり声をかけられてぎょっとして振り返ると、ほんのりとした灯火の側で王子が頬杖をついてぼんやりとこちらを見ていた。
「腹、減っただろう。
さっき軽い食事を運ばせておいたぞ。
さあ、食え。」
ぐいと目の前に椀を差し出されて思わず身を引くと、王子は苦笑して手を引っ込めた。
「そんなに嫌わなくてもいいだろう。
分かった、ここにおいておく。
俺はもう行くからゆっくり食べてくれ。じゃあな。」
後ろ手に手を振って立ち去る王子に、なぜか蛍は声をかけていた。
「あ…
一緒に食べないか?」
王子の背中が止まる。
その背中に蛍は言い訳をするように続けた。
「あの、こんなには食べきれない。」
「いるだけ食べてあとは残せばいいだろうに。」
くるりと振り返った王子の目は、口とは裏腹に笑っている。
その目に蛍は言った。
「食べ物を無駄にはできない。」
「なら、手伝ってやろう。」
思い切りよく王子は戻ってくると、手近な椅子を引き寄せて蛍の側に座った。
「確かにこれは俺でも一人じゃ食いきれないな。
まあ、王宮なんてものはそんなところだからなあ。」
手際よく大皿から取り分けて王子は蛍に手渡す。
「こう見えてもなあ、俺だって食い物の有難みくらいよっく分かっている。
腹の減る思いもしたことはあるさ。
なにせ、家出の常習犯だったからな。」
「なるほど。やりそうだ。」
「こんなところ、誰よりいやなのは俺自身さ。」
王子はそうつぶやくと椀の中身を掻きこんだ。
「そんなときにいっつも俺と一緒に家出をしてくれたやつがいたんだ。
乳兄弟というやつさ。
俺には母親の違う兄弟は俺自身も覚えきれないほどにいるんだが、本当に兄弟らしく思えたのはあいつだけだったな。」
王子は何か反応を期待するように蛍のほうをちらりと見た。
蛍は知らん顔でせっせと食べ物を口に運んでいる。
王子は小さくため息をついてから話しを続けた。
「思い出せる一番初めのときから、あいつはいつも一緒にいて、いつも誰より俺のやりたいことややりたくないことを分かってくれた。
何より、大切なやつだった。
あいつは俺の母親よりも俺のことをよく知っていた。」
もう蛍の反応は期待せずに、王子はただ一息入れるとそのまま話を続けた。
「瑞穂がこの城に来たときもあいつは一緒だった。
ただ、俺は瑞穂を大きくなったらお前の妃になる娘だと言われて、ああ、そうかとだけ思った。
けれど、あいつは違っていた。
そのときからあいつはずっとずっと瑞穂を守ってきたんだ。
あいつがいなければ、瑞穂は今もあんなふうに明るくはしていなかったかもしれない。
何せ、いったん来たら、もう二度と里には戻れない上に、都はシキの姫にとっては住みやすい場所じゃない。」
「月澄。」
ぼそり、と蛍が言った。
王子は驚いたように目をあげた。
「なんだ、瑞穂に聞いたのか?」
「…お前が取り戻したいのもそいつなのか?」
「なんでそんなことまで知っているんだ?」
王子はきまりの悪いのをごまかすようにがつがつと口いっぱいにほおばった。
それを蛍はじっと見ていた。
「そのために都の封印を開くのか?」
「それだけじゃないさ。」
王子は口の中のものを飲み込むと蛍のほうをむいてにっと笑った。
「冴風なんて名前をつけられちまったからかな。
俺はひとところにじっとしていられないたちなんだ。」
「王というのは出歩いてはいられないものだろう?」
「王位なんて、俺が継がなくても継ぐやつはいっぱいいる。
俺は自由になって旅に出るんだ。
お前らシキの民のようにな。
この世界のすべてが風の住処だ。」
王子のせりふに蛍はいつの間にか微笑んでいた。
それはシキの仲間たちがよく口にする言い回しだった。
蛍はシキが仲間にする祝福の仕草をして見せた。
「あなたの道によき風の吹くように。」
「わたしのよき風はまたあなたにも吹きましょう。」
王子はシキ風の答礼を返す。
蛍が目を丸くすると、どうだ、なかなかのもんだろう、と得意げに言った。
「こういうのも全部、月澄に教わったんだ。
俺はあいつのシキの仕草が大好きでよく真似したもんさ。
そのうち俺のほうがさまになっちまったのもあるんだぞ。」
嬉しそうな王子を見る蛍も思わず微笑んでしまう。
その瞳を王子の瞳が捉えた。
「なんだ、お前、普通に笑えるんじゃないか。
そのほうがずっといいぞ。」
王子の言葉にふと何かが蛍の心にひっかかった。
それに気をとられた蛍が真顔に戻ったので、王子は残念そうにため息をついた。
「あーあ。一瞬か。
ふん、まあ、いい。
先は長いんだ。
そのうちたっぷり笑わせてやるさ。
なあ、お前、俺と一緒に旅をしてくれるだろう?」
「シキの旅は楽なものじゃない。」
「俺は楽なんかしなくていいんだ。
そんなんじゃ面白くねえ。
楽をしたいならここにいればいいんだから。」
そうか、と蛍はつぶやいた。
王子は、ふん、と鼻をひとつならすと、空になった食器を手早く重ねてよっこいしょと立ち上がった。
「おう、いいぞ。お前は病人らしいからな、片付けは俺に任せておけ。」
あわてて手伝おうとする蛍を手を振って押しとどめてから王子はにやりと笑った。
「しかし、あれだけあっても二人で食えばあっという間だったなあ。
お前、よく食うよな。本当に病人か?」
蛍が何か言う前に王子は続けて言った。
「物が食えるなら心配いらんな。
…なあ、俺、またここで飯を食ってもいいかな?」
蛍がぎこちなくうなずくと王子は満足そうに笑った。
「婚礼のことはとりあえず無期延期にしろと瑞穂にそうきつく言われた。
だから、お前も、もう気にしなくていい。
まあ、俺も、嫌がるやつに無理強いするつもりはないんだ。悪かったな。」
へへへへ、と妙な笑い方をして王子は少し赤くなった。
「ちっ、しかし俺はまた笑いものだなあ。
あれほど堂々と誓言したものを。
まあ、それもこれも、早まった俺が悪いんだから自業自得なんだけどな。」
ふふふふふ、と今度は王子は少し嬉しそうに笑った。
「冴風王子の酔狂伝説に、また新たな一節が加わっちまった。くそ。」
言葉のわりにはそれほど悔しがっているわけでもない。
鼻歌を歌いつつ部屋を出て行きかけた王子が、戸口のところでくるりと振り返った。
「おう、そうだ、お前、もしかして、腹、足りなかったんじゃないか?
明日はもう少し食い物をたくさん持ってくるからな。」
蛍が何か答える前に、王子はわっはっはと笑い声を残して去って行ってしまった。