10
真夜中に王宮を抜け出すことは思った以上に簡単だった。
そもそも、抜け出すはめになること自体、瑞穂がいつも一緒についてくるからだ。
蛍が一人でどこに行こうと、たとえ、もう二度と帰らなかったとしても、いったいどれほどの人間がそれを気にするのだろう。
それに気づいて蛍は思わず苦笑した。
このところすっかり誰かと一緒にいることに慣れてしまったけれど、元々、自分はいつも一人で、誰にも咎められず、誰も咎めず、ただ世界を吹く風のようなものだった。
瑞穂の作ってくれた着物はとても動きやすかった。
その上、あちこちに小さなものいれが取り付けてあるので、とても便利がいい。
こんな着物を作ってくれるなんて、とても有難いと思った。
瑞穂のために幸運を祈る呪言を小さく唱えて、蛍は王宮を後にした。
しかし、静まり返っているはずの夜の都は、蛍が思ってもみなかったほどにざわめいていた。
人の集まる通りは昼間かと見紛うほど赤々と灯が灯っている。
まぶしい灯の光から逃げるように、蛍は影を選んで歩いた。
「およそ人の願いのすべてを実現した場所なのですよ、ここは。」
いきなり声をかけられて蛍はぎょっと目を上げた。
千秋の涼しい瞳が蛍を見下ろしていた。
「闇を恐れる心は闇を追い払い、街を灯りで満たしました。
そして、やがて都の民の心は、闇を恐ろしいと思うことを忘れてしまったのです。
けれど、本当に恐ろしいのは、恐ろしいと思うことを知らない人の心です。」
蛍は黙って足を急がせた。
しかし、千秋は悠然とその蛍についてきた。
少し歩いてから蛍は立ち止まると、渋い顔をして千秋を見上げた。
千秋はそれを涼しい顔で見返した。
「僕を置き去りにしようなんてことは、考えるだけ無駄ですよ。
これでも一応、あなたと同じ一族の血をひいていますからね。
瑞穂くらい幼いうちから里を出された者ならともかく、この僕の追跡から逃れるのは、いくらあなたでも不可能です。」
蛍は諦めて並んで歩き始めた。
千秋は黙ってついてくる。
「瑞穂があれほどに心配していたのは、千秋のことだったんだな。」
ふと、蛍は遠い目をしてつぶやいた。
初めて出会ったときの瑞穂の思いつめた瞳を思い出していた。
「あれほど、正気を失うほどに。
…知っていれば本当のことを告げられたのに。」
里を救う者を探すために、千秋は意識を飛ばして世界中を探していた。
そうして蛍を見つけたのだ。
けれど、その間の千秋のからだは、ずっと眠り続けていた。
里の者は、長く都に参内しない千秋を、病だと説明していた。
それを、王子から聞いた瑞穂は、ひどく心配してあのような無茶なことをしたのだ。
「瑞穂と僕が姉弟だということをあなたは知らなかったし、僕が眠り続けていた本当の理由を瑞穂は知らなかったし、瑞穂が僕が参内できない理由を病のせいだと殿下に聞かされていたことを僕は知りませんでした。みんな仕方ないことです。」
淡々と言う千秋に、蛍は小さくため息をついた。
「千秋はもう少しあったかいやつだと思っていた。」
「…夢つなぎの技はお互いの心があけすけに見えてしまいますからね。」
「どうしてわざわざここに来たんだ?
この都にいれば連絡は取れるんだろう?」
「どうしてか、分かりませんか?」
千秋はじっと蛍の瞳を見つめた。
それをまっすぐに見返して蛍は首を振った。
千秋が小さく苦笑した。
「殿下のお呼びだしがあったからです。
里の長は都の王族から召還されたときには参内しなければならないことになっているんですよ。」
「そんなの…本当に行きたくなければ、いくらでも逃げるくせに。」
蛍のせりふに千秋は悪びれもせずに笑ってうなずいた。
「ええ、そうです。
本当はね、あなたと、そしてあの姉上がですね、目を離していられないからですよ。」
千秋はいつも夢の中で蛍にされていたようにぽんぽんと蛍の頭をなでた。
蛍が露骨にいやな顔をする。
「どんなに言ってもあなた方は山に入られますしね。
雪輪の封印の中の地は、僕にはここの都以外は見えないんです。
だったらこうしてぴったりくっついていようと思いまして。」
「迷惑だ。」
蛍にきっぱり言われても千秋はけろりとしていた。
「少なくとも、姉上ほど足手まといにはなりませんよ。」
「瑞穂は足手まといになんかなってない。」
「だったら僕はお役に立って見せます。
こう見えても少しはシキの技の覚えもあるんですよ。」
胸を張ってみせる千秋に蛍は首を振った。
「技なんて…」
「そう、技なんて、真のシキには必要ない。」
千秋のせりふに蛍ははっとして目を上げた。
一瞬、真剣な目をしていた千秋が、蛍の視線に気づいてふっと笑った。
「ねえ、蛍さま、もう少し僕を信用して、僕の力をあてにして頂けませんか?
そもそもすべてをあなたにお願いしたのはこの僕なのですから。」
「千秋からは何も詳しいことは聞いていない。
ただ、里に来てほしいというだけで。」
「ああ、そうでした。」
千秋は額に手をやって天を仰いだ。
「あなたは僕がお話をする前に何もかもをご自分で知ってしまわれるから、つい話しそびれていました。」
千秋はおもむろに蛍の前に膝を着くと、その瞳を見上げて言った。
「僕のお願いは、御子様を、おそらくはあなたが水守姫だと思っていらっしゃるその方を、この地の呪縛から一族の手に取り戻して頂くことです。」
蛍は目を丸くした。
めったに見られないその素直な反応に、千秋は思わず小さく笑っていた。
「つまり、最後の水守姫として捧げられた巫女は、わが一族の姫の御子様だったわけです。
数年で山を降りる習いだったはずの水守姫が、我らの御子様のときだけは、お戻りにならず、そのまま山に囚われてしまわれました。
その方を一族に取り戻すのが我らの里の民の悲願。
僕があなたにお願いしたかったのは、そのことです。」
「…けれど、千秋も、その水守姫が本物とは限らないと…」
「ええ、そうです。
だから実際に会ってこの目で確かめようというわけですよ。」
千秋は得意そうにそう言うと、さっと立ち上がって蛍のやや斜め後ろに立った。
「だからどうぞ僕も一緒に連れて行ってください。」
「み、水守姫に会いに行くとは…」
「ほかに行くところなどないでしょう?」
必死にごまかそうとする蛍を、千秋は横目で見下ろす。
「蛍さまのお心の動きは、この一月いやというほど見せていただきました。
なにせ、お互いの心は丸見えの状態だったわけですから。
僕をごまかそうったってそうはいきません。」
「な、なにも、ついてこなくったって…」
「あなたがいらっしゃらないと、水守姫にお会いできないんです。」
千秋は今度は大きなため息をついた。
「あなたが鍵なんですよ。
この都には外からは誰も入ることはできません。
ただ僕らの里の長だけは、王族の召還に応じて都に入ることができる。
それは代々の里長が、都の封印を通る鍵を持っているからです。
鍵を持っていて当たり前に通ることができる者には、鍵の有難みは分かりませんが、本当はとっても貴重なものなんですよ。
そして、僕らの里の者が、百年もの間ずっと会うことすら叶わなかった方に、あなたはすんなりと会ってしまった。
つまり、あなたはあの方に会うための鍵なんです。
だからそのあなたにあの方に会わせて頂きたいのですよ。」
千秋の言葉の意味を蛍が考える間、千秋はじっと待っていた。
無言のままで足だけは休めずに二人は歩き続けた。
少ししてから蛍は千秋のほうを見て、分かったと短くうなずいた。
「分かって頂けて嬉しいですよ。」
ほっとしたように千秋は笑う。
その千秋にうなずいて見せてから、蛍はふいとわき道にそれて山へと踏み込んだ。
今朝、瑞穂と一緒に入ったときに会ったのとまったく同じ場所で、淡海はじっと待っていた。
けれど、蛍を見た淡海は少し驚いたような目をして言った。
「こんな夜更けにどうなさったのです?」
一瞬、蛍が言葉に詰まった隙に、千秋がひょいと顔を出した。
「僕が会わせていただきたいとお願いしたんです。」
「あ、あなたは…」
目を丸くする淡海の前に千秋は膝をついた。
「シキの里の長、千秋と申します。」
「千秋さん、お姉さまがあなたのことをとてもとてもご心配になっておられました。
ご無事だということはお知らせになりましたか?」
同じように膝をついて気遣うように言う淡海に、千秋は目を上げて答えた。
「粗忽者の姉がご迷惑をおかけいたしました。」
「いえ、そんな、迷惑だなんて。
でも、ご無事で本当によかった。
それもこれも、そこの蛍さんのおかげですが。」
淡海は蛍のほうを少しまぶしそうに見た。
その視線をさえぎるようにして千秋は言った。
「はい。蛍さまには幾重にもご恩を受けております。
そもそも蛍さまがこの地においでくださったのも、この私のお願いにお応えくださった上のこと。」
千秋の言葉に淡海はうんうんとうなずいた。
「やはり、蛍さんがお急ぎになっていらっしゃったのはあなたの里へでしたか。
それで、蛍さんの御用はもうお済みですか?」
「いいえ。そう簡単に片付くことではございませんので。」
千秋は突き放すようにそう言うと、すっと背を起こした。
小柄な淡海は千秋に見下ろされるような形になる。
そうしておいて、ふいに千秋は何かを思い出したように言った。
「ときに樹雨さまは今だご健勝にあらせられますか?」
千秋の瞳がじっと見下ろすように淡海を見据える。
淡海はそれを見上げて寂しそうな目をして答えた。
「母はわたしと引き換えに亡くなりました。
申し訳のないことです。
里のみなさんに、どうかもうこれ以上は待たないようにお伝えくださいませ。」
「それではあなたが母上を継ぐ者として里にお帰りください。」
「わたしにはこの山の竜神様にお仕えするお役目がございますから。」
淡海は寂しげな微笑みを浮かべてそっと目をそらせた。
それに容赦ない千秋の声が追いかけてきた。
「それはお父上のお申し付けですか?」
「…この地を守ることが父の何よりの願いでした。」
淡海は小さくうなずいてもう一度千秋を見た。
千秋の瞳にかすかに戸惑いが走った。
「それでは、あなたはお父上にもお会いになったと?」
「はい、会いました。
巫女としてこの山に上がったそのときに。」
「それでそのようなお姿に?」
「いいえ。
このような姿だからこそ、父に会えたのです。」
千秋は何かにはっとしてそれから眉を険しくひそめた。
その千秋を淡海はただ微笑んで見た。
「若長どのは、わたしをお疑いなのでしょうか。
ならば、わが父を明かしましょう。
わが父は天海。この山の竜神です。」
千秋が目を見張った。
蛍も小さく息を呑む。
淡海は困ったような笑みを浮かべて言った。
「父は旅の途中流行り病でこの地に逗留せざるをえなくなったシキの一族の姫と恋に落ち、母はわたしを宿しました。
けれど、この地の王は一時的にしろ都のすぐ側にシキの民の里ができることを好まなかった。
だから母は人質として王の元に参ったのです。
けれども、母はわたしが生まれるときに亡くなってしまいました。」
「ご無礼をお許しくださいませ、御子様。」
千秋はさっきとは打って変わって丁重に淡海の前に跪いた。
「もう結構でございます。
そこまでご存知なのは御子様以外にはいらっしゃいません。」
「信じていただけてよかった。」
淡海はほっとしたように微笑んだ。
「里のみなさんのことは長い間気にかかっておりました。
母を待っていてくださるみなさんに、もう母は帰ってこないのだと、そうお伝えしようにも、わたしもこの山からは出ることも叶わず…
今日までかかってしまったことをどうかお許しください。
そして、みなさんも、どうぞ、新しい風の中をお歩きになるよう。」
シキ風の言い回しで挨拶をする淡海を、千秋は目で引き止めた。
「いいえ。御子様。
実のところ樹雨さまがもうお亡くなりになっていらっしゃるのは里の者とて既に存じていたのです。
我らの悲願は樹雨さまに繋がる御子様を見つけて取り戻すこと。
ならば、どうあってもあなたにお帰りいただくしかありません。」
頑として言い張る千秋に淡海は困ったように首を振った。
「いいえ、それはできないのです。
この地の封印をわたしは預かっているのですから。」
「ならば我らは御子様をお助けいたします。」
「いいえ…」
淡海はますます困ったように、悲しそうに首を振り続けた。
「里のみなさんとて、既に母を見知る方もなく、わたしのこととて伝え聞く話に知るのみでしょう。
もう百年も経っているのです。
あなた方は十分にしてくださいました。
どうかこれ以上はもうお待ちにならずに、みなさん自身にとってよき風を見つけてください。」
「どうしてもお帰りくださいませんか?」
念を押す千秋に淡海は微笑んで、けれどはっきりとうなずいた。
千秋は深いため息をついた。
しばらくうつむいていた千秋はやがてうつむいたままで低く言った。
「それでも、どうしても僕は諦めません。
あなたがそうお望みならば里のみなには新しい旅に立ってもらってもいい。
でも、僕だけはここに残ってあなたを取り返します。」
淡海は寂しそうに微笑みつつ首を振った。
けれど千秋はそれを見ていなかった。
「そうでなければ、あなたをきっと取り戻すと誓ったご先祖に、そしてこの地に留まり続けるために代々都へと送られた姫たちに申し訳がたちません。」
千秋の言葉に淡海は悲しそうに申し訳なさそうにしながらも、それでも首を振った。
「わたしはこの山の外では存在すらできません。
現身を離れた姿では。」
「ならば現身に戻してさしあげましょう。
その現身はどちらにあるのです?」
「…分かりません。」
「ならば探し出しましょう。」
「…難しいと思います。
それに…たとえ見つかったとしても、人としての命があるかどうか…」
「命も継いでみせましょう。
お任せください。」
胸を張って見せる千秋を、淡海は悲しげに見た。
「ごめんなさい。若長どの。」
「どうして謝るのです?
あなたは帰ってくだされば、それですべては解決です。
謝っていただくことなど何もありません。」
きっぱりと言い切る千秋に、淡海はもうそれ以上は何も言わずに、ただかすかに微笑んで、小さく歌を口ずさみ始めた。
千秋と蛍がそれに気づいたときには、二人ともすでに歌のとりことなったように、何も言えずに、ただじっとその歌を聞いていた。
それは以前蛍が聞いたのとはまた違う旋律だった。
少し物悲しげで、それでいて、とても優しい。
つらい思いも悲しみも、何もかも包み込んでしまうような歌声に、いつの間にか千秋の強張った表情も解かされていくようだった。
歌いながら淡海は涙を流していた。
蛍も千秋もとても悲しいのに、それでも、もういいんだ、それでいいんだ、と、心のどこかで言われているような気がして、不思議な温もりが心を満たし、悲しみは静かに溶かされていった。
淡海はその二人の前でただ静かに涙を流しながら歌い続けた。
すべての悲しみは淡海が引き受けて、そうして歌に変えていくようだった。
そして、どんな悲しみでも癒やしてしまうほどの力を、淡海の歌は持っていた。