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冬至。
夏の盛りを越え、木々がその葉を失うように力を失ってきた太陽は、とうとう衰弱の極みへと達し、そして、この日を境に再生する。
大いなる力の源の衰えは人々をわけもなく不安にし、漠然とした不安はじわじわとその心に沁みこんでくる。
けれど、太陽は必ず再生し、それは決して裏切られることのない永遠の約束だったから、人々はそこに、すべてのものの死と再生をみる。
人々は冬至の夜、盛大に祭りを行う。願いを込めて。祈りを込めて。
生まれ変わったばかりの光が、闇の恐ろしさを打ち払うことを祝って。
そんな冬至の夜、祭りの光も音も届かない山奥を一人の娘が歩いていた。
里の娘ならば、そろそろ美しい花嫁となってつつましくとも幸せなときを迎えようかという年のころ。
けれど、この娘にはそんな咲き初める梅の香りのような柔らかな甘い匂いは感じられなかった。
山にはまだ雪は積もってはいなかった。
けれど風は凍てつくように冷たく、冬はしっかりと山を覆っていた。
こんな季節の真夜中に、こんな山の中を急いで旅しているのには、よほどの理由があるに違いなかった。
冷たい星の光に照らされた娘の頬には、誰もが思わずたじろぐほどの大きな傷跡があった。
決して消えない涙の跡のように、それは娘の左頬にくっきりと刻まれていた。
小柄で華奢な体には大きすぎてごわごわの衣を纏っている。
それはどう見ても娘のためのものではなくて、もっとずっと体の大きな男ものの、それも相当に着古したものを、丈だけつめて着ているように見えた。
寒さを少しでも防ごうというのか、それとも何か別の理由があるのか娘の両腕には薄汚れたぼろ布がきっちりと巻きつけてあった。
けれどそれ以外に防寒具らしきものを娘は何も持っていなかった。
長い間雨風や日差しにさらされたぱさぱさの髪は、結うという意識はまったくなくて、ただ邪魔にならなければそれでいいとでもいうかのように、無造作に背中にひとつに束ねられている。
髪を束ねる色褪せた紐だけがそれでも唯一娘を娘らしく見せる小道具だった。
それだけでも異様な娘の風体を、ますます異様に見せているのは、その背中に背負った身の丈にも余るほどの大きな剣だった。
それは年頃の娘にはあまりにも似つかわしくないものだった。
けれども、娘の瞳には悲嘆や絶望はなかった。
不思議なほど清んだ瞳でただ真っ直ぐ前をむいて、娘は一歩一歩着実に歩みを進めていた。
娘の足取りは少しも急いでいるようではなかったけれど、その速さは、里の娘などには決して、足自慢の若者ですらおそらくは、追いつくことのできないほどの速さだった。
命の力の輝きを放っているような娘には冬の寒さですら、とりつくことはできないようだった。
夜の闇に包まれた森の中、娘はふと目を上げた。
形のいい眉が一瞬いぶかしげにひそめられる。
けれど、娘は足を止めることなく、また前をむいて歩き始めた。
ところが、しばらく歩いてから、再び娘は目を上げた。
おかしい。
娘は今度は足を止めて、辺りをぐるりと見渡した。
やはり。
ここは一度通ったところだ。
目印にしている北の星を見上げる。
確かに正面に見ていたはずなのに、それはいつのまにか右に大きくそれていた。
「この山は抜けられない。山の神が何者をも通さないように守っている土地だ。」
山に入ろうとした娘を引き止めた麓の村の住人の言葉を思い出す。
「命を捨てに行くようなもんだ。やめておきなさい。」
余所者のシキの民に、人々は深く関わろうとはしない。
恐れられ疎まれ、こっそり石を投げられることすらあるのに、親切に声をかけてもらえたことのほうが娘には驚きだった。
そんな気持ちを無下にしたくはなかったけれど、それでも、この先にある里に早く着きたいという思いのほうが強かった。
村人の後姿が見えなくなってから、ほんの一瞬だけ逡巡したあと、娘はやはり山に足を踏み入れた。
あれはもう、ひと月ほど前のことだったろうか。
ちょうど祖母がなくなったころだった。
娘につながる一族はもうみんないなくなっていて、とうとう最後に二人きり残された祖母もいってしまった。
一人きりになった娘の夢に、助けを請う声が響いた。
神官の装束に身を包む少年。
その姿は娘よりもまだ年若い。いや、いっそ幼いといってもいいように見えた。
一族の命運を握るというその少年の言葉に導かれ、娘はこの国まで旅をしてきた。
その里をいよいよ目前にして、わざわざ遠回りなどしていられないと、逸る気持ちもあったのかもしれない。
それにしても、慎重の上に慎重を重ねる性質の娘にしては、これは珍しい選択だった。
あるいは、ただこの山に入ってみたかっただけなのかもしれない。
ふと、そう思ってから、娘はそんな自分の考えを笑うように振り払った。
まさか。伊達や酔狂で犯していいものではない。神の守る土地というものは。
それでもどうしてもそこを通らなければならないときに、山の神の封じをかわして山を抜ける方法を娘は心得ていた。
旅に生まれ旅に生きる娘の一族にそれは大切に伝えられてきた方法だった。
娘は生まれたときからそれを体に叩き込まれてきた。
時に厳しく、時に優しく、娘を導いてくれた祖母はもうこの世にはいないけれど、祖母に教えられてきたことはいちいち考えるまでもなく自然に行動になる。
こんなふうに封じられた土地を旅するのは初めてではなかった。
そしていつも娘は封じられた地をたいした問題もなく通り抜けていた。
シキは普通の人々よりはよほど精霊に近いとされる民だ。
先祖には精霊の血も混じっているという。
それが真実かどうかは分からないけれど、シキの民はこの世界の精霊の存在を感じ、語りかけ、ときにはその力を借り受けることもできる一族だった。
古いシキの民には、精霊を使い魔として使役するものもいたという。
山を歌わせ、街を一夜にして消し去ることすら可能だったという古えのシキの技は、けれど、時代とともに忘れ去られていった。
それほどの力を持つものがこの世界にまだ生き残っているのかどうかも分からない。
文字も家も持たぬシキの民は数家族単位で世界を旅していて、口伝えに伝えられる一族の歴史はすぐに風化し、技の多くもまたそうして失われてしまった。
けれど、それでもまだ多くの技を娘は祖母から受け継いでいた。
そのほとんどは世界を無事に旅するのに必要な技だった。
シキに生まれたからには旅の中で命をまっとうする。
娘には行き着く先というものはなかった。
娘は首にかけた紐をたぐって懐から古ぼけた守り袋を取り出した。
その中には手のひらに載るほどの小さな珠が入っていた。
口の中で小さく呪言を唱えつつ、左手に載せた珠を目の高さまで持ち上げる。
珠は星の光を受けて、ちらりと光った。
雪輪紋の封印か、娘の唇が声に出さずにそうつぶやいた。
珠の中にはこの山に張り巡らされた複雑な紋章が描き出されていた。
これほど美しい形のものは初めて見る。
けれど、封印の形が分かれば、そのすり抜けかたもまた分かるもの。
娘は丹念に紋章を目でなぞった。
おや?
娘の表情がふと動いた。
どこまでも連なっていた木々がふっと途切れて、ぽっかりと開けているところがあった。
どうして今まで気づかなかったのだろうと思うほどに、それは娘のすぐ目の前だった。
そして、そのほぼ中心の辺りに、ゆっくりと白い人影が立ち上がった。
しゃらしゃらという耳に心地いい鈴の音が辺りに響き渡った。
娘はそっと気配を殺してそちらに近づいていった。
木の陰に身を潜め、そっとその人影のほうを伺う。
それは美しい巫女だった。
全身を純白の衣に包まれている。
柔らかな光沢のある絹の裳も、ひらひらとした紗の羽織も、何もかもがまぶしいほどに白かった。
そこには染みひとつ、汚れひとつなかった。
ほっそりとして小柄で華奢な姿。
遠目にも分かる、おそろしいほどに整った目鼻立ち。
年のころは娘とほとんど変わらないようにも見える。
けれど、その艶やかな長い髪は、さらされた絹糸のように、冬の雨のように、真っ白だった。
よく見ると、巫女の姿全体が淡い光に包まれている。
この冬の最中の山で巫女は薄い衣装の上に裸足だった。
それは、どう考えてもただの人間ではなかった。
これが山の神なのだろうか。
それでも、娘は凍りついたようにその場から動けなかった。
魅入られたように娘は巫女の姿をじっと見つめ続けた。
巫女は何か小さな声で歌いながらゆっくりと舞を舞っていた。
首にかけた珠の長い首飾りがゆっくりと巫女の仕草を追う。
しゃんしゃんという涼しげな音は手首と足首に結び付けられた鈴の音だった。
詞は聞き取れなかったけれど、その旋律はとても美しかった。
優しく穏やかで、確かに聞いたのは初めてなのに、とても懐かしいような気分になる。
巫女は何か捧げものをするようにゆっくりとその両手を差し出した。
鈴の音が光の雫となってその袖から零れ落ちた。
はっとしたのは二人同時だった。
巫女ははたりと口をつぐむと、その場に立ち尽くして、怯えた小鹿のように辺りを見回した。
娘は身を固くして木の陰に身を潜めたが、巫女の瞳はぴたりと娘の潜んでいる木を見据えていた。
「そこに、いらっしゃるのですね?」
よく響く声が矢のように娘を射た。
娘の体は驚きと後悔にすくんだ。
気配を殺すことには自信があった。
こんな場面で相手に見つけられたことなどこれまで一度もなかった。
けれど巫女はきっぱりと自分を見つけていた。
不思議と恐怖はなかった。
たとえ相手が人ならぬものだとしても。
ただ、とてもきれいで大切なものを打ち壊してしまった気がして、巫女にすまないという思いに娘はうつむいた。
けれど、ここでこのまま逃げるわけにはいかない。
娘はすっと目を上げると、木の陰からゆっくり姿を現した。
「あなたは…」
娘の姿を見て巫女は一瞬息を呑んだ。
娘は巫女にむかって跪くと、低いけれどはっきりした声で言った。
「ごめんなさい、あなたの邪魔をするつもりはなかった。」
「いいえ、そんな、責めているわけではありません。」
巫女は娘に近づいてくると、そっと、娘と同じようにその前に膝をついた。
「ここでずっと、見ていらしたんですか?」
晴れた日の湖のような色の瞳がじっと娘を見つめていた。
柔らかな言葉を紡ぐほんのりと紅い唇と水色の瞳のほかは何もかもがまぶしいほどに白い巫女だった。
覗きこむようにして尋ねる巫女に娘はこっくりとうなずいた。
「とてもきれいだった、から…。」
言い訳をするというよりは事実をそのまま言うようにぼそりと娘が言った。
巫女ははっとしたように一瞬目を上げて、それからみるみる頬を赤く染めると、恥ずかしそうにうつむいた。
「いいえ、そんな、あれはとてもどなたかにお見せするようなものではないのですけれど…」
「罰は受ける。御心のままに。」
固い声で娘がそう言うと、巫女は困り果てた顔になっておろおろと返した。
「いいえ、罰だなんて、そんなとんでもない。
咎めるつもりなどないのですから。
少しでも、その、お気に召して頂けましたのなら、それはそれで、わたしにも嬉しいことですし。
あ、あの…」
じっと罰を待つように体を固くしてうつむいている娘のほうに、巫女はそっと手を差し伸べて微笑みかけた。
しゃらり、と優しく鈴が鳴った。
「どうぞ、お顔を上げてくださいませんか。そんなふうにされているととてもお話ししづらいです…。 あの、もし、よろしければ、もう一度よくあなたのお顔を見せて頂けませんか?」
巫女の言葉に合わせて娘が顔を上げる。娘の瞳を捕らえて、巫女は嬉しそうに微笑んだ。
「うつくしい方、この山で人にお会いしたのは初めてです。
どうかあなたのお名前をわたしにお与えくださいませ。」
そんな言葉をかけられたことのない娘は巫女の台詞に怪訝そうな顔をしたが、それでもぽつりと名前を言った。
「蛍。」
「蛍さん。わたしは淡海と申します。」
淡海と名のった巫女は嬉しくてたまらないような顔をして蛍をじっと見つめた。
淡海は祈るように両手を胸のところに組み合わせて蛍を見つめたまま言った。
「あの…蛍さん、お願いがあるのです。
どうぞこのままこの山にいてくださいませんか?
もちろん、これは罰とかそういうことではなくて、わたしのお願いです。
あなたさえよければ、なのですけれど。」
淡海の言葉に蛍は驚いたように淡海を見返した。
淡海はそれににこにこと笑みを返す。
蛍は一瞬戸惑うような目をしてから、困ったように顔を曇らせた。
その蛍の様子を見て取った淡海はあわてて取り繕うように言った。
「あ、いえ、ごめんなさい。
あなたにはあなたのご都合がおありなのですね。
いえ、無理にお願いするつもりはありません。
ごめんなさい。あの、いいんです、ごめんなさい、こんなお願いご迷惑でしたね…」
言葉を継ぎながらも、淡海は目に見えてしょんぼりとなる。
そのまま悲しそうに黙り込んでしまって、それにますます、蛍が困っていると、いきなり淡海は顔を上げて無理に作ったような笑顔を蛍に向けた。
「ところで、どうしてこの山にお入りになったのですか?
ここは幾重にも封じられた地です。
何かよほどのことでもおありなのですか?」
淡海の問いかけに何故か一瞬戸惑ってから蛍は答えた。
「この山のむこうに抜けるために。」
蛍の台詞に淡海は少し眉を曇らせた。
「この山を抜ける?でも街道は山を迂回して行くはずですが。」
「近道をしようとして。」
「近道ですか?
けれど、この山は決して何者も通り抜けることはできない山です。
たとえここまで無事に来られたあなたであっても、通り抜けることは決しておできにはならないでしょう。
お急ぎならばなおさら、引き返して街道を行かれたほうが早いと思います。」
淡海にはっきりと言われて蛍は素直にうなずいた。
「確かにその通りだ。
神聖な地を踏み荒らして申し訳ない。
すぐさま山を下りる。」
蛍はそう言うと、さっと立ってそのまま立ち去ろうとした。
その背中にあわてて淡海は取りすがるように言った。
「あ、あの、もう行ってしまわれるのですか?
…そんな…、せめて、あの、せめて今宵一晩だけでも、ここにいてくださいませんか?
…お急ぎなのは承知いたしておりますけれど、でも、あの、もう少し、せめて、あと少し…」
まわりこんで覗き込む淡海の瞳が蛍の瞳を捉えてすがる。
「お願いです。
明日の朝まででいいですから、どうかもう少しここにいてください。
どうかお願いですから。」
淡海の必死な様子に蛍はちらっと困った表情を浮かべた。
けれど、それを見た淡海の瞳が絶望的に揺れるのに気づいて、ふと表情を緩めてうなずいた。
「分かった。それでは、明日の朝までここにいる。」
蛍の返事を聞くやいなや、淡海の瞳は打って変わって輝いた。
そして、まるで全身から嬉しいという思いがあふれ出すようにくるくると踊りながら笑い出した。
ころころと笑うような鈴の音が周囲に振りまかれた。
「本当ですか?本当ですね?
ああ、嬉しい。本当に嬉しい。
蛍さん、有難うございます。」
ここまで手放しで喜ばれては蛍も渋い顔はできない。
つられたようにぎこちない微笑みを浮かべると、淡海はますます嬉しそうになった。
「そうしていらっしゃるほうがずっといいですよ、蛍さん。
ええ、あなたの温かいお心はほら、こんなにじかに伝わってきます。」
淡海は目を閉じて胸のところで何かを抱きしめるように腕を組んだ。
まるくあいたその空間に淡い光が灯ってやわらかく輝き始めた。
淡海はそのまるい光をすっと空にむかって投げ上げる。
ゆるやかな弧を描くようにして上った光は、あるところでぱんとはじけて、四方八方へと飛び散った。さわさわと森の中で風が動いた。
「ほうら、こんなにきれいでしょう?
これがあなたがわたしに伝えてくださったものです。
山の方々も喜んでいらっしゃいますよ。」
目を丸くする蛍に微笑みかけて、淡海はすっと両腕を広げた。
「あなたのお力もお借りして、今宵はよい歌を歌えそうです。
つたない技ではありますけれど、どうぞ、見ていてくださいませ。
どうか、どこにも行かないで。」
蛍がうなずくと淡海は安心したように笑って、それから小さく何かをくちずさみ始めた。
すぐに覚えてしまうほどの単調な旋律が何度も何度も繰り返される。
さっき中断した歌と同じ歌だった。
けれど詞はやはり蛍には聞き取れない。
この世界の隅々までも旅をするシキの民に知らない言語などなかったから、あれは古い古い言葉なのかもしれない。
祖母が生きていればあの歌の意味が分かったのだろうか。
淡海の歌はいつの間にか口ずさみではなくなり、辺りの森に響いて、いつしかその一帯を包み込むようにひろがっていった。
ゆるやかな舞の動きに合わせて、淡い光が淡海からあふれて舞い散っていく。
それはさっき淡海が見せてくれた蛍の心とそっくりなやわらかい輝きだった。
しゃらしゃら、しゃんしゃんしゃん。
心地よい鈴の音が響いている。
きらきらと光る鈴からころころ零れ落ちる光の雫が、ふわりと浮かび上がって楽しげに踊り始める。光の乱舞が淡海を包み、辺りを包んで輝きを増す。
蛍がふと目を留めた木に、ぽ、っと小さな灯りが灯った。
みるみるまに小さな灯りは、ぽ、ぽ、っとあちこちに灯り、気がつくと目の届く限り、森の中いたるところに淡く柔らかい光が灯った。
それは淡海の歌に呼応するように、ゆっくりと揺れて、まるで歌を喜んでいるようだった。
次々に灯る光は歌の高まりにあわせて、やがて木々から離れてふわふわと飛び始めた。
淡海が手を差し伸べると光はまるで競うようにしてその元へと集まった。
淡海は集まってきた光をいとおしそうに胸に抱いて、それからそっとそれを放つ。
光は乱舞し、やがて山の隅々まで満たしていった。
それは季節外れの蛍の乱舞のようで、淡い初雪の訪れのようで、山をゆるやかに包み込み、ただただ静かな穏やかさに満たしていく。
不安も恐れもなく、ただただゆったりとたゆたうような温かさにすべては覆い尽くされた。
ふと、蛍はなにやら冷たいものを頬に感じてはっとして我に返った。
いつの間にか涙が流れていた。
涙を流したのはひとりきりになってから初めてのことだった。
蛍はあわてて涙を手の甲で払った。
いつの間にか光の乱舞もあの歌も消えていた。
なぜかふいにどうしようもないほど不安な気持ちに襲われて、あわてて蛍は淡海の姿を目で探した。
淡海はすぐ横にいて、蛍をにこにこと見守っていた。
淡海と目が合って、なぜかとてもほっとして蛍は小さくため息をついた。
「山の方々もあなたの訪れをとても喜んでいらっしゃいます。
これほどに山の方々に気に入られた方をわたしは他に知りません。」
淡海にそう言われて蛍は少しきまり悪そうにうつむいた。
淡海は蛍をじっと見つめて言った。
「あなたをお返ししたくはありません。
このままこの山に閉じ込めておきたい。
けれど、やはりそれは許されないことなのでしょう。」
淡海の瞳がすっと表情を失くした。
冷たい人形のような美しい顔を淡海はそっとそらせて、遠い空を見上げた。
いつの間にか山の端がうっすらと白くなり始めている。
淡海の瞳からぽろりと涙の粒がこぼれ落ちた。
けれど、思いをこらえるように瞳を閉じて、淡海は再び微笑みを浮かべて蛍のほうをむいた。
「麓までお送りさせてください。
わたしにはこの山の封じもかかりませんから、少しでも早く行くことができると思います。
もちろん、あなたならお一人でも迷うことなどないのでしょうけれど。
せめて、もう少し一緒にいさせてください。」
有難う、と蛍がつぶやくと淡海は笑いながらぽとりと涙を落とした。
けれどもうそれ以上は何も言わずに、さっと案内するように先に立って歩き始めた。