第五話
次元蝕。
慌ただしく人々が行き交い、すれ違う。
私という存在はまるで取り残された、おもちゃの人形のようだ。
「……殿下! 姫殿下!」
「ッ!? バ、バルマン。執務の準備をしなくてはいけません。どこかに本拠を……」
「それどころではありません。我々は近侍として姫殿下をお守りする義務があります。騎士団の行動は辺境伯付きの文官に任せ、我々は地下室へと避難すべきです」
「しかしそれでは……!」
気が付けばメイドのアンナは、蒼白な顔をして私にしがみついていた。
レオが不在の時は、私が各種事項を代行しなくてはと躍起になっていたのだが、こんなにも周囲を心配させていたのかと気づき、恥ずかしくなる。
私が今やるべきことは、無い。
他の人々の邪魔にならぬよう、そっと闇の中に潜んでいるのがいいのだろう。
「ゲホッ、ゴホッ!」
「殿下、お気を確かに。今すぐ侍医を呼びます故」
「き、気にしないでバルマン。いつのものことですから」
「駄目ですよぅ、姫殿下! どうか御身体をご自愛くださまし!」
観念した私は、二人に手を引かれて城へと戻る。
馬車の振動が吐き気を誘発し、咳き込むたびに倦怠感が強まってきた。
それでも気丈に振舞えたのは、二人のお陰だろう。それに新しくやってきた土地で、情けない姿を見せるわけにはいかないという、私なりの意地もあったのかもしれない。
◇
情けない。
腕は震え、足は言うことを聞かない。
這う這うの体で自室のベッドまでたどり着いたのだが、そこで体力の限界が来てしまった。
悔しさで涙がこみあげてくる。アンナに寝巻に着替えさせてもらった途端、糸の切れた人形のようにベッドに崩れ落ちてしまった。
レオの妻として、辺境伯夫人として、出来うることが多々あったはずだ。
私は結局、どこにいても役に立たないままで終わってしまうのだろうか。
「ロゼ! ロゼは無事か!」
跳ねるようにドアが開き、紅髪の獅子――レオが私に駆け寄って来た。
その様子はまるで、母親とはぐれてしまった子供のようだな、と幻視させる。
「身体はどうだ? 苦しくないか?」
「申し訳ありません。本音を述べるのであれば、意識を保っているのがやっとです」
「そうか……心配せずゆっくり眠るといい。次元蝕のあったアリラト山はこの伯都よりも遠方に位置する。今日明日でどうにかなるものでもないしな」
「はい……では……お言葉、に」
そこで意識が暗転した。
あとは温い水の中を漂う木の葉のように、私という船は波任せ。
◇
「眠ったか。それで、貴様、バルマンと言ったな。この体たらくはどう言い訳をしてくれるんだ」
「申し訳ありません。しかし現状の姫殿下では生命維持が精一杯です。此度の次元蝕に間に合わせるには、もう少しチューニングが必要かと」
「――憐れな娘だ。せめて良き思い出をと思ったが、風雲急を告げる場面に会うとはな。これもウィノア王家の宿命か」
「それはレオ様ご自身のことも仰っているのですか」
「聞き流せバルマン。俺のような亜人が辺境伯になっているんだ。当然ウィノア王家と血のつながりがある。俺の祖母だか曾祖母だかが尻尾を振ったんだろう。過去のしがらみってのは、あるだけで不愉快なものだ」
「……姫殿下を案じておいでなのですね。私やアンナと動揺に」
「貴様らの懸案事項と、俺の気持ちは同じ方向を見ているとは限らんぞ? まあいい、ロゼフィンが寝ている間に救命活動を開始せねばな」
腕組みを解き、レオはマントを翻して退室する。
アリラト山の周辺は小麦の一大生産拠点であったのだが、今回の次元蝕で収穫は絶望的になるだろう。
それ以上に、巻き込まれた人命は何をどうやっても帰ってこない。
サラサラと落ちる砂時計のように、世界は悲鳴を上げているのだ。
「やはり、この手を血で汚さねばならないのか。クソ、ウィノアの王は自分の義務を放棄する気か」
吐き捨てるように台詞を投げ、大理石の柱を殴りつける。
「それでもロゼフィン、君だけは守りたい」
そっとレオは眠る妻へ誓いを捧げる。どうかこの日の想いが、決して色褪せぬようにと。
◇
ロゼフィンとレオが初めて出会ったのは、まさしく運命のいたずらによるものだったと言えよう。
日々、ほんの少しの時間だけ散歩を嗜むロゼは、偶然庭園に迷い込んだ紅髪の亜人を発見したのである。
当時のメイドはアンナではなく、もっと厳しい高齢の女性であった。しかし丁度飲み物を取りに席を外しており、ロゼは一対一で話をするチャンスを見つけたのだ。
「あなたはだあれ? ふしぎな髪の毛ね」
「お、俺は……レオ……っていうんだ。お姉さんは、えっと、お姫様ですか?」
「私? そうね、私は一応そういう人みたいなの。でも、あんまりお姫様のようなことが出来なくて寂しいわ」
少年だったレオにも分かる、異常な顔色の悪さ。
手足は細く、血流も悪いように思える。
「ちゃんと食べてますか、姫様。俺よかったら何か持って来ましょうか」
「大丈夫よ。優しい子ですね、ありがとうございます。私はこの果物で十分ですから」
ロゼは皿の上にある、カットされたシルの実を齧った。
しゃくしゃくと咀嚼をし、ゆっくりと飲み込む。なんともいえぬ香りが漂い、レオは思わず驚きの目を向けてしまった。
「貴方も食べる? とても美味しいわよ」
「い、いえ……その、畏れ多いですから」
「子供は遠慮してはいけないのに。ねえ、貴方はどんなことが得意なの? 本はどんなものが好き?」
「えと、その、かけっことか……得意です。あと剣も」
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