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第三話

婚儀後の朝ほど、顔を合わせるのが恥ずかしい時はないと思う。

 目覚めたとき、レオの太い腕を枕にして、あろうことか涙筋までつけていた私だが、それはそれ。貴婦人の嗜みを本で学んだ成果を見せなくてはいけませんね。


「何を見ているのだ? ロゼ」

 私の小賢しい振る舞いなど、寝起きの不意打ちの前では役に立たなかった。

「おはよう、ございます」

「おはようだ、ロゼ。んっ」

「んううぅ」


 だから、そういう不意打ちは禁止ですってば。

 荒々しくもどこか柔らかい口づけに、私は朝から発熱してしまいそうになる。

 確かこういう時はレンギョウの葉を煎じて飲めば、熱を下げる効果が……。

 頭の中の薬科辞典を脳内でめくるも、思考が定まらずにふわふわとしたままだ。


「さて、ずっとこうしていたいのだが、俺も執務という奴がある。慌ただしく去ることを許してくれ」

「いえ、夫のご精励を邪魔する淑女はおりません。どうぞ国民のために義務を果たされませ」

「おう、行ってくる」


 優雅に茶色のローブを羽織り、私の紅髪様は足音高く部屋から外へと向かっていった。私の唇に微熱を残したままに。


 新たに私が住むことになる領主の屋敷は、よく言えば質実剛健、いじわるに言えば簡素である。私の手荷物などたかが知れているので、実質家財道具が増えるわけではない。

 強いて言えば、腹心のバルマンとアンナがそのまま私付の侍従として採用されたことだろうか。レオからの心遣いだと思うので、そっと感謝の言葉を宙に舞わせる。


「姫殿下、朝食はスクランブルエッグとベーコン。オニオンスープと季節のお野菜。そして焼きたてのパンにシルの実でございますよー。たっくさんお召し上がりになられてくださいましね!」

「ええ、ありがとう。ん、すごくお味が濃厚……素材が違うのかしら」


 何気なく茹でたアスパラガスを口に入れた私は、その美味に感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。

 一つ一つ味わってみれば、そのどれもが王都で食べていたものよりも一段上の食材であることが分かる。


「そんなに美味しいんですか? いいなぁ……私も後で楽しみにしてます」

「是非味わってほしいわ。んく、スープもしっかりとフォンが効いていて素敵……」

 ベースは贅沢に牛を使っているようだ。深みとコクが、微かに主張している塩によって引き立てられ、オニオンの甘味を際立たせている。


「食べましたねー。王宮ではいつも小さなパンとシルの実しかお召しあがらなかったのに」

「そうね……これは……太る!」

「そそそそそれはまずいですよ、殿下! そうだ、お昼は一緒にお散歩いたしましょう。ここは空気も澄んでいますので、殿下のお体には障らないかもしれませんし」


 虚弱姫として腫物扱いされてきた身だけれども、この辺境伯領に居れば、少しは健康になるかもしれない。微かな希望が胸に宿るのを感じ、気持ちが上向きになる。


「そういえば伯爵家の公務とはどのようなものがあるのかしら。アンナ、バルマンを呼んで下さいな。出席できる行事が多いとは思いませんが、最低限出来ることはしないと」

「ご無理をなさらないようにお願いしますね。それではお片付けしてきます! あ、あとバルマンでしたね」

 手際よく片付けていくアンナを横目に、私は大きな出窓から外の光を浴びる。

 王宮の自室は居心地がよかったが、どんなに陽を受けても心が温まることはなかったように思える。それに比べて、今はどうだろうか。


「お呼びでしょうか、姫殿下」

「おはようございます、バルマン。今日の予定を確認しておきたくて」

「それが……なんと申しますか」


 静かに入室してきたバルマンは、同じく音もなく眉根を寄せて考え込む。

 何か問題があったのだろうか。


「本日、いえ、近日中に騎士団を慰問して欲しいとの要請が出ております。主筋の殿下が自ら赴かれるなどという言語道断の沙汰に、私はどのような反駁をするべきか迷っておりまして」

「そう……きっとレオにはレオの思惑があるのでしょう。それにこれから身内になったのですから、ご挨拶をしておくのも悪くはないでしょう」

「お忘れですか、姫殿下。ウィノア王宮での散歩ですら……いえ、図書室に向かう時ですら、大きく咳き込んでおいででした。汗と埃にまみれた兵舎に行かれるとなると、どのような症状を発するのか心配でなりません」


 確かに。

 私は自室から出ると途端に体が重くなり、本一冊を運ぶだけでも体力を使い切ってしまうこともあった。

 アンナと散歩をするのが精一杯の運動で、それも五分かそこらのことである。虚弱姫の綽名は伊達ではないのが悔しい限りだ。


「せめて隊長格の者を広間に呼び、今後のことをお任せするのがよろしいかと」

「――いえ、それでは私はいつまでたってもよそ者のままになってしまいます。近日中との仰せですので、少し体力をつけてから私がお会いしに行くとしましょう」

「しかし、殿下……!」


 バルマンは困ったように黒髪を後ろになでつけている。いつも影になり私のことを守ってくれる、兄のような人物だ。今日みたいに困らせることが今後もあるかもしれないのは、大変心苦しい。

「お願い。これは必要な洗礼だと思うのです」

「……わかりました。そこまでの御覚悟がおありなら、これ以上お止めするのは却って失礼です」

「ありがとう、バルマン!」

「ですが! 当日は私の目を盗んで白粉などで誤魔化さぬよう願います。アンナはああ見えて一流のメイク職人ですから、油断なりません」


 目を細めて私の顔を眩し気に見るバルマンは、いつも通りの寛容さで接してくれた。第一王女が辺境伯に嫁ぐという、いわゆる『都落ち』に対して、きっと日々反対してくれていたと聞いている。

 力足らず、真に申し訳ございません。そう言って落涙した彼を、誰が責めることができようか。


「バルマンがダメと言ったら、それを信じますから。今まで貴方は間違ったことを私に伝えたことがありませんから」

「至誠に悖るなかりしか。生涯をかけて姫殿下をお支えする所存でございますれば」

「難しい言葉も貴方から習いましたね。では他の予定を教えてくださいな」


 公務と思しき行事は全く無く、私は新婚一日目にして無任所になってしまった。

 レオはきっと私の身体を慮ってくれたのだろうし、バルマンやアンナが気を張ってくれているに違いない。

 ならば私のやることは一つだ。

 この虚弱なポンコツボディをなんとかして健康に近づけ、様々なお手伝いが出来るように改善していくのみ。


「姫殿下、今少し走ろうかなんて思いませんでしたよね」

「うっ、バルマン、貴方は魔法使いでしたっけ」

「私に魔力が無いからこそ、殿下のお側に仕えていられるのですよ。それで殿下、真偽や如何に」

「……ごめんなさい」


 まるで親に叱られる小娘同然だった。

 でもきっと、いつの日か私も自らの足で自由に移動したいと思う。

 硝子細工のように飾られて、埃をかぶるままに朽ちるのを想像すると、寒気が出てくる。この自由への意志は、私が一歩前進した証だと受け止めたいのだ。


 私は何度も読み返した百科事典を手に、そっと象牙色のソファに身を沈める。

 王宮から持ち出せた物は数少ない。その中でも、最も私に教えをくれた一冊を厳選して連れてきた。

 この子がいなかったら、私は無知蒙昧なまま、今でも病に怯えて嘆く日々を送っていたに違いないのだから。


 コチコチ、と時計の音だけが星の流れを教えてくれる。

 レオは今頃何をしているのだろう。

 結婚式で交わした獅子の紋章入りの指輪が、そっと収まる手を眺めた。

 

『レオ・エンディミウス・アーヴァインは、終生この女性を唯一人の妻とし、愛のもと、共に国民に尽くしていくと誓う』

『私、ロゼフィン・アウグスタ・ドライ・フォン・ウィノアは、レオ様を愛し、終生添い遂げることを誓います』


 思い出しては一人で枕を抱え、悶絶する。

 きっと今日も夜が私を迎えに来る。

 紅い髪は闇夜でも、その神々しさを損なわず。そして私を夜の帳に連れ去ってしまうのだろう。


「嫌な役割を引き受けたもんだ。しかし、俺は……」

 誰に聞かれていても構わない。ロゼの耳にさえ届かなければ。


 誰が世界に愛を創った。

 こんな気持ち、知らなければ、俺は……。

お読みいただきありがとうございました!

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