第二話
目が覚めたとき、私は大きな耳を見た。
ピコピコと動くそれは、とある感情を噴出させる。ああ、触りたい。撫でたいと。
「起きたか、ロゼ」
「っ!?」
「今何をしようとしていた? まあいい、意識はしっかりとしているか」
そうだった。
目の前のモフりポイントに釘付けになっていたばかりか、己の状況も把握せずにうっかりと手を伸ばしていた。
恥ずかしさのあまり、私はきっと今、熟れた林檎のように真っ赤になっていることだろう。
「あの、ここは……」
「ロゼが乗っていた馬車の中だ。そして俺の膝上でもあるな」
「こ、これは失礼をいたしました。ええと、レオ様……ですよね」
「そうだ。ウィノアから辺境伯を預かっている、お前の番となる雄だ」
ぼんっと湯気の塊が飛び跳ねたかのように、また体が熱くなる。
輿入れの道中というのに、私は夫となる人に甘えてしまって。
自らの不明を嘆けども、レオの逞しい腕はがっちりと私を掴んで離さないまま。これでは部屋の隅っこで自己反省する暇すらない。
「人間にしてはいい抱き心地だ。今から楽しみだぞ」
「んなっ!?」
そういうことを赤裸々に言うの禁止です。
確かに、確かに私は貴方の妻になるのですけれども、もっとこう、そういうのは秘めやかにですね。
「アーヴァイン辺境伯、貴公が触れているのは畏れ多くもウィノア王国の第一王女殿下です。まだ寿ぎが成されていない今、不必要な接触は控えていただきたい」
「ほう、なんだ黒髪。俺に意見するとはいいご身分だな。家名を聞いておこうか」
「名乗るほどの者ではない。この身は殿下の影だ」
「ならば俺は日向というわけだな。まあ仲良くやろうや、影男」
バルマンの殺気を軽くいなし、レオは再び上機嫌で私を抱っこし続ける。
「あの、大丈夫ですから、起こしてくださいませんか」
「今そうしようと思っていたところだ。さあロゼ、君に見てほしい。我ら亜人の住む大地を、森を、川を」
促されて馬車の窓から外に目を向ける。相変わらず私はレオの膝の上だったのだが、瞳に刻まれた色濃い世界は鮮烈だった。
「緑覆う山々がこんなにも雄々しく。重厚で新鮮な空気がとっても綺麗です」
「そうだろう? ここは俺が、我々が愛している土地だ。何人たりとも汚させはしない」
私の平凡な語彙力では表現できないほどの、勇壮にて優美なる景色が連なっている。厳しくもあり、優しくもある自然は、これほどに美しいものなのか。
気が付けば私は涙を流していたらしい。
「使え」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
「この大地を気に入ってくれたようで俺も嬉しい。今日からロゼ、君の故郷になる場所だ」
「ちーん!」
「おい!」
いけない。ついうっかり……。
私は涙腺も脆いし、鼻孔も脆いのです。いつもはそっとバルマンが紙を差し出してくれるので、うっかりしていました。
「ふ、まあいい。泣かせた女性の涙と鼻水だ。それが誇るべき大地への賛歌であるならば、これは勲章にも値しよう」
「そ、早急に洗ってくださいませ! ううう、恥ずかしい……」
レオは大声で笑い、腹を揺する。その振動は次第に私の胃に伝わってきて。
「姫殿下、そろそろご準備を」
バルマンの声に、リバース感をもたらす揺れは収まってくれたようだ。
衛兵たちの敬礼を見送ると、そこには一面の花畑が広がっていた。
空から降る色とりどりの花びらが、窓から迷い込んでくる。
道に集う人々は、皆それぞれに個性的な姿をしていたが、手に手に花束を持っていることから、歓迎の気持ちが強く伝わってくる。
「手を上げてやってくれ。今日からロゼの子供たちになる、我が領民たちだ」
「私の……子供」
「レオ辺境伯万歳! ロゼ王女殿下万歳! レイヴェンスよ常しえたれ!」
「ロゼ様ー!」
「辺境伯様、ご結婚おめでとうございます!!」
一面の花畑は、一面の喜色で重ね塗りされていた。
「ハンカチ、もう一枚使ってくれや」
「はい……ちーん!」
私のような日陰者が、このような盛大な歓迎を受けるだなんて思いもよらなかった。だから、初めてのことなので、あふれる熱い涙を止める方法も知らなかったのである。
婚儀の日取りはとんとん拍子に進み、とある吉日――レオの生誕祭の日に決まった。
ウィノア王家からの参列者は無し。僅かに二人の友人であり腹心が付き添うのみの、寂しい控室だ。アンナも何とか盛り上げようとしてくれているが、心に穴が開いたように私の胸から外へと、言葉が流れ出てしまう。
「姫殿下、おめでとうございます」
「ありがとう、バルマン。貴方には貧乏くじを引かせてしまいましたね……」
「何を仰いますか。首輪付きの世界から、殿下が脱出された善き日でございますれば、憂うことなど一つもありませんよ」
「……そう、ですね」
歩くことを知らない人形が、糸から解き放たれたときどうなるか。
きっとその場で蹲って動けないのではないだろうか。私は自分が恐れで動けなくなることがとても怖い。
かろうじてノックと思しき音の後、レオが返答も確認せずに入って来た。
「不埒者が。殿下のお姿を儀式まで待てぬのか!」
「堅苦しいな。王都では《《そういう》》お作法が大好きな連中が多いらしいが、付き人のお前まで同類なのか?」
「語るべくもない。しかし花嫁の氷見渡り前に現れるとは、前代未聞だぞ」
「レイヴェンスはそういう文化なんだ。だから俺は俺の、俺たちのやり方で姫を幸せにする」
「――勝手にしろ」
氷見渡りとは、バージンロードに惹かれた青い毛氈の上を歩く儀式のことだ。
遥か昔、氷に覆われた大地を女神が歩き、世界に花々があふれ、穀物が実ったという御伽噺から来ている。
「アーヴァイン辺境伯」
「堅いな、レオでいい」
「レオ、男同士の約束だ。姫殿下を『お任せしても』いいんだな?」
「――語るに及ばず。俺は生涯をかけて、ロゼを愛し続けると誓おう」
ぷしゅー。
あの、もうこれが結婚式本番でいいのではないでしょうか。
これ以上の刺激には、私は耐えられそうにありません。
式本番に至り、フェブール教の司祭様が何事かを仰っておられましたが、もはやうろ覚えでした。
目に焼き付いているのは、どこまでも突き抜けるように、私を見続ける少年のようなレオの瞳だった。
◇
「いよいよ……ですか。私は上手く出来るのでしょうか」
私は天蓋付きの褥の中で、薄い肌着のまま、新郎たるレオ様を待っている。
今日は、婚儀が終わってからの初夜だ。
一応のお作法は王宮の図書室で学んできたつもりである。あとはアンナ(未婚)にもしっかりと聞いておいた。
抜かりは、ない!
やや乱雑にドアが開けられ、ローブを羽織ったレオ様が姿を見せる。
厚い胸板と、健康的に焼けた肌。そして燃える紅髪のグラデーションに、思わず見とれてしまった。多分口も開いていたと思う。
「今夜で俺たちは番になる。俺は誓いの言葉通りに、ロゼとレイヴェンスを守っていこう」
「ふっ、不束者ですが、よろしくお願いいたします!」
「案ずるな、俺も始めてだ」
ナハハハと笑うレオをよそに、私は少し安心したと思う。文献によると、亜人――特に獣人族は番となる相手への貞淑意識が強い。
人間だと浮気は甲斐性だの、不倫はロマンスだのと武勇伝のように語られることもある。だが、彼らはその手の不貞行為を毛嫌いしているようだ。
そしてその思いは私の価値観とも合致する。
「あっ、ん、ふっ……」
「あむ。ふむ、なるほど。口づけというのは、その……中々に過激な行為のようだ。これは抑えが……効かんな」
レオは顔を紅潮させ、今気づいたと言わんばかりに恥ずかし気に頬を搔いている。
なんだか私の方が茶目っ気が出そうです。
「レオ様……」
「いや、ああ。うおっ、や、柔らかい……これは……」
口を小鳥のようについばみつつ、ゆっくりと、一歩一歩。
今宵、二人で色々と冒険の旅に出られそうです。
緋色の繭に包まれ、青銀の水面に血が混じる。
――
「契約は成った。これより、プリンセア・マギアを発動する」
闇に溶け入るように、石畳の一室で声が塵へと消えていく。
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