帝国陸軍の自動車運用
米帝様は「このはと」世界で華中に踏み込んで泥沼にはまっている中で、ペンシルヴァニア鉄道やニューヨークセントラル鉄道などが既存鉄道を実質併呑して鉄道網を構築している。米帝遠征軍もこれを兵站の基本にしているわけだ。
ふと、思ったのだけれども、具体的にどうこうと作中に書いているわけではないけれど、道路網についてはどうなのか?
史実支那事変では、鉄道省から華中鉄道に車両や人材が送られて鉄道運行を再開させ、これによって中支那方面軍、中支那派遣軍は兵站を確立維持、また汪兆銘政権は経済基盤としていた。
けれど、鉄道ほどは道路整備にあれこれという話をあまり聞かない。
まぁ、その理由は鉄道の方が輸送単位が大きく、また高速輸送出来るからであり、同時に長江航路による水運を利用することが出来たことが大きいのだろう。そして、トラック輸送をするにもそのトラックの絶対数が多くないわけだから、道路整備は鉄道網から外れ離れた前線維持の部分が優先されたのだろうと思われる。
マレー方面で運用された各種自動車は3個師団で2000両程度と鹵獲した3000両程度というから、中支那派遣軍も10-12個師団相当の戦力を有していることから最低でも1000-2000両程度は有していたのだろうと思われるが、中支那派遣軍の担当区分を考えると使える自動車の総数としては2000両と仮定しても少ないのではないだろうか?
しかも、マレー作戦で運用された3個師団のうち2個師団は自動車化されていたことから自動車保有数がとても多いという話になる。とてもざっくりした計算になるが、自動車化師団が800両、普通師団が400両と換算すると中支那派遣軍は10-12個師団だから4000-4800両程度の保有ということになるが、そんなにあるのか非常に疑問だ。
これまた大雑把な計算だが、大陸打通作戦において支那方面で運用された総兵力50万=50個師団相当に対し自動車12000両であるという。よって、1個師団相当240両となる。
この計算を中支那派遣軍10-12個師団に充当すると2400-2880両となる。
逆算して考えると大雑把であるが目安となる数字は以下になるのではないだろう。
○3-5個師団程度編制される軍単位では概ね1000両前後、自動車化されている場合は2000両程度
○10個師団前後で編制される方面軍単位では2500両前後
○20-30個師団ないし複数の軍を包括する総軍単位では5000-15000両程度
これは自動車の総数であってトラックの総数ではない。よって、兵站維持に用いることが出来るトラックの実数は更に減るわけだ。
1個師団240両と仮定して乗用車を除くとすれば200-220両程度がトラックの実数となると思うが、兵員輸送などにも使うから兵站の分は更に減る。実態としては100-150両が限界なのではないかな。
1両あたりの積載貨物は1-2トン。積載量の大きい九四式六輪自動貨車は数が少ないから、実数としては1トン積み、過積載上等!で2-3トンと換算するべきだろう。九四式六輪自動貨車は1.5トン積み正規だけれど、テケ車かなんかを積んでいる写真を見たことがあるからから正規の3倍まではいけるんだろう。
兵站物資の全量を内地からの輸送ではないから賄えていると考えれば・・・・・・うーん、まぁ、なんとかなりそうな数字ではあるかなぁ。そもそも常時兵站輸送で動き回っているわけでもなく、攻勢予定に対して、1-2ヶ月程度掛けて事前に物資を集積してというのが帝国陸軍の定石だから平時は賄える分量なのかも知れない。歴史群像の最新刊(8月号)の特集記事である「日本陸軍のロジスティクス」を参考にすると、一応納得出来る数字ではある。
これ、内地から全量輸送と考えると無理だよ。うん、現地調達を前提とした兵站行政を行ったのは道理なのかも知れないなと。そして、支那でさして問題にならなくても、南方やニューギニアなどで問題が起きた理由の原因の一端を見た気がする。
とまぁ、個人的には色々納得がいった。