紅楼春雪抄
第五章 紅楼春雪抄
遅日 江山麗しく
春風 花草香し
泥融けて 燕子飛び
沙暖かにして 鴛鴦睡る
ある者は聞き惚れながら、ある者は談笑しながら、しかしその歌声に耳を傾けていない者はいなかった。年号桔は明けて八年、季節は三月。楽師スキエルニエビツェは砂漠の国葵剣に辿りついていた。葵剣は戦の多い国である。恐らく世界でも一、二を争う戦争国だが、それだけに戦いに勝った時の喜びは大きい。心が荒み、気持ちは苛苛とする。人は戦へ行き、砂混じりの風と共にため息も吹く。だから葵剣では戦争を決して日常のものとして扱わない。あくまで戦争は異端者、突然の祝福されない客として捉えられているのだ。
スキエルニエビツェがこの国に来ることを決めたのも、そんな風習があるからという理由が大きく位置を占めていたことに間違いはない。
国王レグノテック・ザファイオンはまだ三十という若さだが、葵剣開闢以来の賢王として世に名高い。
つやつやと流れる黒髪、強い意志を表した黒の瞳は、若い娘たちを随分と惑わせたものだが、二十六歳の着位と共に結婚してまた彼女たちを大いに落胆させた。至って真面目な男で、浮いた噂一つ聞かなかったが、そんなところも人々に愛された理由だろう。そう、国王はとにかく人に愛される人間である。これは天性というのか徳というのか、彼には欠点というものが存在しないのではないかと人に思わせるものがある。
剣の道に秀で、学者も舌を巻きしきりに惜しがるその知力、馬を能くし、ため息をつくほどの絵の才能、楽器を弾かせれば楽師並みで、初めて手にするものでも二、三度手に慣らせば弾きこなしてしまうという。歌声は朗々としていて気高く、戦場でこの声に鼓舞されて力を得る兵士は非常に多い。性格は朗らかで気さくで、誰にでも別け隔てなく接し、何よりも公正を重んじ公私混同を一切しない。
風流なものにも大いなる理解を示し、着位後の歌会では沈香と鏡の山水に銀の鶴をたて、金の花に銀の葉の八重山吹をくわえさせたものを洲浜の上に乗せたという。気が付くと彼の周りに人が集まっているというのは、もう昔からのことであった。まるで吸い込まれるような魅力的な男なのだ、スキエルニエビツェはそういう評判を聞いていた。この国に来たのも、尋常ならざる雅なところを見込んでのことだ。そしてスキエルニエビツェはそんな自分の選択がどれだけ正しかったかを実感し、満足に砂の地での生活を送ることができている。
この日もまた戦勝を祝う宴、半年ぶりに帰ってきた将軍たちも交え、広間は和やかな空気に包まれていた。将軍たちはずっと葵剣を留守にしており、当然スキエルニエビツェと
顔を合わせるのは初めてのことだが、国王の雅びな紹介によって彼女は将軍たちに迎えられた。家を長く留守にし、家族や恋人とずっと離れ、死と隣り合わせの恐怖と司令官としての緊張からくる疲れから未だ解放されていない彼らにとって、スキエルニエビツェの歌声が乾き切った砂に甘露な水が沁み渡るかのように感じられたのは言うまでもないことだ
ろう。
百合(表赤・裏朽葉)の衣装もあでやかに、スキエルニエビツェがリュートを弾く姿は彼らの心慰めになった。
ホロン・・・
とろけるような甘美で優雅な音色が響いた。
瀟湘 何事ぞ等閑に回る
水碧に沙明らかにして 両岸苔むす
二十五絃 夜月に弾ずれば
清怨に勝えず 却飛して来る
「美しい歌ですな」
「まったく・・・戦で疲れた心が安らぐ思いだ」
将軍たちは口々に言いながら杯をかわした。あの美しい声に、お互いの勝利に、そして生き残れたことの幸運に。或いは不運。生命ある限り戦いに身を投じ、真の安らぎは生きている内には得られることはない。それでも戦い続ける、血の匂いと怒号の中を駆け抜けて生命を燃やすしかないのだ。
そんな中、植物が置いてある中柱に寄り掛かって杯を片手に、じっとスキエルニエビツェを見つめている男がいた。
五渡渓頭 躑躅 紅なり
崇陽寺裏 講時の鐘
春山 処処 行応に好しかるべし
一月 花を看て 幾峰にか到る
「・・・」
高い背丈。黒い髪に黒い瞳。鋭くも穏やかな光を帯びたその瞳・・・戦の時にはさぞかし敵を震え上がらせるであろう凄まじい慧眼になること間違いなしのその黒き瞳は、達人の常で光が失せ穏やかなものになっている。
「オライオス将軍」
男に話し掛けた者がいた。
「ラムゼイ将軍・・・あなたでしたか。随分とご活躍と聞きました」
「いやいや、貴公には及びませんよ。西方では前代未聞の三地方の鎮圧に成功したとか。
今日の宴はあなたのためにあるようなものだ」
「そんなことはありませんよ」
少々困ったように苦笑いをして、オライオスは言った。
オライオス・ヴァンケイオン。葵剣を代表する叩きあげの将軍だ。戦の度に驚くほどの功績をあげてくるが、本人はそれを少しも鼻にかけず、終始謙虚な態度で自分の功績は他の将軍の補佐あってのことだとか、部下がよくやってくれたからだとか言うので評判はすこぶる良い。彼はやろうとしてそういった功績を上げているわけではない、勿論勝つことを念頭に置いてはいるが、驚くほどの功績になるのはいつも戦が終わってからの結果に過ぎない。どこにでもいるのだ、自分はそういう最良の結果にするつもりはなくとも、いつのまにかその采配と度量によって予想以上の結果を生み出す事のできる羨ましい存在が。
天はそれを「天才」と名付けて世に送った。正にオライオス将軍は戦の天才であった。
そしてまた優れた器を特別に与えられた人間というのは、等しくではないがそんな自分の才能に対しては謙虚である。そうするつもりがなかったのにそういう結果になってしまったのは自分の才能ではないと信じているからである。一人では戦はできない、他の協力や優秀な部下がいるからこそ天に与えられた才能も発揮できようというもの、自分だけを褒められるのは心苦しいこと。オライオス将軍もその例に洩れない。彼は自分の手柄を部下に平気で譲ることで有名だ。結婚を控えた部下に敵国制圧の手柄を祝いだと言ってぽん
と与え、結局二階級昇進の婚礼祝いを贈ったということもある。ものに執着しない男なのだ。
ラムゼイ将軍としばらく談笑して別れたオライオスは、またしてもスキエルニエビツェに目を向けていた。折しも数曲目に入ろうとしている。
鳳城の景色 巳に韶を含み
人日の風光 俉ます饒わしきを覚ゆ
桂は半輪を吐きて此の夜を迎え
冥は七葉を開いて 今朝に応ず
魚は水の凍れるに狽き 行 猶お渋り
鶯は春煕らぐを喜び 弄 嬌ならんと欲す
登高を奉じて彩翰を揺かすを愧じ
御気の丹霄に上るに逢うを欣ぶ
美しい歌声も手伝ってか、宴はいつにも増して賑やかな盛り上がりを見せていた。それは決して常軌を逸する事無く、誰もが紳士淑女に振る舞う、それは気持ちのよい宴であった。穏やかな笑い声、適度にかわされる杯、美しい王妃と素晴らしい王、勇ましく誠実な将軍たち、そして美しい喉の楽師。すべてが完璧であった。
---------彼が来るまでは。
バタン!
穏やかな空気を破るための挑戦状のように、その扉はあまりにも乱暴かつ無遠慮に、そして突然開かれた。国王の表情が曇り、わずかに眉根が寄せられる。王妃はそんな国王を見てこれまた心配げに夫を伺い見る。
「これはこれは、兄上。ご盛会ですな」
「ライク様だ・・・」
「お戻りになったのか・・・・」
人々の囁きを耳ざといスキエルニエビツェはさっそく聞いていたが、それらのどれもに共通しているのは、相手に対するあけっぴろげにはできないが明らかに好ましくない感情
であった。
国王に兄上と・・・・それでは王弟?
スキエルニエビツェはリュートの手を止めてその男に見入った。
微かに灰色がかった銀色の不思議な髪。それがまた微妙に美しい光沢を放っていて、スキエルニエビツェは銀の玉虫色だ、直感的に思った。瞳は明るい青。空色でもない、だからといって青でも水色でもなく、明るい青色をしている。国王と比べて少々瞳が鋭いが、砂漠に生きていれば顔立ちが厳しいのは風土によるもの、またその瞳の鋭さが男を精悍に見せている。鼻筋は通っていて口元は引き締まり、なんとも高貴な額だ。それらが瞳の厳しすぎるのを和らげ、彼の品性をぎりぎりのところで良いものに留めている。なんとも危うい感じの漂うこの顔は巷でも宮廷でも女が放っておくまい。しかし国王と決定的に違うのは瞳の光に刻まれたわずかな悲しみと苦しみであった。なんともいえない苦々しい光。
「ライク・・・」
国王が呻くように、これも辛そうな面持ちで呟くのに、ライクと呼ばれた弟は意地の悪い顔でにやりと笑った。
「おやおや、私がいては不愉快ですか。あなたらしくもない顔だ。どうしました? せっかくの楽しい宴でしょう、戦勝を祝う。そうして何度も何度も戦を広げてどれだけ領地を増やせば気が済むのでしょうね、あなたという人は・・・・」
国王の眉が寄せられた。これが言い掛りなのは誰もが知っている。戦のほとんどは他国 解放のためにやっていることなのだから。
「ああそれとも、」
痛烈な皮肉にその口元が歪んだ。
「あなたは人が傷つき死にゆくのを見たいだけなのかもしれませんね」
国王の拳が人々に見えないところでぎゅっと握られた。それに気付いたのは位置的に王妃タジェンナとスキエルニエビツェだけ。
「ライク・・・退室を命じる。速やかにここを出ていきなさい」
ふん、と王弟は鼻で笑った。
「それは兄としての命令ですか、兄上」
「---------いや。王としてだ」
「--------」
ぴく、とライクの眉が動いた。憎悪に近い光を放っていた瞳からその光が失せ、冬の凍りついた湖のような無表情なものとなった。
「わかりましたよ、国王陛下・・・せいぜい意味のない宴を楽しんでください」
ライクは踵を返して立ち去ろうとし、その時目の端に写ったスキエルニエビツェに一瞬視線を止めてから来たときと同じように唐突に出ていった。
ざわざわと人々がざわめく中、国王は苦々しげに低い声で申し渡した。
「皆の者-------・・・・済まぬが今日はこれで閉会としたい。今回の戦は本当にご苦労であった」
言うや、立ち上がって国王は出ていってしまった。残った者たちは少しの間ざわめいていたが、口々に何か囁きあいながら退室していった。
スキエルニエビツェも小さくため息をつくと控えの扉から出ていき、廊下に出て部屋に戻ろうとしたが、その時後ろから誰かに声をかけられた。
それは、自分が大広間にいる時からずっと視線を送っていた将軍―――オライオス将軍であった。
「----------何かご用ですかしら」
スキエルニエビツェは先程あった兄弟間のいざこざの緊張から未だ解放されてはおらず固い表情で彼を見上げた。
「そう恐い顔をするなよ。とって食われそうだ」
「・・・」
見かけとは違って随分気さくな男のようだ。スキエルニエビツェはそんな思いと彼の言葉から少しだけ反省して口元をゆるめた。
「そんなに恐い顔だったかしら・・・ごめんなさい。ところで、」
スキエルニエビツェは顔に手をやって笑顔になりもう一度聞き返した。
「どういったご用件かしら」
「そうそうそのことなんだけど」
にこり、笑ってオライオスは言った。
「俺と寝ない?」
「-----------」
スキエルニエビツェ、しばらく声も出ない。
「・・・・そういう誘われ方は生まれて初めてよ」
「嫌か」
「情緒も何もあったもんじゃないわね」
スキエルニエビツェは楽師である。楽師とは人の心の機微と自然の美を歌う歌人、だから非常に情緒と雅を重んじる。直接的なものを厭うわけではないが、だからといって誘い
方の直接さにも限界があろうというものだ。
「軍人の方は普通私のような流れ者を厭われる方が多いのだけれど」
「うん?」
「警戒されることが多いのよ」
「ああ・・・」
オライオスはそんなことかとでも言いたげな顔で小さく呟いた。
「俺だって半分は流れ者だ。一年の半分は他国に戦争に行っている。同じ流れ者でも人を殺めるのと人の心を和ますのではお前のほうが俺よりもずっと優れている」
「職業に貴賎はないわ」
どうやら女が好きなだけの男ではないようだと判断したスキエルニエビツェは、それでも未だ掴めきれないこの男の本質を探るように目を細めて言った。
「人を殺めるのも好きでやっているのではなく国を守るためでしょう? やっていることは大して私と変わりないわ。方法が違うだけ」
そうかな? と小さく呟き頭をかいたオライオスを見て、ふふ、と笑いながらスキエルニエビツェはさらに言う。
「それにしても宮廷にはあんなに美しい女官が数多くいるのに」
「ん?」
「どうしてお誘いになったの? 引く手数多でしょう」
「声のきれいな女に弱いんだ」
「嘘ばっかり」
「ふふ・・・惚れたのさ。今度はお前の行った国の話でも聞かせてくれ。色恋抜きでな」
言うと、彼は背中を向けさっさと行ってしまった。
「俺の名はオライオスだ」
言いおくのも忘れずに。
「・・・・・・」
彼の・・・オライオスの不思議な人間性に、しばしスキエルニエビツェは立ち尽くしていた。
「あ・・・」
そしてしばらくしてから彼女は一人呟いた。
「陛下と弟君のこと・・・聞こうと思ったのに・・・」
そして誰からも情報を得る機会を得られないままに、スキエルニエビツェは数日を過ごすことになる。
ようやく女官の一人から国王と王弟の因縁を聞き出すことのできたスキエルニエビツェは、予想以上の泥沼化した状況に、さすがに息を飲まずにいられなかった。
「国王陛下はあの通りの方でございます。天が与えたとしか思えないようなあの器・・・幼い頃からそれは期待されて育てられ・・・まったくその通りの方となられました。お父上もお母上も・・・周囲の人間誰もが陛下一人だけに注目し、期待しておられたのです」
「-------王弟君は?」
「そこが問題なのでございます。王弟殿下は陛下と四つ違い・・・殿下に凡人としての普通の才能がありましたのならまだ殿下も苦しまれずに済んだと私は思うのです」
「どういうこと?」
「王弟殿下も兄上様に負けず劣らずの才能をお持ちなのです。強いて言えば兄上様が静なのに対し殿下は動・・・・お二人は同じくらいの能力を与えられ全く反対の性質を持ってお生まれになられたのです」
「・・・・・」
「同じくらいと申しましてもやはり兄上様には及びません。そのことで幼い頃から随分と比べられ、そのたびに嫌な思いをなされてきたのです。どんなに頑張って人並み以上の結
果を出しても、『兄はもっと凄い』『兄に比べればそんなもの』『兄はこんなに優れているのに』と言われ続けたのでございます」
「はい。人並み以上の才能があるのに認められない・・・その不満は日に日に募ったように見受けられました。とにかくお二人はそうしてお育ちになりましたが・・・おかしな事にご兄弟の仲はとてもよろしかったのです。兄上様は弟君をそれは大切になさり、弟君もまた兄上様をとても慕っておいででした。特に兄上様は自分のせいで日陰の身となることを余儀なくされた弟君をいつもお気遣いになり、ひどく心配しておられました。問題はそんなお二人の関係が今も続いているということでございます」
「? ・・・・弟君は陛下のことを憎んでおられるのではないの? この前だって凄かったわ」
「おわかりになりますか、肉親を愛し、愛しているがゆえにまたどうしても抑えられないほど募る憎しみが・・・・」
「・・・・・」
スキエルニエビツェは爪を噛んだ。
そうか・・・愛してはいるがまた尽きもせぬ憎しみもある。愛しているがゆえにその憎しみもまた募る。こんなにも愛する兄なのに-------憎いとは! しかし抑えられない、情愛で片付けられないくらいの辛く苦しい思いをしてきた、理性ではなくもうこれは本能のように・・・・愛する憎い兄。
「泥沼・・・」
「お父上が戦死なされ、母君も後を追うようにして亡くなられた後、陛下が王位を継承なされたのですが・・・・その頃の宮殿の切れるような空気・・・今思い出しても身体が震える思いでございます」
女官は身を抱くようにしてわずかに震えた。
「あの頃宮廷内は兄上様と弟君を支持する二つの派閥に分かれておりました。片や正統な王位を継承する兄上様、片やその兄上様には劣るとも常人以上の稀な能力をお持ちの行動力溢れた弟君・・・ですが結局順番には勝てません。正統な第一位王位継承権を持つのは兄上様でしたから、結局兄上様が二十六歳という若さで王位をお継ぎになられたのです。
これが四年前のことです。以来弟君は宮廷ではなく離宮の方にお住まいになられ、滅多にこちらにお顔を出されることもありません。時々先日のように突然お越しになられては
あのように陛下を困らせるようなことを・・・」
「-------」
「ご自分が王なら、とお思いなのでしょう。なまじ将軍が十人束になってもかなわないような優れた才能をお持ちだからあのような苦悩がおありになるのです」
王になりたい、王になりたい、王になれば、自分の才能を世に認めさせる事ができる。
あの男は兄の影だ、所詮は二番煎じと言われなくて済む。自分はこんなにも才能があるのに、幼い頃から認められなかったばかりに、どうしてこんなに鬱々とした日々を送って
いる? もっとやることがあるはずだ、どうして、どうして、どうして自分が王ではないのだ! どうして誰も自分を認めてくれないのだ!
もっと・・・もっと自分の能力を発揮したい-----!
「・・・」
スキエルニエビツェはそっとこめかみに手をやった。
「陛下も弟君のお気持ちはわかっておられるのですが、どうしようもできないのです。誰かの、例え兄上様でも、補佐などをするような方ではありませんし、そういう器ではないのです。人の上に立つような方なのです、ご兄弟揃って・・・せめて弟君が参謀のような性質であられたなら」
「ふうん・・・」
「誇りの高い方ですから兄上様に仕事の世話をしてもらうはずもなく-------兄上様もそれをご承知です。でも追放もできない。それは兄上様が弟君を愛しておられるからです。
愛していればこそ、弟君の傍若無人な振る舞いもすべてご自分のせいと敢えて目を瞑っておられるのです」
「・・・・痛々しいわね」
「はい。端で見ていても辛くて・・・」
今まで幾つもの国々を経巡って来たが、ここまで複雑な事情を持つ国はこれが初めてである。普通これだけわかりやすい憎悪が渦巻いていれば、疾うに争いが起こっているものなのだが。―-----やはり兄弟間の愛がそれに歯止めをかけているのか。やりきれない思いである。女官に礼を言って下がらせ、スキエルニエビツェは簪をほどいて窓から見える空を見上げた。
三日月があえかな光を放って紺色の空に浮かんでいる。
数日後、国王の部屋で数曲歌った後、自室に帰るために廊下を歩いていたスキエルニエビツェをみとめ、引き止めた者がいた。
「待て・・・」
振り返ってスキエルニエビツェは仰天した。
「王弟殿下・・・」
「楽師と聞いたが・・・名は何と申す」
「はい、スキエルニエビツェ・ガラードと申します」
「ほうスキエルニエビツェ・・・」
王弟ライグゥアラックの眉がわずかに吊り上がった。
「世に名高い楽師のスキエルニエビツェか」
「名高いかはよく存じませぬが・・・・わたくしがスキエルニエビツェでございます」
「ふむ・・・」
王弟は近くに寄ってスキエルニエビツェを凝視といってもよいほど見つめた。ちらりと見上げて、スキエルニエビツェはすぐに顔をそらした。その顎に手をやり、王弟ライグゥアラックはスキエルニエビツェに顔を近付けた。たまらずスキエルニエビツェは顔をそらし、逃げようとしたが、壁を背にしている上、王弟の両手で退路を塞がれては、どのようにして逃れられることができようか。
「おたわむれはおやめ下さい」
「たわむれとは何とつれない言葉よ」
王弟はにやりと笑って言った。
「花の芳香に魅せられた私に罪があろうか」
「私は香りを持たぬ花。どこぞの花とお間違えなのでは?」
言うや、するりとすり抜けてスキエルニエビツェは悠然と背中を向けた。これで王弟が追ってこないのは彼女にはよくわかっている。その王弟とはと言うと、残したのは
「ふふ・・・・・」
してやられたという笑みと、この呟きのみであったという。
しかしこの二人のやりとりは廊下に行き交う侍女女官・将軍や大臣などの多くが目撃していたので、この二人のやりとりはあっという間に王宮内に広まることとなった。いかに傍若無人に振る舞おうともさすがは王弟ライグゥアラック、なんとも風流な言葉よと随分評価されたが、負けず劣らず雅な言葉で王弟をさらりと躱した楽師の評判もぐんと上がった。また、偶然にもこの時居合わせた中には将軍オライオスもいて、
「なるほどそういうのが情緒のありようなのだな」
と、一人しきりに感心していたという。
数日後オライオスとスキエルニエビツェは偶然廊下で出くわした。
「よう」
「こんにちは」
「見たぜ情緒のあり方」
「勉強した?」
「したらやらせてくれんのか?」
思わず吹き出して、
「それが情緒のなさだっていうのよ」
スキエルニエビツェは笑いながら言った。この男は、まったくそういったものに縁がないようで、それでいて率直なのに少しもいやらしさがない。人徳からくる天性のなせるわざだろう。
「いいか。俺は学がない。戦をして生きている男だ。本能がそうしろといえばそうする。そうやって生き延びてきた。その本能がお前に惚れたと言っている。惚れたのなら抱きたい。俺にとってはそれが普通のことだ。理解してくれというつもりはないがな」
将軍オライオスの評判はすこぶるいい。彼は現在二十八だが、四年前に将軍に大抜擢されて以来功績に次ぐ功績を上げている。少しも傲ったところがなく、それでいてしごく明るい性格で、なんでもいい方に考えるので前線の兵卒はどんなに追い込まれても彼に励まされることが多く、それで彼は戦勝することが多いのだとか。別名常勝将軍だそうだが、まったくその通りだと誰もが納得する。
また非常に公平な性格で、例え自分の隊の人間でも間違っている者に対する処置は非常に厳しいという。特別学があるというわけではないが、言うことに大抵間違いはなく、人情的な意見を裁定の場で求められ頼られることも多いので裁定将軍とも呼ばれる。女が好きなことでも有名だが、決して好色ではなく、二股三股ということは決してない。一晩の相手をしたのならそれだけで後腐れのないような、一晩の関係だけでそれを盾に迫ってくるような女ではなく、それきりを承知でという女ばかりだ。彼が愛する女はどれも頭が良く、性格はおとなしめ謙虚勝ち気とまちまちだが、配慮があって美しい女ばかりだという。
オライオスが気に入らないという人間も数少なくではあるがいる。しかしそれは嫉妬から来るものに間違いがなく、功績と相手にした女性の次元の高さが羨ましいだけとしか考えられない。狙っていたり密かに想いを寄せていた女をとられて逆恨みしている連中は多いようだ。誰もが彼を告発したがっているが、何にせよ私的生活に口出しは禁忌、規則違反であるし、何より彼と関係した女たちが彼を告発するつもりなど最初からなく、オライオスが一晩だけの付き合いと思っているのなら当然女の方もそう思っているわけで、結局オライオス将軍に騙された、玩ばれたなどと言う女はおらず、オライオスに反感を抱いている人間は彼の人格に唇を噛む他ない。
「ふん・・・まあいいや俺のやり方を見せてやる」
「楽しみにしてるわ」
にこにこと笑ってスキエルニエビツェは言った。何にせよ愉快な男である。
今後の彼の動向が非常に楽しみなスキエルニエビツェであった。
四月-------。砂嵐もようやくおさまり、葵剣にも短い春が来ようとしている。
この日スキエルニエビツェは、国王に連れられて城の外へと出た。城外といっても裏口から出た場所で、そこから砂にまみれて細い道が続いていた。城壁の中ではあるが城からは相当離れている。裏口には兵士がいたが、黙って国王を通したところを見ると奇妙な外出はそう珍しいことではないらしい。しばらく歩くと、小高い丘のような場所に大きな建物の影が見えてきた。
「・・・」
陽射しがまぶしくてよく見えない。スキエルニエビツェは袖で光を遮ってみたがそれでもよくわからぬ。まもなく着いたその場所は、建物などではなく楼閣であった。
見事な五層構造の紅楼。柱の彫りは緻密でひどく繊細でそれでいて力強い。しっかりとしているからどのような砂嵐にも耐えられよう。柱と柱とをつなぐ細工は美しい海の青だが、それ以外は見事なまでの真紅だ。今までいったいどれだけの砂の嵐に耐えてきたのだろうか、もしかして新築なのではと思うほど傷一つなかったが、新しいわけではないということくらいそのどっしりとした落ち着きのある構えからもよくわかった。
国王はスキエルニエビツェを中に招じ入れ、ゆったりとした階段を昇っていって最上階である五階まで彼女を案内した。
「わあ・・・・」
スキエルニエビツェも声を上げた。聞き取って国王が、
「いい景色だろう。ここからは砂漠が一望できる。昔は見張りのための櫓だったのだが、今はこうして骨休めに使っている。こちらからは城が」
スキエルニエツェが右方に目をやると、確かにこの紅楼からまる見えだった。そうでなければ櫓の意味はなかったのだろう。それに国王はよく一人で来るらしいが、それを狙ってどんな暗殺者が来るかしれたものではない。城からしっかりと見えるということは大切なことなのだ。しかしこの紅楼へ来る道は一つだけだし、そこへ到る裏口には三人の兵士が控えている。いつもは戦に行き、そして無事に帰ってくる屈強の男たちである。よしや国王の元へ暗殺者達が辿り着いたところで、彼らが返り討ちに遇うことはまず間違いがない。暗殺する側もそれをよく知っているのか、昔はよくそんなこともあったが、現在ではそういった事実はほとんど皆無だという。
サラ・・・
風がそよかに吹いてスキエルニエビツェの頬を撫でた。
鮮やかな紅楼の一番上の階に、梅(表白・裏蘇芳)の襲を纏った彼女の姿は楼閣と同じように鮮やかに浮き上がるだろう。
このように人目のない場所に国王と二人きりだと、よからぬ噂をたてられはしないか、スキエルニエビツェはちらりと思ったが、すぐにそれを否定した。昔一度だけそういった目に遭ったことがあるが、今回に限りそれだけはない。なぜなら国王夫妻はとても仲がよく、砂漠にありがちな一夫多妻の制度にも関わらず、自らそれを廃し、妻はタジェンナ一人のみと公の場で言い切ったくらい、国王は妃タジェンナを愛している。金色の髪はさながら砂漠の夏の輝きのように美しく、濃緑の瞳はオアシスを思わせる。愛くるしい表情と思慮に長けた優しさ、優美で雅であでやかで。二十六歳という若さだがもう既に王妃としての風格を充分身につけている。この上ないほど愛しくなってしまうほど容姿も心も美しい女性なのだ。愛さずにはいられないほどの。
国王はしばらくの間黙っていたが、やがて砂漠を見つめながら重重しく言った。
「・・・見たであろう我が弟の傍若無人ぶり・・・」
「・・・」
「我々は幼い頃から--------終始人の目にさらされながら生きてきた」
一言一句、絞りだすような国王の言葉。スキエルニエビツェはこくん、と息を飲んで次の言葉を待った。
「周囲の人間はいつもいつも我々を比較してきた。あたかもそれが価値のあることのように。私はいつも褒められる『役』、弟は落としめられる『役』を・・・演じさせられてきた
「それがどれだけ我々兄弟にとって辛いことであったか・・・私は誰にも褒められなくともよかった。弟といつも笑いあって生きてこられれば
「しかし周囲がそれを許さなかった。私は将来国王となる身 -----・・・ただその一点だけで構われていた、次代の国王という意味であって決して愛していたわけではないのは、嫌でもわかっていた
「弟はそんな中で幼少時から劣等感を植え付けられてきた。私と弟、味方はただ一人お互いだけだったのだ
「だから私たちは仲がよかった・・・父や母が私を褒め、それと比べて弟を落としめた後は必ず気まずいものが我々の間にあったが-------・・・それでも二人で遊び続けていた
「私は弟を愛しているし、弟も私を愛している」
「・・・・・・そう思いたい。そうでなければ弟は国を出、半旗を翻しているに違いないと愚かな理由で自分に言い聞かせて今日まで生きてきた」
スキエルニエビツェは重々しい空気の中でぎゅっとリュートを握り締めた。
「しかし王位継承の段となって我々はきまずい思いをし相手に遠慮しながらも愛し合う兄弟ではいられなくなった。
「王になれるかもしれないという淡い期待は弟を大いに勇気づけ、そして一気に絶望の淵へと追いやった。弟は私を愛し、しかし私ゆえに己れの永遠に解放されない苦しみを纏うことに我慢ができなくなり、離宮に移っていった
「私には彼を------・・・止めることができなかった」
兄を愛し、兄を慕い。しかしその兄ゆえに自分は価値のない人間のように扱われ、今日まで惨めな生活をしてきた。これからの自分に一体何があるというのか。
「スキエルニエビツェ」
スキエルニエビツェはハッと顔を上げた。国王は、彼女が息を飲むほど、そういくつもの数奇な運命を辿ってきた彼女が息を飲むほどに、苦く悲しい顔をしていた。
「私と弟の間を埋めるものはまるで儚く・・・・・・春の雪のように淡い・・・・・・」
その瞳-----。
同じだ、スキエルニエビツェは思った。初めての宴で見た王弟の瞳に刻まれたあの悲しく苦い光。今国王の瞳にはまったく同じ光が刻みこまれている。この二人の絆はそれほど深く、そしてそれがゆえにまた溝も深いのだ。スキエルニエビツェの胸の奥がしぼられるように苦しくなった。
「・・・何か歌ってくれ」
「はい・・・」
ホロ・・・ン・・・
花気山に満ちて 濃やかなること霧に似たり
嬌鴬幾囀 処を知らず
吾が楼 一刻値千金
春宵に在らずして春曙に在り
「・・・」
哀切な旋律にしばし沈黙していた国王であったが、やがて重すぎるほど重いその口を開くと、
「・・・・・・これからは・・・自由にこの楼閣を使ってよい」
言い置いて、静かに去った。
スキエルニエビツェはそれを見送り、楼閣の上から失意に満ちた男の背中を見続け、それが城の中に入ってしまうと、広い広い砂漠に目を馳せた。
「・・・」
森も山も、海も空もそして砂漠も・・・・なんと広大で懐が広いのだろう。どこへいっても人の卑小さを思い知らされる。
ホロン・・・
砂漠を放心して見つめたままリュートに指を沿わせたスキエルニエビツェであったが、広大な風景の前で音すらもなんだか余計な気がして、結局何もしなかった。
大臣レイトロン・エラティック。彼の名前を聞いて眉を寄せない者はいない。
まず何を考えているのだかわからない。
例えばある甲大臣を気に入らない乙大臣がいるとする。レイトロンは乙の心を敏感に読み取り、あなたも甲のことが嫌いなのでしょう、実は私もなのです、囁く。そして乙が散々甲の悪口を言ったのを聞き、今度は甲のところへ行ってこう言う、あなたも乙のことがお嫌いなので? 実は私もなのです、彼は貴方の悪口を散々言っていましたよ。そうやって大臣間の人間関係をひっかき回すのが大好きなのだ。しかしそれで彼が得をするかというと一文の得にもならない。なのに人間関係をややこしくしては、裏で密かに笑っているのだ。真に何を考えているのかわからない。狡猾で冷酷でいいところなど一つもないが、彼のことを馬鹿よばわりする人間はいない。つまりそういう男なのである。
そんな大臣レイトロンが先の宴で国王と王弟を見て何かを考えついたかのように人知れずにやりと笑った事に気が付く者は・・・いなかった。
忠誠心も道徳も倫理もかけらほども持っていない男。大臣になったのは己れの私腹を肥やすため。彼が何かを思いつき何を実行しようとしているのか・・・知る者は誰一人としていない。
あの日以来、スキエルニエビツェはよく紅楼に来ては、一人で歌うことが多くなった。
確かにここは物思いに耽るには絶好の場所だった。リュートを一度奏でようものなら、あの空に近い山の上の国のように音が雲に反射することなどなく、その代わりずっとずっ
と音が消えずに砂の地の果てまで風に乗っているのがわかるのだ。それが楽しくて、何度も何度も心まかせに爪弾いては、じっと瞳を閉じて聞き入っている。歌を歌うにもまた絶好の場所である。城にも届けば、城下に聞こえることもあるほどだ。なにしろ砂漠というのは二つと同じ光景がない。同じ場所から見ても、風景が見せる顔は千差万別。思わず歌いたくなってまうのは、楽師では当然のことともいえるだろう。
春の陽射しを受けてきらきらきらきら、金色に光る砂の丘。スキエルニエビツェは思わずため息をついた。
「・・・美しいわね」
ホロン・・・
ホロ・・・ン
春宵一刻 値千金
花に清香有り 月に陰有り
歌管楼台 声細細
鞦韆院落 夜沈沈
ホロン・・・
ロォ・・・ン・・・
静寂が広がる砂の地・・・スキエルニエビツェは、いつまでもその音色を聞いていた。
『青』--------。そう聞いて世の人々は二つの色を連想する。
一つは『青』、海の色の青。もう一つは衣装の『青』、それはまだ海の青が染め物の色として用いられていなかった頃の色、衣装での青とは緑のことを指し、衣装で海の色の青を指す場合、主に縹といっていたが、最近では「海の色の青」と言うことの方が多いらしい。
青柳(表濃青・裏紫)を纏うと、王妃タジェンナの周りの空気は一変する。表の濃青---------つまり濃い緑と同色の瞳がお互いを引き立てるかのように見え、裏の紫は金の髪を縁取るかのようにゆかしく控える。
青柳(表濃青・裏紫)の襲は王妃のためにあるかのような色だ、人々はそう噂する。ちょうど脂燭色(表紫・裏紅)の襲をあつらえたかのように着こなす、イオシス(紫紅色)の二つ名を持つあの楽師のように。
砂漠の人間はたいていが気さくである。王妃もその例には漏れず、王宮内を歩く時共の女官など連れて歩かない。危険な戦時中や公式の時は別だが、それ以外に連れて歩く必要などない、だから連れて歩かないというのが彼女のやり方だ。国王レグノテックも今のところそれを黙認してはいるが、さて彼女が懐妊でもした日には、そんな態度がどう変わるか、一度見てみたいもの。
「これはこれは義姉上」
タジェンナはぎくりとして立ち止まった。前方からの声------間違いなくライグゥアラックだ。
「・・・ご機嫌うるわしゅう、ライク殿」
膝を折って、タジェンナは義務的に挨拶した。足早に通り過ぎようとして、すれ違いざま腕を掴まれる。
「! ・・・ライク殿!」
制止の声も聞かず、王弟ライクはそのまま柱に彼女を押しつけた。
「随分とつれないですな義姉上。まがりなりにもあなたの夫の弟・・・・もう少し親しみを持っていただきたいものです」
退路を塞がれ・・・タジェンナはすぐ目の前に近付いてくるライクから顔を逸らした。
「通して下さい・・・通して」
「はて面妖な・・・それでは私があなたに意地悪をしているように聞こえる。悲しいことです義姉上」
ライクは片手をその細い顎に持っていってこちらを向かせた。濃い緑の瞳が遠慮がちな怒りの炎を燃え上がらせて非難するように自分を睨む。
「・・・離して下さい。私は王妃ですよ」
「-----悲しいことだ。貴女にそんな風に言われるとは。この心は今にも張り裂けてしまいそうだ」
スッとライクは顔を近付けた。片手はその顎に、片手は王妃の腰をがっちりと押さえ、今や王妃は絶体絶命。
「お詫びのしるしにその愛らしい唇をいただきましょうか・・・そうすれば私の悲しみも癒されるというもの」
「・・・っ・・・」
王妃は目を瞑った。逃れられない!
ポロ・・・ン・・・
その時廊下の向こうからリュートの音色が聞こえてきた。
場所からいって回廊に面した中庭だろうか。
ホロ・・・
ン・・・
ロォン・・・
「・・・」
ライクは音の聞こえてくる方に向き直り、むっ、と低く唸ったが、やがて
「・・・ふふふ」
自嘲的に笑うと、興が冷めたのだろう、王妃をするりと解放して行ってしまった。
「・・・・・・・・・」
全身を汗に濡らし、ほっとしながらその背中を見送った王妃は、
ポロ・・・ン・・・
未だリュートの音の聞こえてくる方へハッとしたように顔を向けた。
サラサラサラサラ・・・衣擦れの音もどこか焦っているかのよう。
案の定廊下が吹き抜けて回廊となり、庭に面した辺りから音は大きく聞こえてきた。
ホロン・・・
スキエルニエビツェは、回廊からちょうど茂みの陰となった、辛うじて顔だが見えるくらいの場所にいた。近付くと岩の上に座っているのがわかった。
ホロ・・・
王妃の気配を察知したのだろう、リュートの音がぴたりと止んだ。顔をタジェンナの方へ向け、にこりと笑って言う、
「お役に立ちました?」
ああやはり・・・。王妃は思った。この方は、私を助けて下さったのだ。
「・・・ええ。ライク殿は行ってしまわれましたわ」
「それはよかった・・・・言い争う声が聞こえて最初は出ていこうとしたのですが・・・お止めしたところで聞くような方ではないというのはわかっておりましたから」
「それでリュートを・・・」
スキエルニエビツェはうなづいた。自分が迫られた時も風流な言葉に対して侵入しようとはしなかった。ライクという男、乱暴に振る舞ってはいるが、結局そういう男なのだ。
惜しいこと・・・王弟でなければ、さぞかし革新的な王となっていように。
「・・・あの・・・」
王妃はおずおずと口を開いた。
「よろしければ・・・部屋で御酒でも」
スキエルニエビツェは王妃が何かを言いたげなのに鋭く気付いて・・・にこりと笑って言った。
「喜んで」
酒といってもそれは桜の蕾を砂糖漬けにしたものを浮かべた酒で、ほんのりと甘い味と桜の香りの素晴らしい、スキエルニエビツェが初めて飲む酒だった。
「諸国を旅していますが・・・」
杯を卓上に置きながらスキエルニエビツェは言った。
「こんなお酒は初めてですわ。桜の香りがとってもいい香り」
「そう言っていただけると嬉しいわ。この辺に桜は咲きませんが戦で解放した国が毎年献上してくれるのです」
「まあそれで・・・」
サワ・・・
風がそよと吹いた。二人の間に一瞬沈黙が流れる。
「イオシス殿・・・」
サアアァァァァ・・・
風が渡る。
「はい」
「・・・・・・陛下とライク殿は・・・それは仲のよろしい兄弟でした」
「そのようですね。そう聞いております」
「ライク殿は素晴らしい才能をお持ちです。他国に王として望まれても他の方では成しえない功績を残されることでしょう。そういう方です」
「・・・」
「あの方は人に褒められた経験をお持ちではありません。どんなに頑張っても、個人の努力など無視され兄上と比べられ、比べられては落としめられ、劣等感を植え付けられてきた・・・・あの方の心はひどく悲しそうです。痛いほどに悲しい。それにご自分で気付いておられない。まるで子供のように・・・自分の居場所を探して傷ついている」
「--------」
「陛下もお心を痛めておいでです。あれだけお互いを大切にしていたご兄弟が王位を溝に仲違いするというのは痛ましいことです。陛下はライク殿が荒れるお気持ちがよくおわかりなのでどんなに暴挙に出ても咎めることができない。それは御自分の責任だと思ってらっしゃるから・・・それでもいつライク殿が過ぎた行動に出るかわかりません。その時陛下はどうなさるおつもりなのか―-------・・・私には恐ろしいのです。その時はいつか来る。必ず来る-----・・・・・・そしてそれは、・・・そんなに遠い日のことではないのです」
サアアア・・・
簾を巻き上げるようにして風が吹いた。
庭へ向けた王妃のそのまなざし----------。
美しい緑が光に反射する様を怯む様子なく見つめるその瞳の強さ、無垢な光に、とうとうスキエルニエビツェは、何も言うことができなかった。
将軍オライオスは一風変わった男である。
ものにこだわずものにとらわれない。責任感は人一倍なのに愛敬があって人なつこくて兵士の多くは彼の元で働きたいという願望ゆえに入隊した。剣の腕は誰にも引けをとらずまた戦場では両手を放しても馬を自由に御することができるため、戦での彼の行動範囲は広い。国王が本気で馬に乗ったら、ついていけるのは彼くらいなものだろう。
誰にでも厳しいほど公平で、決して甘えを許さない態度はまた彼を愛敬だけの軽薄な人間ではないという評判をもたらしている。例え自分の隊の兵士と他隊の兵士がいざこざを起こして、自分の兵士が悪かったとしても、庇おうとはせず悪いものは悪いと罰を与える。であるから、裁判の場面で何が公平で何が不公平なのか、何が正しくて何がそうでないのかわからなくなってしまったり、非常に状況が微妙で裁きをしにくい場合に、オライオスが意見番として召喚されるのも、決して不思議なことではなかった。
一年の半分を戦に費やして過ごしている彼がいつも機嫌よく振る舞えるのは、それが元々の性格というのもあるが、帰国してからゆっくりと自分の時間を楽しむことにある。そしてそれらの多くは女たちと過ごすことに遣われる。何も夜に会っていきなり肌を交わすというのではない、たいていは気の置けない、気心の知れた女たちと酒を飲んだり、茶に呼ばれたり、話をするだけという事も多々ある。たまには馬に乗り近くの緑洲まで相手を連れていってやることもある。要するにそうすることで彼は長い間続いた緊張、限界まで伸ばされた全身と全神経の緊張をときほぐすために彼女たちとの時間を過ごしているというわけだ。これは最も賢く最も能率的で最も心楽しい方法だろう。女はそこにいるだけで心が休まる。オライオスはそれを動物的な本能で知っているのだ。無論それぞれ雰囲気の違う女たちがいる。火のように熱く激しい女は自立心が強くここぞという時に力づけてくれる。自分に甘えてくる女は疲れている時には困りものだが、そうでないときは自信をつけてくれる。物静かだが絶対に文句を言わずにいつもわずかな笑みをたたえているような女は、逆に疲れている自分をいつでも受け入れただの人間に戻してくれる存在だ。オライオスはいつも大勢の女たちに助けられてきた。彼女たちは心の活性剤であり代えがたい大切な友達であった。いつも突然やってきてはきまぐれに帰っていってしまう彼を、彼女たちは夫でも迎えるかのような優しさと愛情で迎え入れてくれた。
そして初夏の六月-----・・・彼はいつもより短い休暇を経てまた戦に行こうとしている。いつもは秋から冬にかけてだというのに、また随分と早い出陣だ。夏の砂漠で行軍するのは馬上でも辛い。歩兵たちの気持ちを考え、早速頭の中で行路と休憩との割合を計算し始めているオライオスであった。
今回は生きて帰れるかな。ちらりと心の中で思う。毎度毎度の戦でこんなことを考えては、必ず生き残って帰ってくる自分は相当強い星の元に生まれたのだろう。
ふと、風に乗って耳慣れない優雅な音がわずかに届いた。何かと思って顔を向けると、既に城壁を後にして一番近い砂丘に差し掛った彼の目に、紅楼にたたずむ一人の人影が見えた。評判は聞いている。戦士は目が良くなくてはならない。オライオスは紅楼の人物に手を振って、行くべき方向に馬首を向けた。
ホロ・・・ン・・・・・・
宝婪 珠珮揺り
常娥 玉輪を照らす
雲は帰る天井の匹
功は遺る世間の人
花果は千戸に香く
笙竿は四鄰に濫る
明朝 犢鼻を晒さば
方に信ぜん阮家の貧しさを
「・・・・・・」
自分に対する贈り歌なのか、それとも単に紅楼で歌いたかったのか・・・それはよくわ からない。しかしオライオスは思った、
この歌を最後にするような真似はすまいと。
夏の行軍は厳しい。彼らは兵士であって、だからこそ戦争に行くのであり、戦争に行くには最低でも鎧と剣を装備していなければならない。その他食料は別として、砂漠での行軍に水の携帯は不可欠だ。オライオスは馬上だからまだいいとして、予想どおり歩兵たちは鎧と剣、そして己れの重さに汗し、水を飲みたい衝動をぐっとこらえ、うつろな瞳で足元を見ながらひたすら歩いている。これは、現地に到着するまで自分を含め相当消耗するだろう、オライオスは思った。
今回の戦も解放が目当てのものである。隣国に長年に渡って占領を続けてきた国に対する宣戦布告だが、占領されている隣国を解放するのと、占領している国側の本国を一度に攻めなければならないので非常に難しい。今回の解放は葵剣が自ら動いたのではなく、解放する国、亀玉からの依頼で決定したことだ。亀玉の国王が再三に渡って葵剣に相談を続け、いよいよもって亀玉の国民が奴隷と同じような扱いをされ始めたことに対して危機感を抱いた国王が極秘に鴉を送ってよこしたのだ。緊急に戦争が決まったのもこのためである。
オライオスは今回の戦がいかに神経をつかうものかをよくわかっていた。自分たちは本国に行くのではなく、解放する立場にいる。ということは、殺す相手とそうでない相手がいることになり、がむしゃらに相手を倒せばいいというわけにはいかなくなるということだ。また相手に早期に気付かれた場合は、人質をとられる危険が多分にある。国民を奴隷扱いし始めているというのだから、亀玉の人間をどれだけ殺そうと構わないくらいのことは思っていると看た方がいい。戦争で神経をつかうというのが一番大変だということを、オライオスは知っている。ここは少々時間がかかろうとも慌てず急がず行軍し、兵士たちを疲れていない状態で戦わせるのがよい、彼はそう判断していた。
慣れない夏の砂漠の行軍であるし、先の戦から三ヵ月ほどしか経っていない。充分な休養をしていない兵士がほとんどのはずだ。何事も相手の立場になって考える、それがオライオスがいつも注意して心がけていることだ。特に自分は将軍という強い立場にいて自由がききやすく、そうでない相手の立場がわかりにくい。自分が一兵士だった時のことを思い出して、そして相手の立場になってオライオスは考える。
結局側近ともよく話し合った結果、通常の三倍の数の休憩をこなすことによって、オライオスは兵士たちの肉体的精神的安定を気遣った。そのため行軍は遅々として進まず、六月に葵剣を出発して亀玉に到着したのは八月の終わり頃であった。しかしその頃になると兵士たちもいい加減環境に慣れ、また場所的にも亀玉というのは涼しい地域なので、そう苦労はなかった。
突然乗り込むのではなく、気付かれない程度の充分な距離をおいて野営を張る。そして約一週間兵士達を本格的に休ませ、鋭気を養わせた。その間将軍オライオスと側近たちは作戦をたて、亀玉の国王に内密に書簡を送り、事態に充分に対応できるよう求めた。彼らを解放にきて、肝心の彼らを人質にとられてしまったりしてはそれこそ何の意味もない。
慎重に、そして決して敵に悟られないよう、じわりじわりと砂が一滴の水を吸うかのように、国民にそのことが伝えられた。そしてまもなく、国王からの準備ができたという書簡が戻ってきたのは、彼らが野営を始めて一ヵ月経った頃であった。国王は意図して敵を宴に招待し、すべて出払わせる算段だという。城に入ることのできる上級兵から、城下の警備をしている下級兵まで、酒は充分すぎるほど配られていった。民たちは夜半過ぎになって既に地下に潜り固く扉を閉ざした。砂漠では、砂嵐に対応するためどの国のどの家にも必ず地下室が設けられている。夜中になり、月が空の真ん中に達した頃、城からの合図を受けてオライオス率いる葵剣解放軍が動き始めた。悟られぬようゆっくり、じわりじわりと進んでいき、円形に城壁を囲んで蜘蛛のごとく密やかに進んだ。
「合図を」
低い将軍の声に応じ、側にいた部下がうなづいて角笛を吹いた。
茫洋とした音色が一度だけ流れると、兵士たちは一斉に雄叫びに近いものを挙げて抜刀し一気に亀玉を目指した。日頃なら気付いたはずであったろうが、城壁のすぐ側まで近付いてからの攻撃であったことに加え、相手が泥酔してほとんどが眠っていたというのが最大の強みであった。 そのくせ、城にいる上層部の人間に気付かれぬように敏速に城に乗り込まなくては、人質をとられる危険がある。世の中には少々の酒でつぶれない人間も大勢いるからだ。
いつものことだが―――――血煙の中喉を枯らして怒鳴り続け、襲いかかってくる敵を蹴散らし、微かに煙る視界の中オライオスは思う―――――なんと殺伐として心荒む風景だろう。こうして怒鳴り剣を振るいその度に返り血を浴びる自分は、まるで自分ではないようだ。本当の自分がすぐ側にいて、戦う自分を客観視しているような奇妙な感覚。
「オライオス将軍―――!」
側近が叫んだ。頭をめぐらせると、彼が示した方向、城からは狼煙が上がっていた。
合図の狼煙。味方の軍が内部の敵を制圧したという合図だ。オライオスはほっとして剣についた血糊を払い、残る敵兵を一人残らず始末するよう味方の兵士たちに叫んだ。
結局、その後の累々たる死体の後始末や住民の安全指示、国王との話し合いなどで足止めをくらい、オライオスが葵剣に帰国したのは十月に入ってからだった。戦をするのが仕事のようなものだから文句を言うつもりはないのだが、今回の戦は厳しかった。前の戦からそう休んでもいなかったし、夏の行軍は思っていたよりも肉体を酷使した。オライオスは貪るようにして眠り、起きて腹が減っては少々の食事をし、また死んだように眠った。夜中に目覚めればぼうっと夜の砂漠を見つめ、食べては眠り、起きればしばらく放心したように空を眺めたり街並みを見たりした。そしてまた眠り、起きて腹が減っていれば何かを食べた。
日々は、金魚鉢の中から向こう側を見ているかのようにゆらゆらと、現実味を欠いて過ぎていった。なるほど蔦でからめとるような作戦であった。
--------蔦か。
蔦と言えば、出征先で葛の花を見たことがある。その枝の這う姿は、大木に絡み絡まりついて、とうとう日陰になるほどの勢いであった。花は、細長い赤と紫。なんと美しい花であったか。
帰国して三週間程はそんな怠惰な生活をしていたオライオスだったが、しばらくして身体が充分休まるとある女に会いたくなった。
側にいるだけで心の休まる女。彼女は城下の郊外、比較的緑の多い地区に一人住まいをしている。もういい加減誰かと結婚してもいいものなのに、未だ誰ともそういった関係になるつもりはないらしい。夕方、彼女の好きな紅茶を持って訪ねて行くと、ちょうど夕日で茜色に染まった簾をおろしているところだった。
「まあお珍しいこと・・・今回の戦はご活躍だったそうですわね」
「まあな。入っていいか?」
「もちろんですわ」
導かれて中に入り、途端に漂うほのかな香の香り。この女はいつも趣味がいい。紅茶を渡すと嬉しそうに笑って受け取った。
「あら嬉しい。早速淹れましょう」
羽毛を詰めたクッションを籐のゆったりとした長椅子の上に置くと、なんとも気持ちのいい簡易寝台となる。オライオスは訪れる度この長椅子にいつも座っては、旅と戦争のどろどろとした疲れを落とす。彼女の淹れた紅茶を飲み、ほのかな香の香りに包まれ、彼女に寄り掛かり、ようやくオライオスの全身を覆っていた殺気と緊張の皮がほろほろと剥がれだす。疲れが出てきて、オライオスは横になった。枕は女の膝、これ以上ないほどの極上の枕である。髪を撫でる柔らかな手。そこから疲れが溶け出ていってしまうようだ。
「随分とお疲れですわね」
「ああ・・・今回はきつかった。真夏の砂漠で行軍など初めてだったよ」
「来て下さるのは嬉しいけれど他にお目当ての方がいるのではなくて?」
柔らかな笑みを浮かべながら彼女は言う。
「例えば時々紅楼に上がっては素晴らしい喉を聞かせてくださる楽師様とか」
「なんだ知っているのか」
「小耳に挟みましたわ」
「俺はいいんだ。お前のほうこそどうなんだ」
「どう・・・とは?」
わかっていて聞いているのだろう、彼女はからかうような、それでいて穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「いい加減に誰かと結婚したらどうだ。せっかくの美人がもったいないぞ」
「まあ、あなたに言って頂くなんて女冥利につきますわ」
「ふざけてる場合じゃないぞ」
「でもわたくしが結婚してしまったらあなた様をこうして時々お迎えすることができなくなりますわよ。それでもよろしいの? わたくしの代わりなんていくらでもいるでしょうけれど」
「そんなことはない。お前はお前、たった一人だ。お前の所にこうして来ないで別の女の所に行くのに、どうしてお前と同じような女に会いに行かなくてはならんのだ。お前のような安らぐ女はお前一人だけだ」
「嬉しいこと・・・」
団扇でゆったりと風を送りながら彼女は小さく呟く。オライオスはいつのまにか眠りに落ちている。ゆったりと立ち上がり、灯りを落とし、彼女は自分の寝室で眠る。この女とオライオスは寝たことがない。オライオスは心の休憩をとらせてくれる女と関係を持つ女とをはっきり区別している。
三日ほど彼女の家でゆっくりと過ごし、オライオスは城に戻った。あの、泥のような疲労感と重い心は、すっかりとなくなっていた。
自室から城下を見下ろし、つい午前まで自分のいた辺りの緑を見ながらオライオスは思った、
もしかしたら、自分のあんな言葉が彼女たちを独り身でいさせているのかもしれない。
しかしそう思って彼は自嘲するように口元を歪めた。
----------言い過ぎか。
彼女たちは誰かに縛られるのが嫌なだけ。自分の好きな時に好きなことをし、夏の午後の風のような涼しくて気持ちのいい生き方をしたいだけ。自分の為に結婚しないなどと、いくらなんでもそこまで考えるのはおこがましいというものだろう。
オライオスは声なく笑って、そして正装用の旗袍を取り出した。
今日は兵士を労うための戦勝を祝う宴なのだ。
そうその裏側に潜む恐ろしい陰謀も知らず・・・今夜王城に人が集まろうとしている。
あちらこちらで人が笑う声。がやがやと話す声。そして時折それらを風のように片付けてしまう、リュートの音色。その音を聞いてオライオスは思う、あの美声を再び耳にすることができるのは、あの美声のおかげなのかもしれないと。
広間のあまりの熱気にオライオスはいささか辟易して、杯を持ったままバルコニーに出た。涼しい夜の空気と穏やかに流れてくるリュートの音色。彼は手摺りによりかかってほ
っと息をついた。どこかできな臭いにおいがしたが、誰かが火でも焚いているのだろう。
秋も近い。すっかり高くなっている故郷の空を見て、オライオスは次の戦までなるべく休んでやる、と半ば意地になって考えていた。疲れも緊張もあらかたとれ、もういつもと同じ普通の状態に戻ってはいるが、今は・・・休みたい。人を殺し血を浴びたことの正当性は、誰かを救い解放するからという理由では得られない。誰も、人を殺して正統な理由など与えられようはずがないのだ。オライオスがほっとため息をついた時、遠慮がちに後ろから声をかけてくる者がいた。
「閣下」
振り向くと見覚えのある部下がいた。
「おう、どうした。楽しんでるか」
「はい。いえ、それはそれとして・・・」
オライオスに一瞬緊張が疾る。部下の顔色はよくない。宴で、楽しくて、酒も飲んでいるはずなのに。
「なにかあったのか」
「こちらへ」
部下はオライオスをバルコニーの隅、人目に届かない場所まで引っ張ってきた。
「どうした」
「こんなものが・・・」
部下はそっと懐から何かを取り出した。小さな四角形の箱で、金属のようなものでできている。掌にちょっと余るくらいだが、割に重いようだ。
「? なんだ」
部下は真っ青な顔でその蓋を開けた。中には、簡単な配線と、中心に黒い粉がびっしりと詰まっている小さな区切り、配線はその黒い粉の周りの金属の区切りに集中している。
「! これは」
「ご安心を。配線は全て切断しました。安全です」
「・・・火薬だぞ。安全だと?」
「水をかけました」
オライオスはほっと息をついた。汗をびっしょりとかいている。
「脅かすな」
「まだ終わりではないのです閣下」
「何・・・」
「部下とこれを見つけたのは広間に通ずる廊下です。一番回廊の奥の・・・。慌てて処理しましたがあちこちに置かれているのです。あちこちがきな臭い匂いはそのせいです」
「さっきのあれか・・・! いくつ処理した」
「今のところは七つですが幾つ仕掛けられているかわからない上、宮殿のいたる所に仕掛けられていて見当もつきません。私では手に負えないと思い閣下にご指示を」
「いい判断だ。よし、俺も出よう。他の兵士にも声をかけてくれ。が、気を付けろ。任務明けで疲れている者、既に褒賞のある者はゆっくりと宴を楽しませてやれ。兵士全員が出ていっては出席者が訝しむ。陛下には俺からお伝えするが、出席者やご婦人方に危害が及ばないよう細心の注意を払え」
「はっ!」
「よし、行け」
オライオスは部下を行かせてから自分は威儀を正して国王の元へ向かった。目立たぬよう、誰の視線にもなるべく触れぬよう。
「おおオライオスか。今回は済まなかった。休暇を含め今日は楽しんでほしい」
「陛下、お話が」
低い声で言ったオライオスのただならぬ表情にいち早く気が付いたのだろう、国王はちらりと王妃の方を見てそれから身を乗り出した。
「何かあったのかね」
「ありました。先程部下が回廊の奥の廊下で火薬の入った箱とそれに繋がれた配線の火を見たそうです。それは始末し直ちに宮殿内の探索をさせておりますが数は無数です」
「・・・避難したほうがいいか。いや、するべきだな」
「お言葉ですが今宵は戦勝の宴。出席した方々に陛下の面目が保たれない上、・・・」
オライオスは口を噤んで視線を左右に泳がせた。
「----------オライオス。構わぬ、言いなさい」
「------畏れながら・・・・・王弟殿下に、つけいる隙を与えてしまうやもわかりません」
叱責を覚悟でオライオスは目を瞑り言った。怒鳴られる、そう思って身を固くしたが、一瞬の重い沈黙があるのみで国王は何も言わなかった。オライオスは顔を上げた。
「・・・・・・わかった。それでは頼む。くれぐれも他の兵士に気を付けるようにと伝えてほしい。そしてオライオス、そなたもだ」
「は・・・それでは」
二人はうなづきあい、オライオスはサッとその場から去った。
誰も彼が広間からいなくなったことに気が付かなかった。
「くそっ誰だこんなことしやがったのは」
忌ま忌ましげに言いながら、オライオスは短剣を引き抜いた。目の前には長く引かれた導火線があって、その先には先程と同じ金属の箱、導火線には火が点けられていて、シュシュシュシュ、という音で彼を焦らせ、物凄い速さで箱を目指している。オライオスは箱から程遠い場所で短剣を導火線に突き立て道を断った。それと同時に部下が箱の中の火薬に溢れるほどの水を注ぐ。
「今ので幾つめだ」
「二十七個です」
オライオスは短剣を仕舞い、立ち上がりながら舌打ちをした。
「ちっ・・・一体いくつ仕掛けたんだ。一個でも爆発すれば大変なことになるぞ。おい、地図だ」
オライオスは宮殿の縮図を部下に広げさせた。
「こことここと始末してこっちは別隊が行ったからいいとして」
「将軍こっちにもあります!」
「こちらにも二つあります!」
「二人一組でやれ! まさか俺の下にいてそんなこともできないなんて言う奴はいないだろうな」
オライオスは命令を与えてから地図を見つつ側近を探した。側近もまた汗みずくになってあちこちの火薬を処理していた。
「閣下」
「いくつあった?」
「三十ほども・・・・」
「場所を示してくれ。大体の規則が見えてきそうだ」
「はい。第二回廊脇、第二回廊中庭先、南の凰回廊に三個、北階段四つ、北回廊碧の通路と青の通りにそれぞれ五つ・・・」
側近が次々に言う場所をオライオスは爪で印をつけていき、その内あることに気が付いた。
「なんだこりゃ・・・広間を取り囲むようにして仕掛けられてるじゃねえか」
「とするとほとんど除去したことになりますね」
「もう一度点検しないとな。この規則性が間違いだったらコトだ」
「はっ」
オライオスは騒ぎにらならないよう細心の注意を払いながら、しかし敏速に行動した。
使った人数が多かったからよかったものの、そうでなかったら今頃はどうなっていたかもよくわからない。とにかく一時間ほどもして、時間差で点されていた導火線の火も全て消し、オライオスがホッと一息ついた頃だった。
「うん?」
彼は地図の道の中で、気が付かないほど細い道を発見した。広間のすぐ側である。
「おいこれは?」
側近に聞くと、しばらくわからなそうな顔をしていたが、やがて、
「ああ、確か昔王族の方が広間に入るのに使っていた道だそうです。今はほとんど使われていません」
「ここから発見したか」
「いいえ」
「・・・・・・」
オライオスの沈黙に側近もようやく気が付いたようだ。
「!」
「参ったな・・・!」
バタバタバタ・・・二、三人が慌ただしく走る音が回廊に響いた。
その時スキエルニエビツェは、王妃に教わった小さな廊下から自分の部屋に帰るところだった。今の王の先々代くらい前までは使っていたそうだが、あまりにも細く、王の両脇に護衛がつくことができるのはいいとして、抜刀できないほど狭いので、危険だからという理由で最近は使われていない。人目を忍んで退室するのには絶好だと考え、スキエルニエビツェはそこから帰ることにしたのだ。
「?」
なにかきな臭いな、と思ったが、気のせいだろうと思った。宴の後というのは、広間の食事や熱気、酒の匂いなどが充満しているせいか嗅覚が狂う。これもきっと気のせいだろう。シュシュシュ、という早い音がした。空耳だろうか。それにしては随分と長くはっきりと聞こえる。自分の衣擦れの音だろうか。立ち止まってみる。
しゅる、しゅる、しゅる。
変だ。さっきよりはっきりと聞こえる。空耳ではない、なにかある。スキエルニエビツェは道からそれて柱の方を見てみた。もっと先にあるようだ。暗がりを行くと、小さな火花がちりちりと奔っているのが見える。音の正体はこれだ。その先に何か光るものがあるので、何かと思って屈んで見ると、小さな金属の箱だった。
「?」
そっと開けて見て仰天した。この黒い粉が火薬だということくらいはわかる。
シュルシュルシュル・・・・。導火線の火がこちらへ迫ってくる。
「あら・・・」
スキエルニエビツェは周りを見た。何もない。
「困ったわね・・・」
さして困ってもいないように、彼女は呟いた。
「急げ! 時間差で言えばまだ間に合うかもしれん」
オライオスは叫んだ。
オライオスは目指す小さな通路に辿りついてきな臭いのに気付き焦った。柱の影に決まっている、誰があんなものを見つけやすい場所に置くものか。
「あったぞ」
呟いたオライオスだったが、思わず目を凝らした。
「? ・・・」
導火線の真ん中辺りで、導火線は切られていた。近付いてみると、短剣でもなく仕掛け針でもなく、それは平打ち簪だった。
「閣下・・・? ―――――それは・・・」
ざっくりと突き刺さった簪。これが導火線の火を食い止めたことは子供でもわかる。
「・・・・一体誰が・・・・・」
呟く側近の声を聞きながら、しかしオライオスは簪を見て思った。
この簪・・・見覚えがある。
窓から庭を見ると、誰かの笑い声が聞こえてくる。宴はまだやっているようだが、自分が退室してそんなに時間が経っていないのは、月の位置を見ても明らかだった。髪を梳かし終わり、鏡の前でふう、とため息をつくと、スキエルニエビツェは月明かりと側の燭台の灯りだけに照らされた部屋を見た。蒼い光が秋の訪れを告げているかのようだ。砂漠だから庭の緑は大したこともなかろうと思っていたが、案外砂漠の街というのはどこも緑が多いようだ。その代わり街でない場所には本当に砂しかないのだが。鏡台の前でもう一度
ため息をついたのは疲れからではない。暑い暑いと思っていた砂漠の秋の訪れ方に感心してのため息なのだ。部屋に戻ってまず最初に普段用の襲に着替えたし、後は湯を浴びるくらいかとスキエルニエビツェが考えていた時だ。
誰かが部屋の扉を静かにノックした。
「・・・・・・」
スキエルニエビツェは一瞬考え、それからすぐにはい、と答えて扉を開けた。
「-----------」
そこにはオライオス将軍がいた。背の高い将軍が扉の外にいるとは知らず、彼の首が目の前に突然現われて少々面食らったスキエルニエビツェであったが、顔を上げてすぐに彼だとわかり、笑顔になって言った。
「ご機嫌よう。何か?」
珍しく固い顔をしていた将軍がサッと手を差し出した。そこには簪が握られていた。
「---------」
「これはお前のだろう」
「・・・そうよ」
「やっぱりな・・・じゃああれはお前が」
「助けを呼ぶには知られていなさすぎた廊下だったし、騒いでも陛下の面目がたたないかと思って。大丈夫だったかしら」
「だから今俺が生きてる」
ふふ、とスキエルニエビツェは笑った。その笑顔を眩しそうに見て、オライオスは簪を差し出した。
「とにかく助かった。これは返すよ」
受け取り、スキエルニエビツェも、
「ありがと。この簪はお気に入りなの」
と言った。
「それにしてもよく私のだってわかったわね」
「好きな女が見につけてたものは覚えてるさ」
そういえば彼と初めて話した日に指していた簪はこれだった。スキエルニエビツェは苦笑して、もう一度礼を言った。
「お礼にお茶でも、はないのか?」
「二回も言ったしそんな時間じゃないわ」
「不粋だなあ。襲うとでも思ったのか」
廊下で微かに身じろぎする気配があった。鋭く気が付いてスキエルニエビツェは、にっこりと笑って言う、
「部下の方もご一緒にお茶を飲むのに?」
オライオスは一瞬自分の脇を見たが、唇を尖らせて答えた。
「ちぇっばれたか・・・まあいいや、またな。本当に助かったよ」
くすくすと笑いながらスキエルニエビツェは扉を閉めた。閉めようとした。お、という声がして、
「?」
と思っていたら、
「お前は葛の花だ」
と扉を押さえて男は言った。
「え・・・? 葛・・・」
「紫紅色。おれの知っている紫と紅色の花だ。葛の花」
「------------」
じゃあな、と男は言った。その顔は、とても得意げであった。なにかを成し遂げた子供のようであった。
スキエルニエビツェは今度は、ちょっと呆気に取られてその背中を見送った。こんな男は初めてであった。
スキエルニエビツェは簪を引き出しにしまい、バルコニーに出て大きく息を吸った。
もう秋の匂いがした。
ライグゥアラック・ザファイオン。不運の男。
その人生の多くは不遇に満ちている。と言っても彼は何の才能にも恵まれなかったわけではない。むしろその逆だ。豪快な剣の技は既に十五歳で完成し当時の将軍たちですら手合せを嫌がったほどだ。砂の上でも埃の立たない見事な乗馬術、色に対する感覚が鋭く、冬の歌合わせの会の際自分の女官に紫・紅、縹(青)・青(緑)、山吹・紫のそれぞれ三種類の襲を纏わせ、雪の上を歩かせた時の美しさは、今だもってして語り継がれている。
豪快で大胆なのに雅を愛し、出掛けようとしてふと窓を見た時、かさりと葉が一枚落ちたのを見て、落葉に行くなと言われたので出掛けるのは取りやめにすると言ったこともあるという。空色の瞳は知性と勇気とに溢れ、幾つになってもじっとしているのが嫌とでも言いたげな熱いものに包まれている。少年のような無邪気さと紳士のような優雅さを備えた物腰は、女たちを魅了しつづけてやまない。
それでも、ライクの人生は不遇に満ちていた。
小さい頃から何をやっても褒められた記憶というものがなかった。
砂漠の教育というのは他国とは少し違っていて、王族の子供も他の一般の子供と共に教育を受ける。厳しい環境の元での協調性を幼少時より育てるためだ。
父親は立派な人だった。公平で、誰からも尊敬され、勇ましい父親だった。男の子ならそんな父親に褒められたいと思うのはごく当然のことだろう。ライクはいつも、なにをやっても一番だった。どんな作品を造るのだって彼の年齢にそぐわぬ精巧さと緻密さは群を抜いていた。それでも彼は、父に褒めてもらったことなどなかった。
「父上、見て下さい学年で一番だったんです僕の彫刻」
しかし父は答える、お前の兄は学年で一番だったぞ、同じ一番でも歳が上なだけ兄のほが大変だった。レグノテックは本当によくやった。
それだけである。兄の引き立て役で終わってしまった瞬間。年齢が違うのだから比べても意味のないという矛盾、歳が上なだけ一番も難しいという訳のわからない理由。ライクの不満は毎日毎日降り積もっていた。母にしても同じだった。
ライク、どうしてあなたはそんなに落ち着きがないの、兄上を少しは見習いなさい。ライク、どうして兄上みたいにしないの、兄上はあんなにできるのに。ああもうあなたを見ていると苛々するわ、少しは兄上みたいに心を落ち着かせてちょうだい。
そしてしまいにはこう言う、
まあいいわ、将来王になるのはあなたではないのだから。
彼の幼少時代がいかに不幸かは両親の態度を見ていれば一目瞭然だ。子供というのは無条件の愛情を与えてくれる親に認められてこそ他人に認められる自分に納得がいく。そうでないと、親にも愛されず認められていないような自分などを認めるのは、同情しているだけに違いないと思ってしまう。憐愍だと。本当は認めてはいないのに可哀相だからそう言っているのだ。そう思い込んでしまう。
ライクもそうだった。なぜだろう。どうして自分は親に愛してもらえないのか。その理由は長い間わからなかった。あれだけ兄と比べられ、落としめられる対象とされているのに、彼がそんなにも長い間気が付かなかったのには理由がある。
兄弟の仲がとても良かったからだ。理想を絵に描いたような仲の良い兄弟だった。一緒にいない時などなく、片方が笑えば片方が幸福に、片方が泣けば片方が悲しみ、そして悲しませた相手に怒りを感じる。いつもいたわり合い、支え合ってきた。だからライクは、自分が愛されない理由が兄にあるということになかなか気が付かなかった。気が付いても、心は曇ったように鉛色で、相変わらず重苦しいことに変わりはなかった。兄が愛されるのは当たり前だったから。兄ほど素晴らしい人間はいないと掛け値なしで思えたから。
そして、そんな兄がいたとしても、もう片方の弟に愛情を注がないのは、兄が悪いのではなく親の方がおかしいのだということに、賢いライクは気が付いていた。だから兄を憎むなどできなかった。しなかった。兄をこよなく尊敬し、また愛してもいたから。兄はいつも落としめられる自分を気遣い、そんなことはないよ、お前は凄いよと心の底から言ってくれた。それだけが彼の救いだったといっても過言ではなかった。
心寒い幼少時代・・・。間もなく青年期を迎えた二人の周囲には、二人の意志に関係なく二人を対立させようという人間が多く群がっており、二人は否応なくその渦に巻き込まれたこともあったが、それでも相手を信用し、愚かな真似だけはすることがなかった。互いに賢いゆえの平和であった。
しかしなにをやっても、言うなればいくら努力をしても報われないという燻った煙は確実にライクの心を荒ませてもいた。本能のように植え付けられた劣等感。兄を愛しながらも、その兄を疎ましく思う自分が確実に存在する。やりきれなかった。ライクの不幸は、人よりもあらゆる面で抜きんでた才能を持っているということだった。これでまったくできない人間ならば諦めもつくし、兄の片腕に撤しようとも思うだろう。しかしライクは非常に優れた才能を持つ男である。たまたま、そうたまたま偶然に、それ以上に才能ある兄を持ってしまったというのが彼の不幸なのだ。いや、そんなことは彼の不幸ではなかったのかもしれない、兄弟で稀有な才能を持つことはむしろ幸せなことだ。彼の真の不幸は愚かな両親を持ったことに他ならない。殲滅寸前の部隊を救援に行って見事勝利しても、よくやったの一言もない、そんな親と名乗る権利すらないような者たちの息子として生まれてしまったことに彼の不幸があるのだ。父が死に、続いて母が死んだ時、はっきり言ってほっとしたのを記憶している。やっと解放されたのだ、と。自分を認めないような愚直な親をさっさと捨て、認めたくなければ認めなくてもいい、自分の価値は自分で知っていると思う事が出来ればよかったものの、いつまでも認められたい、そんな親が死んで解放されたと思っている彼は、実は今だ親に呪縛されているという事に、一向に気が付いていなかった。
兄のレグノテックと弟のライグゥアラック。
どちらを王位に即けるかで両方の支持者が揉めたことがあった。愚かな支持者たちはライクを利用することで自分たちがより利益をもたらされるようはからいたかっただけだった。しかしライクはそれに一縷の希望を見い出した。
国王。葵剣の国王ライク。
なんと甘美な響きなのだろう。今まで欝屈してきた気持ちが初めて晴れ、救われたような思いがした。自分の実力を発揮し、人々に慕われ、愛されたい。そう、今まで何をやっても一向に認められなかった自分の実力、他人より優れていて恵まれているはずの自分の燻っていた実力を、国のために生かしたい。初めて自分の才能を生かすことができるかもしれない。ぜひやりたい。ライクは張り切った。王位継承権の優位など、とっくに頭から消え去ってしまっていた。賢いライクの目を濁らせるほど、彼は今まであまりにも恵まれなさすぎたのだ。
しかし運命はまたも彼を裏切った。どうやら兄に優位な方向で話が進み始めた頃、ライクはたまらず兄の元を訪れた。変わらず賢く、変わらず愛する兄。
「兄上・・・俺は王になりたい。王になって自分の実力を生かしたいんだ」
兄はしばらく答えなかった。まだ目の醒めないライクは、兄が承知してくれるものだとばかり思っていた。今までライクの頼みはなんでも聞いてくれ、そして自分のせいでこんな扱いを受けるライクを、なにより気遣っていた兄だから。
しかし兄は、見たこともないほど苦渋に満ちた顔で答えた。
「ライク・・・・・・それはできない」
目の前が真っ暗になった瞬間だった。平衡感覚が失われ、床が突然口を開いて底無しの闇へ落ちていくような感覚に襲われた。
「兄上・・・」
「・・・・・済まない。お前が王になれば素晴らしい王になると思う。しかし長兄で継承権一位の私が何の理由もなく王位を捨てれば周囲が黙ってはいないのだ。ライク、私は王にふさわしくないと思うか?」
「そんな! 兄上は国王になるために生まれてきたような人だ」
兄は苦笑する。いつも謙虚で・・・できるなら王位を弟に譲ってやりたいとまで考える優しく才能溢れる兄。
「私がせめてうだつの上がらないだめな男なら。普通以下のどうしようもない男ならお前にそれをすることも可能だったのに・・・済まない。私は天才でもないかわりにどうしようもない男でもない・・・ライク・・・私を押し退けて王になり、私の支持者を従えることはできるだろうか。立場が逆として、私がお前に王位を譲ってもらったとしても私にはそれは無理だ。それほど彼らの影響力は強い・・・下手をすれば・・・内乱になるだろう」
「!―――――」
そんなこと・・・考えもしなかった。だがそうだ。
内乱の起きた国の内情の惨めさは、千の書物をもってしても語り切れない。民は飢え、疲れ果て、絶望する。そくんな国に決してしてはならない。本を読みながら、少年であった頃のライクは唇をかみしめてそう痛感した。
ライクはどれだけ自分がのぼせていたかを思い知った。全身が熱くなり、それによって恥を感じることでますます痛感した。
利用されていた・・・。
自分はどうしていつまでたってもこうなのだ。
ライクは王宮を離れ、離宮に移り住んだ。兄に会うのは年に一、二度がいいところ。燻り続けて黒い煙を上げた心は次第に捻じ曲がり、心の底で慕っていながらにして国王になった兄を困らせ、憎まずにはいられなかった。憎むことが筋違いだとは思いながらも、そうでもしなければ自分のやり場のない怒りと苦しみと悲しみと憎しみが自分の心を蝕んでしまいそうだった。
そしてもう一つ―――――どうしても許せない事実。
兄は心の底から彼女を愛し、負けないくらい彼女も兄を愛している。王でなくとも彼女は兄を選んだだろう。
兄に初めて心底憎悪を感じた瞬間だった。
十月小春梅蘂綻び
紅楼画閣 新装遍し
鴛帳の美人 睡りの暖かきを貪り
梳洗懶し
玉壺一夜 軽漸満つ
楼上四垂して簾巻かず
天寒くして山色偏えに遠きに宜し
風急にして 雁行 字を吹いて断え
紅日晩る
江天雪意 雲 繚乱たり
「・・・」
昔を思い返してバルコニーに出ていたライクであったが、今いる離宮からも紅楼にいるのが誰かがよくわかった。長椅子に横たわるようにしているのは王妃、愛する義姉タジェンナだろう。
金の髪が一瞬きらめいた。側にいる黒髪は楽師に違いない。タジェンナは楽師と紅楼で話す内眠ってしまったに違いない、ライクは思った。あの楽師もやるものだ、正にあの歌と今のタジェンナの状況が重なっている。最後の余韻のリュートの響きが消えた少し後、楽師が眠ったままの義姉に一礼し紅楼を後にしたのを、ライクは見ていた。
「彼」が来たのは、次の日の午後だった。秋の涼しい風が吹き始め、その日は過ごしやすい一日だった。
「ライク殿」
長椅子に横たわり、足を投げ出すようにしていたライクはそのままの姿勢で「彼」を迎えた。窓の外から聞こえてくる歌声は紅楼からではない、宮殿の庭に違いない。
独り江楼に上れば 思い渺然
月光 水の如く 水 天に連なる
同に来たって月を弄びし人は何処ぞ
風景 依稀として去年に似たり
「やはり失敗したか。だからあれほど言ったのだ、成功するはずもなかろうと」
「それでよいのです。成功するばそれはそれでよし、失敗したとしても、向こうはかなり焦るでしょう。そしてあちこちに目を光らせるようになる。すぐにこちらの仕業とわかりましょうがそれでだからといってすぐにあちらが手を出せるというわけでもない。悶々としてどう動くか決めかねる内に時間が過ぎ、向こうはさぞかし気疲れするでしょうな。しばらくはの間は混乱させておけばよいのです」
「ふん・・・信用できん」
「ご心配なく私は貴方を王にしたいだけ。まあご覧じておられなさい」
ライクは立ち上がり、窓辺に立った。完璧な背中。
「まあいい。言う通りしばらく傍観して力量を見せてもらおう、」
ライクは振り返って「彼」を見た。
「レイトロン大臣」
大臣は、黙って深々と頭を下げた。
「閣下、この前の火薬のことですが」
「なんだ」
オライオスは最近不機嫌である。無事何事もなかったとはいえ、休暇であり戦勝の宴を邪魔されて、後始末に何週間もかかったからだ。
「出所がわかりました。それからあの金属の箱がどこの鉱山のものかも」
「そんなことがよくわかったな」
一瞬部下は沈黙した。その沈黙にオライオスは振り返り、
「どうした」
と尋ねた。部下は口篭もり、言い淀んで、ちょっとだけ視線を下に向けた。
「・・・・・・特徴ある金属でしたので」
「-----------どこのだ」
「・・・----・・・王弟殿下所有の鉱山のものと判明致しました」
「何・・・」
当然、オライオスは絶句した。
事態は緊密に処理された。
将軍だけの会議が緊急に行なわれ、彼ら以外でこのことを知る者は固く口止めされた。
無論のこと子供ではないのだから、事の重大さを飲み込んで彼らは誰一人として口外しないだろう。次に国王に進言し、こののちの判断を仰いだが、将軍たちはこのまま知らないふりをするのが得策とも付け加えた。
国王は一瞬青ざめ、立ち尽くし、それから鉛のような重いため息をついて瞳を閉じると将軍たちを見据えて、そなたたちの気遣いを心から感謝し、嬉しく思う、そなたたちの言う通り・・・今は何もなかったように振る舞うのが最上の策かと思う、しかしこれ以上弟の行動が常軌を逸し誰か一人にでも危害が加えられるか、或いはその可能性が大きくなったのならば、彼は語気を強めて言った。
「その時には私は、弟を謀反人として扱うつもりだ」
辛い決断であっただろう。しかし彼は兄である前に国王としての立場を重んじた。辛く悲しいことだが、それは彼に宿った宿命。運命には、誰一人逆らうことはできない。
秋も深まり、砂漠にも寒い冬がやってこようとしている。
年が明け桔九年となった。
オライオスは相変わらず功績豊かで、春の戦も戦勝に次ぐ戦勝、評判が高まる一方の中、秋の戦で前代未聞の功績を挙げた。
一国解放に費やした期間半月、味方の死傷者無し、敵の死傷者もまた無し。なんでも、すっかりオライオスのやり方に心酔した敵国は、大将自身の投降によって服従を証明したそうだ。
オライオスが話してこの男は大丈夫だと思ったのなら間違いはないとして国王は大将と相手国の国王を招待し、同盟を軽々と結んでしまった。戦うには手強い相手であっただけ
に、お互い何の損害もなく同盟を結べたことは怨恨も残さないことなり、正に奇跡的といってよかった。今回のことでオライオスの功績は非常に大きかったといえる。
実に惜しい、オライオスが将軍でなかったら、とっくに三段階くらいの昇進を与えていたのに、と、国王は冗談めかして玉座の間で言った。昇進がこれ以上ない場合の褒美は、たいていは土地や馬だったりするが、今回オライオスは月鋼を鍛えた素晴らしい短剣を下賜された。希少価値のある金属で鋼の百倍も硬く、一抱えもある岩すら切断面をすべらかなまま一刀の内に両断してしまうという。長剣にしなかったのは、希少な鉱物で長剣にするだけの量がなかったからだとか。
しかし人々も王も言った、
オライオスは、月鋼と同じくらいの価値あることをしたのだと。人命に勝る宝はない。
オライオスの尽力でその宝を一つも失わずに済んだのだ。
彼の評判はとどまるところを知らなかった。
ある日オライオスは紅楼へ出向いた。秋が訪れ、この季節には珍しい雨が先程まで降っていたが、一刻ほど降ってすぐに止んだ。通り雨であったようだ。水を吸った大地の匂いが強く漂っている。雨上りの砂を踏み美しい楼の一番上の階まで辿り着くと、そこには先客がいた。リュートを弾く手を休め砂漠に見入っているスキエルニエビツェであった。
「お・・・」
「あら・・・」
スキエルニエビツェはオライオスを見上げ、ちょっと声を上げてから
「先の戦では大層ご活躍なされたとか・・・」
「他人行儀な言い方だな」
「他人ですもの」
苦笑してオライオスは頭をかく。どうも彼はスキエルニエビツェには弱いらしい。惚れた弱みというやつかもしれぬ。
「月鋼の短剣を下賜されたとか・・・素晴らしいことですわ」
オライオスは近寄っていたずらっぽく笑いスキエルニエビツェに言った、
「俺に褒美はくれんのか」
するとスキエルニエビツェは口元に薄い笑みを浮かべてこう答える、
「今度同じくらいのご功労がおありになりましたのなら」
オライオスはちぇっ、と唇を尖らせて
「同じくらいの功労か・・・参ったな」
と呟く。スキエルニエビツェはくすくす笑いがとまらなくて、袖で口元を思わず押さえる。
「意地の悪い女だな・・・まったく・・・。まあいい、ここにはよく来るそうじゃないか」
「ええ。ここで歌を歌うのはとても気持ちがいいから」
「城下に友人がいてな、」
オライオスはあの美しい女のことを思い浮べて言った。
「紅楼の歌は時々街まで届いてくるそうだ。楽しみだといっていた」
「まあ、嬉しいことだわ。楽師冥利に尽きるとはこのこと」
「極上の天鵞絨の上を白玉が滑り落ちるような歌声、か・・・」
オライオスは欄干に寄り掛かってそんなことを小さく呟いた。この楽師のことを昔こう噂に聞いた時は、そんな歌声など想像もできぬ、誇張だろうと思ったものだったが、しかし確かに彼女の歌を耳にしてみると、こうとしか例えようがないのだ。筆舌しがたいとはこの事、この例えを口にした者は苦しんだ挙げ句にやっとのことでこの例えを生み出したのだろう。
オライオスの呟きを耳ざとく聞いたスキエルニエビツェは、彼を座ったままの姿勢で見上げ、それからリュートを構え直して弦をいくつか弾き始めた。
ホロン・・・
ポロォォ・・・・・ンン・・・
「? ・・・おい」
ポロン・・・・
ロォォォンンン・・・・・
無心にリュートを奏でながらスキエルニエビツェは瞳を閉じたまま言う、
「そんな風に褒めてもらって何も歌わないわけにはいかないわ」
「おいおい」
オライオスは慌てた。
「なにもそんなつもりで言ったんじゃないぜ」
手を振って止めようとしても目を閉じられては効き目がない。調弦の音は続く。
「そんなのわかっているわ。国王陛下だけのために歌うという約束はしていないし、それに陛下はこんなことで貴方を咎めたりはなさらないはずよ」
スキエルニエビツェはぱちりと目を開けてオライオスを見た。黒い瞳に見据えられて百戦錬磨の裁定将軍がたじろぐ。
「それともお嫌?」
「う・・・そ、それは違うが」
根っからの武人であるオライオスには今までそんな状況に遭遇した経験などない。自分だけのために、楽師に歌を歌ってもらうなどと。
ホロ・・・ン・・・
彼の覚悟を促すようにリュートの音が引き締まった。
「・・・これで褒美だなんて言うんだったらお断りだぞ」
「ふふ・・・条件はさっき言ったとおりよ」
オライオスはため息をそっとついた。やれやれ、どちらにしても歌をやめさせることもできなければ、あれ以上の功労を挙げないことには褒美ももらえないことは変わりようがないようだ。
ロォォォンンンン・・・・・・
ハッとさせるほど澄んだ音が響いた。
一天の過雨 新秋を洗う
友を携えて同じく登る江上の楼
写かんと欲す 仲宜千古の恨み
断煙疎樹 愁いに堪えず
「・・・・・・」
雨に湿った砂漠を見渡し―――――・・・オライオスは心が洗われる、というのがどういう気持ちなのかを生まれて初めて知った。そしてリュートの音が消えるのをじっとうつむいて聞いている女を見た。葛の花の女。俺の葛。
「・・・」
口元にわずかな笑みを浮かべリュートをのぞくようにしているスキエルニエビツェ。閉じた瞳ですら美しい。
「なんかなんて言ったらいいのかわかんないけど・・・」
ほりほりと頭を掻いてオライオスは言った。
「きれいな歌だな」
何よりの絶賛。スキエルニエビツェは花がほころぶようにして笑った。
「なあ・・・」
「?」
「あちこちの国を回ってるんだろ。聞かせてくれよ」
「・・・」
スキエルニエビツェはオライオスを見上げ、しばらくその瞳をじっと見つめてから、
「・・・いいわ。いつか約束したわね。でもここじゃ場所がよくないから、別の場所で」
「じゃ中庭はどうだ? 座るのに手ごろな場所を知ってる」
賛同の意を示してスキエルニエビツェは微笑んだ。オライオス紳士のように手を差し伸べ、そこへスキエルニエビツェの白い手がふわりと乗った。
中庭から明るい笑い声が響く。実に楽しげで、思わずなんだろうと首をめぐらしてしまうほどだ。
「なんと間の抜けた大将もいるものだな」
「それでも戦場ではそれは素晴らしい軍人だったの。ただその女官殿の前に出るともう、歩くだけで廊下の壷が落ちて窓が割れるくらい緊張しちゃうの」
「・・・どういう男だ」
「要するにぎくしゃくしすぎてそういう風になってしまうのね」
「・・・気の毒に」
オライオスは言って、そしてスキエルニエビツェに言われた大将の姿を想像して、またひとしきり笑った。
「オライオス将軍」
はた、と、オライオスの顔から笑顔が消えた。後ろを向いた彼の顔が一瞬痛烈な皮肉に歪んだのをスキエルニエビツェは見逃さなかった。
「レイトロン大臣」
スキエルニエビツェはオライオスのその言葉で立ち上がり膝を折っって挨拶した。楽師ならば当然の儀礼である。大臣はスキエルニエビツェの方をちょっと見てイオシス殿、と答えてからオライオスを見た。
「将軍、随分とお気楽な立場ですな。先の戦の功績がよかったからといって油断しているとろくなことはありませんぞ」
「ふふふ・・・ご心配には及びませんよ。油断もしていないし功績が特別よかったとも思っていない」
「ほう・・・褒賞を下された陛下に対する侮辱と受け取ってもいいのかな?」
「貴方はいらっしゃらなかったからご存じないかもしれないが・・・」
オライオスはにやりと笑った。大臣はどんなに地位が高くとも軍人褒賞の場に出席することはできない。大臣の誰もが劣等感を抱く事柄ではないにしろ、相手がこの男ならこの程度の皮肉もきくだろう。
「私は陛下にちゃんと申し上げましたよ、
特別頑張ったわけでも、功労を得ようとしたのでもなく、ただ最善を尽くしたのみの結果、偶然運が良かっただけなのです、とね」
「----------」
「それでも陛下は今回の戦勝は私の人徳に因るところが大きいと褒めて下さったのです。
ただそれだけのことですよ」
レイトロン大臣は押し黙った。
「・・・せいぜいお気を付けなさることだ」
吐き捨てるように言うと、踵を返して回廊の方へ歩いていってしまった。その後ろ姿が見えなくなった辺りで、
「・・・ふん、腹を斬ったら出てくる血は赤でなく黒だろうよ」
オライオスは毒突いた。
「・・・・・・」
二人のやり合いに毒気を抜かれたスキエルニエビツェは茫然と立っている。あんなやりあいは、自分の知っているオライオスとは無縁のものだと思っていた。気迫せまるやり取りであった。
「どうした?」
「え? えーと・・・修羅場・・・」
「修羅場・・・そうかな。あの大臣はいつもあんなもんさ。いちいち相手にすると胃に穴が開く」
スキエルニエビツェは笑った。オライオスは立ち上がり、
「いい顔だ。女はいつも笑っているのが一番いい」
と言い、部屋まで送ってくれた。スキエルニエビツェは先程のやりとりを見て偶然オライオスの別人の部分、きっとあんなことがなければ永久に知らなかったであろう一面を思い起してバルコニーに出た。人間とは、自分で思っているよりも奥が深いものだ。
そよ・・・と風が吹き、あまりにもそれが気持ちがよかったので、スキエルニエビツェは風に微笑してリュートを取り出した。
人の生は老い易く 天老い難し
歳歳 重陽
今又た重陽
戦地の黄花 分外に香る
一年一度 秋風勁し
春光に似ざれども
春光似り勝る
寥廓たる江天 万里の霜
「もう重陽の節句の季節・・・・」
さや、と吹いた風に髪を弄ばれ、スキエルニエビツェは小さく呟いた。
見ると庭には菊の花がかぐわしげに咲き誇っている。
二回目の秋・・・スキエルニエビツェが葵剣にやってきて一年が過ぎようとしている。
砂漠というのはどうしても暑いというイメージが拭いきれない。そのため初めて葵剣に来る商人のほとんどが薄着の半袖、砂漠の冬はさぞかし涼しかろうと高を括ってやってくる。そして到着と同時に服屋に駆け込み、周囲の失笑をかう。なにしろ砂漠というのは太陽が出ている時とそうでない時の温度差が激しい。夏はまだそうでもない。日中暑く、夜も寝苦しいほどの時もあるがまた涼しい夜とてある。冬は温度が急激に下がり、極寒の日は積もりはしないけれども雪が降ることすらある。
「オライオス将軍?」
ライクは長椅子に横たわったままだるげに聞き返した。冷たい冬の鋭気が彼の周りにまとわりついているかのような空気だ。
「裁定将軍と呼ばれているあの男か。なんでも大層気安い男だとか」
「彼は使えるかもしれませんぞ」
「・・・・・・」
ライクはレイトロン大臣をじっと見た。
「・・・怨恨が見えるぞ」
「そんなことはございませんよ」
「俺に嘘は通用せんぞ。どうせオライオスに痛い所を突かれたんだろう。個人の怨恨で仕返しをするのは多いに結構だが・・・」
立ち上がりライクは窓辺に寄った。紅楼に人影が見えており、先程からリュートの音が風のように漂ってくる。
「一人でやるんだな」
レイトロン大臣は改めて思った、
深い洞察鋭い言葉、不正を許さぬ厳しさそして相反する残酷さ。
楼に上がりて春を迎うれば新春は帰る
暗黄 柳に著き宮漏遅し
薄薄 淡靄 野姿を弄す
寒緑 幽風 短糸生ず
錦牀 鏡に臥し玉肌冷やか
露瞼 未だ開かず朝に対して瞑ず
官街の柳帯折るに堪えず
早晩 菖蒲錧結に勝えん
「・・・美しい歌だ」
腕を組みぼそりと呟いたその美を愛し雅を解する心――― 。
この男こそ、真の王にふさわしいのだと。そしてなんとしてでも、この不遇に満ちそれだけの理由で才能を生かすことを許されなかったこの王の弟を、彼が本来いるべき場所へ導きたい、十月の鉛色の空を見ながら、レイトロン大臣は痛感した。
十一月になった。オライオスは十一月のみの戦へと出立し、国中がざわめくほどの功績を挙げて帰ってきた。元々十一月のみに戦の行なわれるその場所は、激戦区としては近辺
で知らぬ者がいないほど有名な場所で、さしものオライオス将軍も、まあ彼のことだから死にはしないだろうが、生きて帰ってくるのが精一杯で、功績など挙げる余裕はなかろうよ、誰もがそう言っていた矢先であった。
彼が挙げた功績は、激戦区ではなく普通の他国での戦争の功績としても目を見張るものがあった。
まず敵側大将三人の首。敵側には常時複数の大将ないし将軍がいて、数が多いがためにこの地区の戦はとどまるところを知らないのだという。七人の大将の内三人を討ち取ったというのなら、当然それを予期していなかった敵は色めき立ち焦燥を見せた。三人いなくなった分の埋め合わせは突然だっただけに困難なものであったに違いない。オライオスはそれだけでは飽き足りないかのようにさらに馬を駆り、守備の薄くなった相手の陣営に精鋭だけを連れて乗り込み、城壁を内側から壊し、味方を中に入れ、一切の掠奪も味方に許さないまま城になだれ込んで国王に投降を迫った。オライオスの一騎打ちの勝利を条件に投降を約束し、実に五人の将軍との一騎打ちをオライオスにけしかけた。その五人のどの首も、オライオスは討ち取ったのである。しかしその頃にはさすがの裁定将軍も息切れがするほど疲労しており、五人目を敗った時はぜいぜいと肩で息をしていたそうだオライオスは一人将軍を敗るたび国王や場内の敵側すべての人間に、葵剣に、オライオスに喧嘩を売ったらどうなるかということを知らしめたのだ。
この激戦区に仮とはいえ城を造り、低いとはいえ城壁と呼べる物を持ち、大将や将 軍を常時複数置いているというのは、もう単に人を殺めて楽しんでいるとしか思えない。
激戦区での生き残りは見返りが大きく、確かに利潤も葵剣などとは比べものにならないが、それだけ危険だということだし、利潤のほとんどは戦いに費やされてしまう。完璧な軍国主義の国であり、近辺の嫌われものだった。オライオスは、その嫌われものを排除したのである。しかも戦争につきものの掠奪を彼は一切許さなかった。後でわかったことだが命令を無視して掠奪行為を行なっていた兵士を見つけ、その場で斬って捨てたらしい。
そして味方の兵士に言い渡した、
命令を無視したから斬ったのではない、人間として許されぬことをしたからだ、と。
オライオスの言うことはいちいちもっともで、このことを問題視する者とて、いなかった。
とにかく怒涛のごとく破竹のごとくの勢い。
さすがの国王も今度の褒賞には頭を悩ませ、月鋼以上に意味のある褒賞はあるのだろうか、かなり考えたらしいが、結局答えは出ず、仕方がないから玉座の間の褒賞授与の席でオライオスに望みは思いのまま、と言ったそうだ。これもオライオスが法外な望みをするはずがないとの彼に対する信頼と見ていい。
しかしオライオスはもう何もいらないと言った。地位も名誉も、これ以上のものは得られない、将軍は将軍以上に昇進することはできないし、これだけ巷で功績を騒ぎたててもらえれば軍人としてこれ以上の名誉はない、よって褒美は何もいらぬ、強いて望むのなら陛下の変わらぬ信頼のみが望みですと、こう言ったのだ。
国王も王妃も、しばらく口がきけなかったというが、やがて顔を見合わせて笑い合ってうなづき、オライオスに褒賞の約束をしたという。そして彼はこうも言った、
「・・・恐れながら、実は別の人間から褒美の約束があるのです。権力や財力で得られる褒美ではありません」
「ほう・・・それは素晴らしい。国王以外からそんなものをもらえるとは、オライオス将軍。そなたも幸せな男だ」
「おっしゃるとおりです」
少しも気を悪くせず国王はにこにことし彼を手放しで褒めた。月鋼以上の功績を収め、思いのままの褒賞を約束したというのに、何もいらぬ、欲しいのは自分の変わらぬ信頼だ
と言われて、嬉しくない主君がいるだろうか。さらに財力や栄誉、権力では決して得られない褒美を他の者からもらう約束をしているという。なんという率直で憎めない男か。
人間には本当は何が必要なのかをわかっている。こんな男を部下に持つことができて、国王レグノテックは嬉しいのだ。たまらなく嬉しいのである。
さてそんなオライオスの華々しい噂も絶えない頃、彼は廊下でスキエルニエビツェと出会った。冬らしい枯野(表黄・裏淡青)の襲を纏っている。にやりと笑い、オライオスは言う。
「どうだ?」
スキエルニエビツェは小さく、しかし嬉しそうな笑みを浮かべて答えた。
「・・・驚きましたわね」
自分の言葉を真に受けてあの奇跡に近い功績以上の功績を挙げた彼の気持ち。
「俺なりの情緒だ。わかるか?」
くす、と笑い、スキエルニエビツェは笑顔になった。
オライオスは眩しげに目を細めた。俺の葛の花。ようやく手に入れた。
差し出された彼の腕に掴まり、二人で廊下を歩きながらスキエルニエビツェは答えた、
「よくわかったわ」
ホロン・・・・
ロォンンン・・・
深海から突然水面に出たときのような目覚めではなく、夢現のままオライオスはふと目を覚ました。薄明りは月の光だろう。三日月の光をこんな風に見るのはどれくらいぶりだろうか。心はひどく穏やかだった。静かな、とでもいうのか、まるで春の湖の上を凪ぐ風のような気持ちだ。
ロォンン・・・
ポロ・・・ン・・・
顔を上げると窓辺に座り、月の光を受けて浮かび上がるスキエルニエビツェの姿があった。オライオスはしばらくそれを見つめていたが、やがて上半身が裸のまま起き上がり、静かに彼女の側へ歩み寄った。スキエルニエビツェは顔を上げて微笑み、リュートを弾く手を止めぬまま彼を隣へ招じ入れた。オライオスはスキエルニエビツェの肩に手をまわしそっと呟く、
「いつ起きたんだ?」
「・・・・・・少し前かな・・・」
「そうか・・・」
ホロン・・・・・・
ロォン・・・
オライオスは恋人にするようにその美しい頬に唇を這わせ、スキエルニエビツェは弦を押さえる方の手で彼をそっと迎える。
ポロォォ・・・・・・
ンン・・・
ホロ・・・
・・・・・・・ン・・・
「・・・不思議だな」
スキエルニエビツェはオライオスを見た。
「お前といると落ち着く。・・・いやそうじゃない」
オライオスは顎を撫でながら少し考えた。
スキエルニエビツェはリュートを弾く手を止めじっと彼を見上げている。射干玉の瞳が月の光を受けて燦々と輝いているかのようだ。しかもその輝きは、決して太陽のような心騒ぐものではない、あの月のように静かな輝きなのだ。無垢なまでにじっと自分を見つめる瞳、その瞳を見つめて、オライオスは解答に致った。
―――――そうか。
スキエルニエビツェは何も言わない。
―――俺がこの女に惹かれた理由・・・・
ホロン・・・・
瞳を閉じまたスキエルニエビツェはリュートを弾き始める。
―――――歩き疲れた旅人が緑洲を求めるように
―――俺の疲弊した心がこの女を求めたのか・・・・
ホロン・・・
ロォォンン・・・
その美しい横顔・・・自分を鎮静させそして激しい愛情に燃え立たせる横顔。
オライオスはスキエルニエビツェの唇にそっと自分のそれを重ねた。
重なり合う影を、月の光だけが見ている。
年が明けた。
砂漠は桔十年を迎え、時折雪がちらつく程の寒い季節となっている。 その日国王レグノテックは中庭で一人、池の蓮の蕾を見つめていた。空はどんよりと曇っており、雪が降ることはないだろうが鉛色の雲が分厚く天を覆っている。空気は冷たく冴え渡り風はないが好んで表に出ようとは思えない。
「・・・・・・」
なぜだろうこんな日は・・・ひどく心が沈むのだ。これは何の予兆なのか。
「兄上」
張りのある声―――――レグノテックは振り向いた。
「・・・ライク・・・」
凍りつきそうに冷たい水面に二人の姿が鏡のように映る。まるで彫像のように微動だにせず、黙って見つめ合う二人。
ああこうして愛する兄弟の―――――瞳を凝と見つめるのは、一体どれくらいぶりなのだろう。二人はまるでこれから起こることを知っているかのように、そして知っているからこそ前に進むのが嫌で、どちらもなかなか口を開かないかのように見えた。
「・・・話が」
ライクの言葉はいちいち短い。無表情を装ってはいるが、その瞳の光は暗い。
「・・・」
レグノテックの顔もまた厳しい。きつく眉を寄せて弟を見、そして一瞬、悲しそうな顔となった。
「・・・・・・」
「・・・ここでは場所がよくない。場所を替えぬか」
「―――――紅楼か。兄上の大好きな場所だ」
―――なぜだライク・・・・こうして私が言わなくてもわかってしまう程―――――わかりあえているというのに
二人は連れ立って紅楼へ向かった。廊下に入り、回廊を抜け、階段をいくつか経、扉をくぐって二人は一言も口をきかないまま歩いた。その間、まるで砂嵐が来る日の城下のように、誰も二人に出会わなかった。まるで二人を避けているかのようだった。
砂を踏み・・・二人は沈みきった心で、鉛のような重い心で紅楼へ向かった。
その間、一言も口をきかなかった。
将軍オライオスは、自分の部屋から紅楼へ向かう二人の姿を見た。二人の表情から漂う切れるようなそれでいて痛いほど悲しい空気・・・
「・・・・・・」
オライオスは何もなかったように、座り直して読んでいた本に目を戻した。
王妃タジェンナは、寝室に繋がっている自室の窓からその様子を見た。一度は息を飲んで窓に張りついたが、小さいとはいえ二人の姿があまりに穏やかで、そして悲しそうな背中であったので、とうとう覚悟を決めたのか、もう一度息を飲み、悲しそうに目を閉じ首を振って窓から―――――紅楼が見えない奥まで去っていった。
楽師スキエルニエビツェはその時バルコニーに出て調弦をしていた。暖炉のきいた部屋の中よりも冷たい空気の中の方が音が澄んでわかりやすいからだ。いつもより少し厚着をして雪の下(表白・裏紅梅)を纏い、時折冷たいそよ風を感じながら探るように音を奏でていた。
何気なく首をめぐらして見たものは―――――連れ立って紅楼に向かう兄弟。
「―――――」
なんという悲しそうな背中。二人とも―――・・・この先何が起こるのかを知っている。知っていて、逃れられないたった一つの運命と対峙しようとしている。
「・・・」
スキエルニエビツェは何も見なかったかのように、またリュートの音を探り始めた。
「―――――・・・・兄上・・・俺は葵剣を出る」
何の前置きもなしに、ライクは突然言った。
紅楼の最上階に登り、二人して沈黙したまま砂漠を見渡し風に吹かれること一呼吸、二呼吸・・・・長い沈黙はライクの方から破られた。
その言葉は何気ないようでいてひどく重大な意味を持っていた。
王位継承権を持つ者が自らの意志で国を出る―――即ち出奔するという事は、謀反を意味している。
無論全てを捨てて旅に出たい継承権のすべてを捨て自由になるというのならば別だが、残念ながらそういったことは彼の口から出てこなかったし、状況から推してみてもライク
がそんなことをするはずがなかった。
ホ・・・ロ・・・ン・・・
そよ風のようにどこからか楽の音が聞こえてくる。
寒蝉 凄切たり
(秋蝉が悲しく鳴く)
長亭の晩
(駅亭の夕暮れ、)
驟雨の初めて歇むに対す
(驟雨は今あがったばかり)
「・・・ライク・・・」
痛切な声でレグノテックは言った。ライク、ライク。幼い頃から何度、こうして弟の名前を呼んできただろうか。そしてその幼い頃には、こんなことは予想もしなかった、こんな思いでお前の名前を呼ぶことになろうとは。
ライクは欄干に歩み寄りじっと砂漠を見つめた。
その瞳・・・・怒りに燃えもせず、憎しみを孕んでもいない。純粋で無垢な光、痛いまでに愛するものを見る目だ。
「・・・・・・」
レグノテックは絶句した。
この瞳―――――。
この瞳こそが真のライグゥアラック、王弟でもなく王でもなく、ただ毎日を笑い合って過ごした時のライクの瞳。真実の彼。
都門に帳飲すれば 緒無し
(町の出口で別れの宴を張っても気はそぞろ、)
留恋足る処 蘭舟発するを催す
(うしろ髪ひかれる思いに、舟は出発をうながす)
「・・・・私にも責任があるのだ」
「兄上・・・・」
眉を寄せレグノテックは低い声で言う。
「お前を周囲から庇いきることができなかった。・・・いや、庇うのではない、もっとライクを見てくれ、私と比べないでくれ、ライクはライクなのだから、と・・・・」
「―――――」
「言っても無駄だったかもしれない、しかし言わないよりはましだ。私はお前を見捨てたのだ」
「兄上・・・・・」
ライクの悲痛なつぶやきが、遠くで低く唸った風に今にも消えそうだ。
手を執りて涙眼を相看れば
(手を取り合い、涙にうるむ目を見つめあい、)
境に語無くして凝咽す
(ついに言葉にならず、むせぶだけ)
「お前が自身の苦しみによって奈落の苦痛を味わっているとしたらそれは・・・・私のせいなのだ。私がいたからお前の苦しみがあった」
「・・・それは違う兄上」
レグノテックは振り返った。弟を見ると、今まで見たこともないような強い瞳で、自分を見ている。それは怒っているようにも見え、そしてひどく美しかった。
「あなたに非はない。・・・結局・・・・・我々を取り巻く環境はそれほど劣悪だったということ。そんな劣悪なものに俺はずっと固執し、拘り続けてきた。あんなものに捉われたくない、あんなもの、あんなもの・・・・そう思い続けて、思いながらも気付いてほしかったのだ。兄上のせいだとかそんなことは関係ない。連中の器と人格に問題があっただけ」
「ライク・・・」
去り去く 千里の煙波を念えば
(行くての千里の霞める波を思えば、)
暮靄沈沈として 楚天開し
(夕もやが立ちこめて、楚国の空は広がる)
多情古より離別を傷む
(情け知る者は、昔から別れに胸を痛めてきた)
更に那ぞ堪えん 冷落たる清秋の節に
(ましてや万物が凋落するうらさびしい秋には、
(どうして堪えることができようか)
「そうやって耐えてきた。・・・・・所詮運命だと。ずっとずっと言い聞かせてきた」
「―――――お前が次男でなければ、さぞかし良い王になっていただろう」
「父上は相当俺が憎かったに違いない。養子にも出してくれなかったのだから」
いや―――――・・・・そうではない。父は最後までライクの実力を認めようとしなかったのだ。兄と比べれば大したことのない息子、外に出してはこの身の恥と思っていたのだ。今更ながらレグノテックは父を憎み恨んだ。不孝はよくないというが、良くない親を誹謗することは不孝だろうか。そのせいでこの世で唯一の愛する兄弟と敵対する羽目になったとしても。今も昔も、レグノテックにとって一番大切な人間は父でも母でもなくライクだった。王でありながら身内に対しての公平さを欠き、一人の人間を一個のものとして見られなかった父母は、最早尊敬にも値しない。
今宵 酒醒むるは何れの処ぞ
(今宵、この酒が醒めるのはどこであろうか)
楊柳の岸 暁風残月
(柳の岸べで暁の風に吹かれつつ、
残月を見ているときであろうか)
せめてライクが参謀に向いた才能を持っていれば、この兄弟はどれだけ救われたことだろうか。逆でもいい、どちらかが主となり片方が補助となることができれば、すべてがうまくいったというのに、天はなにゆえこのような悲劇を二人に与えたのであろうか。雌雄を決しなければ終わりは永遠にこないという運命を。
ライクは、兄ほどではないが常人の十倍もの能力と才能を持ち合わせている。
不運―――――。
この一言で済ませてしまうのには、あまりにも悲しすぎた。
だから―――だからライクは決意した。
二十八年間―――――二十八年! ―――――我慢に我慢を重ね、ひたすら兄に対する愛だけで耐えてきた。しかしもう限界。
自分の人生は、自分のためにあると囁いてくれた者がいた。王になりたければなればいい、それだけの才能があって、継承権もあって、王になる主張をしたとして一体誰が責めることができようか。
今までの逆境に耐えた分だけ―――――・・・・あなたは残りの余生を自分のために過ごすべきだ。
「兄上・・・・俺は、・・・・俺は葵剣を出ていく。あなたを今でも愛している。それはきっと一生変わらないことなんだ。それでも俺は出ていく。・・・・誰かに対する愛情だけで不遇な余生を送るほど、俺の幼少時代は恵まれてはいなかった。すべては運命だ」
此より去りて年を経なば
(ここを去って年がたてば、)
応にの是れ良辰好景も虚し設くべし
(どんな良い日の好い景色も、
私にとっては無きに等しい)
「ライク」
「兄上のせいじゃない。最初から決まっていた運命だ。俺はそれを受けいれる」
「どうしてもだめなのか ライク・・・・・・」
悲痛な叫びにも似た兄の絞りだすような声。ライクは悲しみに眉を寄せた。
「兄上・・・一度私と生涯を交換してみればわかる。この虚しさが・・・・・」
―――『私』。
もう一度欄干にもたれかかり、ライクは氷のような寂しい瞳で砂漠を見渡した。
その顔が一瞬形容しがたい苦しみと悲しみに歪んだ。
「―――――・・・・いや―――・・・・あなたなら私と同じ事はすまい・・・葵剣開闢以来の賢王と言われたあなたなら・・・―――――」
「・・・―――――・・・」
レグノテックは欄干に置いた手をぎゅっと握り締めた。白くなるほど、筋が浮かび上がってもなお。
すべては我が身が在ることゆえの―――弟の苦悩。誰がなんと言おうと、確かに周囲の環境が悪かったことも認めはするが、しかし自分に何の罪もないといったら確実に嘘になる。ライクをここまで追いやったのは―――――私だ。
便ち鏦い千種の風情有りとも
(たとい千種の風情があろうとも、)
更に何人とかたらんや
(誰に向かって言うことができよう)
打ち拉がれたレグノテックを残し、ライクは静かに紅楼の階段を降り、砂を踏んで戻っていった。そしてもう二度と、城には戻っては来るまい。その日があるとしたら謀反人として首だけとなって帰るか、新しき王となって入城するか、いずれかだ。
ホロォン・・・・
寒空の下、いつまでも動くことのできない国王を包み込むかのように、リュートの音はいつまでも砂の地に響き渡っていた。
桔十年--------。
この年の冬、王弟ライグゥアラック・ザファイオンは謀反を宣言しすべての支度を整えて四月、葵剣領地を出ていった。その間彼の住まいである離宮は厳重警備がなされ、国王の兵士は近寄ることもできなかったという。また国王は早い内に城内及び領内での叛乱軍との衝突を厳禁し民への安全を第一に訴えた。国内はいっぺんに慌ただしくなり、あちこちの境界は厳戒体勢を取り始めた。国の中に傭兵らしき男たちが溢れ、女たちは滅多に表を歩かなくなった。
「それでは陛下・・・本気で王弟殿下と----・・・」
「しかし・・・」
「もう一度考え直されては」
「そうです。兄弟が王の座を取り合い骨肉相食むとは」
「よく考えてのことなのだ」
苦しい、絞りだすような国王の声。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
室内はハッとして静まり返る。多くは顔を見合わせ憂え合った。
「二人でよく話し合った。それでもだめだったのだ。ライクは出ていった。はっきりと私に敵対するということを宣言して。あれだけ話し合っても無駄で、こうして断腸の思いで・・・・・・王弟討伐の命令を下す私の気持ちのどこに---------浅薄な考えがあると?」
「----------」
「----------」
「諸賢・・・・・・わかってほしい」
苦しげに言うと、国王は出ていってしまった。こんなに打ち拉がれた国王の背中を見るのは、誰もが初めてであったという。
「・・・・そういえばレイトロン大臣は?」
誰かの言葉に、同席していたオライオスは冷静に答えた。
「数日前から姿が見えません。数日前というのは正確には王弟殿下が出ていかれてからです」
「!・・・それでは」
「レイトロン・・・・!」
「忠義面をして・・・・・」
騒ぎたてる者たちを尻目に、オライオスは一人腕を組んで国王の悲しみを思った。
相手は普通の人間ではない、なんといってもライグゥアラック、我が弟。知略に長け勇ましく人をひきつける我が-----弟。今は敵対する-----・・・弟。お互い知恵と技を力の限り使って戦わなければ、敗ける。
ライク、敗けるわけにはいかないのだ。私の肩には何百何千万という人間の運命がかかっている。お前を信用しないわけではないが私は王なのだ--------・・・謀反人は区別なく処罰しなければならない。
―――――なんという苦しみか!
戦士として男として、己れの知略の限りを尽くして戦うのがよりにもよってたった一人の弟とは!
今より朝も夕もなく作戦を考え兵を動かし、自ら剣を片手に戦場を駆り、自分は戦うのだ------弟の首を取るためだけに!
私は憎い--------・・・王という立場に縛られている我が身が憎い。
弟をあそこまで追い詰めた自分という存在が------憎い・・・。
砂丘の上から、今日まで育ってきた城の影を見つめライクは一人たたずんでいた。彼を慕い彼についてきてくれた者たちを先に行かせ、彼はそこに立ち尽くしている。
「・・・・・・」
不思議なものだ----あれだけ苦々しい思いをし、苦渋の思い出しかない場所だというのに、今別れを告げようという時に致ると、胸から込み上げる惜別の念が抑えられない。
今日よりこの城にも別れを告げる-----。
ヒュウ・・・
風が立ち尽くす彼を促すようにそよかに吹き、足元の砂を巻き上げた。
そしてライクは歩き出した------度だけ、肩越しに振り返ってその影を瞼に焼き付け。
ヒュ・・・ウ・・・・・・
さようなら兄上
さようなら・・・義姉上
六月になって一度目の決戦が行なわれた。
その時の国王レグノテックの悲痛な眼差し・・・人々も兵士たちも胸を強く衝かれた。
ああ天は、なぜにこのような悲しい真似をされるのか。
しかしこの戦いを期に、レグノテックは吹っ切れたかのようだった。瞳に光が戻り、今や後悔したところで、自分の運命を悲観し自分の存在を呪ったところで、時間は戻らず事
実も変わらないとでも言いたげな態度で、実に国王然としていた。
今更もうどうにもならない。今自分がやらなくてはならないこと、それは運命と対峙すること。そして守るべき者たちを守り、真を貫くこと。弟であれ、悪は悪、罪は罪なのだ。ならば王として生まれる宿命にあった以上は、私を殺し徹底しなければならない。辛いがこれもまた定め。
「-----・・・--
それでも戦いから帰ってきて苦痛の念を拭いきれない夫を見兼ね、王妃タジェンナはそっと近寄って寄り添った。
「・・・・タジェンナ・・・・・」
「陛下・・・わたくしは貴方の妻でございます。望み望まれて夫婦になった者に、どうして遠慮がありましょう。貴方の苦しみはわたくしの苦しみ・・・。せめてわたくしと二人きりの時は、お心をお開きになってくださいませ
「-----------
肩に置かれた手の暖かさ・・・悲しみと苦しみで冷え切った体に、そこから熱が入り込むようだ。
ああ自分はまだ・・・救いが残されている。それは彼女一人ではなく、もっと大勢なのだ。その者たちのためにも、自分は戦わなくては。
いつのまにかタジェンナを抱き締め、レグノテックは痛感していた。
もう迷わないと。
春が過ぎ夏が来て、戦は日に日に激化していった。あちこちの廊下を兵士が慌ただしく行き来し、侍女女官たちは悲しい戦いに人知れず涙した。将軍たちは休みなく働き、大臣たちは政治の補佐に撤した。国王レグノテックは戦いに出ては鎧を脱いで会議に参加し、そのすぐ後に軍議に出ては、また剣を取り戦場に向かうという激務をこなしていた。相手が相手だけに髪の毛一筋ほどの油断も許されなかった。王妃タジェンナは愛する夫の負担を少しでも軽くするために、書類の作成や執政に関わる長老大臣たちとの会議に参加し、正式な国王代理として政治に参加していた。
国民は兄弟の悲しい戦いを憂い、しかしここまで踏み切った国王のその潔さに痛み入って、夜八時以降の外出の禁止を自ずから決定し、自警団を結成して街中の警備に乗り出した。少しでも多くの兵士が警備に数を割かれないようにとの配慮である。
文字通り国が一体となって戦を繰り広げていた。
負けられなかった。負けてしまっては、断腸の思いで弟を謀反人として討伐する決心をした国王が気の毒すぎる。人も街も、今や糸玉のように一個のものとなっていた。
スキエルニエビツェはそんな中居場所を無くしかけていた。
もともと人の心が平和だからこそできる商売、こんな時にでも国王や王妃の心を慰めてあげたいが、残念ながら彼らにそんな時間はない。もし歌を聞かせる時が来たとしたら、それは彼らが戦に勝ち、全ての苦しみから解放された時だろう。スキエルニエビツェは誰かに殺伐とした空気の中誰かの心を休ませてあげたい気持ちにとらわれたが、それも迷惑と思い、聞こうと思わずとも聞くことのできる場所で歌うことにした。あそこなら誰でも別け隔てなく耳にすることができる上、何の作業も邪魔することにはならない。
スキエルニエビツェは砂を踏みしめ紅楼に向かった。
「・・・・」
ホロォォォォンンン・・・・・
ロォン・・・
暑く、うだるような砂漠の午後―――突如泉の底の水草のような涼しげな音が響く。
ポロン・・・・
ホロン・・・・
幽蘭の露
啼眼の如し
物の同心を結ぶべきなく
煙花は剪るに堪えず
草は茵の如く
松は蓋の如し
風を裳と為し
水を珮と為す
油壁の車
夕べに相待つ
光彩を労す
西陵の下
風 雨を吹く
ホロォォ・・・ン・・・・
ロ・・・ン・・・
「ほらお城の楽師様だよ」
「いい声だねえ」
城下の者たちは暑い夏の夕方、涼しい声と涼しい音色に一時泉のほとりにいる気分を味わった。城内の者たちは、会議中の者軍議の最中の者、実戦の訓練途中の者さまざまだったが、誰一人洩れることなくこの声を聞いた。手を止め顔を上げ、しばし声を休めてその声に聞き入る。そしてまた、何事もなかったようにそれぞれの作業を再開する。しかし確実に穏やかに休まった心を共に。
「・・・」
スキエルニエビツェは欄干から日暮れを見て、一人いつまでも物思いに耽っていた。
長い夏が終わり、葵剣に十月の涼しい風がやってきた頃、スキエルニエビツェはオライオスと何度目かの夜を重ねた。彼は戦場から帰ってきたばかりで、つい三日前戦地から戻
ってきたばかりだ。報告を済ませ兵士に休養を言い渡してから、すぐにスキエルニエビツェに手紙を寄越してきた。すぐに会いたいと。しばらく話をし、酒を酌み交わし、スキエルニエビツェの膝で眠りその歌声で疲れをほぐし、戦士からただ一人の男へと戻ったオライオスは彼女を抱いた。死が横行する戦場から帰ってきて、まるで暖かい命そのものを求めるかのように、彼はスキエルニエビツェを求めた。bk
この状況で、オライオスの寝顔を見て相当な疲れを看取ったスキエルニエビツェは、しばらく共にいようと思った。将軍一人ひとりの休みなど無いにも等しいほど短い。そんな短い休みを誰もが貪るようにとっている中、オライオスは一人一切の休暇をとることなく戦に臨んでいた。それは、あたかも自分が休まずに戦った分だけ、この辛く悲しい戦を早く終わらせようとしているようにも見え、実際オライオスはそのつもりだった。それに鋭く気づいた国王が、最初は聞こうとしなかったオライオスにかなりきつく言って休暇を与えたのである。この戦は、長くなる。
その間、彼が望むだけ側にいて笑いかけ、話を聞き時に異国の話を話して聞かせ、膝を貸し風に吹かれ歌を聞かせてその心を休ませたい。オライオスとスキエルニエビツェは一ヵ月の間共に側にいた。
そして本格的に冷たい風が感じられるようになった十一月・・・・スキエルニエビツェを抱いた後、オライオスは腕の中の彼女にそっと切りだした。
「俺は来月発たねばならん・・・・・・お前と話すのもこれが最後だ」
腕の中で、スキエルニエビツェは何も言わない。その逞しい胸の鼓動を、愛しいものでも聞くかのように聞き入っている。
「戦いは益々激しくなる・・・巻き込まれない内にこの国を出た方がいい」
スキエルニエビツェは答えず、するりと寝台から抜け出して下着姿のまま窓辺に座りリュートを弾いた。
ポロン・・・
ホロ・・・
・・・ン・・・
「―――――」
オライオスも起き上がってその美しい影に見入る。
大漠 天に連なりて 一片沙なり
蒼芒何れの処にか人家を覚めん
地に寸草無くして 泉源竭き
隣封を隔断して 路太だ余かなり
〈 広大な砂漠が天の果てまでつづき、一面、砂ばかりである。
このひろびろとした中、どこにも人家の影すら見当らない。
大地にはわずかな草さえも生えず、水源は涸れはて、
大砂漠が隣の城との間を遮断して、道はとてつもなく遠い。〉
ンン・・・・・
「・・・・」
目を伏せがちにして聞いていたオライオスだったが、顔を上げてスキエルニエビツェを見ると、
「・・・来いよ」
と言った。スキエルニエビツェは立ち上がり、大きく腕を広げて自分を待つオライオスの胸のなかに入っていった。
自分にできることなど、今はほとんど無いに等しい・・・・オライオスを抱き締め抱き締められながらスキエルニエビツェはそれを痛いほど感じていた。
翌月十二月、オライオスは戦地へと出向いていった。一度だけ振り返り、大きくスキエルニエビツェに手を振っただけの別れであった。
翌年―――――戦は益々激化し、スキエルニエビツェはオライオスの言葉通り暇乞いを決意した。国王と王妃に挨拶を済ませ、報酬を受け取り、身仕度を整えてスキエルニエビツェはあることを思い出し、しばらく留まって何事かを書簡に書き連ねていた。そしてそれを伝達兵に託すと、通常以上の礼金を彼に渡した。
スキエルニエビツェは少ない荷物をまとめ、リュートを抱え、少し考えて最後の名残に紅楼へと向かった。
「なに手紙?」
オライオスは戦場でそれを受け取った。差出人の名は、彼女だ。封を切る手ももどかしく、がさがさと音をたててオライオスは手紙を開いた。
『 オライオス様
貴方がこの手紙をお読みになる頃、わたくしは葵剣から離れているかと存じます。 貴方のおっしゃる通り、もうわたくしの居場所は、葵剣にはないかと思い、離れる決 意を致しました』
曇った空を見上げ・・・・スキエルニエビツェはリュートを奏でる。
春寒を衝破して暁に城を出れば
東風 剪剪として衣を弄して軽し
漫山 匝水 二十里
尽日 梅花 香裏に行く
「・・・・」
『 どうか御武運を・・・葵剣はわたくしが貴方に話して聞かせた下さったどの異国より も素晴らしい国でした。いつの日かまた訪れた日に・・・貴方にお会いできる日を待 ち焦がれております。
いつかまた、貴方に必ずお会いできますように
スキエルニエビツェ 』
オライオスは自嘲するようにふっと笑った。
オライオス将軍? 訝しげに近くにいた側近が声をかける。
―――大した女だ。
手紙を握り締めてオライオスは思った。さすが俺の葛の花。
―――これでは死んでも死にきれない・・・いや、俺は絶対に死なん
―――――あの女に会うまで・・・勝ってあいつが再び砂漠に戻ってくるまで
―――俺は死なない―――――・・・・・・。
冬の曇り空は鉛色で、まるで今の葵剣を象徴しているかのようだ。どんよりと曇ったその空を、白い息を吐きながらスキエルニエビツェはしばらく見上げていたが、やがて再びリュートを取り出して爪弾いた。
ピィン・・・
ポロ・・・ン・・・・・・
眼に見る 風来たりて沙旋移するを
終年看ず 草生ずる時
言う莫かれ塞北 春の到る無しと
総い春の来る有るも 何れの処にか知らん
「――――――――」
一瞬その顔が、悲痛なものに歪んだ。しかし一瞬、本当に一瞬だけ。
別の弦に指を這わせ―――・・・スキエルニエビツェはもう一度リュートを奏でた。
ポロ・・・ン・・・・・
春度ぎ春帰り限り無き春
今朝方に始めて人と成るを覚ゆ
今より克己し応に猶お及ぶべし
願と梅花と具に自ら新た
静まり返る砂漠・・・・。
スキエルニエビツェはしばらく白い息と共にそこにいたが、やがてゆっくりと紅楼を降り、そのまま城に帰ることはなく、城壁から外へと出た。
空の上の方では、まだ名残りのようにリュートの余韻が響いている。
璇-------七星で唯一赤く光りし星、読んで字のごとく璇は光と奔放、公正と裁定を司る星なり。太 古の昔人はこの星の下に集いて裁きを行い、何者かその言葉に偽りありし 時、一条の光 璇より伸び来たりてその者を焼き尽くし死に致らしめし逸話著名なり。 その伝説に拠り、迷宮入りの裁きはこの星の下にて行われると伝ふ。実にこの星の下に於いて偽るなかれ世の男はこれを教訓とせよ。