生命賭す一瞬
第四章 生命賭す一瞬
なだらかな坂を嫌というほどぐるぐると螺旋階段を上るが如く歩いていくと、いつのまにか頂にいる。そして初めて気が付くのだ、
山をのぼっていたのか、
と。
汎胤はそういう国である。刃のように尖った岩があちこちに顔を出し、油断すると切り立った崖が旅人を音もなく飲み込む。山としては非常になだらかで丘といってもよいものだが、この到底人など住めないような岩で構成された山は、自然の要塞として敵の侵入を阻む。城下は頂にあるので、晴れた日などは彼方の空まで見え、さながら雲の海のようだという。あの海の国を出て一年半、楽師スキエルニエビツェは放浪の末この汎胤の王宮に滞在していた。
ちょっときまぐれで人の心に疎い部分はあるものの充分風流を理解する国王と、二年に渡って国賓として滞在する品のいい貴族、この国王は部下として仕えるのには多少難のある部分があるかもしれないが、楽師としてなら別段何の文句のない相手であった。
この日、遥か遠い千燐から二年以上の長きに渡って滞在しているリュ・ヴァイス男爵の元へ、新たに千燐から使者がやってきた。かの国から遊学の為に送られてきた優秀な学者達であるという。国王は手放しで迎え、早速歓迎の宴を開いた。
青山隠隠として 水超超たり
秋尽きて 江南 草木凋む
二十四橋 名月の夜
玉人 何れの処にか吹簫を教うる
さわ・・・
宴の中で彼女の歌は、側で聞く者には感涙を、遠くから聞こえる者には最適の心和む音として受け入れられた。今日は歌の出し時、惜しんでいてはもったいない。スキエルニエビツェはリュートの演奏を止めずにそのまましばらく愛用の旅の友であり愛用の楽器でもあるそれを爪弾いていた。
軍人らしき人間が数人いたが、いずれも将軍クラスらしく、若い人間がちらりほらりとおり誰もが堂々として風格があった。その中に女はおらず、女将軍というものに未だ胸の痛むスキエルニエビツェは、幾分ホッとしていた。
湖光秋月 両つながら相和す
潭面風無く 鏡未だ磨かず
遥かに望む 洞庭山翠
白銀盤裏の一青螺
ポロン・・・
ロ・・・ン・・・
宴にはまた国王の多くの愛人も参加していた。汎胤という国は山合の国には珍しくそういったものには考えが開けている。無論いい顔はされないが、だからといってまた、王の寵愛を受けているという事実は無視できず、それなりの地位を持ってはいる。重鎮達も、陛下もいいかげんに正妃を娶られればよいのに、と思う反面、愛人の誰かがそうならなくてよかったと内心胸を撫でおろしている。彼女たちは妃に必要な家柄・人柄・人徳・学識・知性・品格などの事項がいずれもどれか一つが欠落しているのだ。頭は良いが家柄は低い、門戸の出身はよいのだが既に落ちぶれていて、しかも当人もお世辞にも賢いとはいえない等々だが、好きであればどんな相手であろうと関係ないという考えには至らないらしく、その辺りがやはり山合いの国に見られがちな封建的な部分が見える。何度か見合いまがいのことはしたのだが、いずれも国王のお気に召す女性はいなかったというわけだ。もっとも、たまに国王という己れの地位を忘れて自分勝手で相手のことを考えない行動に出ることの多い国王の元へは、嫁がなくて正解なのかもしれない。
紅葉(表赤色・裏濃赤色)の襲を纏って終始歌に従事していたスキエルニエビツェはよく目立ったが、なんといってもこの日人々の注目を一身に集めたのは、国王の最も新しい愛人で最も美しく、今一番時めいているズヴェイラ・ヴェヴィラティッティスであった。
すみれ色のハッとするほど鮮やかな瞳、朝日の下の稲穂もかくやというほどの美しい金の髪。かの国に黄昏をもたらし、年号を烈から桔へと自らの手で塗り替えた、あの姫君に勝るとも劣らない見事な金の髪であった。彼女は前の前の戦でオルノス将軍が奇跡的に壊滅の手から救った慧燕の人間で、早い話が慧燕の貴族一同が国王と将軍に謝辞を述べるために汎胤を訪れた際に国王に見初められたのだ。慧燕は特定の人間の統治下になかったため貴族といっても零落した者ばかりで、残念ながらその理由でズヴェイラは妃の座を仕留め損ねた。慧燕はそれを期に汎胤の統治下に収まったが、慧燕救出の直接の功労を成し遂げたオルノス・セタマイエ将軍には慧燕の三分の二が褒美として与えられたという。何でも褒美は思いのままと言われたのだが、何も望まなかったのだとか。
無欲な人もいるものだ、スキエルニエビツェは思った。自分なら周囲が眉を顰めるほど褒美をもらうのに。しかし本来オルノス将軍個人の判断で成功した救出劇であったから、慧燕から謝辞を述べに来た貴族連中の中にズヴェイラがいたとしても、それをオルノスに褒美として与えるのが国王としての器ではないかと、一部では随分囁かれたようだ。
中秋の全景 潜夫に属す
棹を空明に入れて太湖を看る
心外の水天 銀一色
城中 此の月明有りや無や
「スキエルニエビツェ」
機嫌の良い声が玉座の間より聞こえた。スキエルニエビツェはリュートを片手に持ちかえて、立ち上がりながら
「はい陛下」
と言って振り向いた。当然のことながら、国王は自分を呼んでいる。側にはズヴェイラとリュ・ヴァイス男爵がいる。
「男爵、紹介がまだでしたな。これは今うちの宮廷に滞在しているスキエルニエビツェです」
「スキエルニエビツェ・ガラードでございます」
「ご高名は何度も耳にしていますよ。千燐はいい所です。機会があったら立ち寄ってください」
スキエルニエビツェはにっこりと笑顔でそれに応えた。しかし口ではこう言ってるものの、考えるだけでも気の遠くなるほど遠い千燐に、彼女が来るとしてもすぐではないのは、誰の目にも明らかであったに違いない。
それから国王は上機嫌で男爵と話をしていたが、その大きな笑い声を聞いて、暗澹たる思いの者もまた数少なからずいた。
「・・・いい気なものだ、陛下も・・・あまりこういう事は言いたくないが」
将軍アリエイテス・ファシマムッラがため息混じりで言うと、
「仕方あるまい。今に始まったことではないのだ。こっちが慣れるしかないだろう」
将軍オルノスも暗い表情で言う。
「しかし状況が状況だ。主君のことを悪く言うのは気が進まないが陛下は時々物事を楽観視しすぎる感がある。今それは危険だ」
「-------」
黙り込むオルノスに、アリエイテスは眉を寄せつつ聞いた。
「例の密偵はまだ捕まらんのか」
「依然として」
アリエイテスは再び息をつく。
「いい気なものだ。あの楽師は別として、こんな時に宴など」
アリエイテスは気が付かなかったが、この時オルノスは国王を見るふりをして国王にごく近いものに見惚れていた。
「まあ我々が動くしかないのだろうな。それが仕事だ」
「ああ」
オルノスは玉座から目を離してアリエイテスと歩きだした。その際かの楽師と目があったが、向こうが目で挨拶してきたので自分も適当に返しておいた。
スキエルニエビツェはその瞬間を見逃さなかった。噂に聞く、宮廷でも一番人気の二人の将軍であるということは容姿だけからして容易に想像できた。自分の世話をしている周囲の女官たちが騒いでいるのをちゃんと聞いていれば、容貌だけでわかるというものだ。
まず二人の内背が低い方の男は、冬の月のような素晴らしい銀の髪をもっている。巷では、
真銀将軍の呼び名も高いのだそうだ。その真銀将軍の名はオルノス・セタマイエ。背が低いといったがそれは連れの男の背が彼より高いだけの話で、オルノスの身長は六尺余り(百九十センチ)ある。その瞳は、スキエルニエビツェの胸を未だ騒がせるあの海の色。青すぎる青、夏になればそれは燃え上がる青。海の波のような銀の髪、そして青すぎる海の瞳、彼は見る者に海を彷彿させる。こんな山の国は彼には似合わない、そんな誰かの言葉がやっと納得できた気分だ。
性格は穏やかで優しく檄することなどないのだとか。しかし戦の腕は将軍の中でもすば抜けていて、三十代と若いのに将来の汎胤を担う人材と大いに期待されているようだ。スキエルニエビツェはそのオルノスと並ぶ長身の男に視線を移した。この男はまた馬鹿みたいに背が高い。七尺近い感があるが、それほどにはないだろう。
容姿は銀と青とに縁取られ夏の昼下がりのような明るい感じのするオルノスと違い、黒い髪と蒼氷色の瞳と、こちらは冬の夕方の冷たい氷雨のような寒々しい印象を与える。その瞳は、氷の白さに入っていってしまうほんの一歩手前のあるかないかの微妙な蒼、それでいて確実に蒼。珍しい色だ、スキエルニエビツェは目を離さずリュートを弾きながらそう思った。顔立ちが端正で終始無表情なので益々冷たそうな印象があるが、それはちょっと見ただけで、よくよく観察してみるとなかなかどうしてそんなことはないようだ。特別優しいというわけでもないが、冷たいというわけでもないのだそうで、侍女たちはそんなところがたまらないという。
この二人が汎胤の双璧といわれているのか、スキエルニエビツェは思った。確かに共に三十代と聞けば、若すぎる感否めないが、この二人から発せられる武人特有の空気は、他者のそれとは比べものにならないほどに空気を圧倒している。大男、総身に知恵がまわりかね、という言葉を聞いたことはあるが、この二人にはそれも通用しないというのはスキエルニエビツェもわかっていた。頭が悪くては軍人とはいえ出世できない。しかもオルノス将軍は慧燕を救った際も、作戦勝ちだったいうではないか。
またオルノス将軍は不満や逆境に対して非常に忍耐強く、相手を咎めることも非難することもなく、とうとう周囲の者が見兼ねて口を出すほどの我慢強さを持つが、アリエイテス将軍は悪いものに対しては誰であれ平然と攻撃するという。それは相手が国王であろうと同じで、要するに悪いものは相手が王であれ農夫であれ悪いものは変わりがない、天は相手が王であるからその悪を許しはしないという思想の持ち主である。それだけにアリエイテスを嫌う人間は少なくないが、誰も公然と彼を非難したりしない。彼の言うことはいつも正しいからだ。まったく正反対の二人だが、不思議と気が合うというのも、また女たちの騒ぐ理由でもあるらしい。
ともあれ、スキエルニエビツェはこの二人の男をその目で見てそれなりの判断を下したのであった。
この日の夜は、こうして更けた。
汎胤に来て一ヵ月が経とうととする頃、その日スキエルニエビツェは王妾ズヴェイラ・ヴェヴィラティッティスの私室にいた。現在この国に妃はあらず。彼女は今一番時めいている。国王お抱えの楽師を私室に呼ぶくらいは、なんでもないことであった。しかし実際会って話してみると、貴族出身の王妾にありがちなお高いところも気取ったところもなく、スキエルニエビツェは内心でほっとしていた。この日の衣装はスキエルニエビツェは紫苑(表紫・裏蘇芳)、ズヴェイラは萩(表紫・裏白)。共にあでやかすぎるほどあでやかだ。歌を交えて会話をする内、スキエルニエビツェはこのズヴェイラという女性の懐がどれだけ深いかということを思い知らされた。今まで何人もの女性と出会ってきた。彼女たちは知性も教養も持ち合わせ、そしてまた多くは美しかった。しかし今スキエルニエビツェは、世の中にこんな女性もいたのかと思い知らされることとなっている。 無論見惚れるほど美しい。知性も教養も並はずれている。しかしなんだろう、会話のなかのふとしたことで、吸い込まれそうに深い人格に触れたような気分になるのは? それはいったい何だ?
「ご出身はどちらなの?」
「愁蓮ですわ」
「まあそう・・・あの国は大層美しいと聞いたことがあるわ。大きくはないけれどとても美しいと」
「だから多くの詩人が生まれているのかもしれません」
「ふふ・・・あなたもその内の一人ね」
ズヴェイラは少女のような無邪気さで微笑んだ。屈託のない笑み。
スキエルニエビツェはそれに半ば見惚れながら出された香茶を飲もうとした。その瞬間、ズヴェイラの瞳が別人のように光った。
「それを飲んではだめ」
「--------え?」
ズヴェイラはスキエルニエビツェの手から器を奪いとった。そして近くにあった水槽に歩み寄って中で気持ちよさそうに泳いでいる魚の姿を確認すると、スッと香茶を注ぎ入れた。
「! ------」
スキエルニエビツェは驚愕で竦んだ。魚が一つ残らず浮かび上がって死んでしまったのを目のあたりにしたからだ。
「他の王妾の誰かでしょう」
ズヴェイラはため息をつきながら苦々しく言った。その様子と口調で、スキエルニエビツェは彼女が、他の王妾を押し退け這い上がろうとも、彼女たちのこうして挑発を受けて仕返しをしたりとか受けて立とうとする女ではないということに気が付いた。あたかもそれは心外中の心外、自分で望んでこうなったのならともかく、こうして王妾でいることも、贅沢な暮らしをすることも、他の愛人たちと比べ王にあからさまに大切にされることも心苦しいとでも言いたげだった。
「・・・・・・」
「まだまだ私のことを快く思っていない方は少なくないようですね」
ズヴェイラは哀しげに言った。私は望んでこうなったわけではないのに、何故? あなた方を排除しようとしたわけでもないのに、何も贅沢な暮らしなど望んでいないのにどうして? その顔はこう言っていた。それは、田舎でのんびりとした暮らしを送っていた彼女にはなくてはいいことだった。田舎には豪華なものやきらびやかなものはないが心の穏やかな生活がある。豊かとは決していえなかったし、その日暮しの人間も多かったけれど、飢えるようなことはなく、つまり毎日をやっていくのに別段何の不足もなかった。豊かさの代わりに心の贅沢を知っていた。五月の緑は濃い緑と新緑の若草色とがまだらになって自然だけが持つきまぐれな美しさを持っていた。夏にはなんともいえない神秘的な音をたてて蓮が開き、冬はしんしんと音もなくただ雪が降る。それだけのことと言われればそれだけのことだが、美しい自然に接し、生活の別段何の不自由もないと、心が豊かになるものだ。宮廷に来てから向こう、ズヴェイラの心は渇いてしまったかのようだ。何かを失って枯渇した小さな泉。周囲の愛人たちの嫉妬の嵐に苛まれ、そしてまた恩義があるだけにここから去ることができないという矛盾。私には、こういう華やかな暮らしは似合わないのかもしれませんというズヴェイラの言葉を心に留め、スキエルニエビツェは彼女の部屋を辞した。
その夜のことである。どこからかスキエルニエビツェが昼間長い間ズヴェイラの元にいたという話を聞きつけて、将軍オルノスは彼女を探していた。リュートを抱えて廊下を歩くスキエルニエビツェを見つけた彼は、国王の部屋についさっきまでいたであろう楽師を呼び止めた。
「待て」
「?」
スキエルニエビツェは立ち止まって初めて相手が誰だかわかった。
「なんでしょう」
「昼間ズヴェイラ殿の部屋にいたと聞いた」
「・・・それが何か」
「教えてくれ。何でもいい・・・髪型とか服装とか・・・本当にどんなことでもいいんだ」
その熱心さ・・・スキエルニエビツェは一瞬たじたじとなった。
そしてくす、と口元を微かに三日月の形にして、からかうように
「数々の武勲をお収めになった将軍様には、似付かわしくありませんこと」
と言った。オルノスは真顔になって、
「何とでも言え。どれだけ悪し様に言われようと構わない。楽師、お前の名は何といったかな、ええと・・・ い、人を好きになったことはあるか?」
「スキエルニエビツェですわ。イオシスと」
「イオシス(紫紅色)・・・? 変わったあだ名だ。まあいい、どうだ。答えろ」
「------ありますわ」
「ならばわかるだろう。相手のことを想わない時はない。一瞬たりとも。離れていれば何をしているのか知りたい、燃えつきそうに相手をいとおしく想う・・・違うか」
素直な人・・・スキエルニエビツェはオルノスを見上げて思った。
こんな流れ者の楽師にこれだけ心を開けようか? しかも今口をきくのが初めてなのに。 彼は余程ズヴェイラを愛しているのだろう。であるから形ばかりの誇りを捨て、こうして彼女に熱い想いを告げるのと引き替えにズヴェイラの瞬時を知りたいと思ったに違いない。
「夜も眠れぬ想い、身が焦げそうな想いがわかるだろう。お前の愛しい男は今なにをしている」
スキエルニエビツェは目を細め視線を下に向けた。
『 スキエルニエビツェ 』
『 前は、白躑躅(表白・裏紫)がよく似合う 』
「・・・・・・」
淡い想いを抱いた男は何人もいた。しかし胸が痛むほど想い、愛し、心の底から愛しいと思うのは多分たった一人。きっとこれから何人の男と肌を重ねようとも。
「---------どうした?」
「・・・・・・いいえ・・・。何でもありませんわ。貴方のお心に胸を打たれていただけです」
「では」
「お教えしますわ。隠すようなことではありませんものね。あの方の今日の服装は萩(表紫・裏白)、髪は後ろを一部だけ上げておられました。簪は銀杏楓松笠飾り金銀簪、その前に唐花文様蒔絵螺鈿の櫛を挿しておいででした」
その他にもスキエルニエビツェは色々なことをオルノスに話して聞かせた。歌を聞いてその声で生きていくという伝説の小鳥よりも、彼は熱心に耳を傾けていた。彼女は微に入り細を穿つように覚えている限りどんなことでも話したが、香茶の毒のことは話さなかった。全てを話し終えると、オルノスは大層満足そうな顔して礼をいい、そして何事もなかったかのような顔をして行ってしまった。
あまりの率直さ、その真っすぐさに、スキエルニエビツェは立ち尽くすしかなかった。
不思議なことに、双璧の片方であるオルノスと話したのは彼から話し掛けてきたことがそもそもの発端だっだのだが、それから一ヵ月ほどした十二月、年の瀬も押し迫ろうという頃、スキエルニエビツェはその双璧のもう片方に話し掛けられることとなった。
その日将軍アリエイテスは苦々しい思いで回廊を歩いていた。
手摺りより上は吹き抜けになっているのでちらりちらりと降る雪が彼の視界の隅にも見える。既に空は暗く、雪だけがさながら蛍のように白くほのかに光って舞い降りてくる。白い息を吐きながらアリエイテスは難しい顔をして歩いていた。彼がこういう顔をする時は、間違えて話し掛けでもすると怒鳴られてしまうので侍女女官はおろか、下位の軍人たちはすれ違っても逃げるようにして足早に去っていった。文字通り、将軍は苛々していた。不幸なことに、その苛立ちの原因はそう易々とどうこうなるものでも、誰かにふれまわりたいものでもなかった。
密偵がいるのだ。
情報があちらこちらに漏れている。戦で何度も作戦面において撹乱されているのはそのせいなのだ。辛くも勝ったとして、多くの死ななくてもよい生命が消えていった。もう二年にもなるというのに楽観的な国王のせいで問題は片付かない。あのすみれ色の瞳の新しい愛人のせいだ。そしておかしな事に気が付いた、密偵の存在が明らかになったのは彼女が汎胤に来た頃、ちょうど二年前と一致する。
しかしそれだけでは確かな証拠とは言えない。ならば怪しい人物はいくらでもいるし、密偵そのものが一人なのか、複数なのかすら判明していない。
ふと何か前にあるのを感じ、顔を上げたアリエイテスが見たものは、手摺りに肘をつきその上に顔を乗せて空をじっと見上げている楽師の姿であった。脂燭色(表紫・裏紅)の襲も夜目にあざやか、どんな考えに没頭しているのか、その横顔はなかなかに魅力的だ。
------あの楽師ですら、怪しくないとはいえない。
しかしアリエイテスはそこまで考えてから頭を振って自ら否定した。
疑心暗鬼は禁物。誰彼構わず疑う鬼となってしまっては見えるものも見えなくなってしまう。妄執に駆られ焦った時こそ危ないものはないのだ。
立ち止まり、自分を凝視する何者かの視線に気が付いたのだろう、スキエルニエビツェは顔を上げアリエイテスの方を見、将軍だとわかるとそこに立てかけておいたリュートを抱えて軽く会釈し立ち去ろうとした。
「・・・待て・・・」
スキエルニエビツェは振り向いた。
「なぜ逃げる? 私はそんなに恐ろしい顔をしているか」
アリエイテスは自嘲するようににやりと笑い、顎を撫でた。
「仕方あるまい、あまりに寒々しいからな、この瞳と髪では・・・せめて髪が銀色にでもなれば救いはあったのだが、まあこういう姿に生まれてしまったのだからどうしようもない」
そこでアリエイテスは小さく笑った。おや、とスキエルニエビツェは思う。笑った顔もなかなかだ。侍女たちの言葉が今やっとわかった気がする。思いがけない人間が思いがけないことをしたりすると、人は心を奪われるものだ。
「しかしそんなに恐いかな・・・」
スキエルニエビツェの胸が衝かれた。恐ろしい顔・・・端正すぎる剃刀のような鋭い容姿のせいで誰にも理解されなかったあの紫の孤独な星のような男。
皮肉な・・・双璧といわれた将軍のどちらにもあの方を思い出させられるような言葉をかけられるとは。
「――― いいえ・・・ご自分で思ってらっしゃるほどではありませんわ」
「まあいい。嫌いではないからな、この顔は・・・。ところで何を見ていた」
「何も。空と・・・・・・・雪を」
「・・・脂燭色(表紫・裏紅)の襲が誂えたようによく似合う。オルノスが言っていたイオシス(紫紅色)というあだ名というのはこの事か」
「お見知りおきでしたの? 嬉しい」
「変わったあだ名だとオルノスが言っていた。そういうことを口にすることは奴は滅多にないのだ。だから覚えていた」
「長い名前ですので」
にっこりと笑ってスキエルニエビツェはリュートを抱え直した。
そのリュートに目をやり、アリエイテスは口を再び開く。
「そういえばお前の歌は天下一品だとか・・・国王陛下専属か」
「いいえ・・・許可を頂いて王宮に出入りする方のご要望は聞いてもよいということになっています」
「では一曲歌ってもらおうか」
「----- ここで?」
「嫌か」
スキエルニエビツェはふふ、と笑った。この男、優秀な軍人で見かけも武骨だが、なかなか風流をわかっている。
スキエルニエビツェは手摺りに腰掛け、柱に寄り掛かってリュートの音を一つずつ探るように弾き始めた。
ロォン・・・
布衾 夢破れて 鉄稜稜
雁は寒更を打ち 水は氷らんと欲す
起って疎篷を掲ぐれども 月未だ上がらず
暗風 吹き動かす 夜船の燈
ヒゥ・・・
ュゥゥウ・・・
風が遠くで唸った。身を切るように冷たい風があちらこちらを舞い踊ってスキエルニエビツェの歌声も包み込んだ。
「いい歌だ」
その冷たい風にも負けないくらいの声でアリエイテスが呟いた。
「来月は年明け早々戦だ。この歌が最後にならないといいがな」
スキエルニエビツェはすとんと手摺りから降りて背の高いアリエイテスを見上げた。
「寒いのに済まなかったな」
背を向けて行ってしまおうとするアリエイテスの背中に、スキエルニエビツェは
「ご武運を・・・」
小さく呟いて立ち尽くしていた。
密偵の件が解明されないまま汎胤は正月を迎えた。アリエイテスの言葉どおり正月七日が明けてすぐに将軍たちは各地へ飛んで戦にいそしんだ。その頃からまことしやかに囁かれているひとつの『噂』、国王は知っているのかいないのか知っている素振りを少しも見せようとしない『噂』・・・。
密偵は愛人のズヴェイラだ。
これがその『噂』だった。それは存在そのものが一部の幹部にしか知られていないような大きく危険でそして公然とした秘密、誰もが知っているが決して口にしようとしない、すれば本当に現実になってしまいそうに恐ろしい――――― 『噂』だった。
そう言われれば全ての辻褄が合うことは誰にも否めないことだった。何故なら彼女が汎胤に来た二年前から密偵の活動が活発になっているからだ。戦場の噂はいつしか宮廷にも流れスキエルニエビツェの耳にまで入るほどとなった。
しかしそれを唯一真っ向から否定する者がいた。
オルノスである。彼はそんな噂は髪の毛一筋たりとも信じていなかった。彼女がそんなことをするはずがない、彼女は心の澄んだ高潔な人、だからこそ慧燕を救出してもらった礼は何もできぬ、捧げるのはこの身ばかりと、ああして国王の愛人の座に収まっているのではないか。しかしそんなオルノスの秘めた熱い思いとは裏腹に、その噂は一度香炉から出ていった煙のように留まるところを知らず、掴もうとすればするりと抜けまた流れるようにゆらゆらと辺りを漂っていった。
将軍たちの間でもその話はもちきりだった。オルノスだけが、苦い顔をして賛成も反対もせずに黙っていた。
「国王陛下はご存じなのか」
「当然だろう。戦場の噂が宮廷にまで及んでいると斥候から聞いた。陛下のお耳に届かぬはずがない」
「どう思っておられるかな・・・」
「・・・」
将軍たちは沈黙した。
国王はわかりにくい男である。こういうところもあるのかな、と思うとそれとは反対のことをする。これが好きだと言った次の日にはもう好みが変わる。風流を愛する心は人一倍だが、
「国王はこういう人だ」
と決定付けるものはなにもない。掴み所のない、といってしまえばそれだけだが、側近や将軍たちがそれに付き合わされ、そのたびに疲れる思いをしていることも事実である。実がないのだ。 言葉のはっきりしていて誰に対しても怖じける事無く批判するアリエイテスは、
「陛下は気分屋なだけ」
と言っている。無論そんなことを国王と面と向かっては言わないが、国王が言えと言ったら恐れずに言ってしまうのが彼の性分だ。
そして一番困ったことは、国王がそういう言葉を受け入れたりそれで反省したりせず、怒って相手を死刑にしかねないということだ。
相手がどれだけ優秀な軍人で、汎胤に欠かせない人間だとしても、そんなことはおかまいなしになってしまうのが頭の痛いところなのである。しかし気前がよく太っ腹でまた風雅な一面もあるので国王を好く人間は多い。結局、眉を顰めてしまう部分も多いがしかしまあ、ああいういいところもあるのだから、と許してしまう一番困った種類の人間、それが国王なのだ。
しかしこれだけ噂が広まっているのだから、当然この事を国王は知っていよう。楽観主義で愉快なことでないものは目を逸らす国王が一体愛妾の密偵容疑をどう思い、どう反論するつもりなのだろうか。戦場にも関わらず将軍たちの関心は専らそちらの方に集中していた。
この日アリエイテスとオルノスは同じ戦場で戦っていた。
剣を振るいそのたびに血を浴び、断末魔の叫びが鼓膜を破らんばかりに響き渡る。叫び続けて喉は既に自分のものではないかのようだ。渇き渇いてまるで焼けつかんばかり、ひりひりとのどかな悲鳴を上げては血の匂いと硝煙の匂いを吸い込んでまた悲鳴を上げる。
「回り込め! 怯むな!」
アリエイテスは先程から叫び続けていた。今回の戦は駆け出しの少年兵が多い。そのためかどうも戦闘が潤滑に進まない。
おまけにやはり作戦の一部が漏れている。凄まじい形相となりながらアリエイテスは鬼神のように剣を振り回し続けた。
そのすぐ近くでオルノスもまた必死に戦っていた。はっきりいってこれほど戦いで苦戦した記憶は今までにない。情報はどこまで漏れていて、そしてどれくらい漏れているのかすらわからない。返り血を浴びながら考えることは愛しい人の瞳・・・。
---------。
硝煙の煙でどことなく煙る赤い空気・・・血の匂いと混じってむせかえりそうだ。飛び散る血飛沫と断末魔の声、空に降るいくつもの矢・・・。
似たようなひどい光景を、オルノスは知っていた。いくつもの戦場を体験してはいてもこれだけの凄惨な戦場を体験したのは過去にただ一度だけ。
それは慧燕・・・統治者もなく、零落した貴族たちだけの尽力でなんとかもっていた美しくも貧しい国-----・・・飛び散る返り血・・・
-------彼女と出会ったのも
・・・こんな戦の日だった・・・・・・
次々と鮮明に浮かび上がる。あの日々、あの衝撃的な出会いを。
あの日、敵兵は街中はおろか住宅地にまで及んでいた。半ば義勇の目的で戦っていた汎胤の兵士の多くが、その悲惨な略奪に眉根を寄せていたが、それがまた懸命に戦う要素となったのか汎胤の勝利はほぼ確実であった。が、オルノスは気を緩めることなく住宅地まで馬を進め、そして彼女と出会った。大きな家の戸口に立ち必死になって地元の住民、兵に家を追われた人々を大声で呼び入れてはかくまっている。ああ、そんな声を出してしまっては、ほらまた兵士に気づかれて。若く美しく、女であるということが戦場においてどれだけ不幸で恐ろしい目に遭うということを、よくわかっていないかのように。
オルノスは息を飲んで彼女に早く家のなかに入るよう忠告しようと馬を慌てて進めた。その時、案の定というかやはりというか彼女を目敏く見付けた兵士の一人が、抜き身のまま走り寄るのが彼の視界の隅に見えた。それは住民をかくまう彼女を見咎めたのかそれとも恰好の慰みの材料と見定めたのか、あるいは両方か、とにかくその兵士が彼女を襲おうとしているのはわかりきったことだった。オルノスは無駄とわかっていながら大きく怒鳴って制止し、そして馬上から彼女に手を伸ばそうとしていた兵士の喉を貫いた。
彼女は-----ズヴェイラは、悲鳴を上げることも忘れてしまったのか、茫然と立ち尽くして彼を見上げていた。オルノスは血まみれの姿で馬から降り、そして彼女に言った。
『危険です。早く家のなかに』
『錠をしっかり降ろして。これだけしっかりした家なら大丈夫』
『それでも不安なら椅子でもなんでも扉の前に積み上げなさい』
『大丈夫、この辺りの兵士はすぐに一掃します』
オルノスは馬をそこに置いたまま、近くにいた兵士二、三人に声をかけ住宅街で殺戮と略奪を繰り返す敵兵の排除に乗り出した。
これが二人の出会いだった。
あの時一目で貴女に恋をした
自分の危機も顧みず人々をかくまい家に入れ続けた貴女・・・その高潔さ、その懐の深さ。
貴女は容姿同様心もひどく美しい-------。
オルノスの心があの当時に飛んだ。戦いながらしかし彼の目は虚ろだった。考え事をしながらオルノスは戦っていたのだ。正面から見ていた敵の数人がそれに気が付かないはずがなかった。
「オルノス! 何してる!」
アリエイテスの怒鳴り声で彼が我に返った時には、オルノスの目の前で敵が剣を振り翳していた--------。
「オルノス将軍が負傷?」
ズヴェイラは侍女の言葉で振り向いた。
「はい。幸い軽傷で済んだとか・・・」
「・・・珍しいですね、彼が戦で負傷とは・・・」
「はい」
通常、一番時めいている愛妾とはいえ、一将軍の負傷に際していちいち侍女が報告することも、それで愛妾がなにかするということもない。が、オルノスはズヴェイラの故郷・慧燕を救ったいわば彼女にとっては恩人である。その恩人が負傷したという報せは、やはり受けておかなくてはならないものだ。
「・・・いいわ。何なりとお見舞いの品を」
「はい」
ズヴェイラは侍女が出ていった後、窓辺に立って堅苦しい宮廷生活に少々うんざりしたかのようにそっと息をついた。
桔七年となった。正月は寒く、空に近い山の上にある汎胤は、毎日顔が青く染まるほどに青い空の光に照らされ、ある日は雪、またある日は晴天を迎え、また一年平穏な年であれという願いと共に日日を過ごしている。
この日は朝から曇り空で-----昼を過ぎて一層冷たく厳しい風が吹き、とうとう白い雪がちらりちらりと降り始めた。
あの戦で肩を負傷したオルノスはまだとれない包帯を巻いたまま、私室の窓に歩み寄って淡く光りながら落ちてくる雪を見て物思いに耽っていた。戸口の側には見舞いの品がいくつか届いており、その中にはズヴェイラからの品もある。
-----罪な女だ
オルノスは苦々しい思いでそれらの品々から目を離した。
---------何も知らずに・・・こんなに私は貴女を愛しているというのに
その無邪気さが・・・その何も知らない無邪気さが私を傷つける
「・・・」
オルノスは窓から見える汎胤の街並・・・灰色の空の下の街を見ながらあの日、慧燕に遠征命令が下された時のことを思い出していた。
その美しさで世界に名立たる慧燕・・・しかしまた統治者がいないが故の混乱や貧困も有名だった。毎年恒例のようにどこかしらの国が戦を、というより一方的な略奪だが、とにかく押し掛けてきては豊かな恵みのすべてを全て奪っていく。そのせいで本来豊かなはずの国が貧しいのも当然といえよう。そして常々そんな慧燕の状況を苦々しく思っていた汎胤がかの国の庇護を決意したのが三年前、そしてその翌年、オルノスが告知を受け汎胤で略奪を繰り広げる輩共を排除に乗り出した。それはまた他国への宣戦布告だったが、汎
胤は怖じけずにそれらの国々と条約を締結し、それでもわかってくれない国とは止むを得ず戦をした。今もその波紋は続いているが、毎年戦があることは変わりはないので苦痛に思ったことはない。その辺りの国王の政治手腕は大したものだが、何しろ彼は頼りになるときとそうでないときの落差が激しすぎる。しかも決まった波長でそうなるというのではなく、まったく気まぐれだというのだから頭が痛い。とにかくオルノスは冬も盛りという時に遠征に出向き、長い馬上の行軍の末慧燕に入国したのだ。
あの時の驚き-------オルノスは、一生忘れられない、そう思っている。
慧燕は、美しい国だった。
冬なのに灰色を思わせるそれはなく、辺りの水田は空の限りなく白に近い水色を映しだして寒々と光り、背後の黒にも見えるほどの濃い緑で茂っていた。湖は神秘的で、それを取り巻く柳のなんともいえない優美さ。高台からその光景を目のあたりにした時、オルノスは思わず感嘆の声を発したことにすら気が付かなかっただろう。
そして戦いが終わり-------彼は引き続き慧燕に残って本国と連絡を取りつつ救援活動に乗り出した。自分の軍を警備に配し、貴族たちとの話し合いで城壁を作り、食糧を全面援助し続けた。オルノスは将軍なので直接それらの作業に携わることはなく、年明けの二月には帰国できたが、これらの事業は昨年やっと終了し、一部はまだ続いている。
オルノスはあの日のことを再び思い返していた-------運命のあの日。
「今回の事業の成功と慧燕の救援はオルノス将軍の尽力によるものが非常に大きい。そこでこの功績を讃え将軍には思いのままの褒美を与えようと思う」
さわ・・・
玉座の間が静かにさざめいた。褒美は思いのまま。それは気前のいい国王ですら初めて口にする言葉だった。よほどこの成功に気をよくしたと思える。とにかくオルノスはここで考える時間を与えられた。なんでも思いのままなのだ。
-----あの人を。
オルノスの脳裏にズヴェイラの姿がくっきりと映った。あのひとさえ側にいてくれれば何もいらない、将軍の地位も、宮廷の生活もいらぬ。ほしいのは唯一つ、あの人の心。あの人との生活。
そう言うのだ。
全身のありとあらゆる細胞が彼にそう働きかけた。早く言えさあ言え言え言え言え言うのだ。あの人が欲しいと。
何を抵抗している? 夜も眠れぬほど心を鬱々とさせ冬の空のようなどんよりとした気分があの日から続いているのだろう。望むのだ彼女を。愛してしまった彼女を!
しかしオルノスは------言わなかった。
「恐れながら・・・今の生活以外に特別望むものはありません」
ザワ・・・
今度は大きなざわめきが玉座の間を包み込んだ。国王も身を乗り出し、驚きに目を見開いて尋ねた。
「オルノス、本気かね。遠慮はいらぬのだぞ」
しかしオルノスは頭を下げたまま、膝まづいたまま・・・低いがしっかりとした声で言い放った。
「なにもございません」
そして彼は慧燕の領地の実に三分の二を手に入れた―――。
何も与えないのではこちらの気が済まないと国王が考えたものである。
そして慧燕の貴族たちが挨拶にやってきた時にスヴェイラは国王に見初められ・・・今日に到る。
しかしこの時人々の口に囁かれた言葉は、慧燕を与えたというのならそこにいた美女も当然将軍に与えるべきだ、彼が何もいらないというのにかこつけて、あれではまるで横取りだ、国王のすることは中途半端でずるい、というものだった。
オルノスは瞳を閉じた。
「--------」
彼女が笑っている姿が映る。あの日以来、自分の胸はどんよりと重く垂れ篭めた雲が支配し、沼にでもはまってしまったかのようなだるさだ。心が晴れない。
ちらちらと降る雪-------この空よりも曇った私の心。どろどろと重くそれでいて恋の甘さと苦さに翻弄される。
ああ心が苦しい-----・・・これほどまでに誰かを愛するとは。夜中に突然目が覚める。何となく目が冴えて窓から空を見やると、切なくて切なくて我ながら情けないが涙が出てくるのだ。苦しい。鉛を呑み込んだかのように喉と胸が苦しいのだ。息も満足にできないほどに。身体が痺れ、この身すべてを目茶苦茶にしたくなる。身を引き裂き、すべてのものを壊したくなるほどに愛している!
コツ・・・
オルノスは爪の先で窓をそっと叩いた。切れてしまいそうな鋭く冷たい空気が窓の外からぴりぴりと感じられる。私の心はこの空気よりも寒い・・・。
灰色の空、灰色の街。どこかの煙突から出た煙がなんとなく霞がかった風景をつくりあげ、行き交う人の息は皆白い。
--------自分はあの時、選択を誤った
一言・・・彼女が欲しいといえばそれでよかったのに
自分は何も・・・----・・・何も言えなかった
言えばよかったのに
・・・何故言わなかったのか
逃がしてしまった一瞬 あの一瞬
何かを失ってしまったあの一瞬に
--------自分はすべてを失った・・・・・・
オルノスはいつまでもそこに立ち尽くしていた。
この日に振った雪は止むことを知らず、夜には吹雪となって三日間振り続けた。宮殿の吹き抜けの回廊は閉ざされ、専ら人々は地下を通って行き来した。やっと表に出られるようになってスキエルニエビツェが見たものは、一面の銀世界だった。
久しぶりの積雪・・・・積もった雪だけが醸し出す独特の水の匂いと土の香り、スキエルニエビツェは胸一杯に空気を吸い込んで身体のなかの悪いものを取ろうとするかのように深呼吸を続けた。
「イオシス殿」
振り向いてスキエルニエビツェは笑顔になった。
「まあお早ようございます」
リュ・ヴァイス男爵だった。端正な顔立ちと優雅な物腰は仮の滞在客とはいえ侍女たちの人気も高い。
「やっとやみましたな」
「ええ」
「しかし雪というのはいつ見ても美しい・・・始末が大変だが」
醒めたところのある男爵の言葉にスキエルニエビツェは思わず吹き出した。
「ふふふふ・・・あなたの故郷に雪は降りますかな?」
「ええ。四季の移ろいは特別豊かですわ」
「それは素晴らしいことだ。しかし本当に美しい・・・塩のような雪ですな」
「--------」
スキエルニエビツェは一瞬鉛を呑み込んだような顔になり、それから青ざめたが、庭に魅入っている男爵には気付かれなかった。スキエルニエビツェは足元の雪に目をやった。 自分の立っている回廊から庭の一部が目の前に広がっている。確かに積もった雪は水気がありぎゅっとしまっていて、一見すると塩のようにかたまっている。
手に取っても塊のままだろう。塩のような雪。適切な表現だ。塩のような雪。
「男爵は、もう汎胤にどれくらい滞在していらっしゃいますの?」
「そうですな・・・もう今年で三年になります。いい加減帰りたいものだが本国の命令ではね」
「千燐・・・お帰りになりたいと思いますか」
「それはね。最初は何もかもが珍しくて楽しいものだったが、そろそろ懐かしくなってきます」
「---------」
「それでは」
会釈されて、スキエルニエビツェは深々と一礼した。この寒いのに汗が出ていた。
聞いたことがある。情報が撹乱されているという噂。
スキエルニエビツェの全身に冷たい汗が滝のように流れた。もし違ったら・・・いやしかし。それよりもこの自分の心中を悟られはしなかったか? もし悟られれば殺される。-----自分の予想が正しければ。スキエルニエビツェは逃げだすように男爵とは反対の方向に走った。そうでもしなければ彼に捕まってしまいそうで、恐ろしさのあまり走らずにはいられなかった。
少し離れた廊下をオルノスとアリエイテスが並んで歩いている。
オルノスはやっと包帯が取れ、まだ少し痛むが八分通り傷は回復した。元々大した傷ではなかったのだ。
「今年の収支予算だが」
「軍事で相当かさんでいるな・・・おっ」
出会い頭にぶつかり、スキエルニエビツェは顔を上げた。ぶつかったオルノスもひどく驚いた顔をしている。
「君か・・・」
「どうした? 血相を変えて」
スキエルニエビツェは二人の将軍を見上げた。息を切らせ、周囲に素早く視線を奔らせる。息切れを飲み込むように低く言った。
「-------お話が」
オルノスとアリエイテスは、顔を見合わせた。
それから二週間・・・。ある早朝、真っ白な鳩が汎胤の王城に到着した。その直後である、リュ・ヴァイス男爵他遊学生と称して訪国していた学者たちはいっせいに軍議室に呼び出された。学者たちはともかく、男爵はここ数日どの会議にも出ることを拒まれていたので少々機嫌が悪かった。
「いったいどういうことですかな」
眉を寄せ、指を組んで男爵は言った。
「私は国賓で客員の相談役ですぞ」
「それは千燐のリュ・ヴァイス男爵です」
アリエイテスが氷のような冷たい表情で言った。
「・・・なんですと・・・?」
男爵の後ろに控えている学者たちが一瞬目を合わせた。
「あなたはリュ・ヴァイス男爵ではない」
「何を馬鹿な」
吐き捨てるように言った男爵に、しかし今度はオルノスが見据えながら言い放った。
「今朝方千燐からの鳩が到着しました。鳥でも一週間かかるほど遠い国です、千燐は・・・それを承知で我々をまんまと欺いてくれた」
「千燐の宮廷はリュ・ヴァイス男爵などという者はおらぬ、遊学の話も聞いたことがないと往信してきました」
「---------」
男爵の顔が-----いや、男爵と名乗っていた男の顔がサッと灰色に変わった。椅子の肘に置いていた両手の指が白くなるほど握り締められている。
「-----なぜだ」
唸るように彼は言った。
「なぜわかった。完璧だったはずなのに・・・どこでぼろが出たのだ」
アリエイテスとオルノスは目を合わせた。側にいた兵士が隣に続いている部屋の扉を開け、そこに誰かを招じ入れた。
二つ色(表薄色・裏山吹色)の襲を纏ったスキエルニエビツェがそこにいた。微かに眉を寄せ、姿勢正しく立って真っすぐに彼を見ている。悔恨のような、こんなことはしたくなかったとでも言いたげな。
「貴女は・・・」
男爵と名乗っていた男は半ば放心して立ち上がっていた。
『千燐はいいところです』
『いつかいらっしゃい』
彼女はあの時、ただ笑ってそれに応えた。
-------行ったことがあるのか!
「彼女の証言で明らかになりました。塩のような雪。千燐にも雪は降るがもっとさらさらとして今積もっているような雪ではなく、気候によって雪の状態の汎胤と異なる千燐の雪はいつもそうなのだそうです。そしてあのような雪の状態を塩のような、と比喩するのは世界広しといえどただ一国だけとか」
「楊渓の間者------この推測は間違っていない」
アリエイテスが低い声で言い、男爵と名乗っていた男は、そのままがっくりと座り込んだ。
「連れていけ」
一団が連行された後、将軍たちの視線はスキエルニエビツェに集中した。
「君のおかげで助かったよ」
オルノスの皮切りに称賛の言葉があちこちから溢れる。
「しかし驚いた・・・千燐といえば我々からすれば地の果てともいえる国だ。おまけに楊渓にまで行ったことがあるとは。本当にあちこちを旅されておいでなのだな」
誰かの言葉にスキエルニエビツェは照れたように笑った。
「しかし楊渓に滞在したのならあの男とも顔見知りのはず。どうしてお互い初対面だったのだ」
「楊渓には楽師として宮廷に滞在したのではなく、単に冬を越すために滞在していただけなのです」
「なるほど」
「とにかくこれで情報が撹乱される恐れもない。イオシス、助かった」
「いいえ」
スキエルニエビツェはにっこりと微笑みを返し、引き際を心得て暇乞いをした。将軍たちはこれからまた軍議をせねばならない。そしてその内容の半分は、間違いなくこれからの楊渓との戦についてどうするかというものになろう。そもそもの相手の目的は何なのか、果たして戦はせねばならないだろうか。
廊下を歩きながら、この国もなかなか悪くないと、スキエルニエビツェは思い始めていた。
密偵が捕まったという報告は国王にも伝わり、翌日アリエイテスが赴いて正式にそれを申し立てた。
「そうか・・・それは何よりだ」
「本当にそう思います。それに・・・-------」
「? なんだね」
「・・・・・・」
「言ってみなさい」
「-------恐れながら・・・陛下の名誉にも関わる方にも嫌疑がかけられていたので正直ホッとしています」
「? ・・・なんのことだね・・・」
アリエイテスは顔を上げた。
国王は、本当に訳がわからないという顔で彼を見ていた。それはこちらに気を遣って知らないふりをしているという顔ではなく、本当に本当に、何も知らないという顔であった。
いいえ、御存じないのなら、敢えて申し上げることはありません。お耳汚しですので。
そう言った自分の声も遠かった気がする。
退室し、廊下を歩きながらアリエイテスは絶望に近いものを感じて心が重くなっていた。
-------なんということだ・・・国王はズヴェイラ殿に嫌疑がかかっていたことを御存じなかったのだ! あれだけ噂になっておきながら・・・。
知らない、耳に届かなかった、そういうことでは済まされない。
聞かないはずがないのだ、遠く離れた戦場から宮廷にまで噂が伝わったというのに、どうして国王の耳に届かない! それとも自分で認めたくなかったのか? いや、そこまで愚かな男ではないはずだ。
アリエイテスは結論に至って思わず立ち止まった。
--------関心がなかったのか
愕然とした。絶望に近かった。耐え切れなくなってアリエイテスは回廊の柵に寄り掛かった。
--------我々があれだけ頭を悩ませ辛酸を舐めさせられていた密偵・・・その噂も情報が撹乱されていることも、どうでもよかったのだ。自分の生活が侵害されなければ他人事か!
怒りで掴んでいた柵がぎし、と鳴った。国王に対する怒り、そんな男を国王に仕立て上げた宮廷上層部への怒り、帝王学をしっかり仕込まなかった先代への、そしてそんな愚かな男に仕えねばならぬ、そんな男に忠誠を誓った、自分に対する怒り。
大きく息を吐いてアリエイテスは空を見上げる。
春の汎胤は美しい・・・この空の色は汎胤でしか見られない。
そしてアリエイテスはいつもこう思うことにしているのだ、
嫌なことがあったとして、この空の大きさからすればなんと小さな悩みよ。
そう思うと胸のつかえも、やり場のない憤りも、いつのまにかなくなってしまうのだ。 ふと回廊の向こう側を見ると、オルノスが自分から向かって左の回廊をじっと見ていた。 何を見ているのかと思ってそちらに目をやると、王妾ズヴェイラが侍女に付き添われてしずしずと歩いている。
「・・・・・・」
オルノスの熱い瞳・・・アリエイテスは合点がいった。オルノスからすれば不覚なことだが、彼はいつのまにか背後にアリエイテスが立っているということも気が付かずに、ずっとズヴェイラを目で追っていた。そして彼女がいなくなってからため息をついて歩きだそうとして、初めてアリエイテスに気が付いたのである。将軍オルノスをそこまで無防備にさせる・・・それがズヴェイラという女なのだ。
「--------お前か。いつからいた」
「お前がため息をつくずっと前からだ」
オルノスはふう、と息をついて見られたことを少し後悔しているようだった。
「やめておけ」
「--------」
「王の愛人だ。叶わぬ恋はしないのが利口というものだ」
「放っておいてくれ」
「いい歳をして何を考えている。女など・・・お前は軍人だろう」
「・・・お前にはわかるまい。多分一生な」
オルノスはアリエイテスをそこに残して立ち去った。
アリエイテスは腕を組んでその背中を見つめていたが、とうとう理解ができないとでも言いたげに、嘲笑するかのように、小さく鼻で笑った。
オルノスの慕情は日に日に募っていった。胸が苦しく、心がどんよりと重い。一体どうすれば? どれだけ戦い、どれだけ敵を討ち敗ってもこの曇天のような灰色の心の重みは晴れぬ。どうすれば救われるのだ。どうすればこの想いは?
春の空気に触れようとしてテラスに出たオルノスは、そこで庭のいずこからか聞こえてくるリュートの音を聞いた。
ホロ・・・ン・・・
ロォォ・・・ンンンン・・・
春巷の夭桃 絳英を吐き
春衣 初めて試む 薄羅の軽きを
風和らぎ 煙暖かに燕巣成る
小院の湘簾 閑にして巻かず
曲房の朱戸 悶えて長く扁ざす
人を悩ます 光景又た清明
「・・・・・・」
今の自分になんとぴったりな歌なのだ。
オルノスは美しくも悲しい歌声に心を任せて、いつまでも月を見上げていた。
夏になり、汎胤の空が気持ちが良くなるほどの青い色に染まり始めた頃、オルノスに追い打ちをかけるような事が起こった。
近付けば近付くほど、彼の心は苦しみを増す。いつもは滅多にないことだというのに、この日―-------彼はズヴェイラと廊下ですれ違ったのだ。
廊下の向こうに点のようにして影が見えた時、既に誰かは見当がついていた。
何故か? その金の髪がきらりと光ったから。そのすみれ色の瞳が、まるで点のようにしてまっすぐ向いており、その色があまりに印象的だったから。そして何よりも、愛する女性の姿だとわかるのに、いちいちの理由はいらないとオルノスは思う。
その姿は、次第に大きくなって、
ゆっくり、
ゆっくりと
近付いてきた。
彼の鼓動が高らかになっていく-------彼女の姿が大きくなってくるその一歩一歩ごとに。震える膝、震える足、竦んでしまいそうになるのをすんでのところで前へ前へと押し出すことができる。
今自分は木偶の人形、歩くだけ、歩くだけの人形だ。
怪しまれないように・・・訝しまれないように・・・平静を装ってなるべく静かに平和に。
ズヴェイラが近付いてくる。
自分も近付いていく。
お互いが歩み寄っていく。次第に距離を縮めていく。
とくん、とくん、とくん・・・オルノスの胸が高鳴っていく。聞こえはしないだろうか・・・ふと不安がよぎるほどに高く、早く。
楝(表薄色・裏青)の襲を着たズヴェイラが近付いてくる。ああもう・・・手を伸ばせばその顔に触れられるほどに近くなってきた。
ふと藤の香り。
オルノスはぎゅっと目を瞑りたくなるのを必死に堪えた。
抱き締めたい----!
ズヴェイラは軽く会釈をして彼と擦れ違った--------すべてはほんの数十秒の出来事。
オルノスは歩くだけの機械のようになってそのまま廊下を行き―――――・・・角を曲がってやっと立ち止まった。全身がかぶったような汗に濡れていた。
「・・・・・・」
ぎゅっと拳を握り締めて、オルノスは息を大きく吐いた。
若耶渓傍 採蓮の女
笑いて荷花を隔て人と語る
日は新妝を照らして水底明らか
風は香袂を飄して空中に挙がる
岸上誰が家の遊浩郎
三三五五垂揚に映ず
紫驤嘶きて落花に入りて去り
此を見て踟踰し空しく断腸す
幼い頃よく耳にした歌が、歌い手が違うだけでこうも変わるものなのだろうか。
ズヴェイラはそんなことを思いながらバルコニーで一人香茶を飲んでいた。彼女は庭を見ながらお茶を飲むのが好きなので、手摺りは低め、植木鉢が沢山置いてあってそこに椅子と茶卓があり、庭を臨みながら香茶を飲めるようになっている。あの楽師の姿は見えないが歌声はすぐそこにでもいるかのように近くに聞こえる。ズヴェイラは故郷を思い出した。美しい我が故郷。もう戻ることのない故郷。
ズヴェイラは元々義理堅い性格である。何かに対する礼はきっちりと返すし、謂れのないものはもらわない。故郷慧燕が汎胤の手によって救われ、もっと言うならあの将軍によって救われたのだから、彼女はすべてのことを覚悟していた。将軍が自分を望むかもしれなくても、―――――なにしろ彼女は貴族たちのなかで唯一の女性であったから―――――彼の妻になる覚悟でいた。あのオルノス将軍というのは大したもの、汎胤を救出したあの手練は言うまでもなく、褒美は何もいらないといったその気概も。とにかくオルノス将軍は大したものだ。あの男には本当に感謝している。自分の愛する故郷の恩人なのだから。
故郷―――。慧燕を思う度、ズヴェイラは胸がちくりと痛む。 離れてしまった愛しい故郷。もう二度と帰ることもあるまい。
ズヴェイラは慧燕での幸せな少女時代を思い出していた。
幼い頃蓮の実採りにはよく行った。といっても「なりわい」としての採蓮ではなく、「あそび」としてのものである。魚釣りにも「なりわい」と「あそび」があるように採蓮もまた同じだ。先程の歌は、採蓮を「なりわい」としていた女たちがよく歌っていたもので、岸辺で一日中馬に乗っていられる良家の子弟と比べ、採蓮による傷だらけの己れの手を見てそっとため息をつくという物悲しい歌であったが、小さい頃はよくわかっていなかった。ズヴェイラもまた貴族の人間であったから。優しい両親を持ち何不自由のない生活をしていて尚、ズヴェイラは好んで下層の者たちがすることを手伝った。貴族だからといってしないことが不思議でたまらなかったし、今でもそう思う。貴族だからといって蓮の実を採って何がいけないのだろう。ズヴェイラは、だから汎胤に来るまではずっと彼女たちと採蓮を毎年行なっていた。昔は 「あそび」、今は「なりわい」の手伝いとして。
十六の時父が戦死した。
親戚は他になく、他の貴族のはからいもありズヴェイラが十八になるのを待って彼女が爵位を継いだ。伯爵となっても、ズヴェイラの生活は変わらなかった。そんな彼女を、他の貴族は大層感心して褒めそやし、いつしか彼らも採蓮や他の仕事を手伝うようになった。
慧燕は主君がなく、美しい国ではあるが小さいがために、貴族といっても他国のそれのように気取って農民たちから搾取するような人間は、いなかったといってよい。美しい環境が人間を美しくした、その典型である。しかしいつしか慧燕は他国や野盗に襲撃を受けるようになった。彼女が二十歳の頃だ。美しく豊かで主君がいない――――言うなれば軍隊のいない―――――国。恰好の餌であったことは言うまでもない。そして彼女が二十四になるまでの四年間、その略奪は毎年二回続いた。春と秋、砂煙と土埃を起こして彼らはやってきた。彼らが去った後は何も―――――そう、何も残らなかった。草一本だとて彼らは無駄にしなかったのだ。女たちは地下に隠れ、ズヴェイラも当初はその例に漏れなかったが―――――彼女はいつの頃からか人々を家に匿うようになっていた。その方が殺される危険もないし、少しの食料を持ち寄ることで互いが救われることも何度かはあったのだ。
美しかった国が何となく灰色になっていく―――その過程を、彼女はしっかりと見つめ続けていたというわけだ。相次ぐ略奪、そして救援。
あの将軍は慧燕で自分を助けてくれたし、望まれればきっと好きにもなるだろうと思っていた。しかし自分を望んだのは国王。あの将軍が仕えるのも国王。言うなれば救出は国王のおかげともいえる。
―――汎胤に身を寄せる以外、私に方法があっただろうか・・・
それがズヴェイラの感謝の形。何かを望まれれば、命でもそれは拒めないというのがズヴェイラの持つ義理堅さなのだ。しかしそれによって故郷から離れたということは、彼女にとって実に痛いことであった。それも仕方ない、故郷の恩人なのだから。
ホロン・・・
杏子桜桃 次第に円かなり
炎涼定まること無し 麦秋の天
馬蹄 歩歩 来時の路
眼を照らす 榴花 又た一年
《 杏の実、桜桃が、順々にまるく熟し、
暑かったり涼しかったり、気まぐれな空模様の麦秋の時節。
馬の背に揺られて、一歩一歩、来た時通った道を行く。
わたしの目にはひときわ鮮やかに映るざくろの赤い花、
ああ、また一年が過ぎ去った。 》
「・・・・・・」
そして一生・・・過ぎゆく一年を感じることになるのだ、ズヴェイラはそんなことを思って部屋の中へと戻っていった。
ホロン・・・
そんなズヴェイラの美しさを讃えるかのように、しばらくしてまた庭のいずこからか、美しい歌声が聞こえてきた。
朶朶精神あり 景景稠し
雨晴れて香は払う酔人の頭
石家の銀障依然として在り
閖に狂風に倚り 夜 未だ収まらず
歌声は、いつまでも庭に響き渡っていた。
八月になった。
空は抜けるように青く手を伸ばせば届いてしまいそうだ。山上にある汎胤はまるで空の上にある天空の城、切り立った崖や鋭く尖った岩々があちこちに牙を向けている。そんななか眩しい光に照らされた汎胤城のシルエットはわざわざ人がやってきて見るというだけの価値は確かにある。この日スキエルニエビツェは、城から少し歩いた崖の終着点へと、一人向かっていた。そこは切り立った崖で、下は雲でなにも見えない。既に雲すら眼下にあるほど高い場所にあるのだ。そしてそこの岩に腰掛けると、辺りは一面の雲海である。 歩けてしまいそうに広がりきらきらと光る雲。その広大で遠大な風景に呑み込まれ、スキエルニエビツェはすう・・・と息を吸った。
蓬(表淡萌黄・裏濃萌黄)の衣装を纏った彼女の影だけが色を帯び、あとはすべて白。 こんな遠大な景色を目の前にすると、人間など自然のほんの一部を占める卑小な存在でしかないということを思い知らされる。スキエルニエビツェはしばらくしてからリュートをスッと構え、景色に目を細めてから静かに静かに弦を爪弾き始めた。
ホロ・・・
ポロン・・・
尽日 雲を看て 首回らさず
無心 都て道う 才無きに似たりと
憐れむべし光彩 一片の玉
万里青天 何れの処よりか来たる
ポロン・・・
ポロン・・・
ロォ・・・ン・・・
スキエルニエビツェはうっとりと瞳を閉じた。音が雲に反射してこちらに返ってくる。
何度も途中で演奏をやめてその音に聞き惚れた。空気に触れ風に乗り、大いなる自然にぶつかって跳ね返った時それは、自然の手に触れた玉の音色として戻ってくる。
ホロ・・・ン・・・
ホロ・・・
ン・・・・・・
続いてスキエルニエビツェは瞳を閉じたまま別の弦を弾き始めた。
人は皆 炎熱に苦しむも
我は愛す夏日の長きを
薫風 南より来たり
殿閣 微涼を生ず
一たび居を移す所と為り
苦楽 永く相忘る
願わくば言に此の施を均うし
清陰 四方に分たんことを
ホロ・・・
ロォ・・・
ンン・・・・・・
溶け入る音に自分もまた溶け込むかのように、スキエルニエビツェはいつまでも瞳を閉じていた。
ある日、それは遠征先からの事、とうとう耐えきれなくなったオルノスは、ズヴェイラに手紙を出した。
それは、彼の切なる想いを切々と連ねた、熱くも悲しい恋の手紙だった。
極秘の内にそれを受け取ったズヴェイラは封を開け、読んでいく内に困惑したようにわずかに眉を寄せた。今まで気付きもしなかった・・・これは現実なのだろうか? 普段冷静なズヴェイラがこの時ばかりは時間も忘れるほど当惑した。知らぬ間に三日が過ぎ、その間にオルノスは遠征から戻ってきていた。
『貴女がいない時間が私にとってどれだけ虚しく空々しいものか・・・貴女を想うだけで胸が張り裂けんばかりに痛む。心が苦しく夢に見るは貴女のことばかり』
『あの日から・・・私の中で時間が止まってしまっている。このまま空虚なままいつしかなくなってしまうのではないかと愚かな邪推すら―――・・・寒々しい心のなか貴女を愛しいと想う気持ちだけが熱い』
「・・・」
翻弄されるほどの熱く強い想い・・・ズヴェイラはこの文字の一つ一つから滲み出るような熱意とたじろぐほどの愛を感じた。彼女は手紙を胸に押し当てた。少女のころのように胸がどきどきする。その胸から、焦るほどに熱いものが迸って溢れ出る。顔が熱い。
これだけ直情な、熱い想いにかつて触れたことがあったであろうか。
架空の物語ですら、かつての日々を歌う詩情でさえ。
「・・・・・・・・・」
ズヴェイラは信頼する侍女に密かにオルノスへの返事を届けさせ、その手紙には明後日の晩、中庭の蓮池のほとりで待つといったようなことが記されていた。
月の青い光が降り注ぐ中、水面に映った月を見ながらズヴェイラは待った。
彼女は経験したことのない想いが胸にあるのに気が付いていた。だからといって恋ではない、これはそんななまぬるいもので収まりきる感情ではなかった。
今まで、こんなに当惑するほど愛されたことがあっただろうか。身もほだされそうな、鉄も溶けんばかりの、鬼夜叉の冷たき心すら溶かしてしまいそうな熱い熱い想い。女として人として、これだけの喜びが他にあろうか。ほのかな喜びにズヴェイラは全身を微かに震わせて静かにオルノスを待っていた。万人がこれだけ誰かに愛されるというわけではない、選ばれた愛を得たからこそこの喜びは大きい。
カサ・・・
人の気配がした。ズヴェイラが振り向くと静かな瞳でオルノスが立っていた。橘の枝を片手で遮り、恐ろしいほど真剣な瞳で自分を見ている。
「お待ちしておりました」
ズヴェイラは静かに言い、何か言おうとするオルノスより先に、
「こちらへ・・・ここでは人目につきます」
と先に立ち、庭先の自分の部屋へと案内した。窓の側の机の上には微かに橘の味のする冷水と、そして彼が戦場から託した手紙が置いてあった。
「・・・・・・」
「・・・私をお望みになった事が露見すれば、あなた様がどうなるか・・・わかりませんわよ」
「・・・それでもよい・・・私はかつてたった一瞬のために死ぬほどの後悔を味わった。 あの思いを二度とするよりはずっと・・・よい」
ズヴェイラはそっと瞳を閉じ、一瞬後にそのすみれ色の宝石をオルノスに向けた。
「・・・では一度だけ・・・」
月の光の下、さしのべあった二つの手が触れ合い、影が一つに重なった。
影はもつれあいからまりあい・・・・・・そのまま闇に消えた。
玉叙 花は紅く発き
金塘 水は碧く流る
相逢えば相失うを畏れ
並びて著す採蓮の舟
蓮の池のほとりでは、たった今やってきた楽師が、美しい歌声を誰に聞かせるともなく響かせている。
悪い事というものは必ずわかってしまうもので―――――例え二人が純愛で結ばれたとしても、主君の愛人、誰か一人のものである女性と関係に陥るということを倫理的に考えれば、やはり善い事の範疇には入らないとして―――――、一ヵ月後、その噂は速やかに、そしてまことしやかに宮廷内の人々の口の端にのぼった。戦争時の密偵の噂には全く関心のない国王だが、こういったことには非常に敏感に反応した。なんといってもお気にいりの愛人と将軍の不倫の話なのだ。オルノス将軍は直ちに捕らえられ、私室は完全な監視下に置かれ、彼は裁判にかけられた。何を言われても答えず、彼は終始無言で―――・・・まるでもうこの世に未練はないとでも言いたげな、湖のような静かな瞳であったという。
ズヴェイラの方には今のところ何の咎めだてもなかったが、他の愛人が彼女の留守中部屋からオルノスより渡された手紙を奪い、それを公表して、とうとうオルノスの有罪は明らかになった。こういう場合はいつの世もそうだが地位の低い者の方が咎められる。そしてこの場合、立場の低い者、とは、誘いをかけた者のみとであるらしい。
再三に渡る審問にオルノスは一言も口をきかなかった。
時には目を伏せ、唇を固く結んで前をしっかりと見据えていた。その瞳には何の濁りもなく、間違ったことはしていないとでも言いたげだった。
「彼女に罪はない」
これがたった一度だけ彼が口にした言葉だという。
今日も朝から玉座の間において裁判が続けられている。大臣たちや彼らとつるんでいる愛人たちは何としてでもオルノスに罪を認めさせ、そしてズヴェイラも共犯だといわせたいのだ。そのために連日のように裁判を行なっているのである。国王は、声高にオルノスを罵った。聞いている方が耳を塞ぎたくなるような口汚い言葉の連続であったという。であるのに、相手となったズヴェイラには未だ何の咎めもない。
まただ、誰もがそう思ったに違いない。
国王あなたという人は―――・・・自分に都合の悪いことはあくまで知らないふりをなさるというのですね。ズヴェイラと不倫したオルノスは憎いが、ズヴェイラだけはなんとかして無傷で済ませたい・・・
これが内密のことならばまだよかっただろう。しかし話は宮廷内でのレベルにまでなっている。 公の場でも平気でそんなことをしようというその国王の分別のなさに、皆が皆、いい加減に嫌気がさしていた。オルノス将軍はまだ同情の余地があるがそれでも悪事は悪事である。人々は心を鬼にして彼を裁くことに全力を尽くした。オルノスの不幸は、国王に対する嫌悪感を忘れようとするかのように誰もが彼に矛先を向けたことだろう。しかし彼はそんなことはお構いなしだった。
どうせ・・・彼女と結ばれる前のあの空虚な日々はなかったも同じ。
ひどい苦痛の毎日だった、己れの想いを表に出せないというのは・・・しかし今は違う。短命とわかってはいても、なんという充実感。これなら自分は死んでもいい。いや、空虚な長い人生と引き替えに充実の後の数か月を手にしたのだ。自分はそういう男。あんな苦痛が永世続くような長い年月は、生きていても仕方がない。後悔?
そんなものはないし、したこともない。
今までで後悔という思いを味わったというのなら―――それはあの日。彼女を褒美に望まなかったあの日。しかしそれも今は遠き日々。思い残すことなどもうない。
オルノスの身体を、熱い想いが伝わっていく。冷たい部屋の中でそれは、あたかも身体そのものが炎のように。愛という名の、熱い熱い狂おしい炎。
雲母の屏風 燭影深し
長河漸く落ちて 暁星沈む
常娥は応に霊薬を偸みしを悔ゆべし
碧海 青天 夜夜の心
「・・・・・・」
正にあの人そのものだ、オルノスは思った。
常娥。美しき月の女神よ。
照らされる青い部屋・・・オルノスはその美しくも冷たい死の光が己れを貫くのを悟ったような気がした。
翌月十一月―――。裁定が申し渡された。
オルノス将軍は死刑。再三に渡る申し開きを拒み、その態度は不敬極まる。情状酌量の余地は一切なしとの判断である。また愛人ズヴェイラは何のお咎めもなし。この差は明らかに国王の個人的感情に拠る差別であったが、それに異論を唱えるほど勇気のある者は誰一人としていなかった。ズヴェイラは罪されることを免れたが、宮廷内での彼女の立場がひどく苦しくなることは、変わらぬ寵愛を受けていても猶、揺るぎない事実であろう。
オルノス将軍にはしかし、恩赦が与えられた。それは、死刑を免除するという事以外に何でも一つ希望をかなえるというものであった。さすがに彼の今までの彼の功績を無視できない上層部が国王に進言したのだろう。元々死刑という刑の内容がおかしすぎるのだ。
いいところ四年以上の閉門なのを、国王の感情ひとつでこうなったといってもおかしくはない。今までこういった恩赦は多く与えられ、そしてそれらの多くは刑執行の日延べという形で行なわれてきた。執行の延長は最高三年。誰もがオルノス将軍がこれを希望すると信じていた。
しかし彼はそれを希望しなかった。自らの身を滅ぼした恋の相手・ズヴェイラに逢おうともしなかった。
彼が希望したのは、
あの楽師の歌を一晩中聞くこと。
天下にその名を轟かせるあの玉の喉を一晩独り占めしたい、彼はそう申し伝えたという。
心ある人、そしてオルノスに影ながら味方していた者たちは一斉に息をついたという、あいつらしい、どの国の国王も、あの喉を一晩独り占めした者など過去にも未来にも存在すまい。何と彼らしい粋な望みなのだ。浅ましく刑を日延べすることなどよりもずっと美しい、潔い終わりだ。
その話を聞きスキエルニエビツェも支度にかかった。三日間歌を歌うのをやめ、部屋の湿度に細心の注意を払い、蜜酒で喉を潤し発声だけを続けた。リュートの弦をすべて新しくして念入りに調律し、腹も柄もすべてぴかぴかに磨いた。そしてとうとう明日オルノスの元へ赴こうという時、彼女は廊下でアリエイテス将軍と出会った―――――いや、将軍は彼女を待っていたのかも知れぬ、柱に寄り掛かり腕を組んでじっと立っていた。スキエルニエビツェは軽く会釈をして通りすぎようとし、すぐ側まで彼女が来て相変わらず前を見たままのアリエイテスが、低く強く言った。
「愚かな奴だ。女などに構わなければ長生きできたものを」
スキエルニエビツェはかっとなって振り向き打ち据えるような声で言った。
「愚かなのはあなたよ」
スキエルニエビツェは続けた。腕をほどきこちらを見るアリエイテスに構わず続けた。
「死を恐れることと人を愛することは同義だと―――・・・私に教えてくれた人がいたわ。 誰かを愛し大切に思うからこそ彼らと逢えなくなるのは恐ろしい、だから死を恐れる人間は誰か一人でも人を愛していると。恋人でも友人でも親でもいい。でもあなたを見ていると死ぬことを恐れているようには見えない。死を恐れない人間は結局誰も愛していないのよ。そんな人間に―――・・・あの方の気持ちがわかるはずがありません」
スキエルニエビツェは駆けるようにしてそこから去った。
残されたアリエイテス将軍は―――――彼女の背中をじっと見つめ、しばらく茫然としていたが、やがてふっと自嘲するように笑い、低く呟いた。
「・・・そうかもしれんな・・・」
所詮俺は・・・そういう人間なのだから―――――。
次の晩、梶(表萌黄・裏濃萌黄)の鮮やかな襲を纏い、スキエルニエビツェは暗く寒い地下牢を訪れた。鉄格子の前には彼女の為に分厚い座布団ともたれかかるための脇息、そして暖をとる為の火鉢が二つも置かれた。
オルノスは壁に寄り掛かって膝の間に顔を埋め、灯りと人の気配が近付くのに気付いて顔を上げた。
「・・・君か」
寒い地下牢、薄い毛布とろくでもない食事のせいで、オルノスの頬は不精髭で覆われ、落ち窪み、ひどくやつれていたが、その瞳の光は変わらなかった。そう、彼はこんなことで自らの尊厳を失ってしまうような男ではなかった。
「お招きにあずかりまして」
スキエルニエビツェはにっこりと笑って分厚い座布団の上に座った。シュル、梶(表萌黄・裏濃萌黄)の色をした絹が微かに衣擦れの音をさせてそこに広がる。
「無理な願い事をして済まなかったな」
オルノスも口元に笑みを浮かべて言った。
「いいえ・・・恩赦に私の歌を望んでいただくなんて、楽師冥利につきますわ」
言いながらスキエルニエビツェはリュートの調弦を始めた。
「お望みの歌はございますか?」
「任せる」
ホロン・・・
スキエルニエビツェの白い指が止まり、口元はわずかに笑みに歪む。
「それでは喉が渇れるまで・・・・・・」
雪は山堂を擁して 樹影深し
檐鈴動かず 夜沈沈
閑かに乱帙を収めて疑義を思う
一穂の青燈 万古の心
ホロロロロ・・・・・・
「続いて塞下曲・・・」
惨惨として寒日没し
北風 蓬根を巻く
将軍 疲兵を領い
却きて入る 古塞の門
頭を回らして陰山を指せば
殺気 黄雲と成る
「・・・・・・」
オルノスの瞳が一瞬だけ遠くなった。
いつかの自分もそうだった・・・戦に身を置き、戦い、勝つことの充足感。思えば国王のためにすべてしていた事。逆恨みするわけではないが、どうして自分は現在の汎胤国王に仕える将軍だったのだろう。ふと思った。もっと仕えがいのある主君は他国にも山といたろうに。
「まったく意地の悪い女だな」
スキエルニエビツェはにこやかに顔を上げた。
「皮肉にしか聞こえん」
「まあ・・・・・・そんなつもりではありませんわ。お懐かしいかと思って」
「それが皮肉だというのだ」
二人は同時に笑いだした。死の影に取り憑かれているとは思えないほど明るい声だ。その笑い声はしばらく地下牢に響き渡り、二人の談笑の序章ともなった。
「次は何を聞かせてくれる」
「なんなりと・・・・・・・夜は長うございます。恋の歌から季節の歌まで」
「千夜一夜だな」
「ふふふふふふ・・・」
スキエルニエビツェの少女のような朗らかな笑い・・・春の風のようだ。
その二人の笑いと話し声を聞いていた人影は、ずっとずっと地下牢の階段に佇んで硬直していたが、歩きだすか引き返すか悩みに悩んで、結局元来た道を戻ってしまった。供の者も連れず、一人灯りを手に、彼女はゆっくりと階段を引き返していった。
今私があの場所へ行くことは・・・
何にも勝る罪。あの楽しやかな時間を侵してはならない・・・
すみれ色の瞳を閉じて、彼女はその時自分の身の振り方を決意した。
九日駆馳して 一日閑あり
君を尋ぬるも遇わず 又た空しく還る
怪しみ来たる 詩思 人骨を清むるを
門は寒流に対し 雪は山に満つ
ポロ・・・
ォォォォォンンンン・・・
礬頭の山は屋頭に在りて堆く
磬口の花は水口に于て開く
故人に遇わずんば 誰と共にか賞せん
打氷声裏 一舟来たる
〈 礬頭の山は家のほとりにそびえ、磬口梅の花は川のほとりに咲いている。
友人と会えなければ、誰とともに一足早くこの春を楽しもう。
と思っていると、氷を打ち割る音がして、一艚の舟がやって来た。〉
「・・・美しい歌だな・・・」
ホロン・・・
あたかもオルノスの呟きを聞こえないふりをするかのように、リュートは美しい音を奏で続ける。生き物のように、その白く細い指という職人によって描かれた美しい音の絵。
百千の寒雀 空庭に下り
梅梢に小集して晩晴を話す
特地に団を作して我を喧殺す
忽然として驚き散じ 寂として声無し
地下牢でその声は、一晩中響き渡っていた。
その日ズヴェイラは国王のいる玉座の間を訪れた。正装し、明らかに愛人としてではなく国王を訪れた人間としての立ち居振る舞いであった。人々は微かに鼻白んだが、彼女の現在の立場を思って結局何も言わなかった。不倫をしたといっても、彼女が国王のお気にいりの愛妾であることに変わりはない。
「国王陛下にお願いが・・・・」
「なんだねズヴェイラ。お前の頼みならなんでも聞こう。言いなさい」
うなづき、顔を上げるズヴェイラをアリエイテスが複雑な顔で見つめている。
「・・・慧燕領内里冠への定住をお願い致したく・・・・・・」
!
玉座の間に衝撃が奔った。汎胤国王の愛妾の立場を捨て、また元の暮らしに戻ろうというのか。いくら罪を侵したとはいえ、せっかく責任を問われていないのだから残ればいいものを。そしてなにより、里冠はオルノスに与えられた領地だ。そこへ定住したいということは、つまりは。
アリエイテスの顔が目が醒めたような面立ちにサッと変わった。
しかしそれがズヴェイラには耐えられないのだ。自分も加担した罪のせいで人一人が死に、自分は何もお咎めなしなどと、どうして我慢できよう。所詮は宮廷の暮らしに向かぬ性分、これをいい機に、私は一生あの美しい故郷で余生を静かに暮らそう。そしてあの将軍―――自分をあんなにも愛してくれた将軍の分も生き、彼の冥福のために生きよう。
「・・・ズヴェイラ・・・」
国王は絶句し、立ち上がって硬直している。
「・・・お許しいただけますか」
「―――――い、いかん! それだけはならぬ!」
「ですが陛下・・・」
「ならん!」
「―――――」
悲しそうに眉を寄せたズヴェイラの顔を見てずっと黙っていたアリエイテスが、今ズヴェイラが玉座の間に来てから同僚の噂話やひそひそ話に一切耳も貸さなかったアリエイテスが、敢然と一歩前に進み出て言った。
「陛下。我々の前でズヴェイラ殿の頼みならなんでも聞こう、とおっしゃったではありませんか」
「黙れ!」
「いいえ陛下。
一国の王たる方が公の場で約束を簡単に反古してよろしいとお思いですか。約束なさった以上はお守りするべきです」
ズヴェイラはアリエイテスの顔を見た。無表情で冷たくすら感じるその横顔、こちらをちらりとも見ず、国王を吃と見据えている。
―――――なるほどお前の選んだ女
アリエイテスはそっと瞳を閉じた。
「・・・」
―――大したもの
「アリエイテス将軍・・・お前は」
国王は唸って拳を握り、お前もオルノスのようになりたいのかと怒鳴ろうとした。
「陛下。いい加減になさりませ。アリエイテス将軍の申される通り約束は約束」
「公の場でそうおっしゃったのなら、それは果たすべきですぞ」
「このことが国外に漏れでもしたら・・・汎胤の信用は地に落ちましょう」
「愛人程度とお思いなさるな・・・親しい間柄であるからこそ、約束というものは守らなければ成らぬもの。他国はそこまで判断致しましょう」
一斉にアリエイテスを庇い始めた大臣や長老や将軍たちを見て、当のアリエイテスの顔がちょっと驚いたものになっている。
オルノスを失ってしまったのはある意味仕方がない・・・それで国王の気持ちが収まろうというのなら痛い損失だが諦めもしよう。
しかしオルノスを失いこの上アリエイテスまで失ってしまったら・・・汎胤はどうなるか知れたものではない。
彼らの心中はこんなものだっただろう。
そして国王は―――――彼らの暗黙の重圧に負け、結局許してしまった。
ズヴェイラは来月にでも出立する予定である。
ズヴェイラを迎えに来た慧燕の貴族達の馬の影が、山の上の汎胤からも消えようとしている。輿に乗せられてズヴェイラは去った。
そしてそれを、消えるまで見続け消えても尚見送り続けていたアリエイテスは、
「・・・」
沈黙のまま城の中へと戻っていった。
サラサラサラ、心地よい衣擦れの音は宮廷ではあまり聞かないものだ。なぜかというとそれは襲ではなく唐衣の衣擦れの音であったから。
「・・・行くのか」
「ええ。長いこと一つの場所にいるのは性に合わないから」
「そうか・・・気を付けて行け」
スキエルニエビツェは礼を言う代わりににっこりと微笑んだ。
玉座の間の一件・・・彼女も耳にしているのだ。
「あなたがいれば、なんとかなるわね、この国は」
「―――――」
スキエルニエビツェはスッとアリエイテスの脇を通りぬけ、そして裏口から静かに出ていった。ここから出ると街を通らずに下山できる。
柱に寄り掛かり、腕を組んで、アリエイテスはその後ろ姿をずっと見つめていた。
気のせいだろうか、風に乗って微かに歌声が聞こえてきたような気がする。アリエイテスは腕をほどき、わずかに首を振りながら、静かに城に戻っていった。
忽ち見る 未知の嶽
杳然として雲を望むが如し
天に倚りて千仞立ち
地を抜いて八州分かる
晴雪 粉は描くに堪え
長烟 篆は文を作す
時有りてか仙客到り
笙鶴を月中に聞かん
真銀将軍オルノスの処刑より前に、スキエルニエビツェは汎胤を去った。
たった一瞬のために命をかけた男の事を胸に・・・。
璣--------その碧は大地の緑、寛大かつ深淵なる愛は大地の愛と云われる。しかして大地は 寛容と豊の みにあらず、忍耐と破壊の衝動を持つものなり。世の者は心して聞け、 恋は下に恋ありて下心、愛は中に心ありて真心と。恋は嵐、己も相手も粉粉に砕く 嵐、愛は相手を思いやる一陣の微風、嵐収まりて微風となるかそのまま全てを破壊せしめるか否かは己の生き様による。だが恋を侮るなかれ愛は必ず恋より始まる苦しみを乗り越え、耐えた者のみ愛を得ることができる。忘れるなかれ愛は、己の身を挺してでも相手を守ることと知れ実に璣は、恋の第五星と並び愛の星大地の星として世に伝ふ。