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七星譚   作者: 青雨
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指環の女

                  第三章 指環の女



 劉深は海に面した国で、高台にあり街のどこからでも真っ青な海を望むことができる。住む人々の性格は天真爛漫で開放的、陽気で人なつこい人ばかりというのが、劉深を訪れた旅人の平均的な意見である。世界で唯一灯台を所有する国でもあり、それは近海に暗礁や海面のすぐ下に船を待ち構えるいかつい岩などが点在していて、非常に危険であるという理由から、灯台に住む灯台守りがたった一人でそれらを管理している。

 聞くところによると劉深の国王は大変人柄がよく、性格は寛大で穏やか、戦の時には先頭をきって敵と勇猛果敢に戦い、また話のわかる主君として配下の騎士や近衛兵、雑兵にすら親しまれているという。良さそうな国だ、スキエルニエビツェはそれを聞いてまず思った。国の性格というものは統治者を反映する。桔三年十一月半ば、劉深に来てようやく一ヵ月が経とうとしている。   表に出ると潮の香りがするのも、さわ、と吹く風がなんとなく塩辛いのも、陽射しが強い割に暑いわけでもないという環境にも慣れてきた。現在スキエルニエビツェはリドルグ伯の屋敷に寝泊りしている。伯の要望に応じて歌を歌い、また夫人の願いを聞いてリュートを奏でる。

「あなたにそんなつもりは毛頭ないのはよくわかっているが・・・」

 劉深に向かう途中、リドルグ伯は静かに口を開いた。

「しかしやはり言っておきたい。あなたは楽師として訪れ、慰み者になるのでも私の王宮に対する贈り物としてやってきたのでもないと。あなたは私の屋敷に留まり、そこで歌を歌ってくれればいいのだから」

 スキエルニエビツェは自分の運命に感謝した。こんなことを言ってくれる男はそうはいない。虜囚ではないだけ、運命の運びに感謝せねば。

 しばらくは平穏で平凡な日々が続いた。国外へ出掛けることの多いリドルグ伯が帰ってきたら、夫を労う夫人とリドルグ伯のために歌を歌い、また日中は夫人の話相手となり、時に乞われて歌を歌う。

 することがなければ与えられた部屋で本を読み、景観見事な庭に出ては心の赴くままリュートを弾く。外出は自由で、何も縛られているという観念はなかった。海辺は時に気の荒い男たちもいるというので、護衛をつけてくれるという丁寧さである。砂浜にも出た。

 冬だったので人気はなく、寂しげな感じと冷たい風、かなたにきらりと光る白い灯台だけを覚えている。

 冬の海は厳しい。白い波が岩に当たって砕け、黒い高波は大きくうねって恐ろしいほどの猛威を振るう。今まで海を見た経験は二度あったスキエルニエビツェであったが、これほど海らしい海を見たのは初めてであった。

 年が開けて人日を過ぎた頃、リドルグ伯がいつものように静かな調子で言った。

「劉深にはもう慣れたかね」

「はい。おかげさまで・・・」

「ふむ。ところで提案があるのだが・・・」

「?」

「妻とも相談したのだが、君はいまいち我が家ではその本領を発揮できないのではないかと思ってね」

「いえ、そんなことは・・・」

 伯は手を振って朗らかに笑った。

「いや、君に不満というのではない。むしろ、不満は君の方にあるのではないかと思ってね。私は外出が多いし妻も君の歌だけを聞いていられるほど優雅な生活はしていない。ここは思い切って国王陛下にお話しし、君を城に挙げようと思うのだが、どうかね」

「リドルグ伯・・・」

「そうすれば陛下も妃殿下も喜ばれようし、互いにいいことだと思う。いかがかな、スキエルニエビツェ。城に行く気はないかな?」

 自由を装ってはいても自分は己れの意志でこの国を出ることはできない―――――。

 スキエルニエビツェは痛感していた。ならば、もうこの男の言う通りでいいのでは。風に身を任せるように、運命に身を任せよう。

「―――――そうまでおっしゃって頂けるのなら・・・・・・」

「そうか。それでは明日にでも城へ行こう。陛下も君の噂は耳にされていて、その喉を披露してくれることを待ち望んでおられる」

 スキエルニエビツェは頭を下げた。

「スキエルニエビツェ。これだけははっきりと言っておこう。君は確かに私の所にいて、自分の意志でこの国を出ることはできないが、だからといって私は自分の立身のために君を陛下に差し上げるだとか、ましてやこの国の捕虜だと考えるのは違う。そういう邪な考えで君を城にやるのではないのだ。わかってほしい」

「主人がそこまで頭がよければ、もう少しうまいこと人生を歩んでいてよ」

 笑いながら夫人が言う。その通りなのだ。この二人は、楽師である自分がいかに楽師としての本領を発揮できるかに心を砕き、こうしてわざわざ言ってくれている。

 そんなことをしなくても、伯は国一の資産を持つ大貴族で、王室とほぼ同じくらいの伝統と財産を持っている。にも関わらず、少しも気取ったところがなく、常に紳士で謙虚なので、国王は彼を無二の友とまで公言するほどである。純粋にスキエルニエビツェを気遣ってくれているのだ。楽師はつくづく我が身の幸運を身に染みて実感した。

 明くる日、スキエルニエビツェはリドルグ伯に連れられて王宮へ入った。国王は、これが一国の君主なのか? 思わず疑ってしまうほど人あたりがよく、今まで無数の国の国王と接してきたスキエルニエビツェの頭の中でも、相当上位を占める一人に入りそうな男だった。妃はいるようだが、今は病気療養中だとかで玉座の間には姿を現わさなかった。国王アレクサンドロフスコエはなるほど、噂に違わず相当な人物であるらしいとスキエルニエビツェは判断した。

 劉深の海のような深い青色の瞳、夜のさざ波のような見事な銀の髪は、海の国劉深に生まれてくるためにあるような容姿だ。

「さっそく城内を案内させよう。その前に部屋に行くといい」

 スキエルニエビツェは城での生活を始めた。部屋は快適で、窓から海が見える。風も涼しく、庭も一望できる。城での最初の仕事は王妃の部屋へ行き、その喉で彼女の心を癒すことだった。妃は別段病弱というわけではないようだが、身体が疲れたところを見計らったように病気にやられしてまったようだ。寝込んで大分長いらしい。最初はリュートで甘い音色だけを弾いて、疲れた顔をしている彼女を寝かせることに専念した。国王は大層彼女を気に入って、よく玉座の間に呼んでは、麗しい喉に聞き惚れた。玉座の背後には海を望める大きな窓があって、その前に座り海を背にして歌うスキエルニエビツェは、生まれた時から劉深にいるかのような落ち着きで海の青と調和していた。

 二月になった頃、スキエルニエビツェはあることに気づいていた。それは王宮の人間の少なさである。それがこの国の人員の整備の仕方なのだ、そう言われればそうなのだろうが、しかしどこか閑散としている。玉座の間にいるのはいずれも文官のような雰囲気の、しかも年配の者ばかりだ。大臣や或いは長老以外には考えられない者たちである。

 この国は、将軍たちが玉座の間には控える習慣がないのだろうか。スキエルニエビツェは調弦しながらちらりと思った。今まで数十ヵ国をまわってきたが、そんな国は初めてであった。賊が玉座の間に入ってきたりして、衛士では手に負えないときや、開戦を宣言するのに近くに誰か軍人がいたほうが伝達が早くないのだろうか。

 しかしそんなスキエルニエビツェの迷いは国王の言葉で解決した。

「今将軍たちは軒並み戦に赴いておってな。陸と海と両方から遠征に行ってしまっているのだ。彼らが帰ってきたら改めて紹介しよう」

「将軍方というのは、皆様お城に住んでおられるのですか?」

「既婚者以外はそうだ。非常事態に備えられるようになっている」

 ふーん、スキエルニエビツェは小さく呟いた。やはりそういったところはどこの国も同じなのか。がたり、風の音が強くなって思わず外を見ると、空は鉛色で今にも嵐が来そうな天気だ。海も空同様鈍い色となって油のようにうねっている。そんな海の上で、嘘のような真っ白な塔が孤高を保って聳えている。灯台だ。

「ひと嵐来るか・・・灯台守りの仕事が増えそうだ」

 国王は眉を寄せて呟いた。劉深の海域は暗礁が非常に多く、別名『船の墓場』とまで昔は言われていたものだった。それが、近年はそういった事故が一切ない。灯台守りのおかげなのである。彼はたった一人で、ともすれば狂ってしまいそうな孤独と向かい合って二十四時間海の安全を守っている。海を愛し、この劉深を愛してくれていればこそ、できることといえよう。そんな話をちらりとして、国王は立ち上がって会議へ赴いた。スキエルニエビツェは一礼して彼を送り出し、王妃の元へ向かって短い歌を一曲歌ってから、彼女が眠るまでリュートを弾き続けていた。そして一息つくために自室へ向かい、髪をほどいて窓の外を見やった。鉛色の空、鉛色の海。

 冬の海の厳しさは想像以上にその冷たさを見せ付けた。天気が良ければ空も海も眩しいくらいに輝いていて、胸がすくような心地良い風が吹いているのに、一転して天気が悪ければどんよりと暗く、不吉なものを感じさせてしまう気分にする。海とは意外な二面性を併せ持つものなのだと知った。しかしそれは海に慣れない自分の思うところであって、劉深の人々はこのような天気は別段珍しいとも思っていないようだ。よくあることなのだろう。それだけがスキエルニエビツェを安心させる唯一の事柄のようでもあった。

 そしてそんな鉛色の空と海が姿を見せることが日に日に少なくなってきたある日。

 その日は朝からなんだか騒がしかった。否、騒がしいという言葉は適切ではない。どこか、会う者皆が当惑している。動揺しているというか落ち着きがないというか、悪い報せを聞いてそれにどうすればいいのかわからず、おろおろとしているような、そんな感じだ。特にスキエルニエビツェを見ると皆一様にスッと目をそらす。哀れんでいるような、同情しているような。まるで当事者のような扱われ方であった。午後近くなってスキエルニエビツェは国王の召喚をうけた。簪をさし襲を纏い、スキエルニエビツェはリュートを持ち玉座の間へ向かった。

 そこには珍しくリドルグ伯もいた。スキエルニエビツェが伯の手から国王の手に渡されてから最初の再会であった。

「リドルグ伯・・・・・・お久しぶりでございます」

 スキエルニエビツェは薄く笑って言った。そして定座へ行こうとすると、今まで苦々しい顔でずっと黙っていた国王がすっと手を上げて制止し、初めて口を開いた。

「いや、そうではないのだスキエルニエビツェ」

「・・・」

 彼女は普段国王からイオシスと呼ばれている。こうして正しい名前で言うには、よほどのことがあったのだろうか。

「・・・実は・・・」



「私はこれからかの国へ向かう。一ヵ月も前のことだがとにかく行かなくては」

 リドルグ伯はそう言うと国王に一礼した。既に旅姿である。このまま直に旅に出るつもりなのだろう。足早に立ち去るリドルグ伯を頭を下げて見送り、スキエルニエビツェは一呼吸おいて静かに言った。か細い声だった。

「陛下・・・・・・本日は部屋で休ませて頂きたく・・・ご許可を願います」

「―――――・・・いいだろう・・・ゆっくりと休むがよい」

 国王は沈痛の面持ちで言った。リドルグ伯のようにかの国と直接の関わりはないが、音に聞こえし名君だったという。

 スキエルニエビツェはうつむいたまま玉座の間を出ると、そのまま部屋へと向かった。

 そんな彼女の態度を不敬だと咎める将軍もいたが、国王は手を振って彼らを黙らせた。

「我々には想像もつかないほど深い絆で結ばれていたのだ」

 重い一言だ。

 玉座の間はきまずい沈黙とわずかな咳払いに包まれた。もう誰も、彼女を不敬と咎める者はいなかった。

 国王は深くうなづくと、そのまま書斎に向かうためにすっと立ち上がり、その日は一度も部屋の外へは出なかった。



「・・・」

 スキエルニエビツェは廊下の窓から放心したよう空を見上げた。

 ―――――なんと美しい空か・・・吸い込まれそうな美しさ。

 城内の人間が自分を見て目をそらす理由がわかった。かの国から来た者、かの国からここへと移って来た者、いったいつい今まで滞在していた国の主人が死んでしまって、どういう思いなのだろう? 気の毒に。

 スキエルニエビツェは未だ信じられない思いで部屋へと帰った。そして箪笥から服喪用の黒重ねの襲を取り出したが、そこで硬直した。

 ―――――こんな襲を来てあの方は喜ぶだろうか。

 きり、唇を噛むと、今が春であることに彼女は感謝した。白躑躅(表白・裏紫)を取り出し、簪と笄で髪を上げ直し、スキエルニエビツェはベランダに出た。

 ホロ・・・ン・・・



       牆角 数枝の梅

       寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり



 風が吹いて歌声を乗せて消えていった。届いただろうか、あの国に、あの方の眠る場所まで。

「―――――」

 僅かに眉を寄せ、スキエルニエビツェは風に髪を揺らめかすままに海を睨んでいた。明るい光が彼女を照らし、風が前髪を踊らせる。

 運命に身を任せここまでやってきたスキエルニエビツェであったが―――――・・・

春まだ遠い三月、どこからか流れてきた突然の訃報に、彼女は立ち尽くすしかなかった。

 カストリーズ将軍は、滅法強いらしい。戦場でどんな窮地に立たされても、決して弱音を吐くこともなければ弱気になることもない。

 いつも自分が勝つ、こんな所では死なぬと血まみれになって死に物狂いで窮地を脱する。 そして必ず勝利する。まだまだ女性で軍人の少ない時代であるから、彼女が戦場に立つと嫌でも目立ったし、将軍だけに首を狙われることは何度となくあったが、自分の身長の二倍以上の戦士を相手にして、見守っている側近の者が少々ひやひやする場面がありはしても、最後に立っているのはカストリーズ将軍だった。劉深の将軍連中では最年少の二十五歳で、そして最強の中に数えられる将軍の一人だった。滅多に感情を表に出さず、笑っているところを見た者は誰もいない。敵にはまるで鬼かと思うような手厳しさと冷酷さで対処し、容赦しない。

 しかし味方の兵士には慕われている。なんといってもどんな低級の兵卒であれ殺されかけたり危なかったりすると助けてくれるし、とことん面倒見がいい。まったく身寄りのない若い兵士がある日ひどい熱病にかかり、医者にかかる金がなかったのを負担してやり、おまけに彼が意識を取り戻すまでの三日間、一睡もせずに側にいたという話は有名だ。ほとんど捨て駒同然といってもいいほど低級な、しかも面識もなく初めて話す兵士に、ただならぬ金を負担するのは別として、ずっと病床についていてくれる将軍など他にはいない。

 のちにその兵士が医者にかかった時の金を少しずつ返しに来ていたが、その度にいらぬといって追い帰したそうだ。無愛想で口を開くことも滅多にないが、そんな理由でカストリーズ将軍は部下には大層好かれていた。

 だからこそ、少々所行が良くなくても、それは将軍の私生活だからと言われるのにとどまっていたのだった。それは上層部も同じで、あんな将軍は国の品位を落としめると陰で思ってはいても、決して口に出さないのは彼女の戦での功績が良すぎるから、彼女を失っては国の損害になることをよくわかっているからである。

 カストリーズは、誰とでも寝ることでは有名だった。本当に誰とでもよいのだ。それは色恋などという甘いものではなく、単に動物的な欲求が働いたからという理由からにすぎない。寝られれば誰とでもいいのだ、誰もがそう思っているし、実際彼女もそう思っている。

 桔四年四月、やっと風が暖かくなってきたある日、カストリーズ将軍は将軍たちの中で一番遅く帰国した。戦には見事勝ち、その報告をしに玉座の間へと行き国王の労いの言葉と褒美を賜った後宮殿内の自分の部屋へと帰るため廊下を歩いているところだった。

「・・・・・・」

 向こうから、知らない女が歩いてくる。カストリーズは女だが軍人だし女の格好をするのは好きではないので旗袍を着る。しかし襲の色目に対する知識は当然持っているので遠目でもその女が目にも鮮やかな牡丹(表淡蘇芳・裏白)の襲を纏っているのがわかる。

 髪は長く床を這う襲の裾の上に垂れている。大理石か白磁のように白い肌と、紅でもさしたのか美しい唇。瞳は髪同様黒く輝いていたが、見たことのない女だった。すれ違いざま向こうは立ち止まり丁寧に膝を折って頭を下げ挨拶をしたが、カストリーズは構わなかった。彼女が去った後、その姿が消えるまで振り返って見ていたが、

「・・・ふん・・・」

 と呟いただけだった。カストリーズはそれ以来、その女のことなどすっかり忘れてしまっていた。


 カストリーズ・イゾンツォ。彼女の幼少からの環境は劣悪といってもよいほどの悲惨なものであった。

 彼女は元は中級貴族の生まれである。劉深ではそこそこ知られた家でもあった。伯爵の父と母と、えらく歳の離れた兄、そして彼女。

 兄は、何でもできる人間だった。明晰な頭脳、どんな運動もこなす体力と運動神経、ずば抜けて素晴らしい徳。伯爵家を担って余る者と誰もが期待を寄せた。父も母も、初めての子供が人並み以上に優れていたため、自分の子供はこれで当たり前と信じて疑わなかった。兄を評価しなかったのではない、彼は両親に非常に大切にされてきた。両親は他の家の子供よりも自分の子供が不思議すぎるほど優れているのを知っていたし、それを誇りにも思っていた。自分たちの子供は、そうして無条件に優れていると本気で思っていた。

 そしてカストリーズが生まれた。兄より十三歳も離れて生まれた伯爵家の娘だった。

 カストリーズは、決してできない子供であったわけではない。むしろ勉強も運動もわかりやすく五段階で言うなら四や五の子供だった。しかし彼女の不運は、五段階で七や八の評価を受ける兄を持つことだった。

 カストリーズ、どうしてお前はそうなのだ、兄さんはあんなにできるのに。

 カストリーズ、なぜそんなに平凡なの、お兄さまをご覧なさいあんなに人徳があって。

 あんなに積極的で明るいお兄さまに比べて、どうして宴の席で笑わないの? お前の兄はもっと優秀だぞ。

 兄は お兄様は あんなによくできるのに あんなに素晴らしい人間なのに あれほどできて初めて私たちの子供といえるのに なんて粗末なのだろうお前という子は

 兄はこんなにできるのに―――兄の足元にも及ばないお前は―――愛される資格はない!

 カストリーズの救われた点といえば・・・これだけ終始兄と比較されて育ってきたのにも関わらず、少しも人の目を気にしたり卑屈になったりせずに育ったことだろう。彼女は物心つく頃からきちんと確立した「自己」を持っていた。だから、どんなに兄と比べられても、どんなに兄と比べられて貶められても、結局違う人間どうしなのだから同じであるはずがない、同じであろうと思ってもいけないということを本能に近いもので知っていた。 兄に劣等感を抱くこともなかったし、いつも光を当てられる兄を憎んだりしたこともなかった。自分は自分で、兄は兄。同じものを比べるのは当たり前のことだが、違うものを比べるのはおかしい、間違っていることだと、間違っていることを臆面もなくしている両親を密かに軽蔑していた。だから当然のこと、カストリーズは兄のようになろうという努力をしなかった。する必要もない。そんなカストリーズはやはり両親には受け入れられなかった。あの兄の妹なのだから、努力すれば兄のようになれるのに、その努力すらしない。 いったい同じ兄妹でどうしてこうも違うのだ。早く諦めればいいものの、彼女の両親は最後までカストリーズを兄のようにすることを諦めなかった。

 カストリーズはカストリーズという個人ではなく、「兄その二」だったのだ。そして兄のようにならないカストリーズを両親は軽んじ、憎みさえした。

 また、彼女の生来の男勝りの性格も大いに災いした。

 男子を持った以上は、母はまた別に女の子を持つことを熱望していた。

 絹を贅沢にあしらった襲をいかに着せてやろう、こんな紋様やあんなあしらいをしてみたい。女の子なら髪をいじるのも楽しかろう。わたしのお気に入りの簪をあげてもいい、ああ、祖母の形見の簪を二人で挿して、観劇にでも行ける日が来るだろうか。

 ところが成長するにつれ、カストリーズは襲どころか唐衣も暴れて嫌がり、女だてらに剣の稽古を好み、馬に跨って野山を駆け、旗胞を来て走り回る猿のようなお転婆娘だった。母はなによりも誰よりも嘆いた。退屈な生活の中、自分の思い通りになるお人形が手に入ると思っていたのだ。しかしお人形は女の子のお人形ではなく、壊れた絡繰りの猿であった。母の落胆は見る見る憎悪に変わった。自分の思い通りのお人形にならないのなら、娘である意味すらない。いてもいなくてもいいなら、いて苛々させられる分、いないほうがよろしい。

 カストリーズは、物心ついて向こう意識的にも無意識的にも愛されていると感じたことはなかった。無償の愛を与えてくれるはずの存在は、「兄のように」なることを前提として愛を与えようとした。だからカストリーズは、自分は愛されていない人間とよく自覚できた。彼女が他の人間と違うところはここからである。カストリーズはあんな人間に愛されたところで嬉しくないと思える強い人間だった。人としてしてはいけないことをする人間など所詮大したことはない。

 大したことのない人間に愛されても仕方がないし、また愛されないからといって悪いのは自分ではない、向こうなのだ。しかしそんなカストリーズも愛されるということに憧れることはあった。生まれてきた意味がなくなるような気がするのだ。

 両親から愛されていると思えたことは到頭一度もなかった。代わりに兄が彼女を愛した。 だから彼女は曲がらずに今まで生きてこられたのだ。

 両親はまた、他人の前で身内を辱めることもよしとした。兄より劣っていると見做されていたカストリーズは、所詮他人の前で身内を罵り卑下するというなにより醜悪な態度をとっても構わないほどどうでもいい存在とされていた。

 カストリーズにとって決定的な事は彼女が十五の時に起こった。

 彼女は十三歳で軍隊に入隊していた。両親を愛していないのだから、なんの迷いも生まれなかった。だがカストリーズの両親は、彼女を愛しもせず何の期待もせずに扱ってきた割には、見返りを要求する人間だった。つまり伯爵家の娘なのだから、良家の子女らしくそれなりの家の息子と結婚したりとか、そういうことを期待して押しつけてきた。母はお人形を諦めはしたかもしれないが、自分の自尊心を満たす道具として娘を諦めていなかった。軍隊などに入ってしまっては、他人に言えない、どこどこの家に嫁いだと自慢できないということは、鼻高々な思いができないということなのだ。それをカストリーズのせいにするのである。彼女が自分なりに選んだ彼女の生きたい道よりも、自分たちの名誉欲の方が大切なのだろう。兄よりも劣っているのなら、せめてとびきりの良家に嫁いで他人に自慢できるくらいのことができなければ意味がない。結局兄のようでなければ何も認められないのだった。娘が軍隊に入っているとは恥ずかしくて口が裂けても言えないというのである。

 そしてそんな恥ずかしいことをしている娘に、ある日両親から手紙がきた。兄が公用で国外に行くため、今度大切な客をもてなすための宴に出ろというのである。来賓が来るというのに、身内の者がいないというのは面汚しになると。そしてカストリーズはその宴の日、王城の不寝番だった。それを説明しても、両親は納得しなかった。不寝番が何だ、お前がする程度のものだから大したことはないのに、そうやってその程度のもののために親の申し出を断るとは何事だ。完璧に矛盾しているということを両親のどちらも気付いていなかった。不寝番ごとき――― 不寝番ごときと言われたのである。カストリーズは激怒した。王城の不寝番ほど軍隊で重んじられているものはない。劉深は陸と海の両方に面し、特に海からの密かな侵入者が城に入り込むことも珍しくない。しかし今まで王城に入り込んだ侵入者が何かを盗んだり人を殺めたり、国王夫妻に危害を与え、ひいては劉深にとってわずかでも困った事態を引き起こしたという記録はない。不寝番が必ずそれらを排除してきたからである。だからこそ軍隊では不寝番は何より大切な役割であるのと同時に不寝番を任せられるまでになるという誇りがある。カストリーズがそれをどれだけ蕩々と説明しても、両親はわかってくれなかった。

 そしてようやく嫌々ながらに出席した宴で、カストリーズは来賓にこう紹介された。

 ―――兄と比べて本当に何の価値もないような娘でして

 カストリーズは我が耳を疑った。

 それは、自分が貶められたということに対してではない。そんなのは慣れている。そうではなく、相手は大切な来賓である。思った通り来賓も驚きを隠せないようでいる。他人の前で身内を貶めるということは、それ以上に自分の品性を落としめているということをわかっていないのだろうか? そしてカストリーズはこの宴に進んで参加したわけではない。嫌々ながら、大切な仕事を代わってもらって、同僚に死ぬほどの迷惑をかけてここにいる。ここまで言うのなら、つまりは彼女に何の期待もしていないのなら、こんな大切な仕事は頼まなければいいのだ。しかも無理矢理だ。大きな負債を抱えてその場にいたカストリーズは、負債を抱えた意味すらなくなって損だけしてしまったのだ。あまりの怒りに彼女は途中で宴を抜け出した。寮にはすぐに帰るわけにはいかなかった。仕事をかわってもらったのに、こんなに早く帰ったのではまた顰蹙をかってしまう。結局さぼりたいだけだったのだと言われるのがおちであろう。軍隊にいる以上、必要のない不信感は互いに慎まなければならない。人の評判など気にしないカストリーズだったが、信用されなくなるのは軍隊では非常に痛いことだった。

 海から吹いて来る風に前髪を揺らして、カストリーズは砂浜に立ち尽くした。

 何ゆえ愛されぬ? 自らに責任があるのか。

 その日の海から吹いてくる風の心地よさを、カストリーズはなぜか、今もはっきりと覚えている。

 そして運命の日はある夜突然来た―――――。

 夜中寮で寝ていたカストリーズは同僚の扉を叩く音で目を覚ました。起こしにきたのは男の同僚であった。息せききって彼はカストリーズの家族が殺されたことを伝えた。

 強盗団に入られ、一切の金銭や宝物などを盗まれ、一家全員、侍女や警備の者たちも惨殺されていた。カストリーズも見にいったが、監察した医者が気分を悪くするほどひどい殺されようであった。

 ―――――兄上・・・ひどい死に方

 カストリーズは兄の死体を見下ろして目を細めた。両親はともかく、あなたがどうしてこんな死に方をしなければならないのか。あなたは生き残るべきだった、あの二人はどんな死に方をしても。

 両親の死体には目もくれず、カストリーズは寮に帰ってするべきことをした。葬式の手配、国王への報告、忌引き願いの提出、実に淡々と手配し、葬式も淡々とこなした。爵位は本来彼女が継ぐべきものだったが、あの親からは何も受け継ぎたくない、受け継ぐはこの身一つで充分と思って国王に爵位を返還した。

 そしてカストリーズは天涯孤独の身となった―――――両親が死んでも悲しくも何ともなかったが、胸には大きな穴が空いた。

 到頭愛してもらえなかった―――そんな自分は一体何?

 あの日から何年も経ってカストリーズは将軍となったが、その疑問は未だ晴れずに残されている。

 そしてカストリーズの心の穴は、あの時以来少しも変わってはいない。



 ―――――あの人は、一体何をしているのだろうか? 何を考えて今どこにいるのだろうか。どこか外にいて、もしかして同じようにこの夕焼けを見ているのだろうか? それとも屋内にいて何かしているのだろうか。彼のもとへ行きたい。心が狂いそうだ。恋しくて恋しくて息が苦しい。鉛を呑んだようなこの胸の重みはなんだ?

 あああの人に会いたい。たった一目会うだけでいいのに、今どこにいるのか、何をしているのか、それすらもわからない。彼の考えていることすらわからない。なんと惨めな恋か・・・それでもよい、彼に出会わないよりは。彼を知らないままよりも、彼を知って恋をし、地獄のような苦しみを味わっている方がましというものだ。

 一体今どこにいて―――・・・・・・

 何をしているのか――――― 。

 しかし想いはそこで打ち破られた。部屋の扉を誰かがノックしたからだ。

「―――入れ」

 低く言うと、紅梅匂(表紅梅・裏淡紅梅)の襲に侍女の印を肩につけた女が入ってきて一礼した。

「カストリーズ閣下、国王陛下が本日の夕刻の宴は是非参加するようにとのお達しでございます」

 カストリーズはしばらく黙っていたが、夕焼けから目を離すと振り向いて低い声で言った。

「わかった」



 宴は盛会だった。先の戦で敗けた将軍は一人もなく、その上妃は長い病床からやっと立ち直り、実に半年ぶりに玉座の間に姿を現わした。劉深は海と陸との両方に面していて戦が多く、戦争の強さにおいては世界でも名立たるものだったが、今まで一度の敗けもなく戦の季節を終わらせたというのは初めてのことだった。

 加えて劉深には今、音に聞こえし楽師が滞在している。人は普通死んだ後に伝説になるものだが、この楽師は生きながら既に伝説になるほど美しい声をしているのだそうだ。



    雨は歌む 東渡の頭

       永和三日 軽舟を盪かす

       故人の家は 桃花の岸に在り

       直ちに到らん 門前 渓水の流れに



 カストリーズはどこからか聞こえてくる妙なる声を聞きながら一人で壁に寄り掛かって杯を傾けていた。彼女は今、正装用の上等の絹で作った紺色の旗袍を身につけている。一見地味だが腰にからまる黒い髪と、なにより秋の日の美しい空のような水色の瞳、海風にさらされ陽射しに照らされて、灼けてもいいはずなのにそんなものを少しも感じさせない肌が、地味な色を着ることで却って派手に際立っている。カストリーズの肌は、本当に白い。透けるようにという表現がよく使われるが、うっすらと血管が青いのが見えたり、本当に透けている。

 何よりカストリーズという女を女たらしめ、彼女だけが持つ個性を最高に生かしているのが、旗袍という服装である。

 旗袍は男の着るものである。もっと言えば「主として」男が着るものである。ということは女が着た場合、男との違いが如実に外に出る。胸の膨らみ、腰のくびれ、下半身にかけてのまるみ。それに加えて脚の長短まで露呈する。おまけに旗袍は脚のどちらかの部分に歩きやすいように必ず切れ目がかなり長めに入っており、それは着る者の好みや用途によって調整するが、カストリーズの場合は腿の部分まで見え、なまめかしく妖しく動く白い脚に、唾を飲み込まない男はいないだろう。逆に言えば彼女には襲という女を前面に出して着る服は似合わない、襲を着ても美しくないことはないが、彼女の個性が長い裾と華やかすぎる色に殺されてしまうに違いない。

「・・・・・・」

 それでいてカストリーズは容易に男を近付けない。壁に寄り掛かり、無表情にというよりは、冷たい表情で黙々と酒を飲んでいる。

 自分は出たくて宴に出たわけではない、国王が出ろと言ったからここにいるのだと言いたげでもあった。

 何を考えているのかさっぱりわからないその瞳は、確実に今を見てはおらず、どこか遠くに向けられていた。それでいて心はしっかりとこの場所にあるのだ。



       紗窓 日落して 漸く黄昏

       金屋 人無く 涙痕を見る

       寂寞たる空庭 春晩れんと欲す

       梨花 地に満ち 門を開かず



 ウツクシイ声―――カストリーズは放心しながら、頭のどこかでそう思った。

 そしてその美しい声が、彼女を今いる場所へ引き戻した。見れば楽師は国王にほど近い所に陣取っている。人が集まってきて、人込みも人もあまり好きではないカストリーズはそっと庭へ移った。春の暖かい風がそっと頬を撫で、なにやらほのかに良い香りを運んでくる。

 もう春か・・・しかしこの国の春は短い。夏はじきにに来る。

 ―――――あの人と出会ったのも夏だった。

 池に歩み寄り、水面に姿を映したカストリーズの顔が一瞬、わからないほどわずかに曇った。空に目を馳せ想いを馳せる。知らず洩れるため息。

 庭に涼みに出たスキエルニエビツェは、そんなカストリーズの姿を見た。

「・・・・・・」

 ―――――なんて深い瞳・・・

 かさり。草を踏む微かな音でカストリーズは初めてそこに誰かいるのに気付いた。

「誰だ」

 鋭く誰何する。答えるより先に、そこには闇を切り取ったかのような黒い髪を従わせリュートをもった楽師が立っている。カストリーズは不愉快げに目を細めた。

「そこで何をしている」

「何も・・・暑くなったので涼みに」

 ちっ、と舌打ちして、カストリーズはスキエルニエビツェに背を向けた。池を見、池に映る春の星空を見ていたのだ。何も構うことなどない。眠たげに水面を漂う蓮の葉が、ゆらゆらと星空に水紋を描く。そんな池を放心して見つめているカストリーズの横に、スキエルニエビツェはスッと立った。カストリーズはちらりとそんなスキエルニエビツェを見たが、何も言わなかった。

「きれいな星・・・七星もあんなによく見えて」

 スキエルニエビツェは微笑みながら言った。カストリーズもつられて見る。

「・・・」

 春とはいえ夜はまだ寒い。見上げた紺青の空に自分の吐く白い息が重なる。見ると、隣の楽師も白い息を吐いて空を一心に見上げている。カストリーズはこの時初めてスキエルニエビツェに興味を持った。

「・・・お前は旅を続けているそうだな」

 スキエルニエビツェは視線を戻してカストリーズを見据え、静かに言った。

「ええ」

 しかし今は違う。どんな言い方もできるが囚われの身であることには変わりない。そしてスキエルニエビツェはそれをよくわかっている。わかっていて敢えてこう答えた。

「―――――」

 カストリーズも彼女がこう答えて初めて思い出した、リドルグ伯がかの国より連れてきた楽師は彼女であったと。自分は戦に行っていてよくは知らないが、なんでもかの国は洪水で一時食糧危機に陥り、それを救ったのがリドルグ伯であるという。彼らしい。伯は無償のつもりだったようだが、国王がそれを認めなかった。自分から伯にこの楽師を差し出したのだとか。ならば旅を続けているとはとても言えまい。

「・・・・・・」

 カストリーズはスキエルニエビツェから目をそらした。

 腕を組み、ただ空に目を馳せる。空を見ていると心が安らぐのは、こんなに素晴らしい星空ならば、あの人もきっと見上げているに違いないと思うからだろうか。そしてスキエルニエビツェは、カストリーズの組んだ腕の左手の薬指に細工ものの指環を見つけた。

 黒い鼈甲でできた指環で、細すぎず太すぎず、艶々としているところを見ると、上質のもののようだ。中央に金で細工が施されており、右に六角星、左に三日月が金箔で形づくられている。

「素敵な指環」

 スキエルニエビツェは思わず言った。カストリーズもその言葉と視線で何を指すのかわかったらしい、視線を戻して小さく言った。

「・・・・・・これか・・・」

 伏し目がちになり、カストリーズは押し黙った。長い長い沈黙だった。

「・・・・・・」

 なんだろう、この楽師は心を許せる気がする。いつの日か旅立つからか? 違う。話すのはこれが初めてなのに、どうしてこの指環のことを言う気になっているのだろう。

「―――――」

 カストリーズは瞳を閉じて指環にそっと触れた。

「―――――この指環は、ある男に誓った私の心の証だ」

 組んでいた腕を解き、カストリーズは空を見上げた。七つの星がそれぞれの色に輝いている。今どうしているのか・・・。もしかして同じように七色の星を見ているのだろうか? ならばどんなに幸せか。同じ時を共有しているのだから。

「・・・もらったの?」

「いや―――――違う。彼と私は口もきいたことがない。向こうはもしかして私の存在すら知らぬかもしれぬ。一瞬―――――・・・たった一瞬で私は彼を愛した」

「素敵。一目惚れね」

 ふふ、と自嘲気味に笑い、カストリーズは瞳を閉じた。あの日の光景がまざまざと浮かび上がる。忘れられない瞼の裏の光景。

「そして私は彼に心を捧げる誓いをたてた。それを忘れぬための、この指環は誓いの証だ。 この指環を見るたびに彼を思い出すことができる。距離が離れ、もう二度と会えないかもしれなくても、この指環があれば距離のせいにして彼を忘れることはできない。この指環は私の心の枷なのだ・・・」

「・・・・・・」

 カストリーズ将軍の評判はスキエルニエビツェも耳にしている。

 本能が求めるままに誰とでも寝るのだとか。それが確かだとしたら今の言葉は到底信じがたい。

 そんな思いは多分顔にも出ていたのだろう、カストリーズはスキエルニエビツェを見てふふ、とまた笑った。

「誰とでも寝ると評判の女の言葉とは思えぬだろう。私もそう思う」

「―――」

「しかしそれでよい・・・私にはそれが似合うのだ」

 瞬く星々を見上げ呟くと、カストリーズは城の中へと戻っていった。

 スキエルニエビツェはその後ろ姿をじっと見つめていたが、やがて一人になり満天の星空を見上げると、その凄まじいまでの壮大さに自分の小ささを痛感した。

 ポロ・・・ン



       千里 鶯啼いて 緑 紅に映ず

       水村 山郭 酒旗の風

       南朝 四百八十寺

       多少の楼台 煙雨の中



 玲瓏な歌声はそんなものにも動じる様子のない星空に吸い込まれていった。どれだけ人の声が美しかろうが、森羅万象のものには何の関係もないかのようにすら見えた。

 スキエルニエビツェは満足そうに微笑むと、自分もまた城の中へと入っていった。



 目にも鮮やかな緑を映じ、自らもまた輝くような風を纏うように、夏はやってきた。

 スキエルニエビツェにとって劉深で迎える最初の夏であったが、かの国で一番美しい季節が秋ならば、また劉深で最も美しく輝くのは夏といってよかった。海はいよいよ本領を発揮するかのように素晴らしい群青に輝き、時折波間を白く光らせてはそれと知らぬ者に宝石の幻想を抱かせる。 砂浜は白く、歩くだけでも気晴らしには最適で、どこからか流れてくる小さな小さな河が砂浜から海へと流れており、その小さな入り江がつくりもののような美しい緑の草と色鮮やかな花とに囲まれて砂浜に流れ出る様は、

人に束の間の夢すら見せる。

 さてそんな夏の日の朝・・・明らかに自分の部屋以外で夜を明かしたと見られるカストリーズは、欠伸をし両手を上げて伸びをしながら廊下を歩いていた。ちょうどこの日は非番である。廊下の窓から見える眩しい太陽・・・それを照り返す海の美しさに、カストリーズはしばし立ち止まって見惚れていた。

 ―――――あの人は、この海を見ているのだろうか。

 だとしたら今頃何を? 何を考えどこにいるのか。

 胸が苦しい―――――せめてこうして何かを見て、同じ風景を見ているという同じ時を共有できれば。しかし共有できているかもわからない。なんという辛さなのだ。

「・・・」

 カストリーズは小さくを息をつくと、海から目を離して歩きだそうとした。こうして悲嘆することに意味はない、愛してしまったものは仕方がないのだ。自分を不幸と思うから辛い、これで当たり前だと思えばよいのだ。逆境を逆境と思わぬ者には運がついてまわるはずだ。

「カストリーズ」

 歩きだして何者かに呼び止められ、カストリーズは立ち止まって振り返った。その声で相手が誰だかはおおよそ見当がついた。

「お前かギュイアン」

 唇をつりあげ、カストリーズはかろうじて笑いととれる表情になった。自嘲しているようにも、相手を馬鹿にしているようにも見える。

 ギュイアンクール・ウラエイコール将軍、射干玉の髪と黄金の瞳を持つ劉深で一番身長の高い将軍、カストリーズと並び若さに負けぬ功績を持つ。カストリーズの数少ない友人であり、理解者でもある。

「また朝帰りか・・・なにを考えている? 仮にもお前は将軍だぞ」

「承知している。将軍として恥ずかしいことはしていないが」

「カストリーズいい加減にしろ。お前が巷で何と呼ばれているか知っているのか」

「無節操が旗袍を着た女」

「―――カストリーズ!」

「うるさい。非番の日は将軍ではない、非常時でもないのに・・・何をしようと私の勝手だろう」

「カ・・・」

 ギュイアンが呼び止める前にカストリーズは欠伸を噛み殺して行ってしまった。ため息をついてそれを見送ったギュイアンは、大きく一つ息をついた。

 何度注意してもこれでは何の意味もない。ギュイアンの秀麗な眉が悩ましげに顰められた。本人は気付いていないが、彼がこうした表情をするだけで、物陰でとろけそうになっている侍女がざっと十人はいるのだ。カストリーズとは寮に入った頃からの付き合いで、お互い知らないことはないほど仲がよかった。現在カストリーズとギュイアンは劉深の双璧とも言われており、二人の功績は若さとは裏腹にずば抜けている。どちらかの名前を聞くだけで敵が震え上がってしまうというのも珍しくなく、難攻不落な場所への遠征はこの二人に優先して割り当てられる。しかしギュイアンについてまわる品行方正、真面目な好青年というイメージとは好対照に、カストリーズの名前を聞いて思わず眉を顰める者も少なくない。あまりにも相手を選ばぬご乱行は、男であれ女であれいい気持ちはしないものだ。

 案の定次の日の軍議で、カストリーズはいいだけ同僚にたたかれた。相手はノトス・ファーアステという将軍で、ギュイアンとは同い年の将軍だ。ノトスの功績もまた他の将軍とは比べものにならないが、カストリーズやギュイアンの比ではない。充分評価されるべきなのに、この二人の影をいつも気にして卑屈な態度を取り続けるので、人望はそこそこといった感じだ。

「陛下、巷でまことしやかに流れている噂をご存じですかな」

「なんのことだね?」

 ものやわらかに尋ねる国王は本当に何のことかわからないらしい。

「将軍たるもの公私共に将軍らしくありたいものです」

 ギュイアンの指がぴくりと動いた。

 ――――― しまった。ノトスはこの場でカストリーズを攻撃するつもりだ。

 ギュイアンとノトスは互いに功績を争う間柄にもかかわらず仲はよい。それにはギュイアンの性格が温厚ということもあるが、ノトスは卑屈なだけの人間ではないということがそこからもうかがえる。

 しかしノトスは、―――――どういう理由かはわからないが―――――カストリーズを相当嫌っている。蛇蝎のごとく嫌うとはこのことかと思うほどにことあるごとに悪態をつく。多分、あんなに節操のない女が自分より功績がいいというのが、誇りの高い彼には認められないのだろう。

「非番とはいえ、見も知らぬ男と安宿に行くような・・・しかも朝帰りするような将軍はどうにも宮廷の品性をおとすものかと」

 これで国王も誰のことを言っているかわかったらしい、困ったような顔をして一瞬黙った。国王とてカストリーズのことを知らぬわけではない。何か、そのあまりにも目立つ乱行は、まるで救いを求めているかのようだ。一度国王はカストリーズを呼び出して何かあったのか聞こうとしたが、顔を背けて答えようとはしなかった。カストリーズという女は一度嫌だと言ったら海に沈められても決して何も言いたがらないということを国王はよく知っていたから、何にせよ、あまり目立たぬようにしなさい、目立ってしまうと庇うものもそうできなくなるからとよく言い含めて彼女を帰した。それも無駄に終わったということだろうか。

「・・・どういうことかね」

「ご存じのはずです陛下。憚りながら、誰とでも夜を共にするような人間は誇り高き劉深の将軍として恥ずべき存在だと、私はここで主張します」

 今まで自分が攻撃されているとわかっていて、同僚やギュイアンの心配をよそにどこ吹く風といった態度でそ知らぬふりをしていたカストリーズが、きらりと光る水色の瞳を向けて初めて口を開いた。

 瞳と同じような、凍るような声だった。

「お前の言う品性高い将軍というのは、酒場でくだを巻いて泥酔する将軍のようなことを言うのか?」

 室内は一瞬沈黙に包まれた。誰だ? お互い顔を見合わせて探り合う。ノトスも思わぬ反撃を受けて口をつぐむ。よく見ると赤面しているのがわかる。

「大声を張り上げ女にからみ市民に迷惑をかけるのが品性ある将軍と、そういうわけなのだな。よくわかった今度やってみよう」

 カストリーズはすっと立ち上がった。

「しかしこれだけは言っておく。確かに私はお前の言う通りの人間かもしれん。先程のことに反論するつもりはない。しかし私は自分のやっていることで誰かに迷惑をかけたことはないぞ」

「―――――」

「本当の品性というのはそういうものをいうのではないのか」

 捨て台詞を吐くと、カストリーズは一方的に会議室を出ていってしまった。一瞬後にギュイアンが追い、そして室内は将軍たちのざわめきで引っ繰り返りそうになる。

「静かに! 解散を命ずる。ノトス将軍は後で私のところへ来るように」

 国王も厳しい顔をして声を張り上げる。個々はあんなに功績がよい将軍たちが、どうしてこうも仲が悪いのか・・・国王の悩みは尽きない。



「カストリーズ! 待てよ」

 中庭に面した回廊でカストリーズに追いついたギュイアンは未だ信じられないといった顔でカストリーズを見た。

「騒々しいな・・・何だ」

「何だじゃないぞお前・・・あれ、本当か?」

「さっきの? 私は嘘は言わない」

「じゃあ本当にノトスが・・・!」

 真面目なギュイアンは思わず立ち止まって考えてしまう。真面目すぎて堅物で、時々融通がきかないのがギュイアンの唯一の欠点といってもよい。カストリーズはフン、と鼻で笑うと何事もなかたかのようにギュイアンをおいて歩きだした。

「カストリーズ」

「うるさいうるさい・・・将軍殿は蝿のようだと言われたいか」

「は、蝿・・・」

 口の悪いカストリーズにギュイアンは絶句する。良家の育ちで世の中の汚いものはあまり目に見えていないギュイアンは、時々カストリーズの神経を逆撫でする。お前の思うほど世間とは甘くもないし美しくもないのだ・・・カストリーズのギュイアンに対する根底にはそんなものがある。確かに、真面目すぎて嫌になるというような側面がギュイアンにはなくもない。幼い頃から人間の醜い部分を見せ付けられて育ったカストリーズには、たまにそれが鼻につくこともあろう。

 カストリーズは先程軍議の席で自分がどれだけたたかれたかということも忘れ、さっぱりした顔で中庭に面した回廊を歩いていた。

 戦のないときはこうして暇をもてあますのが将軍の特権というわけだ。

「こんにちは」

 五月の陽射しの中とろけてしまいそうな柔らかい声がした。カストリーズは一瞬行きかけて、そしてその声が自分に向けられたということに気づいた。振り向いて見てみるとそこにはあの美しい声の楽師がいる。

「お前か・・・何の用だ」

「別に。お見かけしたものだから」

 邪気のない笑顔にカストリーズは完全に毒気を抜かれた。

 ―――――かわいいな・・・愛される女というのはこういうものなのか

「それはいいが私とあまり関わり合いにならないほうがいいぞ」

「?」

「私と関わるとどのようなことを言われるかわかったものではない。なにしろ誰とでも寝る女だ。悪い噂しか私にはない」

 自嘲するように口元を歪め、カストリーズは言った。

「やめておけ」

 しかし美声の楽師はめげる事も怯む事も、眉をひそめることもなかった。にこにこと相変わらず無邪気な笑顔で、しかし少しもこちらが苛々しない大人の顔で・・・こう言った。

「悪い噂をたてられるなんて放浪の身では滅多にないことだもの」

 肩をすくめてさらに言う、

「たまにはいいわ」

 その顔はこう言っていた、誰はともかく自分は、いつかはこの国を出る身体、ならばどれだけ悪い噂をたてられようとも平気、なぜならこの国にずっといるわけではないから。 軽い驚きを顔に宿してカストリーズは一歩進んだ。

「・・・・・・お前は確か・・・私の記憶違いでなければリドルグ伯のところにいた楽師では? その前は―――・・・」

 言いかけてカストリーズははっと口を噤んだ。友達が少なくともそれくらいの噂は嫌でも耳にしている。確かこの楽師は、一国の王が自らの男をたてるために苦渋の思いで手放したと聞いた。恋仲であったとか。

 そんなことができるものなのか・・・互いに愛し合っていながらそんなことが? 話では確か、かの国の王はこの冬病死したとか。

「―――」

 しかしスキエルニエビツェは笑っていた。一点の曇りもない笑顔だった。カストリーズはこの笑顔に惹かれるものを感じた。何か?

 それはわからない。時は無限にあるのだから・・・。

「・・・お前今時間はあるのか」

「ええ。たっぷりと」

「それでは私の部屋へこい。一曲歌うかわりにもてなしてやる」

 くすくす笑いを抑えながらスキエルニエビツェはついていった。

こんな風に偉そうに言う人間は初めてだろう。しかし相手がカストリーズである場合、少しも嫌ではないのは何故なのか。

「お前名前は・・・えーとスキ、スキエ、ル」

「スキエルニエビツェ・・・ですけど・・・言いにくければイオシスで」

 カストリーズの相好がふっと崩れる。この女にもこんな表情が在ったのかとどきりとする。

「『紫紅色』・・・何故?」

「脂燭色 (表紫・裏紅) の襲が一番似合うからというのが理由・・・かな」

「ふ・・・ん・・・」

 大して興味もないように呟き、カストリーズは歩きだした。この女がこれだけ人に心を開くとは驚いたことだが、当のスキエルニエビツェは一向に気付いていない。

 この日を境にカストリーズとスキエルニエビツェは急速に親しくなっていった。歌を歌うわけでもなく、スキエルニエビツェは時間が余るとカストリーズと話をしにいく。時に庭、時に互いの部屋で、まるで相手が空気のようにくつろげる時間を共有するのだ。そしてその内、スキエルニエビツェは、カストリーズという女がどういう人間か、その片鱗がわかってきたような気がする。殊に話題が彼女のしている指環に集まった時、カストリーズは寮生時代から秘密を共にしてきたギュイアンも踏み込めなかった領域へスキエルニエビツェを自ら招き入れた。それは恐らく、ギュイアンという男は永遠に「男」であるのと同時に、あくまで良家育ちで、人間の醜い部分を知らないまま成長した彼は、人の内面の闇を理解できないことが多いからではないだろうか。カストリーズはそれを誰より知っているが故に、これ以上彼との溝を深めないためにも敢えて口を閉ざしているのだ。

「私が何故多くの男と肌を重ねるのか知りたかろう・・・」

 指環を見ながら目を細め、カストリーズはどこにいるかもわからぬ想い人のことを考えているのか、息を吸ってその瞳を閉じた。瞼にはまざまざとその姿が映っているに違いない。

「・・・私はこの指環に誓った。想いをかけた男への愛を。ならば操を貫けばいいのになぜそうしないか―――――言葉では言い表わしにくいが」

 カストリーズは窓の外に目を馳せながら小さく言った。

「―――――あの人のことを想う度に胸が痛くなり、切なくなり、どうにもできなくなる。そして思う・・・多分もう二度と会えないだろう、そして会えたとして、こんな自分が愛されるはずがない・・・だったらやめればいいのに、愛することをやめられないのだ。そんな愚かしい自分を抑えるためと、行き場のない怒りを鎮めるためだ、誰とでも寝るようになったのは・・・・・・」

「・・・」

 スキエルニエビツェは無言だったが、恐らく女でしか理解できないカストリーズの深い領域を知って、痛々しいまでに彼女を大切に思った。

 カストリーズは行き場のない怒りと言ったが、それは違う。やり場のない愛なのだ。自分一人では消化できなくなって、それでも大切にしておきたいほど相手を愛する。かなわぬ想いに自棄になって他の男と夜を共にするほど、そしてそれでも尚燃えるような気持ちで相手を愛する。

 ―――――なんて純粋な人なんだろう、スキエルニエビツェは素直に思った。多分今までここまで激しく人を愛し、ここまで純粋を通せる人間はいなかっただろうし、恐らくこれからもいないだろう。その透き通った美しい心はまるで夏の空を飛ぶ鳥のよう。ただ、ただ無心に。

 スキエルニエビツェは彼女の視線を追ってそこから見える初夏の海を見た。刷毛ではいたような真っ青な海が広がっていたが、カストリーズに言わせるともっと暑くなれば比例して青くなっていくのだという。

 スキエルニエビツェは劉深に来て初めて、何かを待つ楽しさを得た気がした。



「スキエルニエビツェ、済まないが出張に行ってほしい」

 開口一番、国王は穏やかな口調で言った。

 劉深は今、カストリーズが一番海の美しいと言った、スキエルニエビツェが一番心待ちにしていた、待ちに待った夏が到来している。太陽の光眩しく、きらきらと海が光る季節だ。

「は・・・? 出張・・・」

「わが国に世界で唯一の灯台があるということは知っておろう」

「存じております」

「灯台守はそこでたった一人で劉深の海を守っておる。並の精神力ではできぬ仕事だ。陸から週に一度船をやって食料と水と情報を送っている。そのくらいの頻度でなくては気が狂ってしまうからな。で、頼みというのは・・・」

「灯台守殿のお心を慰める、ですわね」

「そうだ。船が行くたびあちらの希望の本などを頼まれて持っていくのだが、どうもそれだけでは彼の日頃の功労に対して報いてやっていないような気がしてな。

 灯台守というのは人が思っているよりずっと苛酷な仕事だ。行ったが最後、代わりがいない限り陸に戻ることはできない。いつも孤独で、責任が大きくて、生涯海とも陸ともわからない場所に縛りつけてしまう

「私は彼を灯台に縛りつけてしまったような気がしてならぬのだ・・・」

 国王の言葉が耳に残ったまま、スキエルニエビツェは灯台へ向かう連絡船へ乗った。

 真っ青な海の上に塔のように聳える灯台は遠目にも白く輝き、見る者の目を否応なく細めさせる。

 ザザ・・・

 ザザザ・・・

 穏やかな波に揺られながら、スキエルニエビツェは舳先に座ってじっと灯台を見つめていた。陸にいる頃には、大して遠いとは思っていなかったのだが、こうしていざ向かってみるとやはり近くはない。二時間ほど穏やかにゆっくりと揺れつつ、スキエルニエビツェを乗せた船は灯台を目指した。




 リムノーレイア、意味は『港の監視者』である。自分はこの名前を気に入っている。それは幼少の頃からずっとで、そしてこれからもそうであり続けるという自信が、灯台守リムノーレイアにはある。

 別に意図して名付けられたわけではない、両親は自分に家を継がせようと思っていたほどなのだから。しかし自分ほど灯台守に適した人間もいないのではないだろうか、リムノーレイアはふと思う。傲慢でもなんでもないこれが彼の素直な感想で、そして彼はこの灯台守という仕事を愛している。陸に戻ってやってみたいことは色々とあるが、きっと一週間程度が限度で、またこの塔のような美しい灯台に戻りたいと切に願うに違いない。思うに、これが天職なのだ。やらずにはいられないということが天職ならば自分の天職は灯台守、きっと生まれる前から決まっていたことなのだろうと思うほど、リムノーレイアはこの仕事を愛していた。奪われれば狂気のあまり死んでしまうだろうと思うほどに。

 灯台守の仕事は一部を除けば簡単だ。昼間は明るいから船が迷ったりしないし、暗礁の場所を知らせる必要もない。逆に真っ青な海の平原の中白く聳える灯台は目立つ。それだけで、ああ陸が近い、劉深が近いのだと船乗りたちを安心させることもできるのだ。たまに異国の船が劉深に行くのに詳しい方向を聞いてきたりして、大抵は船から降りて一服していくのでリムノーレイアにはいい退屈しのぎになる。季節の変わり目の嵐の際は大変だが、それが灯台守の仕事だと思えば愚痴も出ない。

 昼間時間を持て余すことの多いリムノーレイアの時間潰しはもっぱら読書にあてられ、本を読むことに疲れたり飽きたりしたらぼおっと海を見たりたまには釣りをしたりして、そうして夕暮れを待つ。

 そうやって海と向かい合っていると、遥か彼方のほうにぽつんと小さな白い船の影が見えたり、側で見たらさぞかし大きいであろう鳥のはばたく様が、なんだか対岸のことのようにしか思えないほど縁遠く、小さく見えたりする。そんなものに囲まれて日々一人で生活していると、人の暮らしや営みなど本当に小さいものにしか見えなくなってしまうのだ。 大分昔の本に、天の意志とは人知でははかり知ることができないほど大きく、人間など所栓は自然界の中で行きゆくほんの小さな存在でしかないので、どれだけ人が大きな戦をしてそれによって大地が荒れ果てようとも、天にとってはちっぽけなことにしかならない、という話が記されていた。

 リムノーレイアは、本当にその通りだと思う。海を見ていると、陸で暮らしていた時のその生活の細々としたものすべてが、本人にとっては確かに重要で人生を左右するかもしれないことであっても、こうして海の遠大さと広さを見ているとどうでもいいようにすら思えてくるのだ。穏やかな波の前であくせくしても仕方がない、無駄なことのようにすら思える。そんなに焦ったところで仕方がない、ふと見てみると、海は千年の昔から変わらない姿をずっとずっと保ち続けている。海の前ではどんなことも卑小になる。それを悟れば人間怖いことはないのではないか、そんな悟りまでリムノーレイアは得てしまっているのだ。

 だから自分はこの暮らしが気に入っている。取り残されたように海の中の小さな島に建てられた白い灯台。今更、海のこの懐の深さを知った後虚飾に満ちた生活をしろと言われても無理だろう。簡素であるが故に奥の深いこの世界を知った以上は、確かに駆け引きやきらびやかなもので溢れた生活も楽しかろうが、なんだか妙に白けて、嘘くさく見えてしまうのだ。多少退屈ではあるが、長い人生退屈があってもよいではないか。そしてたまに来る嵐、それに立ち向かう何とも言えない興奮と、責任と、それが重いが故に無事果たし

た後の充実感。

 たまに陸から来る食糧と水と酒と、前に来た時に頼んだ本と、知り合いからの手紙。

 それだけでも人間充分やっていけるのだ。リムノーレイアは長い髪を揺らめかし、腕を組んで灯台の白い壁に寄り掛かり、放心して海を見つめていた。

 そのリムノーレイアの視界の端に、いつものように陸からの連絡船がやってくるのが見えた。腕を解きそちらに身体を向け迎える姿勢をとったリムノーレイアの海と全く同色の瞳に、見慣れない女の影が見えた。



「はじめまして。灯台守殿ですわね?」

 降りると同時に女は極上の笑みでにっこりと彼に告げた。

「はあ・・・そうですが貴女は・・・」

「スキエルニエビツェと申します。楽師ですわ。国王陛下の言いつけで参りました」

 すっかり勝手を知った様子で食糧やその他の荷物を運ぶ水夫たちを尻目に、二人はそこに立ったまま話を続けた。茫然として戸惑うリムノーレイア、にこにことそんな彼を見上げるスキエルニエビツェ。

「旦那、運び終えましたぜ。じゃあまた来週」

「え? ああ、ありがとう。奥さんによろしくね」

 リムノーレイアはスキエルニエビツェから思い出したように目を離して船に乗り込む水夫たちを見送った。そして船が小さくなってからやっと、横に立つスキエルニエビツェに目をやり、もう一度尋ねた。

「えーと・・・お名前」

「スキエルニエビツェです」

「・・・」

「長いのでイオシスと」

「・・・どちらも美しい名前ですね。風が出てきましたからどうぞ中へ」

 リムノーレイアはスキエルニエビツェを招き入れて灯台の中へ入った。

「―――――」

 スキエルニエビツェが入って中を見渡すと、そこは想像を越えて広い建物だった。

 当たり前の事だが壁は円筒状になっていて、あるかどうかは知らないが屋上まで吹き抜けのようだ。その壁に添うにしてぐるりと螺旋状に階段が取り巻いており、その途切れ目の所々に扉が見えて、この灯台の内部が単純でないということを示している。入った一階は彼が普段生活している場所のようだ、台所、食堂、少し離れて座り心地のよさそうな低い椅子と卓が、居間のような役割を果たしているらしい。それでも部屋の、というより階の三分の一にもなっておらず、隅に寄せた感じだ。後は、壁に小さな扉がついていたりするところを見ると倉庫になっているのだろう。なんとも広すぎて言葉が出ない。

「さあどうぞ座って下さい。今お茶を淹れますね」

 リムノーレイアは台所に立って火種を取り出して薬缶をかけ、慣れた手つきで急須に茶の葉をいれた。台所の正面には大きな窓がついていて、両手一杯に手を開いても余るほどに海がよく見える。

 スキエルニエビツェはその背中をじっと見て海の似合う男だ、つくづくとそう思った。

 今までスキエルニエビツェは海が似合う男というのは筋骨逞しく、がっしりとして陽に灼けた印象を持っていたが、それは間違いだということをリムノーレイアを見て感じていた。女のように痩せているが身体ができていないというわけではない。服は白い旗袍で、しかも光沢が一切入っていないので孤島の灯台守という感じが実によくでている。本人はそういうつもりはないのだろうが、こうして彼を見ていると、灯台守以外には何をやっているか、ちょっと想像もできない。香りのよい茶を運んできてこうして共に向き合っていると、その美しさもまたぱっと見ただけではわからないものが多く潜んでいる。

 髪の毛は黄金といってもよいほどの美しい金色だ。その長さは腰より少し短いくらいで、顔の形はアーモンド、海で生活しているはずなのに少しもそれを感じさせない肌は、まるで若い白樺のようななまめかしさを持ち合わせている。唇は理想的な形で、終始弱く微笑んでいるその優しそうな面立ちに、いったいどうやって嵐や孤独やこの大海と戦ってうまくやっているのだろうと本気で思ってしまう。

 よくは知らないが灯台守というのは大変な生活のはずだ。瞳は青。劉深に生まれ劉深で育ち劉深で死んでいく者の宿命のような、恐ろしいほどの青い瞳。吸い込まれそうに青く深い知性と優しさを持っている。

 話していて灯台守という孤独と戦う仕事も少しも苦痛に感じていないということもわかった。

「そうですか陛下がわざわざ・・・」

 心持ちうつむいてリムノーレイアは呟くように言った。

「ええ。好きなだけ滞在して好きなだけ歌ってこいと。それからあなたを灯台に縛り付けて悪いみたいなこともおっしゃってましたわ」

「ふふ・・・そんなことはないのに」

 弱く笑ってリムノーレイアは言った。そして気を取り直したように顔を上げると、中を案内しましょうと笑って立ち上がった。

「気をつけて」

 壁に沿った螺旋階段をいくつもいくつものぼって、ふと下に目をやると先程共に茶を飲んでいた場所が目も眩むばかりに小さくなっている。この灯台は一体どれだけ高いのだろうと、くらくらする頭でスキエルニエビツェは思った。

「ここが二階です。まあ、高さから言ったら三階か四階なんですけどね」

 扉を開けながらリムノーレイアは言った。二階はそれぞれの個室が大変広く、数十人で会議ができそうな部屋が二つ、残りの一部屋は浴室だった。こんな場所で水は貴重なものだから、節約志向にあると思いきや、海水を濾過する装置があるので水には困らないらしい。大きな部屋の内一つは膨大な量の本が棚にしまわれており、しかし部屋が広いのでまだまだ本を置く場所はあるようだ。

 もう一つの部屋にはこれといって何もなかったが、きっと本を置いていた部屋にいよいよ場所がなくなったときの予備かと思われた。

 続いて連れていかれた三階は、こちらは二階とうってかわって小ぢんまりとした部屋が多く、いずれも客室。全部で五部屋に加えてもう一部屋、二階のものよりは広い浴室があった。

「今日はこちらで休んでください。浴室もあります」

「いっぱい客間があるのね」

「たまにね、友達が遊びに来るんですよ。嵐がまったくない、一年で一番暇な時期を狙って来てくれるんです」

 苦笑しながらリムノーレイアは言った。彼にとって感謝するべきことであり、また放埒な友人達の久しぶりがゆえのはしゃぎぶりを思い起してのことだろう。続いて四階に連れていかれた。ここは完璧にリムノーレイアの私的空間といってもよかろう。彼の寝室と浴室、二階のものと負けず劣らず広い部屋にはそのまま上で寝られるのではないかと思えるほどの大きな大きな机と、本棚、こちらは完全に趣味のものではなく海の資料などのようだった。スキエルニエビツェにとって一番印象的だったのは、彼の寝室を出てすぐの場所が階段であるということだった。しかしそれは五階に案内されてすぐに理由がわかった。五階というのは灯台の要、灯りでもってして光を生み出し夜の海を導くべき場所であったからだ。嵐というのは夜が厄介だ。いつどんな夜でもすぐに灯台守としての務めを果たすための、リムノーレイアの知恵であるといってよかった。

 灯台というのは頂の部分と底の部分が同じ幅かというとそうではなくて、下広がりであるから、五階部分は二階と比べて非常に狭く、この一部屋だけで二十畳ほどしかなかった。 というのだから、だいたい二階や一階がどれだけ広いかが想像できるだろう。中心に反射板があって、周囲に色々と小難しそうな手回しの把手だとかがある。これらを一人で駆使して、リムノーレイアは劉深の海を守っているのだ。三百六十度見渡せる五階は大きな窓で仕切られており、晴れた日に臨めばこれほど気持ちのいいものはなかった。

「もう一つ上にあるんです。行ってみますか?」

 リムノーレイアが言って隅にある小さな螺旋階段へスキエルニエビツェを案内した。随分と広くて長い階段を延々とのぼってきたので、この普通より少し広めの階段ですら、スキエルニエビツェには狭く感じられた。そしてまた非常に急でもあったので、葵(表淡青・裏淡紫)の襲の裾を何度となく踏んでしまったかわからない。がちりという音と共に鉄の扉を開け、リムノーレイアが案内した先は、灯台の屋上というべき場所だった。

 ザッ・・・。

 突然強い風にさらされてスキエルニエビツェはたまらず目をつむったが、そっと目を開けると、青すぎる青い海が眼下に限りなく広がっていた。

「わ・・・あ」

 思わず呟き、瞳を輝かせるスキエルニエビツェに、幾分満足そうにリムノーレイアが言った。

「きれいでしょう? 暇な時は大抵ここに来るんです。天気がいいと一日中いられるんですよ。食事をしたり酒を飲んだり」

 にこにこと言い自らも海を見渡すその表情を見ていると、この男は本当に海が好きなのだとスキエルニエビツェは実感した。しかも美しい海穏やかな海だけではない、時に高波で人を攫い時に白い泡の波を猛らせて陸に攻撃を仕掛ける灰色の鉛のような、油のような

薄暗い海もまとめて愛しているのだ。さわ、と吹く穏やかな風に髪を揺らめかして、スキエルニエビツェは海を見ながら言った。

「ああやっと思い出したわ。リムノーレイアというのは『港の監視者』という意味だったわね」

 そして灯台守を見ると、どう? という目で彼を見た。監視者は笑って答える。

「驚きましたね。その意味を知っている人がいるなんて」

 結構古い言葉らしいです、とリムノーレイアは言った。目の前の楽師の立ち居振る舞いや瞳の光で、容易ならざる人物だということは薄々気が付いていたが、まさかここまで教養のある人間だとは思わなかったようだ。

「もっとも私が灯台守になると言い出した時には、両親はこの名前にしたことを嘆きましたけどね」

「名は体を表す。いい見本だものね」

「別にこの名前だから灯台守になろうと思ったわけじゃないんですよ。そうと知ったのは灯台守になる三年くらい前でしたかね。でももうそれよりずっとずっと前に、私は海と密接な仕事がしたかったんです。ひ弱だから漁師は無理だろうし、却って周囲に迷惑をかけ

そうですしね」

 スキエルニエビツェはくす、と笑った。この容姿で、と言ってはおかしいが、腰に飾り帯をするほど高貴な生まれの男が、漁師になるというその発想の自由さに彼の器の広さを知って、なんだか嬉しくなったのだ。服の上からだからよくわからないが、身体はけっこ

うできているし、灯台守のきつい仕事をしているのだから、体力がないということもないだろうが、漁師と灯台守とではまた使う体力が違うのかもしれない。

 下へ戻って、夕食の手伝いをする内、スキエルニエビツェには彼の素性を推測するもう少しの余裕ができてきた。

 言葉の端々からさりげなく感じさせる貴族特有の嫌味のない品の良さ、育ちを少しも鼻にかけていない気さくな態度、そして近くにいて、スキエルニエビツェは彼の飾り帯をもっとよく見て観察することができた。茘枝種白玉牌、縦五センチ、横七センチの長方形の

四隅になんとも繊細で、それでいてしっかりとした金の留め金が施されており、それがそのまま細鎖に止められて彼の腰に巻かれている。茘枝というのは茘のことで、これは茘のようになまめかしく生きているような白い玉という意味だ。表には雲龍という形の非常に

めでたいとされる吉兆のシンボルの上に、髪を結い上げた女が彫られており、片手に桃の枝を持ち、傍らには一対の長尾鳥がいる。裏面には詩が十四文字彫られていて、

  青鸞早報蟠桃熟

  摘向金盆奉世尊

 とある。意味はよくわからない、リムノーレイアは白い歯を見せて笑った。調べようと思えば彼なら簡単なことだろうが、敢えて知らなくてもよいという奥ゆかしさが彼にはあるのだろう。今リムノーレイアは二十八だが、もう灯台守を生業とするようになって八年になるという。それ以来、ずっと一人で、たまに誰かがこうして訪ねては来るけれども、大抵はたった一人でこの小さな島に暮らし、一人で灯台を預かっている。

「八年も・・・お寂しくはないの?」

「寂しいと思う暇もないですよ。春には嵐がやってきます。潮の流れを毎日観察し、それを日誌につけ、風向きや雲の動きを見て嵐の時期を予測する。生暖かい風が強くなって雲が早くなれば要注意です。そして少しゆとりができれば本を読んで昼寝をします。そうこうする内に夏が来て、劉深の海が一番青くなる。嵐というようなものは来ませんが船が一番多く来る時期なので専ら先導が主ですね。

 友人が一番多く来るのも夏です。けだるい午後に一人でここにいると時々狂ってしまうのではないか、世界で自分は一人なのではないかと思うこともありますが、そういう時にまるで狙ったかのように友人が沢山来てくれます。有り難いことですよ。で、そういう暮らしをしている内に長い夏が終わって、いよいよ秋です。秋の海というのは実に侮れません。さっき穏やかだと思っていた潮の流れが急に早くなったり、かと思ってこちらが身構えているとまた何でもなかったかのように穏やかに凪ぎ始める。日が落ちるのもこの頃からぐっと早くなって、うっかりすると灯台の灯をつけ忘れてしまいます。最初はよくやってしまいましたけどね」

 リムノーレイアはそこで苦笑した。忘れてしまいがちな事の割に重要なのでうっかりというには大きすぎる。一度や二度ではない、その度に全身に被ったように冷汗をかいたと彼は言った。それが理由で船が迷ったりする事だけは、あってはならないのだ。

「そして冬です。冬の海は厳しい。灰色になったり鉛のような空の色を反映したり、油を流したようなおかしな色になることもあります。潮も攻撃的であまり灯台の外にでることはできませんし、いつ嵐が来るかわからないので週に一度の連絡船からの荷物は倍になります。どうしてって言うと、来られなくなることがありがちだからなんですよ」

 そしてリムノーレイアは、聞いているスキエルニエビツェがぞっとするような話を今は良い思い出とばかりに穏やかに笑いながら話して聞かせた。

「ふふ、最初の方はね、なにしろすべてが初めてのことだから、そんなことわからなかったんです。そしたら嵐で船が来られなくなってしまって。きっちり一週間分の食糧しかないし、釣りをしても魚はいないし、いやあ死ぬかと思った」

「・・・」

 やはりあらゆる意味でまともな精神ではこの仕事は勤まらないのではないのでは―――スキエルニエビツェはこの時、心の底から思った。



 ザザザ・・・

 ・・・ザザ・・・

 見渡す限りの海―――。聞こえるのは波の音だけ。スキエルニエビツェはもう、何時間もこうしているのに気が付かずに、ずっと海を見つめている。隣ではいつのまにかリムノーレイアが釣り糸を垂れている。

「うまくすればお昼ご飯になりますよ」

 そう言った彼の言葉に、スキエルニエビツェは驚いて聞いた。

「お昼・・・って・・・。え?」

「・・・太陽はもう中点にありますよ」

 スキエルニエビツェは上を見上げた。確かにもう昼である。

「・・・」

「よくあることですよ。今みたいに夏で・・・海に見惚れているとね。私もよくやりますから」

 時間の経ち方が違うのだろうか。スキエルニエビツェの二十四年間の人生で初めてのことであった。リムノーレイアは穏やかな表情で微動にせず釣り糸を垂れている。その姿はまるで彫像のようだ。

「・・・何か歌いましょうか?」

 灯台守は顔を向けてにこりと笑う。

「ええ。お願いします」

 そもそもこれをしに灯台に来たのだ、スキエルニエビツェは思いながらリュートを取り出した。

 ポロ・・・ン




       杖を携え 来たり追う柳外の涼

       画橋南畔 胡牀に倚る

       月明らかにして 船笛参差として起こり

       風定まって 池蓮自在に香し



 歌を聞きながらリムノーレイアはぼんやりとしている自分に気付きもしなかった。こんな美しい声を聞いたのは初めてだった。なるほどこれは、友人が手紙に書いた通り、一国の王から王へと渡された理由がわかろうというもの。この楽師の価値は、この見目の美しさ、見ているだけで安寧を約束されるような気分にさせる教養ある立ち居振る舞い、しかしそれ以上に歌って初めて真価が見いだせようというものだ。

 ロォォンンン・・・・・・

 風に乗ってリュートの音が流れていった。海に向かって流れた風に乗り、余韻は中々消えることがなかった。リムノーレイアはいつのまにかほう、とため息をついて、大きく息を吸い込んでいた。単調で孤独な灯台守の仕事。その生活の中にこんな感動が来ようとは思ってもいなかった。自分は灯台守になって幸せだと、意外な付録をもらってリムノーレイアは実感した。

「いい歌ですね」

 月並みな言葉である。

「船笛参差として、とは・・・私にぴったりの言葉です。なにしろ昼夜を問わず船がやってきては劉深の方向を尋ねますからね。それにしても蓮の花も柳もついぞお目にかかっていません。懐かしいです」

 スキエルニエビツェはハッとして身を固くした。

「ごめんなさい。もしかして陸の生活を思い出させてしまったかしら」

 彼は一生灯台から離れられない運命である。自ら選んだとはいえ、それは時折辛い選択でもあったはずだ。陸にいれば、春は桜に桃、萌え出ずる若々しい若芽の色や柳が風に流れる様を目を細めて見つめ、夏には蓮を、秋には落葉を楽しみ冬には美しい静寂が広がる雪を見られるはず。しかし彼が一年を通して見るものはいつも変わらず海だけである。そんな彼に、陸への思いを馳せるようなことをさせてしまっては、却って辛いのでは。しかし灯台守は穏やかに笑った。

「貴女は優しい人ですね。いいえ、大丈夫ですよ。こうして歌だけでも聞かせてもらわないと、陸のことを思い出すこともない。幸せです」

「・・・」

「風が冷たくなってきました。そろそろ中に入りましょうか」

 結局魚は釣れず、その日の二人の食卓は別段豪華なものでもなかった。


 スキエルニエビツェはなかなか眠ることができなかった。波の音が近すぎてなんだかとても落ち着かないためだ。そっと起き上がってその海を見ようと、ベットの側にある窓から伺い見る。朝起き上がると窓の外には青い海が広がっていて、その青さといったら己れの顔がほのかに青く染まるほどだ。そしていそいそと起き上がりたくなる。しかし今は違う。なんだか呑み込まれてしまうのではないかと思うほどに黒く、穏やかな波の音も却って不気味だ。その黒い海に、時折頭上から光の帯が一定の間隔で回転している。灯台の光は休むことを知らない。万人が眠っていようと、灯台の光だけは海を照らし続け、そうして海を人知れず守っているのだ。リムノーレイアに聞いた話では、大螺子を一杯に回して灯台の光を回転させるらしいが、それは三時間ごとに回さなければならず、嵐の時には何が起こるかわからないのでほとんど眠らないのだという。

 ふと階上で人の気配がした。リムノーレイアが海の様子を見に、反射板の元まで言って機械の調子を見たり、迷って漂流している船がいないか起きたのだろう。

 自分にはとても想像のつかない世界で、リムノーレイアはひっそりと生きている。



「陸では最近何がありました? 変わったこととか、大きく取り上げられた事とか」

 スキエルニエビツェは肩を竦めた。

「カストリーズ将軍のことくらいね」

 スキエルニエビツェは彼女が先の戦で大きな功労を上げたこと、また劉深がどの軍も負けることなく全勝するという快挙を成し遂げたということを話して聞かせた。リムノーレイアは戦の折り船で出向く軍隊の人間を送り出すことや、また彼らが勝ち鬨の声を上げるかのように誇らしげに汽笛を鳴らし、真っ先に彼に勝利を告げることをいつも嬉しく思っていることなどをスキエルニエビツェに話してくれた。

「カストリーズ将軍ですか・・・お目にかかったことはありませんが立派な方だと聞いています。それに美しい人だと」

「そうね」

 スキエルニエビツェは唇の端に笑みを浮かべて言った。誰とでも寝るひとだけれど、とは、さすがに彼女には言えなかったが、しかしリムノーレイアが彼女のことを知っているというのは多分、陸からの唯一の情報網である友人からの手紙によるもので、そして巷でも有名なカストリーズの噂は、彼も知っているに違いない。

 



       嘉果浮沈して 酒半ば醺い

       牀頭の書冊 乱れて紛紛

       北軒に涼吹いて 疏竹開き

       臥して観る 青天に白雲の行くを



 そして一週間の滞在の後―――――。

 スキエルニエビツェは陸に戻ってきた。再び陸の人間として陸の生活を続けるために。

 しかしリムノーレイアと過ごしたのどかな一週間を、スキエルニエビツェは忘れることができないに違いない。



「一週間もどこへ行っていた?」

 廊下で偶然会った時カストリーズに最初に言われた言葉がこれであった。素直に心配していたと言えないカストリーズの不器用な処をスキエルニエビツェは知っていたから、少しも慌てることなく笑って答えた。

「灯台守の元へ」

 腕を組んでカストリーズは柱に寄り掛かっている。偶然というよりは、楽師が帰ってきたということを伝え聞いて、彼女はここでスキエルニエビツェを待ち伏せしていたようだ。二人は並んで歩きだし、そのまま庭へ出た。

「『港の監視者』リムノーレイアの所か。会ったことはないが彼の功労は何度も耳にしている」

 スキエルニエビツェの口元がくす、と笑みに動いた。

「なんだ」

「貴女が誰かを褒めるなんて珍しいこと」

「・・・」

 カストリーズがなんともいえない顔になったのを見て、スキエルニエビツェはふふふと笑った。誰も気が付かない、この女将軍がこんな顔をすることがあることすらも。皆上辺だけしか見ていない、それだけで彼女の全てだと思っている。スキエルニエビツェはカストリーズの左手を見た。相も変らず黒鼈甲の指環がぬらりと静かに光を帯びてそこに鎮座している。左手の薬指に指環。それは生涯を誓った相手との誓いの証であり絆でもある。しかしスキエルニエビツェは彼女と出会ってこの指環のことを聞いた時、左手の薬指にはそんな意味も込められるのだと思いなおした。何も想い合って結ぶ絆だけではない、想った相手と例え結ばれなくとも、まるで結ばれるために相手を好きになり、叶わぬ恋だとわかれば諦める、それは恋ではなくただの打算だとでも言いたげに、彼女は自分の将来を半ば捨てている。相手に捧げてしまっている。それほど強く相手を愛することが、一体どれだけの人間にできることであろうか。この指環はカストリーズにとって祝福されるものでもなく相手との絆を認識するものでもなく、彼女が自らに課した足枷なのだ。

「・・・・・・」

 スキエルニエビツェは胸が痛いような悲しいような、それでいてなんだか永遠の安らぎを約束されたような、そんな穏やかな気分になって複雑な表情になった。

「何か歌ってくれ」

 それを知ってか知らずか、カストリーズは彼女に背を向け庭の美しい風景に目を向けながら言った。スキエルニエビツェは側にあった岩に座り、スッとリュートを構えた。

 ロ・・・ン・・・



       緑樹 陰濃やかにして夏日長し

       楼台 影を倒にして池塘に入る

       水晶の簾動いて微風起こり

       一架の薔薇 満院香し



 サワ・・・・

 夏の涼しい午後。スキエルニエビツェの歌声は、まるで口のなかにいれるとスッと溶けてしまう上質の砂糖菓子のように、風に乗って不自然さのかけらもなく消えた。

 さらり。風がまた吹く。海の匂いが微かに漂う。余韻を楽しんでいたカストリーズであったが、そんな二人を廊下から見つけた者がいた。

 ノトスである。彼は歌声を聞きつつ廊下に差し掛り、そしてふと目をやった庭に二人の姿を、カストリーズを見いだしたのだ。

「・・・」

 彼は立ち止まり、そしてしばらく考えてから庭に出た。

「大したものだな」

 不意の闖入者に、カストリーズもスキエルニエビツェも驚いて振り向く。スキエルニエビツェは違ったが、カストリーズの方は声でそれが誰か、大体の察しをつけていた。

「・・・」

「まったく優雅なものだ。だいたいその楽師は陛下御用達だろう。 いくら常勝将軍カストリーズといえど、そんなことがばれてみろ、どんな罰を・・・」

「行こう」

 カストリーズはスキエルニエビツエを促して歩きだした。その口調、腹が立ったからとか不愉快とか、そんなものを超越していた。

 彼女はノトスを無視したのだ。

「受け・・・る、か・・・お、おい」

「―――いいの?」

「放っておけ。私が嫌いなんだよ、奴は。ああすると気が晴れるらしい。灯台守がお前を独できて私がいけないというはずはあるまい」

 喉の奥で、スキエルニエビツェはまた笑った。今度は誰にも、カストリーズにもわからないくらいに、わずかに。


 ザ・・・

 ザザ・・・

 ・・・ザ・・・ァ・・・

 穏やかな波の声が響く、夕方。朝のすがすがしさも夜の懐の深さも及ばない、夕方の海だけが持つ、こころ穏やかにする静かな波の声。海はこの時刻、炎をその身に帯びたかのような鮮やかなオレンジ色となる。それは見る者の顔をすべからく同じ色に染め、呼び掛けるような髪の毛を撫でるような波の音も加わって、人の心を安らかかつ騒がしいものに変える。

 カストリーズは放心してそんな海を見つめ、窓から飽きもせず見つめ続けている。目の前で日が沈もうとしている。

 ―――――あの人は、この日没を見ているだろうか。今いったい何をしているのだろう。何を見、何を聞き、何を考えているのか。 カストリーズは行き場のない辛さと苦しさに瞳を閉じて息をついた。

 ああ逢いたい―――・・・。どうして? 何故逢えない?

 それが私の業なのか。狂おしいほど、おかしくなってしまいそうなほど、あの人に逢いたい。その姿を見、声を聞き、共に同じ時間を共有したい。ほんの一瞬でいい、彼に逢いたい、彼に・・・。 

 しかしどう頑張ってもその想いは実らぬ。実らぬ想いがカストリーズを破滅的で投げ遣りな情事へと導く。誰にもどうすることもできない。カストリーズはかの男に再び逢えるまでこの生活を続け、そしてその生活はきっと終わることはないだろう。

 ザザ・・・ン・・・・・・

 ・・・ザ・・・

 サラ・・・

 風がそよと吹いた。ポロン、どこかでリュートを奏でる音がして、楽師が近くにいることがわかった。




       長養の薫風 払暁に吹き

       漸く荷菱開いて薔薇落つ

       青虫も也た荘周の夢を学び

       化して南園の胡蝶と作って飛ぶ



「・・・・・・」

 唇を微かに噛み、カストリーズは夕焼けに染まる海を、いつまでも見つめていた。


 秋になって一番気がかりなのは、季節の変わり目を告げる嵐だ。

 秋の海はいつも気分が変わりやすい。女心と秋の空、なんて言うけれど、秋の海だって女の心に負けないくらい移ろいやすい。リムノーレイアはその日なんとなく風が強いのが気になっていたが、とりあえず雨が来るような匂いはしないので、その日もいつものように眠りに就いた。異変に気が付いたのは夜半過ぎ、前触れもないごお、という突然の風の音で、彼は飛び起きた。着るものも取り敢えず彼は階段を駆け上がり、心臓部の扉を開けた。

「! ・・・」

 外は嵐だった。大粒の雨が凄まじい勢いで玻璃の窓を叩き、今しも破ってしまいそうに乱暴な風が当たり散らすようにして吹き荒れている。相変わらず灯台の灯りは回転を続けているが、この速さでは雨に消されてしまう。リムノーレイアは回転を早めるために螺子や歯車と連動している把手を掴み、全身を使っていっぱいにまわした。そしてそうしてから機械部のいくつかの複雑な部分をいじくり まわして、回転の速さを変えた。そして次にここに小さいながらも島がありここが灯台であることを海にいる人間に報せるために、松明を焚かなくてはならない。灯台の明滅的で瞬間にしか見えない光は、遠くから見ればわかりやすいが近くにいてはわかりにくい。しかも外はこの大嵐である。混乱からくる衝突が夜の嵐では一番恐ろしいのだ。リムノーレイアはまず五階の小さな物置から松明を取り出して灯台の灯りからそこに火をつけ、何本も松明をつくってから屋上に出た。そして柵に沿うようにして置かれている松明のための枠にそれらを差し込むと、ずぶぬれのまままた中に入った。そして五階の扉の側にある、彼の肩程の高さにある小さな扉を開け、そこの把手を思い切り引き、表のバタン、ザザザザザザッという音を確認すると、そのまま階段へと向かった。今度は一階まで下りて表にも松明を作らなければならないが、ここから三百段以上も段数のある階段を下りるのには、どう急いでも五分はかかる。自分は着衣のまま泳いだようにずぶぬれだし、急いでもいる。足を滑らせるかもしれないし転ぶかもしれない。そしてそれを用心してのろのろと階段を下りている暇もない。階段に出るとほど近い場所に、天井から親指二本を組み合わせてもまだ足りぬほどの綱が下まで垂れ下っている。これがリムノーレイアの必殺技とも言うべきとっておきの秘密兵器だ。彼は綱に掴まりそのままの勢いで一気に下まで下りた。

 ずずずずずっ

 リムノーレイアは段々近付く一階の床を見下ろしながら顔を顰めた。凄まじい摩擦で綱に掴まる手から微かに煙が上がったのだ。痛みと共に疾るそれ以上の熱さ。火傷したに違いないが今はそんなことには構っていられない。一階には三十秒もかからずに到着した。

 ダン!

 勢いよく着地してリムノーレイアは走った。倉庫に駆け込み火種から松明を何十本と灯し、何度も何度も外と中を行き交って島の周りに大きな松明を掲げた。そしてそれが終わっても彼の仕事は終わらなかった。息を切らし、びしょ濡れのまま彼はもう一度、今度は五階まで戻らなければならない。普通なら駆け昇るところだが非常事態である。リムノーレイアは今度は先程下りてきた綱に掴まり、手にしっかりと巻き付けてから中央ほど近い場所にある柱の、これもわかりにくいが大きさは中くらいの扉を開け、思い切り把手をぐい、と引っ張った。

 グググググッ

 リムノーレイアの体が天井に凄まじい速さで引き寄せられていく。この綱を使った技法は彼の苦肉の策で、嵐の時の階段の昇り下りで時間を必要以上にかける、そのはがゆさをなんとかしたいと常日頃考えていた彼が考えだした傑作中の傑作である。五階部分にある把手を引くと天井に配置してある綱が垂れ下り、一階の把手を引くと歯車仕掛けの機械が凄い勢いで綱を一定の長さまで巻き上げるのである。そして五階に到着するとリムノーレイアは灯台の灯りの速さを確認し、それを少しまた調節してから、近日中に寄港するはずであった船の目録を持ち出し、今日明日にも劉深へ訪れる船の数をもう一度確認した。

「二・・・三・・・あと二隻か」

 呟き、彼は三百六十度開けた窓から船の姿がないか終始確認し続けた。そして思いついて機械部のいくつかをいじり、準備ができたのを確かめて倉庫から背丈ほどもある蝋燭立てを出した。これは蝋燭の火が消えないように玻璃で周囲を囲ってあり、芯に近い所を開けて火を灯す。リムノーレイアはそれを屋上まで持っていって、中心にある伸縮自在の細い細い棒を取り出すと、なにやら複雑な骨組みに組み立て、その先に蝋燭立てを置くと、五階まで戻って機械部の部分の幾つかの釦や把手をいじった。

 ごぉん・・・

 がたん。がたん。がたん。

 どこかで幾つもの歯車が回り、何かがゆっくり、次第に速さを増して回る音がした。リムノーレイアは再び屋上に戻ると、先程の蝋燭立てが勢いよく回転しているのを確認し、五階に戻った。あれで遠くからでも合図がわかるだろう。

 そしてリムノーレイアはそれからもずっと、下に行ったり上に行ったり、機械をいじりまわして調整をしたり窓をあちこち見て船が来ないか確認しまた激しい風雨に松明が消えては、それを灯しなおすという作業を延々と続けていた。緊張の連続で彼がやっと一息つこうという頃、「それ」はやってきた。

「―――あれは」

 彼の鷹のような目に、彼方に白い船があるのが確認された。彼はその船がこちらに段々と近付いてくるのに気が付き、龕灯という今でいう懐中電灯のようなものを二、三取り出して、屋上に駆け上がった。そしてそれらを床に置いて自分自身を照らしだすと、自分も松明を持って船に向かって松明で信号を送り続けた。凄まじい雨で、ほとんど目も開けていられないような中、彼は一心に信号を送った。風が髪を舞い上げ、そのぬれそぼった姿は何時間もそうしているかのようだ。リムノーレイアは信号を送り続けた。しかし相手から返事が返ってくることはない。それでも遠かったので、リムノーレイアは必死に信号を送った。何かおかしいということに気が付いたのは、船の姿が大分近くに見えてくるようになってからだ。信号を送り始めたのは船が豆のように小さい時だったから、別に返事かなくともおかしいとは思わなかったのだが、これだけ近付いてまだ何の返信もないのはおかしすぎる。

 ―――――何か変だ

 彼は直感した。確認などしている暇はない。間違いであったのなら謝ればよいが、そうでなければ人命に関わることである。彼は五階から綱にぶら下がり、三階まで行くと一番奥の部屋まで駆け込んだ。そして扉を開け、目の前にぶら下がる綱に掴まると、勢いよく飛び付いてそのまま二階、一階まで掴まり落ちた。そして綱の最終地点、これは吹き抜けになっていて実際一階部分なのだが、そこで 思い切り体重をかけて綱を引っ張った。三階からの彼の重みで一気に動き始めていた歯車は、体重をかけられてすぐに臨戦体制となっていた汽笛を勢いよく鳴らした。

 ボ―――――――ッ

 その第一報は陸まで朗々と響いた。

「はっ・・・」

 カストリーズも目覚め、ギュイアンも、ノトスもそれで飛び起きた。スキエルニエビツェははっと瞳を開き、そして何事かと起き上がった。

 ボ――――――ッ

 ボ―――――ッ

 何度も何度も鳴らされた汽笛で港はおろか劉深の家という家の灯りがつき始めた。しかしリムノーレイアはそれだけでは終わらせようとはしなかった。

 一階から表に出て、島の裏側に出ると、そこに建てられている小さな白い建物の中に入り、百近い大小様々な鐘が吊り下がっているのを見ると、大鐘に唯一ついている綱を全身を使って引っ張った。 まずは大鐘。

 リ―――――ン

 そして連動して左右にある心持ち小さな鐘が揺れる。

 ドォ―――――ン

 そしてそれが揺れてまた隣の鐘が。連動が連動を重ねて、鐘が次々に鳴る。

 ゴォ――――― ン

 リィィィ――――― ン

 ドォォォォォ――――― ン

 それは最初こそは不協和音のような聞くに耐えないひどい音を醸し出していたが、やがて何度も何度も鐘が揺れてすべてが連動して同じ揺れに入ると、その一つ一つが鳴るよりも遥かに大きく、遥かにいい音で鐘が鳴った。

 リィ――――ン

 ドォ―――――ン

「何事!」

「大変だ皆起きろ!」

 港が大騒ぎになり、そして宮廷内でもそこを宿舎としているごく限られた上位の軍人たちが次々と起きだして非常事態に備えるべく騒ぎ出していた。

「各隊に非常事態対策! 全員起こして総動員させろ!」

「こっちは怪我人の対処と寝床だ!」

「受け入れ体勢を完璧に整えるんだ!」

「動ける者は私についてこい!」

 カストリーズも起きだして、兵士を二、三連れてギュイアンと共に港に向かった。劉深ではこういうことは一度や二度ではないようだ。

 この夜の劉深は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。


 そしてあの嵐の日から三日―――――。

 スキエルニエビツェは、再び灯台へ向かおうとしている。国王からの書状、褒美、彼の多くの友人からの手紙と多くの物資と共に。

 彼のあの時の判断は間違ってはいなかった。いや、あの判断こそが、多くの人命を救ったと言っても過言ではないだろう。どうやらあの船は嵐で船底に穴が空き、船室の密閉や水の掻きだしに大わらわで混乱状態だったようで、また舵も半分以上きかなくなっていたという。信号係は船室の水の掻きだしに駆りだされており、よしや彼が自分の持ち場にいたとしても、窓が割れて風と雨が吹き込んでおり、とてもリムノーレイアの信号に応えられる余裕はなかったという。あのままでは船は、劉深の港に混乱のままに入港し、きっと陸に乗り上げ、港に住む人々の住居までばらばらになるほどの被害を与えていただろう。 それほどの大型船であった。この船はしばらく劉深で修理をするらしいが、リムノーレイアが港の人々を叩き起こしたおかげで陸の対応が早く、被害が想定より少なかったので、そう時間はかからないようだ。実に、リムノーレイアは陸と海の二つの命を救ったのである。間違えたら謝ればいい、灯台守は常々そう思っているが、かといって誰もが簡単にやってのけられることではない。

 リムノーレイアの名声は、高まるばかりである。

「やあ貴女ですか・・・」

 リムノーレイアは多少疲れた顔で、それでもスキエルニエビツェを笑顔で迎え入れた。

「これを・・・国王陛下からの書状です。それからこれは褒美だとおっしゃって」

 スキエルニエビツェは包みを差し出し、書簡を差し出した。リムノーレイアは油紙に丁寧に包まれた包みを開け、赤い革で装丁された分厚い本だとわかると、疲れた表情も忘れて晴れやかな笑顔になった。

「これは凄い・・・幻の本と言われているものですよ。分厚くて内容が難解ですが、その分退屈しないですみます」

 それから書簡にざっと目を通し、二、三回うなづくと、それをしまってスキエルニエビツェを見た。

「陛下にお伝え下さい。お言葉は有り難いのですが、嵐の後のこともありやはり灯台を離れるわけにはいかない、と」

「そうお伝えすればよろしいのね」

「ええ」

「わかりました」

 それからスキエルニエビツェはにこにことして自分も包みを取り出した。

「これは私から・・・」

「? なんです」

 リムノーリイアは呟きながら包みを開けた。中身はなんと、小さな苗木であった。柳と牡丹、金木犀、そして梅の苗木もある。

「ここの環境では難しいかもしれませんけど・・・楽しみが増えるでしょう?」

「これは嬉しいですね。早速後で植えますよ。しばらくここに?」

「ええ。また一週間ほど滞在させていただこうと思って」

「なるほど・・・貴女がわざわざ来たというのも陛下のご褒美なわけだ」

 スキエルニエビツェはそれには答えず、視線を下に落として微かに笑っただけであったが、その拍子にリムノーレイアの手に視線が当たり、顔色を変えた。

「その手―――・・・一体どうしたんです?」

 リムノーレイアはそう言われて初めて彼女の視線が自分の掌にあることを知り、慌てて背中に隠した。が、遅い。

「見せて」

「え、あ、これ、は、その・・・・・・」

「ひどい腫れ・・・これは火傷? どうして片手だけ」

「いええ・・・あのう」

 リムノーレイアは言い訳を探すのに苦しげだ。

「・・・う」

「一体・・・」

 スキエルニエビツェは辺りを見回し、見回して初めて、灯台内の散らかりように気が付いた。

「―――――」

 天井からは太い綱が垂れ下っており、普段綱をしまっているであろう天井の板も外れっぱなしだ。あちこちの窓が開いてぽたぽたと雫が垂れ、床のあちこちに小さな水溜まりを作っている。また五階の反射板のある部屋には、いくつもの松明の残骸がそのまま放置されており、見るも無残なかたちで散乱していた。

「これ・・・は」

 絶句するスキエルニエビツェに、リムノーレイアは恥ずかしそうに頭をかいて小さく言った。

「お恥ずかしい・・・嵐の始末に忙しくて・・・その、水夫の人たちとなんやかんややっていたら自分の方まで手がまわらなくて」

「じゃあ・・・じゃあその手も」

「・・・はあ。まあ、その一貫というか」

 灯台守の言葉はえらく歯切れが悪い。

「あ、でも、今日片付けの人が来てくれることになってます。この手で天井の蓋板を直すのは大変だし危ないし、新しい松明も持ってきてもらわないとならないので午後にはきれいになりますから」

「・・・」

 スキエエルニエビツェは必死になって取り繕おうとするリムノーレイアを見ておかしくなった。そして、灯台守は大変だと言いつつも、自分は真にその大変さがわかっていなかったことにも気付いていた。

「じゃあその間に・・・」

 スキエルニエビツェは差し込む太陽の光に燦々と輝くリムノーレイアの金の髪を見ながら言った。

「苗木を一緒に植えましょうか」

 灯台守は一瞬きょとんとした顔になり、それから嵐の後の太陽のような笑顔で

「ええ」

 と答えた。

 二人が苗を植えている間に陸から職人が来て、灯台守の相変わらずの仕事ぶりに賞賛の意味を込めた愚痴をこぼしながら天蓋の板を元の通りに直していた。その他回しすぎて油の切れた把手、引っ張りすぎて縄が緩みうまく音のならなくなった幾つもの鐘、いずれも彼のたった一人の奮闘ぶりを如実に、痛いまでに表していた。そしてリムノーレイアの言葉どおり、午後には陸に引き上げていった船を見送り、スキエルニエビツェはまたしばらくここに滞在するという。

「本当にいいんですか」

「ご迷惑でなければ」

「それはいいのですが・・・」

 灯台守は心配そうに眉を寄せて言った。

「いいんですか・・・貴女は陛下の為にいるんでしょ」

「だってその陛下が許してくださったのだもの」

 肩をすくめて言うと、スキエルニエビツェは一瞬だけ遠い瞳になった。

「・・・それに・・・」

「―――え?」

「いいえ・・・。なんでもないわ」

 呟いた言葉はとても小さくて、リムノーレイアには聞き取ることができなかった。そしてよしや聞き取れたとしても、言葉は短すぎて理解するにはあまりにも乏しかった。しかしわかったことはその瞳の遠さ。自ら好んで故郷を離れ、大地を床に天を枕とするような放浪の旅をしている者は、望郷の思いというものは持たない。好きで離れたわけではない者は故郷が懐かしくて懐かしくて仕方がないから望郷の念に駆られ詩を作る。しかし吟遊詩人は放浪も仕事の一つである。好き好んでこの国にいるはず。しかしリムノーレイアには、本来いるべきではない場所にいるような、極端にいえば、好きでこの国にいるわけではないような、そんな瞳に感じられた。己れの不幸など存在しないようなスキエルニエビツェであっただけに、その瞳は疎遠なものを感じさせ、ひどくリムノーレイアの印象に残った。

「海はきれいですよ」

 何となくこのの国を嫌われてしまったような気がして、リムノーレイアは慌ててこう言った。予想に反して、スキエルニエビツェは素晴らしいほどの笑顔で答える。

「ええ。海は今まで何度か見たことがあったけど、この国の海は別格だわ。こんなに青くて美しい海があるだなんて考えもしなかった。青すぎる青、そう表現した人がいたけど、正にその通りね」

「青すぎる青・・・か・・・この国に住む人らしい言葉です」

 ザ・・・・

 ・・・ザー・・・

 ザザァ・・・

 しばしの間二人は押し黙って海を見ていた。季節は既に秋、青すぎる青い海は夏と共にいずこかへ去り、青い上にもどこかしっとりとした淡い紫を帯びて、劉深独特の景観をたたえている。

 スキエルニエビツェはスッとそこに座り、おもむろにリュートを構えた。リムノーレイアは顔を向け、

「何か歌ってくださるんですか?」

 と尋ねた。

「ええ・・・ここは一つ秋の歌を」

 薄い笑いを口元に浮かべスキエルニエビツェは弦をはじいた。




       秋風起こりて白雲飛び

       草木黄落して 雁 南に帰る

       蘭に秀有り 菊に芳り有り

       佳人を懐いて忘るる能わず

       楼船を汎べて汾河を滑り

       中流に横たわりて素波を揚ぐ

       簫鼓鳴りて棹歌発し

       歓楽極まりて哀情多し

       少荘幾時ぞ 老いを奈何せん



 ポロン・・・

 スキエルニエビツェの演奏は続く。それは波と協調するように同調するように、終わることを知らぬかのように延々と続いている。

 そう、波のように。

 ザ・・・

 ・・・ザザ・・・ァ

 ポロ・・・ォォン・・・・・・

 ザ・・・ァ・・・

 演奏の手を止めずに、スキエルニエビツェは瞳を閉じ口元に微笑を浮かべながら港の監視者に言った。

「あなたの名声は巷では轟かんばかりよ。よっぽど大事件だったのね、あの嵐は・・・宮廷でも大変な騒ぎで、被害があそこまで少なかったのはリムノーレイアのおかげだって。 皆そう言っているわ。

 どう、感想は?」

 するとリムノーレイアは困ったように照れたように、わずかに眉を寄せて謙虚に微笑んだ。

「これが仕事ですから」

 スキエルニエビツェは喉の奥でふふ、と笑った。こんなにも興味深い人間が、この劉深という国には二人もいる。それは自分にとっては大きな喜びだ。人との出会いは多くを見つけ、多くの発見は歌と声とに深みを与え、歌と声に深みが増せば、また人生も深みを帯 びる。

 一層高い弦をつらりと弾いて、スキエルニエビツェは改まったように別の音を弾き始めた。

 フォロン・・・




       中庭 地白うして樹に鴉棲み

       冷露 声無く桂花を湿す

       今夜月明 人 尽く望むも

       知らず 秋思 誰が家に在る



 灯台の島に柳が植えられた。強い潮風にもし負けることがなければ、春になれば柳絮が粉雪のように舞い、牡丹が咲き誇り、梅はそれよりも先立って香り高く咲くだろう。

 秋の今はめまいがするほどの香りを辺りに巻き散らして金木犀が金色の花を咲かせている。

 リムノーレイアの陸の生活はこうして少しだけ、本来の陸の生活には足元にも及ばないほどわずかに、花という形によって取り戻された。しかしそれによって彼は確かに自分は陸の人間と同じものだという確固たる自覚を保って生きていける。リムノーレイアは咲く花を見る度自分が陸から来た人間だということを思い出し、陸に住む懐かしい人々を思い出し、スキエルニエビツェを思い出すだろう。

 ザ・・・ン・・・

 波の音に溶けいるように、リュートの音もそこで途絶えた。



 深い紫を遠くから見るような劉深の秋の海は、十一月になって一層深みを増した美しい色になった。

 スキエルニエビツェが劉深に来て一年が経つわけだが、去年の今頃は海に目をくれる余裕すらなかったのを、スキエルニエビツェは昨日のことのように鮮明に覚えている。

 時が過ぎ、いつしか年老いる日のことがあっても、スキエルニエビツェには忘れることのできない日々がある。人は二度死ぬという、最初は肉体の死、そしてもう一つは存在を忘れられるという死。その忘れられるという二度目の死こそが真の死だという。しかしスキエルニエビツェが覚えている限り、死んだ人々は生きる。スキエルニエビツェは今まで出会った人々を一人たりとも忘れることはない。彼らが自分の知らないところで死んでしまったとしても、自分という心の中で生きているというのはまた幸せなことであるから。

 そしてまたカストリーズという女の心のなかにも、どうしても忘れられない男がいる。 その容姿と名前以外は何も知らぬ。ただその存在だけをひたすらに闇雲なまでに愛し、強すぎる想いゆえにそれを持て余し自虐的な情事に疾るカストリーズ。

 あああの人は今一体―――・・・どこで何を? 何を考え、

何を見て何を聞いているのだろう。

 逢いたい・・・!

 どうすればいい? どうすればこの強すぎる想いを押さえられるのだ。傷ついた獣のようにあちこちを意味なく走りまわり疲弊していく心。

 私という女は自分の心さえどうにもできないのか・・・所詮は一人の愚かな女に過ぎぬのだ。いや、女は、否、人間は等しくみな愚かなのだろうか? それすらもわからない。



 どこに行けば愛がある



 自分は一体何をしているのだろう。

 彼は・・・一体何をしているのだろう。

 カストリーズは廊下から落ちる陽を見つめていたが、なんだか恐ろしいような自分が馬鹿馬鹿しいような気がして、夕日を降りきるようにして歩きだそうとした。

「てっ・・・」

 誰かに勢いよくぶつかって、カストリーズは小さく叫んだ。いったい誰だ、怒りにも似た感情が込み上げてきてキッと睨み見上げれば、そこにいたのは何と同僚で事あるごとに彼女を敵視しているノトスであった。

「・・・・・・」

 カストリーズは一瞬言葉が出なかったが、一応小さく、無愛想ながらにもすまん、と呟くように言うと、走るようにしてそこから立ち去ろうとした。こういう気分の時、ノトスに何か言われるはさすがのカストリーズも御免だと思ったらしい。

「それで今夜は一体誰とお楽しみだ?」

 意外な言葉が背中から追ってきた。

「―――」

 カストリーズは思わず立ち止まり、そしてゆっくりとノトスを振り返った。明らかにいつもの攻撃的な言葉とは違うが、それでも振り向いて見ればその瞳は冷徹で攻撃的で油断を許さない光を帯びて爛々と光っていた。

「・・・お前には関係なかろう」

 カストリーズは低く言った。―――この男は。どうしてこんなに私を攻撃したがるのだ。何か私に恨みでもあるのか。やりにくい。

「ふん・・・確かにそうだ。将軍とはいえ私生活にどう過ごそうと俺には口出しはできん」

 カストリーズは一瞬眉を吊り上げて意地悪げに言った。

「ほう・・・今日はしおらしいな。いつもそうだともっと良いのだが。特に軍議の時とかな」



 どうすれば愛が得られる



「見も知らぬ男の肌はそんなにいいか」

 カストリーズは歩きだしながら吐き捨てるようにノトスに答えた。

「お前はどうだというのだ」

 一瞬、背後から迷いが感じられた。 ―――――言おうか、それとも。

「―――――試してみるか」

 信じられない言葉にカストリーズは立ち止まり、そしてゆっくりと振り返った。

 ノトスの表情は、恐ろしいほど真剣であった。

「―――――」



 どうすれば―――――愛は



 まだ熱い体をそのままにして、カストリーズは服を纏った。枕元の灯りの元で、それはひどく退廃的に、彼女を荒んで見せる。その手首を掴んで、裸のままノトスが尋ねる。

「また―――こうして会えるか」

「知らん」

 カストリーズの言葉は泣き出したくなるほど素っ気ない。

 手早く服を纏った彼女は、服の下に入ってしまった髪をひらりと出して、そして立ち上がった。

「おい」

「私がどれだけきまぐれかお前も知っているはずだ。次を保証するほど心配性ではない」

 誰でもよかったのだたまたま今夜はお前だっただけ―――――その言葉はこんな風に言っているようだった。ノトスが止める間もなく、カストリーズは部屋からさっさと出ていき、後にはノトスのみが残った。



 それでもノトスという男は、確かに公共でカストリーズと正面きって彼女を批判するような男ではあったが、将軍にまでなるほどの者であったから、おかしなところで変に人間の小さな真似は一切しなかった。あの夜のことで彼女に詰め寄ったり、そのことを盾にして弱みを握ったりせず、淡々と日常の業務をこなしていた。あの日以来カストリーズを攻撃することもなくなったが、それには彼も思わぬ落し穴にはまってしまったというべきだろう。

 それはカストリーズに本気になってしまったということであった。

 もしかしたら理由もなく前々からあの女をああして攻撃していたのはそのせいだったのか?

 そしてその愛を自分が獲得できなかったゆえの嫉妬だと?

 日に日にカストリーズのことを考える時間が増していく。気が付くとカストリーズのことを考えている。廊下ですれ違ったり、軍議で彼女の姿が見えたりすると顔が熱くなり全身が熱くなり、あの夜の彼女のなまめかしい白い肌、熱い吐息、絹のような黒い髪を思い出して自分がいったいどこにいるかもわからなくなってしまうのだ。

 ノトスは普段冷静だがその分直情径行である。しかしカストリーズはそんな彼の気持ちなど知るよしもなく、毎晩のように違う男と肌を重ねていた。

 それを知ってまたノトスがいらぬ嫉妬をする。本来自分のものではないのに、そして彼女があの夜どういうつもりで自分に抱かれたかも知っていたはずなのに、どうしようもないのだ。 

 なぜだ? どうしてそんなに多くの男と寝るのだ。俺を見ろ。俺と一緒にいてくれ。

 その一言が言えない・・・それは彼の誇りであったのか、それとも。

 ノトスはそうして悶々と日々を暮らしていった。

「アミーン伯爵・・・」

「・・・伯爵か・・・・・・」

 ノトスは周囲のどう聞いても好ましいとは言えない反応にハッと顔を上げた。軍議の真っ最中である。

 アミーン伯爵は中立派の貴族で、国王派とも反国王派とも一線を引いて存在する油断のならない男である。中立といえば聞こえはいいが、簡単に言ってしまえばどちらにも情報を提供し、互いを撹乱して傍観し喜ぶという非常に迷惑で危険な人物である。かと思えば時に国王派を攻撃し、そのやり方や将軍たちの戦場での戦いぶりや作戦などをいちいち細かく取り上げては批判し、いかに国王の元にいる将軍として至らないかを詳らかに会議の席で報告した。ギュイアンやノトスは無論のこと、カストリーズもその例に漏れない。そ

れがまた、なんでその時その場にいなかったくせにそんなことまで、ということにまで細かく言質してくる。それは無論のこと自分の手の者が戦場に同行していたのだし、それは将軍たちも承知しているのだが、その時こう思ったはず、その時そう決断したはずと、気味が悪いほどに将軍たちのその時の心理を言いあてるので、この男は一体、と、どの将軍も薄ら寒い思いをしたものだ。だからと言って反国王派にこういう時肩入れするかというとそうではない。罷免したいのはやまやまなのだが、その実力ゆえにできない―――――。

 そのため宮廷内の誰もが、―――――国王派反国王派に関わらず―――――アミーン伯爵に辛酸を舐めさせられている。アミーン伯爵を潰すためなら、今まで考えられなかった両陣営の結束という事態も辞さないのだ。将軍たちも情報を操作され戦場で何人の同志部下を無くしたかわからない。アミーン伯爵は誰に対しても均等に危険な男で、恨みをかっている人物なのだ。それを今まで彼を牢獄に入れることができなかったのは単に証拠がないという事実があるからに過ぎない。無論彼がやったことは確かなのだ。なにもかもすべて証明されることなのだが、動かぬ事実、目に見える証拠が一つもない。告発して、それは単なる逆恨みと言われれば黙る他ないのだ。

「ノトス将軍・・・どう思うかね?」

 国王が意見を求めてきた。国王は公平な人だ。この前の失態ですら、叱責はされたもののそれでノトスは国王からの信用を失ったというわけではなかった。犯した過ちは消えないけれども、一度注意し、それについて謝罪し、反省しているものなら、過去のことゆえないも同じと、国王はそう言って彼を解放した。

「・・・私は、やはり徹底追求するべきだと思います。誰一人アミーン伯爵についてはよく言う者はいない。

 確かに重要な人物ではありますが、ですが害毒が一つの有益なものをもたらすからといって十の被害を見過ごしてよいものでしょうか。このままでは宮廷内は彼一人のために撹乱され、混乱の内に破壊し、そしてその被害は民にまで及ぶものかと」

 カストリーズはじっとその言葉を瞳を閉じて聞いていた。

 相変わらず説得力のあることを言う・・・。

「ふむ・・・私もそう思う。しかしこの意見はまた非常に重要な決定につながることでもあるので全員一致によって決定としたいと思う。ノトス将軍の意見に賛成、意見を決定してもよいと思うものは起立願いたい」

 ガタッ・・・

 部屋中の空気が慌ただしく動いた。ノトスは立ち上がりながら冷や汗をかいていた。自分がいつもこの席で攻撃する女、自分を恨んでいるはずの女は、その仕返しをするのではないか? 攻撃した理由さえ今はわかって自分が情けない。あまりにも幼稚な愛情表現。

 しかしカストリーズは涼しい顔をして立ち上がっていた。全員がまったく同じタイミングで立ち上がり、座っている者は一人としていなかった。

「全員一致ということで―――――可決するとしよう」

 堅い表情で国王が言い、軍議は終了となった。誰もが堅い表情で、重い心で部屋を出ていき、ノトスはカストリーズを呼び止めた。

「―――なんだ」

 最悪に迷惑そうな顔をしてカストリーズは振り向く。

「え、あ、いや・・・有り難いと思っている。その・・・」

「―――――見損なうな」

 カストリーズは氷で作った鋭敏な針のような鋭い声でノトスを遮った。

「―――――」

「私はお前と寝たからお前の意見に賛成したのではない。あの伯爵は本当に迷惑だ。私も二度三度となく被害を受けている。それだけではない劉深にとってあの男は有益なものをもたらさない。だから賛成しただけだ」

 言うとカストリーズはノトスに構わずすたすたと行ってしまった。

 ノトスは一人、自分の言葉の愚かさに、ただ茫然と後悔の念と共に立ち尽くすばかり。



 カストリーズは夜の道を歩いていた。繁華街を少し抜けて行くと国立の公園がある。そこからは海が一望でき、緑も深く静かで、もの思いに耽るには最適の場所なのだ。カストリーズは一人になりたい時よくここへやってくる。静かな波の音を聞きながら空と海とを見ていると、恋ゆえに焦燥する己れの心が小さく感じられる。小さく感じ大したこともないのだと思うだけで心は軽くなり、俗界へ戻ってまた彼女は、疲れた頃にここへやってくるのだ。

 ベンチに座って足を伸ばし、カストリーズはふう、と息をついた。

 ここへ来るたび嫌でも思ってしまう、この天地の下でいかに自分が卑小な存在かを。しかしそれでよい、卑小だからこそ懸命に生きていけるのだ。

 ・・・ザ・・・

 白い息を吐きながら、カストリーズは海に見入った。冬の海は厳しい。厳しいからこそ美しくも感じられる。自分はいつになったらこの永遠に続く苦しみから解放されてこの海のわずか十万分の一でも美しくなれるのだろうか。

 ガサ。

 背後で気配がした。職業柄カストリーズは即座に剣の柄に手をやった。

「カストリーズ殿」

「! ・・・その声は・・・」

 カストリーズは絶句した。振り返り自分の過ちを確認しようとして、そして自分の正しさに茫然とする。今日の昼カストリーズはこの男の解任決議に賛成したばかりなのだ。

「アミーン伯爵・・・」

「お一人ですかな」

 カストリーズ言葉を失った。この男・・・今日の議決を知っているのか? ならば今自分は非常に危険だ。どこに誰がいるかもわからない。退路を確認しながらカストリーズは油断なく伯爵と向き合った。ところが伯爵は寸鉄もその身に帯びていない。

「いったいこんな所でなにを? 護衛もつけずにあなたほどの方が」

 カストリーズは不審に思いながらそれでも警戒を解かずに言った。

「実は貴女を尾けてきたのです」

「私を・・・?」

 この男―――――まさか昼間のことを

「こうでもしないと貴女に逢えないのでね」

「・・・」

 真意を掴みかね、カストリーズは言葉を慎んだ。寒いのに汗がふつふつと額からにじんでいる。

 とく、とく、とく、とく・・・心臓がひどく高鳴る。

「実は私の想いを伝えにきたのだ」

「・・・」

 茫然とする己れをカストリーズは自覚していただろうか・・・。

 この男は今いったい何を?

 立ち尽くすカストリーズをよそに、伯爵はカストリーズが座っていたベンチに静かに座った。

 ・・・ザ・・・ァ・・・

「―――――」

 伯爵は目を細めた。

「貴女が見ていたのはこの海か―――――・・・ならば私は海に嫉妬しまた空に嫉妬する。 貴女が何を見ているのかを知りたいし何を考えているかを知りたい。私の目に見えないところで貴女が何をしているかを―――――・・・知りたい」

「―――――」

 カストリーズは目を細めた。

「いつも貴女を想い、側にいたいと願い空や太陽を見ては貴女が同じものを見ていることを切に願う。・・・私の願いは聞き入れられないのだろうか」

 カストリーズはこの男は、昼間のことを知らないということをほぼ確信していた。知っていれば確実にそれをカストリーズ自身に知らせ知らせた上で刺客を向ける恐ろしい男である。

「貴女の見るものすべて、貴女の聞くことすべてを知っていたい」

「―――――」

 この男は私と一緒だ―――。

 カストリーズは痛感した。

 私はこの男を拒むことはできない。この男を拒むことは今まであの人に寄せていた私の想い、私自身を否定することだ。

「・・・何が望みです」

「そう聞いた時点で貴女はわかっているはずだ。それでも何が望みと私に聞くのか」

「・・・伯爵・・・。

 ―――――お気持ちはよくわかりました。

・・・―――・・・・ですが私は立場上あなたと敵対とまではいかないまでもそれに近い位置にある。だからあなたと共にいられる夜は一度だけ―――・・・・たった一度だけ。 それでもよいと?」

「たった一度でも真実は変わらない。貴女と一晩共にいられるという真実は。できれば私の妻に迎えたいところですが・・・陛下はそれを許さないでしょう。あなたは古い貴族の生まれだ。貴女自身も軍人をやめて伯爵夫人などという退屈な生活は望みますまい。

 そしてまたそれは私の愛した―――旗袍を纏い剣を下げ戦場で猛る貴女ではない。だから私の気持ちに区切りをつけるために、諦める材料としてこうしてお頼みしているのです。・・・お怒りか」

「いえ・・・あなたが―――あなたほどの人物にそこまで想われて本望なだけです。あなたがそうおっしゃるのなら・・・私を愛し私を手に入れられないがために私を諦め、その為に私を抱きたいとおっしゃるのなら・・・私はあなたを拒むことはできない」

「・・・・・・それでは」

 カストリーズは同意を表すため瞳を閉じた。

 そしてそのまま・・・二人の影は夜の闇に消え―――――すべての目から逃れた。


 すべての人間にとっての不幸は、ノトスがそれを見てしまったという事から始まった。 ノトスは才能はあるが了見の狭い男である。

 カストリーズのように、公としての伯爵は確かに目障りだが、「私」としてのアミーンという男は、それとは一切関係がないという考えの一切できない男なのだ。そう言われても、いや、しかしお前は公であ奴を罵声したも同じなのだぞ、とノトスはそう思うだろう。物事に対して厳密な区別ができない男なのだ。当然ノトスは嫉妬した。よりにもよってどうして伯爵なのだ。確かに自分は彼女の恋人というわけではない、だからどの男と関係しようが声を高くして責めることはできない。しかし伯爵だけは。あの男だけは嫌だ。どうして、どうしてそうなるのだ。本当に誰とでもいいのか。

 私ともそうやって寝たというのか。ノトスは嫉妬した。そして憎悪した。あの伯爵と肩を並べるのだけは嫌だ!

 嫉妬と憎悪に駆られ―――――男は破滅の道を選んだ。この時、まだ彼は気が付いていなかった。愛した人間を破滅に導くことこそが、己れにとって一生拭いきれない苦痛を伴う汚点になるということを。まだ彼は気が付いていなかった。嫉妬と憎悪に駆られ、自分が落としめられたという妄想につきまとわれている今は・・・。



 噂はあっという間に宮廷内に広まった。

 何者かによって、カストリーズとアミーン伯爵が関係した事実を詳らかに記した紙を何百枚と刷ってばらまかれたのだ。それは国王から侍女女官、将軍の面々、伝達兵から下等兵や料理人、洗濯女にまであますところなく広まり、大問題となった。

 冬がその力を猛らせるように寒い、一月のことであった。

 またカストリーズの動じないいつもと変わらぬ態度にも拍車をかけた。

 あれだけ堂々としているのは否定しようのない事実だからということではないのかだいたいあの女はいつも生意気だ陛下に気に入られているからといってふてぶてしい

 カストリーズの生まれやその天賦の才能を普段から心密かに妬んでいる者たちの流した根拠のない噂が一層彼女の立場を悪化させ―――――・・・ついに翌月二月、カストリーズは告発された。政敵とも言える男と寝たという倫理問題もさることながら、実はカストリーズ将軍は敵方に寝返ったのではないかという推測も無視できないものだった。無論そんなことはないのだが、カストリーズは何一つ弁明しない。弁明することは伯爵の純粋な気持ちを言うことであり、それに自分が納得した理由を―――ひいてはかの人に想いを寄せているということを話さなくてはならない。カストリーズはそれだけはやめようと心に決めていた。あの国王、数少ない理解者の国王にですら、詰問されてとうとう言えなかったというのに、保身のためとはいえどうしてそんなことを裁判で言えるだろうか? 保身のため誇りを捨てるような真似はしない―――カストリーズは嫌になるほど軍人で、嫌になるほど貴族の娘なのであった。

 私はあの人に対する想いを言うことはないだろう―――――それで一生を棒に振ることはあっても、それはそれで運命。仕方のないことなのだ。

 それにもういい加減疲れた・・・。自分の人生はここいらが潮時なのかもしれない。

 ああ今・・・あの人は何を? 海を見ているだろうか山を見ているだろうか空を見ているだろうか。逢いたい。

 向こうがこちらに気が付かなくてもよい、一目見たい。一瞬でいい、あの人に逢いたい!

 カストリーズが左手の指環にそっと触れた時、国王直属の兵士がやってきて、一礼した後書簡を広げ、非常に残念そうに、しかし低い声でそれを読み上げた。

「カストリーズ・イゾンツォ将軍。

 訴状により貴殿を告発致します。内容は謀反の疑いと宮廷内倫理法違反。裁判は翌日朝十時、場所は玉座の間にて」

「・・・」

 カストリーズは瞳を閉じた。

 潮時か―――――。

 そして瞳を開けて顔を上げ、カストリーズは震えを必死に押さえている兵士に向かってしっかりとした声で言った。

「承知した」



 カストリーズは、裁判で何も弁明しなかった。

 アミーン伯爵と寝たのは事実ですなぜかと言われたらそれは―――そうしたかったから。 ですが謀反だとか寝返ったとかそういうのだけは否定する。カストリーズは穏やかに言った。自分が忠誠を誓ったのはアレクサンドロフスコエ・ゼヴェイエⅥ世陛下ただ一人であって、例え陛下に必要とされなくても自分はその忠誠を忘れることはないと。

 しかし分が悪かった。

 カストリーズの普段の態度は、悪くはないがいいとも言えない。

 元来お世辞や愛想笑いなどというものに無縁の彼女は、大抵いつも無表情で何を考えているのかわかり辛く、敬遠する者は少なくなかった。しかも彼女は貴族の出でありながらその地位を国王に返上し、なのに功績はいつも群を抜いている。あんなに無愛想なくせにどうしてあんなに功績がいいのか、訳のわからぬ嫉みを胸に抱いている者は多かった。また彼女の私生活に眉を顰めていた者も多数で、将軍としての倫理問題もその場で追求された。カストリーズは、そのことについては眉ひとつ動かさず沈黙を守った。

 言うまい。決して言うまい―――言えば今まで守ってきたあの人への想いが、純粋さが、汚れる―――――。

 ノトスを筆頭として多くの者がこの問題を大きく取り上げ、さしもの国王も彼女を庇うところまでいかなくなった。裁定は公平を期すために国王ではなく裁判官が下すというのが劉深の法律である。

「カストリーズよ、これが国王としての最後の質問だ。頼むから答えてくれ。答えてくれなければそなたの弁護もできない。――――そなたは、なぜ伯爵と」

 耳が痛いほどの沈黙が辺りを制した。

 氷のような瞳で氷のように黙っていたカストリーズは・・・長い沈黙を破って顔を吃と上げた。

「陛下・・・・・・貴方は本当に心から尊敬できる方です。生まれ変わって別の人間になったとしても、私は貴方に忠誠を誓うでしょう。あなたは本当に素晴らしい主君です。

 ですが―――――・・・これだけは言えません。でもわかっていただきたい。どれだけ私が貴方を尊敬申し上げているかを」

「・・・カストリーズ・・・」

 国王の痛々しい呟きが響き、そしとて彼は沈痛に眉を寄せ瞳を閉じた。

「・・・言うことは本当にそれだけなのか・・・・・何も弁明することはないと?」

 そしてカストリーズは動かず喋らず、じっとしていた。

 それが軍人の肯定の仕方であり、カストリーズがそんな肯定をしたということが、国王には悲しかった。すべては裁判官に任せられ、カストリーズの運命は委ねられた。

 そして下ったその裁定は―――――

「―――死刑・・・」

 馴染みの女官にそれを聞いたスキエルニエビツェは茫然とその言葉を繰り返した。

「そん・・・な」

「ギュイアンクール将軍や陛下も大分尽力なされたようなのですが、何しろ十数名の人間が告発に名を連ねていたようで・・・国王陛下も庇い立てできなくなったようで」

「―――――」

 突然何の予告もなく体の半身を切り取られたかのような痛みだった。胸が重く息をするのも口をきくのも辛い。

「死刑・・・現役軍人の、しかもカストリーズ様のように優秀な軍人を死刑だなんて。実際施行されるのはまだ未定だそうです」

「それで・・・彼女は?」

「地下牢に」

 地下牢! あの誇り高い彼女が日もろくに射さぬ地下の冷たい石の上にその身体を横たえているというのか。カストリーズは優秀な軍人。劉深にとって彼女を失うのがどれだけの損失か・・・わかっているのだろうか? それともわかっていながら、それでも病巣として切り落とすというのだろうか、痛みを承知の上で。

「・・・」

 スキエルニエビツェは身を翻して身仕度を始めた。氷重(表鳥ノ子色・裏白)の襲を纏い、

「・・・国王陛下にお目通りの許可を伺ってきて」

 鏡に向かいながら、固い表情で女官にそう告げた。



「来たかスキエルニエビツェ・・・だいたいの予想はついておるが、そなたの口から聞こうと思う」

 沈痛な面持ちで国王は言った。

 しばしの沈黙の後、

「・・・カストリーズ将軍の命乞いを・・・―――――」

 スキエルニエビツェは椅子に座る国王をすがりつくようにして見上げ、そして言った。

「そのためなら、私は一生劉深にいても構いません。選択を許される立場ではないということはわかっております。ですが陛下は私を一生ここに留めておくおつもりもないとおっしゃいました。私は一生この国にいます。ですからカストリーズ将軍を・・・せめて減刑してくださいまし」

「スキエルニエビツェ・・・」

 国王は悲痛な瞳でスキエルニエビツェを見た。

 自分の感情をあまり出したがらなかったこの楽師が、こうして椅子に座る自分にすがってまでカストリーズの命を乞っている。

「・・・そうしたいのは私もやまやまなのだ。死刑・・・そんなにもカストリーズを邪魔にしていた人間がいたとは。私も減刑のために奔走した。しかし無駄だった。いかんせんあれは口を開かない。

 なぜ政敵と関係したのか、それさえわかれば、いや、私生活でどうしてあれだけ乱れていたのか、それだけでも私に話してくれれば、私だけでもよい、それだけで庇う理由はいくつでも浮かぶというのに・・・カストリーズはわかっていて言わぬのだ。そしてもし私が知っていたとしても、減刑や撤回は非常に難しい。なぜなら宮廷の人間がすべからくこのことを知っているからだ。公然と言えもしない理由のために減刑したところで誰も納得できないのだ。・・・せめてカストリーズが話してくれさえすれば、抜け道はいくらでもあるのだが」

「・・・それは・・・―――」

 スキエルニエビツェは視線をそらした。言ってはならない、あれだけ純粋に強烈に一人の人間の魂と愛を乞う人間の想い、他者の自分が言うべきではないのだ。本人が言いたがらないのなら言わないままが良いに決まっている。しかし、その代償はカストリーズ自身の生命。

 そこまで―――・・・そこまであの指環に想いを? 生命をかけてまで言いたくないほど愛していると?

「・・・そなたは知っているようだな」

 国王は悲しそうに言った。一番の理解者、一番の相談役であったはずなのに、どこからか生まれたすれ違いと微かな誤解から、カストリーズは自分の手から離れていってしまった。その責任の一端は自分にあるのだ。

 国王は瞳を閉じ―――――・・・無念そうに言った。

「今回ほど国王であることを負担に想ったことはない。

 劉深にとっても私にとっても・・・・大きな損失だ。決して埋めることのできない」

 そして彼は目を開け、顔を上げて言った。

「わかってくれスキエルニエビツェ」

「・・・―――――・・・・・・」

 スキエルニエビツェは悲しみのあまり顔を背けた。

 ああ・・・。

「―――――失礼致します」

 国王も悲しみのあまり、一言も口がきけなかった。なんという悲しいことだろう。

 絶望の内にスキエルニエビツェは一夜を過ごした。そして朝一番で国王からの書状を受け取った。一晩よく考えたが、その書状が昨夜の命乞いに応じるものではないということはわかっていた。宮廷の人間すべてが知っているのでは無理だ。

 国王というのはすべからく万人に公平でなければならない。スキエルニエビツェは大して期待もせずに書状を開いた。

「・・・・・・」

 カストリーズが死刑という現実の前では、カストリーズとの面会はいつでも自由と言われたところで、大して心はずむものではなかった。だからなかなか行くことができなかった。

 彼女を失うという、辛い現実を受け入れるのが嫌で―――。



 年が開け、桔五年、四月。

 ノトスは地下牢を訪れ、少しだけ悔いの見られる、そしてすがるような顔でカストリーズと格子越しに面会を果たした。彼女は石の床の上に座り、片膝立てて壁によりかかり、不敵な面持ちをしていた。何事にも動じない性格、それが最も反感をかう材料であったことは否定できない。

「・・・・・・」

「・・・お前か。まあ告発の時点でだいたいわかってはいたが――わかりやすい男だ」

「な・・・っお、お前が! お前が伯爵と関係したりするからいけないのだ!」

「お前に言われる筋合いはない。政敵ではあるがそれは宮廷の中でだけ。表に出ればただの男と女でしかない」

「それで―――――寝たというのか」

「そうだ」

「俺と寝たのと同じように」

「ああ」

 ノトスはカッとなった。了見の狭い男ではあるが充分優秀な男である。自分の価値を知っているのだ。アミーン伯爵がまったくの能無しだとは彼も思っていない。やはりそれだけの人物であるからこそ、宮廷も問題視したのだ。

 しかしやり方がいけない。伯爵のやり方は騎士道に反する卑怯なことであり、同時にノトスの信条にも反することだ。

 あんな男と自分は一緒にされたのだ―――――!

「・・・取り引きしよう」

「・・・」

「噂を広めたのは俺だ。今からなんとかすればあれは間違いだった、嘘だったと取りなすこともできる。裁判もそうすればやり直しだろう。疑いをかけられるのはそれだけの原因があったから、それは自分の過失だったからとでも言えば、沈黙していた理由も通る」

「―――何を条件に言う。取り引きだろう。その代わり?」

「その代わり―――――・・・」

 ノトスはごくりと唾を飲んだ。

「・・・もう一度・・・・・・もう一度だけ―――――そして」

「そして? 一生お前のものになれと?」 

 カストリーズは嘲笑を含んだ、吐き捨てるような口調で鼻先で笑い、言った。

「馬鹿なことを」

「生命が助かるんだぞ! 一生でなくともいい、たった一度だけ・・・それで俺はふんぎりがつく」

 この男も伯爵と同じか。―――――いや違う。

 伯爵は真っすぐに自分の想いをあますことなく伝えた。護衛も連れず寸鉄も帯びず、それは彼の誠意だった。

 この男は、取り引きの材料にしているのだ。私を愛しているというが・・・ならばそんな真似をしなくともよかろう。

「死んだ方がましだな」

「・・・!」

「伯爵と一緒にされたのがそんなに悔しいのか? 安心しろお前はそれ以下だ。どうして私が伯爵と寝たか―――――お前には一生わかるまい。私を死刑に追いやったことを死ぬまで悔やむがいい」

「カ・・・」

「出ていけ」

 カストリーズは顔を背けた。ああもう疲れた。すべてのしがらみから解放されたい。

 ノトスは―――絶望の内に立ち尽くし、そして最後の誇りを保って毅然と歩きだした。

 その誇りのせいで・・・お前は私の愛を勝ち得なかった。

 伯爵は誇りも立場も捨てれ私にぶつかってきた―――――差はそこにあるということを、お前はわかるまい、一生・・・公で卑怯な人間はすべてにおいてそうであると思い私も伯爵も見下しているお前には・・・



 ピー・・・

 小さな高窓から鳥の姿が一瞬見えた。

 もう春なのか・・・薄暗い牢獄ではそれすらもわからない。

 鳥で思い出した。

 なんでもスキエルニエビツェを手放さないかと持ちかけた時も、また先方が彼女を譲った時も、彼女を鳥、と表現したそうだ。なるほど美しい声と人目を引く容姿。あちこちを気ままに歩いては一所にとどまらぬその生き様は、鳥以外に例えようもない。

 愛する者の男を立てるために望まぬ場所へやってきた・・・哀れな。

 ―――――本当は鳥のように自由であったはず。

 カストリーズは鉄格子の方へ目をやった。書簡は来るが、本人は来ない。この事実を認めたくないのだろう。しかしいつか彼女が来ることをカストリーズは予感していた。

 そしてある日、とうとうスキエルニエビツェがやってきた。

「お前か」

 カストリーズはちょっと笑ってスキエルニエビツェを見上げた。

 彼女は両手にリュートを持ち梅(表白・裏蘇芳)の襲を着て立っていたが、やがて視線を同じくするためにそこに座った。

「晴れ姿だな」

 ふっと相好を崩しながらカストリーズは言った。時期が未定とはいえ、死刑が決まった人間とは思えないほど気負っていなかった。

 憑き物がとれたかのようだ。

「噂では劉深に永住と引き替えに命乞いをしてくれたそうだな。嬉しく思う」

「・・・・・・どうして・・・」

「どうして言わなかったのかと? さあな・・・結局理解されまい、言ったところで。

 そしてこう言われるのだ、『馬鹿なことを、ならばなぜ純潔を守り想いを貫かぬのだ』『詭弁に過ぎん』『理解できぬ』。

 大切な宝物を見せて、なんだこんなものか、がらくたではないかと言われた時の気持ちがお前にはわかるか」

「―――――」

「ここらが潮時だ。それにもう・・・疲れたのだ。今度生まれかわったら光にでもなろう。 もう心のあるものにはなりたくない。光になれば、あの人のもとへ何のためらいもなく飛び込んでいける。微笑まれ、愛しまれ、必要とされる。それでよい」

 そしてカストリーズは笑っていたその顔を一変して強ばらせた。

「しかしそうは言っても・・・私は死ぬのが恐い。死そのものが恐ろしいのではない、戦場は何度も経験しているからな・・・そうではなくて、愛する人たちにもう逢えないのが私には恐ろしいのだ。死んで忘れられることが―――陛下や妃殿下や、ギュイアンや部下達、一生を誓ったあの人やお前に逢えなくなるのが恐ろしい。やがて忘れられるのが恐ろしいのだ」

「カストリーズ様・・・」

「なあ。思うに人を愛する事と死を恐れる事は同じなのだ。

 誰かを愛し慈しんでいるからこそ失うのが恐い。私はそう思うのだ」

 素晴らしい悟り―――。

 この人は既にある境地にまで達してしまっている。そうなればもう、俗人が呼びとめてしまってはならない。呼びとめたところで聞き入れられることはないのだ。

「一曲・・・」

 スキエルニエビツェは呟いた。

 ポロン・・・



       二月 楊花 軽復た微

       春風 揺蕩して人の衣を惹く

       他家 本 是れ無上の物

       一向に南に飛び 又た北に飛ぶ



「・・・・・・」

 地下牢に朗々とした美しい声が響き、リュートの音が春の光を運ぶかのような旋律を奏で続けた。

 そしてその最後の余韻が消えたとき、カストリーズはスキエルニエビツェに言った。

「お前はもうこの国を出ろ」

「―――」

「心配するな。お前の身柄は私が責任をもって保証する。それぐらいの力はまだあるのだ」

 そしてカストリーズはスキエルニエビツェが何か言おうとして口を開きかけると、それを遮るようにして有無を言わせない口調で言った。

「さあもう行け。わざわざ来てくれて嬉しかった。行け」

「・・・・・・」

 スキエルニエビツェは悲痛な面持ちのまま瞳を閉じ、音もなく立ち上がった。そして立ち去り際、

「・・・私は貴女を忘れないわ」

「―――」

「絶対に」

 言い残し、衣擦れの音をさせて去った。

 カストリーズは、ふっと笑って壁にもたれかかった。



 二週間後、既に季節は五月となっていたが、スキエルニエビツェの正式な出国が許された。彼女は再び自由になったのだ。

 すぐにとはいかないが、近日中に全ての手続きを終えれば出国できるという。

 その間、スキエルニエビツェはもう一度灯台の島へ渡ってリムノーレイアに別れを告げた。

「・・・そうですか・・・残念ですね」

「いつかまた海辺の国に行ったら、あなたのことを話すわ」

 ザ・・・

 ザ・・・ア・・・

 海風に吹かれながらスキエルニエビツェは言った。

「劉深には頼もしい灯台守がいる、どんな嵐にあっても、だから大丈夫だって」

 ふふ、とリムノーレイアは笑った。

「貴女のことは忘れませんよ」

「私も」

 リムノーレイアは咲きかけた牡丹の蕾を見て、それをスキエルニエビツェに示し、

「あの花が枯れても、忘れません」

 と言った。

 

 二人はそこで別れた。

 ザ・・・

 三日後―――スキエルニエビツェは劉深から出国した。

 敢えて別れを告げずに、自分を解放してくれた女のことを思いながら。

「・・・・・・」

 フワ・・・

 風が一吹き。

 すぐ近くに落ちた鳥の影を見て、スキエルニエビツェは顔を上げ空を見た。

 大きな鳥が一旋、二旋・・・やがて高く鳴きながら海の向こうへと消えて行くのを、彼女はずっと見守っていた。カストリーズの、指環に誓いを込めた一人の女の言葉が思い出される。


  《 お前は自由だ 》

  《 空を飛ぶ鳥のように 》


 サラ・・・

 髪が風に舞った。スキエルニエビツェはあの瞳の色のような空を見上げて思った。

 いいえ―――・・・

 本当に自由になるのは貴女

 私は本当は自由なのだから


 一時も自分を偽らず生き続け―――・・・

 貴女はついに自由を手に入れた

 魂を鳥に乗せ

 ―――――・・・どこへなりと



 ピィィィ・・

 鳥の声。それに答えるように、スキエルニエビツェは海を見て歩きながらリュートを構えた。

 ポロ・・・ン



       暁に秋露を迎えて一枝新たなり

       占めず 園中最上の春

       桃李言無く 又た何くにか在る

       風に向かって偏に笑う艶陽の人を



 その後スキエルニエビツェの耳に、カストリーズに関する事は生死に関わらず一切入ってこなかった。死んだ、とも聞かなければ、また生きている、とも耳にしない。しかしスキエルニエビツェは気にしなかった。彼女は自分の心のなかに在る。



 死のうと生きようと同じ・・・・

 魂が自由である限り・・・。




玉衝―――――第五星は一途星、迷える者の恋の星、世の恋する者は誰しもこの星を見上げ手を合わせ胸の内を訴えるものなり。妖艶にして清冽なる銀の光は時として希望をもたらし絶望をもたらすとも云ふ。又その傍らに星流れし時人は「玉衝の涙」と呼び世に悲恋生まれる兆しとして憂うものなり。




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