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七星譚   作者: 青雨
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紫星の風

                   第二章 紫星の風



 ポロ・・・ン・・・

 春のうららかな陽射しの差し込む、暖かい日である。河原には大勢の行き交う人々、山を下りる者あり、また上る者もあり。その中には、旅人、旅の行商、または河原での宿や商売をしている者たちも当然のことながらいる。中でも一番目立つのは、籠背負いというこの地方独特の商売をしている男たちで、彼らは普通の笠を被って日除けにし、背中に背の高い竹籠を背負っている。 彼らはそれに人を乗せ、急流や水位の深い所などを渡れない女・子供老人などを主な相手に仕事をしている。最も、よほど慣れた旅人でない限り、この渓谷の急な流れは越すことはできない。 だから彼ら籠背負いは、たいてい深い谷が目前に待ち構え、ごうごうと恐ろしい音をたてて暴れ回る流れの側の岸辺で客を待っている。

 彼らは山の上の国・琳藍に辿りつくのにどうしても必要不可欠な存在である

 今日もまた、多くの籠背負いが河のほとりを行ったり来たりしているのが見える。

 ロォォォンンン・・・・

 琳藍は山の上の国である。渓谷に囲まれ、辺りは森と山である。また山自体が鉱物を多く含み、世界的に有名な大理石の産地でもある。そのため山を流れる川の色は何とも不思議な青鈍色ブルーグレイで、鉱質の水であるため魚は一切住んでいない。正に絶壁ともいえる高く高く聳える崖と崖の間を、濁った水色の河が流れるというのは、そうどこででも見られるという光景ではない。

 ポロロォォォ・・・

 そしその比較的人通りの少ない河原に、軽やかなリュートの音が響き渡る。溶けいりそうに、悩ましくそれでいて涼しい音が。

 砂利ばかりの河原を、一人の籠背負いが歩いている。大分上流に近付いてきたのか、あちこちに大きな岩が点々と見られるようになってきているようだ。籠背負いは、その河原を黙々と歩いている。彼が背負っている女こそがスキエルニエビツェ、そしてリュートの弾き手であった。籠の天辺から付けられた日除けの下で、彼女は運んでもらいながらそうしてずっとリュートを弾いているのだった。

 この地方の食べ物のせいかそれとも、男たちはとても背が高い。平均で六尺(約百八十センチ)を少し越える。籠の高さはそんな彼らの首の後ろ、だいたい客の腰辺りが来る程の高さである。

 琳藍までは朝早く麓から出発すれば日暮れには着くが、足を使う人間はほとんどいない。 鍛えた足で行くところまで行けるという旅人くらいなもので、男だとて油断すると急な上りと砂利に足をとられ疲労すること著しい。であるから、体力も人並み、歩くことに慣れているとはいえ、山を上るなどとんでもないというスキエルニエビツェが、籠背負いを使ったのも別に不思議はない。

 ・・・ォォォォンン・・・

 ザアアアアア・・・

 妙なるリュートの音に合わせるかのように、遠くから激しい流れの音が聞こえてくる。 急流はまったく不規則にやってくるので、油断はできない。急流をしばらく行くとまたゆるやかな流れ、そしてそのゆるやかな流れをしばらく行くとまた急流が来ると、そういう連続なのだ。

 河原には場所ごとに宿もある。たいていは流れのゆるやかな河原の奥で、秋の夕暮や冬の盛り、雪に閉ざされた音のない幽明な景色を見にきたり、わざわざ歌を読みに来る風流人が非常に多いためと、また多くは一日で山頂に着けない旅人のためだ。

 サアアアアア・・・・・・

 小気味のいい河の流れを聞きながら、スキエルニエビツェはリュートを弾く手をやめ、ふと日除けのおかげで眩しい思いも暑い思いもしないですむ日陰から目を上げて河に目をやった。

「・・・」

 口元には微かに笑みが浮かび、しばらくしてまた気ままにリュートを気の向くまま指の向くまま爪弾き続ける。籠背負いは急流を渡るとき以外は河原を歩いているので、大理石の肌を所々むきだしにした大きな岩が無造作に転がる砂利ばかりの河原を、スキエルニエビツェはもうずっと目にし続けていた。

「姐さん、この先でちょいと休みをとるよ、いいかい?」

 籠背負いが歩きながらスキエルニエビツェにそう問い掛けた。昼下がりで、春とはいえ相当強烈な陽射しであったから、風は涼しかったがそれでも汗が出るほどだった。籠の上で、しかも日除けがついているスキエルニエビツェがそうであったのだから、籠と彼女を背負っている籠背負いは汗だくであっただろう。朝から歩き通しで一度も休んでいなかったので、疲れているだろうと思っていた矢先でもあり、無論スキエルニエビツェは

「ええいいわ」

 と答えた。しばらく歩いて籠背負いは、河沿いに歩いていたその足をわずかに山側へと向け、方向を変えた。

「下ろすよ」

 大きな岩の側で彼は籠を下ろした。岩は日陰にはならないものの、河の流れのすべてを知っているかのようなおおらかさでずっと昔からそこに座っていた。場所は河沿いから離れてはいるが、河から見えないというわけではない。

 腰を下ろした場所は泉が湧いていて、これも山の鉱物のためなのだろうか、ひどく浅い泉の底には、金春色ターコイズ・ブルーの瓶を陽に透かしたような透き通った美しい色が沈んでいる。水の色なのか、地の色なのか。玻璃のようにきらきらと光る様を見たときは、スキエルニエビツェも思わず声を上げたものだった。

「きれいね」

 籠背負いはすでに側にあった手頃な岩に腰掛け、煙管をふかしていたが、それを聞いてにこやかにこたえた。

「だろう? この辺はここに通い慣れている人間じゃないとわからないいい場所が沢山あるんだ。この泉も穴場でね、夏の暑い日なんかにここで休んでいると、もうひとがんばりしようって気になるもんさ」

 また側には幾段にも重なって小さな谷ができており、山のさらに上から水がさらさらと流れていた。何度も何度も砂利に洗われてきたのか、そこの水は嘘のように透き通って澄んでいた。そしてすぐ先の本流の河に続いている。

「ここの水は飲めるんだよ。まああっちの河の水も飲めないことはないけどね、色がああだろう? 誰も好んで飲んだりはしないよ」

 籠背負い自身泉の水で顔を洗いながらそう言った。この泉の水も飲めるようだ。

「ところで、姐さんは楽師なのかい?」

 籠の上に置いたままのリュートをちらりと見ながら、籠背負いは穏やかに尋ねた。

「ふふふ・・・まあね」

 スキエルニエビツェは含み笑いをしながら河の澄んだ水をその手に掬った。

「いい音だなあ・・・いつもきつい傾斜も、おかげでひどく楽だったよ。音に聞き入っているとね、なんだか幸せだったね」

「ありがとう。楽師冥利につきるわ」

 話をするだけでも労働というものは気が紛れるものである。その上美しいリュートの音であったのなら、人と人の会話以上に心を和ませたというのもうなづける。ただの楽師ではない、彼女はどの国の王もこぞって欲しがる玉の喉の持ち主なのだ。

「姐さんはこれから琳藍行きだね」

「ええ」

 短く答え、スキエルニエビツェはスッと視線を下に落として静かに尋ねた。

「・・・あなたもでしょう? 琳藍ってどんな場所なの」

「そうさなあ」

 煙管を口から離して、煙を吐きながら彼は空を見上げた。

「いいところだよ。月並みだけどね。毎年河の氾濫で頭を悩ましちゃいるが城下の人間はいい奴ばっかだし、政だって不服はないね。

 まああったところで、オレみたいのがどうにかできるってわけでもないけど」

「国王はどんなお方?」

 密かにスキエルニエビツェの黒い瞳にキラリと光が奔る。

「そうだな・・・恐ろしい人だね。いい意味でも、悪い意味でも。

 公平だし賢い方だしとても風流を解する」

「ならいいのよ」

「え?」

「なんでもないわ」

 スキエルニエビツェは手を振って否定した。

「・・・まあ、可もなく不可もなくというやつだね。王宮じゃあ昔から相当揉め事が多いけど、それを国政に反映しないってのが王家のいいとこだ」

「揉め事・・・・・・」

「今の国王は小さい頃父親を亡くして、長いこと叔父にあたる人と従兄と争っていたって話だ。オレはまだ産まれてなかったからな。それから母親に毒杯を渡されたこともある」

「・・・母親・・・が、・・・―――誰に?」

「息子にさ」

 籠背負いは声をひそめて身を乗り出して言った。

「結局ばれたんだけど・・・前の王妃は自分の息子で夫の忘れ形見で次代の王に毒を盛ろうとしたのさ。恐い話だねえ」

「・・・」

「まあ余計な金や権力があるっていうのは、ろくなことじゃないってことさ。なあ?」

「ふふ・・・そうね」

「さあそろそろ行こうか」

 籠背負いは立ち上がって煙管の灰を懐の鉄の入れ物にいれた。スキエルニエビツェは籠に歩み寄りスッと籠に腰掛け、「掴まっててな」という籠背負いの言葉に素直に従い、そして籠ごとまた担がれた。

 ロ・・・オオオンンン・・・

 ひとしきり河辺を歩き始めるとまた、妙なるリュートの音が河の水や山の木々に吸い込まれ跳ね返って響き渡る。この日のスキエルニエビツェの着物は旅なので当然襲ではなく唐衣で、色は菫(表紫・裏淡紫)。紫というのは彼女のような女をひどくなまめかしく、しっとりと美しく見せ、表も裏も紫というある意味ではどぎつい色合いを山の緑が静かに和らげている。紫と山の木々の緑、非常に美しい取り合せである。唐衣ほど便利なものはない、スキエルニエビツェは時々思うことがある。襲というのは特権階級だけが着るもので、彼女が襲を纏うのは王宮に雇われているときのみだ。唐衣と襲のおおきな違いは、唐衣はまずひきずらない。生地も一枚で季節によって素材が違ったり上から上着を着たりして温度を自由に自分で調節する。だいたい足首のあたりに裾がくるようになっていて、袖はだいたいが優雅に長くなっている。唐衣用の襦袢の上に唐衣を纏い、帯をすればそれだけでいいという、まったく簡単なものではあるが、よほどきちんとした場合―――――戴冠式とか、国葬とかの場合―――――以外には、公の場でも着ることができる。普段着にも無論着ることが許される。庶民の女たちは、普段小袖に袴といういでたちから、ちょっと気合いを入れたい日には唐衣を着る者が多いようだ。また襲というのは宮廷に住む女にしか許されない特殊な着物で、肌着として着る直衣、その上に袿、そしてここで腰帯を前で縦結びにし、その上から衣、つまり重ねて色を楽しむものを纏い、季節や寒暖によって上から表着と呼ばれるものを着る。袿は上半身と下半身とに分かれて着るものではなく一枚にできていて、袴にはなっていない。

 そして特権階級の襲、庶民の唐衣と小袖に袴といういでたちに唯一共通しているもの、それが「色」である。農婦などが着るものを除けば、それらはきちんと色分けされている。襲で桜といっても、唐衣でも小袖に袴でも、桜と表現すれば、それは表白・裏赤花の着物の色のことなのである。

 夕暮に琳藍に到着し、これから家に帰るという籠背負いと別れ、スキエルニエビツェはひとまず宿をとった。この時間に王宮にいくというのもせわしない。そしてまた王宮について少しばかり知っておかなくてはならない。三日の間彼女は国王について色々な話を巧みに聞いて回った。いいとも悪いとも、判断しかねる噂ばかりで、信憑性が絶対にあるとは言い切れないものばかりだった。

 恐ろしい方だ。残酷だといったほうがいい。

 この間粗相をした侍女が処刑されったって話だぜ。これは本当だ、オレの妹が宮廷に上がってるんだよ。

 恐ろしいのは性格だけじゃない、顔も相当らしい。夜中に国王に会った女官はあまりの恐ろしさに立ちすくんでしまったという話だぜ。

 やっぱりアレだね、若くして国王になったりすると、周りがちやほやするから非人間的になっちまうのかねえ。恐いなあ。

 これらの話を聞いてスキエルニエビツェは、国王について一つだけわかったことがあるような気がした。それは、国王が非常に正しい、それでいて民に等しく不満のない生活をさせることができるような政治を執り行なっているということだった。でなければ、彼らの話は直接彼の政治手腕に対する不満にもつながっていただろう。

 が、そういった不満は一切なかった。聞かれたのはどれも似たようなもの、実はあの恐ろしい顔は先の妃と獣との間に生まれたせいだからとか、夜中に生き血を飲んでいたとか、尾鰭のついた噂話でしかなかった。スキエルニエビツェは支度を終えると、到着して三日後に王宮に向かった。名を告げ用件を告げ、別室で身体検査を受け、玉座の間の控えの部屋でしばらく待たされ、スキエルニエビツェはようやく通された。サラサラとわずかに衣擦れの音をたて、唐衣が動きに合わせて水のように舞う。視線を下に向けたままな

ので、まだ野獣との間に生まれたと噂される国王の顔を見てはいない。しかるべき場所で立ち止まり、スッと座ってスキエルニエビツェは頭を下げた。ほぼ同時に上のほうから声がする。

「顔を上げてよい・・・そなたの名前は耳にしている」

 想像していたより冷たい声だ、スキエルニエビツェは思った。しかし素直にゆっくりと顔を上げる。

「―――――」

 なるほど、と頭のどこかで納得する自分がいることを、スキエルニエビツェは感じ取っていた。

 国王は、噂に違わず恐ろしい顔であった。

 瞳は、彼女が琳藍に辿り着くまでに見てきた山の緑のどれよりも深い緑だ。しかし黒に近いというのではない。明らかに緑の範疇を越えずに「緑」なのだ。濃く、それでいてどんな薄闇でも光の下でも緑以外に認識しようがない。髪は月の光を切り取ったようん銀の髪。ふだん長さは髪のあたりまであるのだろうが、今はひとつにしばって背に流されている。

 肌は元々白いのだろうが、よく表に出て色々なことをやっているらしい、赤銅色に日焼けして、戦で連勝している勇者を思わせる。

 筋骨は服を通してでもわかるほどに逞しいようだ、恐らく限界にまで鍛えられているとスキエルニエビツェは看破した。背は恐ろしく高い。背の高いのは琳藍の男の常なのだろうか? それにしても高い。六尺半(百九十五センチ)は確実にあるだろう。そして問題はなによりもそう、顔であった。

 その緑の瞳は剃刀を思わせるほど鋭い。細いというわけではないのだ。むしろ切れ長でそれだけなら見た目も涼しげな美青年の条件を満たしてもいようが、鋭いのだ。見られた途端我が身のいずこは切れたのではないか? 思わず錯覚するような尋常ならざる鋭さである。身が竦む。そして絶えず瞳に感情が映らない。これは人形であったかと、ぎくりとしてしまう。鼻は整っていてすっきりしているが、きりりとした口の上にあるとなんだかその鼻筋ですら自分を知らず見据えているような思いに捉われてしまう。唇が薄く、きゅっと締まっているので冷たいイメージはどこまでいっても拭いきれない。そして顔全体を引き締めるようにして一層恐ろしいのが眉である。きりり、という形容では追い付かないほどぎゅっと締まっている。山のような形というのだろうか、整ってはいるが、きつい形の眉であることに相違はない。

「スキエルニエビツェであったか・・・」

 物憂げに片肘をついて国王は小さく呟いた。呟いただけなのに氷のごとく辺りに存在を知らしめる声だ。

「はい陛下」

「・・・・・・」

 視線を下に移し畏まったスキエルニエビツェは視線が自分の身体のあちこちを這うのを感じていた。それほどするどい視線であった。

 しかし不思議と恐れは感じなかった。悪いことはなにもしていないからである。この瞳は、ただ恐ろしいだけではない、裁定の力を持っている。やましいところがあればなによりも恐ろしい。それは、すべてを見抜き罰する力を瞳そのものが備えているからに相違ない。であるから、この瞳は公正そのもの、正しいものはこの瞳に庇護され、間違っていればまず紛れもなく罰を受ける。しかしそれが理解できない人間にとっては、この瞳は間違いなくただ恐ろしいだけの瞳となるだろう。

「今日から宮廷に寝泊りしてもらうのでよいのか?」

 おや・・・意外に紳士な口調だ。

「はい陛下」

「それでは滞在して頂こう。好きなだけ」

 予想していたよりもこの国王は紳士だ、スキエルニエビツェは立ち上がりながらそんなことを思った。こういう言い方をする、否、できる国王はなかなかいない。スキエルニエビツェが出会った何人もの君主の中でも、過去そんな言い方をしたのはたった一人しかいない。閑竜の国王レッケレイリス、音に聞こえし賢王、勇者の中の勇者と歌われた、半ば伝説の老王であった。

 スキエルニエビツェはその後自分の部屋となる場所に案内された。

 いつもは本当に簡素な部屋で、必要なものだけが揃っている、広くも狭くもない、言うなれば愛敬もなにもない部屋であったが、彼女はそれを不満に思ったことも、心中そういう部屋を与えられて毒突いたこともない。それが当たり前だと思っているし、寒い時に暖がとれ、暑い時に風通しがよければそれでよい。彼女はそこにずっと住むわけではない、どうせ旅暮らしの渡り鳥なのだから、部屋に愛着がわいても困るのだ。

 しかし案内された部屋は広く、居心地がいかにも良さそうで、思わず案内の侍女に

「・・・間違えられたのでは?」

 と聞いてしまったほどであった。

「いいえ。確かに陛下からこの部屋へお通しするようにと仰せつかりました、スキエル・・・えーと」

 笑顔で答えた侍女がしかし自分の名前を言うにあたって言い淀んだのを見て、スキエルニエビツェは宮廷に来て一番最初にするべきことは、荷解きでも、歌を歌うことでもないと悟った。

「ごめんなさい、長くてわずらわしい名前なので私を呼ぶ時はスキエルと略するか、あるいはイオシスと呼んで下さい」

「イオシス(紫紅色)・・・」

「ええ。みんなそう呼びます」

 侍女は助かったとでも言いたげにホッとして笑い、一礼して下がった。

 ふう、と一息ついてスキエルニエビツェは部屋を見回した。ベットは窓際、寝返りを二回連続でしても平気なくらい大きい。窓は大きく広く、バルコニーがついていて脇の扉から出られるようになっている。床は赤い落ち着いた色の絨毯で、ひどく清潔だ。部屋を入った左奥に衣装箪笥があって、開けると四季折々の襲がすべて入っていた。反対側、右には壁ぎわに暖炉がついており、いつでも火がつけられるようになっている。

 いい部屋だ、スキエルニエビツェはそう思った。

 ―――――この部屋は多分来賓用だわ

 それとも自分が思い上がっているのか? しかし、たかだか楽師のために来賓用の部屋を用意するなどとは気はいたこともない。

「とにかく着替えなくちゃ」

 独り言を言って唐衣から箪笥の襲に着替え始め、窓を開けて空気を入れ替え、リュートの調弦をしていると、先程の侍女がやってきて、イオシス様、陛下のお召しでございますとにこやかに伝えた。



 その子供は幼い頃親を亡くしていた。ただ亡くしたのでは、近所の人間かあるいは親戚が引き取りもしようが、彼はそれすらもかなわなかった。彼の悲劇は、そんな哀れな孤児を引き取るだけの余裕が周囲にないときに身内を失ったということであった。

 なぜなら彼が両親を失ったそもそものきっかけ――――それが戦争によってということであるからであった。彼は戦災孤児であった。幸運にも、―――――のちに彼はそれが幸運かどうかもわからなくなってしまったが―――――彼は一人の男に拾われた。辺りがあちこち火に包まれ、廃屋となってしまった自分の家の中で、一人泣いているときのことだった。突然乱暴に運命をねじ曲げられ、それに逆らう唯一の手段であるかのように彼は声を上げて泣き続けた。男は、そんな時やってきた。全滅したはずの村を、眉を顰め、ため息を連れて静かに厳粛に重々しく。微かな、もうほとんど途切れ途切れになった泣き声を聞きつけて、不審に、そしてもしやと思い彼は声を探してまわった。白い息を吐きながら、彼はやっと泣き声の在りかを見つけだした。嘆息は白い息となった。

 そして彼は男に拾われた。

 今となれば、それは自分にとって幸せなことだったのか? それとも不運の始まりだったのか―――――それすらもわからなくなってしまっている。しかしあの時助けられなければ、今の自分になることは絶対に実現不可能だったということだけは確かだ。そして思考がそこまで致ってまた考える、

 それは幸せの始まりであったのかと―――――。

 彼にとってこの疑問は恐らく一生ついてまわる、そして永遠に解けない謎であり続けるだろう。

 ・・・軍

 拾われたといっても雨露しのげる場所と三食を保証されただけ、その後はすべて自分の実力でここまでのしあがってきた。大変な苦労をして手に入れたものだ。それを幸せ、と一言では言えないところが彼にとっては辛いところであろう。

 ・・・ード将軍・・・

 目を空に向ければ、目を閉じれば、それらの苦労はまるで昨日のことのようにありありと思い出すことができる。これらの出来事を、大したことではなかったさと言えるようになるまで、自分はあとどれだけの経験と徳を積まなくてはならないのだろうか?

「ジラード将軍!」

 ジラードは側近の馬鹿でかい声で飛び上がった。

「な、・・・・なんだレイリ大佐・・・どうした」

「なんだではありませんよ将軍・・・私が一体何度お呼びしたと思っていらっしゃるんです」

「さあな」

 呼ばれて気が付かなかったのか・・・ジラードは幾分自嘲気味になった。

「軍議の時間でございますよ」

 大佐にそう言われてジラードは立ち上がった。

 廊下を歩くその姿は女官たちの憧れの的と聞いても誰も驚くまい。

 金茶色の髪は窓からさす陽の光によって上質の藁のような美しい透明感のある輝きを放ち、その明るい緑色の瞳は、時々きらきらと光る髪と共に彼が琳藍の人間ではないことを端的に示している。

 ジラード・デュッファヘルフ。その名だけでも彼がよそ者であることを充分に表わしている。にも関わらず、彼は国籍を琳藍にするとき、名前を変えることを厭った。どれだけ疎まれようとも、どれだけ嫌われ、蔑まれようとも、自分はこの名前の人間として生まれてきた、この名前で生きていく以外に、自分は手段を知らない、知りたいとも思わないと頑に拒否し、そしてとうとう将軍にまでなってしまった男だ。琳藍で最も若い将軍、それが彼のあだ名である。

 二十五歳で将軍にまでのぼりつめた男。

 しかし琳藍では彼をこのように評価する者は誰一人としていない。

 彼を嫉み彼を嫌う人間だとて、彼が先王に拾われたから若くして将軍になれたのだとは、憎まれ口であっても決して言わないことだ。それは彼が文字どおり底辺から這い上がってきた真の実力者であるということを知っているからに相違ない。先王は彼を拾いはしたが、それはあくまで慈悲をもってしたこと、それ以上彼をどうこうしようとか、援助しようなどとは一切しようとしなかった。それほど甘い男ではなかった。彼はあの時幼いジラードにこう言った、

 実力を以てして、いつか私のところまで辿り着けと。決して王に拾われたから恵まれた環境にいるのだなどと言われないような苦労をしろ。

 彼は王に拾われたから恵まれた環境にいるのだ、などと、周りにそんな憎まれ口をきかせる余裕もないほどの苦労をした。

 兵士の健康上の問題から不寝番は月に二度、二週おいてという規約に反し、彼は三日続けて年上の兵士たちから不寝番を替わらされた。王に拾われたからという理由で。馬を乗りこなすのが他よりも早く、優れていると上官に誉められても、裏では怪しいものさと陰口を露骨にたたかれた。王に拾われたという理由で。剣に長けていて、一度だけではあるが教官に勝った時すらも、あいつは王に拾われたからさ、そんな声が聞こえてくるのは否めなかった。彼はずっと実力とは関係なしに、ただ王に拾われたというだけで正しい評価を下されなかった。

 しかしいつ劣等感が彼を襲っただろうか。実力がないのに王に拾われたからという理由で優遇されているのならまだしも、むしろ逆で、実力は他の人間よりもずっとあるのだ。ただ王に拾われたという理由で、訳のわからぬ不当な評価を下されているに過ぎない。言わせておけ、彼はそう思い続けて生きてきた。じきに、王に拾われたからなどとその口から言わせないようにまでなってやる。彼はひどい苦労と努力をしてここまでやってきた。それは並々ならぬ苦労であった。今思い出すだけでも血を吐く思いがする。

 そして彼は弱冠二十五にして将軍にまでなった。それはまごうことなき彼の実力で、その頃には彼を王に拾われたからという理由で不当に扱う者はいなくなり、今までそうしてきたかつて同僚や先輩たちは、彼を見ると尻尾を巻いて逃げる野良猫よろしく、こそこそと逃げてしまうのだった。

 彼は自分と、今現在に満充分足していた。誰にも、負い目や劣等感を感じたことはなかった。―――いや、一人だけいた。

「―――この件は納得しかねるな・・・しかし私だけでは決めるわけにもいかぬ。

 ・・・ジラード、どう思う?」

 話し掛けられてジラードはハッとした。ぐっと拳を密かに握り、額に汗を浮かべてこうこう答える、

「・・・陛下のお望みのままに」

 国王アスンシオンは小さく息をつきながら片手に持っていた書類を見た。一瞬室内が沈黙する。

「――――そうだな・・・それでは可決だ。文句は言わせぬ。

 金がかかるというのなら、私の個人資産からいくらでも持っていけと伝えおけ」

 国王は立ち上がった。

「閉会だ」

 ザワザワ・・・

 国王が出ていった後の会議室のざわめき・・・そんなことにすら気付かないように、ジラードは己れの言葉を反芻していた。陛下のお望みのままに。その後の国王のため息。 

 ―――――あのため息は、呆れられたのだろうか、もしかして?

 頼りにならぬ奴、お前も所栓は肯定しかできぬ無能者かと、そう思われたのでは?

 ジラードは恐ろしくて額にじっとり汗を浮かべたまま拳を握り締めていた。その拳すらも、脂汗にまみれている。もっとよく考えて発言するべきだった、いつも思うのに、いつもそうして反省するのに、どうして前の過ちを生かせない?

 国王アスンシオンは、彼が幼少よりずっとずっと側にあった、唯一越えられない存在であった。

 普通の子供が銃十度教えられて出来ることを、ジラードは三度で出来るようになる。アスンシオンは一度で覚える。彼が剣で評価されればアスンシオンはそれ以上の評価を、作戦技術で成功すればそれ以上の緻密な作戦を、自分自身に抱く自信を、やっとつけ始めた途端にそれ以上の堂々とした態度で見事に彼の自信を打ち砕く。

 影のようにつきまとい、まるで彼にとって良いことが起こるたび、見計らってそれを奪いとるかのように。

 あの日国王に連れてこられた鍛練場・・・大勢の兵士や少年兵士にまじって彼がいた。

 どんな大人にも負けないあの気迫。あの威厳。

 自分はあの日から少しも成長していないかのように思える―――――彼に比べて。

 いつになったら、この強烈な劣等感から抜け出せるのだろう? 

 あの国王を気にせずに自分の足取りで歩いていけるのだろうか。

 押し潰されそうな敗北感でいっぱいになりながら、ジラードは廊下に出た。

 いつか彼を越えてみせる、そう思いを馳せながら・・・・。



 会議を終え、庭に出た国王アスンシオンは、池のほとりの四阿で本を読んでいたのだが、その内に疲れ、春のうららかな陽射しと耐えられないほどの暖かな風に負け、枕にもたれかかりうたたねをしてしまっていた。



       竹間 門は掩されて僧居に似たり

       白荳 花は開く片雨の余 

       一榻の茶煙 偶睡を成し

       覚め来たれば猶お把る読残の書



そんな国王の目を覚ましたのは、リュートを弾きながら歌い近寄るスキエルニエビツェの歌声であった。ひどく心地の酔い目覚めであった。

「お前かスキエルニエビツェ」

「ぴったりの歌でございましょう?」

 彼女はにこやかに言った。今日のスキエルニエビツェの衣装は(表白・裏紫)。春の衣装では最も彼女が気に入っているものだ。

「ふふふ・・・そうだな」

 口元に薄い笑いを浮かべ、国王アスンシオンは起き上がった。そんなに長く眠っていたというわけではないようだ。斜め向かいにスキエルニエビツェが座り、でたらめに、しかし確実に美しい即興の旋律をリュートで造り上げながら、次の歌までの時間を楽しませてくれる。

 そんな彼女を見つめ、口元に手をやりながらアスンシオンはじっと何事か考えているようだった。あるいは見とれていたのかもしれぬ、次の言葉を聞きさえすれば。

「・・・白躑躅がよく似合う」

「―――――え?」

 演奏に熱中していたスキエルニエビツェはそのあまりにも小さな声を聞き取ることができず、手をとめてアスンシオンを見た。足を組み直して若い国王は再び言う、

「白躑躅(表白・裏紫)の襲がよく似合う」

「そうですか? ありがとうございます。わたくしも春の襲のなかでは一番気に入っている色ですわ」

 いいさしてふと顔を上げ、スキエルニエビツェは国王アスンシオンが自分を見つめているのに気づいた。当初恐ろしく思えたその面立ちも、見慣れてしまえば、そして彼の人となりが掴めれば、何のことはない、昔、心の優しい少年将軍がその美しく優しげな容貌を隠して戦に望むとき、恐ろしい獅子の仮面をつけていたという故事を思い出すだけのことだ。見かけは恐ろしげだが、このアスンシオンという若い王は、非常に高い知性と理性を持ち合わせている。時々スキエルニエビツェでも驚くほど歌について詳しく、吟遊詩人のように歌を歌うことを生業としていればともかく、そんな世界とはまったく縁遠い世界の人間が知り得ているとは考えがたいほどその知識は細かい専門分野に及んだ。背が高いので立ち上がるとドキリとするが、山のような不動の静けさを含んだそのたたずまい、森のような瞳の落ち着いた光を目にすれば、もう何の不安に駆られることもない。振る舞いは至って優しく正に紳士の一言で、本当にこの人は国王なのだろうか? 手を取られて見上げながら考えてしまうこともしばしば。終始無表情だが笑みを浮かべるとなると春の木漏れ日のようなやわらかい微笑がすうっと滲み出るかのように穏やかに笑う。物腰は洗練されていて、その足の運びだけでも、スキエルニエビツェのような素人にすらわかるほどの剣の使い手とわかった。

 確かにその姿勢、その視線、隙のない動きは武人そのものだが、剣すら帯びない平生は、それすら忘れてしまうほどの知性と気品が嫌味なく漂う。どうしてこれで城下で耳にしたような悪評がたつのかと、スキエルニエビツェは思ったものだった。

 琳藍に来て一ヵ月、スキエルニエビツェは毎日国王に呼び出されては、時折戸惑うほどの豊富な数の歌を所望され、ここに来てよかったと実感する己れを冷静に理解していた。 そう思うことなど滅多にないということも、もうこの女にはわかっていたはずだ。

 そしてもう一つ―――――。

 スキエルニエビツェが国王アスンシオンを見ていて気が付いたことがある。

 それは、時折彼が見せる言い様のない『影』であった。穏やかな表情にふっと浮かぶ憂えげな眼差し―――――・・・それは間断なく彼を狙っていた。まるで幸せの絶頂にいながら、心では家に帰って待ち受けている日常の慢性的な不幸のことをちらりと思い出したりするような、そんな何気ない表情ではあるが、とにかくその悲しげな瞳や、一瞬、ほんの一瞬だが顔に浮かべられる何もかもに絶望しきったような諦めの入り交じった顔は、到底普段の彼の輝かしさからは想像もできないほどに大きな絶望が感じられてならない。 

 悲観は、もうとうの昔にそのような俗っぽいものは捨ておいたとでもいわんばかりに見られない。悲観というのは一種思い込みのようなもので、自身その境遇にあることに酔っているふしが多分にある。しかし絶望は違う、スキエルニエビツェは考える。

 絶望というのは、もうそこに何もないということ、何の希望もなければ光もなく、ただ魂だけを奪われたあとに立ち尽くしどうにもできず、また「どうにか」しようという気概すらなくしてしまう状態だとスキエルニエビツェは平生思っている。

 アスンシオンに感じるのはそれなのだ。

 もう、ここから這い上がろうとか、なんとかしなければこのまま自分は生きたまま心を死なせ朽ちていくのみだと思ったりとか、そういったものが感じられないのだ。諦め。ただそこに感じられるのは巨大な虚無と絶望のみで、そんな瞳をしているアスンシオンを見ると、他人事ながら思わず胸がえぐられるのは、スキエルニエビツェだけではないはずだ。老成したような、また悟ったような一種の悲壮感と静けさを纏い、アスンシオンは毎日を生きている。ひとたび目にすれば、途方にくれ青ざめ、立ち尽くして手の施しようのなさにまた己れも絶望してしまうような、そんな表情をアスンシオンはするのである。

 しかしいつもというわけではない。むしろそんな彼の一面に気づくのは王宮の中でも一握りの人間のさらに一握りだろう。普段のたたずまいが穏やかで、その知性や教養や人格のすぐれた所を知っていて、考えられないような絶望的な表情を一瞬の何万分の一たらずの一瞬に浮かべるからこそ、ぎくりとして今見たものこそ幻ではと疑いたくなってしまうのだ。そう、その表情は、あまりにも彼に似付かわしくない。毎度の戦に勝ち、毀誉褒貶はあれ正しい政を執り、世の叡知と栄光と名誉をすべて持ち合わせているかのような国王アスンシオン。その彼に絶望などとは、太陽の神が泥のマントを纏うような似付かわしくなさ。西と東ほどの極端な相対がますます彼に影を負わせている。そう、一瞬見せる絶望の表情はまさに彼が背負い身に纏って離すことのできない影―――――。

「しかし陛下!」

 激しい抗議を含んだその声に、スキエルニエビツェはぎくりとして我に返った。

 場所は会議室である。今スキエルエビツェは、アスンシオンに連れられてやってきた会議室の隅、入って右の角に寄り掛かってリュートを携え座っている。当初は大臣や長老などの面々が眉を顰め囁き合い、流れ者の楽師の良い言いなりになっているのではという声も声高に口にされたものであったが、そんなものはどこ吹く風、会議の内容がどんなものであろうと口元に浮かべているのか浮かべていないのかわからない表情を崩さず、気ままにリュートを爪弾く彼女の姿は、最近では逆に慣れられてしまっていないように扱われている。

「そんなことでは早期解決にはなりませぬ!」

 スキエルニエビツェは首をすくめた。激しく抗議しているのは反アスンシオン、つまり反国王派の筆頭のハールツェルという男で、女官たちの評判もあまりよろしくない。が、彼をずる賢い、計算高い、冷徹などと言う者はいても、愚か者だとか馬鹿者などといった声は一切ない。それだけでも、悪評高くとも才能は人より高いということは推して知るべきことであった。

「だからどうだというのだ。まずは民の安全。予算がそれによって大幅にくわれようとそれで民の命一人分が救われるのなら仕方ない。国というのは民あってのもの、国あっての民と思っては決してならぬ」

 ハールツェルの猛烈な抗議にもひるむ様子さえなくアスンシオンは言い返した。鉄面皮とは正にこのこと、彼そのものが強烈な盾で、どのような弓矢剣の攻撃も跳ね返してしまうような頑としたものを感じる。これだけは譲らないといった姿勢がそれだけでも見て取れることができた。いったい何のことを話しているのだろう? アスンシオンが会議でこのような態度にでることはまずない。ちらりと思ったスキエルニエビツェであったが、大臣の誰かの言葉ですぐに理解できた。

「琳藍において河川事業は非常に重要な事柄のはず。あまり結論に急いでもなりますまい・・・そうですな陛下?」

「その通り・・・そして毎年の増水の季節はもうすぐそこまでやってきている。こうして毎年手をこまねくよりもよい方法があるはず・・・治水のための案は考えてある」

 ざわ・・・

 室内が一瞬ざわめいた。

 この時代、自然というものは人にとって侵しがたく動かしがたいもの、河が増水して氾濫し、それによって人命が損なわれようとも、天意であるから仕方がないという考えがまだまだ強かった。そんな中で河の増水をどうにかしようというアスンシオンの意見は、実に画期的であるとも言ってもよかった。アスンシオンは長い会議に疲れた意志を示すかのようにため息を一つつくと、小山を思わせる長身をおもむろに起こし、

「今日はこれで閉会だ。堂々巡りの意見が多すぎて話がまとまらぬ」

「陛下。治水の案というのは」

「発想だけでまたせ理論には至っていない。今年中には無理だろう」

 言い置くと、アスンシオンはそれ以上の質問を一切許さないかのようにさっさと会議室を出ていってしまった。彼が出ていった後の会議室は正に堰をきったかのような大騒ぎであった。蜂の巣をつついたような、とは、こういうことをいうのだろうか、スキエルニエビツェが思ったほどであった。彼女のような旅の空で生活する者にはわからないような、そんな重大な問題が琳藍にはあるようだった。

 一見、山の上にあるので戦を仕掛けられにくく、他国よりもずっと頭痛の種がないように思っていたのだが、それはやはりよそ者の考えであったようだ。琳藍の人間にとって河の氾濫の問題はスキエルニエビツェが考えていたよりもずっとずっと深刻であるらしいことは、ここ連日重ねて似たような問題で会議が続けられていることからも充分把握できた。

「いやはやまったく・・・」

「とんでもない考えをされる方ですなあ」

「うむ。明日また改めてその案というのを詳しく聞こうではないか」

 長老・大臣たちが口々にそう言いながら会議室を出ていくのを、スキエルニエビツエはじっと待っていた。

 スキエルニエビツェはおおかたの人間が出ていったのを気配で感じ取って、顔を上げ部屋に誰もいないことを確認しようとした。

「・・・」

 しかしそこで彼女は立ち尽くす一人の青年を見つける。

 ジラード将軍である。

 話に聞いたところでは、彼は将軍たちのなかでも最も若く、しかも幼い頃先王に戦地で拾われたという非常に変わった経歴を持つらしい。そんな彼のことを恵まれた境遇、どう考えても贔屓されて今の地位にのしあがったのだろうと陰口を叩くものも多いらしいが、世の中そんなに甘くないということを、スキエルニエビツェも当のジラード将軍も、そして陰口を叩いている連中もよくわかっていた。

 ジラードは拳が白くなるまできつく握り締められているのを自身気付かなかった。顔面は蒼白で、肩が小刻みに震えている。唇は血の滲む程噛みしめられ、奥歯は、砕けてしまうのではないかと思われるほどにぎりぎりと音をたてていた。

 ―――治水事業だと!

 なんという斬新な案なのだ。自分はそんなこと考えもしなかった。

 どれだけ予算を少なくできるだとか、住民の居住区制限だとか、そんなことしか考えていなかった。誰でも考えることだ! だからこそ自分はいつまでたってもいつまでたってもあの太陽のように堂々として生まれながらの王者のような男に勝つことができないのだ。いや、もはや勝ち負けの問題ではないことは彼にもよくわかっていた。だがしかしそれでも、どこかで一度だけ、この人生にたった一度だけでいい、彼に対する優越感が爪の先の十万分の一でいいから自分の中に満たされれば、自分はあの小山のような太陽の化身の陰にいると卑屈にならずにすむのだ。いるだけで彼はジラードの劣等感を強烈に煽った。国王アスンシオンがジラードに対してそういう態度を一度でもとっただとか、アスンシオンがジラードを嫌っているとか、現実はまったく逆で、ジラード本人もよくわかっているのだが、あの鋭い、剃刀のような緑の瞳に無表情に見据えられ、恐ろしいまでの端正な顔に正面から見られると、もう逃げ場がない、徹底的な裁定の場に連れてこられたような恐怖に近いものが彼の心の内に生まれ出で、脂汗をかく幻想まで感じてしまう。自分は国王を好いている。尊敬もしている。できなければ仕えることはできない、常々思っているのだから、それは確かなのだ。凄い人間だと思う。しかしそう思うのと同時に、ここまで大変な偏見と共にそれに伴う嫌がらせを受けながらも将軍にまで昇りつめたジラードを、一瞥で奈落の底まで落とされたような強烈な劣等感に落としめてしまう男でもある。幼くして両親をなくしてしまうのに加えて周囲からの強力な圧力に耐えてきたジラードという男は、二十五歳の男にはない屈辱や圧力やその他の不愉快なものに対して堪え忍ぶ力が備わっている。そんなジラードを、こうまで簡単に暗闇の底まで突き落としてしまうのはこの世界広しといえど国王アスンシオン以外誰一人として存在しないだろう。

 そんな彼を現実に引き戻したのは透明な張りのある声であった。

「ジラード将軍? いかがなさいました?」

 気遣わしげな声はすぐ側で聞こえた。はっとしてジラードがそちらへ目をやると、スキエルニエビツェが近くまで歩み寄ってこちらを見ている。心配そうに眉を寄せ、首を心持ち傾げている。

「ご気分でも?」

「い、いや・・・なんでもない。考え事をしていただけだ」

 ジラード将軍はスキエルニエビツェをじっと見つめながら答えた。

 腰にからみ床を這う艶やかな黒い髪。襲の上にそれは、衣装には決してない彩りとして艶を添えている。

 この楽師は、権力の象徴だ。

 金だけでは彼女を一所に留めることはできない。風流を解さない人間には決して仕えないという。気の向くままに旅を続け、その天鵞絨の喉をあちこちに披露しては、自ら伝説を作り上げていっている。目の前の美しい女ですらアスンシオンの人柄に惹かれて琳藍に滞在しているのだと思うとなんだか無性に腹がたってきて、ジラードはそれ以上何も言わずに会議室を出ていった。それを見送って、スキエルニエビツェは窓から庭を見渡すと、ため息をついて自分も出ていった。

 季節は五月、むせ返るような緑の木々に木漏れ日が光る短い期間を過ぎ、琳藍は間もなく梅雨を迎えようとしている。

 

   

   水を渡り 復た水を渡り

       花を看 環た花を看る

       春風 江上の路

       覚えず 君が家に到る



 誰に聞かせるというわけでもなく、糸のようにか細い声で歌うと、サラサラと衣擦れの音をさせて部屋を出ていった。



 スキエルニエビツェが初めて琳藍に来たのは春のことである。四月、春真っ盛りの頃であった。そしてその時入国に際して耳にした国王に関する良くない噂の数々が、ほとんどは彼をよく知らない者のちょっとした言葉が伝えられる度にどんどん尾鰭がついていってとんでもなく誇張されているということがわかってきた。しかしそれだけで済まされない問題もあった。わざと国王アスンシオンの悪い噂を流している者がいるらしい。それが誰かは特定することはできないが、反国王派の人間であることは確かだ。汁をこぼしただけで侍女を手打ちにしたという話もその一つで、アスンシオンは構うな、誰にでもあることと受け流しただけなのに、いつの間にかとんでもない話となって城下に広まっている。

 しかし、どうやらアスンシオンが幼い頃母親に毒杯を回されたということだけは曲げようのない真実のようであった。

 ―――――もしかしたら、その事があの方に影を落としているのかもしれない。スキエルニエビツェはちらりと思った。幼い心に、母親に確実に愛されていない、どころか憎まれていると明確に悟る事は、深い傷を負わせ谷底に突き落とすようなものだ。

 深い絶望 ――――。

 もしそれらの体験が積み重なって、太陽の王者のようなアスンシオンの一瞬見せる虚無と絶望に満ちた表情が在るのだとすれば、全てが納得できるような気すらした。しかしそれだけで、果たしてあそこまで深い絶望感を感じるものだろうか? 彼ほどの人間が、それだけと言ってしまっては何だが、それごときで簡単に絶望する者はもっと繊細で、そしてこの歳までやっていけないはずだ。父親が早逝しているからだろうか? それによって幼心に国王の重圧に耐えられなかった? しかしあれだけの器の人間は、大抵幼少時代も並みの大人よりはるかに大人のはず。

 ―――――一体アスンシオンの身に何があったのか?

 スキエルニエビツェは知る由もない。

 五月も終わりに近づき、湿った風が吹くようになってきて、宮廷内にもぴりぴりとした空気が濃くなってきた。それほどまでに洪水はこの国で大きな悩みとなっているのだ。どんなものか見てみたいと思うのと同時に、それを目にするのが恐ろしいようでもあった。

 ポロン・・・・・・

 三日月の美しい夜、風流を好むアスンシオンは灯りを点けず月灯りを燈として窓辺に座り、リュートを弾くスキエルニエビツェを肘をついて見つめていた。




       菱は浮萍を透す 緑錦の池

       夏鶯千囀して薔薇を弄す

       尽日 人の微雨を看る無く

       鴛鴦相対して紅衣に浴す



「・・・・・・」

 肘をついたまま、どこか遠くへ目を馳せたまま、アスンシオンは微動だにしない。夏には程遠く虫の声も聞こえぬ。ただどこかでしんしんと、空気と空気がこすれ合う音がわずかに聞こえるのみ。気持ちの良い夜風が池の顔を撫でくすぐったがる子供のように微かな水音をたてる。リュートの音と透明な声はどこまでも響き、山をぬって天空の彼方まで届いているかのようだ。

 ・・・・・・ンン・・・

 遥か彼方の山の向こうで最後のリュートの余韻が消えて、アスンシオンはいつのまにか伏せていた瞳をそっと開けた。目の前には夜の闇から切り取ったような艶やかな黒髪を全身にからみつかせて佇む女がいる。夜の闇より尚黒く、尚静かな。

 瞳は穏やかな光をたたえ、見入ってしまうような優しい微笑みが微かにだが浮かべられている。

 魅せられる―――――。

「―――陛下?」

「――――― ・・・・・」

 アスンシオンは視線を一瞬下にやり、それから庭の池に目を馳せた。そろそろ蓮が咲き頃なのか、一つ二つ固い蕾を割って咲いている。それがわずかな風が吹くたびに微かに揺れる。

「陛下・・・?」

 アスンシオンは目を閉じた。

「誰もが私を陛下、と呼ぶようになったのはまだ幼い頃だった」

「―――――」

「最初は何のことかわからなかった。しかし日が経つにつれ・・・幼いながらにもわかってきた。徐々にだがな。倍以上の歳の人間が私に頭を下げ、歳の近い者たちは突き放した瞳で見るようになった」

 淡々とした語り口は別段何を訴えたいというわけではなく―――・・・思ったこをを口にしたまでのこととでも言いたげだった。瞳は遠く、口元は己れを嘲笑するかのようにわずかに歪められている。嘲りとも微笑ともつかぬ笑み。

 スキエルニエビツェは再び陛下、と呼ぼうとして口を開きかけ、そのままつぐんだ。恐らくずっと陛下と呼ばれ続け、自分の名前を呼ばれた事のほうが少ないに違いない。微かに厭っているのかもしれぬ、名前ではないこの名前を。

「近くへ」

 する・・・流れるようにスキエルニエビツェは側に寄った。月の光が二人を照らし、一瞬息を飲むほどの美しい影を彩る。

 自らの、透き通るように白いその手を取られ、ごつごつとした二つの手の中にすっぽりと入り、やがて若き国王の頬にあてられそっと唇が触れても、スキエルニエビツェはこの男を嫌がっていないことに気づいていた。

 とく、とく・・・わずかに鼓動が高まる。熱い視線を感じるのでふと顔を向けると、アスンシオンの緑の瞳が自分をじっと見つめていた。炎の中で燃え盛りながらも尚緑に燃え続ける緑柱石のように、熱い瞳で。

 切ない光に一瞬胸がしめつけられる思いがし、その直後、アスンシオンの長い腕が彼女の方へと差し伸べられ、そう思った時にはもう、小山のような大きな身体にすっぽりとおさまっていた。

「―――――」

 スキエルニエビツェは瞳を閉じた。すべてに身を任せるように力を抜き、風の音に耳を澄ました。

 ほと・・・と、微かな音をたてて、池の蓮が静かに開いた。



 河の治水の話は、その日国王と側近だけを交えた会議でも取り沙汰された。とりあえず話だけは聞いておいて、それから大勢で策を練るほうが効率的だからである。しかし国王アスンシオンはここでも猛反対をくらう。

 その発想があまりにも突飛で斬新で、凡人には少々理解しがたいというのが理由であった。

 アスンシオンの案はこうである。

 河というものは必ずしも直線を描いて流れるものではない。大きくうねったり曲線を描いたりして流れるものだ。流れが激しかったり曲線が理由でその部分から洪水になったりするのだから、その部分を石垣や竹垣などで壁を作って流れを変え、増水やそれに伴う洪水を未然に防げばいい―――というのが彼の草案であった。

 これは数十年のちになって『アスンシオンの治水堤』と呼ばれて何百年もあちこちの国の河を洪水から守るものとなり、後世の人間から尊敬と感謝の気持ちを集めることになるのだが、何にせよ今現代では非常に非凡な考えであった。素晴らしい案である。しかし、その素晴らしさを理解できる人間が残念ながら彼の周囲に一人もいないというのが、アスンシオンの不幸の一つでもあっただろう。

「無理がありすぎます」

 側近の一人が眉根に皺を寄せて苦々しげに言った。

「そんなことは無理に決まっています、陛下」

「失敗したら大事ですぞ」

「どこが大事だというのだ。きちんと考えて垣を作れば失敗したところで被害はない。私は幼い頃から洪水に苦しめられる民の姿を見てきた。それでどれだけ彼らの生活水準がおとしめられているかも。彼らのそういった苦労や舐めてきた辛酸が報われた試しはないと言うのはどういうことだ。私はどうしても彼らにいま少し幸福な生活をしてもらいたい。今幸福ではないというのではない、もっと上の幸福を追求できると言っているのだ。そのためなら少々の苦労や出費を厭わない、それが国を統べる者の役目ではないのか」

 気まずく黙り込み、困惑してお互いの顔を見合わせる者、困った国王だとあからさまに不快な表情を浮かべる者、顎に手をやって今の彼の提案をもう一度前向きに検討している者。室内を占める人間の表情は実に様々であった。

「・・・」

 本当は優しい方なのだ。スキエルニエビツェは部屋の隅に座りその様子を見聞きしていてそう思った。巷で聞くような恐ろしい、という印象とは程遠い。

( ―――・・・――― )

 スキエルニエビツェは伏し目がちになって昨夜のことを思い出していた。

 アスンシオンは昨晩、スキエルニエビツェを奪った。それまで、男を知らない身体ではなかったけれど、スキエルニエビツェははっきりとした好意をアスンシオンに抱いている。この優しさと類い稀なる知性と、そしてその影に潜む重く暗い影・・・。

「―――――」

 しかし熱い想いではない、実にそこはかとない想いだ。淡い淡い、今にも消えてしまいそうだが、しかしちゃんと存在する、それはその心に暗い暗い影を落としたアスンシオンと、あたかも風のように流れ流れて己れの感情のままに放浪を続けてきたスキエルニエビツェにふさわしい想いであった。それは恋以前、アスンシオンが彼女をどう思っているかは別として、平生から特定の誰かに特別な感情を抱かないスキエルニエビツェには珍しいことであった。

「行くぞ」

 スキエルニエビツェはアスシンオンの声で我に返った。

 会議が終了したのである。最も、側近の面々の表情を見ていると、納得のいかないまま国王に一方的に解散を命ぜられたという感がある。

 ざわざわと室内に残って話し合う彼らを尻目に出ていくアスンシオンを、スキエルニエビツェは慌てて追った。

 今年の夏―――・・・・どうやら波乱含みだとスキエルニエビツェは思った。



 そして六月に入り、琳藍は梅雨を迎えた。この時点ではまだまだ幾つもの問題点が残るので試験的に一部の増水地点に竹垣や石垣などを設置することになったが、国内の評判は決していいとは言い切れなかった。国王の側近連中の、この案に好意的な面々ですら半分も理解できないというのに、一体民のどれだけがアスンシオンの考えを理解できただろうか。それどころか、洪水に備えて色々としなくてはならぬ準備や食料の保持など、忙しい時期に訳の分からぬ重労働をさせられて、不満は募る一方だったようだ。ここでどれだけ国民からの信頼を取り戻せるかが、国王としてのこれからの基盤ともなるべき大事業の一端を任うことは、宮廷では誰の目にも明らかであった。

 今回試験的に垣が設けられたのは洪水の起こる数十箇所の内、琳藍に近い場所と麓に近い場所、そしてその中間地点の三箇所であった。洪水が起きるのはいつと決まったわけではなく、全く自然のきまぐれによる。しかし決まっているのは一回だけではなく、必ず二度三度と分けて訪れることであった。いつ来るかもわからない洪水に、琳藍城下の者はともかく他地区の国民の経済的負担と心因的な不安は相当なものであった。アスンシオンは若かりし頃、お忍びで歩いた城下とその他の地区の洪水で苦しむ者たちの姿を実際にその目で見、その耳で苦情を聞いたりしていたので、親身になってこの事業に取り組むのは当然かもしれなかった。

 洪水に対する不安さえなければ、彼はいつも思う。

 洪水に対する不安さえなければ、民は経済的にもっと安定した生活ができるはずだ。それが続けばもっと別の事に力を入れる余裕ができるはず。そうすればひいては国が豊かになることにも繋がる。己れのためではない、国が豊かであること、それがどれだけ民にとって幸せであるかは、わかっているつもりだ。

 美しい楽師の創り上げる幻想的な音色を聞きながら、アスンシオンは池の蓮をじっと見ていた。ふと目をやると、口元に笑みを浮かべてスキエルニエビツェがリュートの演奏に熱中している。こちらの視線に気が付いたのか、手を止め顔を上げる。

 ―――――こうして、自分の視線を恐れもせず受けとめた者は、目の前にいるこの女一人だ。

 ―――――母でさえ。

 瞳を閉じると、いつも先程のことのように浮かぶ、完全に目蓋に焼き付けられたあの情景とあの声。自分を罵る女の恐怖と怒りと憎しみに満ちた顔。

 そして瞳を開けると、自分の方を伺い見るかのような女の顔。彼女を見ているとほっとする。全てを与え、全てを受け入れ、全てを共に過ごしてくれるような黒い瞳。何事もなかったようにこうしてリュートを弾く物腰。

 ポロン・・・

 ポロ・・・ォォンン・・・

 ロ・・・

「怒ってはおらぬのか」

 ポロ・・・

 リュートがはたと止んだ。

 スキエルニエビツェは顔を上げ、瞳を見てこう問う。

「何をでございますか?」

 そしてまた、ゆうべ彼に抱かれたことなどなかったかのように、何事もなかったかのように、リュートを弾く。

 ポロォォォンン・・・

 アスンシオンは自分が心の底からくつろぎ、安心しているのを感じていた。ここに来るまでに致っていつもいつも誰かに追い続けられていたような気がする。傷を負い、疲れ果て、それでも尚休むことを許されず、知らず知らずの内に無限の砂漠地獄に彷徨い出てしまったような。

 ポロロロ・・・

 心に染みいるこの音色・・・これを得て、初めて休むことを許された気がする。安らぎと慈愛。

 蓬(表淡萌黄・裏濃萌黄)の襲を纏ったこの女を、自分はずっと待っていたような心持ちさえするのだ。

 夏深まり、この山の上の琳藍にも雨の匂いが濃く立ち篭める時期が近付いてきた。

 洪水はある日突然やってきて、今までがそうであったように同じような被害と苦しみと悲しみを琳藍の各地に残していった。しかし例年とたった一つ違うのは、国王の発案で試験的に設けられた三箇所の垣が、いずれも破損はしつつも、被害を最小限に食い止めているということであった。民は理解出来ないながらにも納得し、少数ではあるがこの考えを受け入れる動きが見えてきた。しかしまだまだ問題は残っていた。設けた垣が、洪水が終わった後に破損していたり完全に壊れていたりするようではだめなのだ。まだまだこの案には欠陥が多いが、しかし来年の洪水まで一年、その日までに今年よりさらに機能的なものを造り上げることが可能とわかっただけでも、この実験は成功であった。

 アスンシオンは自ら部下を従え被害箇所を歩いて周り、河の流れの場所による特徴や被害を詳しく書き留めさせた。

 山は所々崩れ、樹が倒れて岸に打ち上げられ、大理石の原石が剥き出しになっている様はなんともいえないむごたらしさで、崩れた家屋やその側で茫然と座り込み無気力に山を見上げる子供に致っては、胸が張り裂けるようだった。親共々を河に流され、すべてを失ったのだろう。そんな子供たちは少なくなかった。アスンシオンは宮廷に戻り洪水孤児の統計を取らせ、然るべき措置をするよう側近に命じた。何よりも率先するべきことと厳命するのも忘れなかった。

 その後、三度に渡って増水と洪水がやってきたが、その度ごとに新しく設けられた垣は堤として実に機能的に働き、数十箇所の被害箇所の中でも一番被害の少ない場所であり続けた。しかしやはり問題は、その度ごとに壊れるということであった。来年へ大きな課題を残して、琳藍の長い夏が終わろうとしていた。


 十月――― 。

 治水工事の衝撃から立ち直れないまま、ジラードは暗澹たる思いで廊下を歩いていた。どうにもならぬ劣等感、目に見えて明らかな才能の違い、今のジラードは、抱えきれぬ巨大な岩の塊を背負わされ、その重みと苦しみに必死に喘いでいるようなものだった。

「ジラード将軍」

 粘着質な声がして振り向くと、予想に違わずハールツェル大臣がいた。彼は反国王派の人間だが、その頭脳の明晰さは反国王派だからといって無視できないものがある。先王の代からの大臣で、これまでに何度も彼の案をとって政策に容れてきた。そういう味では先代も今の国王も、非常に公平な人間であったといっていい。抜け目のない茶色の瞳と、腹黒さをそのまま髪にしたような黒い髪、たぷたぷの顎は不摂生な生活を端的に物語っているかのようだ。奸智に長けており四十二歳というその年齢を時々忘れてしまうほど、自分の目論みには実に素早い動きを見せる。

「ハールツェル大臣・・・何の御用ですかな」

 眉を寄せ、ジラードは聞いた。この男は、確かにずば抜けた才能の持ち主だがどうも好きになれない。裏表があるというか、何を考えているかわからないところがある。いつも何かを画策し、人を陥れようだとか、ひょっとするとその標的は今度は自分ではないかと考えてしまう、油断のならない部分があって、非常に気疲れのする人物である。

「いやいや、非常にお見事でしたな・・・あの国王の発案は」

「―――――」

 この男は何を言いたいのだ―――――ジラードは密かに身構えた。

「なかなか誰にでもできるということではありますまい・・・そう思われませんかな?」

 ジラードは悟った、この男は自分を挑発している。乗ってはいけない、乗ってしまってはいけない。

「さすがは先王の御子息でいらっしゃる。貴殿も何かとご助力を請われることもおありでしょう」

「・・・・・・」

 ジラードは耐えた。彼が先王によって拾われ、将軍になるまでのことは、宮廷の人間なら誰でも知っている。それを種に挑発しようとしているのだ。

「私も先程見てきたのですよ、問題の堤を。まだまだ欠陥はありますけれどね。あれは近い未来素晴らしいものになる」

「・・・・・・」

 拳を握る―――――知られてはならない、この焦り、この苦しみ、圧倒的に感じてしまっているあの国王の存在を。

「・・・ところで、」

 ハールツェル大臣の瞳がジラードの知らないところでキラリと危険に光った。

「貴殿は、何か発案はなさらないのかな? ここらで一発我々の度胆を抜くような案を出して頂かなくては、いつまでたっても国王陛下を抜くことはできませんなあ」

「!」

 脂汗――――― 。

 ジラードは全身に氷水をかぶったような幻覚を感じた。

 知っている! この男は、自分が国王に感じている焦り、あの強烈なまでの劣等感を知っている。知ってしまっているのだ!

 ジラードはそこから立ち去ろうとした。自分は国王に、あの神が彼の為あれとわざわざつくりあげたような完璧なあのアスンシオンに何より劣等感を感じ、必死になって追い抜こうと無駄なまでの努力をしていることを否定するために、今ここからこの場所を立ち去らなくてはならない。この奸計極まりない男に、自分の弱みをすべて見抜かれてはならないのだ。しかし身体が動かない。足の裏に根が生えてしまったかのように、身体が微動だにしないのだ。石になったのか? 自問する。脂汗が額を伝い、顔を通って顎を這う。身体の震えを拳を握って抑える。それもいつ限界に達するか甚だあやしい。喉が干涸びた井戸のようにからからになる。唾を飲む。 飲もうとてそれすらもない。ジラードは全身汗まみれになってそれでもようやく残っている最後の余裕でハールツェルの言葉を一笑するかのように口元を歪めた。

 しかし甘かった。ハールツェル大臣は既に、憶測ではなく完全に悟った上で彼の弱点を見極めていたのである。

「ふっふっふっ・・・将軍―――無理をなされてもこのハールツェルはごまかせませんぞ」

「な・・・何を―――・・・」

「これはあなたの為にもなることだ。国王が小さな失敗をすれば、そこにつけいる隙が生まれる。そこを突こうというのですよ」

「な・・・!」

 ジラードは反論しようとした。国王がどれだけ自分に劣等感を抱かせようと、尊敬しているのは確かだ。いくら先代からの恩があるとはいえ、尊敬もできない人間に仕えるほどジラードは自尊心のない男ではない。しかしハールツェルはすべてを呑み込んでいるかのように片手を上げて制止し、さらに言い募った。

「何・・・立ち直れないほどのものではない。ほんの少しです。そこであなたの発案を出せばよいのです。国王がどのような状態であれ、あなたは彼に勝つことになる」

「しかし・・・!」

「どのような窮地であろうと躱せずして君主とは言い切れませんぞ将軍。それに、国王はあなたを敵視はしていない。あなたが発案したところで、あちらはあなたに何の負い目も感じますまい。あなたは彼に勝ち、立場は今のまま。非常においしいと思いますがね」

 ジラードは目を細めた。

「しかしあなたは反国王派の人間だ。私とあなたが組んでも今あなたが話されたものが私に本当に有益だとして―――私はともかくあなたには何の利益にはなりますまい。どういうおつもりかは知らないが、お断わりする」

「ふっふっふっふ・・・そこはそれ・・・それによって私の利益にもつながるということで・・・」

「―――――どういうことだ」

「細かいことはあちらで・・・」

 二人の影は廊下の向こうに消えていき・・・やがて扉の中へ、吸い込まれるようにして見えなくなった。



 琳藍に秋がやってきた。山々に囲まれ、また琳藍の王城と城下も山の上にあるため、この国の秋は非常に美しい。世の人々は春と秋の美しさを比較し、歌競いなどすることも多いが、琳藍ではほとんどの人間が秋を好む。古い本にも、

『春日は気象繁華、人をして心神駘蕩ならしむるも、秋日の雲白く風消え、蘭芳しく桂馥り、水天一色、上下空明、人をして神骨ともに清らかならしむにしかず』

 とある。春の景色はにぎやかで華やかで、人の心をとろかす。だが、秋ともなれば、雲は白く流れ、風はやみ、蘭やモクセイの花が香って、昼は空も水も青一色に澄みわたり、夜は月の光が空中にも水中にも身も心も清らかとなる。この趣に比べれば、春はとうていおよばない。そんなような意味のものである。水天一色、上下空明というのがなんともいえず美しい言葉である。そして、そんな美しい言葉で彩られる秋の化身のような女が、琳藍にはいる。

 荘厳に厳粛に、寒い夜蒼い光で夜を征しごつごつとした岩のような全身からくまなく無機質な光を放つ月、その月の銀を彷彿とさせる銀の髪と、海から出でさらに海すら負かしてしまったような深い深い青の瞳。歩くたび動くたび、その髪は河の浅瀬のようにさらさらと美しい音を微かにたて、波のように優雅に線を描いてたなびく。

 琳藍のどこで採れる極上の大理石よりもさらに白い肌は、雪のようだとも、人知れぬ森の奥の秘め滝のしぶきのようだとも称される。三日月のような眉と、意志の強さを強く現わしたそのきりりと引き締まった唇は、今までに多くの男たちを魅了し、またそれらを戦わせてきた。多くは敗者に、ほんの限られた者が勝者に。高貴さを漂わせる額は確かに美しく、女官の誰かが水晶の彫刻が動きだしたと呟くほど。視線が宙を舞えばとらえられたものはすべて深い青に染まり、あたかも貴重な宝玉を見ているかのような胸の高鳴りを抑えられない。

 誰かが言った、彼女は琳藍の秋の化身だと。

 ウィラミナ・ティクレック―――――彼女を知らぬ者は琳藍には一人とておらぬ。

 流れるような身のこなし、舞うような動きは、壮年の将軍だとて 見惚れずにはいられない。さらに月そのものを思わせる終始凛とした態度は、どんな者をも怯ませる。

 ウィラミナは琳藍王宮の女官である。しかもただの女官ではない、高等女官といって、ふつうの女官よりもさらに上の上をいく女官である。その業務を主に国王や重鎮などの世話とし、また政でも意見を求められることは少なくない。

 であるから、高等女官は国の財産とされ、結婚は許されるが国外に出ることを禁じられている。 当然外国の人間との結婚も許されない。招かれた国賓が女官を気に入ってその女官を貰い受けるということはたまにあることだが、高等女官はそれすらも許されないのである。

 そしてその高等女官であるウィラミナは、日常の業務をそつなくこなし、女官たちを采配し、その美しさに高慢になることもなくその才能で国を左右しようとすることもなく、非常に人格的に優れているとして宮廷内での人気は高かったが、そんなウィラミナがただひとつだけ狙っていることがあった。それは彼女の野望と呼ぶべきものであったといってもよい。

 野望はただ一つ、それは国王アスンシオンに抱かれるということであった。あの男を自分のものにする。

 自分の美しさを鼻にかけないウィラミナではあるが、それは自分が美しいということを知らないというわけではない。どころか、重々承知している。自分を争って広大な家屋敷を賭けた男もいれば、高官の位を賭けて路上の生活となってしまった男もいる。街を歩けばお互いのやりとりに夢中でざわめいていた道の人々はいつのまにか喋ることも忘れ、固唾を呑んで自分を見つめているのだ。夢を見ているような顔つきの者、なにやら恐ろしい顔で睨む女、口をぽかんと開けたままにして放心してしまう者・・・。それはいつになっても変わることはない。高等女官となった現在では、宮廷の外に行く時は必ず大尉以上の兵士が三人護衛とされるのでそんなことはないが、昔は街を歩いていると、よく酒場で酔った男などが彼女を我がものにしようと路地裏に引っ張り込んだものだった。そのたびに誰かに助けてもらっていたから宮廷に上がるまで彼女の身の貞操はなんとか守られていたが、それだけでもウィラミナという女が、いかに美しいかがわかるというものだった。

 本人もそれをよく知っていた。ただ彼女の凄い処は、これだけ美しく、万人を魅了してやまない容姿を持つというのに、少しもそれを鼻にかけず、高慢にならず、終始謙虚な態度を崩さないということであった。なぜならば、そういう態度でもとらないことには、周囲が敵だらけになりついには彼女にとって好ましくない状況が訪れやすくなる。無駄な争いはないほうがよいに決まっているということを、この女は知っているのだ。そんなウィラミナの処女を奪った男はリコルディという軍人で、当時大佐であった。宮廷に上がって間もない頃、外出の護衛に一度ついてきたのだが、彼の自分を見る瞳、その他の男が自分を見る時とはどこか違う目に、ウィラミナは興味を覚えた。 彼はウィラミナを美しいとは認めていたが、それは青いものを青いと認めるのと同じようなもので、それ以上の興味を彼女に抱いていなかった。或いは、自分にはかけ離れすぎたその美しさに、高い高い場所に咲く一輪の花のようにしか感じなかったのかもしれぬ。今となってはそれすらわからない。彼はウィラミナを抱いた翌月に戦死したからである。彼女が十八の時のことであった。

 その後も色々な男たちに抱かれてきたが、決して手当たり次第というわけでも、多くの男たちというわけでもなかった。彼女が選ぶ男は、年齢・容姿・社会的地位、すべてがばらばらであったが―――一つだけ共通していた。彼女を一人の女としてとらえ、愛し、そして最初は何の憧れも期待も抱かずに彼女と接する男であった。だからウィラミナは、一個の人間として以上に自分に興味を抱かない男たちに興味を抱く。最初の男もそうであったが、当初彼女を護衛の対象としてしかみなしていなかった。大切なのは間違いないが、それは護衛を必要とするほどの人物であるからであって、それが自分の仕事だからであった。他にも終始無愛想でぶっきらぼうな態度で彼女と接した旅の戦士、五十年間仕事一徹でやってきた老騎士、精巧な時計を造ることに命を燃やす職人、様々な男たちと恋をしてきた。ウィラミナは、自分が美しいからといってのぼせ上がらず、見た瞬間から恋をしてしまう男ではなく、美しいことは美しいが自分とは何の関係もない、そんな態度をとる男を選んできたわけである。彼らはまず自分の生き方を率先し、何よりも優先してきた者たちばかりだ。自己の美しさを自覚してから向こう、終始男たちの強い独占欲を剥き出しにした視線にさらされてきたウィラミナは、自分を見て最初に自分を欲しがったり、恋してしまう男にはうんざりしていた。器だけを愛されても嬉しくなかった。一目見てあなたに恋をしたのです、そんなことを言われても、それでは一目見た瞬間に無視された自分の才能や人格はどうしてくれるのだ。家屋敷を賭ける男、自分の地位を賭ける男、そんなものは賭けなくていいから、誠意と真心を賭けてほしい。

 そんなウィラミナが国王に抱かれたいと思うようになったのも不思議ではなかった。

 しかしそれは今までの男たちと重ねてきた恋の遍歴とは少々内実の違うものであった。

 アスンシオンのあの剃刀のような冴え渡った美しさ―――。

 巷では恐ろしい顔で通っている。自分も少し前までそう思っていた。切れ長の瞳、彼の視線が右から左に動くだけで空間が裂けてしまいそうな思いをしたこともあった。小山のような身体に圧倒され、身が竦む思いをしたこともある。無口で、物静かで、逆にいつ崩れるかわからない雪山の雪のような気がしていたものだ。

 しかしウィラミナはある日気が付いた。恐ろしい、そう思っていたのは先入観や思い込みで―――――確かに鋭い容姿ではあるが、よく見るとアスンシオンの整った顔立ちは美青年といってよいものだ。美とは一つではないということを、ウィラミナはよく知っている。次第に彼女はアスンシオンに興味を抱いていく――――― 。

 聡明な発想といつも民を気遣う優しさ、観察が進むにつれ国王として理想の形をとっているアスンシオンに対する興味が募っていく。

 見目美しくそれでいて勇ましい国王の姿を見ていてウィラミナは思った―――――。

 自分とあの国王が並んだら、さぞかし絵になるだろうと。最初から完成されるために、ただそれだけのために創られたかのような神秘的で幻想的な風景がそこには生まれるだろう。そして国王のあの優しさの裏にある厳しさを、自分が隣にいることで完璧にしてしまおう。あの方は民のことを気遣って優しく笑みを浮かべるよりも、冷徹に政をし、政敵を非情ともいえるやり方で倒していく氷の魔王のように頂点を歩くほうが似合っている。あの方の容姿、物腰、あの小山のように思える高い背丈ですら、そのために生まれ創られてきたものなのだ。そのためにはあの方にひけを取らずに美しい自分が必要だ。あの方に近づく者に対する扉となり壁となり、あの方を取るに足らぬ普通の人間にしてしまうのを防がなければならない。人と接すれば接するほどあの方はその魔力を失いただの人間に近付いてしまう。俗に触れ、信仰が薄らいでいく若い僧のように、人間に触れ人間になっていってしまうだろう。自分はあの方と同じくらいのこの美しさで周囲を圧倒してあの方が俗である人間に触れるのを拒み、自ら戸口となって彼がその魔性を落としめ

ないよう取り次ぎ役となるのだ。妃など関係ない、そんなものにはなりたいとも思わぬ。

 女としてあの方を支配したい―――――。

 今まで受け身で独占というものを見てきたウィラミナが、初めて誰かを独占したいと望んだ。

 ウィラミナはこう思っている、

 きっとあの方もそれを待っていようと。あまりにも凡人とかけ離れ過ぎているために、なかなか本領を発揮できずに苦しんでいらっしゃる。今正に、自分のような仲介する者、聖と俗との間にたち両者の仲を円滑にする者が必要だと。きっと待っていらっしゃるに違いない。

 そして今度こそ本当の意味で彼は魔王となり、君臨するのだ。

 ウィラミナの考えは尽きなかった。

 そのためにはまず自分と彼とが親しくなり、一体とならなければならない。例え彼が魔王の素質を持っていなくても、あんな剃刀のような鋭い美しさを持つ男になら、抱かれてみたいと思うウィラミナだった。

 そんなある日―――――。本宮へと続く吹き抜けの回廊を歩いていた時のことである。 庭に誰かいた。普段庭に立ち入る者などいないので視界の端に映ったその異物は、簡単に興味を覚えさせる材料となった。

「?」

 そして次の瞬間ウィラミナは驚愕した。全身が鉄か鉛にでもなったかのように重くなってその場に釘づけとなった。



       夜久しうして眠る無く 秋気清し

       燭花頻りに剪って 三更ならんと欲す

       鋪床涼は満つ 梧桐の月

       月は梧桐の欠けたる処に在りて明らかなり



 目の前の光景はとても信じられなかった。ウィラミナは柱の陰からそれを信じられない思いで見つめていた。知らず白い手に筋が浮かぶ・・・・こんなに固く、拳を握り締めたことなどない。

「美しい歌だ」

「歌は美しいものですわ」

 あの流れ者の楽師と―――――アスンシオン。

 なんということだ! ウィラミナはぎり、と奥歯を噛んだ。それは、あの二人が一緒にいるからという理由ではない。アスンシオンが笑っている! あのようににこやかに、あのように屈託もなく。

 いつものように愛想の一つとしてでしかとらえられないような申し訳程度の口元の笑みではない。あのような笑顔は見たことがない。いや見せたことがないのか? とにかく第三者にあんなに気を許すだなんて・・・彼はそんな人間ではないはず。しかもただの第三者ではない、流れ者の楽師ではないか。

 こんなことでは・・・ウィラミナは思った。こんなことでは、彼の生来ある魔性と神秘が失われてしまう。彼はいつも独りでいるべきなのだ。独りでいるからこそ、その美しさも鋭さも恐ろしさも増す。彼は、あんな風に笑ったり、誰かと楽しそうに語り合ってはいけないのだ。あくまで孤独で、そうやって毒を強めていって、今に一睨みで生命を奪うだけのものにならなくてはならないのだ。そういう人間なのだ。人と語らう時があるとしたらそれは、あくまで必要最低限の時だけ。例えば商談だとか、軍議だとか、国賓を招いた時など。とにかくそんなことはあってはならないのだ。アスンシオンは自分の知らな内いに自分の素質と天性を濁らせてしまっている。

 もしかして、あの方は自分の持つ魔性と天賦の才能に気付いていないのか? だとしたら自分が助けて差し上げなければ! 早くしなければ手遅れになってしまう。手遅れになってからでは遅いのだ。

「くっ・・・・」

 歯噛みすると、ウィラミナはその場から走り去った。ここにいても仕方がないことを、この賢い女はわかっていたからだ。途中誰かとすれ違ったが、挨拶も忘れて彼女の頭の中は策略でいっぱいだった。

 


 そしてこの時、彼女とすれ違った誰かこそ、琳藍の将軍では最古参、今年六十二歳にして今だ現役の軍人、ユラデュラ・レッスルデイヴである。彼は若い頃から宮廷に仕え、そしてまたアスンシオンに剣術を教えた張本人でもある。早くに父を亡くしたアスンシオンにとって、このユラデュラ将軍が彼の中で占める位置は非常に大きいといえる。

「・・・・・・」

 ユラデュラはウィラミナの走り去った方向を振り返り、彼女にしては珍しいことだと思いを巡らせ、そしてまた歩きだした。しかしその表情はどこか沈鬱で、小春日和といってもよい外の陽の光の明るさとは好対照だ。ため息をついてユラデュラは、もっと風にあたろうと回廊から庭へ出た。

「―――――」

 老将軍はまぶしさに目を細める。外はこんなにも明るかったのか。

 そして何より、あの美しい二人が何の屈託もなく語り合うその輝かしさに、将軍ユラデュラは目を細めたのだった。

 あのお方は、あのようにして笑う方であったろうか。ふと疑問がよぎる。

 ユラデュラはアスンシオンの幼い頃―――――生まれる前から彼を知る、現在では宮廷内で唯一の人間である。アスンシオンは、幼い頃から不幸な少年時代を送ってきた。父を早くに亡くし、従兄や叔父と熾烈な後継者争いを続けてきた―――――本人の意志とは関係なく。そしてその恐ろしいまでの鋭い容姿に母親ですら恐れをなし、面と向かって彼を罵った。その時の、アスンシオンの次第に水が凍っていくような、見る見る内に堅くなるその表情を、ユラデュラは忘れることができない。あまり笑わないお子だ、そう思ったことだとて何度となくある。あの方は、あんな風に見る者のこころ和らぐような笑顔を持っていたのか。こんなに長くお仕えしているというのに―――――少しも気づかなかった。

 アスンシオンの意外な一面を今更知ったということも手伝ってか、ユラデュラの心は益益重苦しくなった。

 実は、先の夏の洪水の折、アスンシオンが提案した竹垣の堤のことなのだが―――――ユラデュラはどうしても納得ができない。国王の民を案ずる気持ちはよくわかる。しかし結局それも運命、洪水が天意ならば、またそれによって生命を失う者も天意によって死んでいっているのだ。それを助けたいと思う気持ち、ひいては洪水をどうにかしようとか食い止めようとか思うことは、天のすることに対する反乱ではなかろうか。ユラデュラはそう思えてならないのだ。

 そして彼だけではなく、会議に参加する者のほとんどがそういった意見であったことも無視はできない。国内の評判もよくなく、堤をつくったことによる被害の少なくなったこととは別のものとして、自然のものに手を加えるのはどうにもよくない気がする、恐ろしい、果ては傲慢だとも言う人間が多い。傲慢とまでは思わないが、やはりユラデュラは洪水をどうこうしようという考えは反対だ。

 その反面、毎年それによって苦しむ民をなんとかしたいというアスンシオンの気持ちも痛いほどよくわかるので、その相反した気持ちに彼は両挟みになり、それで沈鬱な面持ちであったという訳である。ごく少数の賛成派も、アスンシオンの考えを理解したというわけではない。その方が誰もが幸せになれるという考えのもとに賛成しているのであって、アスンシオンの革新的な考えが理解できる者は、恐らくいないのだろう。

 ユラデュラは思った―――――もし堤を造ることが天に対する反逆だという自分の考えと、心から尊敬する主君の苦肉の策の、どちらかを選ばなければならないとしたら、自分はいったいどうすればいいのかと。

 彼は六十二歳の今日まで、己れの信念を守り、貫き通してきた。

 今の自分は、その信念を守ってきたから在るといっても過言ではない。つまり彼にとって信念を貫く事は、存在を守り主張していくことでもある。生きていくには絶対必要なことだ。それを曲げてまで、自分は果たして主君に忠義を尽くすことができるだろうか? 

 自分が己れの信念を貫いて生き、その自信の上にあってこそ自分は軍人であり、だからこそ主君に仕えられるというのに? 自分を持っているからこそ忠実になれるというのに、その自分を捨てて、果たして大丈夫なのだろうか――――。



   濃露繁霜 著けども無きに似

       幾多の光彩 庭除を照らす

       何ぞ須いん更に蛍と雪とを待つを

       便ち好し 叢辺 夜 書を読まん



 明るい陽射しを避けるようにして、ユラデュラはそこから立ち去った。今の陽光は、彼にはあまりにも眩しすぎ、明るすぎた。



 アスンシオンの国内の評判は、留まるところを知らないかのように悪くなっていった。

 将軍や側近連中ですら理解できない竹垣堤を、どうして民が理解できようか。いつの時代も守られている者というのは、今与っている恩恵に気が付かず、却って庇護者を攻撃したがるものなのだ。しかも彼らはまた臆病でもある。洪水で死者が出たり国の経済が大きく左右されるのは確かに辛いことだが、だからといってその洪水をどうにかしようなどという考えは言語道断、そんなことは天の意志に逆らった行為、そんな事をしてしまえば、琳藍は今度こそ天の怒りをかいどうなるかわかったものではない。きっと滅亡よりもひどい苦しみを、誰にも等しく与えられてしまうに違いないのだ。ならば毎年悩むほうがよほどいい、敢えてそちらを選ぼう、彼らの考えはこうである。

 そしてまた同時に、そんな恐れ知らずのアスンシオンの考えを、彼がわざわざ民のために考案したということもよくわかっていないままひどく批評した。悪し様に罵る者も少なくなかった。

 そしてそんなアスンシオンは、誰にも理解されず、強力で恐ろしく、強力で恐ろしいがために孤独な、まるで空の紫星のようだと評されるようになった。これは空に浮かぶ七つの星のなかで最も輝きが強く、そして一番強力だと言われる星である。紫星は宇宙の中心だともいわれているので、例えられればそれなりのものだが、しかし例えられようがあまりにも悪い。



 〈 国王は紫星のように気高く、

         強く、恐ろしく、そして孤独 〉―――――。

 琳藍に冬がやってきた。

 山に囲まれたこの国は、秋の最高の美しさで彩られ冬になっていよいよその荘厳さを増す。琳藍の冬は旅の価値あり、とわざわざ他国で言われるほどである。雪に囲まれ、普段嵐のような激しい流れですべてを呑み込む河の流れも、静かに静かに凍っていく。その静けさたるや、絶句息を呑むとしか言い様がない。多くの詩人が冬の琳藍を訪れては美しさに涙し、数多の詩を作り上げてきた。

 スキエルニエビツェはこの日、冬の五つ衣藤(上から紫・淡紫・淡紫・白・白・朱)を纏い、国王アスンシオンと共に彼の部屋にいた。アスンシオンはスキエルニエビツェが紫を着ることを殊更に好む。確かに、白い肌に紫が上からかかると、なんともいえずに凛としていて、見惚れる。この男の趣味の良さはこういうところにまで及んでいるのだ。であるから、春の襲は白躑躅(表白・裏紫)を特に好んでもいた。




       庭上の一寒梅

       笑って風風を優して開く

       争わず 又た力めず

       自ら百花の魁を占む



「・・・・・・」

 〈 庭先の一本の梅の木、

   寒さの中に風雪にもめげず、笑うがごとく花開く。

   競うのでもなく、また努めるのでもなく、

   それでいて、おのずと多くの花の魁となっている。 〉

 多くの魁―――――。

 アスンシオンは窓から見える白梅の木を見ながら遠くをみていた。

 山を越え空を越え、すべてを越えて何も見ていない瞳。

 自分は幼い頃から国王としての器を要求されてきた。幼いということは、何の言い訳にも理由にもならなかった。

 先代の一人息子、ただそれだけで闘争に巻き込まれ・・・従兄とも叔父とも戦ってきた。 幼いゆえに己れの意志など周囲には関係なかった。何の関係も・・・。


 『 なんて恐ろしい子なの! 』


 アスンシオンは瞳を閉じた―――――。つい先程のことにように鮮明な女の罵声。自分を見る目は、侮蔑と嫌悪と憎しみに満ち満ちて。

 美しく冷たく華麗で、残酷な

「陛下? いかがされました?」

 スキエルニエビツェの声が鼓膜に響く。明るくて朗らかな。このように静寂を纏ったように静かな時もあれば、まるで春先の蝶か兎のように溌剌としていることもある。

 アスンシオンは指を彼女の顎に這わせた。頬に触れ、首に触れる。そして肩に手をまわし、そっと引き寄せる。スキエルニエビツェは柔らかく瞳を閉じてされるがままになる。

「私は白梅が一番好きだ」

 ぼそりとそんなことを言う。

「ふふふふ・・・だから年寄り臭いといわれるのかな」

「あら、そんなことはありませんわ。私も花の中では梅が一番好きですもの」

 花は桜と人は言う。桜は賑やかすぎる。桃は咲き方に情緒がない。その上、散り方も見苦しいとといったようなことをスキエルニエビツェは言った。

 アスンシオンはふふふ、と低く笑った。

「珍しいな・・・お前がそんなに多弁になるとは」

 女は不思議そうな顔をした。それから、

「きっと陛下のせいですわ」

 少女のように・・・アスンシオンの腕の中で、スキエルニエビツェは言う。静けさと、落ち着いた瞳の光が、そして相反して時折見せる屈託のない笑顔、溌剌とした声が、彼女を四十の熟年にも十七の少女にも見せる。

 スキエルニエビツェを解放し、アスンシオンは瞳を閉じ、肘をついて小さくそうか、と呟いた。口元には笑みすら浮かんでいた。

「では我々の好きな梅の歌をもう一つ所望しようか」

 スキエルニエビツェは大輪の花が咲いたような笑みを浮かべ、はい、とうなづいた。

 ポロ・・・ォォンンン・・・・・・


   牆角 数枝の梅

   寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり



〈 土塀のすみの梅の木の数本の枝が、

  寒さをものともせず、自分ひとりだけ花を咲かせた。

  遠くからでも、それが雪ではないとわかる。

  どこからともなく、ゆかしい香りが漂ってくるからだ。 〉



 アスンシオンは肘をついて梅の木を見ながら歌を聞いていた。

 美しく冷たく華麗な―――――我が母。

 その手で我が子に毒杯をまわした母―――――。



 スキエルニエビツェがそのことを明確に知ったのは次の日のことだった。

 それはふとしたきっかけだった。スキエルニエビツェと親しくしている侍女が、たまたま母の代から王宮に仕えていて、それで詳しい話を知っていたのだそうだ。

 誤解されやすい方なのです、・・・母君にあんなことをされたのですもの

 スキエルニエビツェはそれで衣装を畳む手をはたと止めた。

「―――――母君に? ・・・何を?」

 侍女ははっとした顔になり、それから口をつぐんだが、相手が彼女ならばと思ったのであろうか、それとも、既に男女の関係となっている二人のことを見越しての事だろうか、口篭もりながらも話し始めた。

「・・・先王が早くに亡くなられたのには理由があるのです。あまり知られていないのですが・・・先王は現国王陛下がまだ王子であられた時に、王子・・・現陛下を助けるために亡くなられたのです」

「どういうこと?」

「―――――お二人が河に出られた時のことです。流れが急な場所へ誤って行ってしまい・・・先王は溺れた王子を助けるために河に飛び込まれ、王子を岸に上げるのが限界で、御自らはそれで力尽きて溺れてしまわれたのです」

「―――――」

「泳ぎの得意な方であったと・・・聞いています。よほどに急な流れだったとか」

 スキエルニエビツェはその光景を想像してみた。

 自分のせいで父が早い流れに飛び込み、自分を岸に上げるまでが精一杯で父が死んでしまった―――――それを自分で知っている。

 アスンシオンのあの影・・・なんとなくわかる気がする。

「先代の国王夫妻はそれは仲がよろしくて・・・王妃さまの取り乱し様は、それは凄かったといいます。前からあまりお優しい母君とはいえなかったようですが、その日から益々ひどくなられたそうです。王妃様が陛下を罵るところは、見ていられないと母がよく申しておりました。まるで地獄のようだと。その罵り様は尋常ではないと。恐ろしくて恐ろしくて、それが始まると皆物陰に隠れて耳をじっと塞いでいたそうです。聞くに耐えない・・・そんな形容がぴったりだと、申しておりましたわ」

「・・・・・・」

 自分が愛していた夫を死に致らしめたからといって、実の息子をそこまで憎むものなのだろうか? 愛していた男との子だからこそ、一層慈しむのでは?

「――――― 」

 しかしそれは価値観の相違には違いない。自分がそうだからといって、必ずしも万人がそうだとは限らないのだ。そして聞くところによると、何度も何度も公然とアスンシオンを殺そうとしていたという。毒杯をまわしたり、寝間に蠍を放ったり、稽古用の剣の、目釘という剣と柄とをつなぐ釘を一本外していたりなど、実際それが理由でアスンシオンは何度か生命の危険にさらされたという。

 スキエルニエビツェはようやく悟った。

 アスンシオンのあの瞳に宿る底無しの絶望と虚無―――。

 幼い頃より何よりの安らぎの園であったはずの母という存在に、正面きってひどく罵られ、憎まれ、果ては殺されかけたことが数度もあったのだ。何より愛し、何より慈しまれる存在であるはずなのに、こんなにも憎まれている。嫌われている。

 実の母に殺される!

 幼いアスンシオンの心に、それはどれだけの影を落としたことだろうか。不安でない時など一瞬でもない、振り向けば殺される、部屋へ行けば殺される、その椅子に座れば殺されるかもしれないのだ。

 母に! 幼いアスンシオンの心は一時たりとも安らぐ事がなかっただろう。それは実に十一年間、父王の死した日から即位の十六歳まで続いたという。

 よく狂わなかったものだ、スキエルニエビツェは思った。人間は生命の危険にさらされるという極度の緊張状態にいると正気を失う。

 緊張が長く保たないからだ。そして緊張という鎧を奪われ、恐怖に打ち勝てなくなって狂う。アスンシオンの強靭な精神力―――――それがものをいったに違いない。 しかし幼い頃から王位をめぐって凄まじい抗争を続けてきたアスンシオンが、一方で母に生命を狙われているというのは、いかな思いであっただろうか。それがどちらかだけならばまだよかっただろう。心が疲れても決して自分を安らぎに導く者はいない。夜が明ければ血を分けた者たちとの醜い争いを繰り広げなければならぬ。

 彼らが自分に毒を盛らないとも、母が自分に毒を盛らないとも限らぬ。それでは今持っているこの杯、これはどうだ? 毒が入っているのか? 入っているのならどちらだ?  叔父か従兄か、それとも母か? 食事の度、眠る度、椅子に座り庭に出る度、アスンシオンはそれらの恐怖と戦ってきた。たった五つの時分から。

 朝起きる。着替える。服に毒針が仕組まれていないか? 大丈夫。顔を洗う。盥の水も安全か確認が必要だ。歯を磨くにも、異常がないか確かめなければ。前に一度毒が塗られていたことがあった。

 量が少なくて助かったが、強運に救われただけに過ぎない。口を濯ぐ前にも、器と水とにそれぞれ異常がないか確認する。顔を拭くための布も要注意だ。部屋を出るとき、ノブにも気をつけなくてはならない。引き戸の時は、開けた途端に刃や仕込み槍が飛び出ないように用心しないといけない。庭に出るとき、或いは庭に通じている吹き抜けの回廊を通る時は、必ず五人以上の信頼できる兵士を置いておかなくてはならない。いつ誰が抜き身の剣を引っ下げて襲ってくるかわからないからだ。椅子に座る時は必ず指で押してみて何も入っていないか確かめる。香を新しく薫く時は誰かに必ず確認させる。最近読む本の位置が、置いた時と微妙にずれていたりしないか? 読書に手袋は欠かせない。紙に染みついた毒が、皮膚から吸収されるかもわからない、めくりにくいページを思わず指で舐めてしまうかもしれない。食事に毒味検分役は不可欠だ。それで十九人が生命を失い、七人が人事不省に陥った。入浴も油断ならない。入り口に三人、着替え場に三人、最低でもこのくらい配置しておかないと、こちらが一糸纏わぬ姿を向こうはよく狙ってくる。そしてやっと一日が終わり、眠りにつくからといって気を抜いてはならない。ベットに入る前に、天井やベットをよく見て、蠍や毒蛇がいないかを確認する。枕の色は変わっていないだろうか? 変わっていなければ大丈夫だ。毒針が入っていないかも確認する。そして眠る―――――枕の下の抜き身の短剣。

 外を兵士に守られているからといって敵が入り口から来るとも限らない。バルコニーから来ることもある。そしてやっと一日が終わり、また朝が来る―――――。

 慣れた頃に油断がやってくる。慣れたと思う度窮地に陥った。

 そんな生活をアスンシオンは、実に十一年間続けてきたのである。もっとも、即位は十六歳だったが、英雄や天才は早くから器が違うとはよく言うもので、十四歳の頃には、彼は叔父と従兄との抗争に勝ち、両者とも今はこの世の人間ではない。同時に長老や大臣たちを味方につけ、成人と共に即位した。しかし、彼にとって辛いのは、従兄や叔父との熾烈な戦いよりも、それが終わってからも尚安らぐことのない母の悪意、お前を愛していますよと珍しく優しく言った傍から、平気で毒針の仕組まれた服を着せようとする母の激しい剥き出しの憎悪ではなかったのだろうか。あれから多くの年月が経ち、多くの者は死んでいった。今それを実際にその目で見その耳で聞いた者はただ一人ユラデュラ将軍ひとりとなってしまった。

 自分は母にも愛されない―――――無条件で愛を注いでくれる唯一の人のはずが、憎まれ嫌悪されている。無条件で愛をくれるはずの人間にすら憎まれる自分の、何と価値のないことよ。

 深い絶望―――――。ああ・・・生きながら奈落の底に落ちていく気分だ。真っ暗できっとどこかを殴られてもわからない程に暗い。

 何の光も音もない・・・・

 光も

 音も・・・

 アスンシオンは飛び起きた。全身が汗に濡れている。見ていた夢のあまりの気分の悪さに手を額にやり、眉根を寄せる。鼓動が早まっている。ふと顔を上げると、誰かいる。

「―――――陛下? いかがされました?」

 アスンシオンは一瞬それが誰かを忘れた。彼女は窓から差し込む青い光を背に、白い肢体を浮かび上がらせている。

「・・・・・・」

 その光の中で微笑む・・・スキエルニエビツェ。

「・・・お前か・・・・・・」

 汗を拭いながら、アスンシオンは弾む息をおさえて呟いた。

 夢・・・なんと嫌な夢か。もう忘れてしまったと思っていたのに。

 奈落へ落ちていく夢。愛する人間に蔑まれ、愛する人間に憎まれる。愛する人間に嫌悪され、愛する人間に裏切られる夢を。

「陛下?」

 スキエルニエビツェがそっと覗き込む。その美しい身体。美しい瞳。それにもまして負けることのないその心。

「汗を・・・悪い夢でもご覧になっていたのですか」

 側にあった布で自分の汗を拭いながら、スキエルニエビツェは聞いた。その手を取り、言葉に答えずに、アスンシオンは言った。

「起きていたのか・・・」

 スキエルニエビツェは闇の中でふっと微笑む。

「月が美しかったので」

 ふと窓に目をやると、確かに凄い月だった。生きているかのようにおおきく、蒼いのにどこか銀色で。人を喰ってしまうような美しく恐ろしい月だった。



 『 母上? 』



 どこかで杯が割れる音がした。いや、幻聴だ。

 アスンシオンはため息をついた。裸のせいか肌寒い。大分前から起きていたのだろう、スキエルニエビツェは普段肌着とされる薄衣を一枚羽織っている。

 突然身体を奪った自分を怒っていないのか、尋ねた自分に何のことだと答えた。そんな彼女を愛した。

「・・・・・・母が死んだ夜もこんな夜だった」

「・・・」

「凄まじいほど月が近くて・・・青かった」

 アスンシオンは夜着を上から羽織って窓に歩み寄り、月を見上げた。

 瞳を閉じると思い出す―――――ゆっくりと床に落ちる杯、血を吐く母。そして倒れる。 杯が割れる。一瞬の静まり、そして蜂の巣をつついたような凄まじい騒ぎ。その中に立ち尽くす自分。憎まれていた、蔑まれていた、それでも自分が母を愛していることに気付いた一瞬だった。

「母は・・・よく私に毒杯を回したものだった」

「―――――」

「皮肉なことに・・・死んだ直接の原因は杯に盛られた毒だった」

 スキエルニエビツェはアスンシオンを見上げた。その背中・・・紫星といわれるほどに孤独な背中だ。そこには万人を愛しながらも誰にも理解されない淋しい男の姿があった。

 国王でもない紫星でもない一人の男。

「・・・・・・」

 スキエルニエビツェは窓辺に歩み寄り、その背中にそっと寄り掛かった。

 その暖かさ・・・アスンシオンは救われた思いがした。 v

「・・・もう休まれた方が」

「・・・わかっている。わかっているが――――― もう少し」

「・・・」

 二人の夜は長い。


 琳藍は正月を迎えた。

 古くからの習慣に、一月の一日から七日までを占うやり方がある。

 一日から六日までがそれぞれの動物の日とされ、晴雨によってその日に該当の動物の繁殖を占う。最後が人の日で、この日も同様、晴れれば吉、雨が降れば凶と出る。

 一月一日 鶏日 晴

 王宮ではこの日、早朝から庭に鶴を放つ。昨年からの積もった雪の中を、美しい声で鳴く鶴が遊ぶ様はこの上なく美しい。こんな中、鶴と楽師とどちらの声が美しいかなどと競わせるのはつまらないもの、人は人、鶴は鶴、種が違ければまた声も違う。

 スキエルニエビツェはこの日、いかにも冬らしい雪の下(表白・裏紅梅)という出で立ちで、琳藍で最初の正月を迎えた。早いもので、あたらしい年号桔は二年目を迎えようとしている。今頃、この新しい年号にした張本人は、その金髪をさざめかせ故郷にいるに違いない。

 一月二日 犬日 晴

 この地方独特のならわしだが、正月二日に赤米を食すという。一年の息災を祈り、何事もないようにという思いが込められているのだそうだ。スキエルニエビツェは赤米というのは初めてで、赤飯のようにほんのりと赤いに違いないと思っていざ挑むと、本当に赤いのでひどく驚いた。他にはめでたい時にしか食べないので、あまり作られることもないが、その代わりに欠かせないものでもあるという。

 一月三日 羊日 晴

 この日、国中で花を飾る。どんな花でもよい、部屋いっぱいでも、たった一輪でもいいのだ。これは花の美しさとはかなさに人の一生を重ね、いつも美しくただ懸命に生きることを忘れないための教訓であるという。山に囲まれた国のせいだろうか、こうした風習が多く残っていて、普段こういうものにあまり接しないスキエルニエビツェとしては少々肩がこる。

 一月四日 豚日 晴

 四日から俗に職人と呼ばれる職種の者たちはいっせいに仕事を始める。職場なり工房なりに皆で集まり、小さな小さな杯に満たした酒でこれから一年の仕事をやっていこうという儀式を行なうのは、どこの国でも一緒である。

 一月五日 牛日 曇

 商売人はこの日から仕事を始める。初競りといって、一年の最初の競りのことを指す言葉だが、この日だけはいつも締める黒い帯を赤にして市に向かうという。その日は一日中赤い帯を身につけて福を呼ぶ。

 一月六日 馬日 晴

 正月を迎えてから等しく人々が働いているのがこの日である。農夫や医者、その他の直接人の生命にかかわるような仕事をしている者たちは、この日が仕事始めである。これで国中どこを見ても働いていない者はいないということになる。街も王宮もこの日から気分一新、門や入り口裏口、窓などの飾りを外し、また魔除けにしていた札も全て取り払う。

 一月七日 人日 雨

 先祖に無事正月を迎え、全ての人間が障りなく仕事を始められたことを報せるためどこの家からも赤い布を棹に結び、午後まで高々と掲げる。この日は、空を見上げると色々な赤い布がひらひらと風に舞っているのを見ることができる。喪中の人間は黒い布を庭から掲げる。そして六日に取り外した札などを午後以降から各家庭で燃すのだ。一月七日は午前も午後も、空がにぎやかな一日となる。



   花信 梅風の後

       菜香 人日の前

       東郊 三十里

       吟歩して春妍を弄す

       煙淡くして樹を遮らず

       水流れて自ずから田に入る

       閑遊 何ぞ興を限らん

       千古 斜川を憶う



 さて一月も七日を過ぎれば通常の日々の落ち着きを取り戻す。この日は晴れていて、雪が河のような音をたてて溶けていくほど陽射しも強かった。だからといっていつも着ているような冬の服を着ないと寒いのはどうしたわけだろう、そんなことを思いながら、アスンシオンは池の固い蓮の蕾を見ていた。その円い葉の上には真っ白な雪が降り積もっている。

 女性の場合の衣装は小袖、唐衣、ごく限られた上流の、もっと限定して言えば貴族と王宮の人間しか着ることを許されない襲など様々なものがあるが、身分の上下に関わりなく共通しているのは何度も説明する通り色である。たとえそれが小袖でも、襲の色目で女たちはおしゃれを楽しむ。翻って男性の衣装は簡単なもので、旗袍とよばれるものがこれである。国王も農夫も、商売人もこれを着る。身分によって違うのは素材や柄で、絹か綿かの違いくらいだろう。柄も、凝っていたり刺繍がしてあるものから、無地のものと幅が広い。

 旗袍はまず、襟がひどく詰まっている。見ているだけでは息が苦しくないのかと思うこともあるが、見かけほど苦しくはない。だから、国王も農民も、必ず採寸をして身体にあった旗袍を作らないと、首元がとても苦しい。形としては身体にぴったりと沿っており、線がくっきりと見える。そして歩きやすいように裾が好みの長さに切られる。これが基本的な形である。裾の長短にもよるが、これだけでは女の衣装のようなので大抵の男たちはこれを上半身に着、下半身はそれこそ戦に行くときに鎧の下に着るような、短衣がそのまま長くなったようなものを着ている。特に決まった名称はないようだが、受と呼ばれているようだ。

 しかしどれだけ裾が長くとも、彼らは受なしの、旗袍だけで外を歩くようなまね決してはしない。女でいうなら下半身裸で歩くようなものなのだ。男性用の衣装だが、男性限定というわけではなく、貴族が狩りをするときなど女性が着たりすることもある。女性が着るとまた違って見え、新鮮ということもあるが、ほどよく切られた裾から足がすらりと見えたり、身体の線がくっきりと見えたりするので色気がある。また数少ないが女で軍人をしている者もたいていは女の格好を嫌がるため旗袍を着る。

 基本的に男性の衣装の場合は女性のそれほど色にうるさくない。女の方は夏に冬の色を着たり、春に夏の色を着たりすることはかたく禁じられている。葬式を冗談にするのと同じくらいの禁忌だと思えばよい。瞳の色とよく似た萌葱色の服を着るアスンシオンは、溶け始めとはいえ雪の白の中でよく目立つ。彼の着る萌葱と萌黄は字の違いもあって、前者は濃緑、後者を若緑色としている。

 その姿に見惚れながら、ウィラミナは己れの考えの正さを実感していた。柱にもたれる身体の力も抜けていく気がする。

 なんと美しいのだろう! あの静けさ。あの力強さ。彼が自覚と共に己れの魔性に目覚めれば、どれだけの人間が心酔していくことか。彼こそは生まれながらの英雄、天性の王者なのだ。ウィラミナが勝利を確信してぐっと拳を握り、この千載一遇の好機をものにせんと柱の影から動きだした時、向こうから響く透き通った声が彼女の耳を突いた。

「陛下―――っ」

 サラサラサラサラと衣擦れの音もにぎやかに、スキエルニエビツェが髪をゆらめかしながら走ってくる。その黒く長い髪が舞う様は、黒い虹が幾重にも重なったかのような幻を垣間見せる。

「―――――」

 ウィラミナは好機を逸した。スキエルニエビツェの登場で出ていく呼吸を失ったというのと、邪魔者が現われたという二つの理由からであったが、どのみちこの瞬間ウィラミナがスキエルニエビツェに対して凄まじい敵意を抱いたということは動かしようのない事実であった。

「お前か。どうしたずいぶんにぎやかだな」

 息を切らし、微かに顔を上気させて、スキエルニエビツェはきらきらと汗の光る顔を向けて笑った。

「だって随分探してしまいましたわ。黙っていなくなってしまうのですもの」

「そうか。庭があまりに静かだったものでな」

「それよりいいものを見つけました」

 そんな二人の会話を聞いて、ウィラミナは悔しさのあまり血が滲むほど唇を噛みしめていた。あの女・・・! どうしたことだあの国王の笑顔! あんな穏やかで安心した、慈愛に満ちた笑顔は? 魔王は冷酷だからこそ魔王、魔王は、あんなに人に対する愛情を見せ付けるような顔をしてはならない!

 ウィラミナは悔しくて悔しくて、地団駄を踏みたい衝動に駆られた。それをしなかったのは、廊下で誰が見ているかわからないという、彼女のプライドである。ぎゅっと拳を握るその手から、薄く血が糸のように引いているのにも気が付かなかった。だから、アスンシオンが今まで誰にも見せたことのない穏やかで幸福そうな表情をしているということにも気が付かなかった。

 ウィラミナは二人が仲睦まじく庭から本宮へと入っていくのを、いつまでも見ていた。


 スキエルニエビツェは、例えば酒場で世界の美女を三人挙げようという話題になったときにその中に入ったり候補になったりすることは、まずない。しかし五人挙げようと言われれば、最後の適当な一人が浮かばない時など、その中に数えられることはある。彼女は絶世の美女というわけでは決してない。人は何に対しても極端なものを求めがちだ。

 彼女を最高に美しいといえば賛辞には聞こえるが、実際彼女より美しい女は世に大勢いるし、彼女自身そんな女性を幾度となく見てきている。好みの問題でこちらが美しい、いやあちらの方がというのではなく、「彼女より」美しいのだ。凄まじいほどの美女というのはその場に現われただけで空気を緊張させ、人の口を開けたままにさせ、異性も同性も身体が痺れるほどに圧倒してしまうのだ。本当にそういう美しいひとびとはいるのだ。スキエルニエビツェは彼らとは一線を画している。彼女は確かに美しい。どれくらいかと聞かれればやはり人並み以上のずっと上なのだから歩けば人が振り向くし、ため息もつかれる。しかしウィラミナのように、例えば道に現われた途端にざわめいていた人々がさーっと波のように静けさが広がっていくようなことはないし、買物にいって少年に恋を期待させるようなこともない。見惚れていて釣銭を忘れさせれる程度である。しかしそれは翻って言えば、スキエルニエビツェが自分の容姿を何とも思っていないからなのだ。これで自分にとっては普通、これで当たり前だと思い特別美しいともこれで一国を傾けようとも思っていないのだ。特別美しいことに変わりはない。彼女以上に特別美しい女がいるだけのことだ。

 彼女は楽師である。生活の糧を歌うこととし、そして滞在するだけで国の誉と言われるほどであるから、それに相当する報酬を払うことのできる王族や、ごく一部の上級貴族が日常の相手であるわけだ。そして今のようにほとんどを国王だけを相手だとか、妃に呼ばれたりして歌うことはあっても、大体は宴で歌うことが多い。だから逆にいうと、歌っているときの彼女は気配を隠す余裕すらなく全力を歌に傾けるため非常に美しい。人が我を忘れる。美しい声で鳴く鳥は鳴いている時が一番美しいのと同じで、彼女もまた、歌っている時こそが一番美しいのだ。

 だからといってスキエルニエビツェが楽師をやっていることを非常に好きだとか、そういうことではまたない。好きかといわれると好きだが、そう言われると彼女は首を傾げたくなる。好きだとかそういうレベルではなく、「歌っている自分」が当たり前、それが素の自分で、歌っていない自分は考えられない。好きだけではやっていけないほど旅は辛いし、一所におさまればいいのにそうしないのは一所におさまるのが好きではないからだ。そうはいってもスキエルニエビツェが人目を引いて美しいということに変わりはない。 

 ウィラミナと並べば―――――ウィラミナの方が数倍美しい。

 スキエルニエビツェは「普通の」美女だが、ウィラミナは「とびきりの」美女だと思えばいい。ウィラミナにはそれが気に入らない。どうしてどうでもいい人間はあれだけ構われて国王だけが私に無関心なのだ?

 私は美しくないのか? 否。それではあの楽師の方が美しいのだろうか? それもまた否。それでは国王があの楽師に惹かれ自分には一瞥もくれないのはどうしたことだ?

 これが自分より美しい女であれば、彼女も納得しすんなり事実を受け止めただろう。しかし違うのだ。だからこそ余計に悔しい。自分のどこが悪くて自分より劣った女が何故国王に気に入られるかが、今のウィラミナにとって最大の関心事であった。

 そんな春のある日ウィラミナとスキエルニエビツェが廊下ですれ違った。相手は高位の女官である。スキエルニエビツェは立ち止まって恭しく一礼し、そしてまた歩きだそうとした。

「―――」

 ウィラミナのプライドが強烈に刺激された。スキエルニエビツェに非はない、ただ悔しくて悔しくて、ウィラミナが癇癪を起こしただけの話だ。

「―――お待ち」

 冷たい、ぞっとするほど低い声だった。側の侍女が思わずびくりとしたほどだ。

「――― はい?」

 スキエルニエビツェも立ち止まってこたえる。非礼はなかったはずだ。ああそれとも、部屋で一吟を所望するというのだろうか?

「なんのつもりで陛下に取り入っているかは知らぬが・・・」

 これには側の侍女も仰天した。日頃のウィラミナは、決してこのようなことを言う女ではない。一体何があったのだ?

「―――」

「あまりいい気にならない方が良い。あの方は琳藍に君臨するお方。お前のような者が本気で相手にされているわけがないのだ。慎みなさい」

 言うだけ言うと、ウィラミナはサラサラと衣擦れの音も小気味よく、歩み去ってしまった。ウィラミナに付いていた侍女も、思わず立ち止まって、戸惑いがちにスキエルニエビツェと顔を合わせ、そして慌ててウィラミナの後を追って行った。


 無論スキエルニエビツェはこのことをアスンシオンには言わなかった。

 ウィラミナがアスンシオンと男女の関係にあるという事実は、過去にも未来にも、そして今現在も当然のことながらない。

 平生のウィラミナにはちょっと考えられない言動に侍女・女官たちは動揺し、先程の事はあっというまに侍女の間に広まった。そし結論づけられた事実はただ一つ、ウィラミナは「ぶっていた」ということだ。言い方がそぐわなければ、「できる女」、「美しい女」であることを、「鼻にかけていないふり」をしていたというのが妥当だ。気が付かなかった自分たちに女官たちは悔しがったが、彼女たちが悪いのではなくウィラミナが一枚も二枚も上手だったということだ。またウィラミナ自身、自分のそういった内面に気づかなかったということもある。彼女はこのことをきっかけにして初めて自分の隠された内面に気づき、抗うことなくそれを受け入れたということになる。しかしウィラミナが美しく仕事のできる人間だということに変わりはないし、女官たちが彼女に何か不愉快なことをされたという訳でもない。結局、女官たちの間では、あの方にもそんなところがあったのね、欠点のない人間なんてそうそういなものなのだわ、という結論に収まった。それは日頃スキエルニエビツェの身の回りの世話をし、特に彼女とも親しい、アスンシオンとその母との確執を話してくれた侍女の耳にも当然入っていた。

「・・・あまり気にされていないようですわね」

「まあね。何をされたってわけでもないし、あんなことは珍しいことじゃないわ」

 スキエルニエビツェは苦笑した。今までは言われた嫌味は事実無根のことだったが、今回はそうもいえないということだ。

 彼女のように旅の空に暮らしていれば、たいていの事に怒りや苛立ち不安を感じたりすることはなくなってしまう。スキエルニエビツェ自身の性格も手伝ってはいるが、明日何があるかわからぬ放浪の身は、いちいち今ある不安材料に心を砕いていても仕方がないのだ。

「今宵も?」

「多分ね」

 スキエルニエビツェは髪を解き、櫛で梳りながら静かに答えた。

 今宵も、とは、今夜もまたアスンシオンの部屋に行き、乞われるままに歌を吟ずるのかということだ。そしてたいていはそのままアスンシオンの部屋でアスンシオンと共に時には肌を重ねないまま朝を迎える。最初はアスンシオンの部屋に着替えがあるわけでもなく、大分に困ったものだったが、今はこの侍女が朝アスンシオンの着替えと共に持ってきてくれる。今はもう、ウィラミナのような高位の女官が彼の着替えを手伝うということもない。

「明日はいかがいたしますか」

「・・・そうね・・・梅(表白・裏蘇芳)にするわ」

 そんな会話が交わされる。そうすると、彼女は次の朝指定した襲を持ってきてくれるのだ。部屋を入ってすぐ衝立があるので、スキエルニエビツェはそこで受け取り、そこで着替える。それからアスンシオンを起こすのだ。国王の身辺は、今や世話する女官の手がいらないほどにまでなっている。女官たちは恐ろしさと緊張の連続である国王の世話から解放されたことを喜び、また気立てもよく話のしやすいスキエルニエビツェと、彼女の口から聞かされたアスンシオンの意外な一面を知り、そんなスキエルニエビツェとアスンシオンがそうした関係になったことを喜んだ。

 それを聞いたウィラミナの怒りがますます膨れあがったことは、言うまでもない。女官たちが用無しになったということは、自分もそれに含まれるということなのだ。憤怒の表情でその話を聞くと、怯える侍女も気に留めず、持っていた鏡を床に叩きつけて割ってしまったほどだ。

 そんなことをしていたらアスンシオンの魔性がますます損なわれてしまう! 早く人から離さなければ、早く自分が覚醒させなければ! 

 ウィラミナは行動に出た。今まで周囲を気にして何もしなさすぎた。向こうに自覚がないのなら、こちらが持たせるまでのこと。アスンシオンは毎夜スキエルニエビツェを召喚するらしい。その前に部屋に行くのだ。

 アスンシオンは一人で窓辺に座り、水で割った酒を飲んでいた。月に照らされ、その姿がなんとも美しい。

「・・・ウィラミナ・・・? なにをしている」

「陛下・・・」

 ウィラミナはため息まじりで呟いた。

「陛下は、やはりそういう器の方なのですわ」

「?」

「まるで魔王のようです、陛下・・・氷のように、月のように。 冷たく恐ろしくそして何より魅惑的で・・・お手伝いをさせて下さい陛下。貴方が魔王になるお手伝いを」

「・・・」

 深い緑の瞳が一瞬スッと細められた。無造作に束ねた銀髪が、さらりと音をたてて広がる。紐をゆるくしていたので顔をそちらに向けた途端に外れたのだろう。

「―――」

「陛下・・・?」

「退室してくれ」

「!・・・・陛下」

「何も言うことはない。出て行ってくれ」

「―――――」

 屈辱で身体が小刻みに震えた。アスンシオンはまた窓の方へ目をやり、自分など最初からいないようにふるまっている。唇を噛んで、ウィラミナは走るようにして退室した。

 アスンシオンは眉根を寄せ・・・・額に手をやった。

 魔王。冷たくて恐ろしくて。氷のように。

 所詮自分はそのようにしか見られぬのか・・・・どのように歩み寄っても通り一辺の評価しかされないのが悲しい。理解しているつもりで晒される無邪気な無理解ほど深く食い込む刃だということを、本人たちはわかっていない。

 この苦しみはいつまで続くのだろうか・・・自分が解放されるときは来るのだろうか?

「陛下?」

 柔らかい声。窓にさす光が届かない場所にスキエルニエビツェがいる。途端に心が和らぐ。張りつめていた糸がゆるむようだ。歩み寄ったスキエルニエビツェを、それ以上放っ

ておくことができずアスンシオンは強く抱き締めた。抱き締めてそのまま、春の夜に溶け込んでいった。



 五月―――早咲きの蓮がちらりほらりと池に見える季節である。もっとも蓮の本番はやはり夏なので、夏の蓮の美しさに到底五月の蓮がかなうはずもない。それでいて初夏の美しい陽光に光るその姿は、また夏の蓮とは別の美しさを醸し出しもしている。

 将軍ユラデュラは、この五月の蓮が苦手である。この日も吹き抜けの廊下から庭に咲く蓮を見、沈鬱な表情をしていた。

「・・・」

 ふと顔を上げると、向かいの棟の窓から、やはりアスンシオンが蓮を見ていた。アスンシオンはユラデュラに気が付くと、何もなかったかのようにスッと窓から離れて姿を消した。

 やはり覚えておいでか・・・ユラデュラは気が重くなった。

 池に早咲きの蓮が開く頃、アスンシオンの母は死んだ。毒殺されたのだ。そもそもそれは叔父からアスンシオンに回されたものであった。知っていたのか知っていなかったのか母はそれを飲んでアスンシオンの代わりに死んだのである。ひどい苦しみようで、死ぬ間際まで辛い死であった。愛する夫を死に致らしめた呪われた子供だとアスンシオンを憎み

何度も何度もその手で殺そうとしていた。

 ―――しかし幼い彼は知っていただろうか。

 ユラデュラはふとそんなことを考えてしまう。いや、恐らく知らなかっただろう。恐らく長じてのちも、アスンシオンは知らなかっただろう、当事者であるがゆえに。憎しみの対象であったがゆえに。

 蓮を見ながらユラデュラは重いため息をついた。

 瞳を閉じると、その光景がまざまざと浮かぶ。従者が恭しく差し出した杯をアスンシオンが受け取り、相手が相手だけに断れない様子であるのを、母がこういって横から杯をとったその光景が。珍しく母の機嫌がよかったあの日。

 『あらアスンシオンいらないの? 

  それではわたくしが・・・』

 にこやかに言って杯を傾け・・・そしてゆっくりと倒れた。

 ユラデュラは深いため息をつく。まだ言えないでいる。母が息子を愛していたということを。愛されていないという絶望的な疎外感で、今の孤立したアスンシオンがいるということをわかっていながら。また彼の母が、叔父からまわされたあの杯が毒杯だと知っていて、わかっていて、それでいて断ることのできない相手だというのを知っていて、身を挺して息子を守ったということを。思えばそれが最初で最後の母親らしいことであり、ひどく不器用な愛情の伝え方でもあった。

 あの方はご存じない・・・平生あの方に毒杯を回し、またそれが露見するように仕向けたのも御母堂で、またあの方を守るためにあの時叔父上から回された毒杯を御母堂が敢えて受けたという事を・・・



 〈アスンシオン 陛下を奪い死に致らしめた憎い息子〉

 〈この身が燃え上がらんばかりに狂おしいまでに憎く恨めしい我が息子〉

 〈殺しても飽き足らぬほど憎い〉

 〈死ね・・・! 死んでしまうがいい呪われた子供〉

 〈お前は災難と呪いを呼ぶ忌まわしい厭わしい子供〉

 〈憎くて憎くて恨めしい息子〉

 〈殺してやりたい程憎く・・・〉

 〈―――――・・・・・・そして愛する息子〉



 ポロ・・・ン・・・

 リュートの音が静かに庭に響いた。

 あの楽師が、庭のどこかで歌っているのだ。



       寂寂たる幽荘 山樹の裏

       仙與一たび降る一池塘

       林に棲む孤鳥 春沢を識り

       閖に隠るる寒花 日光を見る

       泉声近く報じて初雷響き

       山色高く晴れて暮雨行なる

       此により更に知る 恩顧の渥きを

       生涯 何を以てか穹蒼に答えん



「・・・・・」

 沈痛な表情でそれを聞いていた老将の心は、いかばかりであったろうか。

「スキエルニエビツェ、とは一体どういう意味があるのだ?」

 突然何の前置きもなく、アスンシオンが空を見上げながら聞いた。

「さあ・・・わかりません。大した意味はないと思います。意味自体ないと思いますわ」

 アスンシオンは顔をスキエルニエビツェの方へと向ける。

「美しい名前だ。スキエルニエビツェ。・・・・宮殿の者はなぜお前をスキエルと呼んだりイオシスと呼んだりするのか」

「・・・私の名前を略せず全部お呼びになるのはあなただけですわ陛下」

 ホロン・・・



       碧玉 妝成りて一樹高く

       万条垂下す緑糸の篠

       知らず細景誰か裁出せしを

       二月春風 剪刀に似たり



 歌を聞きながらアスンシオンは自分の戦いに思いを向けていた。多くの敵と戦わねばならぬ、それは無知や無理解、あるいは無進歩であり、形がないだけ彼が苦戦を強いられることはわかっている。それでもやらなければならない。今こそ自分が国王になった意味を問うべき時、自分はこのために国王になったといっても、過言ではないのだ。そう、このために自分は伯父や従兄との骨肉相食む戦いを繰り広げ、母までも犠牲にして昇りつめたのだ。与えられた使命は果たさなければならぬ。

 平生物静かなアスンシオンの肌の下にはしかし、今までにないほどの熱い血が脈々と流れたぎっていた。



 夏になった。梅雨が本格的になる前に、もう一度堤の件について重臣たちと話し合わねばならない。相変わらず頭の固い彼らは難色を示し続け、会議は連日夜遅くまで続けられた。納得できない、国王の言うことが理解できない、そんな言葉を何度聞いたことだろうか。さすがのアスンシオンも苛々し通しだった。とにかく容認できない、その一点張りで

あったのだ。連日連夜、同じことが何度も何度も繰り返された。説明を繰り返し、質問と欠点のあらさがしの連続、それにいちいち答え、またそんなことはないと自ら地図を出し

て説明する。彼らの狙いはわかっていた。どれだけの説明をされようとも、納得できないと言い張り続ける。持久戦に持ち込んだのだ。いつしか国王も憔悴し疲れ果て、諦めることだろう、そういう魂胆からの粘りであったのだ。

 アスンシオンにとっての一番の打撃は、ユラデュラすらもわかってくれないという事であった。彼は真っ向から陛下、私はこの考えには賛成しかねますと渋い顔で言ったのだ。

 これは痛かった。あまりにも痛烈な心の動揺に、アスンシオンはその場で会議を終わらせ、部屋に引き篭もってしまった程であった。それを聞いてまた、ユラデュラも心をひどく痛めた。次の日から彼は病欠と称してこれ以上国王と衝突するのを避け、登城しなかった。



       西は横塘を過ぎて水は堤に満つ

       乱山高下 路 東西

       一番の桃李 花開くの後

       惟だ青青草色の斉しき有り



 蒸し暑い夏の日の午後、涼しい風のように吹き抜ける透明な歌声。それは、あたかも下界の大きな戦ですら天からしてみれば些細な事、当人が思っているほど事は大きくないのだと、諭すかのような歌い方だった。堤をどうこうしようと、所詮それも天の意志と。そしてそれを聞いて、アスンシオンはとうとう決断を下した。孤立してでも意見を押し通す決断をである。

 七月。噂を聞きつけて、遥か劉深の大貴族でアスンシオンとも懇意のリドルグ伯爵がやってきた。劉深は海辺の国で、両手一杯に広げた腕よりさらに広い海を臨むことができる

という。リドルグ伯は大いなる関心を堤に示し、アスンシオンの奇抜で斬新な考えをひどく褒めそやした。到着の翌日は、遠方からの旅の疲れを見せることもなく、堤の視察に自らついていったほどだった。アスンシオンの案内で見せられた堤はなるほど完璧で、しかも理論的だ。伯爵は感心してうなづき、

「素晴らしい考えです。成功には時間がかかりましょうが、そんなに遠い未来のことではないでしょう。そうすればあなたが毎年頭を悩ませている洪水もなくなり、多すぎず少な

すぎず水が循環して民も豊かに暮らせるというものです」

 アスンシオンはその言葉に珍しく口元に笑みを浮かべてうなづいた。海辺の人間は山の人間のように閉鎖的ではない。新しい考えは、人や自然のためによいことなら何でも取り

入れる。琳藍が海辺の国であったなら、アスンシオンの今の立場も少しは変わっていただろう。

 遠方からやってきた客とその従者が、その長旅の疲れを完全に癒した頃を見計らって、琳藍では盛大な歓迎の宴を催した。気付きにくく気付かれにくいことだが、到着の翌日やその次の日などは、疲れすぎて酒を飲んでもすぐに眠くなるし、にぎやかな宴の席にいても気疲れするばかりなのだ。そういうところまでをわかりきって宴を采配したアスンシオンの手並みはやはり優れているといってよかろう。



       乳鴨の池塘 水浅深

       熟梅の天気 晴陰半ばす

       東園に酒を載せて西園に酔い

       摘み尽くす 枇杷一樹の金



 涼しい風に乗せて庭からスキエルニエビツェの歌声が聞こえてくる。

「素晴らしい歌声の楽師をお持ちですな」

 にこにこしてリドルグ伯は言った。劉深でもかなりの大貴族だというのに、そんなところは少しも感じさせない、非常に人間のできた男である。

「スキエルニエビツェ・ガラードといえば私も知っているほどの楽師です。あなたはお幸せだ」

「―――」

 アスンシオンはこたえる代わりに薄く微笑んだ。ほう、とリドルグ伯は心中感心していた。昔の王は、誰にも理解されずに苦しい立場で、国民の幸福をいつもいつも切に思っているのに評判がいまいちよくなく、いつもいつも孤独でいた時の彼は、こんな顔は絶対にしなかった。突き放すような緑の瞳、剃刀を思わせるその切れ長の瞳は、視線を奔らせただけで空間すらも切り裂いてしまいそうだった。固い表情と張りつめた空気を持つ男だった。

 涼しい風がまた庭から吹いてきた。庭からは船遊びをしている人々の声が明るく聞こえてくる。しばらくすると見た目にも涼しい根菖蒲(表白・裏濃紅)の襲を纏ったスキエルニエビツェがやってきて、国王と国賓に恭しく一礼すると、リドルグ伯に何か希望の歌はないかと聞いた。

「お任せしましょう」

 にこやかにリドルグ伯は言い、どうぞ定座へ、と彼女を促した。思慮ある言葉にスキエルニエビツェは蓮が開くような笑顔で応え、いつも玉座の間で歌っている場所に座るとなめらかな手つきでリュートを奏で始めた。

 ポロ・・・ン



       梅子金黄 杏子肥え

       麦花雪白 菜花稀なり

       日長くして籬落に人の過ぎる無し

       惟だ蜻蜒蟯蝶の飛ぶ有るのみ



 それは一時の贅沢であった。宴はにぎわっており、やろうと思えばまたそれらを静めさせることすらできたのに、スキエルニエビツェは敢えて聞いている二人だけに歌を披露したのだ。身体が震えるほどの透き通った声を間近で聞いて、リドルグ伯もしばらくは口が

きけないようであった。真の楽師とは己れの声を制御し周囲の反応をも制御できなくてはならぬ。スキエルニエビツェの声は夏の夜空に吸い込まれるように透明なものとなって夜空へとけこんでいった。

 ほどよい夏の暑さ、時折吹く涼しい風、紺青の空には、けだるげに星が輝いている。


「今日はよくやってくれた」

 星明かりにスキエルニエビツェを見ながら、アスンシオンは今日の彼女の働きをねぎらった。実に彼女は、十曲以上をこなしたのである。

「いいえ陛下」

 わざと明かりを点けず、星明かりの下で微笑むスキエルニエビツェを見て、アスンシオンは自分が真実この女を愛していることを実感した。己れの想いの激しさを持て余すほどに彼女を愛している。

 現在アスンシオンは、国王としての力量を問われる人生最大の事業を進めようとしている。桔二年の五月から、いよいよ本格的に竹垣の堤や石を積んでの堤を造り始めているのだ。今年の梅雨には間に合わないが、例年特に被害のひどい場所を選んで先に堤を造っておき、梅雨に間に合わないでも、今までの被害を半分にするくらいは可能との判断を下した。

 しかしこれは彼にとっても大きな賭けであった。側近連中は無論、すべての長老大臣たちや将軍たちの反対を受け、それにも関わらず強引に押し進めてしまったのである。口で言ってもわからないのなら、結果でわからせるしかないとアスンシオンは判断したのだ。まだまだ実験段階だし、これで完璧に洪水を防げるとは彼も思っていないが、せめて被害を半分に減らすことができれば、今まで反対していた連中も納得せざるを得ないし、何より民が泣かなくてすむ。反乱分子が密かに動きだしているなどということは露とも知らず、アスンシオンは一世一代の賭けに自ら打って出たのだ。そしてもうすぐ梅雨本番がやってこようとしている。しなければならないことは山とあり、またもしもの時の対策も考えておかなければならず、今のアスンシオンに他のことを考える余裕はまったくないといってもよかったはずだ。

 なのに、そんな時ですらスキエルニエビツェのことを考えてやまない。気が付くと彼女のことを考えている。いつも側にいたいと思う。この痛みを分かち、彼女と喜びを分かちたいと願っている。胸が締め付けられ、時々夜、突然目を覚ましては不安に駆られる。離

したくない。こんなに大切な時にも彼女のことが気にかかる。愛しているのだ。

「・・・」

 目をそらして、窓に目をやりながらアスンシオンは呟くように言った。

「・・・何か歌を」

「はい陛下」

 スキエルニエビツェは心得、スッとそこへ座り優雅な手つきでリュートを奏で始めた。

 長い前奏であった。

 ロ・・・ォォォンン・・・

  ォオオオンン・・・



       梅子 黄ばむ時日日晴れ

       小渓 泛び尽くして却って山行す

       緑陰 来時の路に減ぜず

       添え得たり 黄鴬の四五声



 その歌声を庭で聞いていたリドルグ伯は大いに感心した。やはり音に聞こえし楽師は力量が違う、劉深で、あの美しい海の側であの歌声を聞けたら、どう聞こえるだろう。

 どこから流れてくるかわからない歌声は、その後もしばらく続いていたが、リドルグ伯はその声の届かない自分の部屋へと戻っていた。



 ウィラミナは宴の片付けをしながら、あれをしてやろうこれをしてやろうと思っている割には何もできない自分を見つめる羽目となっていた。なぜだ? あの楽師。あの楽師に廊下で言ったような事の十倍、百倍の嫌がらせをするつもりでいたのに。悔しくて夜も眠

れず、その起きている時間を憎しみのエネルギーとして燃焼し続け、あんなことをしてやれこんなこともしてやれと画策していたのに。どうして何もできない? やろうと思っていざ動くと準備に念がいっていないのに気が付いて茫然として機会を失う。そして気が付

く、そんな嫌がらせをするのには、それなりの人材が、つまり自由に使える人間がいるということも、彼女たちの口が固くなくてはならないということも。残念ながらそんな人間はいない。ウィラミナは同性との馴れ合いが大嫌いなのだ。嫌われてはいないが彼女だけ

の味方をするほど好かれてもいない。ウィラミナは気が付いていないが、この間のことで彼女はかなり他の侍女・女官たちの顰蹙をかっている。スキエルニエビツェは彼女たちに非常に好かれていたし、悪いのは完全にウィラミナであることを賢い彼女たちは知っていたのだ。そしてウィラミナは気が付く、自分が出来る女、というのは、仕事だけ、用意されたものだけに対してであって―――やり慣れないことや知らないことを実行するに致っては、まるきり自分が「無能」だということを――― 。

 それは、あらゆる面において「完璧」で「賢い宮女」であったウィラミナには、あまりにも衝撃が強すぎた。皆が皆そう思っていた、いや、ウィラミナ自身でさえも、そう思っていたのだ。今までそんな機会がなかったので気が付かなかった? ・・・ウィラミナは茫然としていた。初めて味わう、正真正銘の「挫折」だった。

 これより先、ウィラミナは仕事面以外での己れに自信を失い、アスンシオンを手に入れたいとは思いながらも、自分の無能さゆえ何もできない自分を鏡のように見つめ、そのたびに歯噛みすることになる。

 歯噛みしてなお、この女にはもう、何もできなかった。



 将軍ジラードは宴の後―――・・・国王とあの楽師について考えていた。実はこの間偶然見てしまったのだ、あの楽師と国王が庭で語り合っている姿を。

 それは美しい光景だった。

 光に包まれて―――・・・なんという強い信頼で結ばれた瞳の輝き。自分は、国王のあんな顔を知っていただろうか。あんな顔をするのか。いや、もしかしてあれが彼の本性で、嫉妬と劣等感で曇っていた自分の目が、アスンシオン自身の真の姿を曲げていたのだとしたら、―――――・・・自分はもしかしてとんでもない勘違いをしているのではなかろうか? なんという穏やかな笑顔・・・。

 ジラードは意味のない罪悪感に苛まれていた。自分は、国王にあれだけの嫉妬と劣等感を感じ憎悪するほど国王のことをよく知っていただろうか? あれだけいつも恐ろしい顔をしているのは、そうでもしないとつけこまれるだけの敵と戦ってきたからなのでは? 

  ―――――どうなのだ

 ジラードは考えた。考えて考えて、彼は己れの思考があちこちに入り乱れるのに降り回されて動きを封じられた。

 その裏で、着々と陰謀が張り巡らされていることに気付きもせずに―――。



「―――――スキエルニエビツェを?」

「まあご承知して頂けるとは思っていませんよ。言ってみただけです」

 相変わらずにこやかにリドルグ伯は言った。劉深にスキエルニエビツェを貰い受けたいというのだ。柄にもなくアスンシオンは焦った。手に汗が浮かび、その手をぐっと握り締めてやっと答える。

「・・・申し訳ないのですが・・・」

「だめでしょうな、やはり」

 微塵の期待もしていなかったような顔をしてリドルグ伯は笑った。

「大変申し訳ない」

「いえいえ、私の言うことの方がおかしいのですよ。元々あの楽師は旅に旅を重ね気にそまぬ場所には剣を突き付けられても行かないとか。そんな鳥を閉じこめてしまっても、自由を恋うて死んでしまうだけのことです」

 リドルグ伯はそう言って話題を堤の方へ向けた。彼の滞在中一度水が増水したが、堤のおかげで洪水にまで発展することはなく、被害は最小に食い止められたという。堤の損傷も少なく、やっと明るい兆しが見えてきた。

「成功したあかつきには劉深でも使ってみたいものですな」

「その時にはまたいらして下さい。より高度な堤を完成させてお待ちしております」

 そう言ってアスンシオンは国境まで彼を見送った。二十以上も歳の違うアスンシオンに少しも気取らずに接するリドルグ伯は、彼にとっても数少ない良き友といえる人だった。

 そう、今やアスンシオンは、最古参で父親の代わりでもあったユラデュラすら敵にまわし、文字どおり孤立無援で一人戦っているのだった。

 半年後、もう一度正式にリドルグ伯よりスキエルニエビツェの事に関して申し入れがあった。アスンシオンは考えた末、当のスキエルニエビツェに希望を聞き、それによって返事をすることにした。

「どうだ?」

「・・・」

 終始興味のなさそうな顔でその話を聞いていたが、スキエルニエビツェは一瞬後に、

「行きませんわ」

 と、何とも素っ気なく答えた。

「そうか」

 アスンシオンも幾分ほっとしたものの、それ以上は何も言わず、窓の外を見て肘をついた。それだけでこの二人は心が通じあうまでになっていたのだ。



       古より秋に逢えば 寂寥を悲しむ

       我は言う 秋日は春朝より勝ると

       晴空 一鶴 雲を排して上れば

       便ち詩情を引いて 碧霄に到らしむ



「・・・」

 アスンシオンは公務が何もない時、こうして自室の窓際に座っては、終日肘をついて空を見ていることがほとんどだ。そんな時スキエルニエビツェは、アスンシオンの背中に言い様のない孤独を感じる。誰にも愛されず、理解されることなく、愛すれば愛するほど突

き放された孤独な青年。剃刀のような鋭い瞳はしかし、何よりも優しい光で人を見る。何故そのことに誰も気付かないのだろう? 整いすぎた恐ろしい顔立ち。それだけで彼は幼い頃から人に蔑まれ恐れられてきた。彼が一輪の花に微笑む優しさを持つことを誰も知ら

ないのだろうか。紫星に例えられるほど非凡で、気高く、恐ろしいと言われる彼。実は普通に生き、普通に愛し愛されることを望んでいるということを、一体誰が知っているというのだろう? 愛されていないと認識して育った子供は普通に望まれてこの世に生まれた

子供よりも辛い宿命を持っている。愛されていれば普通に当たり前に与えられたものを、零から自分で手に入れなければならないからだ。それには大変な努力が必要だ。

 誰も立ち入る事の出来ない、人を突き放した孤独な背中―――。スキエルニエビツェは胸が痛んだ。

 アスンシオンは彼女の方をちらりと見ると、側に座るよう小さく言い、しばらくして呟 くように話し始めた。

「巷の人間が私を『紫星の男』と呼ぶのは聞き及んでいる」

 再び窓に目をやりながらアスンシオンは静かに言った。美しい琳藍の秋の空は、濃い青色に冴え渡り、地上の緑と競うかのように静かに光っている。

「紫星のように気高く恐ろしく、そして孤独だと・・・――― 。

 その言葉を否定することは私にはできない。私は見ての通りの恐ろしい男、やる事なす事、王として当たり前と思ってやってはいるが未だ人々に受け入れられた試しはない」

「・・・」

「スキエルニエビツェ、私は紫星のようになりたいとは思わぬ」

 庭に目を馳せ、空に目を馳せ、アスンシオンは静かに言った。それは近寄りがたいほどに威厳と静けさに溢れ、そして相変わらず孤独だった。

「人が何と言おうと・・・・私のような者があの偉大な星であるはずがないのだ。

 私は例えるなら一吹きの風でいたい――――― ・・・紫星の脇を通り紫星に吹くたった一陣の風に・・・」

 それから彼はスキエルニエビツェの方に向き直り、

「これを」

 腰帯につけていた飾りを外すと差し出した。

 それは白い玉で出来た飾り玉で、人差し指程の長さの円柱の形をしており、〈雙龍吐水〉という古代のもので全部で四匹の龍が刻まれている。飾り玉は高貴な生まれの男性にしか使用を許されない一種の装身具で、昔は求愛のために男がこれを送り

女は色良い返事として一枝の果実を返したというが、彼はそういうつもりで渡したのではないだろう。飾り玉のほとんどは白玉で、それらのものは大変貴重なものとされているが「美女が琴を弾く時の肌のようだ」とまで言わしめたなまめかしい白さを持つこの飾り玉

は、いったいどれだけの価値があるのだろう。頂の部分から渋い茶色の紐で結わえ、その上に小さな朱色の玉が飾りになっているのも、なんともおくゆかしい。

「陛下・・・」

「よいのだ。お前にもっていてほしい」

「・・・」

「スキエルニエビツェ」

 スキエルニエビツェは顔を上げた。

「あの歌を聞かせてくれ。季節外れなのはわかっている。わかっていて敢えて頼む。どうしても今・・・・・あの歌が聞きたいのだ」

 瞳を閉じて沈思し・・・スキエルニエビツェはこの男の言うことならと決心した。奇妙なことではあるが禁を犯すことにはならない。それでいいというのなら、楽師の自分がどうして断れよう。

 ホロ・・・ン・・・・

 ロォォォンンンンン・・・・・

 ホロ・・・ォォン・・




       牆角 数枝の梅

       寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり




 アスシオンは瞳を閉じた。暗闇に浮かぶ白い梅。気高く香り高く咲く白い白い梅の花。

 そのしなやかな枝はあたかも柳のような白い肢体、その白さは輝くような笑み、一里離れて尚匂い濃いその香り高さは、生きざまそのもの。

 いったい誰が・・・この目の前にいる楽師以外の誰が・・・私が普通に暮らしたいと望んでいるということを信じるだろうか? 地位も名誉もいらぬ、ただ自分が愛し自分を愛してくれる者と静かに生きていきたい。不安も何もない、心安らぐ暮らしをしてみたい。

 きまぐれに旅をし、他国の人々と交じり、豊かな生き方をしてみたい。次の生が一体何かは見当もつかぬが、どんな辛い暮らしですら、この胸にぽっかりと空いた大きな穴を抱えて生きていくよりはましに違いない。

 その自由な生活に想いを馳せながら・・・―――――アスンシオンは指を組んで静かに言った。

「側へ」

 スキエルニエビツェの細い肩を抱きしめながら若い王は思った、こうしてこの白梅の精と共にいられるのなら、この苦痛の内に生きていく我が人生も悪くないものだと。

「陛下・・・」

「陛下ではない。―――――・・・・・・アスンシオンと」

「・・・・・・アスンシオン様」



 吐息と肌とを交わしあった後、スキエルニエビツェはそっと起きだして窓の外の夜に目を馳せ、そして傍らで眠る若い国王を見た。

「・・・」

 髪をかきあげ、そっと息をつく。

 スキエルニエビツェは普段自分の感情を現わさない。無感情とかそういうものではなくこれが好きだとか嫌いだとかそういう感情を滅多に持たないのだ。歌の世界を喉で造り上げる楽師は、なるべく自分の感情を交えずに歌の世界の独立したものを造り上げなくてはならない。だから、万に一度でも誰かに特別な感情を抱くとしてもそれは淡いものになる。憎しみも愛も、ほのかに香るか香らないかの花の香りのように、自分でもよくわからないほど淡く頼りないものなのだ。旅の暮らしを長く続けてきて色々なものに感情的に執着するだけ、流れ者はいつか去るということを考えると、それも虚しく、却って旅立ちを辛くさせてしまう。旅の楽師たるもの、旅立ちに断腸の思いを味わうようでは失格といえよう。長い間そういう生活をしてきたスキエルニエビツェの、それは悲しい性といってもよかった。

 そして今、スキエルニエビツェは生まれて初めて感情が赴くままに一人の男に抱かれている。  誰かにこれほどはっきりとした愛情を抱くのはこれが初めてであった。好きなのか? それすらもわからないが、しかし愛しているとどこかで心が納得する。そしてこの男に止められ、この男がいるのなら、自分は今まで続けてきた放浪の旅をやめてしまうかもしれない、そんなことを思ったりもしている。 それはずっと旅を続けてきたスキエルニエビツェの人生では劇的なことであった。

 隣で微かに寝返りをうったアスンシオンの気配に気が付いて、スキエルニエビツェはひとまず考えるのはよそうと思った。

 自分がこれほど愛しいと思うのなら、それはそれでもうよいことだ。感情と運命に身を任せればいいのだ。

 スキエルニエビツェは再び横たわってそっとアスンシオンによりかかると、すべてを忘れるように眠りについた。



 天がすべてアスンシオンに味方したかのような年であった。その年の洪水は、琳藍でも記録的な被害の少なさだったのだ。アスンシオンは己れの正さを実感し、今年の幾つかの失敗を事細かに記録して来年に応用しようと心を奮いたたせていた。しかしその裏では、

国民の間に国王は何かよからぬ事をして悪魔のようなものとでも契約を交わしたのだろうか、ひいてはあの恐ろしい顔は悪魔が化身したものだったのかなどという噂までもまことしやかに流されていた。冬になって吐く息も白くなった頃、そんなアスンシオンを打ちの

めす事があった。

「陛下。やはり私は理解できません。自然を人為的に動かし操作するなどというのは、天の意志に逆らう事以外に考えられません。いつか罰が下るに違いないかと」

 私室にわざわざ現われたのは他ならぬ将軍ユラデュラであった。目顔でスキエルニエビツェを退室させると、アスンシオンは真剣な顔でユラデュラを見据えた。

「・・・本気で言っているのか」

「はい」

「―――――私がどのような思いで民を気遣っているかも?」

「陛下。民と天の怒りとどちらが大切なのですか。我々は天に生かされる存在。所詮は民も我々も天あってこそなのです。なのに民の安全を考えて天に背くなど」

 アスンシオンは胸を突かれる思いだった。これだけ、これだけ言っているのにわからないのか。わかってくれないのか。相手が大臣連中や側近ならばここまで絶望したりはしない、敵の多い人生を送ってきて、王位に就いて尚自分には無数の敵がいた。政敵も戦の敵

もいた。そのどちらも自分を能く補佐し、守り、時には意見して曲がった道を行かないようにしてくれたのがユラデュラであったのに、今またその長年の唯一の同胞すらも自分に背を向け刃を向けようというのか。悲しみにわなわなと唇が震え、顔が歪むのがよくわかった。それを抑えようと必死になり、眉根を寄せる。そしてそれすらも隠そうとして、アスンシオンは片手で顔を覆った。

 果てしない絶望感―――――それは永遠に続くのだ。

「とにかく私は理解できません。今日はそれだけをお伝えに参った次第です」

 それはユラデュラのこれからの位置をはっきりと伝えるためのものだった。アスンシンは何も言わず、ユラデュラは一礼して退室した。

 どれだけ周囲が反対しても道を曲げようとしないアスンシオンに、ユラデュラは最後の別れを告げに来たのだった。それは、もしかすると言わなくてもいいことであった。アスンシオンは一度、会議においてユラデュラが反対であるということをわかっていたのだから。しかしアスンシオンは、心のどこかでは、この自分のことをすべてわかってくれている老将が、今は反対で理解はできなくとも、必ずいつの日がわかってくれる日が来ると思っていた。

 だからこそ、今一度、今度ははっきりと反対の意見を真っ向から述べられて、アスンシオンは打ちひしがれた気持ちになった。

 目に見えない何かにすべてを奪われた気がして、アスンシオンはそこに座ったままでいた。



 しかし無慈悲な天はさらに苛酷な運命をアスンシオンに与えた。それは、彼が堤を造ったことに関して怒りをぶつけているのではない、それが彼の運命、彼の運命というよりその年の琳藍の河に課せられた運命であった。アスンシオンが堤を造っただけで天の怒りをかうならば、とうの昔に滅亡している国は世界で百を下らない。琳藍は山間の国だけに、考えが古いだけなのだ。

 とにかく打ち拉がれたアスンシオンに痛恨の一撃が下された。

 それはある日突然やってきた。

「大変です! 表の嵐のせいで河が増水しています!」

「付近の住民を高台に避難させろ。そこも危険というのなら城下に」

 てきぱきと命令を下しながらアスンシオンは何の危機感にも襲われていなかった。夏のあれだけの連続的な雨を乗り切ったのだ。季節外れではあるが冬の嵐はそれほど強いものではない。アスンシオンはそれを知っていた。琳藍の梅雨をのりきった竹と石の堤が崩れ

るはずかないということを、経験から知っていた。

 しかし。

「陛下! 下流の堤が次々に流れに破壊されていると・・・!」

「何・・・」

 アスンシオンは絶句した。そんなはずはない。そんなはずがないのだ。

「一体どういうことだ」

 立ち上がり現場を見てきた者と話し合うためアスンシオンは会議室を出た。ざわつく会議室をみまわした若い将軍ジラードは、そこに大臣ハールツェルがいないことに一抹の不安を覚え、自分もひとりそっと退室した。

 ヒュウウウウ・・・!

 ゴオオ!

 ―――ザッ

 ひどい嵐であった。宮廷のどこを探しても、誰に聞いてもハールツェルの行方がわからないことに益々不安になったジラードは、外套を羽織って城を飛び出した。嫌な予感がした。城下をしばらく走り、次第に木々が深くなっていき、横殴りの激しい大粒の雨に打た

れながらジラードは河に沿って走りに走った。濁った茶色の水がまるで生きているかのように激しくうねり、逆巻き、狂暴なまでに猛っている。いつもは青鈍色ブルーグレイの神秘的で美しい河の流れはどこにも見られなかった。堤の一つを見つけそれに走り寄っ

て崩れ具合を見たジラードは、一つの確信をもって下流を目指した。自然が崩したのではない人為的な痕跡が縄目に見られた。刃物で切った痕だったのだ。

 そしてジラードはとうとう探していたものをその鷹のような鋭い眼力で見つけると、風と雨と河にかき消されそうな声を必死に張り上げた。

 ゴオオオオオ!

「大臣!」

 大臣ハールツェルはびくりとして硬直した。そしてゆっくりと振り向く。

「やはりあなたか・・・・どういうことです、これだけの堤に損傷を与えるとは! 一つか二つ、しかもあまり損害のない場所にするのではなかったのですか!」

「ふっふっふっふっ・・・・・だからあなたは若い。そんなことでは国王に勝つことはできませんぞ」

「違う・・・私は悟ったのだ。人間与えられた別々の器があると。そしてその器と器はまるきり違うものどうしで、四角と丸のどちらが優れているかを競うのと同じ、愚劣で意味のないことだと。私は私の器があり、その器には限界点もあれば他のものが持っていない才能もあるのだと。陛下は陛下で、私の知らないところで私と、いや私以上の器を持っているがために私以上の苦悩を味わっているのだと」

「今更遅い・・・あなたも共犯であることには違いない。あなたが訴え出れば私もあなたが共犯だと言いますぞ。それでもよろしいか?」

「部下にやらせれば罪科を恐れた何者かが裏切るかもしれぬという危惧から自らこんな場所へ赴いたあなたの卑劣さ・・・・もっと早く気が付くべきだった。目の前の欲に目が眩んだ私の罪だ」

「なんといってももう遅い・・・この縄を切りこの堤を流してしまえば、重要位置のこの場所は増水して取り返しのつかないことになるだろう」

「―――――今まで事実無根の噂を流していたのもあなたですね。陛下の悪い噂を流し国民の反感をかうように仕向けたのも」

「その賢い頭がもう少し早くは働けばこんなことにはならなかったでしょうなあ」

 侮蔑に満ちた笑いを浮かべ縄を切ろうとするハールツェルの背中を見て、ジラードはかっとなった。切らせてはならない。その思いだけで抜刀した。

「逆賊が・・・!」

 そして振り向いた大臣を袈裟掛けに斬った。

 ざしゅっという音がして、雨のなかに赤い血飛沫がぱっと椿のように散った。

「う・・・」

 額から血を流して、大臣がよろめいた。息を切らしたジラードはその様子をじっと見つめていた。

「おろか・・・ものが・・・・・」

 ハールツェルの言う通り、ジラードは若すぎた。そして甘かったのである。

 最後の力を降り絞った大臣は、よろめきよろめき堤に近寄ると、残った力を全部注ぎ込んで縄を切った。

 ゴゴッ

 ザザザザザザザザザアアアアッッッ

「! ―――――」

 絶句するジラードをよそに、堤と共に大臣は激しい濁流に飲み込まれていった。

 ジラードは嵐の中立ち尽くした。



       牆角 数枝の梅

       寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり



「陛下・・・アスンシオン様」

 スキエルニエビツェは気遣わしげにアスンシオンを見た。逃げだしてしまいたくなるほどの重責と圧力が、この男一人の両肩にのしかかって押し潰そうとしている。

 今回の嵐で琳藍は史上稀に見る大打撃を受けた。堤はすべて流され、死傷者は出なかったものの、春に向けて植えられた苗や種などがすべて流され、所々の水田も壊滅的な被害を受けた。蓄えは少なく、琳藍の民は飢饉の危機に晒された。

  だから言っただろう、国王は悪魔に我々を売り渡したんだよそうでなければあんなことがあるものか

  天がお怒りになったのさあんな堤を造ったりするから

  そうじゃない知らないのかすべてはハールツェル大臣がやったことらしいなんでも縄を自分で切って まわったらしいよ

  ジラード将軍もそれに一役かっていたらしいじゃないか

  そうじゃないあの純真な将軍がそんなことするもんか大臣に騙されたんだよ

 巷では色々な噂が飛びかった。それも生活の危機に晒されたという現実から少しでも離れたいという願望に過ぎなかった。年は越せるのだろうか、このまま、自分たちは飢え死にするのだろうか。

 そんな年の瀬も押し迫ったある日、将軍ジラードの審問会が開かれた。将軍は弁解するつもりはない、ただ自分はあそこまでするつもりはなく、大臣はその卑劣な行いのあまり斬ったのだと言った。それ以上は彼は何も言わなかった。ジラードを死刑にという声も高かったが、アスンシオンは一年の蟄居を命じただけだった。見つかった大臣の死体が縄の繊維の貼りついた刃物をしっかりと握っていたということもあったが、ジラードを殺してしまうのはあまりにも惜しく、そんな理由も特に見つからなかった。

 それより彼には国民の飢饉と今回の事に関する責任が重く突き付けられていた。堤の決壊の理由がどうあれ、最初から欠陥があったからあんなことになったのだと彼は会議の場で散々やり込められた。反論はできなかった。そうする元気すらなかったのだ。重臣の裏切り、頼りにしていたユラデュラの無理解。それだけではない、民の飢えは日に日にひどくなるばかりで、蓄えもそろそろ底をつく。彼は国王としてそれに対して対策を昂じ、なんとかして被害を最小限に食い止めなくてはならないのだ。

 だがどうやって? 蓄えはなく田は壊れ、種も苗も流れてしまったのだ。いったい何に希望を見ろと? 何かしたくとも、その何かが何もないのだ。こうして民と共に死んで行くのが運命とでも? 違う。自分はともかく、この失敗によって犠牲となった民だけは救わなくてはならない。

 天よ・・・これが私の運命なのか

 アスンシオンは空を仰いだ。

 冴え渡った空の青は、彼の顔までも青く染め上げて寒々と光っていた。



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