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七星譚   作者: 青雨
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黄昏の姫君




 天空にひときわ輝ける七つの星あり。

 総じて七星と云ふ。



                 第一章 黄昏の姫君



 時は烈、場所は麟--------。

 森の国麟に先頃嫁いできた花嫁は羶の第三王女弱冠十六歳、金髪碧眼、しかも美少女ともっぱらの噂だ。森の国の常なのか、それとも単なる環境なのか、麟にはそんなきらきらしい容姿の者はそうはいない。そのせいか、はたまた姫君の若さゆえか、或いはこの婚姻によって得られる羶との莫大な利益ゆえか―――――麟の人々はかの姫君を大層もてはやして迎え入れた。国王リンドハーストは御歳五十、既に四人の妃を迎えていながら、そしてこの婚姻の裏に潜む濃厚な政治的策謀を重々心得ていながら、女好きで知られる国王はゆるみきった表情で五人目の新妻、親子ほども年齢の違う、まだ少女とも言うべき幼妻を、自ら王宮の入り口までやってきて迎えた。

 森の国のならわしでは、王は新しい妃を迎える時、すべて季節のすべての色の襲を贈るというならわしがあって、前もって贈られたそれを携えて、新しい妃は自分の宮へ入る。 面白いことに、この度の姫は氷氷(白・白)の衣裳のみ返して寄越したとか。なんでも、自分で用意してそれを纏い貴方様の色に染まります、という文も共に送ったとか送らないとか。

 顔色を失ったのは宮中国王お手つきの女官たちもさることながら------四人の妃たちであった。

 麟の人間は先も述べた通り血統上黒を基調とした髪と目の色であるため、金の髪などというのはとかく珍しい。その上森の緑を映したような美しい瞳をしていて、若く、しかも美少女であるという決定的な事実がある限り、国王の他の宮通いは、当分望めそうにもない。無論、正妃と呼ばれる第一王妃が一番権力を持っていて、後になればなるほどその妃の立場が弱くなるというのは当然知られたことだが、他にもどれだけ時めいているかというのも大いに権勢を伺い知る要素となっている。たとえ第六王妃でも、時めいてさえいれば、時には第二王妃の上座に座ることさえ日常である。無論第一王妃を除けばの話だ。

 そして、初夜以降五日は新妻の元へ通わなくてはならぬという森の国のしきたりに従って五日間を新しい宮で過ごしたのちも、国王リンドハーストが他の妃たちのもとへ通うことはなかった。若く美しい小娘に、国王はぞっこんになってしまったのだ。

 新妻マリエンフェルデは、麗しいその名にも負けない容姿の持ち主、ぎくりとするほど大きな瞳は言うまでもなく森の緑、濃すぎず薄すぎず正に理想の緑、筆舌しがたいとはこの瞳のこと。息を呑むほど白い肌はなまめかしく、まさかに嫁ぐ前に男を知らぬ身体であったとは考えられぬほど。視線妖しくそれでいて清らかで、同時に三日月のように微笑むその口元の愛らしさは、他に例えようもない。緑の瞳を縁取り負けずに引き立てているのは、宮中の誰ぞが言ったように天女に触れられ吐息で染められたかのような、豪奢といっても過言ではない直ぐなる金の髪。いかな美しい染め物もこれにはかなわぬ。きらりと光り輝きを放つ様は太陽と並んでも引けをとらぬとはよくも言ったもの、羶が誇る芸術品といってもいいほどの、マリエンフェルデは美しい姫君であった。

 国王の新妻に対する溺愛ぶり、その噂ははすぐさま宮中を駆け巡り、勢いおさまらず放った矢のごとく国中に広まった。その端を発したのがマリエンフェルデが麟に嫁いできて十日目の出来事であった。

 既に婚前に贈っているのにも関わらず、国王リンドハーストは彼女の部屋に文字通り溢れんばかりの衣装をマリエンフェルデに贈ったのである。なんでも、あんな形式的なものではなく、ご丁寧にも自分で彼女に合う紋様や刺繍を自ら選んだのだとか。その種類も様々だが、やはり圧倒的に多かったのは、春という今の季節に合った大量の襲(衣裳)であった。

 リンドハーストがマリエンフェルデに贈った襲は、まず金春色(水色)と瑠璃(明青)の襲、藍白、または白殺しとも呼ばれるごくごく薄い藍、例えて言うのなら純白に千分の一薄めた藍をまぜたような、そんな藍白と露草(暗青)の襲。この二つはマリエンフェルデの金の髪に映えるようにとリンドハーストが選んだものだ。

 それから続いて春色の梅(表白・裏蘇芳)―――『蘇芳』は濃い紫みの赤―――

梅重(表濃紅・裏紅梅) ―――『紅梅』はローズピンク―――、裏梅(表紅梅・裏紅)、紅梅(表紅梅・裏蘇芳)、紅梅匂(表紅梅・裏淡紅梅)、莟紅梅(表紅梅・裏濃蘇芳)、若草(表淡青・裏濃青)―――衣装の『青』は植物の緑―――、柳(表白・裏淡青)、面柳(表濃青・裏濃青)、黄柳(表淡黄・裏青)、青柳(表濃青・裏紫)、花柳(表青・裏淡青)、柳重(表淡青・裏淡青)、桜(表白・裏赤花)―――『赤花』は紅が少し淡くなったもの―――、樺桜(表蘇芳・裏赤花)、薄花桜(表白・裏淡紅)、桜萌黄(表萌黄・裏赤花)―――『萌黄』は薄い黄緑―――、薄桜萌黄(表淡青・裏二藍)―――『二藍』は青みの紫。一見ダークグレーにも見える―――、葉桜(表萌黄・裏二藍)、菫(表紫・裏淡紫)、壷菫(表紫・裏淡青)、桃(表淡紅・裏萌黄)、早蕨(表紫・裏青)、躑躅(表蘇芳・裏萌黄)、紅躑躅(表蘇芳・裏淡紅)、白躑躅(表白・裏紫)、山吹(表淡朽葉・裏黄)―――『朽葉』はこの場合褐色味の黄橙色―――、裏山吹(表黄・裏紅)、山吹匂(表山吹・裏黄)、青山吹(表青・裏黄)、藤(表薄色・裏萌黄)―――『薄色』はごくごく薄い紫――― 白藤(表淡紫・裏濃紫)、牡丹(表淡蘇芳・裏白)―――の以上である。これらが贈り物としては想像を絶する数であることは言うを待たず、この話を聞いた第四王妃のトリゴリアは持っていた扇を思わず血がにじむほど握り締めてしまったという。

 まさしくマリエンフェルデの登場は容色衰え始めた妃たちを脅かす最高の種となりつつあった。絶世の美女とは、マリエンフェルデのことを言うのだろうと麟の国の人々は噂し合い、この世に二人といないとも囁かれた。

―――いや、「絶世の美女」は、もう一人いた。



       地 僻にして人煙断え

       山 深くして鳥語嘩し

       清渓 石歯に鳴り

       暖日 藤芽を長ぜしむ

       緑は映ず 高低の樹

       紅は迷う 遠近の花

       林間 鶏犬を見る

       直ちに擬す 是れ仙家なるかと



 妙なる調べに乗せて聞こえてくるはこれもまた玉かと思うほどの歌声―――春の鴬時鳥、或いは冬の雪景色の中池の蓮がはじける音か鶴の哀しげな声か。じっと瞳を閉じ震えがくるのを我慢しながら聞き入れば落涙は言うを待たず、時に感情豊かな歌を感情豊かに歌えば倒れる者もいるとは決して誇張ではない―――そんなこの世のものとも思えぬ凄まじいまでに素晴らしい歌声の持ち主は、一人リュートと呼ばれる弦楽器を爪弾きながら歌っていた。

 もしや? そう思う者も少なからずいる。そして、十中八九その予想は当たる。名を聞かずして彼女が何者かわかった者は大きくにうなづいてやはり、と納得し、名を聞いて彼女が何者かわかった者も膝を打って合点する。

 彼女こそは玲瓏なる喉と賞され、極上の玉が天鵞絨を滑り落ちるような歌声とまで世間に言わしめた現在最高の吟遊詩人の一人、放浪を続け諸国の王宮でその喉と美貌を人々に知らしめ、決してひとところに留まらず、また望まぬ君主には刃で威されようと決してその喉震わさぬという楽師、名を聞けば知らぬ者はいないという究極の歌師である。

 彼女の歌声を窓を開けて聞いていた第一王妃リンカニアは、しばらく黙っていたがやがて、そのなびくような素晴らしい歌声が完全に空気にとけこみ消えいってしまってからようやく口を開いた。

「ふ・・・」

 王妃は自嘲気味に口元を歪め、

「やるものよ・・・見事に春の草原の美しさを表している」

 と呟いた。すると後ろから、

「〈 少室山の南の高原は、人里遠く離れていて、人家の煙はまったく見えない。

   山の奥深くにあり、小鳥のさえずりがかまびすしいほど。

   清らかな渓流は歯牙さながらの岩にぶつかって瀬音を響かせ、暖かな陽光は木々にからまる    藤やかずらの芽を成長させる。

   みどり色が高く低くに生える木々に鮮やかに浮かび、

   くれない色が遠く近く一面に生える花にぼんやりと広がる。

   林の中を進んでゆくと、鶏や犬の姿が見えてきた。

   まるで仙人の住む家のようだ 〉。

 はじめて聞く歌ですわね」

 その声に王妃は振り向いた。麟で第一王妃である彼女にこんな口振りで話すのはただ一人、彼女専属の女官カストゥエラである。専属女官は属する妃と対等に近い口振りで話すことを許され、良き話相手良き相談役として友達のごとくそれでいて女官の役目をつつがなく果たすことのできる宮廷女官の中では選りすぐりのエリートである。国王よりも仕える妃に忠義が篤いとされる。

 膝折らず 低頭せずともよし 専属の女官 とは、巷でうたわれ専属女官の特徴をよくとらえた川柳だ。

「カストゥエラ」

「見事な歌声ですわね。せめてあの楽師が宮中に入るのならばよろしゅうございましたのに」

 窓際に立ち、朗々たる歌声で歌う楽師を見ながら、カストウェラはため息まじりで言った。女官でこのような振る舞いが許されるのも、彼女が第一王妃専属女官であるからに他ならない。王妃リンカニアは眉を密かに寄せ、カストゥエラの軽口を諌めるように言った。

「馬鹿な事を・・・羶とは元々政略結婚。双方互いにそれを納得づくで受け入れた婚姻ではないか」

「ですが悔しいですわリンカニア様。第二王妃が宮中に入った時も、あの卑しい商人の娘が入ったときも、傲り高ぶったトリゴリアが来たときも、陛下は一時は熱中されはしたけれど度を過ぎるようなことはされなかった。でもあの小娘が来てからは」

「およし」

 やんわりとそれを止め、第一王妃リンカニアは窓へ目を移した。

「たかが十六の小娘・・・美しく若いだけでは三日で飽きる。あの金の髪が珍しいまでのこと。じきに元に戻られよう、陛下も・・・病気はいつものことなのだから」

 見ると、岩の上でリュートを爪弾き妙なる調べを風に乗せていた歌師の元へ、従者がやってきて何事か告げ、二、三度うなづき返した彼女が、立ち上がって王宮内に入っていくのが見えた。



「お呼びですか陛下」

 楽師はリュートを携えて柔らかな衣音をさせ国王リンドハーストの召還にこたえた。

「おおスキエル。待ち焦がれたぞ」

 長椅子でくつろいでいたリンドハーストは手招きをして楽師を呼び寄せた。

「庭で歌うそなたの声が聞こえ居ても立ってもいられず呼んだ。何か歌ってくれ」

 口元に薄い微笑を浮かべ、楽師は軽く頭を下げた。サラサラサラと衣擦れの音をさせて直接床に座り、リュートを調弦してスッと瞳を閉じる。

「そうですね何を・・・歌いましょう」

 幼妻マリエンフェルデを迎えていなければ、自分は間違いなくこの女を宮中に入れようとしたであろう、無理とわかっていて尚----瞑目したまま調弦する彼女を見ながら、国王リンドハーストはそんなことを考えていた。

 スキエルニエビツェ・ガラード。

 珠玉の喉と呼ばれた美貌の楽師。彼女が麟に来たのは半年ほど前であった。

 輿入れの支度で賑わい大忙しの宮中。新しい宮の増設。

 心落ち着かず苛々として、ささくれた心持ちになっていた国王リンドハーストの元へ、彼女が現われたのはそんな時であった。

 リンドハーストは確かに他国でも噂になるほど好色だが決して誰彼構わずというわけではない。特定の女にとことんのめりこむのだ。そしてこれこそはと思い極めた者にしか特に執着を見せないのが彼特有の特徴ともいえよう。いい例が第三王妃ダエトである。彼女は元を正せば王族でも貴族でもないただの一介の商人の娘であり、街を歩いているところをリンドハーストが馬車の中から見初めたのである。

 好色な国王ではあったが、公私混同するほど愚かではなく、女性を日頃の公務の合間に見いだしたオアシスのように思っていたと言っても過言ではない。美術品をこよなく愛し、また芸術を理解する心を持っている辺りは、そこらの好色権力者とは一味違っているといえよう。だから、音に聞こえし珠玉の楽師スキエルニエビツェが宮廷で雇って頂きたいと申し出てきたと聞いたときは、すぐさま招き入れた。またスキエルニエビツェの方も心得ていて、歌や音楽を好まない、不粋で無学な国王がいるような国には決して足を運ばぬ。あくまで歌と音楽を心の底から愛し、その心で自分に純粋に一人の人間として歌を乞うる、そんな国王のいる王国を渡り歩いている。であるからこそ、好色と巷では知られていたリンドハーストではあったが、彼女を無理矢理宮中に入れたり、独占したがるような素振りは見せず、放浪が生活の一部で放浪を愛するというのなら、好きなだけこの国に滞在し飽きればまた渡り鳥の生活をするがよいと風流な言い回しで申し渡したのであった。

 さて、今日のスキエルニエビツェの衣装は季節に合わせた春色の襲、はっと息を呑むほど映える白躑躅(表白・裏紫)に生地紋様は青海波、これは春の襲の中でも特に彼女が気に入っているものだ。もっともリンドハーストがマリエンフェルデに春色の襲をすべて贈ったという話を聞いてからはよくよく注意して、今を時めく金髪の妃と同じ衣装にならないよう注意し、時には四季通用の襲で脂燭色(表紫・裏紅)と呼ばれるものを着るようにしている。四季通用の襲ならば春に季節外れの夏色を着るというような愚直極まりない真似をしなくて済むし、それにこの色は彼女の一番のお気に入りなのだ。まるで彼女のために誂えられ彼女のために創られ考えられたと錯覚するほどによく似合う。そのため、自分の舌の安全を考え長い彼女の名を呼ぶことを避け彼女を短くイオシス(紫紅色)と呼ぶ者も、時にはいる。

 スキエルニエビツェの瞳は、思わず眉を寄せて覗き込んでしまうほど澄んだ黒の色をしている。黒い月、射干玉もかくやと歌われたことさえある。何事をも見透かしすべてを知っているかのようなその瞳に見つめられると、何か後ろめたいような、知性の輝きに射竦められるような感じがしてならない。眉の形も美しく、眉目秀麗とはよくもいったもの。

 あらゆる歌を紡ぎだし万人を魅了してやまないその口元はいつも心なしか微笑んでいるようにすら見える。髪は、はるか冬葵の絹織職人を悩ませてしまうほどにつややかでなめらかで、夜の闇にとけこんでしまいそうに黒い。油を塗ったようにつややかで豊かなのに時に衣擦れの音か、髪の音かわからぬ場合も時としてある。

 このように長い黒髪を持つスキエルニエビツェの肌は、諸国を足で渡り歩いているのにも関わらず生まれてこの方陽光に当たったことがないのではないかと思うほどに白い。透けるほどに、抜けるほどに白く、それでいて決して病的な白さではないのだ。

 生まれが愁蓮だという事以外、彼女に関して知られていることは少ない。それ以上の経歴や、どこの師の元で経験を積んだ、だとか、家族のことやなぜ放浪を続けるのか、その経緯についても、知る者は一人としていない。知られるのはただその美貌と倒れたくなるほどの素晴らしい歌声だけ。しかし彼女の歌を聞く者にとっては、それだけで充分であろう。

 しばらくして王のいる広間から妙なる歌声が聞こえてきて、麟王宮の夕方を沈静で幽明かつなまめかしいものへと包み込んでいった。



 現在麟には五人の王妃がいる。

 まずは正妃第一王妃・リンカニア・ヴァラストファス・コルツォイフ。ヴァラストファスとは王家の名字である。

 妃の場合は、輿入れすると王家の名前の次に結婚前の名字を名乗るのがならわしだ。

 今年五十歳の国王と比べて彼女は四十、亜麻色の陽に透ける美しい髪と、明るい茶色の瞳で若い頃の王の心を射止めた。麟の上級貴族の出身で、家柄・家名と共に申し分なく、彼女自身の容姿と知性も他の貴族がこぞって推薦するほどのものであった。彼女は稀にみる才色兼備の才媛であり、王の第一王妃になるために生まれてきたような女であった。誇り高く頭が良く、女が泥沼にはまってしまうようないわゆる嫉妬などというものは下らぬとでも言いたげに目もくれぬ。若い頃から王宮の内部を取り仕切り、またその明晰な頭脳でもってして国王の良き相談役補佐役として苦労を国王と共に重ねてきた彼女の胸には、例え国王リンドハーストが夜の宮に来なくなり最早女として見られていないとわかってはいても、彼と共に国の現在を築き上げたという誇りがある。愛する国王を支え、またその愛する国王と共に愛する麟をここまでにしたという例えようもないほどの誇りが。

 だからこそ国王が第二王妃を迎えた時も、彼女付きの侍女たちはリンカニア様にご相談もなしに、となじるのを、夫が新しい妃を迎えるのに自分の許可が必要とも思わなかったし、リンドハーストはああいう男だから、自分一人では保つまいと初めからわかっていたような節があるので、別段悔しくも悲しくもなかった。

 見れば、第二王妃は確かに美しいがこれといって個性があるわけでもなく、じっと見ていると美しいのだが美しくないのだがわからなくなってくるような節がある。

 女の自分がこれだから夫もすぐに気付くであろう、思っていたら、案の定国王は半年も過ぎる頃宮通いをやめたらしく、国王の宮に灯りがつき始めることが多かった。

 飽いたのであろう。またこの時もその後も、新しい妃を迎えるのに際し国王は相変わらず彼女に何も言わなかったが、その話が宮中に広まった次の日辺り必ずやってきて、すまぬと短く詫びるのであった。

 リンカニアにはそれで充分だった。

 今までがこうであったのだから、今度も間違いなくそうだろうと思っていた。珍しいのは相手の金の髪と緑の瞳と十六という若さ。

 確かにどれも自分の持っていない、羨ましいほどのものではあったが、そして確かにあの娘のすべらかな肌を、金の絹髪を、宝石のような瞳を、美しいとは思ったが、しかしもう、心ときめくような事だとか、いちいち他の女人に嫉妬しかけたりやきもきするほどのエネルギーを、リンカニアは持ってはいなかったし、あるだけ面倒だと思っていた。


 第二王妃はアルマンソラ・ヴァラストファス・ザヴァルディである。

 彼女は黒い瞳とゆるやかにウェーブした黒髪を持つ、第一王妃リンカニアが月下の白い蘭ならば、いわば燦々と輝く太陽の下の真紅の薔薇のような華やかな女である。歳はリンカニアとは四つ違いの三十六歳。まだこれからが本番とでも言いたげに容姿はほとんど衰えず瑞々しさを輿入れした日から保ち続けている。やはり貴族の娘だがリンカニアの出身門戸とは桁が違う。相手が上級貴族ならば、彼女は「普通の」貴族といえよう。別段凄まじいほどの美女というほどではないが、存在に華があり目元涼しく口元がきりりとしている以外は、言うほどのものはない。しかし期せず彼女がにこりと顔を崩して笑った時の、その何とも言えない光が射すようなまばゆさは、常人にできるというものではないといえよう。また派手やかな見かけと違って、一緒にいても疲れないし心が優しいので男女を選ばず彼女といると心が和む。だから、二番目であるがゆえに正妃にいじめられやすい立場にあっても、 -------- リンカニアの性格も関与してはいるが ―――――正妃とは周囲が驚くほど仲がいいし、互いに尊敬もしているしまた妃同士にありがちな心中での憎悪や嫉妬の渦、罵倒の数々などもってのほかだ。

 リンカニアはアルマンソラのその気性を愛し、妃として妃を見るのではなく、人間として一個の人間の人格を見た時、それを愛したまでのことでだから、二人の間に確執はないといってよい。実際天気の良い日にはアルマンソラはよくリンカニアをお茶に誘ったり誘われたり、お互いの宮の行き来を今も絶やしてはいない。

 もっとも、そんな彼女もあの金髪の少女が輿入れした時は、気が気ではなかった。案の定あの日から向こう国王はどの宮にも通ってはいないし、二十歳も下の小娘に嫉妬するのも馬鹿馬鹿しいが ------いや、これは嫉妬ではなかった。そういう意味ではリンカニアの影響か、アルマンソラも女の愚かな一面がなくなってきたといってよかろう。気が気でないというのは何か、あの少女の出現によって何かとんでもないことが起きそうな、そんな胸騒ぎである。ため息するほどの金の髪、緑の麗しい瞳、あの若さ、嫉妬していないと言えば嘘だから、せいぜいちょっといたずらしてやるくらいの意地悪は、するつもりのアルマンソラであった。

 いつまでも少女のような女なのである。


 第三王妃はダエト・ヴァラストファス・リケルゾンである。

 彼女は唯一平民の出、元はといえば隣国の出身で、父親が商人をしている関係で成人後三年程で麟に移り住んだ。街を歩く彼女を国王リンドハーストが見初めたのである。

 麟の出身でないせいかアルマンソラと同じ黒髪黒瞳でも大分に違うようだ。アルマンソラのはどこまでも艶やかな黒だが、彼女のは日に透けると黒い玻璃を思わせるような透明感を醸し出す。あるいはそんな麟にはいない容姿の特異さが、国王の目を引いたのかもしれぬ。若い頃から他の同い年の娘たちとは一風変わっていて、己れの運命や人生を風の赴くままに任せてしまうような処があった。何事にも逆らわず、あるがままに受け入れる姿勢は正に自然体であるともいえた。そう、彼女は自然体でいることが好きなのだ。そのため結婚の記念に国王から贈られた、俗に言う結婚指輪すらもしない。どんな指輪がいいかと聞かれた時に、一言いりませんわと答えたのは有名な話である。例えば、誰かの家を訪ねその本人とも久しぶりに会うという時、土産物の一つとして花束を持っていくのはよくあることだが、無理して薔薇の花束を持っていくのではなく、道々咲いている野の花を両手一杯に、顔が見えないほど前がわからないほど持っていくような人間が、ダエトであるといってもいい。

 そんな彼女であるから、宮中の貴族出身の一部の女官たちから寄せられる半ば憎悪に近い視線や、日毎繰り返される嫌がらせにはびくともしなかった。だからダエトは、宮中にいる第三王妃としての自分の不幸を呪ったこともない。不幸と思っていないのだ。元々望まれ望んで輿入れしたわけだし、だからこそ今の自分の姿はこれで当然だとも思っている。例え別の事で不幸が彼女の身に去来したところで、彼女はそれを不幸と思わない強さを持っているのだ。

 強さというよりは、物事を柔らかく余裕をもって受けとめられるだけなのかもしれぬ。リンカニアやアルマンソラなどの先妃たちは、やはり彼女が来た当初あまりいい顔をしなかったものだが、それは彼女が第三王妃として彼女たちの立場を危うくしかねないということではなく、商人の娘と同じ妃として肩を並べる事に嫌悪を抱いたものらしい。しかし嫌がらせをしないのと同時に、彼女に特別関心を払おうともしなかった。つまり平民出身の彼女を始めから相手にしていないのだ。ダエトはそれをごく当然のこととして受けとめ納得こそすれ、恨んだり悔しがったりしなかった。 確かに彼女の父親は、先頃母と共に亡くなってしまったが、麟では相当の金持ちであった。幼い頃から不自由というものはこれといってしなかったし、どこへ出ても恥ずかしくないように他の商人の娘たちとは比べものにならないほど行儀見習いを仕込まれた。しかしやはりどれだけ金があったところで商人は商人、所詮どう頑張っても平民でしかなく、貴族とは最初から世界の次元の高さが別の場所にあるのである。王妃たちの誇りが傷つけられたのは、ごく当然の事であった。

 ダエトが輿入れして数年してからは、二人も彼女の自然体を好む姿勢を理解してきたようだ、公の場にいれば話し掛けもするし、時に、本当にごくたまにだが、二年に一度あるかないかの確率でお茶会を開いて共に季節を楽しんだりもする。彼女の穏やかで何よりも優しく暖かい心をわかってきたといって良い。だから今度のマリエンフェルデの輿入れも、また女官たちが騒ぎだしそうだと思いこそすれ、なるべくしてそうなったのだからと、至って落ち着いている。

 第四王妃はトリゴリア・ヴァラストファス・ヴァーゼヴィアである。彼女は、身分は中級貴族、容姿はその昔、百香からはるばるやってきた貴族に婚姻を申し込まれたというのだから、相当なものであるといって良い。従来高慢な性格であるのに加えて、美人でお姫さま育ちだから周囲がちやほやする。それだけを聞いても彼女の性格がおよそどのようなものか推して知るべきであろう。だからこそ、彼女は庶民出身で商人の娘、自分より容姿が劣る(と、自分で思っている)ダエトより下座に座らされたり、何につけても自分より彼女が優先されるのは我慢がならなかった。自分がいつも一番でなくては気のすまない彼女は、宮中に入ってより実に様々な嫌がらせや時に嫌がらせの一言では済まされないほどのことも随分してきた。

 ダエトは少しもこたえる様子がなく、そのたびに自分が元々悪いくせにダエトに対して悪口雑言を一人部屋で浴びせたり、第三王妃のありもしない醜聞を宮中に流したりもしたが、それらの半分はその身に跳ね返ってきたので、自分が悪いのを棚に上げて一層ダエトに対する憎悪を重ねて来た。最初から次元の違うダエトだけを、彼女は心底憎み公の場で蛇蝎のごとく嫌悪することもまるで普通の出来事であった。それでもリンカニアに取り入る態度だけは見事で、その媚びへつらう態度たるや、見るに耐えないとしか言いようがなかった。

 しかしそれはリンカニアのこと、涼しい顔で大して相手にもせずまた日頃ダエトに大して彼女がしていることを大方知っていた為、吹き込まれる第三王妃の悪口も、心にもないがゆえに貧弱な表現で似たような意味にしかならないお世辞も、聞くふりをして全然聞いていなかった。

 それに、リンカニアは平生、自分の侍女女官たちから聞かされるトリゴリアのダエトに対する嫌がらせを耳にしてさすがに眉を寄せ、第四王妃としてよりは、中級貴族出身の子女がする次元ではないと、一度呼び出して相当きつく叱ったことがある。そしてまたこの愚かな女は、自分が正妃にあんなことを言われるのは、ひとえにあの卑しい商人の娘のせいだと、ダエトに対する逆恨みをするのだ。そしてそんな愚かなトリゴリアが、ある恐ろしい企みを胸に抱き始めたのは、いったいいつ頃からのことであろうか。

 そんなトリゴリアは、まだ二十八という、若いだけでは決して生まれ出でない女の妖しさが滲みでる年齢、おや、と思うほどの美しい明るい茶色い髪と黒い瞳で、たかだか十六の小娘、自分が一番、自分の方がずっと美しいといつも思っているのでどうせ三日で飽きるだろう、その時には、目一杯着飾ってリンドハーストを魅了し誘惑し、あの可愛げのない小娘を見返してやろうと考えている。自分は絶対、必ず勝てると、彼女は思い込んでいるのである。

 そして第五王妃・マリエンフェルデ・ディファシオンである。彼女は麟に圧倒的に有利な条件の約束の証として羶から送られてきたいわば人質、羶の反乱を防ぐための柱であり盾であるが、ある企てのために羶がこの弱冠十六歳の少女を刺客同様に麟に送ったことを知る者は、今の時点ではいないといってよかった。

 そしてマリエンフェルデが輿入れしてより一ヵ月目、初めて王宮を上げての宴が催された。当然のことだが新しい妃を迎え入れる祝宴に他の妃たちが出席するわけもないので、公の場で妃たちが彼女に会いまみえるのはこれが初めてのことである。

 

 春の夜の宴、第一王妃リンカニアは四十という女の壮年の盛りにふさわしく、たしなみ深さを加えて梅模様の紋様の莟紅梅(表紅梅・裏濃蘇芳)の襲、白地に淡い桜の扇を持って落ち着きある正妃の堂々たる姿を見せ付けた。

 第二王妃アルマンソラは、艶やかなる黒髪と黒い瞳、何よりも妖艶なその姿を一層引き立てるかのような菫(表紫・裏淡紫)の襲。遊び心のあるこの女らしく、兎が杵で餅をついている模様が見て取れる。夜空に桜吹雪・三日月の扇を手にして周囲のため息を誘った。まこと美しき女人の滲む知性とそれをさらに覆わんばかりのたしなみ深さ落ちつきようはなにものに例えられようかと、麟の大臣達を大いに惑わせたものであった。

 第三王妃ダエトは無難に山吹(表淡朽葉・裏黄)の襲、模様は市松紋様、扇は気さくな彼女のこと、持ってはいなかった。

 第四王妃トリゴリアはその美しさ満開に匂えとでも纏った襲は牡丹(表淡蘇芳・裏白)、青海波の透け紋様。平生トリゴリアを嫌う侍女も彼女を陰ながら憎悪し、毒でも盛ってやろうかと画策する貴族上がりの女官たちも、その美しさに知れずため息をもらしてしまったほどであった。

 扇は払暁であろうか淡紫の、美しい空に月、手前に凛として咲く一輪の梅。性格はともかく国王リンドハーストはこの女の、こうした趣味の良さを愛したのであろうか。

 そして噂の新妻マリエンフェルデ、初夜より向こうその宮には毎晩灯りが灯るという今をときめく美しき幼妻マリエンフェルデは、日毎の国王の訪れによって固い蕾のようであった容姿も今は満開の牡丹か桜か、纏いし襲も梅(表白・裏蘇芳)に梅の大木の透かし模様という、その奥ゆかしい色合が却ってその若い美しさを押し出すかのように引き立て際立て、正に天女の光臨と誰かが思わず呟いてしまったほどであった。

 それぞれに個性を持った妃たちが宴の最高の華であったことは言うまでもないが、さらに後押しするかのように宴を後々語り種とまで言わしめたのは楽師スキエルニエビツェのその玉のごとき歌声であった。



       別院 深深として夏簟清く

       石榴開くこと遍く簾を透かして明らかなり

       樹陰 地に満ちて日午に当たり

       夢覚めて流鴬時に一声 



 まるで夢のように美しかった、後に人は語る。尽きない笑い、美しい妃たち、鼓膜がとろけてしまいそうに震えのくる凄まじく美しい歌声・・・すべて夢のようであったと。場内にはあらゆる場所に花が置かれその美を競い、ひとたび庭園に面したいくつもの大窓からその庭を臨めば、ため息尽きないその庭園の美しさに圧倒されて立ち尽くす。

 そんな中、初めて間近でマリエンフェルデを見た四人の王妃たちはそれぞれ感想を胸に抱いていた。

「なるほど美しい。なれど若くて美しいだけの娘なら巷にもいる。陛下もすぐ飽きよう」

 第一王妃リンカニアは平然としたものだった。彼女には若い頃から国王を支え現在の麟を築き上げたという誇りがある。その誇りの前では十六の娘のことなど意にも介されないようだった。

「まあ絹のような金の髪・・・------ふうん・・・なんだかいじめたくなる顔だわね」

 これは第二王妃アルマンソラである。彼女はしばらく爪を噛んでいたが、やがて見るものを当惑させるような笑みを浮かべると、

「・・・ふふ・・・いいわ。ちょっとからかってあげるのも座興でしょう。リンカニア様の分もね・・・いい退屈しのぎだわ」

 第三王妃ダエトは無反応だった。マリエンフェルデを見て、こくりとうなづき、自分専属の女官ギリアンに、

「とても綺麗なお方ね」

 と言ったのみである。

 もっとも過激な反応を示したのは第四王妃トリゴリアであった。

 国王リンドハーストと語らいながら浮かべるその笑顔、あまりにもあどけなく幼さの残る顔を見て、

「・・・まだ子供ではないか」

 唇を噛みしめて、うめくように言ったという。



       桃は紅にして 復た宿雨を含み

       柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ

       花落ちて 家僮未だ掃わず

       鶯鳴いて山客猶お眠る



 そんなうららかな歌声を聞きながら、マリエンフェルデは国王リンドハーストを密かに庭に連れ出した。内部に人工の庭をたたえ、いくつもの橋や回廊を持つ庭の奥ほどには、方亭と呼ばれる四阿のようなものがある。五角形の形をしたそれは、飛び石を越えて行かなければならず、池の上のさながら離れ小島のように感じられる。

 ここからだと、まるで宮殿の騒がしさは下界をのぞく天上のような静けさだ。微かに人々が語らい笑いあう声が聞こえ、時折楽の音がそこはかとなく流れてくる。空を見れば、紺青の空に刷いたかのような凄まじい星。真に美しい夜であった。四阿で抱き合う二人の姿が川面に映る。

「陛下・・・」

 そんな星空の下、金の髪をさざめかせ、妖しく伏し目がちにしたその青い瞳を見せ付けられたリンドハーストの心持ちは、いかなものであったろうか。その手を取り、しなだれかかるようにしてその胸元によりかかったマリエンフェルデは、これ以上ないほど艶やかな声で、こう囁きかけたものだった。

「お越し頂けるのが夜だけだなんて------ マリエンは寂しゅうこざいます。夜のみといわず、昼も、朝も、ずっとずっと陛下と一緒に時を過ごしたいのに・・・」

「マリエンや・・・」

 リンドハーストも、これは鼻の下を思いきり伸ばして、

「私もそうしたいのはやまやまなのだ。しかしそうもいかぬ。お主と過ごす夜のなんと短いことよ。朝事に赴くことがこんなに辛いとは今まで思いもせなんだ」

「それでは陛下・・・」

 緑の瞳が星空の下できらりと光った。

「せめて夜は、マリエンと一緒に過ごして下さいますわね? 約束して頂きとうございますわ」

「おおそんなことは言われるまでもない・・・しかし今日ばかりは客人をもてなしがてら政談をしなくてはならぬ。許しておくれ」

「本当ですわね。約束・・・他のお妃の元へ通われては、嫌でございます」

「無論だマリエン・・・・・・もうお前しか見えぬ、お前しか愛せぬ・・・」

 親子ほども年齢の離れた二人の囁き声は、星のみが聞いている・・・。


「姫様、お湯をお遣わしになりますか」

「ええティリア」

 窓から庭の様子を見ていたマリエンフェルデは庭から目を離さないまま答えた。マリエンフェルデの宮の、ここが寝室である。入り口の正面に彼女が今しなだれかかっている小さな窓があり、左奥には衝立、無論衝立の向こうはベットである。そして向かって右の隅から小さな通路を通って行くと、広い石の部屋となっており、ここは浴場である。丸い浴槽と、壁から突き出た獅子の口より湯が流れでる仕組みになっている。その中にゆっくりとその完璧なまでの肢体を沈め、マリエンフェルデはふう、と息をついて縁にもたれかかった。金の髪が砂金のように湯にたゆたい、ゆらりゆらりと流れている。

 その脇に香油を流したティリアに、マリエンフェルデはそっと目を開け顔を上げた。

「ふふ・・・別れ際の国王の顔を見た? 溶けてしまいそうにみっともなかったわ。あれではまとまる商談もまとまらなくてよ」

 くすくすと笑い強烈に夫を皮肉る様は、つい今し方まであどけない無垢な笑いと妖艶な囁きでもってして国王を惑わしていた少女と同じ人間とは、到底思えぬ。壷から香油を注ぎながら、ティリアはこれもまた口元に笑みを浮かべうなづき返した。

「完璧に私の虜ね。他愛がないとはまさにこのことだわ。見てておいで、その内に朝事の会議にまで私を連れていかないと気が済まなくなる」

「そうでしょうとも姫様」

 ティリアも強くうなづき返しながらマリエンフェルデの腕に香油を擦り込み始めた。ティリアは羶からマリエンフェルデについて来たただ一人の侍女である。つまりは専属女官であるといっていい。

「父君に報告をするまでもない・・・今にあの色惚けじじいをたらしこんでやるわ。それが私の使命ですもの」

 静かに湯が流れ出る音が続いている。しめやかな空気の中、マリエンフェルデの押し殺した笑いと香油の香りがからまるようにして流れ続けている。

「もっと香油を・・・」

「姫様。他の妃たちはいかがいたします?」

「ふん、あんなの取るに足りないわ。どうせたかが子供と高を括っただけに違いないもの。私をただの子供と思ったら大間違いよ」 

マリエンフェルデの口元に強烈な嘲笑が浮かんだ。

「ふふ・・・楽しみだことティリア」

「・・・」

 ティリアは答えず、黙々と口元に笑みを浮かべ、湯女に撤している。

 二人の会話は、立ち篭める湯気の中に消えていった。



 口々に悔しがっては若く美しいマリエンフェルデを罵る侍女たちを、リンカニアはさもうるさげに扇で払い退室を無言で命じた。癇に触ったというのなら、マリエンフェルデの第一王妃の自分に対する敬意のかけらも見られない態度より、そんなマリエンフェルデに対して口々に罵倒の言葉を自分に聞かせる侍女たちに対してであった。

「カストゥエラ」

「はいリンカニア様」

「・・・頭が痛い・・・・・・もう休む」

「ですがリンカニア様」

「カストゥエラ」

 リンカニアはふっと笑って女官の期待をたしなめた。

「陛下が来なさるはずもない。どうせ今宵は政談でどの宮にも行かれまい」

 そう言うとリンカニアはカストゥエラが止めるより早くサラサラと衣擦れの音をさせてベットへ向かって行ってしまった。カストゥエラは唇を噛んだ。

 リンカニアが悔しくないはずがないのだ。

 彼女は幼少より未来の正妃として育てられてきた。間違いもなくその立場にいるリンカニアではあるけれども、その人一倍高い誇りゆえに、また悋気のかけらも人前で見せることができない悲しさをカストゥエラは知っていた。第四王妃トリゴリアは目に見えて毎度毎度嫉妬を露にする。それは愚かしくみっともないことではあるけれど、また見る者には嫉妬する女というものは可愛く見えるもの、男とて、嫉妬されて悪い気はしないものだ。 そうして態度を表に出せば可愛がられもしようし、いちいち嫉妬する己れを表に出す自分だとて楽であろう。

 リンカニアはそれができない。誇りが高すぎて、カストゥエラの目の前、ましてや浅はかにも正妃の前で新しい妃に対する愚痴を洩らすような侍女たちの前で、どうして地団駄を踏み両手を床に打ちつけて嫉妬する有様を見せ付けることができようか。それは一見羨ましいようにも見えるけれども、本人にとっては辛いに違いないのだ。

(いいえ・・・)

 きっとリンカニア様は、辛いということにさえ気付いておられない・・・カストゥエラはそう思った。それがいかに悲しいことか、リンカニア自身も知らないのだ。


       

       満眼の春光色色新たなリ

       花は紅柳は緑に総て情に関す

       鬱結せる心頭にこの事を将て

       黄鷽に付与して幾声か叫ばしまんと欲す



 いずこからかスキエルニエビツェが歌う声が聞こえてくる。それを耳にして、カストゥエラは一人胸を詰まらせた。

(皮肉な・・・)

 彼女はため息を一つつくと、退室するため扉に向かっていた。

 初めて聞く歌であったが、おそらく内容からみてこの歌は女性の詩人が創ったものではないかと、カストゥエラは考えた。

 例年と同じように、目にもあやなる春の訪れ。だがその中に、ともに美しい時を過ごしてきたあの人はそばにいない。景色が変わりなくすばらしいだけに、思い出のあとに襲ってくるのは、我が身にまつわる喪失感ばかり。私に代わり、あの鴬に、この欝いだ胸の内を歌ってもらいたい・・・。

 今のリンカニアを皮肉っているようないないような気がしたのは第一王妃専属女官のカストゥエラであったのなら、仕方もないことだろう。

 ポロロロォォォ・・・ンンンン・・・・・・

 妙なるリュートの音を背に、カストゥエラは無念の思いで扉を後ろ手に閉めた。



 一方アルマンソラは気楽であった。別段第一王妃のような特有の責任感や孤立感がないためか、自分の宮に帰り、専属女官のグイネスと興じる話題も宴の楽しい内容ばかりであったから、マリエンフェルデに対する危機感も何もあったものではないようだ。しかし何にしても王宮は退屈である。気軽に外出はできないししたとしても欝陶しいほどの護衛が辺りを二重三重に取り巻く。花一輪手に取るにも彼らの槍をかいくぐらねばならぬのである。欝屈した気持ちが退屈しのぎに取って代るのにそう時間はいらない。

「ふふ・・・明日から楽しみが増えるわね」

 ベットに横になり肘をついてアルマンソラは満面の笑顔になって言った。女性の陰湿で欝屈したものとはまったく縁のない女なのである。後になってわかることだが、マリエンフェルデに対する嫌がらせも、トリゴリアのそれとはまったく桁の違う可愛げのあるものばかりで、孫に対して祖母が謎かけをするような、宝物の隠し場所を探させるような、そんな一種の冒険のようなことばかりをしたので、しまいにはマリエンフェルデもそれを楽しみにするほどであった。

 アルマンソラは特別いつも国王リンドハーストの寵愛を受けていたいとは思わない。それなりに愛してもらえればそれでよいと考えている。

 国王は妃を娶った以上彼女たちの生活に責任を持つので、彼女としては国王が宮に通わずとも、日々の楽しみはそれなりにあるのでよいといっていいのかもしれない。そういう意味では、彼女は女の業というものから限りなく遠い存在であった。






   軽く飛んで風を仮らず

       軽く落ちて地に委せず

       繚乱として晴空に舞い

       人をして無限の思いを発せしむ



「いつ聞いてもいい声ね・・・・・・ねえグイネス」

「はいアルマンソラ様」

 専属女官の自分の憂いなどどこ吹く風でそんなことを言う妃に、それでもグイネスは答えた。ベットにうつぶせになって肘をつき窓のほうを向いているアルマンソラをいいことに、グイネスの眉間には苦悩と苦渋が浮かび上がっている。彼女は主人ほど事を楽観視していない。ただでさえ国王の宮通いが遠退いているというのに、このままではあの町人の娘にだって負けてしまうかもしれない。それだけはどうしても避けねばならないことだ。 そのためグイネスは、アルマンソラが考えているのとは別に、あのあどけなさの残る小娘に仕向けるべき悪意の塊を色々と考えている。無論それはアルマンソラのあずかり知らぬところで、また知られないように自分が一存ですることだ。もしこれが公になってしまえば世間がアルマンソラを非難することは間違いがないからだ。しかしそんなグイネスの胸の内を察したのかあるいはずっと気付いていたのか、はたまた未だ知らずただ釘を刺しただけなのかもしれぬが、アルマンソラは窓の方へ顔を向けたまま低く、しかしグイネスが聞いたこともないような厳しい声で言った。

「グイネス」

「は・・・はいアルマンソラ様」

「言っておくけど・・・」

 扉を開け言いかけたギリアンははっと口を閉じた。

 主人は窓に寄り掛かり彼女が今まで見たこともないような虚ろな瞳で庭を見下ろしていた。開け放したその窓の外から、この世のものとは思えない美しい艶声が響いていた。



       早に嬋娟たるに誤らる

       妝わんと欲して鏡に臨んで慵し

       恩を承くるは貌に在らず

       妾をして若為に容らしめん

       風暖かくして鳥声砕け

       日暖かくして花影重なる

       年年越渓の女

       相懐う芙蓉の採りしを



「-------------」

 ギリアンは身体がこわばるのを感じて立ちすくみ、重く息を飲んでその歌声を聞いていた。聞いたことがなくともわかった。この歌は、昔の宮女のことを歌ったものだ。

〈 年若くして目立って美しかったために身を誤って宮中に召されてしまった。お化粧しようと鏡に向かうけれども、億劫になってしまう。

 天子の寵愛を受けるのは美貌によらず、運しだい。この私をどうやって装わせたらいいというのだろう。

 春風は暖かく、鳥の声はさかんにはじけるように聞こえ、日は高くのぼって、花々の影が重なる。

 毎年、越の谷川の乙女たちが、蓮の花を摘んでいたことを 懐かしく思えるばかりだ>

 ギリアンは身体が震えるのを覚えた。越の谷川とはまぎれもなく二人が昔蓮の花を摘んだ川のことなのだ。偶然とはいえ、なんという恐ろしいことだろう。

 その歌から漂う宮女の居直ったような気持ちと、どうにもならない虚脱感が肌身に感じられてならない。

「あらギリアン」

 立ちすくむギリアンに気が付いたのか、先程の魂の抜けたような顔から一転して輝くような笑顔を見せたダエトが振り向いて自分に話し掛けている。

「あ、ダエト様・・・」

 ギリアンから蓮を受け取り、ダエトは自分でそれを活けにかかった。他の王妃は決してしないことである。

「・・・」

 どうにもならないほど悲しかった。望まれ、自分から妃になったとはいえ、元々平民出身のダエトが堅苦しい宮中でどれだけの思いをしているか、ギリアンは知っている。主人はたまたまそれを気にしない性格なだけだ。他の王妃が他国で聞くのと比べ攻撃的でないことが唯一の救いくらいで、結局ダエトは、あの国王リンドハーストに人生そのものを狂わされてしまったとしか言いようがないのだ。しかしそれでどうなるというのでもない。 逃げることはかなわず、ただこうして国王の足の遠退いた宮で一日を退屈をもてあまして暮らすだけ。

 妃たちはともかく一部女官たちにまで蔑まれる生活。今までの、素朴だが毎日やることが沢山あって、いつも胸踊らせる街の生活とは大違いだ。確かに宮廷の生活は、華やかで美しくて煌びやかだけれども、虚偽と欺瞞と見栄に満ち触ると切れるようなとげとげしいものに溢れている。さながらそれは氷のように冷たい。そんな世界で、やっていける人間とそれが性に合っている人間と、女には二種類ある。ダエトはやっていける人間だ。しかし決して性に合っているわけではない。正に彼女は、あの歌のごとく美しいがゆえに身を誤ってしまったのだ。ギリアンが何が悲しいかというと、ダエトがそんな素振りも見せず、また自分の知らない多くの場所で嫌がらせを受けているにも関わらず、おくびにも出さず日々笑顔でいることだった。

 ギリアンは悲しかった。

 身が裂けるほどに、胸が張り裂けそうに、悲しかった。



       一日千株花尽く開き

       満前唯だ見る白皚皚

       近く人語を聞けども処を知らず

       声は香雲団裏より来たる



 ジェローナは内心びくびくしていた。宴の様子だけを見ると、国王リンドハーストは主人トリゴリアに見向きもせず、子供といっても差し支えのないほど若いあの金の髪の小娘に完全に溺れていた。

 開け放した窓から春のすがすがしい風と、それに乗ってまるでその風そのもののような軽やかな歌声が流れてくる。しかしジェローナの危惧に反して、主人トリゴリアの気分は、まあ上機嫌というわけではなかったけれども、決して悪いわけではなかった。それだけでなく鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で高杯の葡萄酒を飲み干している。それが却って、ジェローナには気味が悪かった。

 第四王妃トリゴリアは第一王妃リンカニアにひけをとらないほどの美女だ。幼い頃から一人娘として育てられその美しさと頭脳の明晰さをちやほやされて育ったものだから、挫折を知らずいつも自分が一番で生きてきた人間だ。だから誇りが高い。

 あのマリエンフェルデが来た時も、辺りを憚らずとはああいうもので、侍女たちの前でも隠し立てすることなく地団駄踏んで悔しがった。さすがに見苦しいと密かに眉を顰めたものだ。

 しかし、傲慢だが扱いを知ってしまえば彼女ほど楽な主人はまたいないのではなかろうかとジェローナは思ったりもする。聞きたくないことは聞き流してその通りですわトリゴリア様といえばすむことだし、ああ見えて結構気前がよく気が向けばの話面倒見もいい。 自分で思うのもなんだが、ジェローナは 自分ほどトリゴリアの扱いに秀でた者は他にはいないとまで自負している。それほど長く仕えているのだ。たいていの侍女女官たちはトリゴリアの傲慢さと我侭に我慢ができず辞めていってしまうからである。

 その美しさは、さすがに第一王妃リンカニアには及ばないが遠いものではない。後は好みの問題といったところだろう。気立ての良さには第二王妃アルマンソラには遠く及ぶまい。そもそも気立ての良いという言葉ほど主人に似合わない言葉もないと思うのだ。しかし恐ろしさでは誰も、足元には及ばないだろう。

 ジェローナは知っている。

 いつだったか、密かに国王リンドハーストが手をつけたトリゴリアの女官を、国王が寵愛の挙げ句に次の王妃にしようとした時、嫉妬と、プライド高いばかりに許さない余りにトリゴリアがその女官を殺してしまったことを。そして女官が苦しみながらなかなか死に致ることができないのを、あでやかな扇でもってしてその顔を殴り嘲笑で彼女を見送ったことを。トリゴリアは、自分より下のものは人間の扱いをしない女なのだ。冷徹というよりも、もうそんな人間的な感情を一種超越してしまった恐ろしい女なのだ。

「ご機嫌がよろしいようで」

「ふふふ・・・なぜだと思う?」

「さあ・・・わかりかねますわ」

「近くで見たら小娘じゃないの。とても政には関与できまい。妃が時めくには政もわからなくては。あんな小娘にはやりたいだけやらせておけばいいわ。聞けば王族の出身だというし、私の次の王妃なんだもの、構うことはないわ。それより私にはもっと別の狙いがある。あの小娘に皆の視線が集中している間に、やらねばならないことはしなくては」

 くつくつと笑うトリゴリアにジェローナは寒気を感じた。

「それからジェローナ」

「は、はい」

「あの小娘にも忘れず贈り物をしておくようにね。身の毛もよだつような贈り物を」

 スキエルニエビツェは歌人である。歌い奏でる場所を保障さえあれば、他国の政に関与したり国王に忠言しようとも思わない。いつも風のように、なりゆきに任せるというのが彼女のやり方なのだ。

 そもそも衣装の色選びというのは、女たちの心楽しい専売特許であるのと同時に、季節に合わせて自分を彩るという古代からのならわしでもある。だから春夏秋冬、四季に合った色というものが決められ、合わない色を纏うことを禁忌としているのだ。禁忌といえば大層だが、それは例えば、公式の場に普段着で行くような非常識なものでもあったのだ。 そしてそろそろ春も盛え、日差しが暑くなり初夏を迎える寸前の暖かいのだか暑いのだかわからない季節になると、『青』と呼ばれる緑色の服の放つすがすがしさと見た目の美しさは例えようもなく人々に愛される。例え襲を着ることはなくとも、緑をこの季節に着るというのは庶民にとってのささやかな贅沢であったのだ。

 国王はそれすらも奪うのだという。そしてまた、面柳を思わせる衣装の着用を禁止した。 面柳を思わせる、というのはつまり、緑色の衣を一切着てはならぬという意味なのだ。そうすると春の襲だけでもかなりの数になってしまう。若草(表淡青・裏濃青)、柳(表白・裏淡青)、黄柳(表淡黄・裏青)、青柳(表濃青・裏紫)、花柳(表青・裏淡青)、柳重(表淡青・裏淡青)、薄桜萌黄(表萌黄・裏赤花)、壷菫(表紫・裏淡青)、早蕨(表紫・裏青)、青山吹(表青・裏黄)などが挙げられ、さらに言えば黄緑色(萌黄色)も緑に近く、厳密にこれすらも禁止するというのなら桜萌黄(表萌黄・裏赤花)、桃(表淡紅・裏萌黄)、躑躅(表蘇芳・裏萌黄)、藤(表薄色・裏萌黄)、葉桜(表萌黄・裏二藍)、なども挙げられる。

 しかも季節は春である。国王が春の襲だけを意図してこれを禁止したのならともかく、夏や他の季節にまでそれが言い渡される可能性はとても高い。夏の陽射しのきつい中卯花(表白・裏青)や蓬(表淡萌黄・裏濃萌黄)などの衣装を纏うと、見た目にも涼しげで緑の深い色合いが楽しめ、それすらも禁止されるとあっては、贅沢を知らない民はいったい何に心の慰みを求めればいいというのだろう。

 スキエルニエビツェは通常は王宮の雇われ楽師だが、旅をしていれば普通の生活をする。 貧しい者も嫌というほど見てきた。また彼らのために彼らと仕事をしたこともある。貧者と金持ちと、両方を肌で感じ間近で見てわかったことは、貧しい者は旨いものを知らずに死んでいき、金のある者は旨いものを食べ過ぎて死んでいくということであった。

 国王の気に入り、天下の楽師と言われようと、差し出がましいことは一切口にせず、自分はただ乞われるまま歌を歌ってさえすればいいのだと、彼女は平生から思っている。自分の仮の立場に酔ったりそれを誤解したり調子に乗ったりして周囲の反感をかい、暗殺された楽師は数多くいる。

 先日、とうとう国王の言い付けを最後まで守らなかったという科で神殿の者が皆殺しにされ、神殿には火が放たれたという報せを、スキエルニエビツェが耳にしたのはその日のことであった。最近は幼妻とのお楽しみの方が良いのか、めっきり呼び出されることもなくなった。別段国王だけでなく妃たちや要求があれば臣下の貴族たちの邸に行って歌うことが許されているので、それでスキエルニエビツェがまったく暇をもてあましているというわけではない。

 その日、国王の側近ともいわれているレリアック侯のもとへ赴いたスキエルニエビツェは、自分の歌を聞いているようでどこか気もそぞろといった侯に気付き、ポロン、とリュートの弦を爪弾きながら、

「いかがなされました? レリアック侯。ご気分がすぐれませんようですわね」

 沈鬱な顔でうつむいていた侯は、その言葉にハッとして顔を上げた。

「い、いや・・・」

 スキエルニエビツェは大きな黒い瞳をスッと優雅に細めた。

「・・・候・・・人は誰も聞いていなくても、例えそれが独り言でも、胸の内を吐いてしまうと心が晴れるそうですわ。私は今からリュートの弦を合わせますから、きっと侯が何を言われても聞こえないと思います」

「---------------」

 スキエルニエビツェは静かにリュートを弾き始めた。軽やかで優美なのに、芯の一本通った音である。侯の困惑した表情がまるで見えないとでも言いたげに、瞑想するようにあるいは何かに酔うかのように、じっと瞳を瞑って心持ち上を向いている。

「・・・」

 レリアック侯はそんなスキエルニエビツェを凝視し、それから噛みしめるようにしてぽつりぽつりと「独り言」を言い始めた。

 ポロォォォンンン・・・

 ロロロロ・・・

「・・・陛下が朝事にいらっしゃらないのだ」

 ポロ・・・

 一瞬リュートを弾く音が止まった。が、また何事もなかったかのように爪弾き始める。

「それだけではない、来月から徴税比率が上がった。五割増になったのだ。五割増といえば例えるなら今日米を五合買えたのに明日は一合買えるかもわからないという数字だ。既に聞いたと思うが神殿の人間も皆殺しにされ民は心の拠り所を失ってしまっている。それに例の衣装禁止令のこともある。彼らの不満は日に日に募るばかりだ」

 ポロ・・・ォォオオンンンン・・・

「・・・」

「税率が上がったのはこちらでどうにか調整をするとして、朝事に出られないというのは本当に困りものだ。その日の政の決定が下せない。加えて毎日のように妃殿下に・・・第五妃殿下マリエンフェルデ様に・・・目も飛び出るほどの金額の贈り物を山ほど贈られている。

 イオシスよ、・・・どうすればいいのか私にはわからない。死を覚悟して提言申し上げること自体には私は怖れはない。しかしここで私がいなくなるのは他の臣下たちにも影響が出てしまう。つまりは民にも負担が大きくなるということだ。このまま・・・このままずるずると下り坂を行くしかないのだろうか?・・・」

 ポロォォンンンン・・・

 リュートの音が止まった。

 長い沈黙の後スキエルニエビツェはそっと瞳を開け、そして静かに、

「ご所望の曲はございますか?」

 と聞いた。

「ああ・・・心の晴れるような・・・短くてもよい、美しい歌を聞かせてくれ」

「------ではこれではいかがでしょう」

 スキエルニエビツェは高い音をいくつか誘うようにして出しながらスゥ、と息を吸い、春の大気夏の湖水のような声で歌い始めた。



       春は風景をして仙霞を駐めしめ

       水面の魚身総べて花を帯ぶ

       人世思わず霊卉の異を

       競って紅纈を将って軽沙を染む



「・・・・・・」

 レリアック侯はリュートの音の最後の余韻が消え、まだ部屋のどこかに響いているのが完全になくなるまで、スキエルニエビツェのその声の織りなす見えない絹の帯が大気にとけこむまでじっとしていたが、やがて指でこめかみを押さえ、

「------すまぬ。下がってくれ」

 うめくように言った。

 スキエルニエビツェは言われるまま侯の邸から出、王宮に帰ろうとしていた。歌人であり楽師でもある彼女は平生よりあまり馬車を好まぬ。それは肌に触れ目に触れる光や風や自然のすべてを五感で感じられないからということにある。しかしそれでは不用心なのでたいていの場合、彼女が王宮から出て出張扱いで歌を歌いに出る場合、城の衛士が二人以上ついてきてくれる。

「イオシス殿。お済みですか」

 最近専ら外で歌うことが多くなったので、もう衛士ともいい加減顔見知りだ。

「ええ」

 スキエルニエビツェはにっこりと笑った。

 イオシスとは彼女の異名である。名前が覚えにくい、言いにくい、長いというので多くの者は彼女をスキエルと略して呼ぶが、イオシスとはまた愛称でもあり紫紅色という意味がある。脂燭色(表紫・裏紅)の襲が、まるで彼女のためにあるかのようにぴったりと似合うからであろう。

(・・・)

 彼女は一度だけ邸を振り返り侯の苦悩の顔と言葉を思い出してから、衛士を促し歩きだした。今日の彼女は唐衣といって袖や裾が幾分長いのだが、ひきずったりする程度ではなく、身長に合わせて地面すれすれの所でそれらが翻ったりする。たいてい外着はこれである。昔は小袖に袴を着たりもしたが、それはあまりに普段着過ぎていけない。その点唐衣は襲ほど畏まってはいないがかといってくだけすぎず、正装と普段着の中間の役目を果たすようなものだ。だから非常に使い回しがきく。

 そして今日の彼女の唐衣の色合いは白躑躅(表白・裏紫)である。清楚なのにどこかなまめかしく、ハッとするほどによく似合う。

 本来表と裏の色の美しさで衣装の艶を競うものを襲というが、別の衣装に関しても、―――――くだけて言ってしまえば小袖に袴でも-----襲の表と裏の関係は応用されている。女性の衣装は農作業だとか部屋着だとかそういうものは別として、表に出るような服はすべて表と裏の色合いを持つものとして表現されている。襲だけが表と裏の色を楽しめるというわけではないのだ。

 スキエルニエビツェは侯の言葉を思い出しながらなんとなく重苦しい雰囲気の街を歩き王宮をめざして歩いていた。

 朝事とは読んで字のごとく早朝に催される会議のことである。その会議で一日の政の方向が定められ、今後の政策の礎の一部となる。そのため国王になる者は幼い頃から朝事に対する姿勢だけは厳しく躾けられる。マリエンフェルデはそれすらも翻してしまったということだ。

 街がなんとなく荒み重苦しいものに包まれているのは、無論のこと衣装の規制のこともあろうが、それ以上に国王が政治に参加しなくなった影響があることは否めない。

 麟の悲劇はそれだけではない------むしろそれは、日に日に悲惨な形で具現していった。

 国王は毎日のようにマリエンフェルデに贈り物をした。

 十年に一度できれば運がいいという金色の繭からとった絹を全面に使った特大の絨毯、遥か宝霊から何万里を経て届けられた雲水晶の香炉。この雲水晶は現存するもので一番大きく、そして一番澄んでいるそうだ。マリエンフェルデの住む宮は、一言彼女が狭くて過ごしにくいと言っただけで大改築され、世界希少価値率でも上位を占める金色大理石と青色大理石で、あたかも彼女の容姿をひきたてるかのように一週間で第一王妃リンカニアのそれよりも十倍以上の面積と豪華さを誇るようになった。また特大の浴場も増設され、マリエンフェルデのためだけに、極上の香油が注ぎ足された湯が常時浴槽に馥郁たる香りを発して満ちていた。国王はそんな湯上がりのマリエンフェルデを、ともすれば食べてしまいそうな勢いで迎え可愛がり、彼女の造り上げる享楽と悦楽の渦へのめりこんでいくのであった。白玉の大きな壺が無造作にあちこちに置かれ、花に満ち、マリエンフェルデの庭には鶴と鹿が放し飼いにされた。国王は寝る間も惜しんでマリエンフェルデと睦み合い夜明けを告げる鐘が鳴ると短い夜を悲しんでマリエンフェルデの胸の中で眠った。

 この時代日中は圭表(日時計)で時間を知り番人がそれによって鐘をついていたが、夜は漏刻、または壺と呼ばれる水時計で番人は鐘をついていた。国王リンドハーストは時の短いのを大いに悲しみ、鐘楼をなくしてしまうとも考えたが、それは困るとマリエンフェルデに言われて渋々やめた。表では、そんな二人の生活を揶揄するように、あるいは祝うかのようにスキエルニエビツェの歌声が聞こえてくる。



       玉漏 銀壷 且く懐すこと莫かれ

鉄関 金鏆 明に徹して開く

       誰が家ぞ月を見て能く閑坐する

       何れの処か燈を開いて看に来らざる



「・・・・・・」

 第一王妃リンカニアはそれを苦々しい思いで聞いていた。手は微かに震え、唇を噛まずにいられない。

 国王リンドハーストは、変わってしまった。今まで、確かに好色ではあったけれど、決して度をわきまえない人間ではなかった。公私の混同をせず、平等な男であった。だからこそ彼女はずっとやっていくことができたのだ。しかし今の彼は違う。あの小娘にまるで精気を吸い取られてしまったかのように痩せ衰え、それでいて尚あの娘を求めようとしてやまない。りんかにあは再三にわたる提言をもとうとう聞き入れようとはせず、度重なる徴税の割増、神殿の人間の虐殺、職人たちに対する数々の難題と厳罰、そして何より彼女が我慢できなかったのは衣装規制令の一件であった。この令が発されてからしばらく、国王は誰の面会も受け付けようとはせず、一日中マリエンフェルデの宮に閉じこもっていた。 第一王妃の面会だと言っても、彼は出てこようとはしなかった。兵士を通して、そっけなく誰にも会うつもりはないとの返事が返ってきただけであった。それは、会う相手がリンカニアだとはわかっておらず、全然知らない相手からの面会を申し込まれた時のようにそっけないものだった。

 最初、彼女は何かの間違いだと思い、兵士に第一王妃からの面会だと言いなさいと言った。兵士はこの上なく申し訳なさそうな顔を彼女に向け、陛下は誰にもお会いにならないそうですと言った。それでも彼女はもう一度兵士を向かわせた、何かの間違いだろうと思って。しかし返答は同じだった。瞬間リンカニアは床が突き抜け、そのまま地の底にまで落ちてしまいそうな気分になった。それでも彼女は思い直した。そもそも他の妃の宮に別の妃が赴くこと自体がルール違反なのだ。これは自分が悪かった、そんな自分を諫めるつもりで陛下は、自分とは会えないと、こう言ったのだろうと。だから彼女は出直した。国王と彼女が、まだ新婚で他に誰も妃のいなかった頃、彼女を何よりも大切にし愛していたリンドハーストが彼女に贈った青山吹(表青・裏黄)の襲を来て。

 そうそれは、亜麻色の髪と明るい茶色の瞳の彼女のために、リンドハーストが選びに選びぬいて贈ったものだった。ちょうどマリエンフェルデが面柳の襲を着ることを喜んだように、またリンカニアが青山吹の襲を着ることを国王は、なによりも喜んだ。だからリンカニアにとって青山吹の襲というのは、ただの衣装ではない、在りし日々の、二人の絆を象徴するようなものでもあるのだ。彼女がこの時にこの色を選んで国王に提言に赴いたのはだから、あの時代の二人の侵されざる絆、それによって国王の目をなんとしても覚まし

たいというリンカニアの気持ちが表れているかのようだった。

 リンカニアはリンドハーストが珍しく自宮にいるというのを聞きつけ、もう一度よく確認してから、彼を訪ねた。

 あでやかな笑みを浮かべ、緑と黄色の襲を纏っている彼女は朝日の中では夢のように美しかった。リンカニアは努めて平静を装い、なるべく口喧しくならないように充分注意して、国王のもとへとやってきたのだった。

「陛下」

 朝日のなか幾分痩せたような感のある国王は、窓から茫然と城下を見下ろしていたが、彼女に呼び掛けられてちらりとそちらへ目を向けた。

「お久しゅうございます。今日は折り入ってお願いが・・・」

「リンカニア」

 しかし膝を折って頭を下げた彼女に返ってきたのは、聞いたこともないほど冷たい夫の言葉だった。歓迎されるとは思ってはいなかったリンカニアだったが、リンドハーストのこんな厳しい声は聞いたこともなかった。

「・・・」

「聞いておらぬのか。それとも聞かぬ振りか? 面柳を思わせる襲を着ることは禁止と申し渡したはずだ。いくらお主とて例外は一切認めぬ」

「-----陛下・・・」

 驚きのあまりリンカニアは絶句した。言葉が出なかった。なぜ?

 承知の上でこの襲を着てきたのは、あなたに昔の私とあなたを思い出してほしかったからなのに。この色目だけは特別、二人にとって意味のあるものだということすら、

 あなたは忘れてしまったのですか・・・?

 立ち尽くすリンカニアを苛立たしい視線で一睨みすると、リンドハーストは呆れたような怒りを投げ付けるようなため息を一つついてリンカニアの横を通り抜けた。

 何も言わなかった。

 何もしなかった。

 パタンと扉の閉まる音、階段を降りていく足音、そして彼が赴く先は、真っ白になったリンカニアの頭の中でも容易に浮かんできた。

 自分に挨拶もせずに却って陰で鼻で笑っているというあの娘、

 第一王妃、正妃の自分を軽んじ侮蔑し正妃としての誇りも立場もすべて奪ったあの娘、

 リンドハーストと彼女との間に築きあげてきた何十年間もの絆を崩壊させたあの娘、

 ------今リンカニアを、絶望の淵へと放りこんだあの娘の宮へと!

「・・・・・・」

 リンカニアは、その場にずるずると崩れ落ちた。

 


火樹 銀化合り

   星橋 鉄鎖開く

       暗塵 馬に随って去り

       明月 人を逐いて来る

       遊伎 皆穣李

       行歌 尽く落梅

       金吾 夜を禁ぜず

       玉漏 相催すこと莫かれ



 〈 燃え立つ樹形の燈架に、無数の銀の花が乱れ咲き、

   星のまたたく天の川のような城濠橋、そのたもとの城門も開け放たれている。

   舞いたつ土ぼこりは、馬の歩みにつれて、いつしか消え失せ、明るい月はどこまで も人のあとを追い掛けてくる。灯篭を見るあでやかな歌女たちは、まるで咲き誇る 桃や李の花のよう。歩きながら一緒に「梅花落」の曲を歌っている。

   今宵は、金吾衛の兵士も警備を解いている。

   水時計よ、この楽しいひとときに時間を刻むのはやめたまえ 〉


 水時計よ・・・。


 リンカニアは放心して、いつまでもそこに座り込んでいた。




 そして信じられないことの数々は次々に、そのもの自体がそれぞれに秘め持つ悲惨さや悲劇や重要性には何の関係もなく、さりげない様子で度々麟を訪れた。

 国王はまず溺愛するマリエンフェルデの言葉に従い羶との国境線近くの警備を解いた。第五王妃曰く、羶とは協定を結び、こうして協定という名の自分がいるのだから、何も経費を無駄にすることはない、解いた警備の費用分こちらにまわせというのである。国王も、何をされても目尻を下げたままのマリエンフェルデの出身国に対して、物々しい警備をしくのは気が引ける、まるで、マリエンフェルデを愛していないようではないかと真顔で言い、その日の内に羶との国境警備をすべて解いた。そしてさすがに朝事のさぼりすぎだと反省し、出席するようにはなったが、膝に愛しのマリエンフェルデを乗せ、なにやら囁きあいじゃれあいながら会議を執り行なうといった有様で、臣下の者たちも呆れてものも言えなかったそうだ。

 もっとも国王リンドハーストが朝事に出るようになったのは、このまま政を自分がしないと出るものも出ず、マリエンフェルデとの享楽に満ちた生活を楽しめないからである。つまり民や国のことを考えてというわけではなく、ただ単に遊ぶ金ほしさに仕方なしに取りかかったというわけだ。だから極端に金になる仕事しか手をつけない。そして片端からそれらに手をつけていく。他国にこれらの評判は逐一伝わり、麟から遠ざかり商人もまた減った。税は日に日に重くなる。異論を唱える神殿を次々に焼き払い、提言する臣下たちを処刑せしめ、慈善として経営させていた孤児院や病院などへの援助も見る見る内に打ち切られていった。国は病気と飢えと貧困に喘ぎ、街は瞬く間に廃れていった。

 驚くべきは、それらを国王がしているのではなく、マリエンフェルデが国王にさせているということである。つまり、政に著しく干渉しているのである。

 他妃はっせいに、それぞれのやり方で国王を諭した。。彼女たちもまたそれらの権利を持ち、責任を負う立場にあった。第一王妃リンカニアは正妃らしく、正面から正論で物事を伝えた。アルマンソラはゆっくりとやわやわと諭した。ダエトは、やり過ぎはよろしくないでしょうとだけ言った。トりゴリアは感情に任せて火がついたように抗議した。それもまたリンドハーストには気に入らなかったのであろう、むっつりとして肘をつき、ろくに返事もしないままぷいと退室してしまった。昔の国王は提言や忠告を素直に聞き入れ、間違っていることは素直に認め、また自分からも助言を請うという、好色という「男」の部分を抜いては、つまり「公」の者としては、できた男であった。

 一人の女が国を変えた、というのは、案外言い過ぎではないかもしれない。とにかく今の麟は無駄遣いだというので警備兵の城下の巡回も城内の警備も最小限以下のところにまで減らし、警邏に咎められる心配のなくなった城下では、ならず者たちが肩で風をきって歩き、強盗殺人強姦の類いは日中街のどこで起きても不思議ではなくなった。そんな居心地のいい国のことを聞きつけた近隣の国の悪者たちはこぞって麟に集結し、益々危険な国になった麟には、益々商人が寄り付かなくなった。そしてまた一個の国としての信頼を地に落としめてしまった麟と次々に手を切る国が続出した。マリエンフェルデの事を悪く言う者は直ちに悲惨な死にを遂げ、宮廷内の人々は自分の身を護るために罪のない同僚たちを讒言して生き延びた。今や王宮は、死語となった正義、欺瞞に満ちた、互いに騙し合わなくては生きてはいけぬ場所、第一王妃の権威と共に信頼の二文字も完全に失墜した場所となった。夜毎繰り広げられる狂宴は暗澹たる城下をあかあかと照らし、人々はそれを見てため息をつくばかりであった。金貨が宙を舞い、宝物が足の踏み場もないほどにあちこちに散らばり、同じ頃に飢えと病に息絶え絶えになる者が、恨めしげに目の前で霞む城に手を伸ばしては死んでいった。一年で麟は今や完全に近隣で独立した国となり、森は枯れ、小鳥も寄らぬような国となった。そんな近隣の悲惨な状態も尻目に、最高の楽師が歌う声は相反するかのような美しい声で森に響き渡りつづけた。

 この日スキエルニエビツェはマリエンフェルデの宮に赴いて請われるまま歌を紡ぎ続けていた。そしてこの日彼女が感じた事、それは、マリエンフェルデがただの十六の無知な娘ではなく、とてつもなく才知に長けた、その若さの数倍の知性と教養と数々の機知を備えた人間だという事であった。今まで一年、輿入れからたったの一年でここまで麟を変え落としめてしまった妃であるから、若いことも手伝ってさぞかし傲慢で無知で無教養で我侭で風流を心得ない小娘だと思っていたら、まったくそれらが逆であったということに、スキエルニエビツェは多少驚いていた。それは、近くに、とても近く、口元のちょっとした歪みも見えるほどに近くなくては、わからないことだった。遠目やちらりと見たというだけでは、人間を推し量れないほどにマリエンフェルデという人間は濃く、深かった。嬌声ばかりを上げ気まぐれで政にまるであやつり人形をいじくるかのような調子で関わっているかと思えば、近間で話し、声を聞き考えを聞き、その冷静さに触れてはまるで泉か湖のよう。請う歌の題の数々などは、到底他の妃も遠く及ばぬような豊富な知識。

 羶がよくもこんな娘を手放したものだ、そう思った。

 それとも羶では彼女が基準で、他の人間もみなこんなに教養が深く思慮にも機知にも長けているというのだろうか。だとしたら羶を訪ねたことのないスキエルニエビツェは、大層な失敗を今日の今日まで繰り返していたということになる。指が求めるままリュートを奏でながら、スキエルニエビツェは退廃して居心地の悪くなってきた麟を辞し羶へ赴こうかと真剣に考えていた。

 しかしまたこの稀代の美女にして海より深い知識を併せ持つ姫君から離れるというのも為し難い。これから麟がどうなっていくのか、亡国という二文字が頭をよぎったりもするが、どのようにしてそうなるかをしかとこの目で見届けたい。経験こそが歌に生命を与え声に艶とより一層の信憑性を具えるということを、スキエルニエビツェは楽師の常で知っていた。彼女は麟に留まる事にしたのである。

「ねえ」

 しどけなく脇息に寄り掛かりながら陽の光を浴びこちらに話し掛けたそのマリエンフェルデの声とその美しさに、スキエルニエビツェはハッとした。

「翔龍に行ったことはある?」

「西の都ですか・・・何度か」

 スキエルニエビツェはにっこりと笑って言った。タイプこそ違うが、この世に三人の美女を挙げるとしたら内二人は間違いなくここにいよう。

「私はまだなのよ。一度行ってみたいわ。さぞかし賑やかなんでしょうね」

「それはもう・・・都の賑わいというのは、地方であろうと中央圏であろうと他の国の持たない一種独特のものがあります。比べものにならない、比べられないほどですわ」

 スキエルニエビツェはそう答えた。西の都を翔龍、東の都を鳳鸞といい、翔龍の城を龍城、鳳鸞の城を鳳城という。

「いつか行ってみたいわね・・・」

 フッとマリエンフェルデが緑の瞳を伏せた。たった一瞬のようにも、ずっとそうしていたようにも見えた。

 おや・・・スキエルニエビツェはふとその瞳に哀愁のようなものを感じてホロロロロ、とリュートの調子を変えた。

「それではこんな歌はいかがでしょう」


 

       鳳城 達夜 九門通じ

       帝女 皇妃 漢宮を出ず

       千乗の宝蓮 朱箔捲き

       万来の銀燭 碧紗篭む

       歌声緩やかに過ぐ 青楼の月

       香霞潜かに来る 紫陌の風

       長楽の晩鐘 帰騎の後

       遺簪堕珥 街中に満つ



「・・・きれいな歌ね」

 薔薇水を飲みながらマリエンフェルデは呟くように言った。 

「あいにくこれは鳳鸞を歌ったものですが」

「そんなのいいわ。同じ都なのだもの」

 それから二人は色々なことを歌や曲をまじえて語り合い、時が重なるだけスキエルニエビツェはマリエンフェルデのその見識の深さと頭の良さに内心舌を巻いた。

「こう見えてもね、割に羶では質素な生活をしていたのよ。祖母の教育の賜物なのかしら・・・功名富貴の心を放ち得下して、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ち得下して、わずかに聖にはいるべし。とか・・・

「むしろ渾噐を守りて聡明を退け、些の正気を留めて天地に還せ。

 むしろ紛華を謝して、澹白に甘んじ、個の清名を遺して乾坤にあれ。っていうようなのが形になったような人だったの

「-------今はそんなことを言う権利もないわ」

 これが巷で噂されたった十六の小娘よ浅はかな少女よと嘆かれている本人と同一人物なのだろうか? 本当に?

 若く美しく、意外にも聡明な妃の質問は続いた。

「どこの出身なの」

「愁蓮ですわ」

 年齢と出身地以外、あまり多くのことを知られていないスキエルニエビツェであるが--------しかし人は言う、

 その美しい声を聞けるだけで充分と。

「姫様」

 と、羶から唯一マリエンフェルデに同行してきた侍女ティリアが、頭を下げこう言った。

「陛下がお待ちでございます」

「あらそんな時間? 行かなくちゃ。ごめんなさい引き止めちゃったわね」

「とんでもございません楽しゅうございました」

 こんなことを自分が言うのも変かな、スキエルニエビツェは思いながらも、マリエンフェルデが相手だと思うと素直にそう言ってしまう。するとマリエンフェルデも溶け入ってしまうような笑みを浮かべ、

「ありがとう。また呼ぶわね」

 と言い、頭を下げて見送るスキエルニエビツェを後に、艶然と立ち上がって国王リンドハーストのもとへと向かった。

 マリエンフェルデのいなくなった部屋はまるで光が失せたようで―――― スキエルニエビツェは彼女がいなくなって初めて、その凄まじいまでの存在感に圧倒されていたということに気付いた。

 スキエルニエビツェはふう、と息をつくと、夢のように過ぎたマリエンフェルデとの時間に思いをめぐらしていた。それはまるで天上にいるような、そんな素晴らしい時間であったように思う。そしてスキエルニエビツェは、ここに致って初めて国王リンドハーストが彼女に夢中になった理由を思い知った。女で、年齢がこんなにも近い自分でさえ魅了してやまないのだ。異性にはたまらないだろう。

 しかしスキエルニエビツェは多少ではあるが気になることがいくつかあった。

 -----------姫様、ねえ・・・

 いくら羶から同行しているとはいえ、既に麟の第五王妃として揺るぎない地位を持つマリエンフェルデに対して、今更姫と呼ぶのはどうだろうか。

 そしてなにより気になったのは、彼女のあの言葉。功名富貴の心を放ち得下して、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ち得下して、わずかに聖にはいるべし。それから、むしろ渾噐を守りて聡明を退け、些の正気を留めて天地に還せ。むしろ紛華を謝して、澹白に甘んじ、個の清名を遺して乾坤にあれ。

 この二つは質素に生活し、地位名誉などには目もくれずに生きていけば、天地と気を一つにできるといったような例えで、その言葉の後今ではそんなことを言う権利もないと言った。瞳を伏せ。それは、贅を尽くした今の生活を厭っているということなのでは? そんな風になってしまった 自分を自ら蔑んでいるのでは?

 何かある。スキエルニエビツェの直感がそう訴えかけていた。

 そしてその「何か」が何かわかるまで、スキエルニエビツェは麟にいるつもりでいる。



 ある日のことだった。マリエンフェルデの宮に、第二王妃アルマンソラの徴をつけた女官が、恭しげに小箱を掲げしずしずとやってきた。

「第五王妃様へと言づかって参りました」

 口元に薄く笑みを浮かべ、伏しがちの瞳もなぜか謎めかしている。ティリアは警戒した。 国許を出る時、マリエンフェルデの良き友、良き相談役、そして良き守り手であれと言い含められて育ってきた。マリエンフェルデに何かあれば、それはこの上もなく自分の責任で、自分の代わりはいくらでもいるがマリエンフェルデは唯一無二の存在なのだ。箱に何か入っているかもしれない。

「何なの?」

 できればマリエンフェルデの目に入れぬ内に処分してしまいたかった。こんな漆塗りの箱、嫌がらせ以外の何ものではないに決まっているのだ。

 しかしあの女官、よほど慣れているのだろう、若く気の利かない女官に目を留めると贈り物でございますとあでやかな声で言うので、その知らせはあっと言う間に知られて今知った。

「申し訳ありません姫様、それが・・・」

「贈り物ですって? 一体誰から?」

 贈り主を聞いてマリエンフェルデも眉を寄せた。親しくしているつもりはない。なにか贈られるようなことをしたことも言ったこともない。

「・・・・・・」

 マリエンフェルデの瞳がキラリと光った。

「いいわ。開けなさい」

 脇息にもたれかかって、彼女は件の女官に箱を開けさせた。毒針が仕掛けられているかもしれない。ティリアに万が一のことがあってはならないが、頭の弱い女官の一人や二人いなくなってところで、マリエンフェルデは痛くも痒くもないのだ。何も知らずににこにこと満面の笑みを浮かべて、件の女官は箱を開けた。

 蠍でも入っているか------------

 一瞬の緊張が奔った。しかし、それは杞憂であった。

 入っていたのは毒針でもなければ百足でもなく、一枚の良い香りのする紙であった。それは、陽に透かすと第二王妃アルマンソラの紋章が透かしで入っているものだった。

 それには優美な文字でこう書かれていた。


  どんなものでも食べつくす

  鳥も

  獣も

  木も草も

  鉄も

  巌も

  噛み砕き

  勇士を殺し、

  町を滅ぼし、

  高い山をさえ、

  塵となす。


  それは何?



 まったくもって意味がわからなかった。マリエンフェルデとティリアは考えあぐねた。

 趣旨はなんなのだ。新手の嫌がらせか? いや、こちらが不愉快になっていないのでは、嫌がらせは失敗といえる。では一体なんのためのものなのだ。 

 文そのものの内容も、滅茶苦茶でよくわからない。

「一体これはなんなの?」

 マリエンフェルデの呟きに、ティリアは答えることもできにないほど戸惑っていた。こんなものは、どの書物にも載っていない。だいたい、書かれているようなものなど存在するのか? 

 小箱は数日の間、まるで忌々しいものが入っているかのように、離れた場所に放っておかれた。しかしそれはそれで解決したわけではなかった。とにかく、不気味だった。

 チチチチ・・・

 小鳥の啼くある午後の晴れた日、マリエンフェルデは思いついた。

「時間よ」

 ティリアは初めなんのことを言われているのかわからず、

「は?」

 と答えてしまった。

「あの文よ。あれは時間だわ。どんなものでも食べつくす。鳥も獣も、木も草も。鉄も巌も噛み砕く。町をほろぼし、高い山をさえ塵となす。それは時間よ」

「あ・・・」

 ティリアもようやく合点がいったようだった。驚きのあまり、口に手をやっている。

「あれは謎かけだったんだわ」

 マリエンフェルデは顔を上げた。

 なるほど、これは嫌がらせだ。しかし楽しい嫌がらせといえる。アルマンソラという女、なんと雅な心得のある女なのだ。

「それでは・・・どうお返事致しましょう」

「そうね・・・」



 最初の謎解きから二週間目のある日だった。

 もうそろそろあの娘は諦めたのか、やりがいのない、と退屈していたアルマンソラであったが、そんな彼女の心を見透かしたかのように、マリエンフェルデの宮から、彼女の紋章をつけた女官がしずしずと大きめの箱を持ってきた。六角形の箱で、丁寧に紐で封印されていた。

「あら・・・・・・」

 アルマンソラは脇息にもたれ、側にいた女官に

「お開け」

 と命じた。

 開けると中をそっと取り出すと、果たしてそこには、精巧な細工も見事な、中の歯車の動きが覗き窓から見ることのできる時計が入っていた。時間というわけだ。

「ふふふふふふふふ・・・」

 アルマンソラは優美に笑った。なかなかやるではないか。こうでなくては。

 退屈になってきたと思っていた宮廷の暮らしであったが、なかなか、これからは楽しくなりそうだ。

 アルマンソラはその時計を自分の見えるところに置くよう命じて、次の謎かけを何にしようか考え始めた。



 第四王妃トリゴリアが動きだしたのもその頃だ。たかが小娘と高を括っていたら、いつの間にか政の大部分に関与し、今ではほとんど実権は彼女が握っている。マリエンフェルデの実力を一年かけてやっと思い知ったのだ。そしてその時には、もう遅かったと言ってもいい。彼女は地団駄踏んで悔しがり、手に傷をいくつも作って扇の悉くをすべて壊してしまった。そして青(緑)の入っている襲をすべて取り出すと、それ自体がマリエンフェルデの化生でもあるかのようにびりびりに引き裂いて燃やした。すべてが終わってようやく少々の落ち着きを取り戻したトリゴリアは女官の一人に今自分がしたことを罪として被せ、毒を自ら押さえつけて飲ませ殺してしまうと、やっと人心地ついたのか、ふうとため息をついて椅子に座った。その瞳が危険に冷たく光る。

「-----------」

 クククククク、と押し殺した笑いがもれてきた。それは次第に大きくなり、憚らなくなり、宮の外にまで聞こえるほどの大音声になった。

「ジェローナ」

 扉の影で真っ青になってそれを怯え聞いていた専属女官ジェローナは、突然名を呼ばれてぎくりとなった。

「は、はい」

「これから言うことをきちんと聞いていてちょうだい。あの小娘・・・私が怯え殺してやるわ」

 そしてまたくつくつと笑う主人を見て、ジェローナは自分はつくづく恐ろしい女に仕えているということを実感した。

 翌朝のことである。

 マリエンフェルデの朝食に、蛇が混入していた。彼女がいつものように箸を入れ掴んだものが蛇だったという事だ。

「ひっ」

 給仕の女官が青ざめて後じさった。蛇の中でもっとも醜く恐ろしいと言われる種のものである。食事に入っていて何の害があるかはよくわからないが、怯懦し気分が悪くなるというのだったら、こんな強力な布石は他にはないだろう。

「・・・・・・」

 マリエンフェルデはしかし、眉も動かさずそれを箸でつまみあげてじっと見つめると、乱暴に皿の上にそれを放り出し、

「下げて」

 とだけ言いベットに寝そべった。慌てて周囲の女官が片付けるのを尻目に、ティリアが近寄ってくる。

「姫様」

「ふん・・・やっとって感じね。よほど舐められていたようだったわ。誰かは知らないけれど慌ててやったんでしょう」

 それから誰も見たことないような強い光を瞳に浮かべ、

「 -----ティリア」

 恐ろしいまでに低い声で言った。

「誰の仕業か調べてちょうだい。第何王妃かをね。ついでに他の王妃のこともある程度わかるようなら尚いいわ。今後の動向に関わるようでは困るもの」

「お時間かかると思いますが」

「構わないわ。でもできるだけ早くね」

「かしこまりました」

 しかし嫌がらせは間断なく次々にやってきた。

 マリエンフェルデの普段よく着る襲を、いったいどこで知ったのか、気に入っているそれらすべての随所随所に、悉く針が仕込まれていた。

 またある日には、やはり彼女がよく口にする葡萄酒の中に細かく砕いた玻璃ガラスが幾つも入っていた。細かいだけかと油断していると、食べ物には大きな破片が入っているのだ。さすがのマリエンフェルデもこれには気付かず、一度だけそれを噛み砕いてしまい口中が血だらけになった。

「申し訳ありません姫様」

「いいのよ。大した傷じゃないわこんなの・・・それよりわかったの?」

「はい・・・」

 ティリアは周囲をはばかるような視線を一瞬辺りに向け、誰もいないことを再確認すると、これ以上ない用心深さでマリエンフェルデの側に寄り、耳元で囁いた。

「どうやら一連の嫌がらせは第四王妃トリゴリアの仕業のようで」

「第四王妃? ・・・どんな人間なの」

「それが・・・城内の女官でトリゴリアを良く言う者はおりません。何度となく自分の女官を殺したことがあるとか」

「ふふ・・・怖いこと」

「姫様。冗談ごとではございませんわよ」

 さすがに青くなり叱るティリアに、しかしマリエンフェルデは余裕綽綽だ。

「何しにここに来たのかもう一度よく考えなさい。他妃の嫌がらせなんて最初から覚悟していた事よ。どうせ辿る道はどうしたところで同じなんだから、放っておおき」

「-----------」

「他の妃のことは?」

「まだ充分に調べがいっておりませんで・・・」

 しかしティリアはその場で知るかぎりのことをマリエンフェルデに報告した。第一王妃リンカニアの事、彼女がどれだけ高潔で誇り高い女であるか、第二王妃アルマンソラの事は、マリエンフェルデも知っている。何度も難しくて訳のわからない謎掛けの文書を送ってきているからだ。マリエンフェルデは最初こそ訝ったが、じきにアルマンソラの雅びな意地悪だとわかり、最近では彼女の宮の制服を来た女官が来るのを楽しみにしている。

「第三王妃は?」

「それがまだ・・・・・・」

 マリエンフェルデとティリアがそんな会話をしていた時のことだ。

 見知らぬ女官用唐衣を来た女官が、畏まって宮にやってきたという。マリエンフェルデは一瞬眉を寄せ、

「通して」

 と言った。他ならぬ第三王妃ダエトの元からやってきた女官であった。

「-----------」

「主ダエト妃がマリエンフェルデ様を茶会に招待したいとの旨でございます」

「茶会?」

「はい。明後日・・・第三の宮の庭にてお待ち申し上げております」

「・・・・・・」

 マリエンフェルデはしばらく女官を見下ろしていたが、しばらくして

「-------わかったわ。了承したとお伝えなさい」

「それではそのように致します」

 女官が下がってからティリアがマリエンフェルデに眉を寄せて何か言いかけた。

「姫様」

「わかってるわ。行くわけないじゃない。どうせ何か企んでるに違いないのよ。その手には乗らないわ」

 マリエンフェルデはつ、と立ち上がった。

「それより調べを進めてちょうだい。・・・庭を歩くわ」

 庭の散歩はマリエンフェルデの気に入りの日課である。その広さは警備の兵士も思わず息を飲んだ程で、地味だが味わいのある方亭、水院(中庭の池)を雅びに臨める方鑑斎、月を見るだけにしつらえられたとっておきの臺、庭の中央部に造られた大池の真ん中に字のごとく虹のように美しい線を描いてたたずむ橋横虹臥月、あらゆる技術を駆使して造られた人工の石丘、それらに絵のごとく合うかのように植えられた柳や木々の数々。

 その広さは庭だけで第一王妃の宮の五倍はあると、専らの噂だ。 マリエンフェルデはティリアのみを連れ、後は警備の兵を従えて庭を歩いた。

「・・・」

 ふと吹いた風。その風に、何か不快な匂いを感じ取ったマリエンフェルデは眉を顰め、そちらの方向へ足を向けた。

「あっ・・・」

 ティリアが思わず声を上げた。兵士も立ちすくんでいる。

「---------」

 なんと庭の一画、大きな柳の木の枝に、血にまみれた馬の首が掛けられていたのである。 これにはティリアも度胆を抜かれ、腰を抜かしてしまった。マリエンフェルデは気丈なもので、なんとか立ってはいたが、怒りのためか恐怖のあまりか、唇をわなわなと震わせていた。

「・・・・・・」

 マリエンフェルデは爪を噛んだ。これは・・・。

「----------」

 彼女はスッと瞳を細めると、

「片付けておいて」

 兵士に言い残すと、足早に宮へと戻っていった。しばらく庭は歩かないつもりである。

 そして兵士に支えられて腰を抜かしたティリアが戻ってくると、しきりに恐縮する彼女を諌め、話し合いを始めた。

「私の宮に他の妃の女官が入り込んでいるわ」

「姫様・・・」

「よく考えればわかることだったわ。葡萄酒を飲む習慣や服の細部や、ましてや庭に入ってあんなことをするなんて、外部からだったら到底考えられない。でも内部の人間だったら話は違うわ。これは、少し状況を甘く見すぎていたわね」

 マリエンフェルデは立ち上がって窓の外を見、中央宮、つまり本宮の庭で歌うスキエルニエビツェの声とその姿を見ていた。



   残紅落ち尽くして始めて芳を吐く

       佳名喚びて百花の王と作す

       競い誇る天下無双の艶

       独り占む人間第一の香り



「・・・・・・」

 目を細めそれを聞いているマリエンフェルデの顔は、何にも増して冷酷だった。

「あれは私よ」

「そうでございますとも」

「ならばさしずめ私の邪魔をするのは害虫といったところね」

 これ以上ないほどに冷たい声で言うとマリエンフェルデは、振り返って微笑んだ。

「駆除に乗りだしましょ」

 冷たく、凍るようで、それでいてぞっとするほど美しい笑みであった。



 そんな殺伐とした空気を知ってか知らずか、アルマンソラの宮から、また使いがきた。 もう何度目かになる。マリエンフェルデももう慣れたもので、早々にそれを迎え入れた。

 以前のものは確か、「木よりも高いが、根を見た者なし、ぐんとそびえて、のびるはずないもの」であった。彼女は悩み悩んで、とうとう答えを出したものの、どう答えていいよからず、使いの女官に箱を持たせた。中身のない箱を。聞いたところによると、アルマンソラはなにもないじゃないの、と言ったそうだが、すかさずこちらへ、と窓際に誘い、彼方を指して答えでございます、と言わせた。

 アルマンソラは彼方にそびえる山を見て、満足そうに微笑んだという。

 さて今回はなんだろう。

 箱の中の紙はこう語った。



   声がないくせにひいひい泣いて

   羽根がないくせに ばたばた飛んで

   歯がないくせに きりきり噛んで

   口がないくせに ぶつぶつ言う


   これは何?

   

 必ず、前よりも難しいものを送ってくる。つまり毎回、難易度は上がっていくのだ。マリエンフェルデ、これには頭を悩ませた。時にはあの国王に抱かれている最中に答えを考えたりもした。声だけ上げていれば、あの男は満足するらしい。男とはなんと愚かな生き物なのだろう。

 ある日、嵐の前触れか、窓ががたがたと揺れているのを見た時、彼女はぴんときた。今が好機と女官を使いに出した。

 箱の中にはアルマンソラがいつもするように、自分の紋章の透かしの入っている紙を入れ、こう書いてあった。

「窓をお開けください」

 それを見たアルマンソラは、もう答えがなにか知っていて、口元に笑みを浮かべ、

「窓をお開け」

 と女官に命じた。嵐の前のこと、女官はよすようにと諭したが、アルマンソラはいいからお開け、と静かに言った。

 ガタン!

 ヒュウウウウウウウウウ・・・・・・

 物凄い勢いで風が吹き込み、部屋の中のものが一瞬にして散らばり乱れた。

「ふふふ・・・お見事ね」

 アルマンソラは嬉しそうに呟いたという。答えは風であった。

 


 ダエトがマリエンフェルデの噂を伝え聞いたのは早くからであった。どの宮の妃も、必ず自分の女官を密偵として他の宮に送っている。それはアルマンソラにしてもリンカニアにしても、互いの宮に自分の女官を送っていることには変わりはない。無論他の三人の妃たちの女官もダエトの宮に入り込んでいる。どの妃もそれを知ってはいるが、あえて口に出さないだけ。そして入り込んでいる女官が誰かもわからないまま。しかしダエトは他の宮に女官を送り諜報させるようなことはしていない。露見すれば殺してしまう妃も―――トリゴリアのことだが――― いるし、そんなことをしても下らない、自分はなるべく平穏に暮らしたいと日々思っているので・・・女官たちが他の宮に潜りこんではいないが、それでも女官たちのする噂話というのは、宮から宮へ、また例え違う宮の女官どうしでも、顔見知りであったり知り合いであったりすれば、上の目のないところで愚痴や自分のいる宮の話などをしてしまうもなのだ。

 だからこそ情報もまた早い。最近マリエンフェルデに対する嫌がらせが頓に多いという話を、女官たちが話しているのをギリアンが小耳に挟んだのだ。やり口からしてどう考えてもトリゴリアの仕業であった。リンカニアはそんな子供じみたことはしないし、アルマンソラはもっと雅びな意地悪をする。体験済みなのだ。

「葡萄酒の瓶にはすべて砕いた玻璃が入っていたとか・・・」

「相変わらず新鮮さというか・・・独創性に欠ける方だこと」

 仕方がないとでも言いたげにダエトはため息をついた。トリゴリアに向けて言った言葉である。彼女がなぜ一連の仕業がトリゴリアのせいかとわかったかというと、自分がすべて同じ目に遭わされているからだ。

「・・・どうしたものかしらね」

「第五王妃様はさぞかし怯えなさっておられるでしょう」

 ギリアンも案じた様子である。

「あの方も誇りが高いから・・・まさか元王族の第五王妃様にそんなことをされるとは思わなかったけれど」

「ダエト様。第五王妃さまをご招待しなさったらいかが?」

「――――え?」

「女官の方も一緒に。天気の良い日にお茶会でも開いて、色々とお話をしたりすれば、第五王妃様も少しはお気が晴れるのでは」

 ダエトはしばらく庭に目を馳せていたが、それを想像してみたのか、次第に瞳が明るみを帯びてきた。元は庶民の女である。そういったことは好きなはずだ。

「そう・・・ね」

 振り向きギリアンと顔を見合わせると、

「楽しいお茶会にしましょう。気がまぎれるような、派手ではないけれど心の篭もったお茶会に」

 そして準備は進められた。

 とっておきの香茶、とっておきの茶器、すべてつつがなく済むように、清い水を見た後のようなすがすがしい気持ちになるような茶会に。マリエンフェルデの宮に使者も送り、無事了承の意を受け、当日第三の宮は浮き浮きとしてその時を迎えた。

 しかし、マリエンフェルデは来なかった。

「・・・・・・どうやらすっぽかされてしまったようね」

「ダエト様・・・」

「いいわ。仕方がないわね、あれだけの目に遭ったら、たいていは誰も信じられなくなるものよ」

 主人は物事を思い詰めないタイプである。別に傷ついた様子は見られなかったが、しかし残念だ。第五王妃も第五王妃である。来る気がなければ来ないと言えばいいのに。仕方なく茶会は第三の宮の侍女女官たちと過ごしたが、気持ちのいいものであった。それは用意したものが良いからという理由ではなく、他の宮の間者のような女官たちにも、気付いていても気付かぬふりをして平等に振る舞うダエトの普段からの気立ての良さから生まれたものであった事には、間違えようのない事実であった。

 であるから余計に、ギリアンは主人の心遣いを理解しない第五王妃に腹を立てた。

 元王族だかなんだか知らないが、どうせ浅はかな思いから急遽考えを変えたに違いないのだ。それだけ自分が時めいていることを知らせたいのかそれとも単に世間知らずなのかはわからないが、愚かな女というのは時に、虫酸が疾るほど不愉快な存在である。

 トリゴリアがいい例だ。主人ダエトはあの第五王妃を高く評価しているが、今度ばかりはギリアンは、この主人の見立ては間違っていると思っている。

 主人ダエトは、あの好色な国王によってその人生をすべて変えられてしまった。結局、どれだけ彼女が運命に逆らわず流れるままに生きようとしたところで、彼女がそれで幸せでないことには変わりはないのだ。現に今も、あの楽師の歌に故郷を思い、窓の外を見るふりをして遠い目をしているではないか。



   紅事闌珊緑事新たなり

       毎に時節に因って涙巾を霑す

       遥かに知る桜筍厨に登る処

       姉妹団欒一人を少くを


 マリエンフェルデが麟に嫁いできてから一年――――。

 この国は大きく変わろうとしていた。



「どうだマリエン。最近あまり来られなくて淋しい思いをさせているから、その詫びだ」

 国王リンドハーストは満面の笑みを浮かべてこう言った。

「儂がいなくて淋しかったろう」

 そう言いつつ擦り寄ってくる。マリエンフェルデはいつもの素晴らしい笑みを浮かべた。

「ええ。夜の独り寝は淋しゅうございますわ陛下。次はいついらっしゃいますの?」

「わからんのだよ。少々仕事を蓄めてしまったようでな・・・朝事に出向かんとお前に贈り物もできなくなってしまった」

「淋しいですわ。・・・・・・陛下・・・」

 マリエンフェルデの瞳がきらりと光った。妖しくなまめかしく、それでいて氷のように冷たい輝きを持つ瞳である。

「他のお妃の宮に行かれては嫌です」

 それでいてこんなしおらしいことを言う。男ならたまったものではないだろう。

「経費が足りないと言うのなら、国境警備隊の数を減らしてしまえばよいではありませんか。羶と麟に戦の文字は存在しませんわ。二、三人でも多いくらいです」

「うんうんそうか。そうだな。少し多すぎるな。早速後で通達しておこう」

 リンドハースト、今にも溶け落ちてしまいそうな顔である。うつむき加減でそんなことを言っていたマリエンフェルデの瞳が一瞬キラリと光ったが、それは下を向いていたため国王には見えなかった。

 何食わぬ顔をしてマリエンフェルデは顔を上げ、彼の持ってきた贈り物へと目を移した。

「素晴らしいものばかり・・・マリエンは幸せですわ」

 彼女はそう言って振り返った。リンドハーストは得意満面といった態である。この男は段々俗物に近くなってくる、マリエンフェルデはそう思った。それでも自分が羶にいる頃は、好色であることを除けば、なかなか評判のよい名君であったというのに。しかしその名君を俗物にまで落としめたのが他ならぬ自分だと思うと、笑いが込み上げてくるほど愉快だった。

 しかし彼女の真の目的はこんなことではなかった。まだまだなのだ。

「そうだろう。その香炉は遠く天祥から取り寄せた極上の翡翠で出来ている。陽に透かしてみると、影が緑色に透けて見えるだろう。

 そこまで質のいい翡翠でこれだけの大きさのものは世界に二つとない。

 そっちの織物は十人の織り子が三年がかりで作り上げたものだ。

 美しい金色と緑・・・年に数度しかとれないという絹糸を使った」

「ああ陛下」

 マリエンフェルデは勢いよくリンドハーストに抱きついた。親子ほども年令の違う二人だ。

「嬉しゅうございます。・・・でも困りましたわ」

 リンドハーストは顔色を変えた。

「一体どうしたのだね」

「こんなに素晴らしい香炉を頂いても、それに見合うだけのお香をマリエンは持っていませんもの。どうしましょう・・・香炉は使ってこそが華。これでは持ち腐れとなってしまう」

 マリエンフェルデは哀しげに顔を伏せ、哀しげな声色で小さく言った。

「そんなことかマリエン。気が付かなかった。至急ありとあらゆる香を取り寄せよう。好きなものを好きなだけ取り寄せるがよい。何か欲しいものはあるか? うん?」

 マリエンフェルデの瞳が一瞬だがまた光った。

「では・・・」

 しばらくして国王リンドハーストは第五の宮から出てきた。待ち構えていた臣下の者たちは、取りあえずは日中から睦みあうようなことがないようなのでホッとしていた。一旦宮に入ると、昼だろうが夜だろうが国王は夢中になると三日も四日も出てこないのが当たり前になってしまう。仕事だとか朝事だとか、そんなものは自分には関係ないと思ってしまうのだ。ただでさえ最近たまった仕事が山積みになって、やっと重い腰を上げ仕事にとりかかり始めた反動で宮通いができないというのに、また宮に篭もられてはたまらない。

「おお陛下」

「お待ち申し上げておりました。実は先だっての貿易の件ですが・・・」

 しかし彼らの言葉は国王がスッと上げた制止の手で遮られた。

「通達である。国境警備隊の数を常時三人までに繰り下げること。どの国境もそうだ。余計な散財はしたくない」

「へ、陛下・・・」

「それから。今から言う香を至急取り寄せよ」

 臣下たちは慌てて懐から懐紙を出し筆記し始めた。一つでも聞き逃しがあったら首をはねられてしまう。いや、他にどんな残酷な死が待っているかわかったものではない。

「紫砂の『落下梅』。『灰霞』。『桜柳』。『時司』。それから次から述べるのは産地が特に限定されているものではない。 『白鷺舞』そして『青月』。『雪霜』。『環林』。『海波の暦』。『天の毒』。以上だ。なるべく早く―――二ヵ月以内に調達するように」

「二ヵ月・・・!」

「陛下・・・! 紫砂の『落下梅』というと、金貨百枚の幻の逸品という・・・」

「他の香はなんとか致しますが『天の毒』は・・・二ヵ月ではとても!」

「? ・・・陛下・・・・・・いずれへおわしになります?」

 くるりと背を返した国王を不審に思った一人がそんなことを言うと、肩越しにリンドハーストはこう言った。

「戻るのだ。当たり前であろうが・・・貴様らの汚い面を見たら気分が悪くなった。一週間も仕事をしていたのだ。よかろう」

「陛下・・・!」

 制止の声も虚しく、国王は宮の奥へと消えていってしまった。

 臣下たちは青ざめた顔を見合わせた。これから二ヵ月の間に、この首をつなげるために他の業務を怠ってでも十種もの香を集めなければならない。どれもが高額で、しかも手に入りにくいものばかりだ。二ヵ月後、自分たちは果たして無事に生きていられるだろうか?

 彼らはそんなことを思いながらそそくさと廊下を走り抜けていった。一分一秒も、無駄にすることはできないのだ。

 そんな彼らを嘲笑うかのように、たたみかけるようなマリエンフェルデの笑い声が後ろから聞こえてきた。




 その謎かけは結局のところ最後の謎かけとなるのだが、それを知りもせず、アルマンソラも、またマリエンフェルデもいつものように送りまた受け取った。それは後年、マリエンフェルデが何度となく話しては思い出に浸っていた数少ない思い出の一つだが、彼女はその話をするときとても笑顔でいたという。

 同じようにやってきた箱の中には複数のものが入っていた。

 編み針と毛糸。

 食事のとき、肉を切る際に使う刃。

 船に乗るときに見るような、変わった結び目。


 文には一言、


    足りないものは何?


 としたためてあった。

 これにはマリエンフェルデ、ティリアと二人であらゆる文献を漁った。あまりにも考え事をし過ぎて食事が進まず、たまたま国王と二人で食事をしていた時心配されたほどだ。

 答えはみつからなかった。随分とあちこちの書物を調べたが、特にこれといって何らかの隠語であったり意味が含まれているものでもない。「足りないもの」というのというくらいなのだから、なにか合わせてみてはどうだろう、とふたりして色々やってみた。毛糸をほどいて刃で切り。それを編み針に結びつける。だからなんなのだ、という結果に度々陥った。

 そうこうする内、二週間が経ってしまった。

 もやもやした気分を抱えたまま、マリエンフェルデは窓にもたれかかってぼうっとしていた。なにも、解かなくてはいけないわけではない。わかせないのなら放っておけばいいのだ。しかし一度答えを知る快感をしってしまった以上、そして新たな謎がこうしてかけられた以上、どうにも気持ちが治まらない。悶々とした日々がすぎてゆく。ある日、庭の池の金魚がゆらゆらときもちよさそうに泳いでいるのを見て、マリエンフェルデはぱちん、と何かが弾けるかのように思いついた。

「ティリア、古語の辞書を持ってきて」

「古語、でございますか」

「そうよ。早く」

 いつもなら早くと言われれば思った以上に早く事を進めるティリアであったが、今回ばかりは勝手が違った。待っていれば時間が遅くかかるのは待つ者の常と知っていて尚、マリエンフェルデはどうしてこんなに時間がかかるのかと思うほどティリアは時間をかけてやってきた。

「お待たせ致しました」

「時間がかかったのね」

「はい。思ったよりも書庫の奥の方にありまして・・・」

 それは貴重な貴重な一冊であった。マリエンフェルデはある目的のために生まれたときから英才教育を受けて来たが、その彼女とて、今日の今日まで思いつかないほど、彼女の意図する古語というものは古く忘れ去られたものであった。死語、というよりは、死滅した、といってもよいほどだ。

「いい、まずは『編み物』」

「『編み物』でございますか?」

「そうよ。いいから早く」

 多少の苛立ちを込めてマリエンフェルデは急かした。ティリアは妹のような存在で、守ってくれ、助言をくれる存在だ。だが彼女は、時々その境界線を忘れて本当の妹のように振舞う。実際、そう考えているのかもしれない。

「・・・・・・Knitでございます」

 ここにいる誰もその字を読めない。その為字引きは全てたどたどしく、字を書くという形でおこなわれた。最初の編み物は、「編み物」と発音するようだと、目をしぱしぱさせてティリアが言った。発音記号がほとんどかすれて読めないという。

「次。『刃』」

 これは『knife』であった。

 マリエンフェルデは親指を噛みながらにやりとした。

「わかったわ。足りないのはこの文字よ」

 なんと発音するのかわすらないし、自分はこの辞書すら持っていない。本当は切り取ってしまいたいものだが、この城にある唯一の書物だというのなら、そんなことはしたくはない。マリエンフェルデはまたもや頭を抱えることとなってしまった。


 一方のアルマンソラは庭にいた。五月の日差しを満喫するには、木陰にいながら日向をながめるに限る。そして最近はついぞマリエンフェルデからの返事がないが、いきなり難しすぎたかもしれない、もしかして降参かな、と思っていた頃に、いい調子で第五宮から使いが来た。アルマンソラはわくわくして起き上がった。あのお姫様、若くて美しいだけでなく、頭もそこそこよろしいようだ。雅を理解するようだし、あのいちいち家柄を鼻にかけてがたがたとうるさい第四王妃よりも何倍も楽しい。アルマンソラ、退屈なのだ。

 運ばれてきた箱は大型で、だからなのか兵士が二人して持ってきた。ものものしいこと、とアルマンソラが思う側から、箱の包みがするすると解かれていく。

「あら・・・」

 中には辞書が入っていた。小さな古い本だ。それはしっかりと丁寧に専用の留め金で留められていて、ページが動かないようになっている。そしてそこに、留め金と共に大きな虫眼鏡が置かれている。このページを覗いてころということなのだ。

 どれどれと顔を寄せてみると、そこには辞書のあの文字の最初の綴りの部分、「K」の説明がなされているページであった。大輪の花がほころぶように、アルマンソラは微笑んだ。

 第二王妃、これで古語を少したしなむらしいとマリエンフェルデが聞いたのはその後のことであった。



 麟に夏がやってきた。森に囲まれた麟は他国に比べれば夏という季節は比較的過ごしやすいが、それでもやはり暑いものである。

 相変わらず国王はマリエンフェルデの宮に入ったきり、出てくる気配もない。一方国政は悪くなる一方で、麟の資金繰りと約束の遅延などに信頼を持てなくなった大国宝霊が一切の交易を打ち切ってきた。マリエンフェルデの希望の品を取り寄せるために臣下一同奔走した結果のことである。仕事の片手間に探すといった次元のものではなかったのだ。それは先日の香の一件だけではない、彼女が何かを欲しがるたびに、麟の政治は完全に活動停止を余儀なくされ、その度に麟は国としての評判と信頼をなくしていく。国内は一層荒れ果て、最早麟の城下は死の街となった。

 そしてこの頃から―――――またまったく別の人間の暗躍が著しくなってきている。

 発端は第三の宮であった。

 いつものように午後の休息のための紅茶を飲んでいた第三王妃ダエトであったが――――・・・どことなくいつもと紅茶の味が違うことに奇妙さを感じていた。次第に気分が悪くなり、不審に思ったダエトは至急医者を呼んだ。思えばそれがよかったのだろう。 

 処置が早かったため彼女は無事だった。紅茶には毒が入れられており、紅茶の棚からは麟でのマリエンフェルデの紋章の替わりとなっている青と緑の波帯が置かれていた。毒殺は彼女が仕組んだかのように見えた。

「いいえ違うわ」

 当の被害者であるダエト王妃はしかし強い口調で反論した。

「私を毒殺したのならどうして仕立てた人間がわかるような細工をするかしら? あれでは第五王妃様がやったと言っているようなものだわ。本人が本当にそんなことをするのだったらわからないようにするはず。絶対に違うわ。第一動機がない」

 頭の良いダエトは続けて言った。

「考えてもごらんなさい。どうして第五王妃様が私を? 庶民出身、商人の娘の卑しい出であった私を、どうして自分の危険を顧みずに殺そうとなさるのか・・・理由がないもの。今一番時めいておられる方なのよ・・・リンカニア様を殺そうとするならともかく」

「-----それではいったい・・・」

 ギリアンは青くなってやっとのことで言った。ダエトは爪を噛んだ。

「・・・放っておきなさい」

「ですが・・・!」

「相手がわからない以上はそうするより仕方がない。それから、陛下にはお伝えしないように」

「ダエト様!」

「いいのよ」

 それから休むといってダエトは退室を命じた。

「・・・・・・」

 ギリアンはまだ恐怖で身体が震えるのを抑えられなかった。

 主人が毒殺・・・未遂とはいえ殺されそうになった事実は隠しようがない。よほど国王に報告しようとも思ったが、大抵の妃つき専属の女官というのは、国王ではなく仕えている妃にこそ親近感を持つもの、給料がいいだとか、結婚前の箔づけになるだとか、そんな浅い理由で宮廷にいる女官たちとは訳が違う。個人的な理由で妃を好いているからこそなのだ。だからこそ、国王よりも仕えている妃の命令に従う。気紛れでダエトの一生を狂わせ、宮へ通うその足が遠くなった国王などに、どうしてギリアンが報告できようか。

 ギリアンは唇を噛んで我慢することにした。

(それにしても一体・・・?)

 そして-----今回の毒殺未遂は勘違いや何かの手違いではないということがわかってきた。

 予断なく何らかの方法でダエトを殺さんとする見えない手の存在が次第に明らかになってきたからである。毎日毎日、それは巧妙な手で彼女の暗殺を仕組んでくる。注目すべきは、それらの三度に一度が、マリエンフェルデの仕組んだことであるかのようなやり方で起こるということであった。ギリアンは思った、もしかしたらこれは罠ではないのか?

 マリエンフェルデは、証拠となるものを残してこちらに警戒を与えないようにしておきながらも、実は本当にダエト暗殺をもくろんでいるのでは。

 ギリアンは首を振った。

 理由がないのだ。やろうと思えば極端な話、マリエンフェルデは口先一つでダエトを処刑することができる。

 ダエトは他の妃と違って気取らず風のように生きている有様を殊の外国王に気に入られており、他の妃たちとはまたまったく違う次元で国王に愛されている。マリエンフェルデにのめり込んでいる今の生活の中ですら、一言も国王に口うるさい進言をしたりせず、お心のままにと言ったダエトを、国王が他妃よりも大切にしているのは明らかだ。証拠にたまにだが、ささやかな贈り物を寄越してきたりする。ささやかだというのはマリエンフェルデに経費がかさんでいるからだとか愛情の差をそうやって見せ付けているのだとかそういうものではなくて、ダエトがそういうものを好むからだ。

 華美でなくていい、贈るという気持ちがほしいのだと。

 思わずため息をついたギリアンの背後-----ダエトの部屋で、悲鳴と共に何かが割れる激しい音がした。

 ギリアンは慌てて廊下を駆けた。



「何なの? 騒がしいわね」

 マリエンフェルデは手酌で葡萄酒を飲みながらだるげにティリアに聞いた。

「それが・・・」

 振り向いたティリアは言いにくそうだ。彼女にしては珍しいことである。

「? 何?」

「最近第三の宮はちょっとばかり荒れていまして・・・」

「第三・・・ああ・・・私をお茶会に誘った」

「そのことですが姫様。第三の宮では本当にお茶の支度をして待っていらしたそうですわ」

「なんですって?」

「調べて参りましたの。第三王妃ダエト殿は庶民出身・・・商人の娘だとか」

「・・・よくこんなところに嫁に来る気になったわね。断ろうと思えばできたでしょうに。国王は好色だけど嫌がる女は抱かないわ」

「それが姫様。報告によると第三王妃は少々変り者で・・・やってくるものに対して逆らおうとかそういうことを一切しないそうです」

「----------」

 では茶会の誘いも、本気だったのだろう。ティリアが伝え聞いたことによると、とっておきのものばかりを用意して、今か今かと待ち詫びていたそうだ。

「・・・・・・それは悪いことをしたわ」

 マリエンフェルデは窓の外を見ながら言った。

「聞き忘れたけど騒がしい理由はなんなの?」

「ここ二、三週間相次いで暗殺まがいのことをされているとか」

「暗殺?」

「はい。・・・それが・・・・・・」

「何? 隠さずにお言い」

 ティリアは渋々話した。三度に一度はマリエンフェルデの紋章つきで暗殺が企てられているということ、それをいつも、ダエトが力強く否定していること。

「何ですって・・・私の紋章が?」

 当然マリエンフェルデの反応は素早かった。

「どうしてもっと早く報せなかったの」

「お耳汚しかと・・・」

「ティリア。何のために麟に来たのか・・・もっとよく考えてちょうだい」

「申し訳ありません姫様」

「いいわ。それよりも支度してほしいことがあるわ」

 マリエンフェルデは自分が先程計画したことを打ち明け、驚くティリアに、

「いいでしょ?」

 と片目を瞑って見せた。それから一転してダエト暗殺を企む者に対しては、きつい顔となり窓に歩み寄った。沈黙が辺りを痛いほど支配する。

「-------最近新しく私の宮に入ってきた女官は誰?」

「・・・確か・・・城下の者でリュウェンダという娘ですわ」

 暗い光がマリエンフェルデの緑の瞳に宿った。

「調べてちょうだい」



 高らかな笑い声が室内に不快なほど響きわたった。その声は壁に反響し天井に反響し、窓すら震わせて轟かんばかりだ。

「いい気味だわ・・・あの女すっかり震えあがっているそうじゃないの」

 第四王妃トリゴリアである。

「わたくしより上の位置にいたりするからいけないのよ」

 甲高い笑い声を上げていたその顔が般若のように一転して凄まじいばかりの憎悪の表情となった。ジェローナはその変わりようにビクリとして身体を硬直させる。トリゴリアの手からは、血が滲んで床に滴っている。持っていた扇子を彼女が握り潰しているからだ。

 マリエンフェルデが麟に来てより幾度こうしたかわからぬほどの数の扇子がトリゴリアの餌食となっていた。

「卑しい庶民・・・しかも物を売り買いする商人の家の分際で、よくもわたくしの誇りをズタズタにしてくれたわ」

 パシン・・・

 トリゴリアが扇子を床に叩きつけた音が不気味に室内に響いた。

「我慢できない・・・あの女の下座に何度座らされたか!

 その度わたくしがどれだけの恥をかいたか! どうして貴族出身・・・麟にこの人ありと言われた絶世の美女、この世に二人といない美しいわたくしがあんな卑しい女に辱められなければならないの!」

 ガシャン!

 ガシャァン!

 側にあった玻璃の杯が次々に八つ当りの対象となって砕けていった。そのたびにジェローナは、次は自分かとびくびくせざるを得ない。

「見ておいで憎らしいダエト・・・あの女を殺して、わたくしが第三王妃に返り咲いてやるわ。何としてでも・・・絶対・・・絶対に殺してやる!」


 次々に壊れ砕け散る音は、しばらく第四の宮から聞こえ続けていた。


 ドドドドドド・・・

 いずこからか、静やかに、しかし確実に不気味に、何かが近付いてきている。数はとても多い。とてつもなく多い。馬の蹄の音である。時折聞こえる怒号は、ひた隠しにしてはいても、人間のものである。なるべく静かに、悟られぬように移動するよう、時々囁き合うのもまた、人間のものであり、真夜中の行軍が人間のものであることも、それが秘密裏に行なわれていることも、まったくゆるぎようのない事実であった。

「! あれは・・・」

 国境近くでそれに気づいた兵士も無論いた。しかし常時三人詰めである。狼煙を上げようとする前に、その支度をしている隙に、影も形も見えず、ただ居ることだけが確実な敵によって息の根を止められ、敵によって衣服鎧を脱がされ、そして埋められた。兵士のふりをすることになった敵の兵士たちは、平然と彼らの鎧を纏い、平然と本国との連絡を取り合って、日常を過ごしていた。どの国境でも同じことだった。そしてそれらはすべて同じようなことが記されていた、

『国境すべて異常なし』

 と。


 麟の夏が終わろうとする九月半ば-----。国王リンドハーストは、いつものように抱えきれないほどの贈り物と共に第五の宮を訪ったが、いつもとは違い顔色も悪く、どこか元気のないマリエンフェルデを見ておろおろとなっていた。

「いったいどうしたのかね。なぜそんな浮かない顔を? 何かあったのか」

 マリエンフェルデはうつむき、出るものは憂えげなため息ばかり、顔は青ざめどことなくやつれているようにすら見える。

「いいえ何も・・・・・・」

 そう答える言葉も芯がないかのように弱々しい。

「何もないはずがない。何があったのか・・・言ってみなさい」

「でも・・・」

「国王は儂だマリエン。どんなことも不可能はない。さあ」

「・・・それでは・・・」

 袂でさも気分が悪いとでも言いたげに顔を隠し、マリエンフェルデは恐る恐る言った。

「実は・・・第四王妃トリゴリア様のことなのです」

「何・・・トリゴリア?」

 国王も幾分青ざめた。予想していたよりも遥かに深刻な雰囲気を、マリエンフェルデの言葉と仕草から読み取ったのである。

「はい。実は最近第三の宮が騒がしいということを、陛下はご存じでしょうか」

「第三の・・・? いや・・・」

 リンドハーストは眉を寄せた。ダエトとトリゴリアと・・・いったい何の関係があるというのだ。

「騒がしいというのはどういうことだ。儂は何も聞かされておらんぞ」

「第三王妃ダエト様はお優しいから、陛下のお気をわずらわせてはいけないとお思いになったのですわ」

「どういうことだ」

「最近ダエト様を暗殺せんと目論む輩がいるらしいのです」

「何・・・!」

 リンドハーストは気色ばんだ。

 第三王妃ダエトは、他の妃とはまったく違った意味で心の安らぐ存在である。なにものに対しても着飾らない彼女は、日常すべての緊張を和らげてくれるようなそんな心優しいものを感じさせてくれる。性を越えた友達のような・・・そんな気やすい存在だ。だから完全な女として扱う他妃とは少々彼も扱いが違う。例えマリエンフェルデに溺れている現在でも、やはりダエトだけは気に掛かる―――そんな存在だ。

「それが--- 」

 言いさしてマリエンフエルデは悲しい顔になった。

「どうした」

「マリエンに疑いがかけられているのです」

「何・・・ダエトが?」

「いいえ違うのです。ダエト様はマリエンではないと言い張って下さっているのです。マリエンになぜ疑いがかけられたかというと、それはマリエンの紋章の帯がいつも暗殺の道具と共にそこに置かれているかららしいのです」

「おかしいではないか。もし本当にそなたがやっていたとしても、みすみすそんな自分が犯人だと言っているようなものを置くものか」

「はい。ダエト様もそう言われ、一人目に見えぬ暗殺者と戦っておられるのです」

「なぜダエトは・・・儂に一言言わぬのだ」

「陛下にご心配をおかけするのを厭っておられるのです。あの方はそういう方です」

「確かに・・・・・・しかしよりにもよってなぜダエトを? 一体誰が・・・」

「陛下・・・申し上げにくいのですが」

「何だ。言ってみなさい」

「・・・マリエンの紋章がいつも置かれているということは、何者かがマリエンの紋章を持ち出しているということです。内部に誰か密偵がいると、マリエンは思ったのです。

 そして見張った挙げ句に―――とうとうその者を捕らえたのです」

「何--------」

「ティリア」

 マリエンフェルデは張りのある声で叫んだ。ティリアが扉を開け、一礼して中に入ると彼女に続いて兵士に脇を固められ、縛り上げられた一人の女が入ってきた。

「この女は?」

「-------第四王妃トリゴリア様の密偵ですわ」

 悲しげに、不快げに、マリエンフェルデは女から目をそらして言った。

「---なんと」

 ここに致ってリンドハーストもやっと事態に気づいたようだ。

「それではトリゴリアがダエトを? そしてその犯人にそなたを据えようとしたと言うのか」

「この女官がすべて吐いたことですわ」

 袂で顔を口元を覆いながらマリエンフェルデは言った。ちらりとティリアを見る。ティリアはうなづき、キッと縛られた女を振り返った。よく見るとこの縛り上げられた女は、顔の身体のあちこちに尋問の後が見られる。

 しかし彼女は今や完全なティリアの奴隷であった。彼女に怯え、彼女に服従する。

「・・・・・・ト、トリゴリア様は・・・第三王妃ダエト様が・・・御自分より高い地位におられるのを--------御自分は第四王妃、ダエト様が第三王妃だということを-------ひどくお厭いなされて・・・・・・平民出身のダエト様より御自分が下座ということをひどくお怒りになって・・・・・・それで・・・ダエト様を亡き者にしようと。あの・・・第五王妃様にも、ついでに罪を着せてしまえばよい、と、こうおっしゃられて」

「なんということだ」

 さすがのリンドハーストも、これには怒りを隠せずにいる。

 よりにもよって、自分の妃の一人が別の妃を暗殺せんと目論み、また別の妃に罪を被せようとしたとは。

「この女官はマリエンフェルデ様の紋章の帯を盗みだそうとしているところを捕らえました。多くの者が見ています」

 ティリアはそう言い、公正な判断を国王に委ねたいとも言った。

 それを聞きリンドハーストは強くうなづき、明日にでもトリゴリアを呼び出しきつく問い糾すと言った。無論それはマリエンフェルデの宮に通える時間、言うなれば夜以外ということも、付け加えておかなければならない。今や彼にとって、マリエンフェルデと共にいない生活は考えられないのだ。

 その頃トリゴリアは、自分のこれからの運命も知らずに、一人第四の宮で高笑いを上げていた。

 だから彼女は、次の日日中に本宮に呼び出された時も、多少いつもと違うとは感じてはいても、それ以上の不信感を感じもせず、うきうきとして新しい香を薫き、新しい扇、自分に一番似合うと自負する波紋様地の撫子(表紅・裏淡紫)の襲を纏い、鼻歌すら歌いながらジェローナを従えて本宮へと赴いた。

 しかしそこで待っていたのは国王の最高に不機嫌な顔、彼女が今まで見たこともないような恐ろしい顔の国王リンドハーストの顔であった。

「・・・陛下・・・? いかがなさいました? 何かご不快なことでも?」

「存分にな」

 不機嫌に言いリンドハーストはトリゴリアにそこに座るよう重い口調で言った。

「・・・・・・」

 何か変だ、トリゴリアは瞬時にそう思った。どうして国王はあんなに不機嫌なのだ?

「儂が何を言いたいか・・・わかっておるなトリゴリア」

「わかりませんわ」

 半ば抗議するような不可解さで彼女はそう言った。

「わたくしが何かしでかしたとでも? 天に誓って万事が潔白のわたくしが?」

「ダエトを暗殺せんとしたただろう」

「---------」

 この時のトリゴリアの顔色の豹変ぶりを-------いったいどう表現したらいいものだろうか。言われた途端彼女の顔はサッと刷毛ではいたように青ざめた。そして見る見る内に灰色に変わっていき、次第に白くなり、また青くなって最後には怒りの為赤くなった。

「ど、どういうことですの陛下? わたくしは・・・」

「この期に及んでまだ言い訳を? 見苦しいぞトリゴリア」

 最初は抑えよう抑えようとしていた怒りが次第に膨らんでいくのをリンドハーストは大して意識もせずに爆発させようとしていた。

 いや、そんな自分にすら気が付かなかっただろう。今の彼は女好きのリンドハーストではなく、一個の国王となっていた。妃を暗殺せしめようとしたことよりも、むしろ他の妃に罪をかぶせようとした卑怯さに彼は激怒していた。マリエンフェルデだという理由からでは、必ずしもない。例え同じことを、第一王妃リンカニアがトリゴリアにしたとしてもやはり彼は同じように怒っただろう。要するに行いそれ自体が持つ卑怯さに、彼は今までないほどの憤りを感じているのだった。

「お前にはほとほと呆れたぞトリゴリア!」

 トリゴリアは真っ青になっておののいた。リンドハーストがこれほどにも怒るとは

・・・よりにもよってこの自分が。国王の寵愛を一身に受けていたこの自分が、かつてはリンカニアを凌ぐ勢いであったこの自分が!

「陛下・・・・・・」

「お前はしばらく宮で謹慎しておれ! お前のような妃がいるとは恥が大きすぎて誰にも言えぬ! 宮から出ることも、商人や楽師を呼ぶこともならぬ。第四の宮の入り口は封印し侍女女官も出入りは許さんぞトリゴリア。食事は運ばせるが今までのような贅沢は許されないものと覚悟せよ。儂がいいというまで、お前が反省の色を見せるまで、尼同然の生活をしておれ!」

 バン!

 リンドハーストは勢いも凄まじく扉を閉めて出ていった。入れ違いに、兵士が入ってきてトリゴリアの両腕をがっちりととった。

「な・・・なにをする」

 トリゴリアは放心から立ち直れないまま兵士に脇を固められて弱々しい声を上げた。

「放しなさい・・・わたくしは第四王妃ですよ!」

「あなたは第四王妃の位をたった今剥脱されました」

 新たに入ってきたもう少し地位の高い兵士がやってきて冷淡に言った。

「な・・・なに」

「国王陛下のお達しです」

「何を言う!」

 バシッ・・・

 トリゴリアがその兵士の頬を張る凄まじい音が響いた。脇を固めていた兵士たちの隙を見て兵士を殴ったトリゴリアの素早さは凄まじいものがある。

「連れていけ」

「放しなさい! ええ悔しい・・・覚えておいで!」

 トリゴリアの悲鳴は、聞き苦しいほどに大きく、・・・大きく宮に響き続けていた。


 一ヵ月経った。時は既に十月、秋も盛りという季節である。マリエンフェルデはトリゴリアの件ののちも引き続いて調査を続け、ダエトを狙う者が完全に消え失せたことを確認していた。トリゴリアの監禁と共にそれらが霧消したということは、またトリゴリアの見えない罪を何より確かに実証してもいた。そして同時にマリエンフェルデは茶会の準備を始め、一ヵ月かかってやっと人を呼べるだけの支度が整おうとしていた。

「・・・」

 マリエンフェルデは瞳を伏しがちにしてしみじみと言った。

「・・・人を呼ぶ茶会の支度って、案外大変なものね」

「姫様・・・」

「悪いことしたわ、ほんとに」

 ティリアにはマリエンフェルデの気持ちがわかった。もう少しちゃんと下調べをしていれば、相手に無礼な真似をせずとも済んだ。

 あちらはさぞかし気を悪くし残念に思ったに違いない。

 そして今日は、その詫びをする日である。マリエンフェルデはかつて行くといって反古にした茶会の詫びのしるしに、今度は自らが采配してダエトを茶会に招いたのだ。自分がしてもらった時のように、侍女女官たちも含め。第三の宮からの返事は喜んで応じるというとのものだった。マリエンフェルデは仕返しにすっぽかされるのを覚悟して、当日の朝まで奮闘した。相変わらずリンドハーストは彼女を溺愛していたが、今までのように朝から入り浸れる状態でもなくなっていた。朝事には出ていたが、最早その内容の半分はマリ

エンフェルデのいいなりであることを知る臣下の者は数少ない。夜は夜で、仕事が終われば真っ先に第五の宮へ通うことは城内の人間ならば誰でも知っていることであった。マリエンフェルデにはこれで充分だった。あれだけ彼女に溺れ、一時とはいえ朝も夜も関係なく彼女に夢中にさせることが本来の目的の一部であったのだから。

 一時といってしまえば簡単だが、それは実に一年も続き、事実上麟のすべてを失わせてしまったといっても過言ではなかった。

 マリエンフェルデはリンドハーストに頼んでこの日一日スキエルニエビツェを借り受け彼女に共にいるよう頼んだ。スキエルニエビツェは趣向を知って直ちに承知し、一旦本宮へ赴き着替え、簪笄も整えてやってきた。

 さて午後-----。ダエトがしきりに渋い顔をして暗に嫌がるギリアンや宮の女達と共に第五の宮に言葉どおりやってきた。

「まあ・・・」

 庭に通されたダエトはまず最初に感嘆ともつかぬ声を上げた。

 それは、宮殿で一番美しいといわれるマリエンフェルデの庭のなかでも一番美しく風情のある場所であった。理想的な弧を描いて池にかかる橋、その周りに幻のように咲く蓮、池の上流には方亭があり、そのしつらえも見事としか言いようがない。七宝の細工は城下の職人の苦肉にして生涯最高の出来、息を飲んで目をこらすごとに味わいが変わる。風もないうららかな午後の日差しを浴びて、柳や李の木が輝いている。枯れ落ちた葉、色は変われど未だ落ちぬ葉、常緑の葉、それぞれが入り交じって絶妙ともいえる美しさを造り上げている。これはもう、ひとつの理想郷としか言いようのない美しさ、洗練された一つの宇宙ですらあった。

 そしてその方亭でマリエンフェルデはダエトを待ち受けていた。

 そこに辿りつくまで、第三の宮一行を迎えたのは優雅なスキエルニエビツェのリュートの音。ダエトは無論のことギリアンや他の女官たちも、夢心地であったと後に上気して語る。

 この日マリエンフェルデは少女らしい紅葉(表赤色・裏濃赤色)の襲を纏い、池に映る姿も麗しく金の髪に負けないほどの輝く笑顔でダエトを迎えた。客として訪れたダエトは萩重(表紫・裏二藍)とこちらは落ち着いた色合いでしっとりと秋の庭を訪れる。そしてスキエルニエビツェは紫苑(表紫・裏蘇芳)の襲。黒い髪にはこういったしっとりとして渋い色も似合えば、ハッとするほど明るい色もよく似合う。それは黒い髪のおかげというよりはスキエルニエビツェの持つ独特の雰囲気であるといえよう。

 ポロォォンンン・・・

「ようこそいらっしゃいました」

 マリエンフェルデはダエトの姿が庭に現われた時から立ち上がって彼女を待ち、方亭に彼女がやってきて真っ先にそう言った。

 ロ・・・ォォンン・・・

 そしてダエトを座らせ、侍女女官たちも座らせると、自分も座りティリアに合図してさっそくお茶の支度をさせた。

 オオ・・・ポロロロロォォ・・・ン

「まず一番先にお詫びしなくてはなりません」

 マリエンフェルデは神妙な顔つきになって言った。

「先だってのこと・・・・無礼なことを致しましたわ」

 この時のマリエンフェルデは演技でもなんでもない、素直な彼女の心である。麟を訪れて向こう、誠心誠意をもってして自分に接する人間がいるとは、彼女は思ってもみなかったのだから。

「いいえ・・・聞けば随分とおひどい目に遭われたとか。ああなされるのも、無理のないことでした」

 主人のそんな言葉にギリアンはほっとする思いだった。間違っていたのはダエトでなくギリアンの考え------ギリアンは浅はかにもマリエンフェルデを無礼千万と罵っていたが-------よくよく考えれば、マリエンフェルデがトリゴリアにダエトがされたようなことをされていてもおかしくはなく、実際されていたからこそ主人ダエトが茶会に呼んだのにも関わらず、国王に寵愛されているという、無欲な主人に代わって嫉妬していたギリアンは、何も見えていなかった。自分はダエトには生涯かなわない、ギリアンはこの時しみじみと思った。

 賢くいつも冷静で先見の明に長けているという処では、ダエトとマリエンフェルデは驚くほど共通している。だから、この二人が打ち解けるまでにさほど時間がかからなかったというのは、想像に易い。スキエルニエビツェの風のように軽やかな歌声に聞き入りながら、二人は語り合った。

「まあ・・・それではあなたは麟の方ではないの」

「国籍は移してしまったから麟の者ですが、血でいうとまったく違いますわ」



 



   高松 疏月を鳴らし

       影を落として地に描くが如し

       徘徊其の下を愛し

       久しさに及んで寐ぬる能わず

       風に怯えて池荷捲き

       雨を病んで山果墜つ

       誰か余が苦吟に伴える

       満林絡緯啼く



「わたくしの父は商人でしたの」

「・・・・・・」

「仕事の関係で麟に移り住んだのですわ」

 そしてそれが彼女にとって一生の過ちになったとは、彼女は言わなかった。彼女は運命に逆らわず、訪れたことをあるがままに受けとめる。だからダエトは今の自分を不幸だとも哀れだとも思っていない。ただ、時々この不自由な生活からそっと抜け出したくなるだけだ。

 それから二人は色々なことを語り尽くすほど語り合った。互いの趣味や考え、相手の生き様の高雅さに舌を巻き風のような生き方に感心する。数時間後には二人は、十数年もずっと付き合いを続けてきた無二の親友のような心を互いに抱いていた。マリエンフェルデは、麟に来て以来というよりは、生まれてこの方、これだけ腹を割って何かを語り合える人間がいるとは思ってもいなかった。彼女にとっては何よりの驚きであり戸惑いであり嬉しいことでもあった。

 ダエトのような人間が存在していることすら驚きであるのに、彼女のように雲雀を思わせる女性が後宮にいるのもまた信じられないことだった。

 彼女はいてはならぬ鳥籠のなかに閉じ込められている、マリエンフェルデはそう直感していた。


  

   一夜 新霜 瓦に著いて軽し

       芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く

       寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて

       金粟の花は開いて 暁更に清し



 重陽の菊にちなんだ美しい詩が重い霞のように辺りに滔々と流れていった。スキエルニエビツェの朗々たる歌声・・・これほどの歓待もないだろう。重陽というのは九月九日のことを言い、陽(奇 )数の最も大きい「九」が重なることによる。この日は邪気が発散するので、高い所に登って邪気払いの菊酒を飲むというのがならわしなのだ。九月は菊の花が匂わんばかりに咲く季節。今は十月でそれは一月も前のことだが、しかし菊の名残りは未だ庭のあちこちに残っている。そういった季節の美を見逃さない機微に長けた吟遊詩人にとっては恰好の材料であったろう。

「麟の者ではないといえば、アルマンソラ様も同様ですのよ」

 ダエトは微笑を浮かべながら新しく淹れた香茶を飲みそう言った。

「・・・第二王妃の・・・?」

「ええ。あの方の実家・・・母方は、国外の人間だと聞きました。今より三代遡って麟に定住したとか」

「・・・・・・」


    罪は三代まで


「-------------」

 マリエンフェルデは緑の瞳を伏しがちにした。

 彼女の頭の中をこの時めぐった考え―――――誰に予想ができただろうか、そう、ティリアですら。

 二人は日没近くになって空気が冷たくなってきたのを理由に屋内へ入った。日が暮れても話は尽きず、長時間の滞在は無礼と考え帰ろうとするダエトを、マリエンフェルデはなかなか帰そうとしなかった。最早そんな他人行儀なものの下に支配される二人ではなかった。第三の宮の侍女女官たちは主人と共に第五の宮で食事をし、夜も遅くなってから自分たちの宮へと帰っていった。非常に気持ちのよい時間であった。

 侍女たちが部屋の片付けを終え、夜中になってやっと静まった部屋―――――その部屋の窓から庭を眺め、マリエンフェルデはある決意を抱いて静かに佇んでいた。

「ティリア」

「はい姫様」

 マリエンフェルデは長い沈黙のあと振り向いた。

「今から言うものを至急用意してちょうだい」



 十一月。森の王国麟の情勢はもうこれ以上行く所がないかのように堕ちるところまで堕ちていた。

 ある日の宴では国王はついにやってはならないことをしてしまった。

 これまで第一王妃リンカニアは、どんなに自分がないがしろにされても、自分には正妃という立場が残っている、それだけが救いだという一念で乗り越えてきていた。彼女を支える唯一にして最大の武器だった。そう思うことで彼女は自身救われていた。

 しかしその日の宴で、国王リンドハーストはリンカニアの上座にマリエンフェルデを置き、臣下の者たちの猛反対にも耳を貸さずにそのまま宴を最初から最後まで続けてしまった。アルマンソラとダエトは思わず顔を見合わせ、リンカニアは真っ青になってわなわな震える唇を噛みしめていた。それが彼女に残された最後の砦だった。

 そしてある日を境に他妃たちは宴にも呼ばれなくなった。

 国王は惜しみなくマリエンフェルデの欲しいものを買い与えた。

「マリエンフェルデの欲しいもの、すべてマリエンフェルデの元へ」

 という言葉が巷では囁かれるほどだった。毎日どこから来たのかと思うほどの商人たちが王宮に出入りし、品物を持って王宮に入り、出る頃には金貨の袋を荷車に乗せていた。羽根や頭からすべて金剛石を嵌めこんだ白鳥の置物が王宮に運ばれたときは、なんと金貨が一千枚積まれたという。荒廃していく麟の城下、きらびやかな第五の宮。そこからは終始嬌声が絶えず、そして今や執政の必要すらなくなってしまった麟の国王は、またかつてのように朝から幼妻の元に入り浸っているという。

 その朝――――マリエンフェルデは本宮の寝室から窓を見下ろしていた。第五の宮だけではない、彼女は本宮にすら赴いて国王と夜な夜な睦みあっていた。衝立の向こうにはさすがに毎晩励みすぎて疲れがきたのか、深い眠りに落ちている国王リンドハーストがいる。 マリエンフェルデは寝乱れた金の髪を乱暴になでつけ、落ちていた自分の襲の一枚だけを羽織って窓に歩み寄った。朝の寒い空気も、彼女の若さの前には威力を発揮することが出来ないのか、マリエンフェルデの大理石のような白い肌はわずかに赤みを帯びてこそいるが、鳥肌すらたててはいない。まぶしい秋の朝の陽の光の下で、スキエルニエビツェが庭の石に座って歌っていた。折しも第三の宮ダエトも、姿は見えていないがその歌声を耳にしている。



        故国の山水 清暉多し

        帰らんと日い帰らんと日いて 猶お未だ帰らず

        一夜 晧鶴の背に乗じて

        遠く明月峰頭に向かって飛ぶ



 〈 故郷の山川は清らかな光の中に。

  帰りたい、帰りたいと思いつつ、今日まで帰れないでいる。

  ある夜、夢の中で白鶴の背に乗り、

  はるかに天翔て、明月に照らされた月山の峰へと向かった。 〉

 


マリエンフェルデはカーテンをぐっと握り締めて唇を軽く噛み、ダエトはそっと目を瞑り微かにうつむいた。



  帰りたい、帰りたいと思いつつ---------。



 麟はマリエンフェルデが来てから二年目の正月を迎えようとしていた。

 烈十七年である。

 その日の夜遅く、マリエンフェルデは密かに寝室の窓辺に止まった鳥を見て駈け寄り、

「ご苦労様。手紙は?」

 幾分興奮してマリエンフェルデは鳥の足環から丸められた書簡を取り出しそれに素早く目をはしらせた。

「・・・」

 強い決意の光が文面を追うに従ってその緑の瞳に宿っていった。

何度も何度も読み返しそれを暗記してしまうと、それでも口の中で何度か諳じて呟いた。それからその書簡を近くにあった蝋燭にくべて燃してしまうと、再び鳥を放ち、階下に向かって一目散に走っていった。

「ティリア!」


「姫様・・・長うございました」

「そう? 私には短かったわ。二人でこれまで頑張ってきた・・・。思ってたよりずっと、・・・ずっと短かったわ。十年近くかかるって覚悟してたのに。男なんて所詮こんなものなのかも」

「姫様・・・」

「私は自分のこの身の上を悲しんでなどいないわ。ましてや犠牲者だなんて。私は誇り高い羶の王女。今まで、そしてこれからもずっと」

「そうでございますとも」


 興奮を押し隠すように、二人の密談は夜中まで続いていたようだ。



 半月が経った。相変わらずリンドハーストはマリエンフェルデに飽きることも知らず溺れていたが、その裏側で、マリエンフェルデは着実に準備を押し進めていた。

「返書・・・」

「はい」

 マリエンフェルデは疲れた顔で窓の桟に乗って呟いた。ティリアが紙と筆を持って彼女の言葉を一言一句残さず書き留めようと待ち構えている。

「元第四王妃トリゴリア・・・生きたまま生皮を剥いでおしまい。ああ・・・鏡も忘れないようにね。せいぜい醜くなっていく自分を見せ付けてなかなか死なないようにしておやり」

「他の妃はどうなさいます?」

「・・・」

 マリエンフェルデはしばらく考えてから自分の意見を機械的に言った。当初それは、驚くべき内容だったが、ティリアは異論も唱えず、黙々とそれを書き留めているに終始した。 本国はマリエンフェルデの決定に反対することはできないだろう。

 マリエンフェルデは立ち上がって窓を開け、冷たい風に身をさらした。ティリアの放った鳥は彼女の目の前を飛んでいき、本宮の庭を越えて飛んでいった。どこからかリュートが聞こえてくる。そして、きまぐれにそれに合わせて歌う楽師の声も。

 いよいよ決行------。

 時は明日の朝・・・。

 頭上を飛んでいく鳥を影で認めたスキエルニエビツェは、リュートを奏でる手を止めずに静かに歌を紡ぎ続けた。



       目に見えぬいずこか

       耳に届かぬいずこかで

       何かが起ころうとしている



 烈十七年一月二十日、それは突然に、そして計画的にやってきた。

 麟の国境線を全て押さえた羶の軍隊が、四方八方から粉塵を上げて麟を攻撃してきたのである。あまりにも突然のことだった。突然すぎて、リンドハーストは今までの怠惰な生活で勘がすっかり鈍ってしまったせいもあって―――なかなかすぐに対処することができなかった。国境に常時三人しかいなかった麟の兵士は簡単に数か月前から羶の兵士へと代わってしまっていた。あまりにも簡単な進軍の影に十代の少女の影が見え隠れしているのは否めないことだった。羶の兵士たちは容赦なく貧困に喘いでいた国民たちを惨殺していき、ついに王宮まで辿りつき殺戮と破壊を繰り広げていた。

 何者かが火をつけたのだろうか、煙があちこちから上がっている。

 第三の宮も大混乱だった。逃げ惑う侍女たち・・・しかしそれを見てダエトは一人冷静だった。

 これが自分の運命か・・・。ならばそれに従おう。所詮人というものは、自らの定められた運命には逆らえないもの、よしやそれから逃れられたとして、運命から外れてしまった人の運命の末路は悲惨なものが待っている。逆らうつもりはなかった、ここで死ぬというのなら、それが運命だったのだ。幸薄いと人は言うけれど、結構楽しい人生だった。

「ダエト様! お早く!」

「いいわ。ギリアン、あなただけお逃げなさい」

「・・・ダエト様?」

「見苦しい真似はしたくないわ。・・・定めなら従いましょう」

「----------」

 普段から主人の風のような生き方を知っていたギリアンであったから―――この言葉で彼女はダエトの言いたいことをすべて理解した。

「ダエト様」

「ギリアン。早く」

「・・・いいえ」

「---------」

「ダエト様がお逃げにならないというのに、どうしてわたくしが逃げられましょう。わたくしもお供致します」

「ギリアン・・・」

 ダエトは火の上がる本宮、時々窓に疾る羶の国章の入った鎧を纏う兵士の影を見て、目を細めた。

 なんという遠大な計画・・・あの方には本当に感心させられる。

 バタン!

「ひっ」

 ギリアンが短い悲鳴を上げた。羶の兵士が鍵を厳重にかけた扉を蹴破ったのである。煙の向こうから見えるは、両脇を羶の兵士にかためさせたマリエンフェルデ。

「-------------」

 ダエトはその凄絶な美しさにひとしきり言葉も出ない様子だった。

「マリエンフェルデ様・・・」

「まだ支度はできていないようね。-------あなたたちはここにいなさい」

 兵士に言い置き、彼らを戸口に残してマリエンフェルデは歩み寄った。

「ティリア」

 後ろからスッと出てきたティリアがマリエンフェルデに何かを差し出した。大きな大きな革の袋である。マリエンフェルデはそれを取り、無造作に床に投げた。

 ドサッという重い音がして、中から袋の一部がこぼれでた。金貨が数枚、そして何か文字の入っている・・・これは手形?

「これをあげるわ」

 マリエンフェルデは真っすぐにダエトを見て毅然として言った。

 恐る恐るそれをとったギリアンは、文字の書いてある何かを見て小さく叫んだ。

「これで八椿まで行きなさい」

「マリエンフェルデ様・・・・・・」

「あなた方は麟の人間ではないわ・・・これは大赦と思ってちょうだい。さ、早くお逃げなさい。じきにここも落ちる」

「・・・」

「そのお金で人生一からやり直すのね。今度はおかしな男にひっかからないようにして」

「マ・・・」

「そしてたまには便りをちょうだい。暇ができたら遊びに行くから。―――さあもう行って」

「ダエト様」

 ギリアンに促されてダエトは立ち上がった。

「マリエンフェルデ様。このご恩は忘れません」

「忘れていいわ。じゃあね」

 二人はマリエンフェルデの脇を通り抜けていった。下には二人の護衛のための兵士が待っている。王城の人間は皆殺しという命令が下っているため、二人が羶の兵士に勘違いされて殺されないようにとの配慮だ。そしてそれは、同じようにもう一人にも配慮されていた。

 第二王妃アルマンソラである。

 マリエンフェルデは同じように彼女の宮へ赴き、今まさに毒杯を呷ろうとしていた彼女から杯を奪って言った。

「竜淵までの手形と旅費よ。下に兵士が待っているわ」

「? ・・・」

「寄越す謎かけの文書ほど賢くないの、あなたって・・・逃がしてあげるって言ってるのよ」

「・・・私は麟の人間ですわよ」

「三代前は他国の人間だという話を聞いているわ」

 マリエンフェルデは冷ややかに脇息にもたれたままのアルマンソラを見下ろした。

「こういう言葉を知っている? 『罪は三代まで』。この罪っていうのは、血筋も含む一種の隠語なのよ。祖父が罪を犯し逃げのびたとしても、孫まで罪は残る。血もまた同じ。三代目ということは、まだ他国の人間ってことよ。あなたは運がいいわ。あと一代でも遅れてたら容赦なく殺していたもの」

 恐ろしいことをさらりと言って、マリエンフェルデは煙と炎の中アルマンソラを見た。

「あなたのおかげで退屈しないで済んだわ。だからこれはそのお礼も含めて。もうこんなに寛大になることはないでしょうね、。さあ行って。私ももう行かなくては」

 そしてまたアルマンソラも兵士に守られ専属女官グイネスと共に落ちのびた。

 逃げ惑う女たち、マリエンフェルデを見て裏切り者と斬りかかる兵士たちは精鋭の護衛の手によって次々と倒され、激しい炎と煙のなかマリエンフェルデはそんなことも意に介さないかのように悠然と廊下を歩いた。

 途中、そこで彼女はリュートを抱えたスキエルニエビツェと出会う。

「・・・・・・」

「・・・」

 ゴオオオオオ・・・

 ザザ・・・ァ・・・

 ひとしきり視線が絡み合い-----マリエンフェルデはふっと口元を崩して優美に笑った。炎に照らされ、その顔の凄まじいまでの美しさよ。

「・・・ごめんなさい、あなたのことを忘れていたわ」

「・・・」

「稀代の楽師を戦で殺してしまったとあっては私の名折れ。護衛をつけるわ。早くお逃げなさい。あなたは麟と羶には何の関係もなくただ巻き込まれただけなのだから」

「・・・・・・」

「・・・それともこのクズばかり住む国と心中するつもり?」

 マリエンフェルデは髪に挿していた簪をスッと抜き、また懐からも別に二本の簪を取り出してスキエルニエビツェに手渡した。

「マリエンフェルデ様・・・」

「これは私から・・・今まで随分あなたの歌に慰められてきた」

「・・・」

「いつの日か・・・私も都に行ってみたい」

 遠くを見つめマリエンフェルデは小さく呟いた。それはスキエルニエビツェにしか聞こえなかった。

「さ、もう行って。あなた達、彼女を途中まで護衛しなさい。他の人に代わってもらってついておいで。ゆっくり行くから」

 そしてマリエンフェルデはまた一人で歩きだした。

 マリエンフェルデは美しかった。

 纏う襲は氷(表白・裏白)、輿入の日に自ら持参し、唯一国王に贈らせなかった純白の襲。金の髪がそれに垂れ、緑の瞳は白と炎とを反射して爛々と輝いている。

 そしてまたその清冽なまでの白は自らの純潔を表しているようでもあった。身体は奪われようと心までは純潔と表したかのような、雪よりも更に白い白。

 追い付いた兵士と共に彼女が最後に辿りついた部屋、それは紛れもない国王リンドハーストの部屋だった。

「マママママリエンフェルデ」

 彼は抱えきれるだけの宝物を掻き集めている所だった。煙で顔は煤け、炎の熱さで汗まみれになり髪乱す様はあまりにも見苦しい。

「ははは早く、逃げよう、な・・・儂と一緒に・・・」

「まあ陛下」

 マリエンフェルデはこれ以上ないほどの冷徹な声で言った。 緑の瞳は凍り、吹雪すら思わせる残酷な瞳。

「おかしなことをおっしゃるのね。あなたはここで死にますのよ」

「なななな何の因果、で・・・」

 マリエンフェルデの表情が一変した。冷徹でも皮肉の入り混じっていた少女の瞳から、復讐する黒の天使のような恐ろしい顔に。

「十五年前の発巳の滅亡を忘れたか」

「---------------」

 ゴオオオオ・・・

 照りつける炎の明るさの中・・・リンドハーストの顔が一瞬凍りついてそのままになった。

「発巳の滅亡により恩恵を受けていた六公国は共に滅亡・・・何億という人間が死よりも辛い貧困と飢えに喘いで死んでいった。今の年号烈は発巳が滅びた呪いの記念。親交国であった羶は何千年かかろうともその記念を同じものによって塗り替えねばならぬ」

「・・・まさか------・・・」

 ゴォォォ・・・

 国王は絶句して言葉をうまくつなげなかった。

 マリエンフェルデはスッと瞳を細め、冷たく彼を見下ろして言った。

「そう・・・麟の滅亡で年号は変わる。これが羶の使命。私は羶の使者」

「マリエンフェ・・・!」

 それが国王リンドハーストの最後だった。斬りかかった兵士によって彼の五十二年の人生はあっけなく終わった。マリエンフェルデは死体を見下ろして息をしていないのを確認すると、大分火のまわってきた本宮を静やかに去るべく、依然悠々として廊下を歩いた。

 同じ頃、第一王妃リンカニアは国王と国と命運を共にすべく毒杯を呷っている。彼女は最後まで第一王妃だったといえよう。

 他の兵士たちと合流し将軍たちも引きつれ、マリエンフェルデは倒壊を始める王宮を悠然と歩いた。怯みも、臆することもなく。激しく燃え盛る炎の凄まじい音の影から、サラサラと衣擦れの音がもれる。

 煙の向こうから人影を見つめ、今まで冷たいまでに無表情だったマリエンフェルデの顔が一転して輝いた。

「マリエンフェルデ!」

 煙をくぐりぬけ駈け寄ってきた人影、それは彼女の最愛の兄、そして彼女の処女を奪った張本人。例え国命をかけた復讐のためとはいえ、十六の娘の純潔を卑劣漢に捧げることを厭った彼女の父が相手を誰とでもと許し、そしてマリエンフェルデは他人と交わるよりはいっそ肉親の方がいいと兄を選択した。たった一人の兄に対して肉親以上の愛を抱いている訳ではない、しかしそうすることを選んだマリエンフェルデの秘めた覚悟が、そこからも見て取れる。

「兄上・・・!」

 マリエンフェルデは駆け出して兄に抱きついた。しっかりとその首に手をまわし。

「ああ・・・」

「よくやった・・・さあ帰ろう・・・お前の故郷へ。-----羶へ」



  帰りたい、帰りたいと思いつつ、



「ええ・・・。私は麟の第五王妃ではなく・・・羶の第三王女。これからもずっと」

 その頬に触れ・・・兄は不敵に笑った。

 兄妹は兵士たちを従え、倒壊と炎上を続ける城を後にした。



  今日まで帰れなかった、

  我が故郷へ------------。







 ああ・・・。

 スキエルニエビツェはそこかしこから煙を上げる麟を小高い丘から見てかの国の滅亡を悟った。麟の黄昏、そして烈という時代の黄昏だ。

 寒い空気の中にきな臭い匂いが漂い、微かに生暖かい風が漂っている。赤い空は麟の上空だけ、後は、見上げる自分の顔も青くなるほどの素晴らしい寒空。白い息を吐きながらスキエルニエビツェは瞳に歓喜を浮かべてそんな美しい空を見ていた。

 ポロォォン・・・



   丘罏 郭門の外

       寒食 誰か家か哭する

       風 曠夜を吹いて 紙銭飛び

       古墓累々てとして 春草緑なり

       裳梨 花は映ず 白揚樹

       尽く是れ 死生離別の処

       冥寞たる重泉 哭すれども聞こえず

       薺薺たる暮雨 人帰り去る



「・・・・・・」

 胸が詰まる。

 あの姫君の未来や、いかなるものなのか。

 其は、黄昏の人。

スキエルニエビツェは立ち上がった。またしばらくは旅の空の暮らしである。

 さて次は、どの国へ行こうか。

 スキエルニエビツェは長い髪を簪でかきあげ、流れるけれども引きずらないようにしてまとめ、そしてまた、リュートを抱え煙を上げる麟を背後に歩み始めた。

 ポロン・・・・・・



       牡丹の妖艶人心を乱し

       一国狂うが如く金を惜しまず

       曷ぞ若かん東国の桃と李の

       果成り語無くして自ら陰を成すに



 歌声は風に乗り、炎上を続ける麟の上空にも小さく響き渡っていた。




 揺光---------揺光は全ての人間の願い星、努力だけで望みをかなえられないと嘆く者はこの星を見上げて祈るべ し。しかし断じて忘れることなかれ、この星に祈る願いは清けき願い万難を排してでもかなえたいと切望する者のみ許される。邪な願い己れの営利のための願い祈りし者は星の怒りをかい辿る運命は獣の末路を迎えその末期酸鼻を極め凄惨なものとなること努々忘れることなかれ。







   

   

    

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