レイクラと人魚のドレス
マウナカイアに暮らすレイクラと、人魚のお話。
1万3千字ほどの短編です。
海に潜っていたレイクラは海面越しに月をみあげる。
満月の日だからふたつの月は海に落っこちそうなほど、蜜色を帯びて淡く輝いていた。
海草でいっぱいになったカゴを背にザバッと海面に顔をだすと、水面に鮮やかな緑の髪がひろがった。
もうすぐ十八になるレイクラの瞳は、澄んだきれいなエメラルドグリーンをしている。
「レイクラ、カゴこっちよこせ。なかなかあがってこないから心配したぞ」
「タジン、ありがと!」
すぐに手漕ぎの小さな船に乗った幼馴染のタジンが近寄り、レイクラから受けとったカゴを引き揚げる。
海草の採集はレイクラにもできるが、重たいカゴを海から引き揚げるには男手がいる。
レイクラの父リカルドは網が脚に絡まってケガをして船には乗れないから、幼馴染のタジンが手伝ってくれて助かっている。
「レイクラもあがってこいよ、手を貸そうか?」
「平気。ちょっと待ってて」
身軽になったレイクラはもういちど海に深く潜っていく。
〝人魚のドレス〟を着て海にはいると人魚になり、水中でも息苦しさを感じずに身軽に泳げる。
青い人魚になったレイクラは海底でみつけた貝をいくつか拾い腰につけた袋にいれると、また海草の茂みをかきわけてまっすぐに上を目指す。
上へ。
そう、レイクラたち人間の世界に。
蜜色にかがやく月を目指して。
ザバァッ!
しぶきをまき散らして人魚となったレイクラが、水中から飛びだし空高く舞いあがる。
そのまま人魚のドレスから魔力をぬくとドレスがふわりとひろがり、レイクラのひきしまった褐色の脚があらわれた。
「タジン!」
「わわっと!」
飛びつくように抱きつけば、タジンはレイクラの体を抱きとめてバランスを崩しうしろに倒れこんだ。
「……ってぇ。びっくりするだろうが、船がひっくり返ったらどうすんだよ」
カゴにぶつけた頭をさすりながらタジンがぼやけば、抱きついたままでレイクラはクスクスと笑った。
「そしたらまた人魚になる」
「せっかく刈った海草ぶちまけちまうぞ?」
文句をいいながらもタジンの声は甘く優しい。レイクラの髪をなでてキスを落とすと、マウナカイアビーチにむかって船を進めた。
満月がくっきりとみえるほど空には雲ひとつなく、海は凪いでいて波も高くない。
「人魚のドレスもなぁ……材料になる海草採りが大変だよな、これさえなきゃもっとたくさん作れるのに」
「ふふっ、おかげであたしが作るドレスは高く売れるの。あたしのドレス、評判いいのよ?」
「そりゃなんつうか、体に馴染むんだよ。海にはいれば人間だってこと忘れちまう」
レイクラのドレスもタジンの腰巻も、レイクラが作ったものだ。〝人魚のドレス〟は魔道具で、もとは人魚が人間の娘に贈った花嫁衣裳だという。
人魚の男はドレスに自分の鱗を縫いつけ恋した娘に贈り、娘を人魚にかえて彼らの王国へ連れていくとされていた。
エクグラシア王国の南端にあるマウナカイアには〝人魚の末裔〟と呼ばれる民が住み、そのうち数軒だけが〝人魚のドレス〟の製法を受け継いでいた。レイクラの家もそのひとつだ。
「ラナの嫁入りももうすぐだもんな……レイクラも人魚に惚れたりしないよな?」
つぎの満月の晩、マウナカイアから人魚への嫁入りがある。村長の娘ラナに恋をした人魚が彼女を迎えにきて、人魚の王国カナイニラウに連れていく。
マウナカイアでも人魚との婚礼はひさしぶりで、浜辺に集まる人魚たちに自分もみそめられたいと、娘たちはみなソワソワしていた。
だからレイクラのところにドレスの注文がきたのだ。
「あたしにはタジンがいるもの。ねぇ、婚礼の夜は浜辺であたしと踊ってくれる?」
「あたりまえだろ、俺にはレイクラしかいねぇもん」
笑顔になったレイクラは月をみあげて歌いだす。遠く離れた恋人を想う切ない歌は、子どものころから知っている。
ドレスを作りながら耳で聴き覚えたものだ。月の光を浴びるレイクラを、タジンが目を細めてみつめた。
マウナカイアビーチのはずれにある小さな家、そこでレイクラは父リカルドと母マーヤの三人で暮らしていた。
家に帰ればさっそく採ってきた海草を大きな鍋にぶちこんだ。
海草をグラグラ煮て繊維をほぐし、それに貝殻の粉や魚の鱗、さらに深海魚の骨や浮袋などもくわえていく。
どろどろになった繊維を乾かして糸に紡ぎ紡ぎ、それを織るとドレスの元になる布ができあがる。
日に干すまでの作業をやってからレイクラがひと休みしていると、村長の使いがたずねてきた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだがね……ケガ人の世話を引き受けてもらえないだろうか。イーラお嬢さんが得体の知れない男を家に置いておきたくないと騒ぎだしてね」
リカルドの怪我をしっている村の者たちは、何かあればちょっとした仕事をレイクラに持ってくる。
このあいだの嵐でケガ人がひとり打ちあげられ、村長の家に保護されているのはレイクラも知っていた。
「脚をケガしていて歩くこともできん。しかも遭難したショックか口もきかず食事も摂らなくて。水だけは飲むんだが……婚礼の支度もあって、ケガ人の世話まで手が回らないんだ」
村長のところにはラナとイーラというふたりの娘がいる。嫁入りする姉のラナに嫉妬した妹のイーラは、まわりに当たり散らしているらしい。
とても落ちついてケガ人を置いておけないという。しゃべらず食事もとらないケガ人に万が一不幸でもあれば婚礼にさしつかえる。
「この家はビーチのはずれだし村長の家より静かに過ごせる。あの男にもいいと思うんだ」
家には置けないが、ケガをしたままの男を放りだすわけにもいかない。
厄介払いだが村長は謝礼をはずんでくれた。引き受けるとしばらくして、ひとりの男が運ばれてきた。
(思ったより若い……?)
髪も瞳も深い青色をしていて光をあびると透けるように光る。小さな家だから寝床は父リカルドの隣だ。
レイクラが浄化の魔法を使うと、男はギョッとしたように肩をすくませた。それにかまわずテキパキと消毒して薬をぬり、また包帯をていねいに巻く。
「ひどいケガだけれど骨は無事みたい、すぐに動けるようになるわよ。あたしはレイクラ、あんたは?」
「…………」
「ホントに口がきけないのね。まぁ、こっちはもらうもんもらったからいいけどさ」
波止場で釣ってきた魚を三枚におろし、包丁でたたいてさらにすり身にする。
におい消しの香草を刻んで混ぜて団子にし、煮たった鍋にほうりこんだ。
ていねいにアクをすくっていると男は目を丸くしてそれを見ている。
「父さんも大好物なのよ、しっかり出汁がでてるから、食べられなければスープだけでも飲みなさいよ」
ずいっと木製の椀をさしだすと、受けとった男はしばらく椀からたちのぼる湯気をみつめ、くん……とにおいを嗅いでから恐る恐る口をつけた。
ひと口飲んで目を輝かせ、あとはガツガツと食べはじめた。
「ここは食べものには困らないわ。小さな畑で芋も採れるし、海で魚もつかまえられる。太陽の日差しで庭の果物もとても甘いの。嵐がきたら困るけどね、パウアの実、食べる?」
皮をむいて差しだすと、男は困ったような顔をした。
「パウアの実、知らない?食べたことないんでしょ、ほら」
ギュッと口に押しこむと、しゅわりと溶ける甘い実に男はびっくりして目を丸くした。
「はじめて食べた人はみんなびっくりするのよ」
「…………」
おかしくなってクスクス笑うと、口をもぐもぐと動かしながら男はレイクラの顔をみかえした。
それから不思議なことがいくつも起こった。レイクラが朝目覚めれば家の前には海草が山盛りのカゴが置いてある。
タジンかと思ったけれど、彼は知らないという。波止場で釣りをすればふだんより大きな魚が釣れた。漁にでないレイクラの家には大助かりだ。
男の世話は思ったより手がかからない。朝と晩にケガの消毒をして薬をぬり、包帯をとりかえる。
あとは自分で寝返りを打ってくれるし食事の介助もいらない。リカルドが起きれば男に話しかけた。
「ほれ、立ちあがれなくたって、豆の皮むきぐらいはできるだろ。やってみな」
ふたりが黙々と豆をむいてザルを山盛りにすると、レイクラはおかしくなって笑った。
それが芋の皮むきだったり、糸紡ぎだったり……リカルドが教えては男が無言でやっていく。
毎日の生活は大変だけれど、ちょっとした笑いもある。
男は父とうまくやれているようで、リカルドがルールを教えて簡単なゲームを遊ぶこともあった。
レイクラが布を織り〝人魚のドレス〟をつくっていると、父の隣から興味深そうにみている。
「〝人魚のドレス〟をみるのははじめて?もとは人魚が人間の娘に贈った花嫁衣裳なの。あんた魔力はある?」
こくりとうなずいた男に、レイクラは笑いかけた。
「じゃああんたの脚がよくなったら、一枚腰巻をあげるわ。人魚になって海を泳ぐのは気持ちいいわよ!」
目を丸くした男の顔がおかしくて、レイクラはまたクスクスと笑った。
家をたずねてきたタジンはリカルドの隣にいる男をみて、面白くなさそうな顔をした。
「あいつ、いつまでいるんだ?」
「ケガが治るまでよ」
「婚礼が終わったら、村長んところに帰しちまえよ」
「そうはいかないわよ、もう謝礼はもらってるんだもの」
レイクラが金を貯めているのは、王都からやってくる医術師に父を診せるためだ。それを知っているはずなのに、タジンは口をとがらせた。
「けどさぁ……俺が漁から帰るといつも浜辺で待ってたのに、最近は姿をみせねぇじゃん」
そうだった……でもほんの十日ほどだ。手はかからないが、男の食べる量は父よりも多い。
三度の食事をしたくするのに母マーヤとふたりでも時間がかかり、漁から帰ってきた船を迎えにいかなかった。
波止場で釣った魚でじゅうぶん足りていたせいもある。
「ごめんねタジン、きょうは浜へいくから!」
謝られたタジンはちょっとだけ機嫌を直して、レイクラを抱きしめ髪にキスを落とした。
「あのさ……俺、漁にでたついでに、お前のために真珠を探してんだ」
レイクラは目を丸くした。貝からみつけた真珠をとっておいて花嫁に贈るのは人魚たちの習慣だ。
マウナカイアでも真珠を贈ることは結婚の申しこみと同じことだ。
「タジン……!」
うれしくなってタジンをみつめると、タジンは顔を真っ赤にしてそっぽをむく。
「まだだ、まだみつけてないからな。でもみつけたらレイクラへ真っ先にみせたいんだ」
「あたしはタジンさえいてくれれば、真珠なんていらないよ」
「俺だってかっこつけたいんだよ……あぁクソッ、みつけるまで黙ってようと思ったのに」
「あたしはうれしいよ、タジン、大好き!」
こんどはレイクラから、タジンのほっぺにキスをした。
手をふって帰っていくタジンを見送って、レイクラが家にもどると男と目があった。
気恥ずかしくてほほを染めたレイクラから、男はふっと視線をはずした。
漁がある日は急いで食事のしたくをすませた。
「母さん、浜へいってくるね!」
「いっておいで。ゆっくりしてきていいんだよ」
タジンに会いにいくことがわかっているマーヤに見送られ、レイクラはあわてて家をでた。
浜にはもう船が戻ってきていて、人でにぎわっている。
いつもより多い人をふしぎに思っていると、だれかがさけんだ。
「タジンが真珠をみつけたぞ!」
レイクラの心臓がドクンと跳ねた。船から降りるタジンに駆けよろうとして……村長の娘イーラがレイクラを押しのけた。
勢いあまってレイクラはその場でころび、全身が砂まみれになる。あっけにとられていると、イーラはタジンにまとわりつきはしゃいだ声をあげた。
「すごいわタジン、採れた真珠をみせて!」
そのままタジンが持っている真珠をのぞきこみ、目を輝かせるとタジンの腕に自分の腕を絡ませる。
「素敵……ねぇその真珠、父にみせにいきましょうよ、いっしょにきて!」
「え?ああ……」
ぐいぐいとひっぱるようにして、イーラはタジンを連れていってしまった。
あとに残されたレイクラはしばらく浜辺で待っていたけれど、タジンが村長の家から戻ってくる気配はなくてそのまま家に帰った。
その翌日も浜辺にいき、レイクラは漁からもどるタジンをでむかえた。
けれど彼はレイクラにあってもうれしそうにせず、抱きしめたりもしなかった。みつけた真珠の話もしない。その翌日もそうだった。
(タジン、どうしたんだろう……)
レイクラの心にいいようのない不安がひろがった。
そしてそのいやな予感は的中した。婚礼の準備で手伝いに駆りだされた村長の家で、最悪なカタチでそれは知らされた。
姉のラナが人魚に嫁入りするのが面白くなさそうだった妹のイーラが、ここ数日は上機嫌なのだという。
「イーラの機嫌がいいならよかったじゃない」
料理人たちのウワサ話に何気なく返事をすると、料理人のドナは眉をひそめた。
「レイクラ、あんた本気でいってるの?イーラの機嫌がいいのはタジンがイーラの婿になることが決まったからよ」
「……え?」
レイクラの手がとまり、運悪くたまたまそれを通りかかったイーラが聞きつけた。
「あらやだ、あたしの話?ラナ姉さんが嫁入りするから、あたしは婿をとらなきゃいけなくて……タジンなら働き者だからって、父さんもすぐ賛成してくれたわ。ラナ姉さんの披露宴であたしたちの婚約も発表されるの」
固まっているレイクラに、勝ち誇ったようすでイーラは続ける。
「タジンはね、こないだみつけた真珠をあたしに贈ってくれるのよ。あんな真珠、姉さんだって持ってないわ!」
レイクラは頭が真っ白になった。
タジンガイーラノムコニナル。
ウソダ。アノシンジュハアタシニクレルッテ。
そこまで考えてふと気づく。
「……そんな約束してなかったわ……」
『お前のために真珠を探してんだ』
タジンはそういったけど、みつけた真珠を『くれる』とはいってない。
あたしが勝手に思いこんでた……けれど、だって、タジンもそのつもりだと……。
それに真珠がみつかるかどうかなんて、だれにもわからなかった。
村長の家を飛びだしたレイクラの足はタジンの家にむかっていた。
イーラに聞かされただけでは信じられなくて、彼に会って……そして否定してもらいたかった。
タジンと直接話をして、「イーラの話を信じたのか、バカだなレイクラ」と笑い飛ばしてもらいたかった。
けれどレイクラの顔をみた彼は気まずそうに顔をこわばらせて、かえって彼女を絶望させた。
「村長の家で聞いたの……タジンが、イーラの婿になるって……ウソだよね?」
「……ウソじゃない」
震える声で必死にといかけても、タジンは目をそらして小さな声でつぶやくだけだ。
「タジン、どうして……?だって、あの真珠は」
アタシノタメニサガシテクレタンジャナイノ……?
問いかけを言葉にするまえに、タジンが勢いよくさえぎった。
「ちがう!レイクラのことは可愛いと思ってる……けどこの先もずっとお前がオヤジさんの面倒をみるんだろ?」
いままでそんな風にいわれたことはない。いつもタジンは応援してくれて、夜の海草採りにもつきあってくれて。
「そうよ……あたりまえじゃない、家族だもの。そんなの……最初からわかってたじゃない!」
「……ごめん。俺はそれがもうイヤなんだ」
タジンはただ謝るだけだ。そんな言葉が聞きたいんじゃない。
レイクラを抱きしめて、髪に優しくキスを落としてくれた彼はもういなかった。
目の前にいるのはレイクラの知らない男だった。真珠をイーラに贈って彼女の婿になる男。
騒ぎを聞きつけて家からでてきたタジンの母が、毛虫でもみつけたような目でレイクラをみた。
「タジン、いつまでレイクラに関わってるのさ。レイクラ、悪いけどウチにはもうこないでおくれ。変なウワサがたったりおめでたい席で騒がれても困るからね」
「あたし……」
何もしてない。そういいたいのに言葉はでてこなかった。
タジンの母がめんどくさそうに言葉を続ける。
「真面目なタジンは村長にイーラの婿として認められたんだよ。これからは漁にでるだけでなく、村のこともいろいろ相談したいって。レイクラにしてやったのはただの親切なんだから、勘ちがいしないでおくれ!」
「親切……勘ちがい……」
タジンのおばさんが何をいっているのかわからない。タジンはそっぽを向いて目を合わせようとしない。
あたしがただ親切に甘えてただけ?だったら最初から抱きしめたりしないでほしい。
ヤキモチを焼いたり出迎えをせがんだのはタジンなのに。
「お前のために真珠を探してんだ」なんていわれなければ勘ちがいなんてしなかったのに!
レイクラは何かしゃべろうとしたけれど、口を開けば涙がこぼれ落ちそうな気がして、ギュッと唇をかみしめるときびすを返した。
走り去るレイクラの後ろ姿をタジンが目で追うと、母がすかさず注意した。
「縁が切れてよかったよ。リカルドの病気は気の毒だけど、あの一家の面倒をみることになったらお前が可哀想だもの。タジン、レイクラのことはイーラお嬢さんの耳にいれるんじゃないよ」
「あ、ああ……」
レイクラが悪い娘じゃないことはわかっている。だけど村長の家に婿入りが決まったタジンの評判を落とすわけにはいかない。
タジンの母は息子の気をそらせようと声をかけた。
「さ、家にはいろう。さっそくお祝いの品が届いているよ。これから忙しくなるねぇ」
「ほんとか⁉」
走り去る娘はみすぼらしい海草色のドレスを着ていた。イーラならもっと鮮やかな色のドレスを着て、タジンの顔をみれば笑顔でかけよってくる。
ドレスを染める染料は高価だけれど、村長の家が染料代をケチることはなかった。そしてイーラは甘い声でタジンにねだるのだ。
「タジン、ねぇ真珠をみせて……あぁ、ほんとに素敵!」
真珠ひとつみつけただけでタジンの人生が変わった。きつめの性格だがイーラの顔は可愛い。
彼女の婿になれば、小さな船で漁にでるだけの毎日とはおさらばだ。
村の会合にでれば酒が飲めるし、遠くの街へ取引にいく機会だってある。
そのことを考えたら、幼馴染だった娘のことはどうでもよくなった。
村はずれの小さな家、病気でやせ細った父親。
幼馴染がもつマウナカイアの海みたいなエメラルドグリーンの髪や瞳も、月の光を浴びて輝く彼女の歌声に聞き惚れたことも。
タジンが好きだったものすべてが色あせてみえた。
レイクラは家の前を通り過ぎて古い波止場に向かった。あそこならどんなに泣いても叫んでもだれにも聞こえない。
「ひぐっ……ううっ……えぇ……ああああっ!」
どんなに泣いても涙は止まってくれなくて。ゴツゴツとした石をつかんで海に投げればトポン、と音がした。
レイクラはのどの奥からふりしぼるように声をだす。恋しい人の面影を追う切ない歌詞が身に沁みた。
この歌を最初に歌った人魚もこんな思いだったろうか。
声が枯れるまで歌い続け、涙と鼻水でしゃくりあげて咳きこんだとき、低くよく通る歌声が風に乗って流れてきた。
レイクラの家で療養していたはずの男が、波止場までやってきていた。
ぐいっと涙をふいてレイクラは自分に浄化の魔法をかけたが、まぶたはまだ腫れていた。
「あんた、歌えるんだ……脚のキズもよくなったみたいだね」
「どうして泣いてる」
「タジンが……婚約するって……満月の晩に」
ポツポツと話すと男は首をかしげた。
「めでたい話ではないか」
「そっか……ほかの人にはおめでたいよね。タジンはあたしのために真珠を探してくれてたの。それに満月の晩はあたしと踊ってくれるって。あたしはタジンが大好きだから、彼もあたしのこと好きなんだと勝手に思ってた……でもタジンはイーラに真珠を贈って彼女の婿になるんだって」
男が凍りついたように動きをとめた。
「なんだと?愚かな……せっかく吾が真珠をみつけさせてやったというのに……」
男の言葉をレイクラは聞いていなかった。
さっきは言葉にならなかった想いがどんどんあふれてくる。何も知らない相手に話すのは気が楽だった。
「けどね、ただの親切だって……勘ちがいするなって。タジンのおばさんにも怒られちゃった」
何も考えずタジンに抱きついたり抱きしめられたりしていた自分がイヤになる。
彼がキスを落としてくれた髪すらもいまはベトベトして気持ちが悪い。切り落としてしまいたいぐらいだ。
あれが勘ちがいだとしたら、この世の男なんてだれも信用できない。暗い気持ちで海をみていると男がいった。
「悲しみは海で洗えばいい」
「海で……」
そのままぼんやりと海をみていると、心は不思議と落ち着いた。
けれどレイクラは月をみて満月の日が近いことを思いだし、自分のひざに顔をうずめて男にこぼした。
「婚礼の手伝いに呼ばれているの。こんなことになるなら引き受けなきゃよかった……いきたくないよ」
「いくといい。だれも贈らぬのであれば吾がレイクラに真珠を贈る。人魚のドレスとともに……」
男が本気なのか、ただのなぐさめなのかもわからなかった。だからレイクラは泣き笑いでこう答えた。
「いいよ、こうやってあたしのそばでいつも歌ってくれるんならね。さっきの……また歌ってくれる?」
男の手がためらうようにレイクラの髪にふれた。
髪をなでながら低く紡がれる歌声を聴きながら、レイクラはそれに甘えてずっと泣いていた。
翌日、男は姿を消した。レイクラはだまって男が使っていた寝床を片づけ日に干した。
歩けるようになったらここにいる理由はない。あれは落ちこんでいたレイクラへのなぐさめだったのだ。
父のリカルドは何もいわずからっぽになった空間を眺めていたが、ひとりごとのようにいった。
「どんな姿、どんな体でも……生きていれば喜びがある。俺のこんなボロボロの体でもな」
「うん……王都からお医者さまがきたら診てもらおうね。きっと元気になるよ」
父が元気になるかもしれない……そう思えば沈んだ気持ちもなぐさめられた。
満月の晩、村長の家では婚礼の準備に大忙しだった。
イーラは目も覚めるような鮮やかな赤いドレスを着ていた。王都から取り寄せた染料で染めたものだ。
その胸に輝く真珠玉をみて、レイクラはつきんと胸が痛くなる。
「のど渇いたわ、エルッパちょうだい」
「まだ日が落ちたばかりですよ、サウラのジュースにしといたらどうですか」
きつい酒を頼んできたイーラを料理人のドナがたしなめたが、イーラは「平気よ」とうるさそうに手をふった。もうすでにだいぶ酔っているらしい。
勝手にエルッパをグラスにつぐと、レイクラをみつけバカにしたような顔をした。
「……あらレイクラ、そんな顔しなくてもタジンは返してあげるわよ」
「……え?」
聞きかえしたレイクラに、イーラは胸にさげた真珠をみせびらかすように持ちあげた。
「あたしはこの真珠さえ手にはいればそれでいいの、もうタジンに用はないわ。彼、すっかりその気になっちゃって。父さんと話してばかり……いいかげん退屈なのよね」
パシィッ!ガシャーン!
レイクラが思わずイーラのほほをはたいたら、彼女の手に持ったグラスが落ちて割れた。
その音にみながふりかえり、血相を変えてタジンが駆け寄ってくる。
「だいじょうぶか、イーラ!」
ギッとレイクラをにらみつけたイーラは、駆けつけたタジンにすがりつくとほほを押さえて泣きだした。
「タジン……痛いわ。レイクラが真珠をみたとたん、とつぜんあたしをっ……!」
「レイクラ……お前っ、母さんの言ったとおりだな……何てことを!」
「ちがう……あたし、ちがう……」
自分のことだけでなく、イーラはタジンのことまでバカにした。レイクラはそれが許せなかった。
けれど激昂したタジンはイーラをかばって、レイクラをどなりつけた。
「何がちがう、お前がイーラを叩くところをみてたぞ!」
「だから、それはタジンのために……!」
わけを話そうとした……けれどいつもレイクラのいうことを優しく聞いてくれたタジンはもういない。
「何が俺のために、だ。さんざん親切にしてやったのにめでたい夜に騒ぎを起こしやがって」
吐き捨てるタジンはもう、レイクラの知る優しい幼馴染ではなかった。
レイクラのほうが「真珠さえ手にはいればタジンに用はない」というイーラよりも、ずっとタジンを想っている。
けれどタジンはイーラがいいのだ。
「俺の前から消えろ!ここからでていけ!」
タジンの冷たい目に、イーラのあざけるような表情に……心がずんと冷えて凍った。
一歩、二歩。レイクラは後ずさった。着飾った娘たちとはちがい、手伝いで呼ばれたレイクラは〝人魚のドレス〟さえ着ていない。
村長から給金をもらっている以上、タジンから「でていけ」といわれても勝手に帰ることもできない。
そのとき、海鳴りがして海面が泡立った。
「人魚たちがくるよ!レイクラ、とっととグラスを片づけておくれ!」
ドナが声をかけ、せきたてるようにしてその場から連れだしてくれた。
「ほとぼりが冷めるまで裏で皿洗いと火の番をしてな。宴に顔をだすんじゃないよ、イーラお嬢さんに絡まれるから」
「うん……ごめん」
ドナはあらためてレイクラをながめた。
少しやつれて身なりはみすぼらしいものの、レイクラの澄んだエメラルドグリーンの瞳は美しく、すらりと伸びた手足にひきしまった肢体は、浜辺で踊りの輪に交じればきっと人目をひく。
年の近いレイクラをイーラが目の敵にするのもわかる。
「まったくあのお嬢様は自分が中心じゃないと気が済まないんだから……ラナお嬢さんがいなくなったら、ますますひどくなるんじゃないかね。タジンがうまいことおさえてくれればいいけど」
ラナの嫁入りが決まって、村長はイーラに婿を……と考えはじめ、真面目で働き者のタジンに目を留めたのだという。
大人の都合はレイクラのちっぽけな想いなど、どうでもいいのだ。
レイクラはごしごしと自分の目をこすり、タワシを手にとった。
浜辺にはかがり火が焚かれ、海には船が浮かびごちそうや酒が並べられた。
マウナカイアの民たちも男は腰巻、女たちは人魚のドレスを着て海にはいり人魚になる。
カナイニラウから里帰りした女たちは脚をだして浜辺にあがり、マウナカイアビーチは華やかなにぎわいをみせていた。
海からあらわれた人魚が村長の娘ラナに花嫁衣裳を贈り、ラナのしたくを待つあいだ浜辺で待ち焦がれるように歌を歌う。
その歌声は風に乗って厨房にいるレイクラのもとへも届いた。
伸びやかでよく響く人魚たちの歌……レイクラはふといなくなった男のことを思いだした。
厨房に配膳の手伝いをしていた村人が駆けこんでくる。
「料理をどんどん運んでおくれ。なんとカナイニラウの海王様まであらわれたんだよ!」
「海王様が?やだ、気になるねぇ」
浮足だったドナにレイクラが声をかける。ドナにはさっき助けてもらった。
「いってきなよ、ドナ。こっちの皿はあと盛りつけるだけでしょう?」
「そう?じゃちょっとみてくるね。海王様がどんなだったか、あとでレイクラにも教えてあげるよ」
ドナは料理の皿を手に、村人たちといっしょに厨房をでていった。
人魚の王国、カナイニラウを治める海王は海の精霊にも近い存在だという……気になるけれど宴に顔をだすなといわれている。
レイクラはふたたびタワシをにぎりしめると、ちょっとズルして浄化の魔法を使った。
したくの済んだ花嫁ラナが重そうな人魚のドレスを身にまとい、しずしずと浜辺を進む。
海にはいり水に濡れたドレスが脚を包み、ラナが人魚になると周囲から歓声があがった。
幸せそうな花婿に手をとられ、花嫁はほほえみを浮かべる。
いくつもの嫁入り道具が人の手から人魚たちへ渡された。
宴席の中央には村長とともに海王がならび、赤いドレスのイーラがすぐそばにいた。
料理を運んだドナは海王の姿にみとれたが、イーラをみて眉をあげた。
「でもイーラお嬢さん、あれはまずくないか。タジンそっちのけで海王様にすり寄ってさ」
「しょうがないよ、なんと海王様までが『花嫁を探しにきた』というんだもん。あれ、タジンは?」
主役のひとりであるはずのタジンはそこにいなかった。
レイクラは洗った皿をつみあげ、料理を皿にもりつけた。
花を飾れば華やかになるだろう……と考えて庭に目をやるとそこにタジンがいた。
タジンはズカズカと厨房に足をふみいれ、怯えて立ちすくむ彼女の腕をつかんだ。
「レイクラ、いこう。こんなところに一瞬だっていてたまるか!」
「ちょっと、タジン痛い!手をはなしてよ!」
痛みに悲鳴をあげたレイクラの声は、浜辺から聞こえる歓声に打ち消された。
「ちゃんと帰るから!仕事が終わったらすぐいなくなるから!」
泣きながらひきずられるレイクラの腕を、それでもタジンははなそうとしない。
レイクラの声など耳にはいらないようすでまくしたてた。
「イーラのやつ、海王様があらわれたとたん態度を変えやがって……俺にはお前がいる。そうだろう?」
「何の話……」
そのとき割れるような声が響いた。
「その手をはなさぬか……レイクラは吾が花嫁に迎える娘だ」
怒りをたたえた海王の瞳……黒真珠に赤珊瑚……豪奢な衣装と装身具を身につけた男の光る青い瞳は、レイクラにも見覚えがあるものだ。
パウアの実をほうりこんだときの目を丸くしたようす、リカルドとゲームをして楽しそうに細められた瞳、タジンが帰ったあとに目があうと気まずそうにそらされた瞳……。そう、あの瞳だ。
「あんたまさか……」
海王のうしろから、イーラがあわてたように駆けよってくる。
「海王様、花嫁に迎えるならあたしを!ラナの妹ですもの、どうか連れていってくださいな」
とりすがるイーラの顔を海王は冷たい目でみおろした。
「お前が胸にさげているのは漁師から贈られた婚約の品ではないのか?」
「こんなみすぼらしい真珠……海王様の耳飾りにもかないません。タジンに返しますわ」
ほうり投げられるように真珠を受けとったタジンが青ざめ、海王はあきれたようにため息をつく。
「……お前はケガをして弱っていた吾を『みたくない』といった。『得体が知れぬ男を家から追いだせ』とも」
イーラは海王の正体にようやく気づいた。姉の婚礼を口実に家から追いだした薄汚れたケガ人……においがして目にはいるのもいやだった。
「レイクラは吾に心づくしの食事を与え腰巻まで贈ってくれた。それでも……彼女には好いた男がいて、吾はレイクラの幸せを祈り、若い漁師の手助けをしたのだが。それがかえってレイクラを悲しませた」
海王はレイクラの前にひざまづく。
「心優しく明るいレイクラ、ケガをして動けぬ吾にも親切にしてくれた……花嫁としてカナイニラウに迎えたい」
「でもあたし、父さんを置いては……」
「いっちまえ!帰ってくんな!」
この場にいないはずの父リカルドの声が聞こえ、レイクラはあわてて父をさがした。
レイクラの父リカルドと母マーヤは波止場から船に乗せられて、人魚たちとともに浜辺にやってきていた。
「レイクラは俺にとって自慢の娘だ。このマウナカイアではだれよりもじょうずに〝人魚のドレス〟を作れる。料理だって俺の体調をきづかっていつも工夫してくれて。歌声だって海王様が聞き惚れるぐらいだ、そうだろう?」
「リカルド……あなたもいっしょに」
海王はうなずいてリカルドにも手をさしのべたが、父はきっぱりと首を横にふった。
「俺はいかねぇ……海王様の祠に祈ったのは『レイクラが幸せになれるように』……それだけだ」
願いごとはひとつだけ。それが叶うのであればそれ以上は望まない。だからこそその願いに賭けた。
「それに俺は食いもんが変わるのは性に合わねえ。俺はマウナカイアを離れないがレイクラをたのむ。もし泣いて帰ってくるようなことがあれば、お前を許さねえからな!」
海王はうなずいて笑った。寝食を共にし、海王に人の暮らしを教えたのはリカルドだ。
リカルドの娘だからこそ、海王はレイクラの手をとることに決めたのだ。
すべてがあっというまだった。父リカルドは王都の医術師にみせてくれると村長がうけあった。
人魚に嫁入りをした女たちが手伝い、レイクラはキラキラと光る鱗が縫いつけられた、白い人魚のドレスを身にまとう。
重いドレスのすそを持ち波止場で歌う海王の手をとれば、海の世界が彼女の住む場所になった。
海王は真珠と珊瑚でできた髪飾りをレイクラに贈り、満月の晩は月がよく見える砂浜に彼女を連れていき歌ってくれる。
この騒ぎのあと、イーラはおとなしくなった。真珠を返されたタジンは二度と彼女にそれを贈らなかった。
タジン、と呼ばれた男は真珠を持ってマウナカイアから姿を消した。
海王の怒りにふれた彼はもう、どんなに願っても海に入ることを許されなかった。
『俺の前から消えろ!ここからでていけ!』
放った言葉はすべて自分に返ってきた。
大好きな故郷の海、だいじな幼馴染……それらすべてを彼は失ったのだ。