3-3.『優しい人』?
家に戻ってからの事。
夜の風呂上がり、リビングのテレビでバラエティ番組を観ていた時だった。
「衣奈?」
「何ですか?」
話しかけてきたのは、母さんだった。
「今度の土日、元カレの家に遊びに行こうと思ってるけど、どう?」
「良いですけど……?」
先に入れている予定もなかったので、提案についてはひとまず受け入れた。
問題は、その『元カレ』がどの方なのかだ。
行き方などは、こちらが気にする事ではないとして―――――。
「そうなの? あ、遊びに行く事は、二人には内緒よ?」
「その二人、ここにいるんですけど……?」
「あっ……」
愛奈と勇には内緒にするつもりという事は、どちらかの父さんの所だろうか。
秘密にするなら、私の父さんに対しても、そうしておいた方がいいかもしれない。
同じリビングに二人がいる事を指摘すると、母さんは恥ずかしくなったのか、口で笑みを浮かべながら視線を逸らし、左手で目を覆う仕草をしていた。
顔を見せたいとは思っていたし、行く先々での交流を楽しみにしている所もある。
どういう方なのかについても、気になっていた。
それからは歯を磨き、自分の部屋に戻り、SENNを確かめてから眠った。
――――――――――
翌朝、通学途中のバス。
「あれ、棚橋……だったかな」
以前に話しかけた事のある人を見かけたので、もう一度近寄り、声をかけてみた。
別の学校の制服の、鞄に部活動のユニフォームを模したであろう編み物のストラップをぶら下げていた人だ。
名前について伺われたので、頷くように反応した。
「前に言ってた『緑の髪の眼鏡』って、あれの事?」
今日は、同じ部活動と思われる人が一緒だった。
私より一回り背の高い、暗い青紫色で、真っ直ぐな髪の人だ。
後ろ髪の長さは、前に話しかけていた人よりも、少し長い程度。
「どうも……」
彼女の方に挨拶をしながら、少しだけ頭を下げると、困惑気味にしながら微笑んでいた。
「なんであんなのと知り合いに?」
「あっちに訊いてよ」
しかし、それからは、車内の様子を見つめ、ときどき二人の方を見る程度。
時折、私の話題にはなっていたが、表情に困る内容だった。
良い表情はされないだろうとは、思ってはいたが。
降りるバス停まで近くなり、ドアの前に向かった。
その後、二人の方に視線を向け、笑みを浮かべるようにしながら、少しだけ左手を振った。
あちらからは、気にもされていないようだったが。
「よお、バシ。 何してんだ?」
その様子を、美佐さんと美夏さんに見られていた。
話しかけられたり、同じように手を振られたりして、緊張してしまった。
「い、いえ、特に何も……」
「嘘ついてんなよ、誰かいたんだろ? 知り合いとか」
知り合いの事を誤魔化そうとしたが、美佐さんにはお見通しだった。
美夏さんはその様子を見て、鼻で笑っていた。
「……その通りです」
認める以外、ありえなかった。
その後はバスの中で、二人とSENNを交換していた。
気になったのが、美佐さんのアイコン。
ノートにボールペンで描いたであろう、猫耳の青い髪と目の、ボタンが途中まで付けられているぶかぶかの白いワイシャツを着た、少女のイラストを撮影したものだった。
手はほとんどがシャツの袖で覆われているかのように描かれていて、ポーズは猫の鳴き声の真似が似合いそうなものだった。
胸と思われる影や線も、しっかりと描かれていた。
私がフレンドとして登録している人たちのほとんどが、マスコットや風景、自分の写真にしている中では、彼女のアイコンは浮いているとは思った。
「絵、描くんですか?」
「それは……ちょっとだけ……」
彼女にアイコンについて訊いてみると、視線を反らして照れていて、かなり緊張していた中で、小さい声で返事をした。
もしかして、恥ずかしがっている?
「綺麗な線……」
「……うっせえ」
なるべく褒めるように言ってみたが、それを良くは思わなかったのか、言い方が悪かったのか、舌打ちまでされた。
からかわれている、と思われた?
私には、漫画と差し支えない程の出来に見えていたのだが。
美夏さんの方はというと、笑みを浮かべるだけで、特に何も言わなかった。
それを確かめたあと、私は気分を害したと思い、一度彼女の方に少し頭を下げた。
「謝れ、なんて言ってないんだが……」
反応に困っていたようで、何か申し訳なく感じた。
「まあ、まあ。 棚橋さんが何か褒めたかったのは、分かってましたよ」
そこにフォローを入れてくるのが、美夏さんだ。
しばらく彼女からの話を聴いていた限りでは、美佐さんを褒める時は、良くないと思った所も言わないと、意見として受け入れられないらしい。
どうしてなのかは、「それは美佐がいる所では言えない」との事だった。
当の美佐さんは嫌そうにしていたが、そういう所も特徴なのだとか。
シャイな人……なのだろうか?
それからは、目的のバス停で降りて、教室前で別れるまで、三人で歩いて向かっていた。
美夏さんには、美佐さんの事を訊いてみようとも思っていたが、本人の前ではなかなか訊き出す気にはなれなかった。
入ったクラスの教室では、いつものように、先生や笠岡くん、井原さんといったクラスメイト達と挨拶を交わし、一人で自分の席から廊下の方を見つめ、授業の開始を待っていた。
そして、昼休み。
昼食の弁当を食べ終わり、別のクラスに向かってみる。
二年のクラスの教室は八つまで準備されていて、学園内での表記はローマ数字になっている。
クラス分けは、私や笠岡くんは一組、六島さんや瀬戸さんたちは二組。
私が向かっているのは四組だが、誰がいたのかは良く知らない。
少しだけ、顔を見せて戻ろうか。
――――――――――
開きっぱなしだった戸から、当たり前のように立ち入ってみた。
反応が怖かった所もあったが、周りは特に気にしてはいない様子だった。
窓際から最後列へ、そこから斜め後ろにある戸まで、迂回するようにして移動していた。
そんな中、一人だけ不満そうにしている男子を見かけた。
四列目の人だ。
特に何の変哲もない見た目をしていた。
「やあやあ、一組の『地味専レズの衣奈』さん」
「えっ? ……ああ、はい」
「地味な男はなだめるだけなんだな?」
いきなり名前を呼ばれたので、応じてみる。
恐怖心というか、心が締め付けられるかのような感覚になる。
出会って数秒で人を馬鹿に出来るのは、彼の持っているある種の才能だろう。
彼が私のあだ名に触れた途端、教室にいた何人かから視線を向けられた。
その中には、彼に対して向けられているものもあるのかもしれないが。
「そんな事は……」
「やっぱ馬鹿にしてるんだ? だって、俺とは格が違うんだもんな?」
一応返答してみるが、それにも見下したような言い方だ。
彼の話の中には、笑いも混ざっていた。
「してません」
「嘘ついてんじゃねえよ。 正直に『自分より下の人間だと思ってるから、擦り寄って優しいフリしてるんです』って言え」
「嘘じゃないですし、そんな嘘をつく理由も―――――」
「自分がバカだと思う奴には、嘘をつくまでの価値すらないって事だろ?」
釈明しようにも、先回りで非難を受けたり、わざとらしい物真似を混ぜて無茶振りをされたり―――――。
このやり取りの間、何をされるのかと不安になった。
「いや、そういう事……ではなくて……」
言われた事を、否定する事だけでも怖かった。
この後は何も言えず、困るような様相で彼を見つめていた。
この様子を見た人達の中では、どよめきも起きていた。
「じゃあ、何? 俺は嫌いって事?」
「いえ。 あなたの事も含めて、このクラスの人達……の事について気になって……。 顔だけでも教室に出してみようと思ってました。 ……ただそれだけの事です」
焦りつつ、どうしてここに来たかを話した。
普通なら、あれだけ言われた段階で、既に嫌われていてもおかしくない事だろう。
「へえ。 残念だったね、愛されてなくて」
彼の答えはこうだったが、逆にこの言葉が、私の自信になった。
私が多くの人に好かれる人ではなく、そういう人になれる資格も無い事は、自分でも分かっている事だった。
恐怖を覚えていたのは、絡まれてすぐに言われた事を、理不尽と認識していたからだ。
『地味専レズ』などと呼ばれる事はまだしも、男が嫌だとか、擦り寄っているとか、馬鹿にしているとかは、思ってもいない事だった。
そう取られるような行動をしてきた私も悪い。
しかし、彼も彼で、反応は過剰だったとも思う。
「いいんです、それでも」
「はあ?」
「私はあくまで、人について知りたいのであって、好きだとか言わせたいわけではないんです」
今まで物怖じしていたのが無かった事かのように、いつものように話が出来た。
「何? 今度は俺に擦り寄るんすか?」
「悪い方に言い換えるとしたら、そうなると思います」
「ああ、そう。 もう時間だろ、どっかに行ってくれ」
嫌そうにしていた彼の問いに、真面目になって返したところ、呆れられてしまった。
私は頷いて、言われた通りにして横を通った。
「あいつ、大丈夫かよ……」
「棚橋も棚橋で癖強いけど―――――」
何人かがささやいている中、最後列の机の横を通り、戸の方に向かう途中、一度彼の方に振り向いた。
教室を出てすぐの時にも、一度心配そうに彼の姿を見つめた。
申し訳ない、という気持ちもあったが、恐らくこれだけでは、彼にそのような気持ちは伝わらない。
『こいつにだけは見舞われてほしくないと思ってたの!』
私の事が嫌いだという人は一定数いる。
行動や活動において、好き嫌いが分かれるのは避けては通れない事で、無理やり嫌いだという人を潰すなどという事は、私には絶対に出来ないと思っている。
特に優れている所も、容姿の魅力も無いだろうし。
ただ、人と話していれば、いつかその人の印象が良い方に向くだろうと、信じ込んでいる所もある。
こちらの動き次第では、また悪い印象を持たせる事になるかもしれないが。
「擦り寄る……」
休み時間が終わった後の午後の授業中にも、彼に言われた事が頭から離れなかった。
『私のアイデンティティは一体何なのか?』
脳内にこびりついていたのが、この疑問だった。
何か大規模の大会で優勝したという経験もなく、顔や見た目が良いわけでもなく、世界的な有名人や資産家の下で生まれ育ったわけでもない。
埋もれるような個性が一つ二つある程度の私は、本当は「その他大勢」などと括られる人達とさして変わらないだろう。
そんな中で『私は違う』などと思い上がり、その人達の怒りを買うような態度を取っていると、間違いなく破滅する。
疑問について考えていた中で思いついたのは、『「その他大勢」のアイコンになれるような人を目指そう』というものだった。
ただ、そのために何をするべきかは、まだ具体的には分からなかった。
それに、既にそう言える存在の人はいるだろうし、こうした発想こそ『自分より下と見た人間に擦り寄っている』などと言われてもおかしくない。
考え事で、授業も頭に入ってこなかった。
指名される事が無かったのは、幸いと言えるのだろうか?
授業が終わり、下校する時にも、すれ違う人に向かって少しだけ手を振りながら、言い争いのようになっていた人が来るのを待った。
彼に対しては、謝りたいとも思っていた。
すれ違った人の中には知り合いや友達もいて、挨拶されたり、手を振っているのに反応してくれたりしていた。
「はしえな? 何してるの?」
そんな中で誰かに話しかけられたと思ったら、六島さんだった。
玉野さんも一緒だった。
彼女とは、少しだけやり取りをして別れた。
二人が前を通って、階段の方へ曲がるまで、視線と手を振る向きをそちらへと向けていた。
その後も、あの人らしい姿を見かける事はなく、諦めて下校した。
バスに乗ってから降りるまでの間、ずっと窓越しの街並みを見つめていた。
まだあの人に言われた事が、私の頭の中に残っていた。
――――――――――
家に戻って、晩ご飯を食べた後、しばらく自分の部屋で何もしないでいた。
「いる、衣奈?」
数回ドアを叩く音と、呼び出す声がした。
声は……きっと愛奈か母さんだ。
「はい?」
「これ、Maidariで買ったんだけど……。 置いとく?」
入ってきたのは愛奈で、以前にあげたものとは別の、クレーンゲームの景品と思わしきフィギュアの箱を差し出してきた。
パッケージは白地に水色と青、黒のカラーリングで、表向けの面にフィギュアの画像が大きくプリントされているものだった。
どうしてなのかは気になったが、貰おうかは少し迷った。
「……ありがとうございます」
それでも、とりあえず貰うことにした。
愛奈の方はというと、フィギュアを渡した後に、自分の部屋に戻っていった。
早速箱を開け、どんなものなのかを確かめた。
淡い青色のような長い髪に暗い青色の瞳で、水色に黒が差し色になっているカジュアルな衣装の、人として見れば少しグラマーな体型のキャラクターだった。
名前は―――――「KAYAME」?
左の手の甲の、水色の「RE-EL」のロゴからして、「リデレ」の一種だろうか。
玉野さんとにじのまちのゲームセンターで獲った、二色ムウのフィギュアの場合は右の手首にあったはずだが、この意匠の位置は、キャラクターによって異なるのかもしれない。
キャラそのものは、どう言えば良いか分からない。
しかし、これがもし相手が愛奈じゃなかったとしても、二つ返事で受け取っていたかもしれない。
それからは、しばらくそれをどこに飾るか、箱をどうするかなどを考えていた事以外は、いつも通りに家での時間を過ごした。
三話相当部分はこれで終わりです。
たまには言い換えになっている部分の元ネタについて探してみるのもいいかも……?