2-2.心と体
その次の日―――――。
生徒が集まってきた、授業が始まる直前の教室。
しかし、今日は井原さんがいない。
私の右隣の席―――――彼女の机の周りにも、いつもはいるはずの人達の姿がない。
まさかとは思うが、何か処分でも受けたのだろうか?
さすがにそれは無いと信じたい―――――。
『その見た目と不自然な優しさが、悪魔にしか見えないから!』
思い当たる節はあっても、それを学園に報告したのは私ではない。
席に座ってからも、普段彼女のいる席を、不安そうに見つめた。
一体どういう事なのか、と思っていたが、出欠を取る際に、芦屋先生から「保護者から風邪で休むと連絡があった」と伝えられた。
あまり長引かないといいのだが―――――。
そして、昼休み。
「さのり、どうしたんだろう?」
昼食を食べ終わってから、しばらく右隣の席を見つめていると、声をかけてきたのは笠岡くんだった。
「さあ……?」
彼もまた、井原さんの事を心配しているようだ。
「……仲良くなれるといいけど」
しばらくすると、こちらの事を気にかけるような事を言ってくれた。
「はい。 せめて、井原さんの周りにいる中の一人とだけでも……」
「そこまで気にしてるんだ……」
話してみると、彼の方が驚いていた。
「人の事を嫌いになれない、というか……」
「それも悪くないけど……疲れない?」
理由も話すと、笠岡くんはこちらを心配しているかのような質問を投げかけてきた。
「実は、ちょっとだけ……」
「そうか。 もし辛くなったら連絡してよ」
彼は、かなり気を使ってくれているようだった。
話を聞いてくれる、というのも有り難い事だ。
ただ、相談するか、しないかで、また迷ってしまうだろう。
「……いつもすみません」
「気にしなくていいよ」
心配をかけているかも、とすぐに謝って、すぐにそれをフォローしてくれる。
私が気にしすぎなのか、彼が優しいのか。
そう思っていた中で、女子が集まって、何かしらの話をしているであろう席を見かけた。
五人ほどで、その中には前に階段ですれ違った人など、見覚えのある人もいた。
その周りに、一人で歩いて向かっていく。
「あれ……あいつ?」
グループの中の一人がこちらを右手で指差してくると、何人かもこちらの方に振り向いてきた。
近寄った後、少し頭を下げて、挨拶をしてみたが―――――。
「ああ、あれは……」
すぐに彼女達の間でどよめきが起こった。
中には視線を反らして、左手で目を覆い隠す人もいた。
『まさかあいつが……』とでも、思われているのだろうか。
でも、そうした反応に怒っていては、前には進めないと思った。
「『悪魔』か。 何の用事があるわけ?」
かける言葉に迷い、しばらく立ち尽くしていると、あちらの方から伺われた。
それにしても、『悪魔』呼びがここまで広がっているとは思わなかった。
「……あの、今度の放課後……」
「まさか……」
少し時間を置いた後、言われた通りに話をするが、不安や懸念の声が上がる。
悪魔呼ばわりされているから、などではないだろう。
「皆さんに、ついて行っても……いいですか?」
そんな中でも、用事についての話を止めなかった。
反応が怖くて、緊張した。
二人ほどは一時笑っていたが、すぐに真剣そうな表情に変わっていた。
拒絶する理由も、受け入れる理由も、無いとも言い切れない。
普通なら、断られているはずだが―――――。
「理由は?」
「皆さんがどういう人なのか、と気になったので」
「……は?」
また少し時間が経ち、一人に目的を問われたので話したが、それを聞いた全員が困惑していた。
分かったとしても理由としてはくだらないものだし、彼女の反応もまた、文句の言えないものではある。
それでも、彼女達については気になってしまう。
名前や人格、好きな物や事など―――――。
そういった情報を『よく知らない相手』だからだろうか。
でも、それらより先は、私には踏み込めないというか、踏み込んではいけない気がする。
「駄目……ですよね?」
困惑する彼女達に、断られる前提で答えるように促した。
「当たり前でしょ?」
想定どおりの答えが返ってきた。
この時の彼女の返事には、若干の笑いが混じっていたが、こういう時に『本当に嫌だと思っていたら?』などと考えてしまうのもまた、私の癖なのだろうか。
「……すみません」
一度頭を下げて、歩いて自分の席に戻っていく。
「行った行った。 秘密迫られたらヤだったわ」
「何がしたかったの? 変な事しない?」
「本当にね。 あれがあだ名だって言われた時、すごいとこ突いたと思ったよね」
戻った後は、彼女達の会話で、私について触れられているような気がした。
良い意味ではないように聴こえるが。
それから、授業が終わり―――――。
「……おい、棚橋」
「美佐さん? 何ですか?」
教室から出て、後ろから声をかけられたと思ったら、美佐さんだった。
振り向いてみるが、彼女の視線は逸れている。
さらに後ろの方には、別の生徒が男女で一人ずつ立っていた。
男子の方は前はセンター分けで後ろが長め、女子の方は胸の少し上までの長さの髪だった。
二人とも、こちらの顔を見つめているかのように見えた。
『どうやって関係を持てたのか?』とか、『この二人はどういう人なのか?』とか、気になる事は次々と出てくる。
「お、お前さあ……」
こちらの前では緊張が抜けないのか、今日も若干たどたどしい話し方になっていた。
顔が赤くなる所や、視線が逸れる所も変わっていない。
まさか、私の事が『怖い』?
でも、悪い言葉は使ってこないし―――――。
それとも、圧迫感か何かを感じる所があるのだろうか?
「あたしが……ええ……四つ子だ……って事、知ってる……よな?」
「はい」
「あたし以外の……その……姉妹に興味とか、ない……のか?」
彼女は喋るたび、挙動不審になっていた。
視線と顔に加えて、身体は震えていて、自分の両手の指を交錯させていた。
「ありますよ。 ありますけど……今、その中で一番興味があるのって、美佐さんの事なんですよね」
「それ……本気で言ってんのか?」
問いにありのままに答えてみると、美佐さんは驚いていた。
私はというと、不用意に人を傷つけてしまったのかと思い、黙ってしまっていた。
後ろの二人も、手は出させまいと言わんばかりに、彼女の肩や腕を押さえていた。
「いや、あたし以外の、その、姉妹に用がある……とかいう奴ばっかだったから……」
少しの間を挟んで、彼女からの説明があった。
今までは、他の姉妹への橋渡しのような役割だったのだろうか?
「そうなんですね」
「……だから、お前の事も……最初は、あの、自分より、下の人間が相手だからって……えっと、優しい人……みたいなフリでも……」
「違います。 私、よく知らない同世代の人を見かけると、つい近寄ったりしてしまうんですよ」
「なんだよ、それ」
それからは少し、彼女との会話が盛り上がった。
『癖』についても話してみたが、嫌がる事はなく、むしろ鼻で笑っていた。
後ろの二人も、茶々や相槌を入れたりしていた。
「そういえば、あたしとお前って、友達……という事でいい……んだよな?」
その中で、彼女からの確認があった。
「……はい」
違う、などとは言えなかった。
本当はあまり深く知ろうとは思っていなかったのだが、知り合いも友達も、なるべく多い方が良いと思った。
「だったら、お前の事……これから『バシ』って呼んでも……いいか?」
「はい」
あだ名の事も確認されたが、あまり気にならないものだったので、受け入れる事に。
「……よろしくな、バシ」
「よろしくお願いします」
美佐さんは一度、私の左横を通るかのように歩くと、右後ろの方に回って左手でこちらの左肩を掴み、顔を見て話しかけた。
「今度、SENNだけでいいから教えてくれよ」
彼女の顔を見てみると、また赤くなっていて、無理やりこちらとの距離感覚を縮めようとしているようだった。
もう二人の方に視線を向けてみると、その様子を微笑みながら見ていた。
それから、帰り道―――――。
私は、市内の門のある、大きめの二階建の一軒家の前にいた。
井原さんの実家だ。
彼女が心配になって、寄ってしまった。
『留守だったら?』とか、『通報されないか?』とか、気にする事は一杯ある。
恐れるようにして、門の前に立ち寄った。
防犯カメラもあり、抵抗はますます強くなっていく。
しばらく立ち止まった後、私はインターホンを押した。
『はい?』
応対したのは、家にいた家族の中の誰かだった。
ここは二世帯住宅で、二つある表札のうちの「神辺」というものが母さんの旧姓だった記憶がある。
「棚橋です。 ……いきなりすみません」
『棚橋……はあ。 とりあえず、入ってきてください』
嫌そうに聞こえるが、言われた事に従って、門の先に足を踏み入れる。
整えられた庭を横切るようにして、家の引き戸の前へと向かって歩く。
しかし、取っ手には、なかなか手がつけられず、その場で立っていた。
「何を立ち尽くしているのです?」
「すみません、失礼します」
それを見かねたのか、黒い短髪の女性が、引き戸を引いてやってきた。
見た目からして、井原さんのお祖母さんだと思われるが、それが父方か母方かは分からない。
というか、覚えていない。
記憶が正しければ、この人を見かけるのは、中学三年の祭り以来のはずだ。
一度そちらの方に頭を下げて、家に入っていった。
靴を脱ぎ、通路へと上がっていく。
ついていった先は、リビングと思われるとても広い部屋だった。
床は畳で、部屋の奥側にある戸からは壁と庭が見える。
テーブルも、三台が連なるように置かれている。
ここでお祖母さんから、対面になる場所に座るように指示された。
「制服は学園のもの?」
「はい。 井原さんとは、同じクラスなんですよ」
鋭く感じる視線と、広い部屋の影響で、かなりの圧を感じる。
そんな状態での問答の中、嘘をつけというのは、無理な話だ。
「ほう……。 さのりに、何か用事でも?」
「風邪だと聞いて、心配になったので、その見舞いで……」
普通は、別にここまで行かなくてもいい。
それは分かってはいたつもりだった。
「まさか、あなたが? 一体どうして?」
「前は友達でしたし、学園での暴言が、今も信じられなくて……」
見舞いと聞いたお祖母さんの表情が、更に険しくなった。
そもそも、ここに来る事自体が間違いな気も、しない事はなかったが―――――。
「そうですか。 大きな理由はない、と……。 気を遣っているつもりである事は分かりました」
目を瞑ったり、額に親指を当てたりと、困り気味の様子だった。
怒りも入っている気がして心配になった。
「……え、なんで?」
そんな中で、声がしたので振り向いてみると、パジャマ姿の井原さんだった。
「なんで、ここにまでヤツが……?」
「私が入れました」
「心配で立ち寄ってみたら、とりあえず入ってと言われたので……」
「いや、本当に何してるの?! ふざけた事しないでよ、この緑の悪魔!」
「こら、さのり!!」
私とお祖母さんに質問してきたので説明した所、彼女を怒らせてしまった。
この場での悪魔呼ばわりは、余計に耳が痛くなる。
しかし、お祖母さんも、これに大きめの声で怒鳴るようにして井原さんの名前を呼び、怒りを顕にしていた。
この二人には、思わず驚いてしまった。
私もなんとか落ち着かせたいとは思っていたが、かける言葉に迷った。
「こんな所まで見舞いに来たというお客さんを相手に、何という呼び方をしているのですか?!」
「そんなの、こっちの勝手でしょ?! 大体、棚橋にだけは見舞われたくないと思ってたの! 分かっててここに入れたわけ?!」
そして、親子の口論が始まった。
でも、少し考えてみよう。
本人に嫌われている事を知っていてここに見舞いに来た私、それを家に上がらせたお祖母さん、そのお祖母さんの目の前で私の心配を反故にするような発言をした井原さん。
落ち度はこの場の全員にある。
でも、この中で、最も悪かったのは―――――私なのでは?
そもそも私がこの場に行かなければ、井原さんが家に来た私に怒る事もなかったかもしれない。
わざわざこんな事はしないで、誰かを経由して伝えられれば、それで良かったと気付いたが、もう手遅れだろうか。
『私が生きている事』それ自体が、井原さんにとって『最も気に入らない事』のようになっていたら、それもまた無意味になってしまうが。
「ええ、あなたから不満は聞いていました。 しかし、事情の確認が―――――」
「すみませんでした」
お祖母さんが井原さんに説明している途中に、頭を下げて謝った。
水を差すのも良くないとは思っていたが、大きな喧嘩になる前に止めた方が、相手にとっては良いかもしれないと思った。
「……頭を上げなさい」
しばらく二人が困惑した後、お祖母さんの言われた通りに下げた頭を戻して、視線をそちらの方に向ける。
喋り方には、怒りが残っているように感じた。
「悪気はなかったのですか?」
「はい」
自分の目の前に歩いてきて、何をされるかと思ったが、とくに手出しはしてこなかった。
訊かれた事に、ただ返事をするだけだった。
「そうですか。 棚橋……と言いましたね」
それを耳にした彼女は、こちらの名前を呼んできた。
「今後、さのりの事ではここに来ない事!! いいね?!」
「わかりました。 ……本当にすみません」
忠告を受けた後、もう一度謝った。
そこまで気にしていないようにも見えたが、自分にも悪いところがあった以上、謝っておかないといけない気がした。
とりあえず、『怒らせると怖い人だ』、などと考えている場合ではない。
「では、失礼します」
部屋から廊下に戻る際、一度二人の方に頭を下げた。
「待ちなさい」
玄関で靴を履こうと座っていると、お祖母さんが声をかけてきた。
右手には、紙袋を持っていた。
「お客さんの前で、見苦しい所を見せてしまって申し訳ないね。 これでも持って帰りなさい」
「すみません、本当に」
「そこはありがとう、でしょう?」
「……はい」
彼女は、持っていた紙袋を渡してくれた。
中身は―――――帰ってから確かめようか。