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雨の中の昨日(過去編)11/12

 鳥居をくぐった先には、屋久杉をさらにひとまわり大きくしたような、尋常じゃない規模の大樹が厳かに鎮座していた。周囲のほかの木々と比べて存在が明らかに異質だ。


 神々しい。

 

 そのむきだしの生命の輝きに圧倒されて、自然と背筋が伸びてしまう。


「ここの森が浮いてるのって、あのでっかい木のおかげなんだってよ」


 と、朱音が大樹を見上げる。


 高崎も真似して見上げてみるが、痛くなるほどに首を反らしても、てっぺんが見える気配は一向にない。どれだけ大きいのだろう。


「すげえよな。ここって、テーコクさんが一人で作ったらしいぜ」


「“ここ”って、どの範囲までのことを言ってるの?」


「この浮いてる森全部だよ。なんか、ほかの偉い人がそう言ってた」


「ええ……」

 

 言葉にならない。

 

 いくら記号ツリーツェが特殊な力を持っているからと言って、個人の力で森を生みだし、それを空に浮かすことなんてできるのだろうか。

 

 思えば、テーコクという人物もたいがい謎だ。子供にしか見えない容姿ながら、数百年の時を生きていて、“協会”の幹部を務めている。


「テーコクさんって、何者なんだろう」


「噂じゃ神話の記号ツリーツェだって聞いたぜ」


「神話――」

 

 なるほど。言われてみれば、神話だって立派な物語だ。いや、それどころか、神話は人類と最も関わりの深い物語のひとつだと言えるのかもしれない。

 

 神話の記号ツリーツェ

 

 テーコクは本来、神様として生まれるはずの存在だったのだろうか。だとすれば、あらゆることが腑に落ちる。

 

 悠久の時を生き、たった一人で自然を創造してしまうなんて――まさに、神業としか言いようがないじゃないか。


「高崎さん、こっち座ろうぜ」

 

 朱音が手招きをする。神社の敷地内には、けして立派とは言えない質素なやしろがこぢんまりと佇んでいた。

 

 高崎は朱音と並んで、社の縁側に腰を下ろす。


「ねえ、その――あかねちゃん」

 

 不自然なイントネーションで、朱音の名前を呼んでしまった。 


 ここに来るまで、高崎は朱音と普通に会話をすることができていた。


 それでも、“あかね”という名前は、高崎の中で意味を持ちすぎていて、彼女のことを名前で呼ぶことだけは、実はまだ一度もできていない。


 しかし二人きりで会話をする以上、その名前を避け続けるわけにはいかないだろう。


 そう、いつまでも、避け続けるわけにはいかない。


“きみ”とか、 “そっち”とか、そういう呼びかたでごまかすこともできるけれど、それはさすがにぎこちなさすぎる。


 目の前の少女に罪はない。こちらが勝手に気まずくなっているだけで。


 高崎は咳払いをすると、覚悟を決めて、改めてその名前を呼ぶ。


「朱音ちゃん、私に話って、なに?」


「それなんだけどな――」

 

 朱音はそこで口をつぐみ、わずかに目を伏せった。


 思い悩んでいるようにも、緊張しているようにも見える。さばさばとした言動が多い彼女にしては珍しい、しっとりとした表情だ。


 それでもやはり、彼女の気持ちの切り替えは速かった。数秒後にはもう、朱音は高崎の目を見据えて、堂々と正面から斬り込むようにこう言っていた。


「高崎さん、私たちの親代わりになってくれねえか?」


「えっ」

 

 まったくもって、予想していなかった言葉だった。春心に続いて、朱音にまでそれを言われるとは。

 

 光栄な話ではある。


 でも、やはりどうしたって疑問が勝ってしまう。


 少々乱暴な言いかただが、高崎がなにをしたというのだ。春心と朱音は、高崎のどこを見て、親に相応しいと判断してくれたのだろうか。


 朱音が照れくさそうにしながら話を続けた。


「つーかな、春心の親になってほしいんだよ。あいつさ、高崎さんのこと信じてるから」


「信じてる……?」


「あいつ、なんで一か月前に、高崎さんにお母さんになってほしいなんて言ったかわかるか?」


「……ごめん。それが、わからなくて」

 

 いいんだ、わかったらすげえよと、朱音は笑った。これは私たちの問題なんだ――とも。


「高崎さん、私たちに『ずっといていいよ』って言ったよな」

 

 申し訳ないことに、高崎は自分がそんな発言をしたということを、すぐには思い出せなかった。

 

 しかし忘れたとは言えそうにない場面だ。高崎は必死で記憶を辿る。


 ――思い出した。


 一か月前、五人の少女たちと初めて出会ったあの日。高崎が彼女たちのためにカレーを作っていた最中に、お風呂から上がってきた彼女たちと、互いに自己紹介をしたあのときのこと。


 高崎は初めて朱音の名前を知り、動揺した。そしてその動揺を隠すために、勢いで彼女たちに言ったのだった。


『あー、いいよいいよ、ずっといても!』と。

 

 どうりですぐに思い出せなかったわけだ。

 

 あれは朱音の名前に気を取られていたせいで、ほぼ無意識のうちにした発言だったのだから。

 

 考えて言った言葉ではない。


 だが、言ったことそれ自体は紛れもない事実だ。


「うん、言ったね」

 

 高崎が頷くと、朱音も同調するように頷いた。


「あいつな、その言葉を信じてんだよ。あのときも、いまも、ずっと」


「…………」


「私たちってさ、ボツキャラクターなんだよ。『お前は必要ない』って言われて、捨てられたキャラクターなんだ。そんな私たちに『ずっといていいよ』って言葉はさ、それはさ、重すぎるよ」


 朱音は寂しげに微笑む。


「作者のヤツに裏切られたうえに、高崎さんにまで『あれは本気で言ったんじゃなかった』なんて言われたら、春心のやつはもう、一生大人を信じられなくなっちまう。ああ、やっぱりそうなんだって。大人はみんな口ばっかりで、すぐに子供を見捨てるやつなんだって、そう思うようになっちまうよ。なあ、そんなの、嫌なんだよ」

 

 春心が高崎を指名した理由。

 

 それは『ずっといていいよ』という高崎の言葉を信じたから。

 

 そして朱音は、そんな春心の思いを守るために高崎を指名したのだ。

 

 胸がずきりと痛む。自分が勢いで発した言葉が、ここまで彼女たちを縛りつけてしまっていただなんて。


「だから、頼む」

 

 朱音は縁側の上で正座をすると、深々と頭を下げた。子供がかしこまってこうべを垂らしている様子がどこか痛々しく見えて、高崎は一瞬返事に窮してしまう。

 

 でも、ここで笑ったり、話を先延ばしにしたり、難しい言葉で煙に巻くということだけは、絶対にする気はなかった。子供の真剣な気持ちに真剣に向き合うことこそが、きっと、大人が本当に背負うべき数少ない義務なのだ。


「理由はわかったよ。私もできるのなら、春心ちゃんや朱音ちゃんたちと家族になりたいと思ってる。……でも、本当に私でいいの? 私が親になるってことは、一緒に生活するってことなんだよ? 私のこと、信用できるの?」

 

 朱音は顔を上げると、からっと笑った。 


「大丈夫だろ、高崎さんは悪い人じゃねえ。それはわかる。だってカレーうまかったかんな!」


「そんなのでいいの……?」


「フィーリングだよ。でもそれが全部なんじゃねえの?」

 

 そこまではっきり言い切られると、そんなものなのかと納得しそうになる。


 朱音に関しては、それでいいのかもしれない。

 

 ただ、さすがに春心のことまで、いまここで朱音のフィーリングで決めるのは危うい部分もある。

 

 もちろん信用していないということではなくて。

 

 春心のことを考えればこそ、ここで即決するのではなく、もう少し互いを知る期間が必要だとは思う。

 

 そんなふうに高崎があれこれと考えている姿が、朱音には感触が悪いように映ったらしい。彼女は繕うように言い足した。


「もちろんなんだ、あれだよ、お礼はすっから! そりゃただで育ててくれっていうのもムシがいい話だよな! 大人になったらよ、家にめっちゃお金入れるから! あ、違うか、いまはそういう話じゃねえのか? ん~……」


 お礼なんていいのに。

 

 朱音が両手で左右のこめかみを押さえながら、渋い顔で考え込んでいる。その姿が高崎にはちょっと愛らしく、コミカルに映った。


 だからこそ、


「高崎さん、あの日さ、橋から飛び降りたよな?」

 

 と、予想外の角度からその話題が飛び出してきたことに、露骨に狼狽うろたえてしまった。


 身体が硬直してしまい、思うように返事ができない。


「えっ……と……」

 

 自殺をしようとしていたことは、朱音たちには見抜かれていないと思っていた。仮に飛び降りる瞬間を見られていたとしても、なにも言わなきゃ有耶無耶うやむやにできるだろうとタカをくくっていた。


(まあ、そんなわけないよね。それはさすがに、子供を甘く見すぎだよね)

 

 自殺現場に居合わせるというショッキングな体験を、簡単に忘れられる人なんていないだろう。そこは大人だろうが子供だろうが関係ない。

 

 ましてや川に落ちた高崎を救ってくれたのは朱音たちだ。彼女たちも彼女たちで当事者だと言える。ごまかし通せるわけがない。

 

 そんなこと、冷静に考えれば簡単にわかることだったのに。


「…………」

 

 朱音に返す言葉が、まだ見つからない。

 

 それでもひとまずここは、自殺に巻き込んでしまったことを謝ろうと思った、そのときだった。


「なあ、辛いこと、あったんだろ?」


 朱音が、優しい声でそう言った。鼓膜ではなく、胸の奥底で響くような、そんな感覚がした。


「なんで……」

 

 かろうじて、高崎は訊き返す。

 

 なんで。


 なんで辛いことがあったって、わかったの?


「じゃなきゃ、あんなことしないだろ? 毎日楽しく暮らしてるやつが飛び降りようとなんてするか?」

 

 言われてみれば、「それはそうだ」としか思えないような、ごく自然な推察。

 

 しかし朱音が真に重要視しているのは、そこではないらしい。


「それにさ、なんか高崎さん、会ったときから苦しそうだったよ。もうずっと笑ってないんだなって、すぐわかった」

 

 自身の見立てに一切の疑念を抱いていない、揺るぎない口調だった。まるで高崎の過去を直接見てきたかのような。

 

 高崎の口から漏れるのは、やはり疑問の言葉だ。


「どうして、わかるの……?」


「わかるよ。私、ギャグのキャラクターだから」

 

 きっぱりと、朱音はそう答えた。

 

 ギャグのキャラクター。

 

 高崎はふと、逢戸澗夜縁が言っていたことを思い出す。


『コメディやギャグのように、人を笑わせるために生まれてくるキャラクターもいれば、人を苦しめるために生まれてくるキャラクターだって、確かにいる。……役割なのよ、全部』

 

 逢戸澗は、人を苦しめるために生まれてくるキャラクターと同列に、人を笑わせるために生まれてくるキャラクターの存在についても肯定していた。

 

 それが、目の前の繰田朱音という少女だというのだろうか。


「いやな、無理に事情を聞こうってんじゃない。そうじゃないんだよ。そうじゃなくてな、お礼の話なんだ、これって」


「お礼って……?」


「だから、もしも私たちを引き取ってくれたらの話だよ。もしも私たちを引き取ってくれたら、高崎さんにとって、こう、楽しい日が増えるように、私、がんばるからさ」


 朱音は曇りのない瞳で、どこまでもまっすぐに訴えかけてくる。


「もう橋から飛び降りようだなんて一生思えないくらい、なんでもない日が待ち遠しくなるような、そんな楽しい毎日が来るように、私がんばるからさ! 約束する!」

 

 人の気も知らない、無邪気な提案。

 

 だけどそれが、なによりも暖かく感じた。


「悲しいときに悲しい顔をすんのはいいよ。でも、やっぱり最後には、笑っていたいじゃんか」


「…………」


「せっかく出会えたんだ。どうせなら、みんなで幸せになろうぜ」


「ねえ、待ってよ……」

 

 高崎の声がわずかにしゃくり上がる。肩が、小刻みに震えだす。それはもちろん笑っているからではない。

 

 幸せになろうぜ――だなんて。

 

 軽々しく言うな、あんたになにがわかると、相手によっては、感情的に怒鳴り散らしていたのかもしれない。

 

 だが、“あかね”という名前の子に言われたら、もうなにも言えなかった。

 

 これが駄目な流されかただということくらい、わかっている。


 結局、繰田朱音という少女を、いなくなった人の代わりとしか見ていない。


 自分の人生で起こった偶然を都合よく解釈して、ひとりよがりで気色の悪い語呂合わせをしようとしていることくらい、重々承知している。


 でも、理屈じゃない!

 

 今日だけは、せめて今日だけは、彼女の言葉を救いとさせてほしい。


「ちょっと……ごめん……」


 繰田朱音や逢戸澗夜縁と話していく中で、高崎は自覚してしまった。本当は死にたかったんじゃなくて、笑って生きていたかったのだと。

 

 大切な人がいたこと。

 

 大切な人がいなくなったこと。


 そのうえでまだ笑って生きていたいと願う自分が許せなくて、許したくて。


 相反する気持ちと、やりきれない感情と、踏ん切りがつかない過去と、それでも前に進もうとする意思とがないまぜになって、高崎の目頭の温度を上げていく。


「ごめん、朱音ちゃん……ちょっと私……」


 それらの浮かばれない想いを、いまここで一度精算するかのように、高崎は――

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