雨の中の昨日(過去編)10/?
テーコクに案内されて森の中を進んでうちに、大きく拓けた土地に出た。
森にぽっかりと穴が空いたみたいに木々が生えておらず、その代わりに伝統的な日本家屋が立ち並んでいる。
これらは明治時代末期に建てられたものなのだが、高崎には建築の知識がないので、その辺の考察はまったくできない。しかしそれでも、無条件で懐かしいと感じてしまうような、そんな趣があった。
あっちは集会所、あっちは資料館、あっちは倉庫、向こうに見えるのは宿舎で――と、テーコクがあちらこちらに指を差しながら簡単に解説をし始める。建物の数はそこまで多くはなく、高崎の見たところだとおそらく十軒かそこらだろう。しかしそのひとつひとつが立派なお屋敷だ。風情のある木造建築が並ぶ中、一部に西洋風の建物がさりげなく溶け込んでいるのが印象深い。
「宿舎とか集会所とか言ってるが、実際は結構おおざっぱでな、資料館に寝泊まりしてるやつもいるし、勝手に森の奥に洋館を構えて、そこで暮らしてるやつもいる」
「結構緩い感じなんですね」
「緩いってか、建物が余ってんだよ。“協会”はそんなに大きな組織じゃねえかんな。この関東本部に常駐してるやつは、おいらも含めて二十人いるかいないかだ」
テーコクの話によると、協会関東本部に所属している記号の数は現在六十三人(春心たちを含む)で、一般人でありながら彼らに直接的に協力しているという“協力者”と呼ばれる存在が三十二人。合計で百人近い人数がいるのだが、その全員が関東本部で常に暮らしたり働いたりしているわけではないらしい。
言われてみれば確かに、通りには人が少なく、活気があるようには見えない。ただ、静かで落ち着いた場所だとも言える。
「こういう場所って、ほかにもあるんですか?」
「いや、あとは日本には京都の地下に関西支部があるだけだ」
京都の地下という言葉も気になったが、それ以上に“日本には”という言い回しが引っ掛かった。
「もしかして、協会って海外にもあるんですか」
「似たような組織なら世界中にあるよ。組織体系も規模も思想も、国ごとに違うがな。だが、記号という存在そのものは世界共通だ。どんな形であれ、人がいるところには必ず物語が生まれる」
どうやら、記号が――捨てられたキャラクターがこの世界にやってくるという現象は、日本だけで起こっていることではないようだ。
「まあ、人の性だよ」
自身が捨てられたキャラクターであるテーコクが、どんな思いでそう言ったのか、高崎には想像しかねた。
屋敷の並ぶ通りを歩いていると、左手側に公園が見えてきた。いや、庭園と言うべきか。
草木や石がまるで人間の美意識を理解し、それに合わせてくれているかのような、完璧に調和の取れた配置で大きな池をぐるりと取り囲んでいる。池の端の方では、見知らぬ少年が水面に向かってなにかを撒いていた。
少年はテーコクと高崎の姿に気づくと、満面の笑みで手を振ってきた。
「おーい、テーコクさーん! 一緒に鯉の餌やりしよーよー!」
テーコクは軽く手を振り返し、
「また今度な! これから用事があんだ!」
「えーっ! しょうがないな~。そっちのお姉さんはお客さん?」
そう言いながら、少年が高崎に顔を向けた。まともに彼と目が合う。
触れただけで壊れてしまいそうなほどか細い、儚げな空気感の少年だった。
「こんにちはー!」
彼は高崎に対しても屈託のない笑顔を見せる。
「こんにちは!」
高崎も少し離れた彼に聞こえるように大声で挨拶をしてみたものの――ここしばらく声を張るということをしていなかったので、うまく声が出せたかどうかは自信がない。彼の笑顔がひときわ大きく華やいだのを見るに、ちゃんと返事は届いてくれたようだけれど。
それにしても、少年の外見は高校生くらいなのだが、彼の浮かべる表情が、立ち振る舞いが、あまりにも無垢で、警戒心がなさすぎて、見た目の年齢よりもずっと幼い印象を受ける。まだ人間の悪意という概念を理解していない、透明な幼子のようだ。
庭園を通り過ぎてから、高崎は尋ねる。
「いまの子も、ツリ……えっと、ツ……記号なんですか」
「そんなところだ」
やっぱりあの子もそうなんだ――と、庭園の方を振り返ると、ちょうど木々の死角に入ってしまったのか、少年の姿を見つけることはできなかった。
ところで、馴染みのない発音なので、ツリーツェと言いにくい。
「そういえば、ツリーツェって何語なんですか」
「エスペラントだよ」
皮肉だろと、テーコクは笑った。だが高崎はエスペラントがどこの国の言語がわかないので、それがどんな種類の冗談なのか、いまいち理解できない。
先ほどテーコクが宿舎と呼んでいた建物の前を通りかかった。宿舎というより、老舗温泉旅館にしか見えないのだが。
「どうして協会が子供たちを直接引き取らずに、わざわざ親代わりの人間を探しているか、わかるか?」
「え……? えっと、わかりません」
テーコクの突然の問いに、高崎は答えることができなかった。
むしろ逆のことを考えていた。ここでなら充分に暮らしていけるじゃないか、と。静かだし、自然も豊かだし、きっと子供たちも伸び伸び育つ。寝泊まりできる施設だってある。だいいち、テーコクは建物が余っているとさえ言っていた。場所がないから、子供たちを引き取れない――というのではなさそうだ。
「ここは日本政府と適度に距離を置くにはいい場所だ。だが子供が育つ場所にしては、世間から離れすぎている。こんなところで育ったら、どっか浮世離れしたやつになっちまうよ。おいらたち記号はこの世界の出身じゃない。でも、この世界で生きていかなければならないんだ。可能な限り、この世界のルールに沿って、一般的な家庭に近い環境で育つほうが、将来子供たちも苦労しないんじゃないのかっていうのが、協会のスタンスなんだ」
「……そうだったんですね」
これには内心驚いた。ちゃんと考えているんですね――とは、さすがに失礼なので口には出さなかったけれども。
「記号ってのはな、全員が天涯孤独の身なんだよ。だからこそ、おいらにとっちゃ全員が家族みたいなもんなんだ。適当なことはしたくない」
全員が家族。
その言葉に納得がいった。そりゃちゃんと考えるはずだ。
思えば一か月前、高崎がなにも考えずに「春心たちを引き取りたい」と言いだしたとき、叱ってくれたのはテーコクだった。彼の身内への想いは本物なのだろう。
協会という組織のことは――少なくともテーコクのことは、信用してもいい。そう思える。
「あれ? でも、さっきの子は……?」
協会は子供たちを直接引き取らないという方針だと言っていた。じゃあ、先ほど庭園で出会った少年はなんだったのか。
たまたま関東本部に遊びに来ていただけなのかもしれないけれど……。
「あいつは数少ない例外なんだ。事情があって、本部から出せないんだよ。なるべく早く、自由にさせてやりたい思ってるんだがな」
「例外……」
子供を閉じ込めておくのに、どんな事情があるというのだろう。どんな例外があるというのだろう。
テーコクは一瞬だけ疲れたような表情を見せると、それ以上はなにも教えてくれなかった。
「さて、ついたぜ。ここが本拠地だ。役所でいうところの本庁だな。子供たちは一旦この中で預かってる」
テーコクが足を止めたのは、見事な屋敷が立ち並ぶこの通りの中でも、頭ひとつ抜けて存在感のある日本家屋の前だった。まず門と塀が立派すぎて、外側からではどれほどの敷地面積なのかを予想することすらできない。
そしてその大きな門の内側から、まるで見計らったかのようなタイミングで、意外な人物が歩いてきた。
――繰田朱音。
彼女はほかの四人の少女を引き連れずに、たった一人で、テーコクと高崎の前に姿を現したのだった。
「テーコクさん、頼みがある」
と、朱音は言う。
「高崎さんと話をさせてくれ。二人っきりでな」
※
屋敷の並ぶ通りを抜けた先は、再び深い森に通じていた。
背の高い木々が緑のトンネルとなって、日光をほどよく遮ってくれている。湿気はなく、風通しはいい。いまは夏真っ盛りの八月だというのに、この森の暑さには嫌味がない。
「高崎さん、この前はありがとな。カレー、うまかったよ」
「ううん、いいのよ」
高崎はいま、朱音と一緒に森の中を歩いていた。
高崎が否応なく意識してしまう“あかね”という名前の少女。二人きりでは気まずくなってしまうんじゃないかという危惧もあったけれど、いざ喋ってみれば、普通に接することができていた。
「あのときさ、全員がっついてたろ?」
「いい食べっぷりだったよね」
「あれな、全員な、人生で最初のメシだったんだよ」
「えっ?」
一か月前に高崎が作ったあのカレーが、人生最初の食事?
どういう意味だろう?
「この世界に来る前は、私らはもっと気味の悪い場所にいたんだ。メーベルのやつは“白い街”って呼んでたな」
「“白い街”……」
「行き場所を失ったキャラクターが、最後に迷い込む場所なんだってよ。変なとこだったよ。時間が止まってんだ。腹も減らねえ。つーか、なにかを食うってこともできねえ。だからあの日、この世界に来て最初に食ったあのカレーが、私らの初めてのメシだったんだ」
「…………」
話が壮絶すぎて、高崎はろくに相槌を打つこともできない。
「物を食うってことも、カレーっていう料理も、知識としては知ってたんだよ。そういうもんだって。でも、実際に食ってみたらまあびっくりしたぜ。ああ、これが食べるってことなんだ……ってな。感動もんだよ。本当にうまかった。春心のやつも、しづくもルシアもメーベルも、あのカレーは一生忘れねえだろうな」
そう言って、朱音は笑う。
一か月前、高崎は彼女の笑顔に心を奪われた。それはいまも変わらない。
何度見ても、まったく色褪せない。
朱音には人を優しい気持ちにさせる天性の才能があるのだろう。彼女が笑うだけで、まるで世界中の空が晴れ渡ってしまうかのようだ。
「ありがとうね」
高崎が呟くと、朱音は不思議そうに首をかしげた。
「なんでそっちがお礼言うんだ? 逆じゃね?」
「ううん、なんか、一生忘れないとまで言ってくれるなんて、ほんとに作った甲斐があったなって思って」
「そっか、それならよかったけど。なあ、また今度食べさせてくれよ」
「え、いいけど、それって――」
ガサリ、と前方の茂みから大きな音がして、会話が止まる。
何事かと思ってそちらに視線を移すと、高崎たちの前を大きな白い影が横切った。巨大猫の猫神――もといビタみンAだ。
「お、プロテイン! 乗せてけ!」
朱音はビタみンAを見つけると、突然逆バンジーが始まったかのように、ノーモーションで勢いよく宙へ飛び出し、物理法則を完全に無視した奇怪な動きでビタみンAの背中に絡みついた。
「うわっ、やめろっ、新人! なんだその気持ち悪い動き!」
ビタみンAは身体をビクリと跳ねさせた。その表情は恐怖に染まっている。
「というか、我輩はプロテインじゃない、ビタみンAだ! いや、ビタみンAでもない、猫神だ!」
「細かいことはいいじゃねえか。それより乗せてけよ~」
「もう乗ってるだろうが! 降りるがいい!」
「プロテイン~、いいじゃんかよ~、神社まで行くんだよ~」
「くっ……なんたる屈辱……。わかったわかった、今回だけだぞ!」
よくわからないが、許されたらしい。二人はどういう関係性なのだろう。
朱音はビタみンAを従えて高崎の元に戻ってくると、
「高崎さんも乗るか?」
と勧めてきた。
「勝手に決めるな!」
と、ビタみンAが怒声を上げる。
まあ、いくら大きな猫だからと言って、大の大人が背中に乗っかるのはちょっと申し訳ないので、高崎はやんわりと断った。
ビタみンAは「そうか……」と複雑な表情を浮かべた。じゃあどうすればよかったんだ。本当は乗ってほしかったのか。
「よし、プロテイン、出発だ! 神社へGO!」
「我輩はプロテインじゃない!」
文句を垂れながらも、ビタみンAはのしのしと歩きだす。
「神社があるの?」
高崎が尋ねると、朱音は白猫の体毛に身を埋めながら、
「そうそう。この先にちっさい神社があんだよ。そこに座れる場所があるから、ゆっくり話すならそこかなって思ってよ。いや、歩かせて悪いな」
「気にしないでいいよ」
「ほんと悪い。でも、なんだろな、なんつーか、みんなの前で話すのは……恥ずいんだよな」
「ふうん……」
朱音が二人きりで話したいこと。それも恥ずかしいことというのは、いったいなんだろう? じきにわかることなんだろうけれど……。
高崎と朱音(withビタみンA)は、森の中を進む。
ところで、少女が大きな白猫にしがみついて移動するというのは、なかなか癒される絵面だ。愛くるしさがある。
ビタみンAは本気を出せば風のように早く走れるのだろうが、気を遣ってか、高崎の歩く速度に合わせてくれているようだった。
歩いている時間はそれほど長くはなかった。数分で赤い鳥居が見えてきたのだ。朱音がビタみンAの背中から飛び降りた。
「ここまででいいよ。助かったぜ、ギャバ!」
「ギャバじゃない、ビタみンAだ! いや、ビタみンAでもない、猫神だ!」
「ここからは高崎さんと内緒の話があるから、もう帰っていいぞ、葉酸!」
「葉酸じゃない! どういうボケだ!」
ビタみンAはプンスカプンスカという擬音を実際に口で鳴らしながらも、
「帰るときはこの鳥居の前で『猫神様』と叫ぶがよい。いつでも駆けつけてやろう」
と言い残し、森のさらに奥へ向かって颯爽と走りだした。
朱音がその後ろ姿に向かって叫ぶ。
「ありがとな、鉄~!」
ビタみンAの姿はあっという間に木々の隙間に消えていき、あとには彼の「だからビタみンAだ!」というツッコミの残響だけが浮遊していた。
「ねえ、二人はどういう関係なの……?」
高崎が訊くと、朱音は悪びれもなく答えた。
「あの人は先輩!」
「じゃあすごいイジってない? 先輩を」
「おう!」
「返事がいいなぁ……」




