雨の中の昨日(過去編)7/?
テーコクが少女たちを連れていってから二日が過ぎた。
たった二日。
それだけで、高崎は廃人のような生活に逆戻りしていた。
太陽が沈みだすころにようやくベッドから這い出し、ゼリーやインスタント麺を胃袋に入れ、気力があればシャワーを浴びて、再びベッドに戻り、眠れない夜を過ごす。
少女たちが家にいたのが遠い昔のことのように感じる。やはりあれは高崎の見た夢だったのではないかという気もしてくる。
脱衣所には彼女たちが脱いでいった白いワンピースが残っている。その代わりに彼女たちに貸した高崎の部屋着はこの家から消えている。逢戸澗夜縁に渡された“協会”関東本部の住所のメモは、枕元に置いてある。
少女たちがこの家にいたという物的な証拠は確かにある。しかし、高崎はいまいちそれを信用できなかった。頭のおかしくなった自分が、無意識のうちに用意したものなのではないかという疑いが捨てきれなかった。
不安や絶望は、ちょっとした隙間があると、まるで水のようにたちまち流れ込んでくる。一日の大半をベッドで過ごす空白だらけの日々は、高崎の心を休ませるどころか、むしろ狂気で蝕んでいった。
自分の記憶が信じられない。
感情がわからない。
少女たちが去ってから三日目の明け方、高崎はいなくなった夫のことを思い出して泣いていると、突然スイッチが切れたみたいに涙が止まり、なにも感じなくなった。あらゆる喜怒哀楽が、願望が、心から出ていってしまったかのようだった。
かろうじて、頭の中に残った思考は。
――楽になりたい。
それだけ。
高崎は「死ななきゃ」と思って、ベッドから飛び起きてリビングに向かい、衝動的にベランダに続く窓の鍵を開けた。
「なにしてるの?」
高崎の背後から、声をかける者がいた。この家に同居人なんていないはずなのに。
振り返ると、リビングの入口に浴衣姿の女性が立っていた。先日、テーコクと共に少女たちを迎えにきた逢戸澗夜縁だ。
「え、え? な、なんで? 鍵は!?」
「私にはあんまり意味ないわよ、そういうの」
「いや、どういう――」
「あなたいま、死のうとしてたでしょ」
胸の内をぴたりと言い当てられて、高崎は言葉に詰まる。
「やめなさい」
強い響きだった。
柔らかい声なのに、逢戸澗のその一言はなによりも強い響きで迫ってきて、高崎は縛りつけられたみたいに、その場から動けなくなった。
逢戸澗がゆっくりと近づいてきて、窓の鍵をそっと閉める。
「さ、こっちに来なさい」
逢戸澗に優しく手を引かれ、高崎は窓の前から離される。そしてされるがまま、リビングのソファに座らされた。
「やっぱり、こんなことだろうと思っていたわ」
逢戸澗が深刻そうに呟いた。
「なん……ですか。いきなり現れて……」
助けてくれた相手に対する口の利きかたではないのかもしれなかったが、素直にお礼を言うという気分でもなかった。高崎の精神の状態は最悪だったし、逢戸澗に尋ねたいことが山ほどある。
どうして彼女は、こんな明け方に他人の家に無断で上がり込んできているのか。
「決まってるじゃない。あなたの自殺を止めに来たのよ」
「は……?」
なんだその都合のいい答え――と思った。
そしてすぐに新たな疑問が湧いてくる。
「なんで……どうして、私がこの時間に死のうとするってわかったんですか」
衝動的な自殺だから、高崎本人だって予想しようがないことなのに。
逢戸澗はこともなげに答えた。
「死の匂いが濃くなったから、それでわかったわ。三日前に会ったときから気になってはいたのよ。あなた、死の気配が強すぎる」
「なんなんですか……。逢戸澗さん、真面目に答えてください」
「真面目に答えてるわ。私、わかるのよ。ホラーの記号だから」
――記号。
捨てられたキャラクターのことだと、テーコクは言っていた。
ホラーのキャラクターということは、目の前の逢戸澗夜縁という女性は、幽霊や妖怪のようなものなのだろうか。だとすれば、こんな明け方に音もなく現れるというのは腑に落ちるものがある。死の匂いがどうのこうのというのも、まあ、わかるものなのかもしれないとも思う。その反面、こんな非現実的な話があるかと、心のどこかで理解を拒む自分もいる。
どう反応をしたらいいものか、高崎が困っていると――
「もう、自殺なんてさせないから」
逢戸澗が、高崎の目を見て言った。
高崎は視線を逸らす。
「そんなの、頼んでない……」
命を救われた瞬間は、感謝する気も起きるだろう。
でも、原因が取り除かれない限り、どうせまた死のうとする。現に、少女たちに助けてもらってからわずか数日後に、こうして死のうとした。
そして高崎の場合、原因が直接的に取り除かれることはない。死んだ夫と子供が、生き返ることなんて絶対にないからだ。
もう、手遅れだ。
生きていたって辛いだけだ。
早く楽になりたい。
だから、自殺を止めないでほしい。
「あなたのためじゃない。後輩ちゃんのためよ」
ところが、逢戸澗はまったく引き下がろうとしなかった。しかも理由がよくわからない。
「後輩ちゃん……って、誰」
「三日前にあなたが保護した、あの女の子たちのことよ。私は八年前に、あの子たちと同じようにこっちの世界に飛ばされてきたの。だからあの子たちはみんな私の後輩ね」
「そうですか」
逢戸澗にとっては、あの五人の少女たちは記号としての後輩ということになるのだろう。そこはわかった。だがなぜそれが高崎の自殺を止める理由になっているのかは、まだ理解できない。
「高崎さん。あなたが、あの子たちがこっちの世界に来て初めて出会った人みたいね。家に上げてくれて、お風呂に入れてくれて、美味しいカレーを作ってくれて、温かい布団を用意してくれて――そんな優しいお姉さんが自殺したなんて聞いたら、あの子たち、どう思うでしょうね?」
「どうって……」
「一生の傷になるわよ」
逢戸澗のその言葉には、重く、切実な響きがあった。
かと思えば、彼女は急に場違いなくらいに呑気な声で、
「ってことで、後輩ちゃんたちに嫌な思いをさせたくないから、あなたが死のうとするたびに止めに来るからよろしくね~。お邪魔しました~。ばいば~い」
と言って、高崎の目の前から煙のように消えてしまった。
「なに、それ……」
高崎はぽかんと口を開ける。
言うだけ言って、いきなり変なテンションで帰っていくなんて。ばいば~いて。
でも、なんだか、毒気を抜かれてしまった気がする。この日はもう、自殺をするような気分にはなれなかった。
それからというもの、高崎が死にたくなると、本当に宣言通りに逢戸間が現れ、高崎の自殺をことごとく止めていった。
あまりにも都合よく現れるので、もはや恒例となりつつある幻覚説が高崎の中で浮上してきたが、その説があっけなく崩れ去るときが来た。
ある日、高崎の義母が、高崎の様子を見にやってくるタイミングと、逢戸澗が高崎の自殺を止めにくるタイミングが、完璧にかち合ったのだ。
そこで交わされた義母と逢戸澗の会話は、普通に成立していた。それによって、逢戸澗が幻覚じゃないことが確定した。
そしてなし崩し的に、あの五人の少女たちもまた幻覚じゃなかったということが確定した。ずっと高崎の頭の片隅にあり続けた「精神を病んだ自分が、都合のいい幻覚を見ているんじゃないか」という不安が、完全に払拭された。
あの少女たちは、テーコクは、逢戸澗夜縁は、高崎だけに見えている存在ではなかったのだ。
いちおう、この義母ですら幻覚だと疑うこともできるにはできるが、そこまでいくといよいよ高崎の人生のすべてを疑い始めなければいけなくなる。さすがにそれは不毛だろう。
義母は、逢戸澗の和服姿をとても気に入ったようだった。また、逢戸澗のことを高崎の友達だと勘違いしたみたいで、義母はほっとしたみたいだった。
なぜほっとしたのかというと、おそらく、夫をなくしてからずっと一人でふさぎこんでいた高崎が、友達を家に呼べるようなったのが、義母には前向きな変化に映ったからなのだろう。
まあ、逢戸澗夜縁は友達ではないのだが。
でもあえて義母を不安にさせることはないと思い、高崎は逢戸澗との関係を特に訂正はしなかった。
それで調子に乗ったのか、逢戸澗は満面の笑みで「昔からの親友なんです~」だなんて勝手なことを義母に言ったけれど。
逢戸澗が現れるようになってから一週間。最初は自殺を止めにだけ来ていた彼女が、いつの間にか平時から高崎の家に滞在するようになっていた。初めて彼女がテーコクと共に現れたときは華やかな訪問着を着ていたが、それ以降はもっぱら比較的ラフな雰囲気の浴衣でいることが多い。
「今日はフルーツパフェを作りましょう~」
「……なに言ってるの?」
「じゃあまずはフルーツの収穫から始めましょうか~。これから山梨県に行って、サクランボ狩りをしま~す」
「ねえ、なに言ってるの?」
「出発するわよ~。早く準備してくださ~い」
「ちょ、ちょっと!」
逢戸澗はただ高崎の家に居座るだけじゃなく「今日は生地からピザを作りましょう~」とか「今日は高崎さんのオーダーメイドの浴衣を作りましょ~」とか「今日はビール工場に見学に行きましょ~」とか、地味に手間のかかることばかりを毎日提案してきて、有無を言わさずに高崎を振り回した。
この日なんか、午前中から山梨県に向かってサクランボ狩りをしてから、千葉県の自宅に戻ってきて、いちから手作りでパフェを作るという、パフェひとつのためにどれだけ労力を割くのだという、無茶苦茶な日程だった。
でもそんな慌ただしい日々が過ぎるなかで、心が軽くなっている自分がいることに、高崎は薄々と気づき始めていた。
鬱病の患者は、休養に徹することが基本だ。場合によっては気分転換すらもNGらしい。
だがいまの高崎には、少し忙しいくらいがちょうどよかった。
体を動かして、汗をかいて、美味しい物を食べて、なにも考えられないくらいに疲れたら、朝までぐっすり眠る。そんなサイクルが、高崎の心を回復させていた。高崎に必要だったのはベッドの上で休むことではなく、たった一人で暗い思考に沈んでいく時間から無理矢理にでも遠ざけることだったのだ。
そして逢戸澗が意図的にそれをやっていることには、高崎も途中から察するようになっていた。
逢戸澗が高崎の自殺を止めに来るようになってから、三週間。
この日は「世界を救いに行きましょ~」とか言って、逢戸澗が買って来たロールプレイングゲームを、朝から二人でプレイしていた。
複数人でプレイできるタイプのゲームで、逢戸澗は回復キャラを担当し、高崎は前衛の主人公キャラを任せられた。
二人で世界を旅しながら、各地の争いや問題を解決していく。高崎はテレビゲームなんて子供のときにちょっと触れたくらいだったので、昨今のグラフィックやサウンドの進歩には単純に驚いた。シナリオもいい感じで、二人で協力しながらプレイする面白さもある。
それが高崎には大きいことだった。この場合、ゲームかどうかは関係なくて、なにかに夢中になれることそれ自体が重要だった。
だってそれは、心が動きだしている証拠だから。
まだまだ本調子ではないとは言え、感情が消え、ただ死にたいとだけ思っていた三週間前の朝と比べたら、考えられないような進歩だ。
そしてそうなるように誘導してくれたのは、ほかでもない、逢戸澗夜縁だ。もう認めるしかない。
ゲームの休憩の合間に、高崎は思いきって尋ねてみた。
「逢戸澗ちゃん。なんで私のためにこんなに動いてくれるの?」
「私って、回復係とか後方支援が好きなのよ~」
「ゲームの話じゃなくて……現実の話」
どうして逢戸澗は、時間もお金もかけて、付きっきりで高崎の面倒を見てくれているのだろう。彼女にはそんなことをする義理もないのに。
なんだ、そんなことかとでも言いたげに、逢戸澗は微笑んだ。
「最初に言ったじゃない。あなたのためじゃないわ。後輩ちゃんのためだって」
「……だとしても納得できないわよ。後輩って言ったって、あの子たち、まだ三週間前に来たばかりでしょ? それに逢戸澗ちゃんは、毎日私の家に来てるじゃない。あの子たちと交流しているような時間なんてなさそうなのに」
「なんで交流のない後輩のために、そこまでがんばれるのってこと?」
「うん、そういうことだけど……」
ただ、それについては、高崎も他人のことは言えない。出会って一日も経っていない少女たちを引き取ろうとした高崎のほうがよっぽど変わっている。
しかしそれを棚に上げて言えば、逢戸澗だって変なのだ。
後輩とは言え、ろくに交流のない少女たちのために、どうしてここまで高崎を助けようとしてくれるのか。
高崎に気を遣わせないために「後輩のため」だと言ってくれている可能性はある。
だがそうなると、じゃあそもそもなんで高崎を助けてくれるのかという最初の疑問に戻ってきてしまう。
「そうね。ちゃんと説明するには、私のことを話さないといけないわね」
逢戸澗の目つきが、わずかに真剣味を帯びた。どうやら高崎の疑問に答えてくれるつもりのようだ。
「私たち記号ってのはね、みんながみんな、善人じゃないのよ。キャラクターには悪役だっているでしょう?」
と、彼女は切り出した。




