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雨の中の昨日(過去編)1/? 

 自殺することにした。

 

 一度そう決心してしまうと、こんなに簡単にすべてを終わらせる方法があるのに、いままでどうしてそれを実践してこなかったのか、不思議でならなかった。

 

 そうだ、死ねばいいんだ。なんて素敵で完璧なアイディアなんだろう。


 お菓子やジュースを買い込んで、友達の家で朝までくだらない話をして過ごす――という計画が、休日の前日に突然決まったかのような、そんなワクワクした気持ちになった。


 心が晴れやかだ。


 なにかをするのが楽しみだという感覚が、まだ自分の中に残っていたなんて。

 

 さて、そうと決まれば、さっそく行動に移さなきゃ。鉄は熱いうちに打て、だ。


 こうして高崎たかさき環南かんなは、スキップをするような足取りで、一人で住むには広すぎるマンションの一室をあとにした。




 七月七日――七夕の日の午後。


 この時期にしては珍しく、大型の台風が関東を直撃していた。

 

 暴風雨に飲み込まれた街の中を、高崎は一人、雨具もなしに歩く。


 眼鏡をかけてきたのは失敗だった。レンズに水滴が付いて鬱陶しい。高崎は眼鏡を外し、その辺の草むらに放り投げた。一時的に使うために買った予備の眼鏡なので、愛着なんてない。


 高崎は雨が好きではなかった。

 

 通学中や通勤中、傘を差しながらどんなに気をつけて歩いても、絶対に靴の中が濡れてしまう。靴下に雨が少しずつ染み込んでいく感覚が、たまらなく嫌だった。また、その湿った靴を履いて帰路に就くのも憂鬱だった。帰り際、靴の中にまだ湿り気が残っているとわかっていながら、自分の意思で靴に足を入れるその瞬間が、なによりも苦手だった。


 でも、今日に限って言えば、雨もそんなに悪いものではないと思えた。なにひとつ失うものがない中で浴びる雨は、とても気持ちがよかった。


 そう。


 失うものなどない。


 持ち物がなければ、行き先がなければ、雨はけしてわずらわしいものではないのだ。

 

 そして高崎はもう、その両方をなくしている。



 ※



 およそ十か月前、高崎は交通事故に遭った。車で信号待ちをしていたところに、飲酒運転のトラックが突っ込んできたのだ。

 

 当時、高崎は全治一年の重体と診断された。

 

 しかし十か月経ったいま、彼女は後遺症もなく歩けている。

 

 医者は「奇跡だ」と言った。

 

 高崎は「バカじゃないの」と思った。

 

 確かに怪我は治った。でも、一緒に車に乗っていた夫は死んだ。高崎のお腹の中にいた子供も死んだ。

 

 高崎環南だけが、生き残った。

 

 ――奇跡だ。

 

 バカじゃないの。

 

 夫と子供が亡くなった事実を知らされたときのことを、高崎はもう覚えていない。たぶん、壊れたのだと思う。

 

 ところが、怪我の痛みが彼女を正気に引き戻した。幸か不幸か、激痛を味わっているあいだは、なにも考えることができなかった。

 

 身体の痛みのおかげで、彼女は正気を保ったまま壊れることができた。

 

 突然いなくなってしまった家族。

 

 ベットの上から動けない自分。


 冗談みたいな全身の痛み。

 

 日常のすべてがあまりにも様変わりしすぎて、理解が追いつかなかった。現実感がなかった。すべてが嘘だと思った。実際、事故後しばらくは脳へのダメージが残っていて、思い出せることと思い出せないことの境目が曖昧になり、ふわふわとした意識の日が続いた。

 

 次第に高崎は『これは夢なんだ』と、思い込むようになっていった。そうすることで、無意識に心を守った。

 

 高崎の身体は、全治一年にしては驚異的な速度で快復へと向かっていった。六か月、七か月、八か月――そして九か月も経ったころには、怪我はほぼ治っていた。

 

 それは、必ずしも良いことだとは言えなかった。彼女の精神を麻痺させていた身体的な痛みが、消えてしまったことを意味するからだ。

 

 高崎は退院し、事故前と同じような生活を送れるようになった。


 しかし、その生活の中に、夫と子供だけが戻ってこなかった。


 どれだけ待っても。


 どれだけ待っても。


 どれだけ待っても。


 帰ってこなかった。


 何度寝て、何度目覚めても、高崎の元に、二人は帰ってこなかった。


 高崎は気づいてしまった。


「あ、これ、やっぱ夢じゃないんだ」

 

 そう呟いた途端、ぷつん、となにかが切れた。

 

 夢だと思い込むことで抑え込んできた感情のすべてが、遠くから押し寄せてくる音が聞こえた。

 

 自殺することにした。


 

 ※



 高崎がやってきたのは、近場の大型河川だった。

 

 橋の上から、川を見下ろす。


 台風の影響で、水かさは面白いくらいに増していた。河川敷の野球場が完全に沈んでいて、川幅が普段の倍以上あるように見える。水は濁り、流れは速い。橋の上に立っているだけで、圧迫感を感じる。一度川に落ちてしまえば、まず助からないだろう。


 ――よかった、ちょうどいいや。


 こんな天候だからか、通行人はもとより、車通りもないに等しかった。

 

 高崎は橋の真ん中まで歩いていくと、欄干らんかんを乗り越えて、橋の縁に立った。

 

 あとは飛び降りるだけで、すべてが終わる。

 

 死にかたにこだわりはなかった。首吊りでも、駅のホームに飛び降りるのでも、毒で死ぬのでも、なんでもよかった。と言うか、どうでもよかった。


 高崎がまだ元気だったころ、人身事故で電車が遅延したときに「自殺がしたいなら、周りに迷惑をかけないようにやってくれ」と思ったことが、正直に言えば何度かあった。


 でも自殺する側になって思うのは、周りの人間に配慮する余裕がある人は、そもそも自殺なんかしないんじゃないのかな、ということだ。自らの命を絶つほどに追い詰められていながら、他人の心配ができる人間なんてそうそういないだろう。「全員不幸になればいいのに」と、この世を呪いながら死んでいくほうがまだ理解できる。

 

 高崎だって、台風で電車が止まってさえいなければ、川ではなく駅に行っていたかもしれない。

 

 死にかたにこだわりがないと言っている割に、わざわざ家の外で死のうとしているのは、外を歩いているうちに気が変わることを期待している自分が、心のどこかにいたからなのだろうか。

 

 まあ、実際に気が変わることなんてなかったのだが。

 

 死にたい。

 

 早く楽になりたい。


 痛くたって、それはそれでいい。痛みを感じているあいだは、悲しみを忘れられるから。


 橋の縁に立っているというのに、自分でも驚くほど怖くなかった。川の流れを見下ろしながら、「あ、部屋のエアコン、つけっぱなしにしてきちゃった」と思った。


 そして前触れもなく、飛び降りようとする。


 そのとき、空に七色の光が走った。雷にしては変な色だなと、高崎は反射的に空を見上げる。


「……は?」

 

 高崎から見て、左上の空が割れていた。分厚い雲が真っ二つだ。

 

 それだけじゃない。その割れ目から、なにかがゆっくりと降りてきている。


「はあ?」 


 ――人間だ。


 空から降りてくるのは、白い服を着た五人の女の子だ。高崎の見間違いでなければ、だが。


 天使か? 死のうとしている自分の元に、天使が迎えに来たのか? いやいや、そんなバカな。


 高崎は目の前の光景が信じられず、ただただ唖然となる。人は死に際に、こんなにおかしな幻覚を見るものなのだろうか。走馬灯ならまだわかるのだけれど。


 ふいに、空を漂う女の子の一人と目が合った――気がした。


 その瞬間、風がよりいっそう勢いを増して、高崎の背中を押す。


「あ」


 頭上に気を取られていた高崎は、あっけなくバランスを崩し、川へ転落した。

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