無機質の温度 3/3
春心の視界の隅に、なにかがちらついた。いったいなんだろうと軽い気持ちで視線を向けた瞬間、心臓がきゅっと縮み上がった。
スケートボードに乗った男が、猛スピードでこちらへ迫ってきていたのだ。
「しづくちゃん! 危な――」
声にしたときには遅かった。身の危険を感じるほどの速度で、男はしづくの真横をかすめていった。
直撃ではなかった。
しかし、しづくはバランスを崩し、持っていたクレープごと地面に手をついてしまった。
なんの前触れもなく、なんの余韻もなく。
彼女が大事に抱えていた宝物は、彼女自身の体重によってあっさりと潰された。
「だいじょうぶ!? しづくちゃん!」
春心はしづくに駆け寄った。
――よかった、怪我はしてないみたい。でも、違う、それで済む問題じゃない!
「ちょっと! 謝ってよ! ねえ!」
春心は叫んだ。しかしそうしたところで、男は振り返ることもせずに街中へと消えていく。
しづくは潰れたクレープを見て、去っていく男を見て、クレープを見て、去っていく男を見かけて――やっぱりクレープのほうを見て、この世が終わったような顔をした。
そして慌ただしいことに、今度は一人のおばあさんがこちらへと走ってくる。足取りはふらふらとしていて危なっかしい。やがて限界が来たのか、彼女は春心たちの手前で足を止めた。両手を膝につき、大きく息を切らしている。見ている側が不安になるほど、表情は青ざめていた。
あまりにも普通じゃない様子に、春心は思わず声をかけた。
「あの、どうかされたんですか……?」
おばあさんはうわごとのように繰り返した。
「バッグが……バッグが……」
詳しく事情を聞いてみると、いままさにしづくを突き飛ばしていったスケボーの男が、おばあさんのバッグを引ったくっていったようだった。銀行を出た瞬間を狙われたらしく、バッグの中には貴重品に加え現金十万円が入っていたそうだ。
男を追いかけるべきかと春心は視線を巡らせたが、既に男は見える範囲にはいない。
それなら交番に行ったほうがいいかと考えたが、その間にも男は遠くに行ってしまうだろう。
どうすればいいのか、春心には即座に判断しきれない。
「食べ物を粗末にしてはいけません……人のものを盗ってはいけません……」
ふいに、ゾッとするような冷たい声が聞こえてきた。
声の主は、しづくだった。
「食べ物を粗末にしてはいけません……人のものを盗ってはいけません……」
ゆらりと立ち上がる。
彼女の虚ろな瞳の奥に燃え上っているのは、怒りだった。
「なんでだめって言われてることを平気でする大人がいるのかなぁ……ねぇ……なんでかなぁ……なんでかなぁ……」
しづくは大きなため息を一つだけついた。
そして、
「はるこは、おばあさんと一緒に南口の交番に行って、事情を話してきて……」
私はそのあいだに――
しづくは、彼女にしては珍しく力強い口調で言いきった。
「犯人を捕まえてくるから」
※
しづくは鞄とラケットケースを春心に預けると、一番近くのビルとビルの隙間に入った。
周囲を見回し、人気がないことを確認する。それから急いで靴を脱ぐ、靴下を脱ぐ。素足になる。
それで準備は完了だった。
――彼女の瞳が、青白く輝く。
次の瞬間、しづくは跳んだ。
地上から八階建てのビルの屋上へ、文字通り、一足飛びに。
正式名称・SIZ-009。
海羽しづくはロボットだ。
普段は少し物静かな普通の女の子。
しかし、彼女がリミッターを外したとき、彼女の瞳は青く輝き、人間離れした力を発揮する。
しづくはこともなげにビルの屋上に着地すると、そこから駅周辺を見回した。
この辺りは栄えているとは言え、高層ビルが建ち並んでいるわけではない。八階建てのビルからなら、この辺りは概ね見渡せる。それでも死角は発生するが、そのときはまた別のビルへと跳べばいい。
「見つけた……」
記憶力と視力には自信がある。
しづくは夕闇に沈む街中から、自分を突き飛ばした男を発見した。
既に市街地の外れまで行ってしまっていて、ここからでは豆粒の大きさでしか確認できない。
だが、逃がさない。
しづくは脳内のデータベースにアクセスし、この街の地図を参照する。
憎き男の元までの最短ルートを割り出すまで、およそ0.7秒。
計算を終えると、しづくは躊躇することなく走りだし、ビルの外へと身を投げ出した。
もちろん、投身自殺をしようというのではない。単に、建物の上をまっすぐ突っ切るのが一番速いと判断しただけだ。
しづくは跳ぶ。
ビルの屋上を、マンションの屋上を、パチンコ屋の屋根を、電柱の先を、知らない会社の看板を。
勢い余って空中で体勢を崩してしまったら、足裏に搭載されている加速装置を利用してバランスを整える。
わざわざ素足になったのは、加速装置から噴射される炎で靴をだめにしてしまうからだ。
道行く人々は想像もしていないだろう。地上を照らす街灯の裏側を、一人の少女が駆け抜けていくことを。
「追いついた……」
男の姿を間近に捉えた。
男は薄暗い路地裏をスケートボードで進んでいた。幸い、周囲に人はいない。着地と足止めを兼ねて、しづくは男の前に落下した。
「は、はぁっ!?」
突然空から降ってきた少女を見て、男は素っ頓狂な声を上げながら急ブレーキをかけた。
「なっ、なんだよ! お前、どっから!?」
あからさまに動揺する男のテンションには付き合わない。
しづくの怒りはあくまで冷たく、静かだった。
「返して……そして謝って……」
言葉少なげに、しづくは男のもとへとにじり寄っていく。
外見上、しづくはただの小柄な女子高生だ。それはこの瞬間も変わらない。見た目にはなにも怖いと思える要素がない。
それなのに、そのはずなのに、いま、彼女からは圧倒的な威圧感が放たれていた。
まるで見えない針がばら撒かれたみたいに、この場の空気が鋭く、痛い。
男も、目の前の女子が只者でないことを肌で感じたのだろう。足を震わせ、逃げようとも、抵抗しようともしない。男ができたことと言えば、せいぜい混乱しながら叫ぶことだけだった。
「お前いったい、なんなんだよ! 何者なんだよ!」
しづくは真顔で答える。
「私はクレープの化身……クレープマン……」
「ほんとに誰だ!?」
「あっ、違う……クレープウーマンか……ウーマン……そう、私はクレープマ……あ、また間違えた……ええと、私は、クレープウーマン……違う、いや、合ってた……そう、私はクレープマン……あっ」
「ぐだぐだ!」
※
春心がおばあさんを連れて交番に到着したとき、早くもしづくから連絡があった。犯人を捕まえた――と。
春心は事情を説明して、警官と共に現場へと急いだ。
人気の少ない路地裏にいたのは、素足のしづくと、正座をしてうなだれている引ったくり犯。
引ったくり犯の男は「ハハ……」と渇いた笑みを浮かべていて、警官を見ても大人しく地べたに座ったまま、全てを諦めた目をしていた。男の乗っていたスケボーはなぜかタイヤが全て取り外されていて、ただの丈夫な板きれに変わり果てていた。外されたタイヤを、男は大事そうに両手で抱えていた。
特に面倒事は起こらなかった。男が全面的に犯行を認めたため、話がスムーズに進んだからだ。
いちおう春心としづくも――特に犯人を捕まえたしづくは――その場で警官から聴取を受けることとなったが、それでも時間はあまり取られなかった。
こうして事件は解決した。
※
「しづくちゃん、お手柄だったね。お疲れさま」
騒動が一段落して、春心としづくは再び二人きりになっていた。
先ほどまでいた路地裏を抜けて、大きな通りへと出る。
「ううん、本音を言えばね、私はただ、怒りたいだけだったんだと思う……」
しづくは浮かない顔をしていた。
「本当はおばあちゃんのためにがんばろうだなんて思ってなかった……だからさっき、おばあちゃんにお礼を言われたとき……申し訳なくなっちゃって……」
「それは――」
春心は、しづくがロボットだという事実を認識してはいる。
だけど、血の通っていない機械人形だとは思えない。思いたくもない。
しづくはただ、身体を構成する素材が人よりちょっと個性的なだけだ。彼女の命にはちゃんと温度があることを、春心は知っている。
「――考えすぎだよ、しづくちゃん。実際に救われた人がいたんだから、それでよかったんだよ」
「そうかな……?」
「そうだよ。そんな風に悩めるうちは、きっと大丈夫」
「……そっか……ありがと……」
しづくの表情が少しだけ和らいだ。少しでも慰めになってくれたのなら嬉しいのだが。
「ところで、その、靴はどうしたの?」
春心は、しづくが靴を履いていないことに言及した。いま言いだすタイミングではなかったのかもしれないけれど、このまま裸足で帰宅するわけにもいかないし。
あっ、としづくが声を上げた。
「ラーチェルの近くで脱いできちゃった……跳ぶのに邪魔だったから……」
「そっか。じゃあ取りにいかなくちゃね」
言って、春心はスマホの画面を確認する。時刻は午後八時過ぎだった。
「ねえねえ、せっかくラーチェルの近くまで戻るんだし、二人でさ、もう一つだけクレープを買わない? いまから行けば閉店に間に合うよ」
「えっ……!?」
その発想はなかったと、しづくは目を丸くした。
「いいの……!? 私たち、大人じゃないのに……一日に二回もクレープ屋にいくなんて……そんな背徳的なことをして……いいの……!?」
戸惑いながらも、目の輝きを隠せていない。
「いいんじゃない? せっかくの楽しい時間を邪魔されたんだもん、もう一つくらい買ったってバチは当たらないよ。それに今日は半額の日だからね、二つ買っても実質一つだよ!」
なんだかカロリーゼロ理論に通じる屁理屈だけど、人生を楽しくするために言う屁理屈は、きっとそんなに悪いものじゃあない。
「うわあ、最高だね……!」
しづくの顔が、ぱあっと華やいだ。
しづくの表情はコロコロ変わる。今日の放課後だけでも、彼女のひととおりの喜怒哀楽を見た気がする。豊かな感情は彼女の美点だ。
しかしやはり、笑顔でいてくれることが一番嬉しい。
春心にとって、しづくは秘密を共有することのできる、数少ない仲間の一人だから。
海羽しづく。
彼女もまた、人間社会に紛れて生きるボツキャラクターなのだ。
春心や朱音と違うのは、しづくはSF作品のボツキャラクターという点なのだが、作者に選ばれず、物語の登場人物になれなかったという境遇は全く変わらない。
「そうと決まれば、早く行こうっ……!」
満面の笑みを携えて、しづくは足早に歩き出す。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ」
そう言いながらも、あとに続く春心の足取りも心なしか軽かった。
とっくに日が落ちているのに、もう肌寒さを感じない。
街の通りを抜けていく風から、夏の匂いがしていた。




