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余白の居住者 5/5

 逢戸澗おうとまがお堂の石段をゆったりと降りていく。


 その先にいるのは、春心を襲った顔のない女だ。逢戸澗はすでになにかを仕掛けているのか、女は地面に這いつくばったまま、苦しそうにもがいている。


「幽霊が死んだらどこに行くんでしょうね~」


 表面上、逢戸澗の声は弾んでいる。しかしその奥に冷たい感情が佇んでいるのを、春心は確かに感じ取った。


 逢戸澗の全身を、紫の炎が包み込む。彼女の人の形をしたシルエットが崩れ、膨張し、異形の姿へ変わっていく。


 手足のない身体。月明かりを反射する、真っ白な鱗。人間とは違うルールの中に生きる者の眼。


 ――白蛇だ。


 逢戸澗が、巨大な白蛇へと変貌していた。全長で何メートルあるのか、ぱっと見ではわからないほど大きい。彼女がそんな姿になるのを、春心は初めて見た。


 逢戸澗は鎌首をもたげ、地面に転がっている顔のない女を見下ろす。


 そしてそこから始まったのは、戦いなどではなかった。


 一方的な補食。


 その巨体とは思えない俊敏さで、逢戸澗は顔のない女に飛びかかる。まるで大きな木が動いているみたいだ――と春心が思ったときにはもう、女は丸呑みされていた。


 顔のない女は、おそらく生きた人間ではないと春心は思う。それでも、人間の姿をしてはいるのだ。それが大蛇に呑まれていく様は妙に生々しく、ショッキングで、目を覆いたくなった。


 恐ろしい。


 どうしていままで逢戸澗のことを当たり前のように近所のお姉さんとして慕ってきたのか、春心は一瞬だけ、わからなくなった。


 逢戸澗の全身を、再び紫の炎が包んでいく。気がつくと、彼女はもとの人間の姿に戻っていた。


「逢戸澗さん……いまのは……」


 ――いまのはなんだったんですか。と、春心は尋ねたかった。いまの姿はなんですか。あの顔のないお化けはどうなったんですか。逢戸澗さんは、何者なんですか。


 だけど、舌がうまく回らない。口の中が乾ききっているのを自覚するのに、少し時間がかかった。

 

 逢戸澗が、春心の方を振り返る。


「はるちゃん、私のこと、怖い?」


「…………」


 その質問に、答えることができなかった。ただ、無言でいることそれ自体がもう答えになってしまっている。

 

 逢戸澗は笑った。


「いいのよ、それで。それが私の本質だから」


 月明りに照らされる、彼女の微笑み。春心の目にはなぜだか、それがとても寂しげに映った。


 逢戸澗はお堂へ戻ってくると、倒れているしづくとメーベルの顔を覗き込んだ。


「しーちゃんとベルちゃんは、眠ってるだけのようね」


「……大丈夫なの?」


「うん、無理に起こす必要もなさそうよ。寝かしておきましょう」


 それから逢戸澗は、春心から少し離れた畳の上に腰を下ろした。怖がっている春心に近づかないよう、気を遣ってくれたのかもしれない。


 でも、微妙に空いてしまったその距離感が、なんだか悲しかった。春心のほうから怖がっておいて、距離を置かれるのが悲しいだなんて、ずいぶん身勝手な感情を抱いているなと自分自身でも思うけれど。


 少し気まずい沈黙が流れたあと、逢戸澗がふいに、


「ねえ、はるちゃん。扉の隙間って、なんか嫌じゃない?」


 と言った。


「たとえば夜中に目が覚めて、ぱっと壁の方を見たら、押入れの扉がうっすら開いていた――なんてことがあったら、気持ち悪いわよね」


 なんの話かなと思ったけれど、沈黙が続くよりはよかった。それに、その話は共感できる。


「うん、それは嫌だよ。なんか怖いこと考えちゃうよね、押入れの中に誰かいるのかな、とか。その隙間から知らない人がこっちを覗いてたりして、とか」


「そうよね。……それがね、ホラーという物語の正体なのよ」


 曖昧な言いかたを多用する逢戸澗が、このときは珍しく断定的な口調を用いた。


「人はね、嫌なものや怖いものの欠片に触れたとき、想像してしまうの。恐怖の続きを、余白を、想像力で膨らませてしまう。その余白の中に住んでいるのが、私たち、ホラーの住人なのよ」


「……余白?」


「想像の余地があるから、なんでもないものにも恐怖が宿るの。逆に絶対になにも起きないと最初からわかっていたら、どう? 扉の隙間なんて、ちっとも怖くないんじゃない?」


「そう言われてみると、そんな気がするかも」

 

 考えてみれば、扉の隙間そのものは、命を脅かすようなものではない。


 ただ、自分から勝手に嫌な想像をしてしまうだけだ。隙間の向こう側に誰かいるんじゃないか――なんて。


 だけどもしも、そこに想像の余地がなかったら。


 透視能力かなにかで、隙間の向こう側に誰もいないことが、最初からわかっていたら。


 その瞬間、扉の隙間は、ただの隙間でしかなくなる。


 恐ろしいものではなくなる。


「私、今回の一件のこと、はるちゃんたちにまともに説明してないでしょう? ベルちゃんにも言ったけど、これって、意地悪でやってるんじゃないのよ。余白を残しておかないと、私たちホラーの住人は力を失ってしまう。最悪、存在すらできなくなるわ。だから、言えないことも多いの。世の中の恐怖(たん)なんてね、突き詰めてしまえば、しょせん、“枯れ尾花”なのよ」


 余白を残さなければ、存在できなくなる――その言葉には、どこか春心にとっても他人事ではない切実な響きがあった。


 そういえば、逢戸澗はメーベルにこう言っていた。ホラーとミステリーは相性が悪いかもしれないと。


 いまならその意味がなんとなくわかる気がする。ミステリーは、積極的に余白を埋めにいくジャンルだから。


「もちろん、例外はあるわ。正体を知ってもなお怖い、絶対的な恐怖っていうのも、あるにはあるの。でも、それは少数派よ。私だってそう、実際は大したことはない。ねぇ、はるちゃん、私なんて、本当は怖がるほどの存在じゃないのよ」


 逢戸澗の話を聞いているうちに、春心の中にある疑問が浮かんできた。


「逢戸澗さん、聞いてもいい?」


「なあに?」


「逢戸澗さんって、ホラーのキャラクターだよね」


「そうよ」


「でも、いまの話を聞いていると、どっちなのかなって思っちゃって。どっちっていうのは……その、逢戸澗さんは人に怖がってほしいの? それとも、本当は……」


「……わからないわ」


 逢戸澗は困ったような、照れ笑いのような、複雑な表情をしていた。


「これは余白を作ってるわけじゃなくってね、本当にわからないの。でも、そうね、こう思うことはあるわ。ボツキャラクターには背負うものなんてないはずなのに、どうして私たちはいまも記号に縛られているのかしら――って」


 意味深な発言だった。


 春心がその言葉の真意を尋ねようとすると、


「それは嫌なんじゃなくて、愛ですよぉ……むしろ……」


 と、メーベルが突然口を開いた。目を覚ましたのかと思ったけれど、彼女は相変わらず目を閉じたままだ。ということは、どうやらいまのは寝言らしい。


 それに共鳴するかのように、しづくがむにゃむにゃと呟く。


「ガードレールがね……ガードレールがあったほうが……いいよね……うん……ガードレールがね…………ガードレールがぁ……」


 春心と逢戸澗は思わず目を合わせる。


 そして、ほとんど同時に吹き出した。


 だって、あまりに緊張感がなさすぎる。真面目な会話をしていたというのに、雰囲気が台無しだ。


「なに、メーベルちゃん、どういう夢見てんの? 愛って!」


「しーちゃんが寝言を言うのはどういう仕組みなのかしら?」


「えー、わかんないわかんない! なんでだろ!」


「ふふ、おかしい。……私、二人にかけるものを持ってくるわね。思っていたより冷えてきたわ」


 笑いの余韻が覚めないまま、逢戸澗は立ち上がり、お堂の奥へ向かった。かと思えば、彼女は途中で足を止め、こう言うのだった。


「さっきの答えになってないかもしれないけれど……私はね、笑ってるはるちゃんのほうが好きよ~」


 逢戸澗は恥ずかしそうな顔をすると、春心が返事をする間もなく、お堂の奥に引っ込んでいった。


「逢戸澗さん……」


“あちら側”と“こちら側”。不気味な怪異。余白の住人たち。


 身近なところに、こんなにもあやしく、恐ろしい世界が広がっていることを、今回の一件を通して、春心は強く実感した。


 ――でも、本当に怖いだけなのかな。


 逢戸澗の話を聞いていると、どうもそれだけではないように思う。


 ルール、在りかた、しがらみ……その世界に身を置かなければわからない葛藤や悩みが、ホラーの世界にもあるのかもしれない。


 お堂の入口の扉が、開け放たれたままになっている。


 月光が、お寺の境内を照らしていた。だけど、月の光も夜のすべてを浮かび上がらせることはできない。


 木々の隙間に、墓石の影に、こみちの先に、深い闇が佇んでいる。


 あの闇の中には、なにが潜んでいるんだろう。


 未だ埋め尽くされていないこの世界の余白について、春心は少し、想いを馳せてみた。

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