余白の居住者 4/5
春心の両腕を縛ると言っても、その辺に都合よくロープが落ちているはずもないので、結局、メーベルとしづくの二人で春心を押さえつけておくことになった。春心の意思とは関係なくそう決まった。
春心の右腕をメーベルが、左腕をしづくが押さえ込む。客観的に見れば、女子二人に抱きつかれているような格好だ。
両手に花じゃん……と春心は他人事のように思う。
「春心って、下手したら朱音より変ですよ」
「え~、そんなことないよ~」
「なんで嬉しそうなの……?」
春心にツッコミをさせないようにすればいいというメーベルの考えは正しかった。
しばらくして気づいたのだが、こちらから手を出しさえしなければ、この奇怪な街の住人たちは、基本的に春心たちに関わってこようとはしないようだ。
とは言っても、向こうから絡んでくるものもいないわけではない。踏切の真ん中で足首を掴まれたときと、身長が三メートルほどある人型のなにかがあとをつけてきているということに気づいたときは、さすがにぎょっとした。けれど、それ以上の被害はなく、残りの道中はスムーズに進めた。
逢戸澗夜縁は寺に住んでいる。それも文化財がいくつも立ち並ぶような立派な寺で、敷地面積は一般的なスーパーマーケットよりも遥かに広い。
日頃から参拝客が多いため、寺の周辺は門前町として、落ち着いた雰囲気を残しつつ栄えている。
春心たちはいま、ゆるやかな坂道を上っていた。道の両脇にはどこか懐かしさの香る土産物屋や食事処が並んでいて、坂の上には立派な山門がそびえたっている。その門をくぐった先が、目的地の寺だ。
周囲に怪しい影は見当たらない。どうやら無事に逢戸澗のところまで辿り着けそうではある。
ただ、ほとんど日が暮れかけているのが少し不安だ。空がみるみるうちに藍色に染め直されていく。不気味な夕焼けだったけれど、いざ沈むとなると心細い。暗闇が西の空から落ちてくるみたいだ。
誰から言い出すこともなく、春心たちの歩調が速くなる。そうして夜に追われるように坂道を上りきると、大きな山門の下で、逢戸澗がにこやかに手を振って待っていた。
「みんな~、よく来たわね~」
逢戸澗夜縁は、着物の似合うお姉さん――というのが春心の第一印象で、それはいまこの瞬間も変わらない。今日の彼女は、一見無地にも見える、柄の主張が控えめな上品な紬を身にまとっていた。
着物が似合うということは、逢戸澗は和風顔なのかというと、これが全然違う。真っ白な肌に、目鼻立ちの通った彫りの深い顔立ち。緩めに巻かれた、淡い菫色の髪。少なくとも和風ではない。しかし彼女は日本人とはまったく違う文脈で、なぜか奇跡的に和装が似合ってしまうという、不思議な魅力を持っていた。
ちなみに年齢は春心たちの八歳上だ。
「逢戸澗さん!」
春心は思わず逢戸澗の名前を呼んだ。やっと安全なところに来たのだと、ほっとしてしまった。
「あらぁ、ずいぶん怖かったのね。そんなにくっついちゃって」
逢戸澗は春心たち三人が密着しているのを見て、口元を緩ませた。
「いえ、これは春心が暴れないようにするための措置です」
「怪物を封印してるんです……」
即刻メーベルとしづくが誤解を解きにかかる。だが説明が足りなさすぎたのか、逢戸澗はニコニコしながら首をかしげていた。
「んー、よくわからないけど……まあいいわ。とりあえず、みんなこっちにおいで。――ああ、でも、あなたはダメよ」
と、逢戸澗は春心を指さした。いや、正確には、春心の背後を指さした。どういう意味なのかと、春心は後ろを振り返り――心臓が飛び出そうになった。
顔のない女が立っていた。高崎家の中を徘徊していた、あの化物だ。いつの間についてきていたのか。
逢戸澗は優しい笑みを、顔のない女に向けた。
「あらあら、はるちゃんのこと、気に入っちゃったのね。わかるわぁ~。でも、これ以上ちょっかいを出すようなら、ただじゃおかないわよ~。ここで引き返したほうが身のためだと言っておくわ。わかるわよね?」
『…………』
顔のない女は、なんの反応もせずに立ち尽くしている。
かと思いきや、春心が瞬きをした瞬間に、跡形もなく消えていた。いなくなってくれたのだろうか。
「さあ、気を取り直していきましょう。こっちにいらっしゃい」
逢戸澗に促され、春心たちはお寺の敷地内に足を踏み入れる。山門をくぐると同時に太陽が完全に沈み、夜が訪れた。
等間隔に立てられた外灯が、参道を照らしている。暗闇の中に道が浮かび上がっているようで、どこか幻想的だ。
進行方向の左手に墓石が並んでいるのが見えた。清らかな静けさに包まれていて、不思議と嫌な感じはしない。
「こんなにしっかり怪奇現象に巻き込まれるのって、みんなは初めてでしょう? 大変だったわねぇ~」
逢戸澗は普段通りのおっとりとした口調で話す。おかげで緊張感が薄れるけれど、いまはそれでいいと春心は思った。
「迎えにいってあげられなくてごめんなさいね~。私はみんなの味方だけど、こっち側の住人でもあるから……理由もなしに、どっちかに肩入れするってことはちょっとねぇ。だから、みんなにここまで歩いてもらったってわけね」
「逢戸澗さん。ここはどこなんですか? こっち側って、なんのことを言ってるんです?」
おもむろに、メーベルが尋ねた。
「う~ん、それには答えられないのよぉ。意地悪で言ってるんじゃなくてねえ……ホラーはね、解明できないことが重要なの。そういう意味では、ベルちゃんのようなミステリーとは相性がよくないのかもしれないわね~」
掴み所のない答えしか返ってこない。メーベルもどう反応していいのかわからないようだった。
「でも、なにも喋らないのも薄情よねぇ。話せる範囲で説明すると、ここはベルちゃんたちの住む世界の、隣の世界なのよ」
「隣の世界、ですか?」
「そう。遠くて近い、お隣さん。“あちら側”と“こちら側”ってところね。普段は、互いに交じり合うことはないわ。でも、双方の距離がとても近いのも事実だから、ちょっとしたきっかけがあると、繋がっちゃうって感じねぇ」
夏にしては冷たい風が吹き抜けていった。巨大な影が、遠くから春心たちを見下ろしている。市の文化財に指定されている五重塔だ。しかし、いま見えているそれが本当に五重塔の影なのか、春心はなぜだか確信が持てなかった。
「きっかけって、やっぱりあの鏡だったの……?」
しづくの質問に、逢戸澗が「そうよ~」と頷いた。
「あの鏡に引っ張られて、みんなの居場所がずれちゃったの」
正直なところ、春心は逢戸澗がいまなにを言っているのかよくわからない。けれど、先ほどの口ぶりからして、彼女はわざとわかりにくい言いかたを選んでいるようにも思える。
「気をつけなさいね。怪異ってのはね、口実や理由付けが好きなのよ。ちょっとでも接点ができた瞬間に引き込まれてしまうわ」
「そっかぁ……。やっぱり気をつけなきゃなんだね……」
「ん~、でも実際問題、気をつけようがないわよねえ~。鏡を拾っただけでこんなことになるなんて、予想できるわけないじゃないの。あはは」
あははと言われても、という感じがする。
「まあ、三人とも、今回のはそんなに大事じゃないから、安心してちょうだいね。すぐに家に帰してあげられるわ」
「ほんと?」
と、春心が聞くと、「十五分くらいで帰れるわよ~」と逢戸澗は言った。
「あ、でも、あれはちょ~っと気がかりなのよねえ」
「……あれって?」
「あの鏡、ドルギガメスとか言ってたでしょお? 日本語じゃないのよねえ。ってことは、海外のものかもしれないのよ~。どうしてそんなものが日本の川原に落ちてたのかしら?」
「それって、なにかまずいの?」
「まずいっていうか……そうねぇ、たとえば、フランスに落ち武者の幽霊が出たら、ちょっとおかしいでしょう? 怪異とか妖怪変化ってのはねぇ、その土地の文化や風習に大きく関係しているものなの。だから、縁もゆかりもない場所には出ないのよ、本来は」
「そう言われてみればそっか。学校の怪談でアフリカのお化けとかって出ないもんね」
「そう。だからあの鏡は不自然なのよ。どうしてかしらねえ。誰かがこの街に、わざわざあれを置いていったのかしら」
それまでほんわかしていた逢戸澗の表情が、ほんの一瞬険しくなった――というのは、春心の見間違いだったかもしれない。
「でも、いまはグローバル化が進んでるから、怪異たちも国際派が多いのかもしれないわね~」
最終的になんだか気の抜けるような結論を出して、逢戸澗は足を止めた。目的地に着いたのだ。
やってきたのは、境内の隅のとある場所。
近くに『廃堂跡』と書かれた立札があり、『ここにはかつてお堂が建っていたが、百年ほど前に火事で焼失してしまい――』という旨の解説が記されている。
つまり、ここは高名な建物の跡地なのだ。いまはなにも残っていない――はずなのに。
いま、春心の目の前には、その消失したはずのお堂が建っている。
ここが、逢戸澗の家だ。
存在しないはずの建物。それが、彼女の住処。
普段は本当になにもない場所なのだが、逢戸澗と一緒にいるときにだけ、お堂が出現するようになっている。
「どうぞ上がってってね~」
風格のあるお堂の扉を、逢戸澗はやけに軽いノリで開け放つ。まあ春心も初めて来た場所ではないので、特別緊張したりはしないけども。
お堂の中には畳張りの広い空間が広がっていて、中央奥に仏像が安置されている。
「この中にしばらくいれば、元の世界に帰れるわよ~」
「えっ、それだけでいいの?」
「大丈夫よ~」
「こう、儀式的なやつは?」
「いらないわ~」
あっさりしすぎていて逆に驚く。
「そうだ、みんな喉乾いたでしょ。冷たい麦茶を持ってくるわね」
そう言って、逢戸澗は奥の部屋に引っ込んでいった。春心も何度か行ったことがあるからわかるが、お堂の奥は逢戸澗の居住スペースに改造されている。さすがにバチが当たりそうな気がするけれど、逢戸澗曰く「なくなったお堂を復活させてあげてるんだから、部屋のひとつやふたつ、許してくれるわよ~」ということらしい。
「ふう、これで帰れるんだね……。おーとまさんと知り合いでよかった……」
安心したのか、しづくは気が抜けたように畳に腰を下ろした。
「でも、不思議な人ですよ、やっぱり。知れば知るほど底が深くなると言いますか。この前、醤油とコーヒーを間違えた人とは思えないですよ」
「あ~、そんなこともあったね! コロッケパーティの日でしょ?」
二週間前、高崎家に逢戸澗がやってきて、みんなでコロッケを作った。そのとき、逢戸澗が『私、コロッケはお醤油派なのよ~』と言いながら、ペットボトルのコーヒーをかけるという珍事があったのだ。
「はるこ、あのとき『わけわかんねえよ!』って二回言ったよね……」
「どさくさに紛れて暴言吐いてるじゃないですか」
「えー、ちょっと待ってちょっと待って! 言葉の綾っていうかさ、ツッコミとしての言葉だからね!?」
「はるこ、ツッコミだからって言えば許されると思わないでよ……?」
「春心ってそういうとこありますよね」
「みんなそんなふうに思ってたの!? え~、気をつけたほうがいいのかな~」
「…………」
「…………」
「え、なに? 冗談じゃなくて本当に気をつけたほうが感じ?」
「…………」
「…………」
「二人とも、なんで黙っちゃうの?」
「…………」
「…………」
「ねえ」
ばたん、と。
メーベルとしづくが倒れた。電池を抜かれた玩具のように、突然に。
(え……なに、これ?)
意味がわからない。けれど、頭が状況を理解するよりも先に、心臓の鼓動が速くなる。なにか危険なことが起こっていると直感でわかった。
春心は逢戸澗を呼ぼうとして――気づいてしまった。視界の隅に、なにかが映り込んでいることに。
見てはいけない。そう思ったが、見てはいけないと意識してしまったのが逆効果となって、春心はついそちら側に目を向けてしまう。
顔のない女が、真横から春心の顔を覗き込んでいた。
「………ッ!」
悲鳴を上げる間もなかった。女が猛スピードで腕を伸ばしてきて、春心の首を掴む。
「ん……ぅッ! ――ッ!」
首を絞めされている――ということにさえ、春心はすぐに気づけなかった。いきなりのことで、なにがなんだかわからない。
ただ、ひたすら痛い。怖い。苦しい。どうにかしようと思っても、苦しさに脳が支配されて頭が回らない。本能的に身をよじらせるが、むしろ首を絞める力は増していく一方だ。
苦しい。怖い。痛い。苦しい。怖い。苦しい。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。寒い。
――ああ、笑っている。
と、春心は思った。顔のない女が、春心の首を絞めながら笑っている。顔のパーツがないはずなのに。どういうわけか、笑顔だとはっきりわかる。
「あらぁ、だめよ~、お触りは」
逢戸澗の声が聞こえたと思った瞬間、春心の上に覆いかぶさっていた女が吹き飛ばされた。女は扉を突き破り、お堂の外まで転がっていく。
ようやく喉が解放されて、春心は無意識のまま息を大きく吸う。が、むせてしまい、思いっきり咳き込んだ。あれ、呼吸の仕方ってどうやるんだっけ?
「はるちゃん、落ち着いて」
逢戸澗が春心の横にしゃがみこんだ。
「ゆっくりでいいのよ。ゆっくり吸って……吐いて……そう、いい子ね」
逢戸澗が背中を優しくさすってくれる。呼吸の乱れも、動揺も、少しずつ治まっていった。
「そのままはるちゃんは、ここで待っててね。私はあれを、始末しなきゃ」
逢戸澗は立ち上がり、お堂の外に目を向けた。
「これ以上はるちゃんにちょっかいを出すようなら、ただじゃおかないって言ったのに。人の忠告は聞かなきゃねぇ~。残念だけど、あなた、もう終わりよ」
逢戸澗の視線の先、参道の上で、顔のない女が毒を貰ったみたいにのたうちまわっている。
「理由探し、口実探し、みんな好きなのよね。私も好きよ。ねえ、わかる? 私の言ってること、あなたはわかる?」
逢戸澗の言葉には怒りが滲んでいる。しかしその一方で、彼女の表情は非常に穏やかだ。まるで夜桜のように、妖しく、危険で、綺麗。そんな微笑をたたえてすらいる。
「私があなたに手を出す理由、できちゃったわね」




