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余白の居住者 1/5

※一応ホラー回です。次回、次々回と、ギャグ要素が強くはなっていきますが、基本的にホラー系のエピソードなので、苦手な方はご注意ください。

 八月上旬。夏休みも中盤に差し掛かったある日の夕方、春心は自室でメーベルに勉強を教えてもらっていた。


 夏休みの課題が発表された当初はそんなに量があるという印象はなかったのだが、いざ取りかかってみると、これがなかなかに多い。どうやら見積りを完全に間違っていたようだ。


 特に理数系。春心の苦手なこれらの科目に限って、なぜか課題が多めに出されている気がする。数学の問題集は三ページ目ですでに挫折した。自慢じゃないけれど。


 そこで春心はメーベルに助けを求めたのだった。


「ちゃんと自分で考えるんですよ」


 そう強調した上でメーベルは引き受けてくれた。彼女は勉強に関してオールラウンダーなので、非常に頼りになる。

 

 しばらく課題を進めていると、高崎が春心の部屋に顔を出した。


「二人とも勉強やってたの? しっかりしてるね~」

 

 高崎は感心したようにそう言うが、


「ううん、逆に今日までがやらなすぎだったの。そろそろ本気でやらないと終わんなそうでさぁ」


「いやいや、私が学生のときはもっとギリギリまでやらなかったから。焦るだけ偉いわ」

 

 高崎は数Aの問題集をちらりと覗き込み、「うわ~、全然覚えてないな」と苦笑する。


「今日もいつもと同じくらいの時間に夕飯にするから。あと一時間くらいしたら下に来てちょうだい」


「はーい」


「それだけ言いに来ただけだから。それじゃ、がんばってね」

 

 勉強を邪魔しないようにと気を遣ってくれたのか、高崎はすぐに春心の部屋を出ていった。

 

 夕飯まで残り一時間。それくらいなら、集中を切らさずにがんばれそうだ。


「暗くなってきましたね。そろそろカーテンを閉めましょうか」

 

 メーベルが窓際に向かう。


 釣られて窓のほうを見てみると、夕暮れ時の空が真っ赤に燃えているのがわかった。いつもなら綺麗な夕焼けだなと思うところだったけれど、このときは何故かそうは思えなかった。夕陽の赤い光が、まるで空に溶けだした毒のように見えて、妙に心がざわめく。


 だから、メーベルがカーテンを閉めてくれたとき、なんだかほっとした。


「あ、二人とも、ここにいたんだ……」


 さて、気を取り直して課題の続きをしようとペンを取ったところで、しづくがひょっこりと春心の部屋にやってきた。


「ねえねえ、見て……。面白い鏡を拾ったの……」


「面白い鏡?」


 興味がそそられて、思わず春心は聞き返した。すかさずメーベルの厳しい声が飛ぶ。


「しづく、いまは勉強中なんです。あとにしてください」


 メーベルは身内にこそ手厳しいところがある。しかし身内だからこそそんな態度には慣れっこのようで、しづくは叱られたことをまったく気にしていないようだった。


「いいから、ちょっとだけ聞いてよ……。この鏡、喋るの……」


「「喋る?」」


 春心とメーベルの声が揃った。……喋る、とは?


 しづくの手には、ひびと錆びにまみれた、骨董品と呼ぶのもはばかられるような古臭い手鏡が握られている。


「よく聞いててね……? 鏡よ鏡よさん、世界でいちばん美しいのはだあれ……?」


 しづくが、どこかで聞いたことのあるフレーズを口にすると、なんと鏡から返事があった。地の底から響くような、おどろおどろしい声で。


『ド ル ギ ガ メ ス』


 ……喋った。鏡が、喋った。


 春心もメーベルもリアクションのしようがなく、「ええ……」としか言えない。


「もっかいやるよ……? 鏡よ鏡よ鏡さん、世界でいちばん美しいのはだあれ……?」


『ド ル ギ ガ メ ス』


「誰それ!?」


 二度目でようやく春心のツッコミのスイッチが入った。


「ドルギガメス、誰!? ゴッツい名前! 美しいっていうか、強い人だと思うよ、それ!」


「……春心、ちょっと待ってください。なんか、寒くないですか?」


 寒い。つまり、いまのツッコミはつまらなかったと言われたのかと思い、春心はショックを受けそうになる。……が、メーベルの顔を見た瞬間に、それは勘違いだとわかった。


 メーベルが顔を青ざめさせて、震えていた。


 寒いというのは、文字通りの意味だった。彼女は寒がっているのだ。この八月に。


「なんか、その鏡、すごく嫌な感じがします。そもそも、なんで二人は普通に受け入れてるんですか。鏡が喋るわけないでしょう!」


 言われてハッとなった。いや、こんなことでハッとなってる時点でおかしいのだけれど。春心は朱音と一緒にいる時間が長いために、感覚が麻痺しているのだろう。


 でも、そうだ。メーベルの言う通りだ。


 普通、鏡は喋らない。


「しづく、その鏡はどこで拾ったんですか」


「川原だよ……」


「そんなところから拾っ――」

 

 会話の途中で、急にメーベルが両耳を手で覆った。

 

 どうしたの、と尋ねようとして――春心もまた、両手で耳を覆った。

 

 耳鳴りだ。脳に突き刺さるような金属音が、突如鳴り始めたのだ。それも相当大きい。頭が痛い。気持ち悪い。床に倒れ込まないようにするだけで精一杯だ。


 その上、右耳だけから「ポー……ポー……ポー……」というなにかの電子音のような、また別の耳鳴りが聞こえてきた。


 種類の違う耳鳴りが二重に鳴るという現象が、わけもわからなく怖い。ふと春心は、包丁を持った五十代ほどの男が背後に立っているのを連想してしまった。


 ――連想? 


 なにをどうしたら、耳鳴りからそんな具体的なイメージを連想してしまうのだろう。

 

 春心は自分で自分の考えてることがわからなくなった。ただ、凄まじく嫌な予感がする。それだけは確かだ。春心は後ろを振り返ることができなかった。誰かが本当に、背後に立っていそうな気がして。

 

 耳鳴りは一分ほどで治まり、同時に嫌な予感も霧散していった。


「みんな、大丈夫!?」

 

 春心は顔を上げ、二人に声をかける。


「ええ、なんとか」


「私も……。でも、気持ち悪かった……うえー……」

 

 メーベルもしづくも、とりあえずは大丈夫そうだ。


「しかしこれ、まずいことになってるかもしれません」

 

 と、メーベルが硬い表情のままで言う。


「さっきも言いましたが、普通の鏡が喋るわけないんですよ。しかし、しづくの持ってきた鏡は喋りました。いったい何故か。この場合、考えられる可能性は大きく三つです。一つ。その鏡が、ファンタジー関係の、なにかの魔道具だという可能性。二つ。その鏡が、SF関係の、高性能な機械だという可能性。三つ。その鏡が、ホラー関係の、いわくつきの代物だという可能性。感覚だけでものを言っていいのなら、私は三つ目の可能性が高いと思っています」


「いわくつきの、なにか……」

 

 春心はしづくが持ってきた古い手鏡を改めて見た。いわくつきの代物だと言われると、それっぽい雰囲気があるような気がしてくる。


「ルシアを呼んできます。こういうものは、私たちよりもルシアのほうが鼻が利くはずです。二人はここで待っていてください!」

 

 メーベルが、慌ただしく春心の部屋を飛び出していく。


「ど、どうしよう……私のせいで、大変なことになっちゃったのかな……」

 

 しづくが弱々しく呟いた。


「しょうがないよ。しづくちゃんだって、こうなると思ってやったわけじゃないんでしょ?」


「うん……でも……」


「大丈夫。きっと、大したことじゃないよ」 


 春心はしづくを元気づけながら、メーベルの帰りを待った。

 

 やがて忙しない足音と共にメーベルが戻ってきた。が、ルシアを連れてくると言ったはずの彼女は、いまも一人のままだ。


「いないんです」


「あれ、ルシアちゃん、まだ帰ってきてないんだっけ?」


「違います!」

 

 メーベルが声を荒らげた。だが、彼女は怒っているという感じではない。余裕がないという感じだ。


「いないんです。家の中に、誰も! ルシアも、朱音も、高崎さんも、全員いないんです!」


「いないって……え、高崎さんも? だって、夕飯の準備をしてるんじゃないの?」

 

 確かに高崎は「今日もいつもと同じくらいの時間に夕飯にするから。あと一時間くらいしたら下に来てちょうだい」と、言っていた。ついさっきの話だ。時間的に考えて、夕飯の準備をしているはずなのだが。


「キッチンにも、高崎さんの私室にも行きました。でも、いないんです。キッチンで料理をした形跡もありません」


「じゃあほら、なにか買い忘れがあって出かけたんじゃない? 高崎さんに連絡してみた?」


「それができたら苦労はしませんよ」

 

 メーベルの言ったことが春心にはわからなかった。どうして高崎に連絡を取ることができないのだろう。スマホを使えば一発なのに。


「あっ……!」

 

 と、しづくが短く叫んだあと、スマホの画面を突き出してきた。


「見て……。電話、圏外になってる……」


「えっ?」 


 春心は慌てて自分のスマホを確認する――圏外だ。


「そう、圏外になってるんですよ」


 メーベルの額から、汗が滴っている。


「断言していいでしょう。私たちの身に、なにかおかしなことが起こっています」


「おかしなことって、どんな?」


「わかりません。わからないのが厄介なんです」

 

 メーベルは険しい表情で首を横に振る。いつも冷静な彼女も、今回ばかりは気が滅入っているようだ。なにせ取っ掛かりがなさすぎる。現状を把握すること自体が困難だ。

 

 ――コンコン。


 ふいに、窓を叩く音がした。


「すいませーん、ちょっといいですかー?」

 

 窓の向こうから若い男の人の声がする。どうしたんだろう、なにか用事があるのかなと、春心は窓際に寄ろうとして――


「駄目です春心! カーテンを開けないでください!」


 メーベルが叫んだ。そして微かに震える声でこう続ける。


「ここ、二階ですよ」


「あ……」


 春心の部屋は二階にある。それに、ベランダもない。いや、あったとしても、だ。二階の窓を外側からノックしてくる者が、まともな人間だとは思えない。


「あ、あ、あばんちゅううううううううるッ!」

 

 春心は奇声を上げながら、飛び跳ねるように窓から離れた。


「すいませーん、ちょっといいですかー?」

 

 窓をノックする音が、次第に拳を叩きつけるような音に変わっていく。


「すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー? すいませーん、ちょっといいですかー?」

 

 メーベルが、春心としづくの手を取った。


「二人とも、いったんこの部屋から離れましょう!」

 

 三人はいっせいに廊下に飛び出すと、部屋の扉を閉め、その場にうずくまった。


「ねえいまの、なんですか!? なんですか!?」


「わかんないよもう……急にこんな謎の展開になることある? ただ勉強してたたけじゃん」


「あわわ……スーパーノッポメンが出たね……」


「その言いかたはそんなに怖くないですよ!」


「でもいいよ! 怖くないほうが!」

 

 恐怖感を紛らわすために、三人でわいのわいのと騒いでいると、いつの間にか窓を叩く音が止んでいた。


「音、止んだね」


「でも安心はできませんよ。……はあ、こんなとき、逢戸澗おうとまさんがいれば」


「ほんとそうだよ。逢戸澗さんはこういうことの専門家だし」


 逢戸澗さん――フルネームは逢戸澗おうとま 夜縁よみち


 高崎家の近所の寺に住んでいるお姉さんで、春心たちとはたびたび交流がある。そしてなにより、彼女はホラーのボツキャラクターなのだ。こういう怪奇現象にはめっぽう強い。


「逢戸澗さんの家に行ってみましょうか?」


「でも家の外に出るのも怖いよ。高崎さんたちがいなくなったんだよ? 逢戸澗さんだっていなくなってるかもしれないじゃん」


「かと言って、このまま家にこもってるわけにもいかないでしょう」

 

 春心とメーベルが今後について話していると、ふいにしづくが二人の方を見て、人差し指を口元にあてた。


「ねえ二人とも……静かにしたほうがいいよ……。一階から、なにか聞こえる……」


「き、聞き間違いじゃない?」

 

 希望をこめて、春心はそう言った。だって、一階から音がするってことは――もう家に中に“入ってきている”ということだから。


 だが、さすがにメーベルの判断は落ち着いていた。


「春心、この状況で楽観視するのは逆に危険だと思います。しづくは私たちの中で一番耳がいいんですから。信用したほうがいいです」


「はぁ、聞きたくない~」


 本当なら知らないふりをしていたい。聞きたくない音を聞かされるより、聞きたくない音を自らの意思で聞きにいくほうが、かえって精神的にきつい。


 でも、仕方がない。逃げたって、仕方がない。自分にそう言い聞かせて、春心は嫌々ながら耳を澄ましてみた。


 ――ああ、確かに音が聞こえる。


 足音だ。


 なにかが、一階をうろついている。高崎家の誰かが帰ってきたのかと思いたかったけど、そうじゃないことはすぐにわかった。


 そのなにかは、ぶつぶつと呟きながら歩いているのだ。小さな子供の声で、こんなふうに。

 

 ――お水どこぉ? お水どこぉ? お水どこぉ?


「下にいるの、絶対やばいやつですよ……」


「あ~、もうやだ~。帰って寝たい!」


「ここが家だよ……?」

 

 そして追い打ちをかけるように、春心のスマホが震えた。圏外なのに。


「あびゃーッ!」

 

 春心は驚きすぎて、スマホを放り投げた。


「いや、はるこ、メーベル……あれ見て……」

 

 しづくが、廊下に放り出された春心のスマホを指さした。その画面には、発信者の名前が大きく表示されている。


『逢戸澗 夜縁』


 救いの手が来たと思った。いま一番助けを求めたい人物のほうから電話がかかってきたのだ。

 

 春心は自分で投げたスマホに一目散に飛びつき、電話に出た。


「もしもし!」


『どうも~。はるちゃん、元気ぃ?』


 春心のよく知っている、逢戸澗の声だった。柔らかくて伸びのある、聞く者に癒しを与える声。この異常な状況下で、ようやく外部の知り合いと連絡が取れて、春心は泣きそうになる。


 彼女はのんびりとした口調で、雑談をするような気安さで――しかしまるで春心たちをリアルタイムで見ているかのような、的確な台詞を口にしたのだった。


『はるちゃんたち、いま大変な目に遭ってなーい?』

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