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記号たちは明日へ進む  作者: 八番出口
第二章 ファンタジーの住人たち
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そして私は日常へ帰る 3/3

 狩欺が去ったあと、ルシアは思い出したようにテーブルの上のダッチ・コーヒーを口に含んだ。氷がすっかり溶けてしまっていて、ずいぶんと水っぽい味になっていた。


 ルシアは考える。


 沙杏は洗脳を受けていた。しかし、彼女の行動のすべてが完璧に誰かにコントロールされていたとは思えない。洗脳を受けていた割には、不合理で不可解な行動が多かったからだ。具体的に言うなら、どうして彼女はルシアに近づいてきたのか。どうしてサーフィの居場所をルシアに教えたのか。沙杏のおこなおうとしていた計画のことを考えると、ルシアと知り合うこと自体、ほとんどメリットなんてなかったはずなのだ。


 沙杏の行動は、どこまでが洗脳によるものだったのか。どこまでが彼女自身の意思だったのか。一瞬考えかけて――やっぱりやめた。

 

 記憶の中の沙杏をどれだけ見つめたところで、自分にとって都合のいい結論か、果てしなくネガティブな結論の、そのどちらかしか出てこないだろう。


 狩欺も言っていた。直接言葉を交わせ、と。沙杏のことを知りたいのなら、本人と向き合うほかない。


 そうと決まれば、さっそく行動に移さなければ。


 ルシアはコーヒーを飲み干し、伝票を持って隠し部屋を出た。


 帰り際に“ウィル”のマスターに挨拶をしていこうとすると(ちなみに据野は非番らしい)、そのマスターの前のカウンター席に春心が座っているのを見つけた。ルシアが隠し部屋から出てくるのを待っていたのか、春心はすぐにルシアに気づき、店内の静かな雰囲気に配慮してか、小さく手を振った。


 マスターから許可をもらい、ルシアは春心の隣の席に腰を下ろした。


「春心ちゃん、どうしてここに?」


「ちょっとね、来てみたくなって。美味しいよね、ここ」


 見ると、春心の前にはアイスカフェオレと杏子のタルトが並んでいた。


「お疲れさま。いろいろ、大変だったんでしょ?」


「うん、ごめんね。春心ちゃんにも心配かけちゃったわね」


 ルシアがそう言うと、春心が少しすねたような声を出した。


「ほんとだよ。私ね、実はちょっと怒ってるんだから」


 怒ってるというのが意外で、ルシアは目を丸くする。


「だってルシアちゃん、今回のこと、全然相談してくれなかったじゃん。そりゃ、魔法使いのこととかね、私に言えないこともあったと思うし、私に言ったところで解決するような話じゃなかったかもしれないけど――」


 でもね、と春心は言う。


 薄暗い店内を、ランプの柔らかな光が照らしている。そこに浮かび上がる春心の表情は、怒っているというよりもどこか儚く、切なげに見えた。


「せめて、一緒に迷わせてよ。一緒に悩ませてよ。……私たち、せっかく出会えたんだから」


「春心ちゃん……」


 そうか、とルシアは納得した。理由を聞けば、春心がどうして怒っているのか、自分のことのように理解できた。


 数日前、ルシアは沙杏に「どうして自分を数えてくれないのか」と怒った。ルシアのほうは友達だと思っていたのに、沙杏のほうは孤独を感じていた。それが無性に悲しくて、虚しくなった。


 春心が言いたいのは、つまりそれと同じことなのだ。


 春心の言う通り、今回の一件のことを、ルシアは家族の誰にも相談しなかった。


 心配をかけてはいけないというのが第一の理由ではあった。でもきっとそれは表面上の話で、根本を辿っていけば、「完璧じゃない自分を見られるのが怖い」という感情に行き着くのだろう。


 結局ルシアは、家族に対してもどこかよそよそしかった。わずかに壁を作っていた。


 だけど、これからは――


「ねえ、春心ちゃん。今更だけど、今夜、私の話を聞いてくれる? これまでのこと、これからのこと、楽しかったこと、苦しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、そして友達のこと……春心ちゃんに、聞いてほしい」


「うん、もちろんだよ」


 春心は頷き、笑ってくれた。


「ありがとう。それと、もうひとつだけいい?」


「なに?」


「このあと、買い物に付き合ってもらえないかしら。いまから準備をしておきたくて」


「準備? いいよ、なにするの?」


「手紙を書こうと思うの」

 

 ルシアが変わるきっかけとなったのは、間違いなく沙杏だ。

 

 完璧じゃなくたって、あたしは味方でいるよ――そう言ってくれた彼女に、そんな些細な一言に、どれだけ救われたことか。


 それなら、ルシアだって沙杏に伝えたい。

 

 どんなあなたでも、味方でいますと。


「じゃ、そろそろ行こっか!」

 

 食事を終えた春心が、意気揚々と席を立った。


 会計を済ませて喫茶店の外へ出ると、鋭い陽光が直射してきて、いまが夏の真ん中だということを、ルシアは数日ぶりに思い出したような気がした。薄暗かった店内とのあまりの落差に、目が眩みそうになる。

 

 駅前の通りを歩く大人たちはみな、この危険な暑さに顔をしかめているようだった。


 シャツの袖をまくったサラリーマン風の男性が、重い足取りで歩いていく。


 コンビニから出てきたばかりの男女二人組が、あついあついと口々にぼやき始めた。


 周りの目を気にしていないのか、ほとんど下着姿に近いような薄着のおじいさんが、肩にタオルをかけ、団扇うちわを扇いでいる。


 ポロシャツを着た若者が、焦った様子で駅に駆け込んでいく。


 それと入れ違いに、十歳前後の少年たちがはしゃぎながら歩いてきた。この場で唯一、彼らだけがこの暑さを楽しんでいるかのようだった。


 様々な人々が行き交う通りの中に、ルシアは春心と共に足を踏み出す。やがて二人は、あっという間に人混みの中に溶け込んでいった。


 こうしてルシアは日常へ帰る。何気なく、くだらなく、かけがえのない、大切な日々へ。そしてそんな日々を守り続けた先に、あの子と再び笑い合える日が来ることを、ルシアは信じてる。


 ずっと、待っている。

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