そして私は日常へ帰る 2/3
狩欺の言ったことは、ルシアにはおよそ信じられるものではなかった。
というより、信じたくなかった。それでは、いよいよ沙杏の人生はなんなのだ、という話になってくる。作者に捨てられただけでなく、その直後に邪悪な人間に群がられ利用されるだなんて、あまりにも救いがない。なさすぎる。
「な、なんで……そこまでわかるんですか。だってあれからたった数日ですよ。なんでそう言えるんですか!?」
ルシアの問いは、しかしほとんど無駄なあがきだった。
「人の記憶を覗ける能力者に、荒月の記憶を見てもらった。それを各方面のスペシャリストたちが分析したんだ、そこまでずれた結論にはなってねえはずだよ。……おい、そんな顔すんな。手荒な真似はしてねえ。そもそも、荒月自身が今回の捜査にかなり協力的なんだ」
「…………」
そんな顔すんなと言われたとき、一瞬ではあるが、ルシアはひどく歪んだ表情を浮かべていた。彼女にしては珍しく、気が立っていた。取り調べと称して、沙杏が酷い仕打ちを受けているんじゃないかと勝手に想像して、狩欺にさえ敵意を向けてしまうほどに。
……わかっている。それが的外れな想像だということくらい。そもそも、怒りを向けるべき相手は捜査官や専門家たちではない。今回の事件の黒幕だ。
「狩欺さん。犯人はなんなんですか。どうして、こんなことをするんですか。だって、意味がわからないですよ! なんで、どうして、沙杏を巻き込むんですか! 沙杏がなにかしたんですか!?」
喋り終わるころにはもうほとんど平静さを保てていなかった。落ち着いてなんていられない。荒々しく言葉を吐き出していなければ、まともでいられる気がしなかった。
「いいか、リフレイン。俺はいまから、少し冷たいことを言うぞ」
と、狩欺は前置きをした。
「世の中の人間が、全員わかり合えると思うな。理解のできねえ人間がいなくなることなんてな、絶対にねえんだよ」
実感のこもった口調だった。彼が普段、警察官という職に就いているのが関係しているのだろうか。
「正義と悪なんて、立場や物の見方で簡単に入れ替わっちまう。だが、いまだけはあえてはっきり言うぞ。この世にはな、救いようのねえ極悪人が確かにいるんだ。そしてそれは俺たち魔法使いや、お前さんのようなボツキャラクターの中にもいる。この世を恨んでるやつ。特別な力を誇示したいやつ。人の不幸を見たいだけのクソもいれば、世界を支配したがってるバカだっている。全員が全員、善人なわけがねえんだよ」
狩欺の言葉に、ルシアは安易に同調したくはない。だけど、真っ向から否定できる自信もない。
この世界に来てからのルシアは人間関係に恵まれていた。出会う人はみな、優しい人たちだった。だからと言って、世の中のすべての人間がそうだと思うのは錯覚なのだろう。
ここは創作の世界ではない。平和なだけの世界ではない。ルシアがいま生きているのは、まぎれもなく現実世界だ。
「沙杏は、その悪い人たちに捕まってしまったということですか?」
「そうなるな」
「……やっぱり、わかりません。どうしてその人たちは、沙杏を利用して、東京に怪物を放とうとしたんですか。そんなことに、なんの意味があるんですか!」
「それは俺にもわからん。だがその過激なやりかた、自分の手を汚さずに目的を達成しようとする手口には、正直、思い当たる節はある」
「思い当たるって……。狩欺さん、犯人がわかってるんですか? それって、誰なんですか!」
「ある“組織”だ。それ以上は言えん」
その発言に、ルシアは息を飲んだ。次第に血の気が引いていくのを感じる。
つまり、沙杏を陥れようとしたのは一人や二人じゃない。頭のおかしな個人がやったことではないのだ。ある程度統率の取れた、理性のある集団が計画的に犯行に及んだ――そう考えた途端、怖気が走った。
そして続けざまに狩欺の口ぶりに違和感を覚える。まるで以前からその組織を知っているかのようだ。
なりふりかまっていられるような状況でも、心境でもない。ルシアは直接的な質問をぶつける。
「もしかして、狩欺さんはその組織を知ってるんですか?」
「そりゃ、どういう意味だ」
「だから、その組織を相手にしたり、戦ったりしたことがあるんですか、という意味です」
「どうしてそんなことを聞く?」
「いいから、答えてください」
狩欺が、話をはぐらかそうとしているように見えた。
しかしルシアは引き下がらない。目を逸らさずに、狩欺の顔をじっと見つめ続ける。
やがて根負けしたのか、狩欺は溜め息をついて、仕方なさそうに答えた。
「……そういうときもあるかもな」
「だったら!」
ルシアはテーブルから身を乗り出す。
「私も戦わせてください! 沙杏を酷い目に遭わせた人を、私は、絶対に許せません! 許せないですよ、こんなの……!」
事件の真相に近づくにつれ、ルシアは様々な感情を抱いた。驚嘆、不審、恐怖、嫌悪――しかし最後に行き着くのは、やはり怒りだった。
生まれてから今日まで、これほどまでに醜い感情を抱いたことはないというほど、彼女の中に激しい怨嗟が渦巻いていた。
今回の事件の黒幕に、沙杏が味わった以上の苦しみを思い知らせてやりたい。人を殺すことなく、苦痛だけを与えられる魔法があるのなら、人を痛めつけるためだけに作られた魔法があるのなら、迷いなく手を出すつもりだ。このまま、やられっぱなしでいられるわけがない!
だが、狩欺はそれを認めなかった。彼はただ一言「だめだ」と言うだけだった。
「どうして! 私だって戦えます!」
「そういう問題じゃねえよ」
ルシアとは対照的に、狩欺は冷静そのものだ。しかしその声には、断固として反論を許さないという意思と迫力が静かに滲んでいる。
「お前が戦うことで心配するのは誰だ? お前が戦いの中で後遺症を負ったとして、お前の介護をすんのは誰だ? お前の弱点として、真っ先に戦いに巻き込まれるのは誰だ? お前が一番失いたくないのは誰だ? ……お前の、家族なんじゃねえのか」
ルシアは、なにも言えなかった。
狩欺の言っていることが正論だったからというだけではない。彼の厳しい口調の奥に、温かいものが流れているのを感じ取ってしまったのだ。
「俺が今日こんなにベラベラ喋ったのはな、お前には……お前さんには、知る権利があると思ったからだ。それ以上の意味はねえんだよ。帰りを待ってくれる人を待たせんじゃねえ。お前さんは早く、日常へ帰れ」
――私の家族。私の、日常。
ルシアの脳裏に、次々と浮かんでは消えていく。春心が、朱音が、しづくが、メーベルが、高崎が。
彼女たちを想うたび、ルシアの中のどす黒い感情が心の隅へと追いやられていく。
しかし、それがゼロになることはない。ここで素直に引くわけにはいかない。
「沙杏を置いて……私だけ平和な日常に帰るなんて、できません……」
狩欺はカップの中身を飲み干すと、腕を組み、俯いた。そしてしばらく間を置いたのち、彼は口を開く。
「おそらく、条件つきという形にはなるだろうが――荒月はそう遠くはない未来、釈放されることになるだろう。事情が事情だしな。だがそうなったとき、精神的な意味で、あいつに帰る場所はねえ。あいつの親代わりの人間も、あいつを救った人間もどっかに行っちまった。だけどな」
そう言って、狩欺は顔を上げた。
「お前さんなら、荒月の居場所になってやれるんじゃねえか?」
「私が……?」
「戦場で剣を振り回すのだけが戦いだと思うな。居場所を空けて帰りを待つのだって立派な戦いだろうが。そしてそれは、誰にでもできることじゃねえ」
沙杏の居場所を守り続ける。
そんな形の戦いも、あるというのだろうか。
「私がそれを望んでも……沙杏は、受け入れてくれるでしょうか」
あの夜、ルシアは「ずっと隣にいる」と沙杏に言った。だけど結局あれは、一方的に宣言しただけで、沙杏の返事を聞いたわけではないのだ。
「受け入れるだろ」
狩欺が、やけにあっさりと言い切った。
「どうして、狩欺さんがそんなはっきりと言えるんですか? ……まさか、沙杏がなにか言ってたんですか?」
「まあ、色々言ってたな」
「なんて言ってたんですか!? 教えてください!」
「やだね」
予想もしていない返答に肩すかしを食らった気分になったが、狩欺が意地悪でそんなことを言ったのではないことは、すぐにわかった。
「俺を伝言係に使うな。十代の女子の会話に挟まれる俺の身になってみろ。場違いすぎてこっちが恥ずかしいんだよ。お前らな、互いに言いたいことがあるんなら、直接喋れ」
「直接って……話せるんですか? 沙杏と」
希望の光が、一筋だけ見えた気がした。
「まあ、いますぐには無理だ。だが手紙くらいなら出せる。時期が来れば面会だってできるだろう」
そして狩欺は一呼吸置き、改めてルシアに向き直る。
「なあ、なにかが終わったと思ってんなら、そりゃ勘違いだ。お前らまだガキだろ。まだいくらでも、どうとでもなるじゃねえか。お前ら、これからなんだよ。だから、なんでもいいから言葉を交わせ。ここからまた、わかり合えばいいんだ。そうだろうが」
言うだけ言って、狩欺は席を立った。
「じゃあな、俺は忙しいんだ。帰るぞ」
狩欺はテーブルに千円札を数枚――明らかに飲み物の代金より多い額を置くと、部屋の出口へと歩きだした。
なんの余韻もなしに急に帰り始めた彼の後姿を、ルシアは呆然と見つめ――すぐにはっと我に返る。
彼に、言うべきことがある。
「狩欺さん!」
今回の事件の果てに残ったものは、絶望だけだ。
だけど狩欺はそこで終わらせず、“その先”を示してくれた。明日へ進むべき道のヒントを教えてくれた。
ルシアは椅子から立ち上がり、頭を下げる。魔法使いの先輩に、そして人生の先輩に、敬意を表して。
「ありがとうございました」
狩欺は振り返らない。彼はただ返事代わりに片手を軽く上げると、“ウィル”の隠し部屋を出ていった。




