境界が消える夜 6/7
深紅の雷の龍が、夜空を舞っている。
おそらくこれは――召喚魔法だ。人の手に負える範囲をとっくに越えた、災害そのもの。沙杏が呼び出したのは、そういう類の存在だ。
普段のルシアならこの時点で圧倒されていたのかもしれない。しかしいまの彼女は、いつもと違う。新しい力が、彼女を支えている。
実のところ、ルシアの身になにが起こっているのか、彼女自身よく理解できていない。先ほど使った「エスセプタ=レゴ」なんて呪文、ルシアだって聞いたことも見たこともない呪文なのだ。当然、効果も知らない。
なのに、使える。
よくわからない力を、よくわからないまま使える。その場に必要な呪文を、感覚的に理解し、直感で使用することができる。それが現在のルシアの状態だった。
だから、人知を越えた力を持つ龍を前にしても、ルシアは恐れなかった。心の中に、勝手に呪文が浮かんでくる。ルシアはただ、それを唱えるだけでよかった。
「ディオネ=イアス=ファーリ」
ルシアの背後の空に、甲冑をまとい、剣を携えた、巨大な人型の精霊が顕現した。
その甲冑は、様々な時代の様々な文化を継ぎ接ぎしてひと固めにしたような、異様で混沌としたフォルムをしている。そこにはこの世の価値観では測れないなにかがあった。
空を覆う黒雲の奥から、稲光が走る。
次の瞬間、十数発もの雷が、いっせいにルシアのもとへ降り注がれた。文字通りの雷雨だ。
ルシアの背後に出現した精霊が、いつの間にかルシアの真上へと移動していた。瞬間移動――というニュアンスとは少し違う。どちらかと言えば、動画を急にスキップしたみたいな、不自然で脈絡のない動きだった。
ルシアの真上に移動した精霊が、ルシアの代わりにすべての雷をその身に受け止める。
精霊は、無傷だった。
雷が効いていないのではなく――これが正しい表現なのか、ルシア自身も疑問なのだが――“当たっているのに、当たっていない”という感じがする。本当にこの精霊は、“ここ”にいるのだろうか?
深紅の龍が、怒り狂ったように吼えた。やがて龍は牙を向き出しにして、精霊へ飛びかかる。
対して、精霊は剣を抜いた。
森の上空で、剣と牙がぶつかり合う。そしてその瞬間にはもう、決着はついていた。
精霊の剣に触れた途端、煙のように光を散らしながら、龍が消滅し始めた。ギャグでもない、ファンタジーでもない、正体不明の力が、一方的に深紅の龍を無力化させていく。
あまりにも呆気ない幕切れ。
これが最後の勝負になると言ったが、終わってみれば、戦いにすらなっていなかった。まるでルシアが呼び出した精霊だけが、違う世界のルールの上に立っているような、そんな感覚すら覚える。
ともあれ、これでようやくすべてが終わる――ルシアが安堵しかけたそのとき。
「……え?」
龍を消滅させたあとも、精霊は止まらなかった。ルシアの意思に反して、沙杏を狙ったのだ。
ルシアが瞬きをした一瞬のあいだに、精霊は沙杏の正面に移動していた。しかもすでに、剣を振り上げている。
「待って!」
ルシアは叫んだが、精霊が言うことを聞いてくれない。そして沙杏も、なぜか避けようとはしなかった。清々しい表情で精霊を見上げたまま、潔くその場に留まっている。
やがて、精霊が剣を振り下ろし――
※
それから、十数分が過ぎようとしていた。
沙杏に剣を振り下ろした直後、精霊は跡形もなく消えてしまった。ルシアの手にあったピンク色の杖も、ルシアの中に宿っていた謎の力も、同じようにどこかへ行ってしまった。
いまとなってはどのようにしてあの奇妙な力を使っていたのか、なぜだか思い出せる気がしない。
一方、精霊の剣に斬られた沙杏はと言えば――気を失ったものの、不思議なことに怪我ひとつなかった。
ルシアはいま、眠ったように倒れ込んでいる沙杏のもとにしゃがみこみ、彼女が目を覚ますのを待っていた。
「ん……」
沙杏が身じろぎ、声をあげた。
「……? あたし……」
「沙杏! よかった!」
沙杏はぼおっとした目で、ルシアを見上げた。いつもよりよく眠った休日の朝のような、平和そうな顔だった。
「……そっか。あたし、だめだったか」
やがてぼそりと、沙杏が呟く。先ほどまでの出来事を思い出したらしい。
「そっか、そっかぁ。だめかぁ。はは、なんでかなぁ……ルシアっち。あたし、上手くいかないんだ。生まれたときからさ、思い通りにいったことなんてひとつもないの。なんでかな。どうしてあたし、なにやってもだめなのかな」
どこか投げやりな笑みを浮かべて、だけどその胸中ではなにを思っているのか、沙杏の瞳は微かに潤んでいる。そして彼女は、心の底から羨むように言うのだった。
「いいなぁ。ルシアっちには仲間がいて。あたしはずっと、一人だったから……」
その言葉を聞いた瞬間。
ルシアは。
「どうして……?」
ルシアは、泣いていた。
「どうして私のことは数えてくれないの!?」
数時間前、沙杏に優しい言葉をかけてもらったときも、ルシアは泣いていた。
だけど涙の量は、そのときよりもずっと、ずっと、多かった。止まらなかった。
「ねえ、私たち、友達なんじゃなかったの!? 違うの!? 私は友達だって思ってたよ! それなのに、なんで、一人だなんて言うの!? なんで……どうして……」
ルシアはこれまでのどんなときよりも、悔しくて、悲しかった。
自分が沙杏の中でカウントされていないことが。
自分が沙杏の心の支えになれていないことが。
沙杏は自分の心を救ってくれたのに。「完璧じゃなくてもいいんだよ」と言って、心に巣食う呪いを払ってくれたのに。
それなのに、自分は、なにも返せていない。
それが悔しくて、たまらなかった。
「ねえ、私がいるから! これからは私がいるから! 辛いときは頼ってよ! 楽しいときは笑おうよ! そうやってずっと一緒にいようよ! 沙杏は一人じゃないの! 一人じゃないのよ! 私がいるから! だから、だからッ!」
ルシアは沙杏の手を固く握る。冷たい手だった。
「……だから、もういいから。こんなバカなことやってないで、早く帰ろうよ」
「ルシアっち……」
――そのとき。
ルシアと沙杏から数十メートル離れた先。
悪意を喰らう怪物、サーフィを閉じ込めていたドーム状の結界が、消えた。
「は……なんで……?」
沙杏は呆然として、結界のあったはずの方を見つめていた。
直後、地響きと共に、結界に押さえつけられていた怪物が、成長を始めた。
一見、紫色の大樹に見えるその怪物は、もともと巨大だったのにもかかわらず、そこからさらに天に向かって伸びていく。二倍、三倍、四倍……もはや大きすぎて、ルシアにはかえってサイズ感がわからない。おそらく、百メートルは軽々と越えてしまっている。
それでも、ただの樹木ならまだよかったのかもしれない。しかしこの紫色の大樹には、竜の首のようなものが備わっている。鉤爪のついた巨大な腕も。夜空に広がる枝葉は、まるで翼だ。
怪物に埋め込まれていた電子機器のようなものが、なおも怪しく輝いている。
植物か動物か機械かもわからない、生命を冒涜したような歪な姿が――人類の悪意をそのまま具現化したような醜悪なシルエットが、ルシアたちの前にそびえ立っていた。
「逃げて」
沙杏が、身体を起こしながら言った。
「ルシアっち、早くここから逃げて! ここに来るときに通ったあの洞窟、覚えてるよね? そこからあの街に戻れるから!」
「待って、沙杏はどうするの!?」
「あたしはここに残る」
「残るって、どうし――」
突然、夜が揺れた。
いや、サーフィが鳴いたのだ。
親しい人物の断末魔を間近で聞かされたような、おぞましい鳴き声だった。尋常じゃない絶望感が、空気の振動と共に森を侵食していく。
怪物の姿が、禍々しく輝いた。
そして、サーフィの全身から十数発もの光線が全方位に放たれた。それらはルシアたちの頭上を越えて、遥か遠くへ飛んでいく。
数秒遅れて、ルシアのもとに熱風と轟音が駆け抜けてきた。衝撃に耐えるように、ルシアは沙杏と共に身体を支え合う。
「……ッ!」
ルシアは絶句した。目を疑った。
山が、消えていた。
サーフィの放った光が一発当たっただけで、それまで見えていた遠くの山がひとつ、消し飛んでしまったのだ。
埃が漂うような感覚で、彼方の空を樹木が舞っている。気のせいか、夜空が先ほどよりも明るい。森の各地で火が上がり始めたのかもしれない。
沙杏が切羽詰まった口調で言った。
「ルシアっち、行って! 早く!」
「なに言ってるの!? 沙杏も一緒に逃げるのよ!」
「ルシアっちが逃げ切るまで、誰かがあいつを足止めしなきゃいけないでしょ?」
「足止めなんて……あんなの、無理よ!」
「大丈夫、あたしには反射魔法があるから」
「嘘よ! さっきの戦いで、沙杏にはもう魔力がないでしょう!?」
「それでも、一発くらいはいけるでしょ。だからルシアっち、逃げて。お願いだから」
「いやだ!」
ルシアは叫んだ。およそ彼女らしくない、駄々をこねるような声で。
「沙杏も一緒に逃げるの! ここまで来たのに、なんでまた離れなきゃいけないの!? ようやく一緒に帰れると思ったのに、置いていけるわけないじゃない! ねえ、一緒に帰るの! 絶対よ!」
「なんだそれ」
沙杏は、笑っていた。
「なんで……ルシアっち。こんなときばっかり、そんな強情なんだよ」
それはルシアがいままで見てきた中で、一番穏やかな沙杏の笑顔だった。
すべての憑き物が落ちて、ようやく、心から安らかに、憂いなく、ゆっくり眠れると悟ったような、なんの混ざり気もない、純粋な笑顔だった。
ただただ、幸せそうだった。
「じゃあさ、ルシアっち、一緒にここで死のっか?」
「違う、違うの。沙杏……」
私はあなたと――
ルシアが沙杏に返そうとした言葉は、しかし声に出すことはできなかった。
サーフィが、再び全方位へと光線を放ったのだ。
そのうちの一筋が――山をも吹き飛ばす破壊の光が、二人の目前に迫っていた。




