無機質の温度 1/3
下校を促すチャイムが鳴った。私立檸文高校の正門前が、部活動を終えた生徒たちで賑わい始める。
高校生としての一日を終えた彼らの顔にはほんのわずかに疲れの色が浮かんでいるものの、活力や生気まで失っている生徒は見受けられない。放課後に使う体力は別物なんだよとでも言いたげに、快活な喧騒を振りまきながら彼らは夕暮れどきの街中へと散っていく。
そんな流れの中にあって、舞込春心は一人、正門の横に佇んでいた。
人を待っていた。
「おまたせ……待った……?」
と、小柄な女子生徒がやってくる。春心は彼女にふっと笑いかけた。
「お疲れ、しづくちゃん。私もさっき来たところだよ」
青みがかった小洒落たショートカットに、人形みたいな可憐な容姿。目つきは少しだけダウナーで、通学カバンのほかに、テニスのラケットケースを肩から下げている。
彼女の名前は海羽 しづく。春心と同じ一年生だ。
二人が待ち合わせをしていたのは、駅前のクレープ屋に一緒に行く約束をしていたからだった。今日は半年に一度の全品半額の日で、この際だからいつもより豪華なものを食べようねと、前々から言い合っていたのだ。
しづくは目を爛々《らんらん》とさせて言う。
「いやぁ……楽しみだね……! クレープ……!」
今日という日をどれだけ待ち望んでいたのだろう。興奮を隠そうともせずに無邪気な表情を見せるしづくだったが、ふと待ち合わせの人数が一人足りないことに気づき、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「あれ……あかねは……?」
実は今日、朱音も一緒に来る予定だった。しかし、
「それなんだけどね、朱音ちゃん、急用ができたみたいで来れなくなっちゃったんだ」
「そっかぁ……残念だね……」
ラフ&ピース部の活動を終えた直後のこと、朱音は『やべえ、アレ返すの忘れてた!』と、焦った様子で先に帰ってしまったのだ。なにを借りていたのかまではわからない。
しづくは少し寂しそうに目を伏せっていたが、やがて気を取り直したようにこう言った。
「でも……しょうがないね……。せめて私たちだけでも、今日は思いっきり楽しもうね……!」
たしかに、朱音が来れなくなったことを気に病んでいても仕方がない。朱音には今度埋め合わせをしてもらうことにして、二人は高校をあとにした。
檸文高校から駅前のクレープ屋までは、およそ徒歩で十五分。
春心もしづくも電車通学ではないのだが、家に帰る途中で必ず駅前を通ることになるので、さほど寄り道をするという感覚はない。
高校を出てからしばらくは住宅地が続く。
この街は家の数が多いけれど、決して洗練されているとは言えない。その代わり、街並みにはどこか素朴で懐かしい雰囲気がある。
「しづくちゃん、テニス部は楽しい?」
家々に挟まれた小さな路地を歩きながら、春心は尋ねる。
「うん……楽しいよ……。先輩も同級生も……みんないい人だし……」
しづくは独特のおっとりとした口調で話すが、具合が悪いのでも機嫌が悪いのでもない。彼女は基本的にスローペースなのだ。
「そっか。それはよかった。テニス部に入る前は色々悩んでいたもんね」
「そうだねぇ……。でも、いまになってみれば、小さなことで悩んでたんだなあって思うよ……。ほら、あれだね……“過ぎたるは及ばざるがごとし”ってやつ……」
「それ、使いかた合ってる?」
「合ってないよ……。だけど、言いたいことはわかるでしょ……?」
「あはは。たしかになんとなくは伝わるけどね」
とある民家の前を通りかかったとき、味噌汁の匂いがふわりと漂ってきた。
街中でかぐ料理の匂いって、どうしてほっとするんだろうねと春心が言えば、どうしてだろうね、知らない人の料理なのにねとしづくが返す。そして二人は笑いあう。
朱音と喋っているときと、しづくと喋っているときとでは、どことなく時間の流れの質が違うように春心は思う。
どちらがいいという話ではない。
目の前にいる人によってその場の空気が大きく変わることに、春心は人と接することの不思議さを感じるのだった。
それから二人は、授業中や部活中に起こった出来事について話をした。二人はクラスも部活も違うので、話のネタには困らなかった。
「――そしたらさ、柳沼先生が『寿司屋をナメるなァーッ!』って怒りだしてさ」
「それ、うちのクラスにも聞こえてきた……。なに叫んでるのかはわからなかったけど……。え、それ、どういう状況なの……?」
「いや、それがね、わかんないの! 私たちもなにを怒られてるんだろうって、クラス中の皆がぽかんとしてて……結局先生の勘違いだったみたいで、五分くらい怒鳴り続けたあとに『すまん、間違えた』って」
「なんだそれぇ……」
雑談をしているあいだに、周囲の景色は住宅街から繁華街へと徐々に移り変わっていく。
そうして気づいたときにはもう、二人は駅前の北口通りへと辿り着いていた。それほど歩いたつもりはなかった。話をしていると時間が過ぎるのが早い。
この街は素朴な雰囲気があると言ったが、街の真ん中を総武線が通っている関係で、さすがに駅周辺はそれなりに栄えている。
道の両側に建ち並ぶ飲食店、コンビニ、ドラッグストア。改装が終わったばかりのスーパーに、古いビルにはネットカフェ。交番の脇のパチンコ屋。道行く人。雑踏。
特に学生服やスーツ姿が多いということはなく、様々な年齢層の人が行き交っている。ちゃんと調べたことはないけれど、ここにいる大半は地元の人なんじゃないかと春心は思う。わざわざ遠くから観光に来るような街ではないから。
現在、二人がいるのは北口方面。お目当てのクレープ屋は反対側、南口方面にある。
駅は三階建ての高架駅になっていて、一階と二階には商業施設が入っている。春心たちは北側から商業施設へと入り、そのまま南口へと通り抜けた。
それから歩くこと数分、二人はようやく本日の目的地へと到着した。
そのクレープ屋は雑居ビル一階の壁に直接埋め込まれているようなお店で、客席はない。軒先からカウンター越しに注文して、その場で食べるかテイクアウトするか。ゆっくりくつろいで食べる雰囲気ではないけれど、それはそれで趣があって楽しい。
「ついに来たね……!」
「うん!」
「楽しみだね……! 楽しみだねっ……!」
お店の名前は“ラーチェル”。
国内に何店舗も展開しているような大手チェーンとは違い、男性の店主が一人で切り盛りしているこじんまりとした店なのだが、単純に味がいいからと主にしづくのほうがよく通っている。だから半額の日じゃなくても普通に食べに来るのだが、それはそれ。全品半額はお祭りなのだ。春心もしづくも、神輿を担ぐのは好きなほうだ。
二人は軒下に並べてあるメニュー表や食品サンプルを食い入るように見つめる。
「なにがいいかなぁ……。どうしようね、はるこ……」
「悩んじゃうね! ……とか言って、本当は私、なに食べるかもう決めてるんだ」
「え……!?」
しづくが大げさなくらいに驚いた顔をした。
なにせこの店に来てから一分も経っていない。春心の決断が恐ろしく速いと感じたのかもしれないが……。
「実はね、一週間前からずっとなに食べようか考えちゃってて」
食い意地張りすぎかな、と春心が照れ笑いをすると、しづくも釣られたように微笑んだ。
「ううん、それも立派な楽しみかただよ……。素晴らしい……」
「同世代の人に『素晴らしい』っていう褒めかたされたの初めてだ」
「素晴らしい……」
「ありがとう」
……ありがとう? ありがとうでリアクション合ってる?
いや、まあいいかと、春心は話を続ける。
「しづくちゃんは考えなかった? 寝る前とかに、あれ食べようかなーとか、これ食べようかなーとか」
「それは考えなかったなぁ……」
「へぇ。それはちょっと意外かも」
春心は、しづくのクレープに懸ける熱量を知っている。
しづくは普段から「クレープとカレーはいつ食べても美味しいから偉い」と言っているし、歴史の資料集をぱらぱらとめくって「なんでクレープの歴史が載ってないの……?」と肩を落としていたことさえある。
そんな彼女だから、夜にはクレープのことを考えすぎて眠れないくらいのことはあると思っていたのだが。
「今回はライブ感を楽しみたくて……」
何気ない調子で、しづくが呟いた。
「ライブ感?」
およそクレープを食べに来てるとは思えないフレーズが出てきて、春心は思わず聞き返してしまう。
「うん……あえてなにも決めずにお店に行ってね、その場で悩むの……悩む時間を楽しむの……」
「悩む時間を楽しむ」
「そう……。せっかくの人生だもん……たくさん悩みたいんだ……」
そう語るしづくの横顔は、この瞬間、世界中の誰よりも無垢に見えた。
「だから今回私が意識したことは……心身を整えて、なるべくニュートラルな状態でメニュー表の前に立つこと……いつもの私を、そのままクレープ屋に連れていくこと……ただ、それだけ……」
「つよい」
見誤っていた、と春心は思った。
しづくのクレープに対する情熱を。想いを。
人は日々、進化する。
しづくはとっくに、クレープが楽しみで眠れないだなんて、子供が浅瀬でパチャパチャやってるような段階を越えていたのだ。
惜しい。
もしもオリンピックの種目に、『クレープを楽しむ』があれば……。時代が時代なら、この子は世界を獲っていた――春心はそう思った。
しかし現実にそんな競技はない。
「しづくちゃん、ひとつ訊いていい?」
ならばせめて、春心は訊こうと思った。
時代に選ばれなかった天才の言葉を引き出し、記憶しておくことが、彼女の才能に気づいた者としての務めなのだと思った。
春心は尋ねる。
「あなたにとって、クレープとは?」