境界が消える夜 2/?
「ルシアっちってさ、自分が完璧じゃないから、“作者”に捨てられたって思ってない?」
その言葉の意味を噛み砕くよりも前に、ルシアには不思議と腑に落ちた感覚があった。
――ああ、そうかもしれない。
「あたし、最初はルシアっちのこと、真面目な子だなって思ったの。でもね、すぐにそれとはちょっと違うなって思うようになってさ。真面目っていうより、怖がってる感じ?」
「……怖がってる?」
「うん。誰かになにかを言われんのを怖がってる感じ。なにかっていうのは……批判とか、否定とか、そういうやつ。真面目だからちゃんとしてるんじゃなくて、誰にも否定されないために、ちゃんとしようとしてるって感じなんだよ、ルシアっちは」
沙杏の言葉によって、いままでルシアが感じていたわけのわからない生きづらさに名前が付いたような気がした。自分の心を絞め続けていた得体の知れない存在の輪郭が、色が、姿が、突然視認できるようになったような気がした。
「ごめん。わかったようなことを言って。的外れだったら笑っていいよ」
ルシアの口数が少なくなったのを否定的な意味で受け取ったのか、沙杏は自虐的に笑いながらそう言った。
「ううん、違うの。沙杏の言ってることはきっと当たってる。だから、ちょっと……うん、ちょっと、驚いちゃって……」
いや、“きっと”なんてものじゃない。恐ろしいほど当たっている。直感がそう言っている。
――否定されるのが怖い。
たったその一言で、ルシアがこれまでの人生でおこなってきた言動や考えかたのすべてに説明がついてしまうように思えた。
「そうだ。私、怖かったんだよ」
一度気づいてしまえば、どうしていままでそれを自覚できなかったのか、不思議でならなかった。
「うん、私、怖かった……」
気持ちを確かめるように、ルシアは何度も呟き、頷く。
「怖かったんだよ、ずっと……」
「うん、うん」
「沙杏、私……」
思いが言葉となって、雫となって、胸の奥底から溢れてくる。ずっと前からこの瞬間を、心が待っていたみたいに。
「私、ボツにされたとき、思ったの。私がもっとちゃんとしていれば、捨てられなかったのかなって。私に欠点がなければ捨てられなかったのかなって。私がまともなら、失望されなかったんじゃないかって……! だから私、ちゃんとしなきゃって、そうじゃないとまた見捨てられるって、ずっと、ずっと、思ってたのに! それが、私、本当にっ……怖くて……! それなのにっ……! ごめん、ごめんね……」
どうして謝罪の言葉が出てきたのか、ルシアは一瞬自分でもわからなかった。
けれど、すぐに理解が追いついた。
自分への謝罪だ。
苦しんでいる自分自身に気づけなかった、苦しんでいる自分自身に見て見ぬふりをし続けてきた、そのことに対する謝罪なのだ。
「ルシアっちが悪いわけないじゃん」
沙杏が、そっと手を重ねてきた。
「ルシアっちが、悪いわけないじゃん。悪いのはあんたを捨てたやつだよ。あんたが駄目だったから捨てられたんじゃない。あんたの作者がバカだっただけなんだよ」
「…………」
「これが友達同士の喧嘩だったらさ、両方に非があるのかもしんないよ。でもこの件に関しては、100%向こうが悪い。いい? 100%だよ。これでルシアっちに非があるってんなら、そんな酷い話ないよ」
沙杏が、包み込むようにルシアの手を握った。ルシアは優しく、だけど強く握り返す。
「ルシアっちはさあ、ネットの掲示板とか見てる?」
見てないと答えようとしたが、泣きじゃくったせいでうまく喋れない。ルシアは言葉にならない声を上げながら、首を横に振った。
沙杏はそれを微笑ましそうに見つめながら、
「たとえばさ、その道でものすごい実績を残していて、しかも性格もいい有名人がいるとするでしょ? そういう人でも、ネットのどこかでは悪口言われてんのよ」
「そう、なの……?」
「そう。『え、この人で叩かれんなら、悪口言われないのなんて絶対無理じゃん』って思うくらい、聖人みたいな人でも、どっかではボロクソに言われてんの。だから、まあ、完璧に見える人でも誰かには否定されるんだよ。逆を言えば、完璧になったってしょうがないってことじゃない? 否定されるときは否定されるし、受け入れてもらえるときは受け入れてもらえる。少なくともあたしは、ルシアっちの味方だよ。たとえ完璧なんかじゃなくたって、あたしはルシアっちのこと、好きだよ」
沙杏は改めて、ルシアの目をまっすぐに見た。
「だから、もう無理しないでいいんだよ。もう充分がんばったよ、ね?」
「沙杏……」
「辛かったね」
再び涙が溢れてきた。沙杏の顔を見たくてもよく見えない。だからせめて、彼女の手をぎゅっと強く握った。
「……ありがとう」
昨日と今日とで、過去が変わったわけではない。劇的に現状が変わったわけでもない。
だけどなぜだか、明日のことがもっと好きになれる気がした。
「ありがとう」
「何回言うのよ」
しばらくのあいだ、ルシアは感謝の言葉を繰り返すロボットみたいになっていた。
沙杏は呆れたように笑う。
「あたしは大したことしてないって。心の傷ってさ、放置してたらどんどん悪化するから。あたしが気づかなくても、遅かれ早かれあんたの家族が気づいてたよ。あたしはちょっと早く気づいただけだから」
それは謙遜だったのかもしれないが、同時に事実でもあると思った。たしかに高崎家のみんななら、いつかは助けてくれただろう。
と、そこまで考えてルシアはふと疑問に思う。
――どうして、沙杏のほうが先に気づけたんだろう?
人との繋がりは年数で決まるものではない。
とは言え、二年以上共に暮らしている高崎家の面々より、最近出会ったばかりの沙杏のほうが先にルシアの抱えている闇に気づいたというのは、ちょっと普通ではない感じがする。
「どうして沙杏は、私のことがわかるの?」
言ってから、その質問をするのは二度目だということに思い至る。
「あたし、そういうのに敏感なんだ」
そう言って、沙杏がおもむろに服を脱ぎ始めた。
「え、え、え!? ちょ、沙杏!?」
「なに恥ずかしがってんの。そういうんじゃないって」
沙杏は上半身だけ下着姿になると、ルシアに背を向けた。それから彼女は後髪をかきあげ、素肌を晒す。
「見て」
「え……?」
沙杏の背中には無数の痣がついていた。切られたような、火傷したような、殴打されたような、様々な形の傷痕が、彼女の背中に残されていた。
それは最近つけられたような傷には見えない。それだけに、その痣は今後も消えることはないのだろうと想像してしまう。
もしかして、これは生まれつきのものなのかな……?
ルシアがそう思ったのは、その傷痕の意味を深く考えたくなかったからだ。
だけど、現実は非情だった。
「あたし、この世界に来てからしばらく、虐待されてたんだ」
「――っ!」
言葉が出なかった。沙杏の言っていることを、理解したくなかった。
「あたしね、この世界に来たとき、協会の職員さんが保護者代わりになってくれたの。で、その人にしょっちゅう叩かれてた」
「な……なんで!」
保護者に叩かれていた? それも協会の人に?
強引にたとえるなら、沙杏が高崎に暴力を振るわれているようなものだ。
沙杏はルシアと同じく、ボツキャラクターだ。生まれたときから身寄りがない。だから、保護者代わりになってくれる人物は、言わば最後の砦なのだ。
それなのに、その保護者に叩かれていた?
「なんで……そんな、そんなの普通じゃ――」
「普通なんて!」
ルシアの口調が強くなった。しかしそれも一瞬のことで、すぐに彼女の声は小さくなった。なにかを諦めたような、冷めた声だった。
「普通の家庭なんて、わかるわけないじゃん。あたしには、これが普通だったんだから」
ふとルシアの脳裏に、とある光景が甦る。昨日、沙杏がスレイプニルの炎を浴びて火傷をしたときのことだ。沙杏は確か、こう言っていた。
――だいじょーぶだよ、ルシアっち。あたし、こういうの慣れてるから……。
まさか、それはそういう意味だったのか。
痛い思いをするのは慣れていると、そう言いたかったのか。
ルシアは、さっきまで自分が泣いていたことなどすっかり忘れてしまった。
「そんな……私なんかよりずっと、沙杏のほうが傷ついているじゃない!」
「やめてよ。そういうことを言いたいんじゃないの。どっちが酷い目に遭ってるか、みたいなことを言いだしたら、世界で一番不幸な人しか悲しんじゃいけなくなるじゃん」
「でも……」
「て言うか、不幸の大小の話でもないよ、これ。あたしとルシアっちの傷はね、質が違うんだよ。あたしみたいに露骨にやられてる人ってのは、周りの人が助けようとはしてくれる――まあ、実際に助かるとは限んないけど……でもいちおう、同情くらいはしてくれる。その点ルシアっちのは厄介だよ。本人も、周りの人も、なかなか気づけない。そして知らないうちに性格が歪んでいって、自覚したときには手遅れになってる……そういう、毒みたいな傷なんだよ、ルシアっちのやつは」
沙杏はかきあげていた後髪を下ろすと、再びルシアに向き合った。
「どっちが上って話じゃないの。あたしとルシアっちは一緒なんだよ。親に傷を負わされた同士、一緒なの。そうでしょ?」
それはその通りなのかもしれない。ルシアもルシアで辛かった。それは事実だ。不幸は比べるものではない。それもきっと事実なのだろう。
だけど、沙杏の背中の痣を見てしまったいま、ルシアは軽々しく頷くことはできなかった。
「どうしてこんな目に遭うんだろうね。あたしたち、なにかしたかな」
沙杏の声は、笑っているようにも、悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえた。
「なんで親は選べないんだろうね。おかしいよ。こんな世界、狂ってる」
普段のルシアなら、沙杏のその呟きを積極的に肯定しようとは思わなかっただろう。
でも、いまだけは、いつもと違う心境だった。
ルシアは言う。
「……そうね。この世界は、まともじゃないのかも」
「だよね」
沙杏は笑っていた。
それはルシアが初めて沙杏と出会った夜、彼女が顔に浮かべていたのと同じ、皮肉めいた笑みだった。
「ね、これから遠くに出かけない?」
気まずい沈黙が少しだけ続いたかと思うと、沙杏が急に思いついたかのように言った。
「いまから?」
時刻はもう夜の八時を過ぎていた。ルシアの隣では、沙杏が先ほど脱いだ服をもごもごと着直している。
「これからは遠くに行くのは、さすがに許してもらえない気が……」
「じゃあ、あたしの家に泊まるってことにするのはどう? 怪我してる友達の看病ってことにすれば、一晩帰らなくても怪しくないっしょ?」
「それって、高崎さんに嘘をつくってこと?」
「いいじゃん。ルシアっちはもう、良い子にしてなくていいんだよ。たまには自分に正直になってみなって。周りがどうじゃなくて、ルシアっちはどうしたいの?」
私は、どうしたいのだろう。ルシアは少し考えて――
※
数十分後、ルシアは沙杏と共に夜の街中を歩いていた。
高崎に嘘の連絡をしたことは後ろめたかったけれど、それ以上に今夜は沙杏と一緒にいたかった。
遠出をすると言ったからには電車に乗るのかと思いきや、沙杏は駅とは関係ない方向へどんどん進んでいった。どうやら彼女には行きたいところがあるらしい。そのまま彼女について十分ほど歩くと、ボロボロの木造アパートに到着した。
本当に住人がいるのか怪しいくらい薄暗い場所で、生活の痕跡が感じられない。アパートの両隣には綺麗なマンションが建っているというのに、この土地だけは闇に沈んでいるみたいだ。
「ここの部屋、実はこっそり借りてるんだ」
「ここを?」
「うん。あ、みんなには内緒ね。協会にだって秘密で借りてるんだから」
錆びかけた階段を上っていった先、二階の角部屋。沙杏はそこの扉を鍵を使って開けた。
「あ、靴は脱がなくていいよ。そのまま上がって」
そう言って、沙杏はずかずかと部屋に入っていく。
本当に土足でいいのかと躊躇したものの、沙杏があまりに自然な態度で靴のまま進んでいくので、ルシアも思い切ってあとに続いた。
その部屋にはなにもなかった。先ほどの沙杏の部屋は物が少ないという印象だったが、この部屋には完全に物がない。
「ここが沙杏の来たかった場所なの?」
「いいや、あたしが用があんのはこっち。抜け道があんの」
沙杏は得意げな顔で押入れを開けた。押入れの中は、洞窟になっていた。
魔法の類だ、とルシアは思った。仮にその手の知識がなかったとしても、違和感しかなかっただろう。木造アパートの二階が、洞窟に繋がっているわけがないのだ。
洞窟の入口には木製の小さな台があって、そこにはランタンが三つ並んでいた。沙杏はそのうちのひとつを手に取り、明かりをつける。
「ついてきて。離れちゃだめだよ、危ないからね」
洞窟の岩肌を照らしながら、沙杏は洞窟の奥へと進む。ルシアはそのすぐ後ろに続いた。洞窟は一本道で、歩いている時間もそう長くはなく、わずか一分ほどで出口に辿り着いた。出口には入口と同じように木の台が置いてあり、沙杏はそこにランタンを戻した。
「ねえ沙杏、どこに向かってるの?」
「秘密。もうちょっとでわかるよ」
洞窟を抜けた先は、深い森に繋がっていた。人の気配がないどころか、建物の影や外灯すら見当たらない。そのせいか、月の光だけはやけに明るく見える。
「あのさ、心配してくれてるみたいだから言っとくけど、あたし、いまは虐待されてないからね」
森の中を進みながら、沙杏が言った。
「ほんと?」
「ほんとほんと。ある人がね、あたしのことを助けてくれたの」
沙杏の声が、ほんのわずかに弾んだようだった。
「その人は虐待をやめさせてくれた。あたしの話をたくさん聞いてくれて、色々なところに連れていってくれた。写真が苦手だって言って、プリクラだけは撮ってくれなかったけど……それ以外ならだいたいなんでもしてくれた。その人は優しくて、強くて、あたしに新しい生きかたを教えてくれたの」
それを語るあいだ、沙杏はまるで甘い夢でも見ているみたいに、うっとりとした目つきをしていた。言葉の節々に、後戻りできない情熱のようなものがこもっているように聞こえた。
ルシアは心底ほっとした。沙杏がいま虐待を受けていないこともそうだけれど、彼女にも大切な出会いがあったことが、自分のことのように嬉しかったのだ。
「素敵な人なのね」
「うん。あたしの大事な人なんだ」
沙杏の人生は壮絶だったのかもしれない。
でも、その人と出会えたことは、彼女の人生の中で数少ない救いだったのだろう。
「ついたよ、ルシアっち」
会話の途中で、沙杏が足を止めた。
「ここは……?」
唐突に、ルシアの目の前に拓けた土地が現れた。
地表を覆い隠すように茂っている木々がその空間だけは嘘のように生えておらず、代わりに半透明のドームがそびえ立っている。学校の校舎がすっぽり収まってしまいそうなくらいの、巨大なドームだ。
そしてそのドームの中に、禍々しいなにかが閉じ込められている。
「え……?」
ルシアは目を瞬かせた。
「なに、これ……?」
「逃げ出した魔法生物の最後の一体だよ」
と。
沙杏が言った。
わけがわからなかった。
意味がわからなかった。
「ねえ沙杏、どういうこと……?」
沙杏は答えない。
「ねえ、答えてよ。……これ、なんなの? なんで沙杏が、魔法生物の居場所を知ってるの? なんでそれをいままで黙ってたの? それじゃまるで、沙杏が……」
「……」
「ねえ、沙杏? なんか言ってよ……ねえ、ねえって!」
どれだけ語りかけても、沙杏はルシアのほうを振り向かなかった。ただドームの中身だけを、ぼうっと見つめている。
「ねえ、ルシアっち」
それは、愛をささやくような声だった。
「こんな世界、一緒にぶっ壊そうよ」




