境界が消える夜 1/?
スレイプニルと戦った日の夕方、ルシアは据野経由で沙杏の無事を知らされた。
そのときルシアはすでに高崎家に帰宅していた。臨海公園に残っていてもすることがないし、病院を訪ねていっても邪魔になるだけだろうと判断したからだ。
……いや、それは言い訳だったのかもしれない。
ルシアはいま、沙杏にどんな顔をして会ったらいいのかわからなかった。
どうしてあのとき、スレイプニルをひと思いに斬らなかったのだろう。戦う相手になるべく怪我を負わせないという自己満足のこだわりさえなければ、沙杏を苦しめることはなかったのに。どうして……。ルシアの頭は、後悔でいっぱいだった。
しかしそうやって自分を責めていると、今度は沙杏の言葉が浮かんでくるのだった。
――ルシアっちはさ、なんでそんなに自分を責めがちなの?
わからない。なんで自分はそんな性格なのかと考えても、全然わからない。
ただ、二年前にこの世界に来たときは、こんなに自虐的ではなかったような気はしている。強いて言うなら、よくわからない生きづらさのようなものを感じるようになったのは、ここ数か月の話かもしれない。そんなに昔から自分を責めるような性格ではなかったはずなのだ。あくまでルシアが自覚している範囲で、だが。
沙杏と直接会うのが億劫でも、せめて連絡くらいは入れるべきなのだろう。そう考えてルシアはスマホに文章を打ち込もうとしたが、やっぱりどんな言葉をかけていいかわからず、治療が終わったばかりのところに連絡を入れても迷惑だろうと理由をつけて、沙杏から連絡が来るのを待つことにした。
ところが少し時間が経つと、あんな事件があったのになんの連絡もしないのは薄情なんじゃないのかと不安になってきて、結局悩みに悩んだ挙句、無難に火傷の心配をするメッセージを沙杏に送った。
そしてそんなふうにうじうじ悩んでいる自分が、嫌になった。
※
翌朝、ルシアは暗い気持ちのまま目が覚めた。
けれど高崎家のみんなに心配をかけたくはなかったので、朝食のあいだはなるべく明るく振る舞った。
朝食後、ルシアは自室に戻り、再びベッドの上に転がる。なにもする気が起きない。
それからぼんやりと過ごすこと数時間。ふとトイレに行きたくなって自室を出ると、ルシアの耳に陽気な声が聞こえてきた。
「うふふ~。タッチ♪ あなたが鬼よ~♪」
「うふふ~。タッチ♪ あなたが鬼よ~♪」
春心と朱音が鬼ごっこをしていた。家の中で。
本気で互いを追いかけ回しているというよりは、ふざけてじゃれ合っているという感じだ。
鬼がタッチする際には必ず「うふふ~。タッチ♪ あなたが鬼よ~♪」と言わなければいけないルールらしい。
「うふふ~。タッチ♪ あなたが鬼よ~♪」
「うふふ~。タッチ♪ あなたが鬼よ~♪」
「うふふ~。タッチ♪ あなたが鬼よ~♪」
「うふふ~。タッチ♪ あなたが鬼よ~♪」
最初は廊下で互いにタッチをし合っていただけなのだが、少しすると、朱音が玄関の扉を開けて外へ逃げ出していってしまった。すかさず春心が「待て~っ」と言いいながら追いかけていく。
いまは七月の末。真夏も真夏だ。それなのに、午前中から外で鬼ごっことは……。
「二人とも、元気ね……」
※
沙杏から返信があったのは夕方になってからのことだった。彼女のメッセージには、無事に治療が終わった報告に加えて、こんな一文が添えられていた。
『これからウチにお見舞いに来てよ』
あんなに沙杏と会うのを尻込みしていたというのに、向こうから切り出された途端、ルシアは『行かなきゃ』と強く思った。本当は沙杏に拒絶されるのを怖がっていただけだったのかもしれない。
夕飯直前という時間だったが、ルシアは高崎にお願いをして外出させてもらうことにした。
沙杏の住んでいるマンションは、高崎家から徒歩二十分ほどのところにあった。なかなか小奇麗な四階建てのマンションで、入口はオートロックになっている。セキュリティはしっかりしていそうだ。
沙杏からインターホン越しに扉を開けてもらうと、ルシアは三階にある彼女の部屋へと向かった。
「いやー、心配かけちゃったねえ」
玄関を開けてすぐに沙杏が出迎えてくれた。表情は明るく、顔色も悪くない。いたって元気そうではある。ただ、彼女の左腕には包帯が巻かれていた。素肌が見える部分がないほどに、隙間なく。
「沙杏……」
その痛々しい姿を見た瞬間、ルシアはほぼ反射的に頭を下げていた。
「ごめんなさい! 私のせいで、そんな怪我を……!」
「んー、それなんだけどさ」
沙杏はなにか言いたげだった。でもその言葉は一旦飲み込んだようだった。
「まあ、とりあえず奥に上がんなよ」
「でも……」
「いいから、上がんないと許さないよ」
穏やかな口調ながらも、どこか有無を言わさない勢いがあった。
「ほら、早く扉閉めて。ずっと開けとくと虫が入ってきちゃうでしょ」
そこまで言われて、ルシアはようやく玄関の扉を閉め、靴を脱いだ。「お邪魔します」と言って部屋に上がる。
「つまんない部屋でごめんね~」
沙杏が冗談めかして言った。
彼女の部屋は綺麗に整頓されているというよりも、物が少なかった。
「引っ越したばっかりでなんも買ってないんだわ。いまある家具は全部備え付けのやつだし」
「家具付きの物件なのね。それなら、引っ越しは楽だったんじゃない?」
「そうそう、そこはすっごく楽だった」
そんな会話を交わしながらも、やはり視線は沙杏の腕に行ってしまう。
「……沙杏、腕の具合はどうなの?」
「ああ、これ? もう普通に動かせるよ」
と、沙杏は包帯の巻かれた左腕を軽快に振ってみせた。
「魔法使いのお医者さんってすごいもんでさ、呪文唱えたらあっという間に良くなっちゃった。あ、でもでも、回復魔法って基本的に寿命減らすらしいんだよね。だから、完全に治してもらったわけじゃないの。魔法を使うのは本当に必要な範囲だけで、残りは普通に薬で治せってさ」
「そう……。じゃあまだちょっとは痛むの?」
「まあ、ちょっとはね。まだ湯船に浸かったりもできないし、包帯の付け替えもめんどい。でも、怪我したのが利き手じゃなかっただけずいぶんマシだよ」
沙杏は言いながら、ベッドの上に腰かけた。
「ルシアっちもこっちに座りなよ」
「ううん、私は床でいいよ」
「やー、床は固いでしょ。まだクッションも座布団も買ってなくてさ。うち、まともに座れるところベッドしかないの。だからこっち来なって。汚くないよ?」
「別に汚いなんて……」
「じゃあいいじゃん。ほら、おいで」
沙杏はぽんぽんと、ベッドの上を軽く叩く。
あまり意固地になって断るのもどうかと思ったので、ルシアは言われるままに沙杏の隣に並んで座った。
「急に呼び出して悪かったね。お見舞いに来て、なんて厚かましいこと言ってさ。でもルシアっち、あたしのほうから呼ばなきゃ会いに来なかったでしょ? ルシアっちのことだから、昨日のことを気に病んで、勝手に気まずくなってたんじゃない?」
「うっ……」
「図星? あはは、やっぱそうなんだ」
沙杏はどうしてか、嬉しそうに笑った。
「いいんだよ。この怪我のことは謝んなくて」
優しい声だった。優しい眼差しだった。
だけど、ルシアとしては素直に「わかった」と頷けるはずもない。
「ううん。あれは私が変にこだわったせいよ。あのとき、私がちゃんと覚悟を決めてれば……」
「じゃあ言うけどさ。ルシアっちはあのお馬さんを斬ったら斬ったで後悔してたと思うよ。違う?」
「それは――」
言い返そうとして、ルシアは言葉に詰まる。
完全に沙杏の言う通りだったからだ。
もしもあのとき、スレイプニルを躊躇なく斬っていたら?
間違いなく、後悔していただろう。暴力で物事を解決しようだなんて短絡的すぎる、まともじゃない、どうして自分は誰かを傷つけるような手段しか取れないのだろうと、自分自身を激しく責めていたことだろう。
「それも図星でしょ」
と、沙杏は悪戯っぽく微笑む。
「どうして?」
「ん?」
「どうして沙杏は、私のことがわかるの?」
「似てるからだよ」
沙杏は即答した。考える必要なんてないとでも言うかのように。
「ねえ」
ふいに、沙杏が顔を近づけてきた。
至近距離で見る彼女の瞳は、濁りのない透き通ったブラウンで、この子はこんなに綺麗な目をしていたのかと、ルシアは思わず見とれてしまいそうになる。
彼女の息が、微かに頬に当たった。
「あたしからもひとつ、聞いていい?」
「なに……?」
そして沙杏は言う。
「ルシアっちってさ、自分が完璧じゃないから、“作者”に捨てられたって思ってない?」




