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記号たちは明日へ進む  作者: 八番出口
第二章 ファンタジーの住人たち
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スレイプニル 3/3

 沙杏が崩れるように倒れ込む。


 彼女の左腕は、激しく燃えていた。放っておいて消えるような勢いではない。


「――――ッ! 沙杏!」


 あまりにショッキングな光景に、一瞬ルシアは呼吸の仕方を忘れてしまった。痛いくらいに、心臓の鼓動が急加速していく。


 火を消さなくては――それはわかる。しかしそこから先に考えが進まない。


 そのうえすぐ近くでは、スレイプニルが倒れたまま火を噴いている。


 どちらからなにをどう対処すべきかわからない。ルシアは完全にパニックになっていた。


「“マレド・ヴィエ”」


 呪文を唱える女性の声がしたかと思うと、突如ルシアたちの頭上から、大量の水が降ってきた。空から海が落ちてきたみたいだった。


 水は沙杏の腕の火を、スレイプニルの炎を、綺麗に流し去っていく。


 そして続けざまに、二人の人間が空から降ってきた。


 スーツを着た男性と、ウェイトレス姿の女性――ルシアの魔法使いの先輩の、狩欺かりのぎまこと据野すえの瑠璃るりだった。


「荒月、無事か?  おい据野、早く医者に連れてってやれ」


「はい!」


 据野は沙杏のもとへ駆け寄ると、彼女の火傷した左腕を真剣な眼差しで見つめた。

 

 沙杏はどうなってしまうのか。ルシアは泣きつくように据野の名前を呼ぶ。


「瑠璃さん!」


「大丈夫よ。必ず治るから」


 それからルシアは、沙杏に語りかけた。


「沙杏、ごめん! ほんとにごめん!  私のせいで、こんな!」


「だいじょーぶだよ、ルシアっち。あたし、こういうの慣れてるから……」

 

 沙杏の表情は苦痛に歪んでいる。しかしそれでも彼女はなんとか笑おうとしていた。


 据野はしゃがみこみ、沙杏を慎重に抱え上げる。


「これから魔法の使えるお医者さんのところへ行くわ。もう少しだけ我慢なさいね」


 箒が一本、据野のもとへ飛んでくる。据野は沙杏を抱えたままジャンプすると、箒の柄に両足で着地した。そしてまるでスケボーに乗るかのように両足で直立したまま、彼女は空の彼方へ飛び去っていった。



 ※



 据野が飛んで行ったあと、大人の魔法使いたちが続々と渚へ現れ、倒れているスレイプニルを取り囲んでなにやら話し合いを始めた。

 

 ルシアがそれを遠巻きに眺めていると、その輪からひとりの魔法使いが抜け出してきて、ルシアに向けて杖を振った。ルシアは先ほどの据野の魔法で全身びしょ濡れになっていたのだが、その魔法使いの一振りですっかり服も体も乾いてしまった。便利な魔法もあったものだ。

 

 やがて話し合いが終わったのか、魔法使いたちはスレイプニルをどこかへ運び始めた。

 

 どうやら狩欺はそのグループには加わらず、まだ渚に残るようなので、ルシアは機を見て尋ねてみた。


「……なにが起こったんですか」


「悪い予想が当たった。魔法生物を匿ってるやつがいたんだよ」


 狩欺はもったいぶらないで教えてくれた。


「この街に住んでる魔法生物のマニアがな、逃げ出した魔法生物を先に捕獲して自宅で飼ってやがったんだ。つっても、わざわざ研究所で面倒見てるような生きもんだ。いくらマニアったって素人に飼えるわけがねえ。結局、そいつの家から魔法生物が街中に逃げ出して、いまに至るってわけだ」


「そんなことが……」


「むしろよく一週間近く飼ってられたもんだぜ。まともにやったらスレイプニルなんて家に入んねえだろうに。いったいどんな手を使ったんだか、教えてもらわなきゃなぁ」


 狩欺はかったるそうに言った。彼は県の魔法使いの代表だ。立場上、今回の件に関してまだまだやるべきことが残っているのかもしれない。


「そういえば狩欺さん、さっき、キスタールの青い鳥が飛んでいるのを見たのですが」

 

 雪を降らせていたあの青い鳥のことを思い出す。スレイプニルとの戦いに気を取られっぱなしだったが、考えてみれば、もう一匹魔法生物が野放しになっている状況なのだ。


「ああ、そいつはもう捕獲したよ」

 

 と、狩欺はこともなげに言った。


「マニアの家から逃げ出したのは三体。スレイプニルと、鳥と、ツチノコだ。もう全部捕まったがな」


「ツチノコ、ですか」


「この辺りに全然人がいねえだろ。ツチノコのせいだよ」


「……ああ」

 

 ツチノコは、広範囲に人払いの結界を張る魔法生物だ。ツチノコ自体はほぼ無害なのだが、結界のせいで周囲に人が集まらなくなってしまう。

 

 また、ツチノコの結界の効果範囲は広いものの、効力は薄いために、魔法使いにはほとんど効かない。魔法使いはみな大なり小なり、魔法に対する抵抗力があるからだ。

 

 ルシアはツチノコの特性を知ってはいたが、先ほどは目の前で同時に色々なことが起こりすぎたために、公園に人がいないこととツチノコの存在とを結び付けて考えることができなかった。今回に限って言えば、周囲に人がいなかったのは幸いでしかなかったが。


「悪かったな」

 

 ふいに、狩欺が謝罪の言葉を口にした。


「マンティコアに続いて、今回もお前さんたちを巻き込んじまった。すまん」


「いいんです。それより沙杏は……」


「心配すんな。据野が連れて行った医者は腕がいい。まず治る」

 

 そう言ってもらえて、ルシアは少しだけ気が楽になった。


 でもそれも一瞬のことで、すぐに暗い気持ちに戻ってしまう。もし沙杏の怪我が治ったとしても、今回のことがなかったことになるわけではないのだ。


 それに、また同じようなことが起こってしまったら――そう考えると怖くなってくる。自分の大切な人が、また突然傷つけられてしまったら。


「狩欺さん、研究所から脱走した魔法生物は、今回で一気に捕まったんですよね? だったらもう、こんなことは起きないですよね?」

 

 起きない――と言ってほしかった。

 

 しかし狩欺は「わからねえ」と首を横に振った。


「前にも公園でちょっと話したな。マンティコアを捕まえた時点で、研究所から脱走した魔法生物は残り四体だったんだ。そして今回の件で捕まったのは三体。つまり――」

 

 狩欺の顔つきは険しかった。


「まだ一体、見つかってねえんだ」

次回より、第二章最終エピソードを開始します。

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