スレイプニル 1/3
ルシアと沙杏は電車に揺られて、海沿いの街へと向かっていた。
水族館に行きたい。沙杏からそんな連絡が来たのは、みんなで砂遊びをした翌日のことだった。あの日、「またどこかへ行こうよ」と言ってくれたあの言葉は、社交辞令ではなかったのだ。
――次は臨海公園前駅。臨海公園前駅。
目的地を告げるアナウンスが車内に響く。
「ルシアっち、次で降りるんだよね?」
「うん。降りる準備、しよっか」
ほどなくして、電車は駅に停車した。
一か所しかない駅の出口を抜けると、すぐ目の前に臨海公園の入口が見えた。
この臨海公園は海面を埋め立てて作られた大きな公園で、主に海辺のエリアと、内陸の緑に囲まれたエリアに分かれている。砂浜だけでなく、敷地内にはバーベキュー会場やレストラン、宿泊施設、そして今回のお目当ての水族館まである。また、公園自体には入場料無しで入れるため、散歩やジョギングのコースとしても人気らしい。ここは様々なアウトドア派の人々が集まる、一大行楽地なのだ。
「水族館、楽しみだねぇ~。あたしはペンギン見たいな、ペンギン。ルシアっちはどう? なにか見たいのある?」
「私はイカが見たいかな」
「イカ? 水族館でイカを見たいってことある!? いやぁ、やっぱルシアっちは面白いこと言うな~」
「そうかしら……? イカ、かわいいと思うんだけど……」
この日は雲ひとつない快晴で、刺さるような夏の日差しが容赦なく頭上から降り注いでいる。けれど潮風にそよぐ海の香りをかげば、その酷い暑さも不思議と悪くないように感じられた。
「ありがとね、この前は」
公園のメインストリートを歩きながら、沙杏が言った。
「お家に来ない? って、引き留めてくれたでしょ。あれ、嬉しかった。それにあのときから、あたしのこと呼び捨てで呼んでくれるようになったでしょ。まあ、呼びかたで人間関係が決まるわけじゃないけどさ、でも、嬉しかったんだよ。やっと友達ができたみたいで」
沙杏はちょっと照れくさそうにしている。
だけどルシアは、どういたしましてとは、とてもじゃないが言えなかった。
「ううん、あれは――」
どうしてあの日、あんなに突発的な行動を取ってしまったのか、ルシアなりに考えてはみたのだ。
そして導き出された答えはこうだった。
――たぶん、沙杏がかわいそうに見えたから。
ルシアには帰る家があって、一緒に帰ってくれる人がいて、待っていてくれる人がいる。
しかし沙杏は一人だった。あの日、たった一人で帰っていく沙杏の後姿が、ひどく寂しげに見えて、それで思わず声をかけてしまったのだ。少なくともルシアは、そういう理由だったのではないかと自己分析している。
つまり、あれは優しさなんかじゃなくて。
「――同情だったんだと思う」
「…………」
「だから、私、本当は謝らなきゃいけないの。だって勝手に――」
「なんで?」
沙杏が、ルシアの言葉をはっきりと遮った。強い口調だった。
「なんでそんなこと言うの?」
「そうよね……同情されたなんて言われたら、いい気分はしないわよね」
「そうじゃない」
もどかしさと憤りとが入り混じった視線が、ルシアに突き刺さる。
「私が言いたいのはそんなことじゃないよ! ルシアっちはなんで――」
そして沙杏はなにかを言いかけて、口をつぐんだ。
いったいなにを言われるのかとルシアは身構えたが、その言葉の先を聞くことはできなかった。
呑気に会話をしていられる状況じゃなくなったからだ。
「……待って、ルシアっち。魔法の気配がする」
沙杏の顔に緊張が走る。
同時にルシアにも、うっすらとではあるが、魔法の気配が感じられた。
「ああ、もー、なんで気づかなかったんだろ! こんなの気配以前の問題だよ! ねえ、ルシアっち、おかしいよ。なんでさ、周りに人がひとりもいないの……!?」
沙杏に言われて、ルシアも慌てて周囲を見渡す。
確かに、いない。いくら日差しが強いからと言って、表に誰ひとり出ていないというのはさすがにおかしい。ましてや夏休みシーズンの晴れた日に、この行楽地から人がいなくなるなんて、あまりにも不自然だ。
いつから?
記憶を辿る。するとルシアは、駅を出てからまだ誰ともすれ違っていないことに気づいた。いきなり人が消えたのではなく、この公園に来たときにはすでに人はいなかったのだ。
さらに不可解なことは続く。
「わっ」
ルシアの頬にひんやりとしたものが当たった。なにかと思って顔を上げると、分厚い雲が早送りをするような速度で青空を覆っていくのが見えた。そしてその雲からは、冷たい白い粉が舞い降りている。
「うそ……ねえ沙杏、雪が降ってきた!」
「うわ、ほんとだ。なんでこんな……ってちょっとルシアっち、あそこ見て!」
沙杏が指し示す先、公園の西の空を、青い鳥が飛んでいた。
距離感がつかめないせいでサイズがわかりづらいが、ハトやカラスとは比較にならないほどの大きさには見える。もしかしたら人間よりも大きいかもしれない。普通の鳥と違い、その身体は半透明で青白く、まるで結晶で作られたような見た目をしている。
ルシアはその鳥を、どこかで見たことがあるような気がした。たしかそれは……そう、狩欺のメモだ。逃げだした魔法生物のリストの中に、“キスタールの青い鳥”という名前で記されていた。
「沙杏、きっとあれ、逃げ出した魔法生物よ! あの鳥が雪を降らせてるの!」
「えぇ、なんだってこんなとこにいんのよ」
雪の勢いが少しずつ増していく。いまが夏とは思えないほどの寒い風が吹き始めた。
「狩欺さんに連絡しなきゃ!」
「いや、ルシアっち。そんなことやってる暇はなさそうだよ」
「え?」
「気をつけて。なんか来てる!」
沙杏より一歩遅れて、ルシアもそれに気づいた。
公園のメインストリートの奥から、体高が四メートルはあろうかという巨大な黒い馬が、こちらに向かって歩いてきているのだ。その馬は大きいだけでなく、全身に紅蓮の炎をまとっている。雪が舞い散る中、消えない炎が辺りを雄々しく照らしていた。
こちらもルシアは狩欺のメモで見た記憶があった。名前はたしか――
「スレイプニル……そう、スレイプニル! あれも魔法生物の一匹よ!」
「マジかぁ。すっごい燃えてるね、あのお馬さん。ヤバいんじゃない?」
「次から次に、なにが起こってるの?」
「さあね、逆に考えないほうがいいんじゃない?」
人の消えた公園。雪を降らす青い鳥。そして炎の馬。
沙杏の言う通り、いまは考えないほうがいいのかもしれない。考えたところで混乱するだけだ。
スレイプニルが二人の元へ接近してくる。やがて互いの距離が十メートルを切った辺りで、その炎馬はけたたましく嘶いた。
次の瞬間、スレイプニルの全身の炎が膨れ上がる。それは炎の壁となり、空間ごと押しつぶすかのように、ルシアの眼前へと迫った。
「ルシアっち、下がってて!」
――鏡面反射。
沙杏が杖を突き出すと、前方に魔方陣が浮かび上がった。その魔法陣は盾となって、迫りくる炎の壁を正面から受け止める。
「ルシアっち、無事?」
「うん! 沙杏は!?」
「あたしは大丈夫」
沙杏は前方の炎からけして目を逸らそうとはしなかったが、話し声には余裕があった。
「ま、ここは任せてよ。防御魔法は得意なの。あたしの使う魔法は、魔法を百パーセント無効化するから」
ルシアは耳を疑った。魔法を完全に無効化する魔法なんて――強力すぎる。
沙杏の言葉に偽りはなかった。彼女の魔法は、暴力的な炎を最後まで難なく防ぎきってみせたのだ。
敵わないと悟ったのか、スレイプニルは踵を返し公園の奥へと走りだす。
ルシアは反射的に叫んだ。
「追いましょう!」
「え、追うの?」
「青い鳥はまだ放っておける! 空を飛んでるだけだから、人と鉢合わせたりはしない! でもスレイプニルは危険よ! 陸地を走り回る以上、いつか必ず人とぶつかることになるわ!」
幸いなことに、いまはなぜか周囲に通行人がいない。しかし、まさか全世界から人類が消えたわけではないだろう。
スレイプニルが逃げ続けた先で人間と出くわし、そして先ほどのように炎を放ったら? 人間のほうは、怪我じゃ済まない。
「待ってよ。ルシアっちの言ってることはわかるけど、相手はお馬さんだよ? どうやって追いつくのさ?」
「私の魔法は身体強化なの。だからたぶん、追いつける」
「追いついて、あの炎はどうやって防ぐの?」
「それは……」
がんばってかわす。がんばって防ぐ。ルシアにはそれくらいしか思いつかない。
沙杏は呆れたように言った。
「考えなしってわけ? それじゃ危ないよ」
「でも放っておいたら、大変なことになるのよ!」
「まあ落ち着いて、ルシアっち。一人でだめなら、二人でいこうよ。協力プレーってやつ? 要するにあたしはこう言いたいわけ。“あんたが足になるなら、あたしは盾になるよ”」
どう?
沙杏は得意げな顔で、ルシアにそう持ちかけた。




