お前の守備範囲すげーな!
ルシアが沙杏と食事をした日の夜。高崎家のリビングで、朱音、しづく、メーベルが集まってなにかを話しているのを見かけた。
「ねえ、なに話してるの?」
ルシアが三人のもとへ近寄ると、朱音が振り返って、
「おお、ルシアか。なにって、春心の話をしてたんだよ」
「春心ちゃんの?」
その春心はいまこの場にいない。
本人がいないところでなにを話しているのかとルシアが首を傾げていると、しづくが会話を引き継いだ。
「最近の春心ってなんかすごいよねって話をしてたの……」
続けてメーベルが言う。
「すごいというか、まあ、常軌を逸してるといいますか」
「常軌を逸してる?」
すごいはともかく、常軌を逸してるとは穏やかじゃない言いかただ。春心がいったいどうしたというのだろう。
朱音が言った。
「あいつな、最近、家のどこからでもツッコミを入れてくるんだよ」
「どこからでもって、どういうこと?」
「家の中でなんかボケたりミスったりするだろ? そうすっと春心のやつ、どんだけ距離が離れていてもツッコミを入れてくるんだ」
「え、そんなことあるの?」
ルシアには、特に思い当たる節はない。
「ルシアはあんまりツッコミどころのあるミスとかしねえからな。気づいてねえだけだろ」
朱音がそう言うと、しづくとメーベルが同意するように頷く。
「じゃあほかの二人も、なにか心当たりがあるのね」
と、ルシアがしづくとメーベルの顔を交互に見ると、しづくがこんなエピソードを語り始めた。
「うん……。私ね、この前自分の部屋にいるときにね、コンビニで買い物をしたときのレシートと小銭を、ポケットに入れっぱなしにしてたことに気づいたのね……。それで小銭を財布に戻そうとしたんだけど、間違って要らないレシートを財布に入れて、小銭のほうを思いっきりゴミ箱に捨てちゃったの……。そしたら廊下から『お疲れかッ!』って声が聞こえてきて……。びっくりして廊下に出てみたら、春心が何事もなかったみたいに無言で階段を下りていくところで……もうそれで終わり……。あれから春心、一言もそのことに触れてこないの……」
「それは……」
若干怖いなと思いかけたけれど、一緒に暮らしていればそういう日もあるだろう。簡単に常軌を逸しているなんて言ってはいけない。ルシアは春心のフォローに回る。
「ほら、たまたまなにかが噛み合わなかったってだけじゃない?」
「たまたまじゃないと思いますよ」
と、メーベル。
「私もこの前、似たようなことを経験しましたから」
「似たようなこと?」
「ええ」
しづくに続き、メーベルがこんなエピソードを披露した。
「四日ほど前、私がキッチンにいたときのことです。そのとき、私はお茶を淹れてたんですよ、ティーバッグで。でもそのときちょっと考えごとをしていましてね、できあがったお茶をそのままシンクに流してしまったんですよね」
「お前らその手のミス多くね?」
朱音がぼそりと言うが、メーベルは気にする様子もなく話を続ける。
「で、自分のミスに呆れていたらですよ、春心がいつの間にかキッチンに立っていて、『お疲れなのかッ!』って叫んで、そのままどこかに行っちゃったんですよね」
「うーん、たしかに不思議な話ね」
不思議というか、奇妙というか。
ルシアからすると、春心や朱音のようなギャグのキャラクターにはまだまだ謎が多い。ファンタジーとはまったく別ベクトルの不思議さがある。
しかし今回の出来事はいままで以上に謎だ。家のどこからでもツッコミを入れてくるなんて。少なくとも春心に関して言えば、これまでそういうことはなかった……はずだ。
「ちなみに、朱音ちゃんも似たようなことを?」
「もちろん」
朱音はなぜか得意げに頷いた。
「この前さ、こう、飛行機みたいに両手を広げてな、『ブゥウ~ン!』って言いながら家中を走り回ってたんだよ。そしたら春心に『うるさいっ!』って言われて」
「それ普通に怒られたんじゃないですか?」
メーベルがそう指摘すると、朱音は「真相は闇の中……ってな」と両肩をすくめながら、小首を傾げてみせた。
「まあとにかく。最近の春心はなんかスゲェんだ。だから一回、ちゃんと調べておこうって話になってな」
「調べるって、なにを?」
「決まってんだろ。春心が本当に家のどこからでもツッコミを入れてくるのかどうかってことをだよ。どうだ、ルシアも一緒にやってみねえか?」
正直、ちょっと面白そうだと思ってしまった。身も蓋もない言いかたをするのなら、ばかばかしい。でもそれこそが、自分たちらしい時間の過ごしかたのような気もする。
「わかったわ。じゃあ私も付き添いで参加するね」
「よっしゃ」
「でも、調査ってどうやるの?」
それだけどな……と、朱音は廊下の外に視線を移した。
「いま春心のやつ、風呂に入ってんだよ。で、私はいまからこの部屋でボケる。そんな状況でもちゃんとツッコミが返ってくるかどうか、試してみようと思ってんだ」
現在ルシアたちがいるのは高崎家一階のリビングだ。そこから廊下に出て、家の奥まで進んでいったところに浴室がある。同じフロアとは言え、あいだに壁が何枚も挟まっているぶん、ここからなにかを言ったところで春心が気づくとは考えにくい。
「さすがにお風呂に入ってたら気づかないんじゃないかな?」
ルシアが素直な感想を述べると、それを聞いた朱音は不敵に笑った。
「そいつはどうかな? あいつはな、『私ツッコミです。常識人です』みたいな顔して喋ってるけどな、性根は結構クレイジーなんだぜ? まあ、やってみりゃわかる。見とけよ」
朱音はリビングにいる全員の顔を見まわすと、浴室の方に向けてこう叫んだ。
「ヘイ、タクシー! アッハーン!」
すると間髪入れずに、遠くからうっすらと『それは……シーじゃ…くて、……シーだろ…っ!』という春心の声が聞こえてきた。
「ほんとに返ってきた……」
「改めて目の当たりにするとちょっと怖いですね」
しづくとメーベルが困惑したように顔を見合わせた。あまりのレスポンスの早さに、若干引いているようだ。
ルシアの場合は引くというよりも、『本当にこんなことあるんだ』という純粋な驚きがあった。
「本当に返ってくるのね。しかも相当早かったわよ、いまの」
「だから言ったろ、あいつはクレイジーだってな」
「春心ちゃん、なんて言ったのかしら」
「たぶん『それはタクシーじゃなくて、セクシーだろ~っ!』って言ったぞ」
さすがいつも一緒にいるだけあってか、朱音だけは春心の発言をちゃんと聞きとっていた。
「確認ついでに、今度は風呂場の前で同じことやってみようぜ」
朱音の提案を受けて、ルシアたちは四人でぞろぞろと脱衣所の前まで移動した。そして先頭を歩く朱音は遠慮なく脱衣所の扉を開け、中へと入る。シャワーの音と、シャンプーの甘い香り。
そして朱音は浴室の扉の前に立つと、先ほどと同じように叫んだ。
「ヘイ、タクシー! アッハーン!」
『それはタクシーじゃなくて、セクシーだろ~っ!』
秒で返ってきた。
シャワーの音に混じって、春心の声が浴室内で反響している。
「あいつ、やっぱすげえな」
朱音が感心したように呟いた。その後ろでメーベルが、
「すごいんですけど、その前に、朱音のボケが雑じゃないですか?」
「雑なボケっていうボケなんだよ」
「テクいですね」
しづくが、いいことを閃いたという顔をした。
「これ、私がなんか言っても返してくれるのかな……?」
「返ってくるだろ。なんかやってみれば?」
「じゃああれやろうかな……」
しづくは朱音に代わって、浴室の扉の前に立った。
「それじゃ、いまから腕が取れるマジックやりま~す。はいっ……!」
そう言うと、しづくは自身がロボットであることを活かして、右手の肘から先を自ら引っこ抜いてみせた。
「どうでしょ~……」
しづくは勝ち誇ったように言う。しかしそのマジックは、扉を挟んだ先にいる春心には見えていない。見えていないはずなのに――
『どこがマジック!? ただの物理法則じゃん!』
一秒もしないでツッコミが返ってきた。シャワーの流れる音がする。
「はるこって、やっぱすごいんだね……」
しづくが観念したように呟いた。
「この際だし、メーベルもなんかやっとくか?」
朱音が振ると、メーベルが「え? 私ですか?」と目を丸くした。
「私、ギャグとかないんですけど」
「別にギャグじゃなくてもいいんじゃね?」
「ああ、そういうことなら……。じゃああれ、試してみますか」
メーベルはなにか思いついたのか、自ら進んで浴室の扉の前に立った。
「春心、聞こえてます?」
『ん? メーベルちゃん、どうしたの?』
「え~、3. 141592653589793237……」
『そこは8~っ!』
「うわっ……」
メーベルが短い悲鳴をあげた。
「なんだそりゃ。メーベル、いまのってどういう意味だ?」
朱音が尋ねると、メーベルは顔を青くしながら訳を話す。
「いま私、円周率をわざと間違えて言ったんですよ。本当は8のところを7って言ったんです。そしたら春心がすかさず指摘してきて……驚きました」
メーベルは扉の奥の春心に問いかける。
「春心って、円周率暗記してるんですか?」
『円周率ってなに!?』
「それがわからないのはだめでしょう。高校生なのに……。じゃあなんで私が言ってること、わかったんですか?」
『フィーリング?』
「やっぱ春心ってすごいんですね」
メーベルが畏れるように呟いた。
「んじゃ、ここまで来たらルシアもなんかやるか?」
と、最後に朱音がルシアへ振った。ルシアとしては、途中からなんとなく流れでそうなるんじゃないかと思ってはいたけれど。
「えっと、私は面白いこと言えないわよ?」
「いや、別に無理にとは言わねえよ。でもほら、ルシアってあまり普段から春心にツッコまれてないだろ? 今回のことだって知らなかったくらいだかんな。そんなルシアがやっても、ちゃんとツッコミが返ってくんのかなって気になってよ」
「うーん、そういうことなら」
まあ、強いて拒否するつもりはない。拒否するつもりはないけれど……自分が面白いことを言えるとはとても思えない。だから、ルシアは念を押すように繰り返す。
「……本当に面白いことは言えないからね?」
言ってから、かえってハードルが高くなってしまったかなと思った。別にフリで言ったつもりはないのだけれど。
浴室の扉の前に立ち、春心に話しかける。
「ねえ春心ちゃん」
『今度はルシアちゃん? どうしたの?』
「えっとね」
ツッコミを入れてもらえそうなことをわざと言うだなんて、ほとんどしたことがない。慣れないことをする緊張と照れで、どことなく顔が火照ってくる。
ルシアは恥じらいが抜けきらないまま、だけど勢いに任せて、思い切って言ってみた。
「え、エービーシーディー♪ イーエフジェイ……♪」
これは、ABCDEF『G』の部分が、『J』になっているという、途中のアルファベットがごっそり抜け落ちているという、ルシア渾身の最強面白ギャグだ。
『ゆとり教育!?』という春心のツッコミが、一瞬で返ってきた。
「す、すごい! 私が言っても返ってきた!」
意図的にボケて、ちゃんとツッコミが返ってきたことがなんだか妙に嬉しい。
「ナイスアタック」と、朱音がルシアに向けてサムズアップをしてから、「よし、次は外に行こうぜ」と声を潜めて言った。浴室にいる春心に聞こえないようにしているのだろう。
「外に行ってどうするんですか?」
朱音に合わせて、小声になるメーベル。
「春心の限界を知りたくてな。家の外でボケてもツッコミを入れてくるかどうか知りてぇんだ」
「それ、私も気になる……!」
強く興味を引かれたのか、しづくの目がキラキラと輝いた。
「よっしゃ、そんじゃ移動だ」
こうして朱音を先頭にして、四人は脱衣所をあとにし、今度は玄関へと向かった。各々、靴やサンダルを履いて外へ出ると、一旦外側から玄関の扉を閉める。
「おーし、やるぞ。準備はいいか?」
そう言って、朱音はこの場の全員に視線を巡らせる。朱音と目が合った瞬間に、ルシアは浅く頷いた。
さて、家の外からボケても、春心はツッコミを入れてくるのか?
朱音が玄関の扉に向かって叫んだ。
「ヘイ、タクシー! アッハーン!」
「……………………」
返事はない。
耳を澄ましながら、少し待つ。
……三秒……五秒……十秒……二十秒。
しばらく待っても、声が返ってくる気配は感じられない。
「返事、返ってこねえな」
「さすがにこの距離は厳しいですか」
「聞こえない声に返事はできないものね」
いくら春心でも、家の外からではやっぱり無理か……。どこか落胆したような空気が漂いだしたそのとき、しづくだけが、ハッと息を飲んだ。
「待って……? なんか聞こえない……?」
再び全員で耳を澄ませる。すると数秒遅れて、ルシアにも音が聞こえてきた。ばたばたと、なにかが慌ただしく走っているような、そんな音が。
それは玄関の扉の奥から、徐々にこちらへと近づいてきて――
「呼んだぁ!?」
玄関の扉が、バァン! と勢いよく開き、春心が飛び出してきた。
お風呂から慌てて出てきたのか、身体にバスタオルを巻いただけの格好で、髪の毛はまだ濡れている。
「なんか呼ばれた気がしたんだけど!? 呼んだ!?」
――圧倒的。
具体的になにがどう圧倒的なのかはまったくわからないけれど、とにかくルシアにはいまの春心が圧倒的に見えた。意味はよくわからない。
「ねえ、呼んだよね!?」
「……なあ、春心」
そんなバスタオル姿の超越者に、朱音は言う。
「実はお前が一番アホだろ」
「え、なんで……?」
春心は目をぱちぱちと瞬かせ、首を傾げた。この場の誰よりも不思議そうに。




