暗がりの奥から 2/3
ルシアは箒で空を飛びながら、怪物の行方を追った。
上空から住宅街を眺めると、あるラインに沿って街灯が消えているのがよくわかる。マンティコアが通った跡だろう。マンティコアは強力な魔法生物の一種で、その身に宿している魔力は膨大だ。それが一部の電気系統を狂わせているのかもしれない。
しかし、肝心の怪物の姿だけが見当たらない。
代わりに、先ほど高崎家の前を通っていった男女が公園にいるのを見つけた。急いで彼らに危険を報せにいこうと、ルシアは箒の高度を下げる。
ふと、以前犯したミスが頭をよぎった。箒で空を飛んでいる姿を、魔法使い以外の人に目撃されてしまったことがあったのだ。それで先週、狩欺に注意された。
今度は見られないようにしなきゃ――ルシアは少し遠回りをしながら角度を調整し、男女の背中側、公園の植栽の影に着陸した。
公園内では男女がベンチに座ってなにかを語らっているようだった。そこに割って入るというのは、二人の世界を壊すようで気が引けるけれど、危険が迫っているのだから仕方がない。
ルシアは植栽の影から出て、二人の元へ向かおうとしたが――
(え、ちょっと……!?)
男女が、キスをし始めた。
見てはいけないものを見てしまったと、ルシアは再び植栽の影に身を隠す。
(隠れてる場合じゃない! けど……)
男が怪しい手つきで、女の身体に手を回した。湿り気のある艶めかしい声が、深夜の公園にじんわりと溶け出していく。
(全然出て行ける空気じゃない!)
いや、でも、しかしだ。
怪物が近くを徘徊しているかもしれないのだ。ここで気後れしている時間はない。
ただ、考えてみれば、彼らにどう説明をしたらいいのかがわからない。
怪物がいるから一緒に逃げましょう? そんな話、信じてもらえるはずがない。かと言って、あの二人だけの空間に普通に割って入ったところで、煙たがられるのがオチだ。
と、そこでルシアの中に、ある疑念が湧いてきた。
――私は、本当にマンティコアを見たのかな?
絶対、必ず、百パーセント、確実に見たのかと言われれば、少し自信がない。
現実的に考えて、住宅街のど真ん中を魔法生物が悠々と歩いているなんてことがあるのだろうか。
あれはなにかの見間違いで、自分が寝ぼけた頭で見た幻だった――その可能性のほうがずっと高いのではないか。そんな気がしてきた。
(……私、疲れてるのかな)
もしも本当に見間違いだった場合、ルシアは存在しない幻影にひとりで騒いだ挙句、他人の逢瀬を覗き見しているだけの人間になってしまう。完全に危険人物だ。
ルシアは自分に呆れ、念のため、もう一度だけ周囲の見回りをしてから帰ることにした。そして、今度こそゆっくり寝よう。そう思った。
そのとき、公園の外灯がひとつ、ふっと消えた。
嫌な予感が全身を駆け巡った。さっきまでの楽観的な考えが一瞬で弾け飛んだ。
ルシアは直感する。
やはり、いる。人を喰らう怪物が、すぐ近くに。
ルシアは慌てて植栽の影から飛び出し、男女の元へと走りだした。今度こそ躊躇している場合じゃない。
またひとつ、外灯の明かりが消える。そしてまたひとつ、またひとつと外灯は消えていき、最後には月の明かりまでもが消失した。
「いや、違う、これはっ……!」
月の明かりが消えたんじゃない。月が消えるわけがない。
月に覆いかぶさるように、“なにか”がこの公園に向かって飛んできているんだ!
「逃げてッ!」
ルシアが叫んだのと同時に、強烈な衝撃が走る。木製のベンチは大破し、そこに座っていた男女は冗談みたいに吹き飛ばされた。悲鳴が上がる間もなく。
そしてうっすらと舞う土埃の中に、怪物は佇んでいた。獅子の身体と、巨大な蝙蝠の翼。蠍の尾に、狂気を秘めた瞳。
マンティコアだ。
怪物は上空から猛スピードで飛来して、ベンチごと男女二人を薙ぎ倒したのだ。
数メートル飛ばされた彼らは地面に横たわり、血を流しながら苦しそうに呻いている。あまりの光景にルシアは目を背けたくなった。
(私のせいだ……私がためらったから……)
後悔と自責の念が湧き上がりかける。しかし、彼女には自分を責める時間すら与えられなかった。
マンティコアが余裕のある足取りで、倒れている男女の元へと歩き出したのだ。
ほぼ無意識のうちに、ルシアは怪物の前に飛び出していた。
「あなたの相手はこっちよ!」
じろりと、マンティコアの眼球がルシアを捉える。
身がすくむが思いがしたが、ルシアの中に逃げるという選択肢はなかった。
自分しかいない。
自分が戦うしかない。
苦しんでいる人を見捨てて、逃げることはできない!
ルシアを奮い立たせているのは、ある種の透明な使命感だった。
「大丈夫、私は戦える」
自身を鼓舞するように呟く。
彼女は知っている。自身に戦う力があることを。
およそ二年前、この地球上のどこにも存在しない“白い街”で、春心たちに最初に出会ったあのときも、怪物と戦い、生きてこの世界までやってきた。
しかしそれから二年間、ルシアは自分の力を戦いに使ったことは一度もない。平和な日常の中で、そんな機会は訪れなかった。それを不幸だとは思わない。
ただ、自分はいまも、あのときのように戦えるのだろうか。
「大丈夫」
言い聞かせるように、繰り返し、もう一度呟いた。
不安だなんて言っていられない。やらなきゃ、死人が出る。
ルシアは強引に覚悟を決め、マンティコアを正面から見据えた。
月光の降り注ぐ、深夜の公園。
魔法使いと怪物の視線が、静かに交差する。




