恋はナマモノ 1/2
その日の放課後は特にこれといった用事はなかったので、ホームルームが終わってすぐに、舞込春心は文化部棟へとやってきた。
文化部棟は、学校の敷地の角にある、文化部の部室が集まっている二階建ての建物だ。
演劇部、文芸部、新聞部、歴史部、TRPG部、暗号研究部、手品部、エクストリームアイロニング部、輪ゴム部……数多くの部室が立ち並ぶ廊下を通り抜け、春心は文化部棟の奥へと進んでいく。彼女の所属するラフ&ピース部の部室は、二階の一番端にある。少し風変わりな部名が目につくのは、ここ、私立檸文高校が『多様性のある部活動』を標榜している学校だからだ。
ラフ&ピース部の部室に辿り着くと、春心は鍵を開け、中へと入る。
「うわぁ……あっつい……」
室内に足を踏み入れた途端、不快な熱気が顔にまとわりつく。まだ六月上旬なのに、気温が三十度に近い日も増えてきた。夏本番になったらどうなっちゃうんだろうと、いまから少し気が重い。
なにはともあれ、まずは換気。
春心は窓際に寄って、窓を全開にした。
「あー、涼しい」
八月ころと違って、吹き渡る風がまだ涼やかなのが救いだ。心地よい風の流れを感じながら、春心は部室内を振り返る。
創部からまだ二か月弱ということもあって、ラフ&ピース部の部室は基本的に物が少ない。
木製の長テーブルと、パイプ椅子が数脚。ほとんど使っていないロッカーが二つに、壁掛け時計。以上。もはや殺風景と言ってもいいくらいのシンプルさだ。
だからこそ、部屋の片隅に存在している“朱音の展示スペース”が異彩を放っているのだが。
展示スペースというのは、朱音が一月ごとにテーマを決めて、なにかしらの作品を発表するという空間だ。
ちなみに、今月のテーマは――
春心は、展示スペースの前に設置されている立て看板に目を落とす。そこには、手書きでこう書いてあった。
【今月のテーマ・ウミガメVSバーテンダー】
ひとつもわからない……。
展示スペースにはたしかにウミガメとバーテンダーの戦いらしきなにかが立体的に表現されているのだが、それを見続けたら頭がおかしくなりそうなので、春心は日に何度も直視しないようにしている。
ちなみに、先月のテーマは【お前の父ちゃん破戒僧】だった。どうしよう。
たぶんだけど、朱音ちゃんはこの展示活動にすぐ飽きちゃうか、卒業までずっと続くかのどっちかな気がするなぁ。なんて考えていると、ちょうど換気の為に開け放しにしておいた部室の出入り口から、当の本人がやってくるのが見えた。
「あ、朱音ちゃん」
「よっすー、春心ぉ」
朱音の足取りは軽やかで、なんとなく機嫌がよさそうだ。なにか買ってきたのか、左手にはビニール袋を下げている。
「どこか寄ってきたの?」
「ああ。ちょっと小腹が空いてよ、コンビニで食いもん買ってきたんだよ。春心も食うか?」
「いいの? やった! なに買ってきたの?」
「たこわさ」
「たこわさ!?」
なにかのネタで言ったわけではないようで、朱音はビニール袋の中から本当にたこわさを取り出し、テーブルの上に置いた。
しかも見る限り、ほかにはなにも買ってきていない。わざわざコンビニまで行って、たこわさだけを買ってきたようだ。
「え、待って、朱音ちゃん。小腹が空いたなーってコンビニに行って、買ってくるのがたこわさなの? 生娘が? 生娘がコンビニでたこわさ買うの?」
「お前、すげえいじってくんな」
「いや、だってチョイスが渋すぎて……。でも、知らなかったな。朱音ちゃん、たこわさ好きだったんだ」
「嫌いだけど」
「嫌いなの!?」
じゃあなんで買ってきたのと言うと、朱音は不思議そうに首をひねった。
「そりゃお前、嫌いなもんって定期的に食べたくなるだろ? もう二度と食わねえぞって思ってても、なんかこう、気になっちまって、たまーに食べたくなるっつーか。お前もそういうことあるだろ?」
と、同意を求められたが、春心にはピンとこなかった。
「朱音ちゃんさ、それってほんとは好きなんじゃないの?」
何気なく思ったことをそのまま口にする。
「だって、定期的に食べたくなるんでしょ? 嫌いだって勘違いしてるだけなんじゃない?」
「はぁ? 別にたこわさのことは好きじゃねえよ。ただ、ちょっと意識しちまうだけっつーかさ……」
朱音がそんなことを真顔で言うものだから、なんだかおかしくなって、春心はぷっと吹き出してしまった。
「なにそれ、思春期の恋みたい!」
「お前さ、バカにしてんだろ」
怒ったというよりは、呆れたような言い方だった。
「ごめんごめん! でも、好きだって気持ちに気づかない不器用な男の子みたいなこと言ってるから、なんだか急におかしくなっちゃって!」
「なんだお前……。だいたいよ、食い物に恋って、そんなわけ――」
くだらないとばかりに、朱音はたこわさのパッケージに視線を落とし、
「…………」
押し黙ってしまった。まるで電源がぷつりと落ちてしまったみたいな、不自然な落差だった。
部室内に、妙な沈黙が流れる。
「朱音ちゃん……?」
異変を感じて、朱音の顔を覗き込んだ瞬間だった。
「バッ、バカ野郎ッ!」
朱音が、戸惑うように叫んだ。
「なに? どうしたの、朱音ちゃん!」
「お、お前が変なこというから……意識しちまったじゃねえかよ!」
「意識……?」
「たっ……たっ……たこわさだよ! たこわさのことを見てたら、急にドキドキしてきちまって……うわぁっ!」
テーブルの上のたこわさから逃げるように、朱音は一歩、また一歩と後ずさりをしていく。やがて壁にぶつかり、それ以上距離が取れなくなったところで、彼女は再び口を開いた。弱々しい口調だった。
「はるこぉ……どうすりゃいいんだよ……こんな気持ち……初めてだよ……」
「まっ――」
春心は絶句した。
言葉が出てこないとはこのことだと思った。自分のよく知っている人物が海産物の塩辛にドキドキし始めたとき、なんて声をかけてあげるのが正解なのか、まったくわからなかった。
それでも春心は、なんとか言葉をひねり出す。
「またまたぁ! そんな冗談言って! びっくりさせないでよ、ギャグならギャグだって言ってくれないと! ツッコミのタイミング逃しちゃったじゃん!」
そうそう、これはギャグなんだよ。いつものように、朱音ちゃんはただ突拍子のないボケをかましただけなんだよ。ね、朱音ちゃん? そうなんだよね?
春心は目でそう問いかける。
しかし、朱音は頷かない。笑いもしない。ただ春心の顔を正面から見据え、訴えかけるように叫ぶ。
「これが冗談で言ってるように見えるのか!? 違うんだよ……マジなんだよっ……!」
……わかっていた。本当はわかっていた。
春心にとって、朱音は人生で最も長い付き合いのある人物だ。朱音がふざけているのかどうかくらい、瞬時に察することができる。
これがギャグではないことくらい、最初からわかっていた。
春心は、朱音の顔を改めて見つめる。
瞳は潤み、頬は色めき、表情は切なげだ。どことなく呼吸は乱れ、視線は定まらない。定位置を忘れたみたいに、両手が落ち着きをなくしている。
そこにいたのは、繰田朱音であり、恋を知った女の子だった。
春心の知らない朱音だった。
朱音はたこわさに、恋をしたのだ。
どういうことだ。