喫茶店にて 2/2
ルシアのすぐ目の前の席に、男が座っていた。
いつからいたのだろう。もしかして、オ・レ・グラッセを飲んで一人でにやにやしているところを見られてしまったのだろうか。だとしたら、結構恥ずかしい。
ルシアは照れ隠しのために、なるべく平静を装って挨拶をする。
「……こんにちは、狩欺さん」
「おう」
男の名前は、狩欺 真。ルシアを呼び出した“大人”とは彼のことだ。
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスの据野が、狩欺のもとへやってくる。
彼女は優雅な手つきで狩欺の分の水をテーブルに置くと、その洗練された所作に反して、妙に俗っぽい笑みを浮かべた。
「あらあら、狩欺さん、ルシアちゃんを連れ込んじゃって……口説くんですか?」
「はァ?」
じろりと、狩欺が睨む。
「知らなかったなぁ。狩欺さんって年下が好みだったんだぁ」
「おい据野……んなわけあると思ってんのか? 冗談になってねえ。俺はただ“代表”として話をしに来ただけだ」
「そうですかぁ。で、ご注文はどうなさいます?」
「アイリッシュ・コーヒーをくれ」
「かしこまりました」
そう言うと、据野は何事もなかったかのように、オーダーを伝えにマスターのもとへ戻っていった。
いまの喧嘩腰の会話はなんだったんだろう、とはルシアは思わない。この二人、会うたびにこうなのだ。たぶん据野と狩欺は、本当は仲がいい。
ところで、いま会話に出てきた“代表”という単語だが。
狩欺は、ルシアの住んでいる県の魔法使いの代表だ。
彼自身はボツキャラクターではないのだが、彼の先祖がボツキャラクターで、かつ強大な魔法使いだったようで、昔から狩欺家は代々この辺りの代表を務めているらしい。
「代表ねぇ」
狩欺が、かったるそうに言う。
「自分で言ってて笑っちまうな。俺は代表なんざ向いてねえってのに」
「そうでしょうか」
「そうだよ。俺は要麻のやつみてえに、気ままに生きてるほうが性に合ってんだ」
要麻という名前が挙がった。
要麻 布施伍。先月の夜、ルシアと春心が街の上空で出会った人物だ。
あのあと、彼は空飛ぶ船で海外へと渡っていった。いまごろはネパールにでもいるのだろう。渡航期間は一ヵ月半と言っていたので、あと十日ほどで日本に帰ってくるはずだ。
「まあ、いくら向いてねえっつっても、やるしかねえんだけどな。俺の親父もそろそろ歳だ。こればっかりはな」
「向いてないってことはないと思いますよ。狩欺さんはみんなに慕われてますし」
「みんなって誰だよ」
「ええと、瑠璃さんとか」
「ハッ」
鼻で笑われた。
「あれは慕ってるって言うんじゃねえ。ナメてるって言うんだ。さっきのアイツの顔見たか? 俺のこと煽りくさってたぞ」
苦々しい顔で――でも本気で嫌がってるようには見えない――狩欺はグラスに入った水を口に含んだ。
「あの、ところで狩欺さん、話ってなんでしょうか?」
コーヒー片手に世間話、というのも悪くはないのだろうが、今日はそういう目的でここに来たのではない。狩欺に呼び出されたから来たのだ。
大人がわざわざ呼び出しをしてくるということは、くだけた話をするつもりではないのだろう。
であれば、早く用件を教えてほしかった。あまり焦らされると、ちょっと緊張してくる。
「まあ待て。それは飲み物が来てからにしようぜ。……と、言ってるうちに来たな」
据野がやってきて、テーブルにそっとグラスを置いた。
「カフェ・アイリッシュです」
「どうも」
アイリッシュ・コーヒーは、コーヒー、アイリッシュ・ウイスキー、砂糖を混ぜて、その上に撹拌した生クリームを浮かべたカクテルの一種だ。
つまりコーヒーと言いながら、立派なアルコール飲料なのだ。
「仕事帰りですか?」
それとなく、ルシアは聞いてみた。
「いや、このあと署に戻る」
「いいんですか? 警官が仕事中にお酒なんて」
狩欺の表向きの職業は、警察官だ。
その市民の規範となるべき立場の彼が、堂々と言い放つ。
「いいに決まってんだろバカ野郎。酒が一番の魔法なんだよ」
「…………」
あまり褒められた素行ではないなとルシアは思う。これが春心やメーベルなら、ダメな大人だとはっきり言い切ってしまうのかもしれない。
ズズッと、狩欺がアイリッシュ・コーヒーをすすった。
一見そのカクテルは真っ黒な色をしているが、よく見るとわずかに琥珀色に輝いているのがわかる。
「お前さん、見られてたぞ」
「?」
一瞬、なんの話かわからなかった。
グラスを手に持ったままで、狩欺は続ける。
「先週の水曜、夜。お前さん、ロープで人ぶら下げて空飛んでたろ。見られてたぞ。一般人に」
「あっ!」
ここでようやく、ルシアは話が本題に入ったことを理解した。
そして先週の水曜の夜と言えば……。
春心と朱音を、南榎神社まで箒で連れて行った。どうやらそこを、一般の人に見られてしまっていたようだ。
「珍しいな。そんなミスをするなんて」
「す、すいません……」
「急いでたのか」
「そう、ですね。急いではいました……でも、それは言い訳には……」
箒で空を飛ぶ場合、周囲からの視線をかわすために、あらかじめ魔法で細工をしておく。それが基本中の基本だ。
しかしあの晩、ルシアはそれを忘れていた。箒で空を飛んでいる姿が、地上から丸見えだったのだ。彼女が自覚している以上に、あのときは慌ててしまっていたのかもしれない。
「ま、安心しろ。昼間見られたわけじゃねえ。夜ならまだごまかしが利く。実際、後処理はもう済んでるしな。大事にはなっちゃいねえ。ただ――」
猫舌とは無縁なのか、まだ熱々であろうアイリッシュ・コーヒーを、狩欺は平気で口にする。
それから、ふう、と息を吐いた。
「魔法の存在を、魔法使いとその家族以外に知られちゃいけねえ。この世界の鉄則中の鉄則だ。お前さんはそれを破った。悪いが、ペナルティを受けてもらう」
「はい……」
ルシアは狩欺の言っていることになんの異論もなかった。
決まりを破ったら罰を受ける。当たり前のことだ。
「お前さん、隣町に魔法生物の研究所があるのは知ってるだろ? 木羽のじいさんが責任者やってるところだ」
魔法生物の研究所……。
話題が大きく変わったような気がするが、たぶん、本題から逸れているわけではないのだろう。
ルシアは素直に返事をする。
「はい、知ってます」
「昨夜、そこから一部の魔法生物が脱走した」
「脱走!」
「ああ、しかもタチの悪いやつらがな。細かいことはここにメモしてある。あとで確認しておけ」
狩欺はメモ帳をテーブルの上に置き、ルシアのもとへと滑らせた。
「と、ここでペナルティの内容だが――もしもお前さんが日常生活の中で、なにかおかしな噂を聞いたり、異常を感じたりしたら、すぐに俺に報告しろ。いいな?」
「はい」
「よし、頼んだぜ」
「え? ちょっと待ってください」
ルシアは思わず、話を遮ってしまった。
「ペナルティって、それだけですか?」
狩欺が怪訝そうに眉をひそめる。
「ずいぶん妙なことを言うな。なんだ、魔法生物を捕獲しろ、とか言うとでも思ったのか? そんな危ねえこと、ガキにやらせるわけねえだろ。お前さんの役割は情報収集だ」
「そんな、異常があったら報告するだけなんて、罰になってませんよ!」
情報収集と言えば聞こえはいいが、異常があったら報告するだなんて、罰則に関係なく日常的にやっていることだ。それがペナルティになるとは思えない。
「“形式的に”ってやつだよ。大人がよく使う手だ」
と、狩欺は言った。
「あのな、人間ってのはどっかで絶対ミスをするもんだ。今回のお前さんのようなうっかりミスなんかにいちいち厳罰を与えていたらな、人類は全員罪人になっちまうぜ。規則だから一応形だけ罰しとくが、ぶっちゃけ次から気をつけてくださいとしか言いようがねえんだよ。そりゃ何度も繰り返すようなら話は別だが、お前さんはこの手のミスは一回目だ。だから大目に見る。それだけの話だ」
「でも……」
ルシアは言う。なにかに取り憑かれたかのように。
「私は規則を破ったんです。私は……罰を受けるべきなんです」
「罰を受けるべきなんて、ガキが言うには重すぎるな」
狩欺の表情が、見るからに曇る。
「お前さんは真面目すぎる。ときどきこっちが怖くなるくらいにな。いいか、真面目なやつほどぶっ壊れるのは一瞬だぞ。もうちょっと力を抜いて生きることを覚えたほうがいい。人生なんて、適当でいいんだ」
「…………」
「なんてな」
狩欺が苦々しく笑った。はっきりと自虐の色が浮かんでいた。
「俺はガキのころ、偉そうに説教してくる大人が嫌いだった。大した経験もないくせに、人の生き方に口出ししてくるような、そんな大人には絶対にならねえって思ってた。でもなんでだろうな、いざ自分が大人になってみると、説教しちまいたくなるんだよ。人間にはそういうDNAでもあんのか、ええ?」
狩欺はアイリッシュ・コーヒーを豪快に飲み干し、席を立った。
「話は終わりだ。俺は仕事に戻る。お前さんはもう一杯くらい飲んでいけ」
狩欺はよれよれの財布から紙幣を数枚取り出して、テーブルの上に置いた。
「変な空気にして悪かったな」
「ちょっと、狩欺さん!」
このお金は受け取れないと、ルシアは思った。
自分はミスをしたのに、ろくに叱られもしないまま、飲み物をご馳走になるなんて……そんなこと、絶対にできないと思った。
しかし狩欺は、ルシアの呼び止めには応じない。
背中を向けたまま片手を軽く上げ、“ウィル”の隠し部屋から去っていく。
「じゃあな、さっきの件、頼んだぜ」
「…………。私は……」
――お前さんは真面目すぎる。
ルシアの脳内で、狩欺の言葉が木霊する。
そんなこと、わかっている。
ルシアは、誰にでも優しく接しなければならないと思っている。
ルシアは、何事も完璧にこなさなければならないと思っている。
ルシアは、失敗をする自分には価値がないと思っている。
しかしどんなにがんばったところで完璧になんてなれるはずもなく、それどころか無難で面白味のない人間になってしまっている。
それでも、完璧でいようとすることをやめられない。
そんな自分の性格を、ルシアはずっと前から自覚していた。
わかってはいた。
でも……。
ルシアは無意識のうちに、オ・レ・グラッセを口に運んでいた。
グラスの傾きが足りなかったのか、綺麗に分かれた断層の、コーヒーの部分だけを飲んでしまう。
ガムシロップの甘さもない、ミルクの滑らかさもない。
コーヒーの苦みだけが、口の中に広がっていく。




