ある夏の群青 8/9
ギャグの空間で起こった現象が現実世界に定着することはない。
割れたメガネが“次のコマ”で直ってしまうのと同じ原理だ。次の瞬間にはすべてが元に戻ってしまう。それがギャグというものだ。
朱音が食べたはずのスマホはいつの間にか復元されていて、ポケットから出てきたビーフシチューや、夜空に突然現れたドラゴン、そして華やかに舞い散った桜吹雪は、最初から存在しなかったかのようにどこかへ消えてしまっていた。
あとに残ったのは、うら寂しい雰囲気の神社だけ。
「どうして、お前はクレイジー小僧なんてやってるんだ」
朱音が言った。
「それは……」
順哉の口は重たかった。
それでも一度話し始めると、彼の言葉が止まることはなかった。
家族とうまくいっていないこと。
未國くんという同級生の存在。
クレイジー小僧ちゃんねるを作った経緯。
いままで会話にならなかったのはなんだったのかというくらいに、順哉は素直に話してくれた。本当は、ずっと誰かに話したかったのかもしれない。
春心はふと、メーベルの言っていたことを思い出す。
――事は人間関係ですからね、特効薬はありませんよ。劇薬ならあるかもしれませんが……。
先ほどの朱音の破天荒な行動が、順哉にとっての劇薬になりえたのだろうか。
ひととおり話を聞き終えると、少し間を置いてから、朱音が口を開いた。
「お前にとって、その未國ってやつは大事なやつなのか?」
順哉は答えた。
「……わかんない」
「クレイジー小僧の活動は、本当にお前がやりたかったことなのか?」
「……わかんない」
「お前がもし辛い目に遭ったとき、未國ってやつは助けてくれんのか?」
「笑ってくれると思う」
「じゃあやめろ、こんなこと」
朱音はきっぱりと言い切った。
「いいか、お前を傷つけるやつのために生きるな。お前を傷つけるやつに認められようとするな。そんなの……辛すぎるだろ」
「…………」
「お前は、お前を大切にしてくれるやつのために生きてくれ。これは説教じゃない。頼みだ」
実感のこもった口調だった。
朱音のその言葉は、いったい誰に向けて言っているのだろうと春心は思う。
「お姉ちゃん、でも……」
順哉の表情が陰った。なにか言いたげだ。
「どうした。もしかしてその未國ってやつが怖いのか? だったら、私たちがそいつをぶっとばしに行ってやるよ」
「そうじゃなくて」
順哉は苦笑する。
「僕を大切にしてくれる人なんて、いないから」
「お前には姉貴がいるだろ」
すると、順哉が「え?」と目を瞬かせた。
「なに言ってるの? お姉ちゃんは僕のこと嫌ってるよ。いつも僕のこと、避けてるもん」
「は?」
今度は朱音が目を瞬かせる番だった。
「お前こそなに言ってんだ。今回、お前のことを私たちに相談してきたのは、お前の姉貴だぞ」
「そんなの、嘘だよ」
「嘘じゃねえよ。なあ、もしかしてお前ら、なんか勘違いしてんじゃ――」
と、朱音が言いかけたときだった。
「順哉!」
神社の入口のほうから、誰かの叫び声が聞こえた。
見れば、鳥居の下に息を切らした女子が立っている。
上木内志保だ。
「お姉ちゃん、どうして……?」
ここに来るまでどれだけ走ったのか、志保は呼吸を乱し、苦しそうに肩を上げ下げしていた。
それでも彼女は歩くことなく、小走りで順哉の前までやってくると、なにかを言おうとして――しかし結局なにも言わずに、朱音と春心に向かって頭を下げた。
「うちの弟が、迷惑をかけました!」
「いや、ちょっと待て」
朱音が志保の謝罪を遮る。
「謝るのはいい。でもその前に、まず弟と喋ってやれ」
「……そう、ですよね」
志保は自信なさげに呟いて、順哉を見た。
そしてなにかを言おうするのだが、先ほどと同じように、結局なにも言えないまま、力なく俯いた。
「ごめんなさい……」
志保の目には、涙が浮かんでいた。
「わからないんです。こんなときに、家族とどう喋っていいのか、全然わからないんです! ごめんなさい、こんな姉で、こんなときに……すいません……」
「…………お前は、悪くねえよ」
朱音は静かに言った。
「たぶん、お前たちがうまくいかねえのは、親のせいもある。家族の会話を教わらないまま、お前たちは育っちまったんだ。いいか。あんまり大人は言ってくれねえけどな、親を尊敬できなくてもいいんだよ。なあ、お前の親はいまなにしてんだ? こんな夜遅くに、お前の弟が苦しんで、お前は泣いてんのに……なあ、お前の親はどこでなにやってんだ? どうして、ここにそいつは来ねえんだ? なんで、こんな状況になるまで放っといてんだよ、そいつは!」
いつの間にか、朱音の声は熱を帯びた叫びとなっていた。
間を置いて、上がった息を整えて、朱音は再び口を開く。
「だから、いいんだ。お前はもう、自分を責めるな」
「繰田さん……」
それから朱音は順哉の方を見た。
「おい弟。お前の姉貴はな、お前のために頭を下げられるやつなんだ。お前のために一生懸命悩めるやつなんだよ。お前のことを嫌ってなんかいねえ、信じていい」
「そう、なのかな」
「そうだよ。だろ、姉貴」
朱音が話を振ると、志保はゆっくりと頷いた。
「うん。順哉のことは嫌いじゃないよ。それだけは、本当だから」
「そう、そっか。そうだったんだ。お姉ちゃんも、そうだったんだ」
順哉はまだ、まともに志保の目を見ることができていない。
それでもなにかに安心したような顔で、しきりに頷いていた。
「お前たちはこれからだよ。ちょっとずつ話せるようになればいい。なにを話していいかわかんねえときは、難しく考えんな。なんでもいいんだ」
朱音にしては珍しいほどに、優しい口調だった。
「なんでもいいことを喋れるから家族なんだよ。意味とか、建前とか、そういうことを気にしなくていいんだ。思ったこと、感じたこと、好きなこと、嫌いなこと、楽しかったこと、面白かったこと、辛かったこと、悲しかったこと、くだらないこと、なんでもいい。無駄なことでもいい。互いに話して、聞いて――それ以上はなんもいらねえんだ」
志保の目を見る。
続けて、順哉の目を見る。
そして朱音は言う。
「大丈夫だ、お前たちはまだ間に合う」
それから志保と順哉は、二人で帰っていった。
帰り道、あの姉弟はどんな言葉を交わすのだろう。
これから先、あの二人はどうなっていくのだろう。
世の中、うまくいくことばかりではない。
春心も朱音も、取り返しのつかないケースを身に染みて知っている。
神であり、親であり、友であり、分身である、“作者”との別れを経験している。
しかしだからこそ、春心は願う。
あの姉弟の未来が、明るいものでありますように。
「悪かったな。いいところ、全部持ってっちまって」
志保と順哉が帰ったあと、朱音が言った。
春心は首を横に振る。
「ううん、格好よかったよ。私はなにもできなかったから……」
「いいんだ。任せろっつったのはこっちだ。それにな、お前がいたから、私は安心してボケられたんだぜ? “ツッコミ”がいないとな、ギャグの空間から戻ってこれねえんだ」
そう言いながら、朱音は境内にある色褪せた鳥居をぼんやりと眺めた。
「なあ春心。私たち、出会わなかったらどうなってたんだろうな」
「……他人事じゃなかったよね。順哉くんのこと、志保ちゃんのこと」
「あいつらも、居場所を探してたんだな」
春心、朱音、しづく、メーベル、ルシアの五人は、ボツになった直後に“白い街”でたまたま出会った。
それからこの地球にやってきて、たまたま高崎と出会った。
いま春心たちに居場所があるのは、ただ偶然が重なっただけにすぎないのだ。
そういう意味で、あの姉弟のことは他人事とは思えない。一歩間違えれば、春心たちだって居場所に飢えていたのだから。
「あの二人、うまくいってほしいね」
「ああ、ほんとにな」
「終わったみたいね」
神社の石段を下りていった先で、ルシアが待っていた。
春心はひとつ、質問をする。
「ねえ、志保ちゃんにこの場所を教えてくれたの、ルシアちゃんでしょ?」
「どうして?」
「だって、この場所を知っていて、志保ちゃんの連絡先を知ってるの、ルシアちゃんくらいしかいないでしょ」
ルシアは志保と同じクラスだと言っていた。まあまあ喋る仲だとも。だとしたら、連絡先を知っていてもおかしくはない。
「まあ、待ってるだけってのもなんだったからね」
と、ルシアはちょっと悪戯っぽく笑った。
「あー、帰りは歩いてこうぜ。なんかそういう気分だ」
伸びをしながら朱音が言う。
「そうね。じゃあ、ゆっくり帰りましょっか」
ルシアが地面に寝かせてあった箒を持ち上げた。もう出番のなくなったその箒は徐々に縮んでいき、やがてキーホルダーへと変化した。
「それにしても、暑い夜だねぇ」
春心は手で自分の顔を扇ぐ。
「たしかにあっちーけどよ、春心もルシアもまだ風呂に入ってないだろ? だったらいいじゃねえか。堂々と汗かいて帰ろうぜ」
「あ、いいね! 痩せそう!」
「春心ちゃんはもう痩せなくてもいいと思うんだけれど」
「えー、それルシアちゃんに言われたくないなぁ」
何気ない、ただの会話。
でもそれはきっと、なによりも大切なものだ。
「じゃ、帰ろうぜ」
街外れにある南榎神社の周りには、建物も街灯も見当たらない。
頭上の月だけが、夜の道を深い青に染めている。
その群青色の闇の中に、あるいは光の中に、少女たちは違和感なく溶け込んでいた。




