ある夏の群青 7/9
前回のあらすじ。朱音がスマホを食った。
「いいか春心、これからなにが起こっても、絶対にツッコミを入れないでくれ」
バリンバリンとスマホをかじりながら、朱音が春心の方を振り返った。
「朱音ちゃん、なにか考えがあるんだね?」
「ああ」
「それなら……うん、わかったよ。私、黙ってる」
「助かる」
先ほど朱音は言った。私に任せてくれ、と。
それなら、春心にできることはたったの一つだ。
朱音を信じる。それだけ。
朱音が覚悟を決めたように、春心もまた覚悟を決めるときなのだ。
これから目の前で起こるすべてを、ツッコミを入れずに見届ける覚悟を。
「見たか、クレイジー小僧。これが本当の狂気ってやつだぜ」
朱音は当然のようにスマホをかじり続け、ものの数秒で完食した。
スマホを、完食した。
「う、うそだ……スマホを食べるなんて……頭おかしいよ……」
畏怖と、疑心と、驚愕と。
順哉は朱音の奇行を化物を見るような目つきで見ていた。
「どうだ? お前にはできないだろ?」
しかし、朱音に焚きつけられた途端、順哉の目の色が変わった。
「なっ! ふ、ふんっ! オイラだってそれくらいできるぞッ! オイラはクレイジーだからな!」
順哉は賽銭箱から降りて、専用の三脚からスマホを取り外すと、その勢いのままスマホにかぶりついた。
「かたいッ!」
悲鳴が上がる。
「ス、スマホってこんなに固いの!? こんなの人間が食べるものじゃないよ! しかも思ったよりでかい! いままでスマホを食べようとしたことがないから気づかなかったけど……スマホって結構でかいよ! なかなか口に入らない!」
「よかったな。またひとつ、知識が増えて」
今日の学び。
スマホは意外と口に入らない。
「無駄知識だよ!」
「おいおい、無駄をバカにするもんじゃないぜ? 無駄はクレイジーの親戚みたいなもんだからな」
「お姉ちゃんの言ってること、全然わかんない……」
――スマホは食べられない。
常識という名の壁にぶち当たった順哉は、ただ茫然と己のスマホを見つめるばかりだった。
ところで、一見なんの意味もないように思えるこの一連の流れには、しかし大きな意味があった。
賽銭箱から順哉を遠退け、三脚からスマホを外させた。
これで実質、生配信を止めたようなものだ。
そこまで計算して朱音がスマホを食べたのかどうかまではわからない。偶然こうなっただけという可能性もある。ただ、事態が好転したのは確かだ。
「さぁて、ここらでもう一クレイジーかましますかァ」
ここで手を緩める朱音ではない。
「ま、まだ続くの……?」
「当たり前だろ。ここからが本番だぜ?」
おもむろに、朱音がその場にうずくまった。
膝を抱え、背中を丸め、極限までコンパクトになったその体勢で、朱音は言い放つ。
「アルマジロ……!」
「うそだッ!」
順哉は膝から崩れ落ちた。
「そんな……スマホを食べたあとにアルマジロの真似……? 難易度のバランスがおかしいよ……それは誰でもできるよ……」
「どうだ、逆にクレイジーだろ? 逆にな」
「頭おかしいよ、お姉ちゃん……。で、でも、それくらいなら僕もできるぞッ!」
朱音と張り合うように、順哉は同じように体を丸め、叫んだ。
「アルマジロッ!」
ニヤリ! と朱音が口元を歪める。
「おいおい、いいのか? 二番煎じなんて、この世で最もクレイジーからかけ離れた行為だぜ?」
「うわああああっ!」
そう、パクることなら誰にでもできる。
己の犯した重大なミスを自覚し、順哉は叫びながら跳び上がった。
「まあ落ち着けよ。なんか食うか?」
朱音は再び立ち上がり、ポケットをごそごそと探る。
「あった、ビーフシチュー」
「ビーフシチュー!?」
ポケットから出てきた朱音の手のひらには、直に赤茶色の液体が乗っていた。
ジャガイモ、にんじん、牛肉、たまねぎ――具材のごろごろ入った、正真正銘のビーフシチューだ。美味しそう。
「なんで、ポケットの中からビーフシチューが……」
度重なるクレイジーに見舞われ、徐々に順哉は追い込まれているように見える。
しかし彼の目は、まだ負けを認めていない。
反撃が始まる。
「で、でも、そうだ! この他人のポケットから出てきたビーフシチューを躊躇なく食べれば……きっと僕もクレイジーだ! 間違いない! うおおおお! いただきます!」
順哉は果敢にも、朱音の手のひらにのったビーフシチューに飛び込んでいった。
だが!
「あつッ! なんで!? アッツアツ! できたてだよッ! ジューシィ!」
朱音のポケットから出てきたビーフシチューの温度は、できたてのそれだった。
あつあつ、できたて、めしあがれ。
よく見れば、そのビーフシチューからはゆらゆらと湯気が立ち込め、辺りにはドミグラスソースの芳醇な香りが漂っている。美味しい。
順哉は恐る恐る尋ねる。
「ど、どうしてポケットの中のビーフシチューが、こんなにアツアツなの……?」
「体温で温めた」
「クレイジー!」
ついに順哉は認めた。朱音がクレイジーであることを。
「体温が何度あればこんなに保温されるの!? お姉ちゃんの体どうなってんの!? メチャクチャだよ!」
メチャクチャ。
その順哉のコメントは正しい。
朱音と春心はギャグ漫画のボツキャラクターなのだ。
良くも悪くも、純粋な人間ではない。
ファンタジー出身のルシアが魔法を使えるように、SF出身のしづくが機械の身体を持っているように、ギャグ出身の朱音と春心もまた、不思議な力をその身に宿している。
まず第一に、彼女たちの身体は異常に丈夫だ。
ギャグ漫画のキャラクターは、大爆発に巻き込まれても髪型がアフロになるだけで済んだり、大ケガをしても“次の回”には完治していたりする。
朱音と春心が空から落ちて怪我をしないのも、それと同じような理由だ。
そして第二に、彼女たちはギャグ漫画のノリを一時的に現実世界に持ち込むことができる。
常識では考えられない、突飛で不条理な現象が平然と巻き起こる空間――通称、ギャグの空間――を、彼女たちは身の周りの狭い範囲に限ってのみ展開することができるのだ。
特に“ボケ”の朱音が使用するギャグの空間は非常に強力で、スマホを食べる、ポケットからビーフシチューを出す程度のことなら、造作もなくおこなえる。
もしも本気で朱音がボケた場合、それを止めることができるのは“ツッコミ”の春心だけだ。
しかしその春心はいま、ツッコミを放棄している。
もうこの場に、朱音の暴走を止められる人はいない。
「月が綺麗ですね、マジで」
夜空を見上げながら、朱音が呟いた。
「ここで一句、詠ませてもらうぜ」
この前蚊に刺されたところをかいていたら
保健の先生に言われたんだ
かくとよけいにかゆくなるよ
うるせえ ばか だまれ
人間は理屈で生きてんじゃねえ
あかね
順哉は震えた。
「え? お姉ちゃん、もしかしてそれ、俳句のつもりなの……?」
朱音は微笑みながら頷く。
「ザ・奥の細道って感じだろ?」
「松尾芭蕉に呪われるよ……」
「ヘヘッ」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
唐突に、地面が大きく揺れた。
地震――いや、揺れているのは地面だけではない。空が、そして世界が、なにかを恐れるかのように振動している。
どこからか聞こえてくる、獰猛な咆哮。やがて南榎神社の上空に、一体の巨大な生物が姿を現した。
銀色の鱗、銀色の翼。鋭い爪、牙。
そこに現れたのは、伝説上の生物――ドラゴンだった。
「おいでなすったか」
朱音はこの突飛な展開にまったく動じず、余裕の表情を見せる。その隣では、順哉があわあわと見るからにうろたえていた。
「お姉ちゃん、なにあの化物!?」
「あれはシリトリドラゴンだ」
「シ、シリトリドラゴン? ど、どういうことなの、お姉ちゃん……」
「いまの俳句がきっかけで目覚めたのさ。シリトリドラゴンがな」
「どういうことなの、お姉ちゃん!?」
空から、シリトリドラゴンが語りかけてくる。
【ニンゲン……我を目覚めさせたのはお前か……?】
朱音は堂々と答えた。
「そうだぜ」
【成程……】
シリトリドラゴンの大きな瞳が、正面から朱音の姿を捕えた。自分を目覚めさせたニンゲンの器を、見定めるかのように。
【フッ】
朱音のことを認めたのか、シリトリドラゴンは満足げに頷いた。
【いい俳句であった。おかげで千年ぶりに目が覚めたわ】
「そりゃ光栄ってなもんだぜ」
【しかし我を目覚めさせたということは……わかっておるな?】
「勝負、だろ?」
【そうだ。我が目覚めたとき、我と、我を目覚めさせた人間とで勝負をする。我が勝ったらこの世界を滅ぼす。我が負けたら、我は再び眠りにつく……そういうしきたりだ。お前は覚悟があるのか? 我と勝負する覚悟が】
「当たり前だ」
【素晴らしい】
勝っても負けても、お前のことは生涯覚えておこう。
威厳のある声で、シリトリドラゴンはそう言った。
【さて、さっそく勝負といこうではないか。勝負の内容は……“しりとり”だ……】
「そうくると思ったぜ」
【ほう? なぜそう思う】
「愚問だな。百人中百人が、しりとりだと思うはずだぜ」
【そうか、ニンゲンも侮れんな】
クックックと、シリトリドラゴンは上機嫌に笑った。千年ぶりのニンゲンとの会話が楽しいのかもしれない。
だけど、しきたりはしきたりだ。
無情にも、戦いは始まる。
朱音とシリトリドラゴンの、世界の存亡をかけたしりとり対決が。
【では、我からいくぞ】
先手、シリトリドラゴン。
【“エアコン”……】
「…………」
【…………】
「…………」
【…………】
「…………」
【…………】
「…………」
【強いッ……!】
シリトリドラゴンは悔しそうに呻いた。
【我の負けだ、ニンゲン。YOU WIN!】
「いや、お前も……強かったぜ……」
朱音は息を乱しながら、片膝をついた。
「ハァ、ハァ……こっちも、もうちょっとでやられてた……」
【この勝負、紙一重だったというわけか】
「ああ、もしも私が眼鏡をかけていたら、あるいは……結果は逆だったかもしれねえ」
【だが、勝ちは勝ちだ。約束通り、我は再び眠りにつこう。フッ、楽しかったぞ、ニンゲン】
「私も楽しかったぜ」
【さらばだ。アデュー!】
ドカーン!
シリトリドラゴンは、夜空を背に爆発四散した。
ドラゴンの身体の破片はやがて桜の花びらへと変わり、季節外れの夜桜を、南榎神社へと降らす。
「どうだ、綺麗なもんだろ」
ひらり、ひらり。
桜吹雪が舞う中、朱音は順哉に語りかけた。
「お前も賽銭箱にうんこなんかしてないでよ、この桜みたいな、美しい人間になれよ」
「お姉ちゃん……」
順哉は言った。
「ごめん、本当に意味わかんない……頭痛くなってきた……」
「ふとんがふっとんだ」
「でも、これだけはわかるよ」
「サイにまかせなサァイ!」
「お姉ちゃんは」
「ありに言うよ、ありがとう」
「本当にクレイジーだってこと」
順哉は呆れと諦めとが混じった、どこか投げやりな気味な笑みを浮かべた。
「オイラの、いや、僕の負けだ……」
「いいや、ナイスファイトだったぜ」
順哉の肩をぽんと叩く。
それから朱音は、ようやく春心に告げた。
「よーし、春心! もうツッコんでもいいぞ!」
「…………」
ようやく。
ようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやく――ツッコミの許可が下りた!
本来、春心はツッコミを我慢するのは得意ではない。彼女自身、今日は自分でも相当がんばったなという感触がある。
春心は考える。さて、いったいなにからツッコもう。
スマホ完食、アルマジロ。
ビーフシチューに、シリトリドラゴン。
桜吹雪と、最後のなんかめっちゃダジャレ連発してたやつ。
そのひとつひとつに、小一時間はツッコミをしていられる。
だけど、いまそんなことをしている時間はなさそうだ。
「えっと、じゃあ、言うけどさ」
だから春心はとりあえず、一言にまとめてみた。
「ねえ、どういう話? これ」




