ある夏の群青 6/9
親子で会話をする人のほうが多数派らしい、ということに気づいたのはいつごろだったろう。
僕が幼稚園生だったとき、同じ組の子が迎えに来た母親と喋っているのを見て、「○○くんの家族はなんて仲がいいんだろう」と思った記憶がほんのうっすら残っている。
けれど、これが小学一年生、二年生と学年が進んでいくうちに、どうも特別仲がよくなくても家族とは交流があるものなんだな、ということを察するようになった。
お母さんやお父さんとは用がなくても喋っていいんだ、ということを知った。
もしかしたら、いままでうちで会話がなかったのは、僕が話しかけなかったからなのかもしれない。
そう考えて、僕はなにかのきっかけになればいいなと、小学三年生の年の母の日に、家の近くで花を摘んでお母さんのところへ持っていった。そのときお母さんは「ありがとう」と言ってくれたけれど、その日の夜にはもう、花はゴミ箱に捨てられていた。「腐るとよくないから」ということらしい。僕はなんだかどっと疲れてしまって、その翌月の父の日にはなにもしなかった。気が楽になった。
小学四年生のとき、道徳の授業で先生が言った。
両親に感謝しましょう。
子供を育てるのはすごく大変なことなんだよと。毎日ご飯を作って、学校に通わせてくれるのはすごいことなんだよと。
僕の両親はそのどちらにも当てはまる。殴られたり、怒られたりしたこともない。だから、そっか、悪いのは僕のほうなんだなと思った。両親に感謝できないのは、僕の性格に問題があるからなんだなと、そう思った。
それで納得したつもりだったけれど、やっぱりちょっと辛くなって、家族のことが好きになれないことを担任の先生に相談したこともある。
先生は色々言ってくれた。でも一言で言えば「親の気持ちもよく考えて」というような話だった。そっか。
そのころから、なんだか家に帰るのが嫌になってきて、少しずつ外で過ごすことが増えてきた。幸い、何時に帰ってもあの人たちはなにも言ってこない。
僕は親との接しかたがわからない。お姉ちゃんとだけは昔喋っていた気がするけれど、いまはもう、そんなことはない。たぶん、避けられているんだと思う。
家族との接しかたがわからくても、外ではうまくやっている――はずもなく、僕は人間関係でうまくいったことがない。この人と仲良くなりたいな、と思った人に限って必ず距離を取られる。
だけど具体的に僕のなにがいけないのか、考えても考えてもわからない。なんかわからないけどうまくいかない。としか言いようがない。
僕みたいに勉強も運動もできないやつとは、仲良くなってもしょうがないんだと思う。
もう長いあいだ、息苦しい感じがする。
毎日毎日、空が少しずつ低くなってきて、いつか押しつぶされてしまうんじゃないかという気がする。
なんて言うと悲劇に酔っているみたいだけれど、別に僕は悲しんでいるわけではない。いいことだってある。
小学五年生になって、未國くんと同じクラスになった。
未國くんは少しやんちゃな人で、正直に言えば、僕は初め彼のことが嫌いだった。でもいまでは大事な友達だ。
ある日の全校集会で、未國くんが急に僕のズボンを下げてきた。ズボンだけならよかったんだけど、一緒にパンツまで脱げてしまって、静かな体育館に、悲鳴と笑い声が起こった。
すごく恥ずかしかった。
でも同時に、すごく嬉しかった。
僕の人生で、こんなに人に注目される瞬間があるとは思っていなかったから。
僕はその場でパンツを下げたまま走り回った。
すると学校のみんなが大騒ぎだ。先生も、生徒も、みんな。
ふと気づくと、未國くんが笑ってくれていた。
「お前、ほんと気持ち悪いな!」
あ、居場所ができたと思った。
なんだ、こういうことをすればみんな僕のことを見てくれるんだと、心からほっとした。
この日から僕は、クレイジーに生きることを決めた。
どうすればみんなから注目してもらえるのか、そのアイデアはいつも未國くんが出してくれた。
同級生が床にこぼした給食を食べてみたり。
裸でグラウンドを走ってみたり。
ライターの火にいつまで指を当てていられるか、というゲームをしたこともある。僕と未國くん、佐々木くん、野村くんの四人でやって、僕が一番になった。みんなが笑顔で僕のことを褒めてくれた。
僕がクレイジーなことをするようになってから先生に怒られることも増えたけど、未國くんたちが喜んでくれるならそれでよかった。
ある日、未國くんは僕に動画チャンネルを作ることを勧めてくれた。僕をもっとたくさんの人に見てもらえるようにって。
チャンネルを作るには十三歳以上じゃないといけないはずなんだけど、未國くんの友達のお兄ちゃんがうまくごまかす方法を教えてくれた。
僕が動画を投稿し始めると、未國くんも、その友達も、みんな喜んでくれた。大絶賛だ。
「お前、マジで頭おかしいんじゃねーの」
「炎上したらどうなんのか、今度教えてくれよ」
「警察に捕まんじゃね?」
「それウケんな」
でも、いい反応があったのは最初だけで、すぐに未國くんはつまらない顔をするようになった。
「おい上キモ内、お前もっと派手なことやれよ。飽きてきたわ」
怖くなった。
せっかくできた僕の居場所が、なくなっちゃう。
また一人になっちゃう。
それは嫌だ。絶対に嫌だ。
でも、どうしよう?
そうだ、もっとクレイジーなことをすればいいんだ。
そう、もっとクレイジーなことを……。
そして今日。
僕はこれから、賽銭箱にうんこをする。
どうかな、未國くんたちは笑ってくれるかな。
動画の視聴者数を確認すると、さっきまで二人しかいなかったのが、いまは十一人も見てくれている。きっと未國くんたちだ。
そろそろ始めなきゃ。
大丈夫、僕の居場所は、僕が守る。
僕は賽銭箱に乗って、ズボンに手をかけた。
そのときだった。
「ちょっと待ったぁ!」
「やめとけバカ!」
と、声がした。頭上から。
頭上?
この神社の周りには、高い建物なんてないはずなんだけれど……。
不思議に思いながら、僕は夜空を見上げた。
「って、ええっ!? なんで!?」
空からなにかが降ってくる。
そしてそれが人間だと気づいたときにはもう、地面に落下していた。
衝撃と共に、舞う土埃。
「人……なんで空から!? だ、大丈夫ですか!?」
大変だ! あんな高さから落ちてくるなんて!
そうだ、救急車を呼ばなきゃ! ええっと、電話は……あれ、電話がない!
ポケットに手を突っ込んでみたけど、スマホが見当たらない。いつも持ってるのに!
「……あ、そうだ、撮影に使ってたんだ!」
焦っているせいで、動画の生配信にスマホを使っているのを完全に忘れていた。
僕は賽銭箱から降りて、専用の三脚に立てられたスマホを取りにいこうとすると、
「朱音ちゃん、無事?」
「あったりぼーよ!」
「何語?」
土煙の中から女の人が二人出てきた。空から落ちてきたはずなのに、怪我ひとつしていない。
「え? お姉ちゃんたち……」
見覚えがあった。
今日公園にやってきて、僕のクレイジーを否定してきた、あのお姉ちゃんたちだ。
「なんで、どうしてここがわかったの……?」
「わかるぜ」
背の高いほうのお姉ちゃんが、にやりと笑った。
「私たちは、お前にとってのンナフみたいなもんだからな」
「ンナフ?」
なんだろう。
なにを言っているんだろう、このお姉ちゃんは。
頭がおかしいんじゃないのかと思った。
※
「私たちは、お前にとってのンナフみたいなもんだからな」
いや、ンナフってなんだ。なにを言っているんだろう。朱音ちゃんは。
春心はキメ顔をしている朱音の横顔を、じとっと見つめた。
いったいどこにキメ顔をする要素があったのか。なにをキメているのか。
まあ、いまはそんなことはどうでもいいや。
「なんとか間に合ったみたいだね、朱音ちゃん」
「みたいだな」
様子を見るに、まだ順哉は行動を起こしていない。
間一髪、間に合ったようだ。空からルシアに直接投下してもらったのは正解だった。
普通の人間なら死んでしまうような高さから落ちたけれど、春心も朱音も、空から落下した程度では怪我なんてしない。
「ねえきみ、もうやめようよ、こんなこと。これ以上は警察に捕まっちゃう」
春心は優しく、順哉に語りかけた。
「いまならまだ間に合うよ。今日はもう帰ろう、ね?」
「僕は……」
順哉はなにかを言いかけて、首を横に振った。
「いや、だめだ。だめなんだよ……。僕は、もう一人になるのは嫌なんだよ! 警察に捕まったっていいんだ! 僕はクレイジーだから! 気にしないんだ!」
叫びながら、順哉は再び賽銭箱に乗った。
「止めても無駄だよ! 僕は、オイラはッ! いまから賽銭箱にうんこをするんだ!」
「そんな! 待って!」
春心は慌てて走り出す。
しかしそれを、朱音が止めた。
「春心、ここは私に任せてくれ」
「朱音ちゃん……」
「話し合いで解決するなら、今日の夕方みたいなことにはなってねえ。同じことをしても繰り返すだけだ」
「でもっ!」
「安心しろ、考えならある」
朱音は不敵に笑う。
「毒を以て毒を制す……か。なあ春心、姉貴の言ってたことは、最初から正しかったのかもしれないぜ」
そして朱音は、順哉の顔を正面から見据えた。
「やめろ、お前のやってることはクレイジーなんかじゃねえ。春心も言ってたろ。お前がやってることは、誰もやれないことじゃない。誰もやらないだけだってな」
「な、なんなんだよ! オイラがクレイジーじゃないなら、なにがクレイジーなんだよ! そんなに偉そうに言うなら、じゃあ、お姉ちゃんがやってみせてよ! クレイジーなことを! できるんでしょ!?」
「いいぜ」
「えっ?」
「いまからお前に、本当のクレイジーってやつを見せてやるよ」
次の瞬間、朱音の口調が急に芝居がかったものへと変わった。
「あ~、腹減った腹減った! なにかねえかなぁ~? ……おっ、スマホがあるじゃねえか!」
朱音は自身の服のポケットからスマホを取り出して――かぶりついた。
まるでホットドッグでも食べるかのように易々とスマホを噛みちぎり、咀嚼し、飲み込む。
そして満面の笑み。
「やっぱりスマホはうめぇなァ!」
次回、クレイジー合戦。




