不良と魔法少女とアイツ 2/3
金髪のリーゼントの男が、ナイフを振り上げ迫ってくる。
メーベルは恐怖で身体がすくんでしまう――なんてことはなかった。むしろ不自然なほどに落ち着いてる。
ジョニーの動きが、スローモーションで見えた。メーベルから見て、ナイフは左上から右下に向かって振り下ろされようとしている。
左下にスペースがある――と、やはり不自然なほどに冷静に判断できた。小柄なメーベルなら、すれ違いながら潜り抜けることができるだろう。
実際、できた。メーベルはナイフをかわすと、その勢いのままトイレの出入口に向かって走りだす。
背後で物がぶつかる音がした。ジョニーが勢い余って、壁か洗面台にでも衝突したのだろう。まさか、獲物がこんなに機敏に攻撃をかわすとは思っていなかったのではないか。メーベル本人でさえ、こんな身のこなしができるなんて思っていなかったのだから。
メーベルはミステリーのボツキャラクターなのであって、バトルもののキャラクターとして生み出された存在ではない。だから、普通なら、こんな咄嗟に回避行動など取れるはずがないのだ。
もしも、メーベルがいま普通の状態ではないとするのなら、思い当たる要因は一つしかない。少し前、ユ・ハリムがこんなことを言っていた。
――あなた、土竜さま以外からも精神干渉を受けてるわよ。
――心が強くなると言うよりは、鈍感になるような類のまじないね。不安や恐怖に対して鈍くなると言ったらいいのかしら。あからさまな実害はないから、悪意をもってかけられたものではないと思うけど。
誰かが、メーベルに、不安や恐怖に対して鈍くなる魔法だかまじないだかをかけている。おそらく嶺ヶ原だろうが、この際、誰がやったのかはどうでもいい。大事なのは、その効果が、てきめんに現れているということだ。
突然、刃物を持った男性に襲われて、冷静な判断なんてできるわけがない。しかしいまのメーベルには、一定以上の恐怖を感じた瞬間、まるでブレーカーが落ちるかのごとく、急激に頭が落ち着きを取り戻すような、そんな感覚があった。
そのおかげで、迷いなく決断を下せる。
(ここは逃げる一択です!)
ジョニーと正面からやりあって勝てる見込みはない。メーベルは一秒も足を止めずに走り続ける。
トイレを出てすぐ、最初に見えた曲がり角を曲がった。どこかへ行くあてがあるわけではない。そもそも、この古城の内部構造を把握していないのだ。
メーベルの目的は、曲がり角を曲がることそのものだった。
小柄なメーベルと、大柄なジョニーとでは、直線勝負になった場合、体力的にも歩幅的にも勝ち目はない。
だから、曲がり角をなるべく曲がることで、ジョニーの視界に入らない時間を少しでも増やすのが、メーベルにできるせめてもの抵抗だった。
追いかける相手の姿が見えているのであれば、そこに向かって全力で走るだけだが、追いかける相手が視界の外にいるとなれば、必ず『あいつはどこへ行った?』と考える間が生まれる。たとえば、曲がり角が左右二手に分かれている場合、追いかける側は、逃走者が右と左のどちらへ逃げたのか、ほんの一瞬でも考えなければならない。
そのほんの一瞬の時間を積み重ねることが、小柄な女子が、大男から逃げきるための時間を稼ぐ数少ない手段だと、メーベルは判断した。少なくとも、小細工なしで勝てる相手ではない。
(追いかけられている最中だというのに、自分でも怖いくらいに冷静に考えられますね)
やはり、不安や恐怖に対して鈍くなるという魔法の効果は本物なのだろう。
メーベルは、曲がり角を見つけては曲がるという行動を繰り返す。身体が小さいために小回りが利くのが、ジョニーに唯一勝っている点だ。
背後を一瞬だけ確認したが、いまのところ、ジョニーの姿は見えない。だが、追いかけてくる足音は絶えず聞こえるし、逆に、メーベルの足音だって相手に聞こえているはずだ。
困ったことに、古城の中には人の気配がまったく感じられない。それゆえに生活音が無く、とにかく足音が目立つ。全力で走って逃げている以上、足音は消せないわけで、このままではどれだけ逃げても、音で居場所がバレてしまう。
(なら……この音を利用しましょう)
メーベルが次の曲がり角を曲がると、木製の扉が左右の壁沿いに並んでいる、細長い廊下に出た。扉はところどころ半開きになっていて、鍵はかかっていないようだ。
そのうちの扉の一つを、廊下側からわざと大きな音を立てて閉める。そしてメーベルは、すぐ隣の、半開きになっている扉の部屋へ身を滑り込ませた。
紙一重の時間差で、ジョニーの足音が近づいてくる。やがてそれは、メーベルが隠れている部屋のすぐ外の廊下で止まった。
メーベルの足音が止んでいる時点で、走るのをやめて身を隠していることは、おそらく追跡者に伝わっている。だからこそ、あえて大きな音を立てて、隣の部屋の扉を閉めておいたのだ。
追いかける側の立場からすると、扉を閉める音が聞こえて、実際に扉が閉まっているとなれば、そこを調べないという選択肢はない。どれだけあからさまな罠に見えたとしても、その部屋を放置して、わざわざほかの部屋から探索を始めるなんて、まずありえないと言ってもいい。
メーベルの思惑通り、ジョニーは隣の部屋の中へ入ったようだ。
「逃げないでくれよォ……。本当にお前がそんなことを言うのか、確かめないと気が済まねえんだ……。お前はどうして、そんなことを言うんだ? 教えてくれよォ……」
不気味な一人言と、物を動かすような音が聞こえてくる。彼がなにを言っているのか、どうして初対面のときと別人のようになっているのか、まったく理解できないが、そこを考察している余裕はない。
ジョニーが隣の部屋を調べている隙に、メーベルはこっそり廊下へ出た。そして足音を立てないように、ゆっくりと移動する。
十数メートル先に、直角に折れた曲がり角がある。そこさえ曲がりきれれば、一安心だ。
見つかるリスクがもっとも高いのは、いまこの瞬間。廊下に遮蔽物などないので、ジョニーが少しでも廊下を覗けば、それだけで終わりだ。
部屋から出てくるな、廊下にいることに気づくな――そう願いながら、少しずつ歩を進める。
ジョニーが部屋から出てくる様子はない。メーベルが曲がり角に到達するまで、あと数歩。
いける。逃げきれる。
そんな確信が芽生えた瞬間、ふと、遠くから叫び声が聞こえてきた。
断末魔だ――メーベルはなぜだか、理由もなくそう思った。
気づいたときには、メーベルはその叫び声に共鳴するように大声を出していた。思わず、口を両手で押さえる。
(なんで……いま……私、声を……)
当然だが、声を出すつもりなんてまったくなかった。こんな、逃走している最中に、大声なんて出そうとするわけがない。自分の居場所を、相手に教えるようなものだ。そんなこと、わかりきっていることなのに……勝手に、声が出た。
「頼むからよォ……能力を使わせないでくれよォ……。俺ッチの能力はうるせえからよォ、肝心のお前の声を聞き逃しちまうかもしれねえじゃねえか……。そうなったら、俺ッチは気になって気になって、一生眠れねえよォ……」
ジョニーが薄い笑みを浮かべながら、廊下へ姿を現す。その見開かれた両目が、メーベルだけを見据えている。
「なあ、お前はなんでそんなことを言うんだ……? 本当に言うのか? どうしてそうなるんだ……? なあ、教えてくれよォ……」
その不可解な言葉を最後まで聞き届けることなく、メーベルは全力で走りだした。なにを言っているのかわからないやつと、まともに会話をしようとするだけ無駄だ。
不安や恐怖に対して鈍くなる魔法の効果は、どうやらしっかりと持続しているようで、メーベルはいまもなお、冷静な思考を保てている。
だからこそ、わかってしまう。
――もう、逃げきれないかもしれない。
どれだけメンタルが強化されていようが、肉体はいつもとなにも変わらない。日頃から運動をするようなタイプではないメーベルには、持久力がまったくないのだ。長期戦になればなるほど、基礎体力の差で、ジョニーに追いつかれてしまうだろう。
そして体力はすでに、限界に近づいていた。こんなことなら、日常的に身体を動かす癖をつけておくべきだった。
足音が、背後から迫ってくる。そう遠くないうちに、追いつかれてしまうだろう。
殺されてしまうかもしれない――そんな陰惨な考えが脳裏をよぎっても、魔法のせいで、不安や恐怖をあまり感じないのが気持ち悪かった。
『次の曲がり角を、右ですよォ……』
唐突に、メーベルの耳元で声がした。男の声だ。
しかし隣を見ても誰もいない。幻聴かと思ったが、その声が再び語りかけてきた。
『次の曲がり角を右、その次は左です……助かりたかったら、言うことを聞いてくださいェ……』
怪しすぎる。罠かもしれない。あえて逆の方向に行くべきだろうか?
その声を信じるか、信じないか、一瞬だけ考えて、メーベルは……。
「わかりました! 信じますからね!」
言われた通り、曲がり角を右に曲がる。だが状況が好転する気配はない。
ジョニーの荒れた息遣いが、足音が、すぐ後ろから聞こえる。
「本当に助かるんでしょうね!」
メーベルはやけくそ気味に叫びながら、最後の力を振り絞り、次の曲がり角を左に曲がる。
そこにいたのは、ユ・ハリムだった。
彼女は驚いたように目を丸くしたが、すぐに険しい顔つきに変わる。一瞬で状況を察したようだった。
「バカっ! なにやってんのよ!」
ユ・ハリムは、機敏かつ、力強い動きでメーベルとジョニーのあいだに割り込み、顔の高さの回し蹴りを放つ。魔法少女のような格好をしているので、肉体派ではない印象を受けたが、全然そんなことはなかった。
ジョニーはメーベルのことしか眼中になかったのか、蹴りをまともに顔面に受け、派手な音と共に床に倒れた。ユ・ハリムは間髪入れずにジョニーを踏みつけて押さえ、魔法のステッキを突きつける。
「なにやってんの、あんた」
「い、いやァ……気になっちまってさァ……」
「それで? 殺すつもり? いつもみたいに?」
「俺ッチだって、殺したいわけじゃねえんだよ……。でも、あんなの見ちまったら、気になるじゃねえか……。なんであの子は、あんなこと言うんだよォ?」
「早く、ここから去りなさい」
「どうしてあの子をかばう?」
「さっきまで、こんな場所に子供が迷い込んで気の毒だから、逃がしてあげようって話をしてたじゃないの。それをひっくり返して、急に殺すって言うの? そっちのほうが気の毒でしょ」
「でも、でもよ、いいじゃねえか。ここで殺したって、問題になんかなりゃしね――」
「いいから、早く行きなさい! お願いだから、私に魔法を使わせないでよね。いろいろと、恥ずかしいんだから」
ユ・ハリムが、眼下の男の顔めがけて、ステッキをより近づけていく。
ジョニーが荒い息遣いで、唸り声を上げながら、リーゼントをかきむしりだした。やがて彼は、力無く呟く。
「ああ、悪かったよ。止めてくれて、ありがとな」
それから、メーベルに言った。
「急に追いかけ回して悪かった。すまねえ。もう二度と、こんなことはしねえ。約束する」
そう語る男の目にはギラついた光が宿っていて、とてもではないが、なにかを諦めた男のそれには見えなかった。
※
それから二十分後。メーベルはユ・ハリムに連れられて、城の応接室のようなところへ来ていた。
お洒落なカフェのような部屋だ――と思ったのは、テーブルの上に紅茶と菓子が並べられているから、というのもあるだろう。
「安心して。あいつはもうこの城にはいないから。恐い目に遭わせて、ごめんなさい」
「いえ、助けてくださって、ありがとうございました」
メーベルは、出されたストレートティーに口をつける。濃すぎず、優しくてほっとするような味わいだった。
一息ついたところで、話を切り出す。
「どうして私は襲われたんですか? 最初にあのジョニーって人に会ったときは、そんなに恐い人には見えなかったのですが」
テーブルを挟んで対面に座っているユ・ハリムが、どこか物憂げに答えた。
「あいつは、いわゆるシリアルキラーなの」
「殺人鬼……ってことですか」
ジョニーもまた、“意味されるもの”の構成員なのだとしたら……彼は、殺人鬼の記号ということになるのだろうか。
「でも、擁護するわけじゃないけど、ジョニーは、人を苦しめることが趣味なわけじゃないし、殺しに快楽を感じてるタイプでもないわ。殺したくて殺してるわけじゃないとは思う」
「じゃあ、どうして……」
「あいつ、生まれつき『その人が死に際になにを言うか』がわかるんだって」
その説明の意味が、よくわからない。
「どういうことですか?」
「たとえば、人が一人立っているとするでしょ? そして、その場でその人が死んだ場合、最期にどんな言葉を残して死ぬのか……その最期の言葉が、生前からずっと頭の上に見えてるんですって」
「言葉が、頭の上に? 文字かなにかが見えてるんですか?」
「そう。ジョニーには、この世の全員の頭の上に、その人の『死に際の言葉』が浮かんで見えているみたいなの」
「それは……」
それはなんとも、奇怪な話だ。不良漫画に出てきそうな、あのリーゼントの男の目には、この世界がどう映っているのだろう。
「本人から聞いた話だけど、死に際の言葉って、みんなだいたい似たようなものらしいのよね。恐怖や苦痛を訴えるとか、支離滅裂なことを言うとか、大事な人の名前を叫ぶとか、家族への感謝とか、だいたいそんなものみたい。死に際の言葉に個性なんて出ない。あいつはそう言ってたわ」
でもね――と、ユ・ハリムは付け加える。
「ごく一部に、頭上に浮かんでいる最期の言葉が、おかしい人がいるんだって」
ゾクリ、と。輪郭の無いなにかに、背筋を撫でられたような、そんな感覚がした。
「おかしい……? おかしいって、なんですか? 支離滅裂なことを言い残す人と、なにが違うんです?」
「私にはわからない。けど、ジョニーは一目で違いがわかるって言ってたわ。支離滅裂ではない、だけど、どう考えたってあの最期の言葉はおかしい――そんな人間が、この世にいる大勢の人の中に、紛れ込んでるんだって」
おかしいとはなんだ。一目で違いがわかるとは、どういうことか。死に際に、それほどまでに奇妙なことを言う人間なんて、本当にいるのだろうか?
「ジョニーは、そういう人を見ると、気になっちゃうみたいなのよ。なんであの人は死に際にそんなことを言うんだろう。言うとしたら、どんな流れで? そもそも、本当に言うのか。なにかの間違いではないのか。確かめてみたい。……そんな考えが一度でも巡りだすと、止まらなくなってしまって、気になって、気になって、気になって、気になって、それで――」
ユ・ハリムは、そこから先の言葉を続けなかった。
もしも、いま聞いた話が本当なのだとしたら、ジョニーは、メーベルの頭上になにを見たのだろう。
どんな言葉が、映っていたのだろう。
メーベルは視線を落とす。ティーカップの水面に、自分の顔が反射することを期待したが、そこにはなにも映らなかった。
もっとも、顔が映ったところで、自分自身の最期の言葉など、見えるはずもなかったが。




