“協会幹部” 3/3
嶺ヶ原に連れてこられたのは、荘厳な雰囲気の二階建ての洋館だった。まるで推理小説で起こる殺人事件の舞台になりそうな館だと、メーベルは少し不謹慎なことを思う。
「ここは、土地だけはやたらと余っておってな。それならばと、若いころに大きな家を建てたものだが……正直、いまとなっては持て余しておるよ」
苦笑する嶺ヶ原に案内され、玄関の扉をくぐる。
外観からの印象に違わぬ、創作の中でしかなかなか見ないような、立派な玄関ホールだった。木材の温もりを生かしつつも、格式が同居するような空間。天井は高く、大きなシャンデリアが吊り下げられている。白く塗られた壁と対照的な真紅のカーペットが、正面の大階段へ向かってまっすぐ伸びていた。
その大階段の脇から、三十代ほどの黒服を着た使用人らしき男性が姿を現す。
嶺ヶ原は彼を一瞥し、「下がってよろしい。これから客人と、大事な話をする」と告げた。
使用人らしき人物はメーベルに一礼すると、館の奥へ引っ込んでいく。黒服を着ているから使用人かと思ったが、その割にはやたら体格がいい男性だった。もしかしたら、ボディガードだったのかもしれない。
やがてメーベルが通されたのは、四、五人入ってしまえば、それだけで手狭になってしまうような、小さな応接室だった。一般的な感覚で言えば、特に狭い部屋ではないけれど、このスケールの大きな館の中にしては、ずいぶん控えめな印象を受ける。
(まあ、これくらいの広さのほうが落ち着きますけど)
メーベルは嶺ヶ原と向かい合うようにして、ソファに腰を下ろす。テーブルの上には、湯気が立っている淹れたてのコーヒー。その横にはミルクと砂糖。クッキーのような焼き菓子も置いてあった。
ふと、違和感を覚える。このコーヒーはいつ淹れたのだろう。メーベルはこの館を訪れたばかりで、しかも予定外の訪問だ。熱々のコーヒーを用意する暇なんて、なかったように思えるが……。
ミステリーのキャラとしての性で、細かいことが気になってしまうメーベルだったが、その疑問が解決されることはなかった。嶺ヶ原が、さっそく本題に入ったからだ。
「さて、前置きはなしだ。率直に言おう。儂は、赤雲の土竜の会に潜入するのは、堂島花男ではなく、きみのほうがいいと考えている」
その発言に、メーベルはどう反応していいかわからなかった。確かに楓の救出活動に関わりたいと思ってはいたが、かと言って、『自分が選ばれた! うわーい!』と両手を上げて喜ぶという話でもない。
「どうして私なんですか?」
と、メーベルは疑問を投げかける。
「堂島花男というのは、悪くない人選だ。しかし、見逃せない欠点があろう。堂島は天児と因縁がある。因縁があるということは、向こうに顔が割れているということだ。そんな人間が、どうやって目立たずに潜入できると言うのかの」
「ああ……それは確かにそうですね」
「無論、ほかの幹部たちも阿呆ではない。それについての対策をしてから送り出すつもりだろうがの、やはり相手に正体を見破られたときのリスクを考えれば、無茶はできん。堂島のためにもな。その点、きみは天児や教団とはなんの接点もない」
いちおう、納得できる理由ではある。
しかし逆を言えば、『メーベルは教団となんの接点もない』というだけのことでしかない。
「私よりも適正のある人なんていくらでもいそうなものです。それなのに、私に頼むというのは……協会が人手不足なのは、本当みたいですね」
「人手不足と言ったのは玉ノ緒か? 確かにそれは否定できんが、たとえ身内相手でも、組織の弱みを見せるのはよくないな」
嶺ケ原はそうぼやき、小さく息を吐いた。
「警察と協力するのはだめなんですか? 警察だって、教団を追っていると聞きましたが」
メーベルは、なにがなんでも自分が潜入に行くべきだとは思っていない。楓を助けられる確率が少しでも上がるのなら、どんな人選だっていい。
たとえば、素人のメーベルが行くよりも、協会と警察が手を組んで、公安のエリートを潜入させたほうが、よっぽど上手くいくだろう。
ところが嶺ヶ原は、どこか含みのある、苦い笑みを浮かべた。
「それは難しい話だ」
「どうしてですか」
「ここから先は、大人の嫌な政治の話だ。きみはまだ知らないほうがいい――と、言いたいところだが、少し話そうか。まず、この協会の本部がなぜ空に浮いているか、知っているかの」
なぜ協会関東本部が空に浮いているのか。
メーベルは以前、テーコクからその理由を聞いたことがある。たしか――
「政府と距離を置くため、ですか?」
「その通り。我々協会の中には、特異な力を持っている者も少なくない。そんな能力者たちが、かつて国に利用されたという過去があるのだ。戦争に駆り出され、死亡した者もいたらしい。儂よりもさらに上の世代の話だがな」
そんな歴史は、繰り返してはならんだろう――と、嶺ヶ原は言う。
「我々のような少数派に属する人間というのは、立ち回りが難しい。脅威と見なされれば滅ぼされてしまうし、与やすしと見られれば、利用されてしまう。国とは付かず離れずの距離を置く――それが、我らが先人たちの導き出した結論だった。協会の本部が空に浮いているというのは、その表れだな」
協会関東本部。空に浮かぶ森。
行きかたを知らなければ辿り着くことはできないし、たとえ行きかたを知っていたとしても、協会側に拒否されれば、途端に辿り着くのが困難になってしまう。
「それゆえ、国家権力である警察と協力するというのは、そう簡単な話ではないのだ。奴らに借りは作れん。貸しを作るくらいでないとの。……くだらない大人同士の駆け引きだと思うか? しかしそのくだらない駆け引きが、我々の存亡に関わってくるのだ」
メーベルはだんだん、この嶺ヶ原康晴という人物が、協会の中でどのような立ち位置にいるのかがわかってきた。
同じ幹部のテーコクは、理想や善性で動いているところがある。しかし嶺ヶ原はその真逆だ。
組織を守り、存続させていくには、理想だけではどうにもならないこともあるだろう。そんな、協会の極めて“実務的”な側面を取り仕切っているのが、いまメーベルと相対している老人なのだ。
「ところで、儂からも質問していいかの」
「はい。なんでしょう」
「失礼ながら……その……極めて繊細な話をすることを、まず謝罪しておかねばなるまい。しかし、潜入任務において、誤算があってはならぬゆえ、これは、確かめなばならぬことで……」
これまでの威厳はどこへ行ってしまったのだろう。嶺ヶ原の口調がたどたどしい。穏やかな中にも、常に険しさを孕んでいた彼の表情に、初めて戸惑いのようなものが見て取れた。
そんな態度を取られると、メーベルも身構えてしまう。いったいなにを質問されるのだろう。
「大変失礼ながら……性別を伺っても差し支えないだろうか。きみは、女性と考えてよろしいのかね……?」
「え? は、はい……女ですけど……」
結構ショックだった。私ってそんなに女らしくないですかと落ち込みかけたが、嶺ヶ原がなぜそんな質問をしてきたのか、すぐに合点がいった。
メーベルの名前だ。
メーベル・ベルナール・レオンハルト。
レオンハルトは明らかに、男の名前だ。
女性名と男性名が混在しているメーベルが、いったいどちらの性別なのか、嶺ヶ原には確信が持てなかったのだろう。
なお、見た目で判断するのはあまり意味がない。外見は完全に女性なのに、実は男性だというキャラクターなんて、いまどき珍しくもないからだ。キャラクターは、外見だけではわからないことも多い。
「すまない。このような問いは苦手でな。どう切り出せば角が立たぬものか、まるで心得ておらん。女性への口の利きかたがなっていないと、若いころはよく叱られたものだが……結局、この歳まで直らなんだ」
嶺ヶ原は、自分に呆れたように笑う。
協会の重鎮としてではない、彼個人の私的な表情を垣間見た気がした。
「いえ、気にしないでください。私も、ずっと不思議に思ってるんですよ。なんで自分の名前に男性名が入っているのかなって。“作者”に確認を取ることはもうできませんから、答えはおそらく一生わかりません。それでも自分なりに、こういうことなんじゃないのかなって、推測してみたことはあるんです」
「ほう。それは、どのような推測かな?」
意外にも、嶺ヶ原は興味深そうに尋ねてくる。
それは単なるリップサービスだったのかもしれなかったが、メーベルは続きを話すことにした。もったいぶるようなことでもない。
「探偵名……だったのかもしれません。レオンハルトというのは、本名じゃなくて、探偵として名乗る用の名前だったんじゃないかって、私は思ってるんですよ」
「探偵としての名前……か」
「私って、まあ、どう見ても子供ですよね。同年代の中でも背は小さいですし。私が本来、どんな世界観に登場する予定のキャラクターだったのかは、もうわかりません。作者に確認しようがないですから。だけど、どの国のどの時代が舞台になろうと、私みたいな子供が探偵をやっていたら、まず間違いなくナメられます。だから、せめて名前だけでも格好がつくように、探偵としては『レオンハルト』を名乗る……そういうキャラクターになる予定だったんじゃないかって、私は思うんですよね」
数々の難事件を解決してきたという名探偵、レオンハルト。しかし彼は秘密主義者で、依頼人の前にすらなかなか姿を現さない。そんな彼の正体は、実はメーベルという少女で――なんて、そんな物語が存在する未来もあったのかもしれない。
しかしどんなに想像したところで、なんの意味もない。メーベルは結果的にボツキャラクターになってしまったのだから。
彼女が本来、どんな物語のキャラクターになる予定だったのか。それを知る術は、もうどこにも残されていない。
「なるほど。いい名前だ」
嶺ヶ原はそう呟くと、しばらく間を置いてから、再び口を開いた。
「きみ、将棋は好きかね」
急に話が変わったことにメーベルは戸惑ったが、無言のままでいるわけにもいかず、「ルールくらいなら知ってますが」と答えた。
実は、メーベルよりも朱音のほうが将棋好きだったりする。
「あれはよくできたゲームだ。心打たれるところは多々あるが、なかでも感服せざるをえぬのは、一枚たりとて、無用の駒がないという点だ。歩という駒は、将棋の中でもっとも弱い。だが弱いがゆえに、強いのだ。たった一枚の歩が足りぬばかりに敗れることなど、そう珍しくもない。歩は、けしてほかの駒の下位にあらず」
弱いがゆえに、強い。わかるような、わからないような。将棋に詳しい人が聞けば、もっと意味が深くわかるのだろうか。
「きみは先ほどこう言ったな。どの国のどの時代が舞台になろうと、私みたいな子供が探偵をやっていたら、まず間違いなくナメられる――と。それを弱さと捉えることはできよう。しかし潜入という任務においては、きみの弱さは、強さに反転する」
嶺ヶ原がじっと、メーベルの目をまっすぐに見据える。
そして重みを含んだ沈黙ののち、こう言った。
「メーベルよ。儂は、改めてきみに、赤雲の土竜の会への潜入を頼みたい。行ってくれるか」
「…………」
「もちろん、できぬことを押しつけるつもりはない。きみに託すのは、ただ一つ――教団の拠点の位置を特定すること、それのみだ。拠点の在り処さえ判明すれば、その後の手立ては、儂がすべて請け負う」
戦わなくていい。高度な頭脳戦も、おそらくいらない。無邪気な子供のふりをして教団に潜入し、その場所を報告するだけ。それだけなら、メーベルにだって、現実的に充分できそうなことのように思える。
それで楓が助かる可能性が上がるのなら、やる価値はあるのではないか?
ほかにできる人がいないのなら、自分がやるしかないのではないか?
迷っている暇はない。
やります――と返事をしようとしたそのときだった。メーベルの脳裏に、高崎家のみんなの顔が浮かんだ。
楓がいなくなってから、不安に押し潰されそうな日々が続いている。
もしメーベルが教団に潜入なんてしたら、それと同じだけの心配を、高崎家のみんなにかけてしまうのではないか?
特に高崎は、かつて夫と子供を事故で亡くしている。メーベルにもしものことがあった場合、身近な人間が突然いなくなる恐怖を、再び高崎に植え付けてしまうのではないか?
「心配ない」
嶺ヶ原の声が、メーベルの思考を中断させる。
「大事な先輩を、助けたいのだろう?」
なんだかその声は、鼓膜を通さずに、直接脳の奥に届いてくるような、不思議な響きがあった。
唐突に、メーベルの中のあらゆる不安と恐怖心が、“なぜか”消え去った。まるでそんな感情など、最初からなかったかのように。
メーベルの心に残ったのは、楓を必ず助けるのだという、勇ましい気持ちだけだった。
「わかりました。やります」
※
協会を出てから檸文高校に戻ってきたのは、完全下校時刻である十九時直前だった。
すっかり日が暮れた校舎の中でも特に薄暗い文化部棟の裏へ、メーベルは急いで向かう。目的地は、少し前まで【絶対に花が咲かない花壇】があった場所だ。
赤雲の土竜の会の本拠地はわかっていないのに、彼らとコンタクトを取ること自体は簡単らしい。
嶺ヶ原曰く、方法はいくつかあるようだが、メーベルがいま、もっとも手っ取り早くおこなえる手段は、【絶対に花が咲かない花壇】があった場所に、教団へ入りたい旨の手紙を埋めることだそうだ。
この花壇(があった場所)に願いごとを書いた紙を埋めれば、土竜さまが叶えてくれる――そんな噂が、少し前から檸文高校の中で流行ってしまっている。
つまりここはいま、土竜さまにメッセージを送れるスポットと化しているのだ。
メーベルはスコップで掘った穴の中に手紙を入れ、そこに土を被せていく。
「やっぱり、ここに戻ってくると思ったよ」
背後から、突然声をかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは、謎部部長・青柳植人だった。
「部長……どうしてここへ……?」
「平間くんがここに紙を埋めたって話をした途端に、きみが血相を変えて急にどこかへ行ったからね。なにかに気づいたんじゃないかって思ったんだよ。それで、きっとここに戻ってくるだろうから、待ち伏せをしてたんだ」
「さすがに、察しがいいですね」
「見てたよ、ベルナールくん。きみもなにかを埋めたね。その行為にどんな意味があるんだい? きみは、なにに気づいたんだ」
「…………」
「僕だって、平間くんが心配なんだ。なにかわかったことがあるのなら、教えてほしい」
「それは……」
事情を話そうとして、メーベルは固まってしまう。
なにから説明すればいい?
青柳はまず、メーベルが記号という特殊な出自の人間だということからして知らない。そしてこの世には、さまざまな超常現象が実在するということも、もちろん知らない。
そんな人に、突然すべてを一から説明しようとしたって、信じてもらえるわけがない。頭がおかしくなったと思われるのが普通だ。
「すいません。説明しても信じてもらえないと思いますが……楓先輩は、とある宗教団体に、連れていかれたのかもしれないんです。私はこれから、その教団に探りを入れてきます」
なんとか言葉を絞り出したが、まったく説明になっていないことは自覚している。青柳も怪訝そうに眉をひそめるばかりだ。
部長だって、楓のことを心配しているのは痛いほどよくわかる。できることなら、ちゃんと事情を説明してあげたい。
しかし、適切な言葉が見つからない。
重苦しい沈黙が十秒ほど続いたそのとき、メーベルの視界の隅に、突如黒い人影が滲み出てきた。
それがどこまでいっても、輪郭が不明瞭な黒い靄にしか見えないのは、照明の問題ではないらしい。メーベルが目をこらし、ピントを合わせようとすればするほどに像がぼやけていく奇妙な存在が、そこにいた。
その人影は、男なのか女なのかもわからない声で言った。
『あなたも、地の声に呼ばれたようですね。我ら、赤雲の土竜の会に入信希望とのことですが……間違いありませんか?』
予想していたよりも、教団からの接触が早い。
だが、不都合はない。これが潜入の第一歩だ。
「はい」
メーベルが頷くと、人影は満足そうに笑った――気がした。
『素晴らしい。それではあなたを、苦しみのない地下世界へお連れしましょう。土竜さまの加護の下、永遠の幸福を、享受するのです。もぐもぐ~』
「僕も、連れていってくれませんか」
と、青柳が会話に入ってきた。
メーベルは驚き、青柳のほうを見るが、彼はただ無言のまま、強い眼差しでメーベルのほうを見つめ返してくるだけだった。
なにも言わないでくれ――視線がそう語っている。
『もちろんですとも、もちろんですとも! 幸福とは、分かち合うものです! さあ参りましょう、我々の理想郷へ!』
奇妙な人影が、歌い上げるように言った。
次の瞬間、メーベルの視界が揺らぎ始める。意識は朦朧とし、周囲の音が次第に遠ざかっていく。
なにか、“神々しいもの”が近づいてくる気配がした。
それはメーベルの目と鼻の先まで接近してくると、顔をすり抜け、脳のあたりで止まった。“匂いをかがれている”と、なぜか直感的にそう思った。
聞いたことのない獣のような遠吠えが、どこかで鳴った気がする。
※
気づいたとき、メーベルは知らない部屋の中にいた。天井が高いこと以外、部屋の特徴は掴めなかった。
なぜ天井の高さ以外のことがわからないのか。それは、メーベルの周囲を、満面の笑みを浮かべた人々が取り囲んでいるからだ。
その中の誰かが言った。
「楽園へようこそ」
あるいは、「地獄へようこそ」と言ったのかもしれなかったが、真相はわからない。