檸文高校のネオ七不思議 3/?
ネオベートーヴェンにまつわる珍妙な体験をしたあと、メーベルと平間は一緒に下校していた。
「先輩はどう思います? さっきの……」
「人が消えるわけがないんだから、なにか仕組みがあるんだと思う。地学実験室のどこかにスピーカーが仕掛けてあって、そこから音を流していた。だから、最初から人なんていなかった。そう考えるのが自然だと思うけれど――」
しかし、スピーカーらしきものは見つからなかった。地学実験室は物が少ない上によく整頓されているので、隠せる場所は限られているはずなのに。
もちろん、完全下校時刻が迫ってきている中だったので、完璧に隅々まで調べられたとは言えないし、もしも超小型のスピーカーが想像もつかない場所に巧妙に仕込まれていたとしたら、時間があっても見つけるのは難しいだろう。
だから、地学実験室にスピーカーが隠されていた可能性は否定できない。ただ――
「私、地学実験室に入る直前に、人影を見たんですよね。中に誰かいた気がするんですけど」
「やっぱりメーベルも見たのね。私も見たわ。だから、正体を見逃さないようにすぐに扉を開けてやったつもりだったんだけれど」
「あれ、びっくりしましたよ。中に変な人がいるかもしれないのに、よく躊躇なく開けるなって」
「でも、誰もいなかった。どうしてかしらね」
メーベルは地学実験室の中に謎の人影を見た。そして平間も見たと言っている。二人が見たと言っているのだから、少なくともメーベルの思い込みではないだろう。
スピーカーが仕込まれていたのではなく、実際にあの場に人がいて、歌っていた――感覚的には、そんな気がしている。
しかしそうなると、厄介な問題に直面する。
本当に地学実験室の中に人がいたのだとしたら、どうやって消えたのか?
「地学準備室って、普通は開けられないですよね?」
地学実験室と地学準備室は繋がっている。だが、準備室には鍵がかかっていて、無断で入れるような場所ではない。普通は担当教師くらいしか開けられないのではないか?
「私、ちょうど選択科目が地学だから、明日先生に聞いてみるわ。先生以外に鍵を開けられる人がいるのかとか、誰か生徒に鍵を貸さなかったかとか」
「お願いします」
「でも、もしも準備室に逃げたんじゃないんだとしたら問題よね。実験室の出入口からは、誰も出ていってないんでしょう?」
「はい。誰も見てません。準備室から廊下に出ていく人もいませんでした」
メーベルは平間に頼まれ、実験室の出入口を見張っていた。普通の教室と同じく、出入口は前後に二か所あるが、その両方をずっと視界に入れていたので、絶対に誰も出ていかなかったと自信を持って言える。
また、準備室から直接廊下に出る扉もあるのだが、それは実験室の扉のすぐ隣にあるため、誰かがそこから廊下に出ていこうとしたら、必ずメーベルの視界に入ったはずだ。それがないということは、準備室から廊下に出ていった人もいないということになる。
仮に準備室でもない、出入口でもないとした場合、残っている逃走経路は、開きっ放しになっていた窓だけだ。
「いちおう訊いてみますけど、窓から出ていったってことは?」
「五階の窓よね。ロープとかパラシュートとか、その気になれば手段はあるんでしょうけど、そこまで命をかける理由が思い浮かばないわ」
「ですよね」
歩きながら、平間がパーカーを羽織った。十月に入ってもまだまだ日中は暑いくせに、日没後は少し冷えてくる。着るものに困る時期だ。
「先輩は、今回の七不思議をどう思います? “本物”ってことはあると思いますか?」
ふと、メーベルはそんなことを尋ねてみた。
もしも今回のネオベートーヴェンが本物の怪異だった場合、人影が消えたところでなにもおかしくはないからだ。
平間は少し考えるような間を置いて、こう答えた。
「どんな謎も受け入れ、尊重するっていうのが謎部のスタンスだから、オカルトだって否定はしない。だけど、立場をひとつ選べと言われたら、私は超常的なものを否定する立場を取ると思う。どんなものにでも理屈はあるはずだし、さっきの地学実験室で起こったことだって、必ずなにかトリックがあると考えているわ」
「やっぱり、そうですよね」
「でも本当はね、理屈や論理では説明できないような世界がどこかにあってほしいなって、心のどこかで思ってる」
平間がなにを思ってそんなことを言ったのか、聞き返すことはできなかった。彼女が飲料自販機の前に立ち、「好きなの選んで」と言ったので、質問するタイミングを逸してしまったのだ。
「いいんですか? ありがとうございます。平間先輩」
「先輩だからね。……ところでお願いなんだけれど、一度試しに私のことを下の名前で呼んでくれる?」
「名前ですか?」
「ずっと“平間先輩”で来てるじゃない。それを堅苦しいとまでは思っていないけれど、名前のほうで呼ばれたらどんな感じなんだろうって」
メーベルの中では“平間先輩”という呼び名で固定されていて、それをおかしいとも、呼びかたを変えようと考えたこともなかったが、言われてみれば、ちょっと堅苦しい印象はあるのかもしれない。
なんにしても、名前で呼ぶくらい、お安い御用だ。
「楓先輩?」
「うわ、いい響き……」
平間がふらりとよろめきながら、一歩、後ずさる。そして目を閉じ、まるで美味しいお茶をしみじみと味わっているかのような表情を浮かべながら、人差し指を立てた。
「もう一回言って」
「楓先輩」
「うわあ……。もう今後はそっちでお願い。たまらないわ」
たまらないと来たか。
メーベルは、名字で呼ぶから距離が遠くて、名前で呼ぶから親しい――というような考えは持っていないほうだったけれど、たしかに『楓先輩』と呼んでみたら、より仲が深まったような気がするから不思議だ。
「私は全然構わないですけど、でも先輩、もう半年もしないうちに卒業しますよね?」
「? それがどうしたの?」
別にどうもしないのだが。
ただ、三年生が部活を引退し、学校を卒業する時期が迫ってきたタイミングで、距離が縮まるということに、メーベルはちょっとした不安を覚える。なにがどう不安なのかと言うと――
「いまからもっと仲良くなったら、先輩が卒業するときに、もっと寂しくなっちゃうじゃないですか……」
平間先輩改め、楓先輩は、驚いたように目を見開きながら、口元を手で押さえた。
「メーベルって、そんなかわいいこと言うのね」
※
一方、春心は朱音と合流して、帰路に就いていた。
メーベルは怖いからという理由で平間と一緒にいたが、春心も朱音もそんなに怖がりというタイプではないので、今日は二手に分かれて行動していたのだ。
ラフ&ピース部には実質二人しかいない(いちおうルシアが名前だけは在籍している)。人手不足が甚だしいので、春心も朱音も、個別に動けるときは動く。
「しっかしまあ、メーベルと対決することになるとはなぁ」
と、朱音が言った。
「こんな展開になるなんてね」
言いながら、春心は数日前のことを思い返す。
オカルト研究部の井田 真吾という男子生徒が、ラフ&ピース部の部室にやってきて、こんな依頼をしたのだった。
「ネオ七不思議の正体を追ってほしいんだ」
井田は、容姿にも体格にも身長にも声にも、尖った特徴がまったくなく、こう言っては失礼だが、全体的に記憶に残りづらいという人物だ。いまだに春心は、いざ彼の顔を思い出そうとしても、はっきりとは思い出せない。本当に失礼な話だけれど。
まあ、この学校のほかの生徒たちの個性が強すぎるというのもある。
七不思議の正体を追うという、すぐには理解できない内容の依頼だったが、井田の話を詳しく聞いたのちに、ラフ&ピース部はそれを引き受けることに決めたのだった。
「言ったら、ラフ&ピース部と謎部の対決みたいなもんだな。たまにはこういう展開もいいだろ」
「別に対決したいわけじゃないんだけどなあ」
※
「じゃあまたね、メーベル」
「はい。また明日」
メーベルと楓は駅前で別れた。互いに電車には乗らないのだが、ちょうどここが分かれ道になる。ちなみに青柳部長は家の方向が全然違うので、一緒に帰ることはない。
「あ、しまった。忘れてしまいました」
メーベルはいまになって、楓から借りていた文庫本を返し忘れていることに気づいた。
たとえば、家を出たあとで忘れ物に気づいたり、買い物を終えて店を出た瞬間に買い忘れに気づいたりという、絶妙に悪いタイミングで忘れ物に気づくというこの現象はなんなのだろう。なにか名称はあるのだろうか?
いや、タイミングが悪いというほどでもないか。いまならまだ先輩に追いつけるだろう。返すのは明日でもいいかという気がしないでもないが、借り物は長引かせないほうがいい。
すぐに道を引き返すと、制服を覆うようにパーカーを着た楓の後ろ姿が、少し遠いながらもまだ見える位置にあった。
彼女を見失う前に、メーベルは早足で歩く。しかし途中で「あれ?」と思った。
(先輩の家って、こっちでしたっけ?)
メーベルは楓の家に行ったことはないが、だいたいの場所なら聞いたことがある。ところがいま、楓が歩いていくのは、彼女の家とは違う方向だ。というより、さっき学校から歩いてきた進路を逆戻りしている。どうして戻るのだろう。だったら最初から、メーベルともっと手前の道で別れればよかったのに。
楓は駅前の繁華街の中でも、ちょっと細い路地に入ったかと思うと、さりげない足取りでビルの階段を降りていった。
尾行しようだなんて思っていなかった。すぐに声をかけるつもりだった。だけどメーベルは、なぜか楓に話しかけられないまま、そのビルの前に立っていた。
彼女が降りていった階段の先に扉が見える。そしてその近くの看板に、こんな文字が見えた。
『Girl's Bar』
まさかと思った。だけど、看板は高速で動き回ったりはしない。何度読んでも一緒だ。見間違えようがない。
また、階段の先にはガールズバーの扉だけがあり、ほかに行ける場所はない。楓は間違いなく、その扉の先へ消えたのだ。
「先輩……どうしてここに……?」
メーベルは呆然と立ち尽くす。
自分のよく知る、しっかり者の副部長が立ち寄るとは思えない――どころか、未成年が立ち寄っていいかどうかも怪しい店。その扉の奥を確かめる勇気が、どうしても湧いてこなかった。




