同居人は魔法使い 1/2
午後十時をまわったころ、春心は自室で数学の課題に取り組んでいた。
春心は数学が苦手だった。文系科目はむしろ少し良いくらいなのだが、理系科目、特に数学は芳しくない。高校数学の序盤も序盤だから、さすがに絶望的とまではいかないけれど、ちょっと先が思いやられる。
だからこそ、提出物くらいはちゃんとしておこうと考えていた。期末テストも近づいてきている。
とは言え、まだ一年生の一学期。開き直るには早い。
春心なりに苦手を克服しようとはしていて、以前、身近な人物に数学のコツを聞いて回ったことがある。
最初に聞いたのは、中間テストで五教科学年一位を取ったメーベルだ。
数学のコツとは。メーベル曰く。
「国語も数学も、使っている言語が違うだけでやっていることは同じですよ。文系だ理系だと壁を作らないことがコツです」
レベルが違いすぎて参考にならなかった。かっこいいことを言ってるっぽいんだけど……。
次に聞いたのは、数学において春心よりも少しだけ成績が上の――学年で中の中の上程度の――しづくだ。
数学のコツとは。しづく曰く。
「海苔巻きもクレープの仲間なのかな……」
普通に参考にならなかった。話を聞いて。
その次に聞いたのは、学年でワースト10に入った朱音だ。
数学のコツとは。朱音曰く。
「いいか、誰にも言うなよ……? 解答欄に全部2って書いておくんだよ。するとな、6点くらいは取れるんだ。理解できる問題が一個もなくてもだぜ? すげえだろ。
ああ、解答欄に書くのは数字ならなんでもいいってわけじゃねえぞ。私が思うに……2か3だな。これが一番安定する。4以上はあまりおすすめしねえ。
でもな、いま言ったことは所詮、小手先の話よ。それよりももっと、大事なことがあるんだ。なんだと思う? そう、諦めない心だ。一問もわからないからと言って、空欄で出すのだけはやめろ。やれることはすべてやるんだ。祈るのはそれからでも遅くはねえ。“人事を尽くして天命を待つ”……ってな。
私、思うんだ。数学のテストでテストされてるのは、本当に数学なのかって。いや、きっと違う。本当に試されてるのは、最後まで諦めずにあがくことができるか――そういう、人間力なんだよ。
数字の海に溺れるな。泳げ。――不安? そんなもん、置いていけ。大丈夫。息継ぎの仕方さえ知っていれば、私たちはどこへでもいけんのさ。そう、どこへでもな」
な が い 。
最初の二人の何倍喋るの。
しかもやってることはただの博打だよ、それ。
やれることはすべてやるんだ(白目)。
数学のテストでテストされてるのは、本当に数学なのか?
数 学 だ よ 。
(それにしても六点て。まさか留年したりしないよね……? 大丈夫なのかな……)
当然、朱音の言ったことは参考にならなかった。むしろ聞いているほうが心配になったくらいで。
結局、三人に話を聞いて春心が得られたものはなかった。
まあ、甘い考えだったのかもしれない。コツを聞いて簡単に苦手が解消されるくらいなら、誰も学業で悩んだりはしないだろう。やはり、地道にがんばるしかないのかもしれない。仕方がないけれど。
春心は回想を終えると、目の前の数学の課題に再び向き合うことにした。
窓から夜風が吹き抜けてくる。
部屋にはエアコンがあるけれど、夜のあいだはまだ使わなくても平気だった。寝る前に冷風に当たり続けていると体が冷えてしまうというのもある。
数十分が経ち、課題が一段落したところで、春心は窓際に寄り、外の景色を眺めた。
春心の部屋は二階にある。
窓から見えるのは人気のない路地。寂しげな街灯の光。規則的に並ぶ家々。
静かな住宅街だ。
東京の方には眠らない街もあるのだろうが、少なくともこの街は夜になれば眠ってしまう。
薄暗い上に動くものがほとんど見当たらない。それなのに、春心は眠った街を眺めるのが嫌いではなかった。人の寝顔はいつまで見ていても飽きない、という感覚なのかもしれない。
ふと、窓の開く音がした。隣の部屋からだった。
そちらへ目を向けると、窓から一人の少女がふわーっと飛び出してくるのが見えた。
その少女は深緑色のローブを身にまとい、箒にまたがったまま宙に浮いていた。
当たり前のように、箒で空を飛んでいた。
そして春心もまた、それを当たり前のように眺めていた。全く驚かない。見慣れた光景だったから。
「ルシアちゃん、いまから散歩?」
春心の声に気づくと、その少女は箒にまたがったまま振り返った。
「うん、ちょっと外の空気を吸おうかなって」
その少女は美しかった。
風にたゆたう銀色の髪と、澄み渡ったエメラルド色の瞳。世の女性の憧れを体現したかのような、奇跡的なバランスのボディライン。凛々しさと可愛らしさが同居している、端正な顔だち。
彼女の名前は、ルシア・リフレイン。
ファンタジー出身のボツキャラクターで、魔法使いだ。
「春心ちゃんも一緒に散歩に行く?」
と、ルシアは春心に微笑みかける。
ここで彼女の言う“散歩”とは“箒に乗って空を飛ぶ”という意味。つまり、これは空中散歩のお誘いだ。
迷うことなく、春心は首を縦に振る。
「うん!」
「わかった。じゃあちょっと待ってて」
そう言って、ルシアは一旦隣の部屋の窓の中へと戻っていく。
それから一分もしないうちに、春心の部屋の入口から改めてルシアがやってきた。その手に持っているのは、さっき乗っていた箒よりもさらに大きい、二人乗り用の箒だ。春心自身は箒で空を飛べないので、彼女に乗せていってもらう必要がある。
「はい、じゃあ後ろに乗って」
「はーい」
部屋の真ん中で、ルシアと春心は共に一つの箒にまたがる。先頭がルシア、後ろに春心。傍から見れば、ちょっとだけシュールな光景かもしれない。
そして、箒がふわりと浮く。足が床から数センチ離れる。不思議な感覚。
やがて二人を乗せた箒は、春心の部屋の窓へゆっくりと動き出した。
「頭、ぶつけないように気をつけて」
「おっけー」
窓枠を通り抜けるときは慎重に。縁に体をぶつけないよう、身を屈める。
屋外に出ると、ルシアは杖を取り出し、たったいま出てきたばかりの窓に向かって一振りした。
すると、窓はひとりでに閉まり、内側から鍵がかかる。おまけにカーテンまで自動で閉まってしまう。地味に便利な魔法の使いかただ。
「これから空に向かうけど、気分が悪くなってきたらすぐに言ってね。あと、風。一応、風避けの魔法は張っておくけど、それでも体が冷えそうだったら教えて」
「うん!」
「よし、じゃあ飛ぶね」
ルシアの合図で、箒の上昇が始まる。
彼女一人ならもっと速く飛べるのだろうが、春心がいるためか、上昇のスピードはそれほど速くはない。まるで海底から水面に向かって浮かび上がっていくかのようだ。
地上がゆるやかに遠ざかっていき、やがて街の広い範囲を見渡せるようになってくる。
既に薄暗くなっている住宅街とは対照的に、駅周辺はまだまだ明るい。空から見える光の配置を目でたどれば、なんとなくどの辺に線路が通っているのかがわかる。
気づけば、先ほどまでいたはずの自宅が、真下で模型のように小さくなっていた。
春心は思わず呟く。
「やっぱり魔法って憧れちゃうなぁ。こんなふうに自由に飛べちゃうんだもん」
「そうね。私もね、魔法を使えてよかったと一番思えるのは、空を飛んでるときかも」
穏やかな口調で言いながら、ルシアは箒の上昇を停止させた。
「さ、前に進むよ。掴まってて」
そう言われ、春心はルシアの背中にそっとしがみつく。
箒が前進を始めた。眼下に広がる景色が少しずつ流れだして、空を飛んでいるという実感がより強まる。
「春心ちゃんは部屋でなにしてたの?」
「数学の課題」
「テスト近いもんね」
「ルシアちゃんは?」
「私も同じ。勉強だよ」
雑談を交わしながら、どこへ向かうでもなく、星の散らばる夏空の下を気ままに飛行する。夜空は六月にしては綺麗に晴れていて、月の光を遮るものは一つもなかった。
ちなみに箒の乗り心地だが、実はそんなに悪くない。股やお尻は痛くならないし、バランスを取るのに神経を使うこともない。快適に乗れるように、飛行用の箒は製造される時点で様々な細工が施されるらしい。
また、ルシアが風避けの魔法をかけてくれているおかげで、吹きつける風はちょうど心地いいくらいの強さにまで軽減されている。仮にどんなに速く飛ぼうとも、強風で吹き飛ばされることはないだろう。
「ねえねえ、そう言えば、ルシアちゃんは数学のコツとかって知ってる?」
春心はふと、ルシアにはまだその質問をしていなかったことに気づいた。
ルシアの成績は学年トップクラスだ。基本五教科の成績こそメーベルに譲るが、体育や芸術系も含めればルシアに軍配が上がるだろう。
さらにルックスも人当たりもいいときているので、入学二か月で既に彼女は高校でちょっとした有名人になっている。有名と言えば、春心も悪い意味で有名になってしまっているのだが――それはまた別の話だ。
「数学のコツ?」
「うん、私、数学が苦手でさ。ほかの人はどう考えてるのかなって」
春心としては、そこまで本気で数学のコツを知りたいと思っているわけではなかった。というよりも、そんなうまいものはないと実感したばかりだ。
ただ、先に答えてくれた三人は、それぞれが全く違う個性的な回答をしてくれた。
それならば、ルシアは一体どんなふうに答えてくれるのだろうかと、ちょっとだけ気になってしまったのだ。
「コツね」
ルシアは少し考える素振りを見せ、
「うーん、予習と復習かな、やっぱり。地道にやるのが一番だと思う」
彼女らしい、堅実な答えだと春心は思った。
「ああでも、違うよね。そんな当たり障りのないことが聞きたいんじゃないのよね? ちょっと待ってて。もう一回考えるから」
つまらない答えをしてしまったとでも思ったのだろうか、ルシアは律儀にもより良い解答を目指し、さらに深い思考へと入っていってしまう。
それでも彼女はだらだらと時間をかけることはなく、十数秒後には再び口を開いた。
「そうね、わからないといけない問題と、わからなくてもいい問題を見分けられるようになることがコツかな」
「わからなくてもいい問題なんてあるの?」
数学が苦手な春心からすれば、わからなくてもいいという響きがちょっと意外だった。
「もちろん、最終的には全部解けたほうがいい。でも、いきなり全部わかろうとしなくていいの」
そこで一呼吸置いて、
「たとえば、応用問題はわからなくても仕方がない。でも、基本問題がわからないのは大変だよ。基本がわからないと、その先の授業全部でつまずく可能性があるでしょ?」
「そっか、たしかに……」
同じ“わからない”でも、後々まで影響するものと、そのときだけの怪我で済むものとがある、ということだ。
一度習った基礎的な計算や公式は当然扱えるという前提で授業は進んでいく。
その前提部分でつまずいてしまえば、授業が進めば進むほど雪だるま式にわからないことが増えていき、あとから取り返そうと思ってもそう簡単に挽回できない状況に陥ってしまう。
「だから、数学が苦手なら、まずは基本を徹底的にやるのがいいと思う。簡単な問題だけでいいから、基本問題を徹底的にマークして、試験で落とさないようにする。それができるだけでも、そんなに悪い結果にはならないはずよ」
「おぉ~」
これまで聞いた誰よりも具体的な答えだった。もはやコツというよりも、春心個人に対するアドバイスだ。
ここまで真剣に考えてくれるなんて、なんだか大喜利感覚で質問したのが申し訳なくなってくる。
しかしそれ以上に申し訳ないのが……。
「でも、ルシアちゃん、ちょっといい……?」
「ん?」
「私、どこからが基本で、どこからが応用かすらわからないレベルなんだよね……」
ルシアのアドバイスは的確だったが、春心側に『なにが基本かわからない』という致命的な欠陥があった。
なにがわかっていないかがわかっていないからこその苦手科目だ。いや、もちろん威張ることではないけれども。
「じゃあ、今度一緒に勉強しよっか?」
と、ルシアはさらりと言う。
「いいの? テスト前の貴重な時間なのに」
「うん。人に教えるのって、結局自分のためになるって言うじゃない? こっちもいい復習になると思うし、全然構わないよ」
「それなら、ちょっとだけ甘えちゃおうかな」
「いいよ、任せて」
背中越しに感じるルシアの存在が、頼もしくて、暖かかった。
「ありがとうね」
幸いなことに、いまの春心は周囲の人々に恵まれている。
その中でもルシアは、春心にとって、面倒見のいいお姉さんのような立ち位置だった。年齢は同じはずなのに。
箒の速度が、少しだけ上がる。
身体に受ける風が強くなる。
どこそこの上空を飛んでいる、と思った瞬間には、その景色は既に後ろへと流れていってしまっている。
現在位置を更新し続ける二人の少女は、この街の誰よりも星に近いところにいた。
そうしてしばらく飛んでいたころ。春心は右斜め前方、夜空のなにもないはずの空間に、なにかがあるのを発見した。
なにか。
要領を得ない表現になってしまうのは、それが本当になんなのかがわからないからだ。
強いて言えば、透明な靄のようだ。透き通っているのに、どこか不自然。雲……という感じではない。もちろん鳥や飛行機ではない。
見間違いだろうか。
春心は一度まぶたを強く閉じて、それから再び目を凝らしてみるが――やはり、確かにそこにはなにかがある。
いや、なにかがいる。
「ねえルシアちゃん、あれ――」
不審に思いルシアに話しかけようとして――しかし言い終わらない内に、ありえない現象が起こった。
夜空の一角が、ぐにゃりと曲がったのだ。
空間が割れ、絞られ、ねじ曲がる。まるで世界の裏側からなにかが飛びだそうとしてきているみたいに。
ただならぬ光景を目の当たりにした春心は、ただただ唖然となり、目を瞬かせる。
そしてその瞬きの直後。
唐突に、巨大な木造船が前方に出現していた。
――船。
海の上でなく、空の上を。
呪われた海賊船のようなボロボロの船が、不気味に漂っていた。




