物語なんていらない 8/8
瀬名伊織――エミール・ヨアン・クザと戦った日から、三日が過ぎた。
沙杏と角端は刑務所に戻され、初日こそ報告会という名の事情聴取をみっちり受けることとなったが、二日目からはほとんど放ったらかしにされていた。
どうやら今回の一件、大人たちの側でなにかゴタゴタがあったようで、必要以上に沙杏に時間を割いていられないらしい。テーコクが言っていた「大人たちも一枚岩じゃないんだ」という言葉の通りだ。
しかし具体的になにがあったのかは知らされず、沙杏は蚊帳の外に置かれ、独房の中でぼんやりと過ごす時間が続いた。
「…………」
することがない。することがないのに時間だけがあると、余計なことを考え始める。そして大抵ろくでもない思考にはまって、鬱っぽくなる。
「考えごとか?」
影の中から、角端の声が聞こえた。
「あ、角端。……もう大丈夫なの?」
角端は先日の戦いで力を無理に使ったせいか、報告会が終わった直後から、丸一日以上眠っていた。
「心配には及ばん」
とは言うものの、やはり本調子ではないのか、影の中から姿を現さない。「もうちょっと休んでなよ」と言おうとしたら、角端が続けて口を開いた。
「それで、なにを考えていた?」
「……あー、なんか、いろいろね」
「いろいろ、とは」
「そりゃ、この前あったことだよ」
「詳しく話せ」
なんだろう。どうしてそんなにグイグイと来るのだろう。まあ、別に嫌ではないけれど……。
「どうしたの? 角端って、そんなに話を聞いてくれるタイプだったっけ?」
「我はこの刑務所で様々な囚人を見てきた。その中でも、独居房の囚人は、精神に異常をきたす割合が高かった。理由としては、やはり外部からの刺激が少なすぎるからではあるが……我が思うに、理由はもうひとつある。なんだと思う?」
「ずいぶん回りくどい言いかたするね。――いや、わかんないって。もうひとつの理由って、なに?」
「“思考”だ。なにもすることがない。近くに人がいない。しかし時間だけはある。そんな状況に陥ったとき、人はあれこれと考えごとを始め、やがて精神を病んでしまう」
「…………」
完全にいまの自分じゃんと、沙杏はちょっとぎくりとした。
「我に言わせれば、人間にとって、思考というのは毒と同じだ。適量なら薬になるが、分量を誤れば死に至る。――我は貴様の監視役だ。監視対象が毒を飲もうとするのを、黙って見ているわけにはいかない。だから」
「だから?」
「いま考えていることを、一旦話せと言っているのだ」
沙杏は吹き出してしまいそうになった。
どうして角端はこうも毎度理屈っぽいのか。ただ一言、「話、聞こっか?」でいいものを、こんなに長々と言葉を並べるなんて。
でも、嫌いじゃない。こういう人(人じゃないんだっけ?)なのだ、彼は。
「じゃあ、聞いてもらおっかな」
思考が毒だと言うのなら、どこかで吐き出すべきなのだろう。心の健康のためにも、整理のためにも。
この数日間で、角端のことは信用できると思えるようになった。彼になら話してもいい。あの夜に思ったこと、感じたこと、そしていま思い続けていることを。
「あたしさ、伊織に『きみは悲劇の悪役のキャラクターなんだ』って言われたんだけど、それってたぶん、当たってるなって思って」
「悪役? 貴様が?」
「うん」
自分は本質的には“悪役”なんじゃないのか?
それがこの数日のあいだ、沙杏が自分自身に抱き続けた疑念だった。
「なぜそうなる」
「あの夜、針品っておじさんが亡くなってる横で、あたし、固まってたでしょ。あれって、初めて死体を見たからショックを受けてたわけじゃないの」
もちろん、死体を目の当たりにした衝撃はあった。でも、あのとき沙杏が気を取られていたのは、そこがメインではない。
「あたしね、『ざまあみろ』って思ったの。針品が死んでるってわかったとき、真っ先に、『ざまあみろ』って思ったんだよ。かわいそうとか、悲しいとか、怖いとかじゃなかった」
「…………」
「そんな自分に気づいて、『あ、伊織が言ってた通り、あたしって悪いやつなんだ』って実感して、それがすごいショックでさ。……で、それも酷い話だよね。だって死体を前にして、あたし、自己嫌悪してんだよ? 人が死んでるのに、自分のことしか考えてないじゃん。それがなんて言うんだろ、二重にショックでさ、自分って本当に悪いやつなんだなって思って、頭が真っ白になっちゃって……」
もしもあの銀髪の少女だったら、『ざまあみろ』だなんて、絶対に思わないだろう。
いや、彼女に限らず、世の中の大部分の人は思わないはずだ。
だけど自分は違った。死体を前にして、ある意味で喜んだ。人の死を嘲笑ってすっきりするような感情を、一瞬でも抱いてしまった。
それはどうしてか。
自分が“悪役”だからだ。
悪いやつだからだ。
まともな人間ではないからだ。
そう考え始めると、終わりが見えなかった。
「貴様はまだ、あの瀬名だかクザだかいう男の影響下から抜けられていないようだな」
角端が、呆れたように言った。
「あいつの言葉は、偽物の占い師と同じだと思っておけ。抽象的で、それらしいことを言って、なんとなく当たったような気がするだけの、小賢しい話術に過ぎん。そんなものに振り回される必要などない。なにが悪役だ。自分自身を省みたとき、汚点がひとつも見当たらない者のほうが少数だろう。むしろ、自分を正義だとか完全だとか思っている人間のほうが、よほど悪役に近い」
「でも、あたしの場合、度が過ぎてるから」
「どこが度を過ぎていると言うのだ。貴様が実際に殺したわけじゃあるまいし。貴様にとって、針品哲久とはどういう男だった? ほんの数分話しただけの、感じの悪い横暴な男ではなかったか? そんな人物が死んだとして、悲しいと思えなかったとしても、不自然ではない」
「……でも、普通は悲しむところでしょ」
「よいか。なにかを思うこと自体に罪はない。この場面ではこう思わなければならない、この状況ではこう感じなければならないなんて決まりはないのだ。我らがそんなルールに縛られて生きていたら」
――それこそ、ただの記号ではないか。
その角端の言葉は、沙杏の心の奥の、最も薄暗く、寂しげな路地裏にまで届いた。
針品の死に対して沙杏が思ったことを、角端は肯定も否定もしなかった。それこそが救いだった。
正義の主人公になら、求められる振る舞いというものがあるのだろう。
非道な悪役になら、相応しい言動というものがあるのだろう。
だけど、この世界は、物語の世界ではない。
荒月沙杏が背負うべき役割なんてものは、本当はどこにも存在しない。
そう言ってもらえた気がした。
「ありがとう。やっぱ、角端に話してよかったよ」
「うむ」
「……ねえ、伊織のやつってさ、結局なにが目的だったんだろ。あたしのことを連れていきたかったみたいだけど。たしか、悪役が悪役らしく生きていける組織があるとか言ってたような……。角端はなんか知ってる?」
「我はその手の専門家ではないのでな、詳しいことは知らんが、おそらくその組織とやらは“意味されるもの”だろう」
「シニフィエ?」
聞き慣れない響きだった。
「十四、五年ほど前だったか。ヘイムダールと呼ばれる男が、世界各国の問題のある記号たちを――やつらの言うところの“悪役”をひとところに集め、設立した組織だ」
「いちおう訊いとくけど、慈善団体……って感じじゃないんだよね?」
「物語を作る――という理念で動いているらしい」
「……それ、よくわかんないね」
なんというか、それはなにか目的がある組織というよりも、信じる方向を間違えている宗教団体だという感じがした。そのふわっとした理念だけ聞けば、『具体的にすることは決まってないけど、とりあえず集まってみました』みたいな、呑気な印象さえある。
「だが実態はほとんどテロ組織と一緒だ。やつらは平気で人を殺す」
「うん。それは身に染みてわかってるよ」
瀬名は当たり前のように特別チームを殺したし、角端が身代わりになったとは言え、一度は沙杏をも手にかけた。
あれは日頃から人を殺し慣れていなければできないことのように思う。あの夜だけ、偶然に、そのつもりはなかったのに、瀬名が凶行に走ってしまったのだとは、とてもじゃないが考えられない。
「目的が抽象的なくせに行動が大胆なのは、かえって不気味だと言えるかもしれん」
「抽象的すぎるって。物語を作る、だなんて」
そう言えば、瀬名はこんなふうに語っていた。
――物語のないキャラクターに、生きる意味ってあると思う?
――キャラクターとして大事なのは、自分の役割をまっとうすること。
――なんでもない日常にただ流される人生なんて、どれだけの価値があるんだろうね。
――キャラクターとして生まれてきてよかったと心から思えるような、最高の物語と、成長と、結末を、きみにあげる。
いまになってみると、瀬名の背後に巨大な信仰の輪郭のようなものが見える。先ほど感じた宗教団体という印象はやはり間違っていないのだという、根拠のない確信が芽生えた。
沙杏はふと、考えてしまう。
あの夜、瀬名についていったらどうなっていたのだろう。彼の言う“最高の物語”を受け入れていたら、どうなっていたのだろう。
瀬名は沙杏のことを、“悲劇の悪役”と評していた。
ということは、悲劇の悪役らしさが際立つ、儚く哀しげな物語の主人公にでもさせられていたのかもしれない。
最高の物語――か。
無駄なシーンはひとつもなく、すべての行動に意味があり、張り巡らされたたった一点の美しい結末に向かって収束していく物語。
見ている人の記憶に残り、涙を誘い、学びを与え、心を育てる物語。
そんな素晴らしい物語の歯車となって、与えられた役割を人生を賭してまっとうすることがキャラクターとしての幸せだと言うのなら。
――あたしは、物語なんていらない。
無駄だらけでいい。意味なんかなくたっていい。寄り道ばかりでいい。
なんでもない日々を過ごし、いつか自分がおばあちゃんになって、ふと過去を振り返ったとき、人生の本筋とは関係のない、どうでもいいことやくだらないことばかりを思い出して、つい口元を綻ばせてしまうような、そんな人生がいい。
荒月沙杏というキャラクターとしてではなく。
荒月沙杏というひとりの人間として、心からそう思う。
沙杏は以前、魔法生物を利用して世界に復讐をしようとし、その過程で銀髪の少女と敵対した。劇作家を気取って裏で暗躍していた瀬名は、この一連の出来事を『復讐の物語』と呼んでいた。
確かに傍から見れば、劇的で面白味のある物語だったのかもしれない。
しかし当事者の沙杏からすれば、加害者としても、被害者としても、二度と繰り返したくない辛い記憶だ。
シナリオの駒となるのは、もうまっぴらだ。
もしも、許されるのなら。
平和な世界へ行きたい。
物語や意味の支配を受けない、なんでもない日常の世界へ、行きたい。
「どうした。急に黙り込んで」
角端の声で、はっと我に返った。
「あ、ごめん! なんでもない! ちょっと、あれだね。毒、飲んじゃってたかも……」
考えごとなんてするつもりはなかったのに、いつの間にかとんでもなく闇の深いところまで踏み込んでしまっていた。
人生とか、幸せとか、そういうことを考え始めたらある意味で終わりだ。
ちょっと恥ずかしい。自分の病んだ精神に触れて、余計に病んでしまいそうになる。思考が毒だとはよく言ったものだ。もしかしたら、まだ疲れているのかもしれない。
ドンドン、と独房の扉をノックする音が聞こえた。
「出て来い」
抑揚のない刑務官の声。扉の小窓から、冷たい視線が注がれる。
なにがあったんだろうと、沙杏はベッドから降りて扉を開けた。
すると「手紙だ」と、刑務官がぶっきらぼうに、すでに封の開いた手紙を差し出してきた。
「手紙……? また?」
嫌な予感しかしない。先日は、瀬名から届いた手紙のせいで散々な目に遭ったのだ。今度はどこの誰が厄介事を持ち込んでくれたんだと、半ばヤケクソ気味に差出人を見てみると――
「え……?」
二度見した。
いや、二度ならず、何度も何度も確認した。
「え、え、え……?」
間違いない。
そこに記されていたのは、友達の名前。
もうずいぶんと長いこと会ってないような気がする、あの子の名前。
「なんで……。ル――」
手紙の一行目を読んだ瞬間に、声が詰まった。なぜだか字がかすれて読めなくなっていく。足からは力が抜け、その場に座り込んでしまう。
ああ、やっぱり、疲れているのかもしれない。それとも、安心しちゃったのかな。
しばらく手紙を読み進めることはできなさそうだ。これ以上文面に目を通したら、きっと紙を濡らしてしまう。
だから、せめて、気持ちが落ち着くまでのあいだは――。
日常の世界から差し伸べられた手を、ぎゅっと握り返すように。
沙杏は友人からの手紙を、大事に掴んで放さなかった。




