物語なんていらない 7/8
瀬名が、無数の氷の破片となって散っていく。
「はあ、はあ……やっと、これで……」
緊張の糸がぷつりと切れ、沙杏はその場にへたりこんでしまった。
「上出来だ」
角端が、沙杏の傍らに立っていた。影はもう元の長さに戻っている。
「角端、あたし……」
勝って喜ぶ――という心境には、まるでなれなかった。
それどころか、生き残れたという安堵と、人を殺してしまったという恐怖、重圧、罪悪感がのしかかってきて、心の容量が急速に臨界点へ向かっていく。
目の前の戦いに必死で、戦ったあとのことなんて考えてもいなかった。気持ちの整理が追いつかない。
「……待て。まだ油断するな」
角端の声が、にわかに緊張感を帯びたものに変わる。
沙杏は目を見開いた。粉々に散ったはずの氷の破片が、ひとりでに動きだしたのだ。それらは意思を共有しているかのように一ヵ所に集まり、またたく間に人の形を形成していく。
「角端!」
「ヴァンパイアだ。多少の再生能力があっても不思議ではない」
数秒もしないうちに、氷の破片は完全に人間の姿を取り戻した。
だがその顔は、沙杏の知っている黒髪の青年――瀬名伊織ではなかった。
アッシュグレーの長髪。赤い瞳。青白い肌。日本人離れした彫りの深い顔立ち。
「誰……? 伊織じゃない?」
いいや、たしか、針品哲久はこう言っていたじゃないか。
瀬名伊織は偽名で、本名はエミール・ヨアン・クザ。ルーマニア出身の犯罪者だ――と。
「やるね、きみたち。おかげで“瀬名伊織”の肉体が死んじゃったよ。ただ、ひとつ注文を付けるのなら、そのまま俺を完全に倒しきってほしかったところだけどね。さっきの一撃で戦いが終わるほうが、物語としては美しかった」
その穏やかな表情と、場違いなほどの軽い物言い。そして理解できない思想。
沙杏は確信した。人相がどれだけ変わっても、目の前の男の中身は、瀬名伊織と同一だと。
「伊織……それがあんたの本当の顔なの?」
「ん、本当の顔か……。ちょっと哲学的だよね。自分の本当の顔はどれだと言われても、意外とわかんないもんだよ。まあ、確かにいまのこの顔は、俺の中でも、かなり付き合いが長いほうだけど」
言いながら、瀬名伊織だった男――エミール・ヨアン・クザは、さりげなく足を一歩踏み出した。
壁を作るように、角端が沙杏の前へ移動する。
「立て、荒月沙杏。まだ戦いは続いている」
毅然とした声。角端だって心身共に疲弊しているはずなのに、弱みをけして表に出そうとしない。
「臆するな。難しく考えるな。我々はすでに一度ヤツに土をつけている。それをただ繰り返すだけでよいのだ。ヤツの再生能力が尽きるまでな。単純な話であろう?」
「……はは、それもそうだね」
角端の言葉を聞いて、沙杏はようやく気持ちの整理がついた――なんてことは、まったくなかった。
今夜起こった様々な出来事のどれひとつとして、整理ができていない。できていなさすぎて、もはや、とっ散らかったままでいいやと思った。
どうでもいい。
もう片付けなんてしなくていいと、開き直った。
「いいよ、もう、やるしかないってんなら、とことんやってやろうじゃん」
どうせ気持ちをどれだけ整えたところで、ここで負けたら、すべてが終わるのだ。
やるしかない。いまはただ、それだけを考えておけばいい。
沙杏は杖を握る手に力を込め、立ち上がる。
「沙杏ちゃん。やっぱりきみは、すごく良い表情をするね。素敵だよ」
クザからの、嬉しくもないお褒めの言葉。
沙杏はそのお礼に、真心を込めて吐き捨ててあげた。
「あっそ」
会話が途切れる。それを合図に、角端とクザの距離がじわりと詰まり始める。
戦いの第二幕が、上がろうとしていた。
そのとき。
にゃ~~~~~~~ん。
気が抜けるほどの、呑気で牧歌的な鳴き声が、夜空にこだました。
何事かと見上げれば、月夜に兎ならぬ、猫のシルエットが浮かんでいる。それは急速に落下してきて、沙杏の目前に着地した。
目がおかしくなったのかと思った。
空から降ってきたのは、ただただ、でかいだけの猫だった。街で撮った野良猫の写真を大きく引き伸ばしただけのような、ある意味雑なサイズ感。見ているだけで遠近感が狂う。
おかしくなったのは目だけではないのかもしれない。沙杏の耳には、その巨大猫が人語を発したように聞こえた。
「猫神が来たぞ。“あの”猫神がな」
どの猫神だよと、沙杏は反応に困る。
「ビタみンA。お前はちょっと黙ってろ。ややこしくなるから」
と、沙杏の代わりに反応してくれた人物がいた。巨大猫に気を取られていて気づかなかったが、猫の背中に、子供が乗っている。
肩に木刀を担いだ、袴姿の少年。くりっとした丸い瞳と、緑色の髪が特徴的だ。
彼は沙杏をちらりと見て「話はあとでな」とだけ言うと、猫の背中から降りて、単身でクザのもとへ歩きだした。
「援軍が、間に合ったようだな」
角端が呟いた。
「援軍? あの子と、猫が?」
「猫はともかく、あの子供の姿をしているのは、協会関東本部の幹部だ。名はたしか……テーコク」
「協会の……」
沙杏はつい最近まで協会の関西支部に所属していたので、関東本部のテーコクとはほとんど接点がない。しかしどこかですれ違ったことくらいはあるのか、なんとなく彼の姿に見覚えがあった。
「猫はともかくとはなんだ、ともかくとは。我輩は“あの”猫神だぞ。あの」
沙杏と角端のあいだに、巨大猫が顔をずいっと割り込ませてきた。顔が大きいということは口も大きいということで、なにかの拍子にこのまま頭からむしゃむしゃ食べられてしまうのではないかという変な迫力がある。
あと、“あの”猫神とは結局なんなんだ。どの猫神なんだ。状況が状況なら、ちゃんと筋の通った説明ができるまで真顔で問い質してやりたいと沙杏は思うが、いまは無駄話をしているような余裕はない。
「ねえ、猫神……って呼べばいいの?」
「ザッツザッツ・ライトライト」
「あのさ、あの子、一人で行かせて大丈夫なの?」
悪いけれど、妙な返事にはツッコミを入れない。沙杏はとにかく、テーコクのことが気がかりだった。二人がかりで戦っても勝てなかったクザに、子供が一人で立ち向かうなんて……。
ところが、巨大猫はなんの関心もなさそうに、鼻をほじりながら言った。
「ん、テーコクか? あいつの心配はいらん」
「…………」
猫が鼻をほじるところ、初めて見た。
じゃなくて。心配いらない? この状況で?
「ね、角端。この猫さんはこう言ってるけど……あの子、一人で行かせていいの?」
「おそらくはな」
なんだ。巨大猫だけじゃない。角端までも加勢をしなくていいと判断している。
(どういうことなの? あのテーコクって子はいったい……?)
月明りの下、テーコクとクザが対峙している。
「よお、エミール・ヨアン・クザ。ヨーロッパの怪物が、こんなアジアの端っこでなにしてんだ?」
「きみは、テーコクだね」
「知ってんのか」
「もちろん。日本に来るとき、俺たちのリーダーから、きみには気をつけるように言われてたから」
「リーダー……たしか、ヘイムダールって言ったか。そいつの妙な思想のせいで、世界中が迷惑してんだよ。お前ら、早く解散してくれねえか?」
「解散してくれと言われて、するわけないでしょう。俺たちを止めたきゃ、力ずくで止めてみるんだね」
「はっ」
テーコクが、生意気そうに笑った。
「――そうだよな。そうしたほうが、早いよな」
突如、テーコクがわけのわからない速度で足を踏み込み、木刀を数回振った。
クザの左腕があらぬ方向へ曲がった。右腕が千切れ飛んだ。左足が根元から吹き飛んだ。
「なっ……!?」
テーコクは流れるように、クザの額へ向けて刺突を放つ。
クザは残った右足で後方に飛び跳ね、木刀の間合いの外へと逃げた。
「逃がすか!」
テーコクはクザの跳んだ方向へ前進しながら腕を大きく振りかぶり、持っていた木刀を勢いよくぶん投げる。それは超速で空間を駆け抜け、クザの心臓を貫いた。
勢いはそこで収まらない。木刀はクザを串刺しにしたまま、マンションの壁面に突き刺さった。その姿は、五寸釘で木に縫い付けられた藁人形のよう。
「くっ、力も速さも……めちゃくちゃだ……」
クザは血を吐き出しながら、折れ曲がった左腕で木刀を心臓から引き抜こうとするが、びくともしない。それなら叩き折ろうと刀身を殴りつけるが、わずかな歪みすらも生じない。
そうこうしているうちに、木刀が肥大し始めた。
ただの道具であるはずの木刀が、かつて生命が宿っていたころを思い出したみたいに、急激に成長を始めたのだ。
クザの心臓を巻き込みながら根を張り、胴体を押し潰しながら幹を太くしていく。枝葉は夜空に羽ばたくように伸びていき、深緑の瑞々しい輝きを放つ。
たった十数秒のうちに、木刀は大樹へと変貌した。
「やはりまだ、神には勝てないか」
クザは木の根本に潰されたまま、なにかを諦めたかのように目を閉じた。
「しかし、美しくないね。今夜は、俺と沙杏ちゃんで決着をつけるべき戦いだった。突然現れた第三者が勝利をさらっていくだなんて、物語としては美しくない」
「ここは物語の世界じゃない。現実なんだよ」
テーコクが冷たく言い放つ。
「それが気にくわないと言ってるんだよ。キャラクターには、物語が必要なんだ。……なんて、敗者が偉そうに語る資格はないか。今日のところは諦めるよ。テーコクくん、またどこかで会おう」
クザの身体が砂のように崩れ始めた。
……いや、砂ではない。コウモリだ。彼の身体は無数の小さなコウモリに分裂し、捕えられていた大樹の根本からすり抜けるように脱出していく。
無言でテーコクが右腕を振った。それと連動して大樹の枝が動きだし、一部のコウモリを叩き落とす。だが、全体の数が多すぎて対処しきれない。
嵐とも形容できそうなおびただしい数のコウモリの群れは、やがて月夜へと散らばり、バラバラの方角へ消えていった。
「……逃げられたか」
テーコクはしばらく悔しげに空を眺めていたが、そうしていても仕方がないとでも思ったのか、踵を返して沙杏のもとへ戻ってきた。
「おい、無事だったか?」
「なんなの、いまの……」
沙杏は、テーコクの呼びかけにろくに返事できなかった。
事の一部始終を見て、ただただ唖然としていた。
――なんなの、この子供は?
特別チームは殺され、沙杏と角端が必死に戦ってもどうにもならなかったクザを、どうしてこのテーコクという少年は、当たり前のように追い払っているのか。
異常だ。
強すぎる。恐怖すら覚えるほどに。
「ねえ、そんなに強いなら……そんなに強いならさ、なんで最初からいてくれなかったの!? あんたがいてくれたら、こんなことには――」
言いながら、さすがにこれは命を助けてもらった者が言うことではないと、沙杏は自分の口元を押さえる。
自分自身の発言に、動揺する。
どうしてこんな、言わなくてもいいことを言ってしまったのだろう。
「ご、ごめん……あたし……」
「いや、いい。確かに最初からおいらがいればよかったんだ。ただ――」
テーコクはなぜだか、沙杏以上に罪悪感に駆られた表情で言うのだった。
「すまねえ。おいらたち大人側もな、一枚岩ってわけじゃねえんだ」




