物語なんていらない 6/8
影の中から、巨大な黒い腕が這い出てくる。指は五本あり、形状だけなら人間のそれにも見える。
すかさず瀬名が影の範囲外に移動したのを見て、沙杏も同じく影から距離を取った。これが角端が意図的に起こした事象だということはわかる。けれど、この禍々しい黒い腕が味方のものだとはどうしても思えなかった。
やがて影の中から“本体”が姿を現す。
ぼってりと膨れ上がった胴体。
そこからいくつもの黒い腕が生えており、足の多いグロテスクな虫を連想させる。
いや、腕の生えている間隔が不規則で、左右非対称になっているぶん、実際の虫よりもいっそう奇怪に見えるかもしれない。
胴体の後ろから伸びているのは、トカゲのような尻尾だ。細長いそれが一本だけ生えているため、ごちゃごちゃとしている胴体部分とのアンバラスさが酷い。
アンバランスさと言えば、その尻尾の反対側、胴体の前面部には、ひしめくように顔が三つも存在していた。
ひとつは伝説上の動物である麒麟に似た獣の顔。
ひとつは人間の顔(髪の長い女性が泣いているようにも見える)。
ひとつは笑った表情が描かれた仮面を被った、人間なのか獣なのかもわからない顔。
その怪物は影で作られているみたいに全身が黒く染まっているのに、両目と、笑った表情の奇妙な仮面だけが異様に白く、不気味な雰囲気をさらに増幅させている。
まさに、異形の怪物としか形容できない歪な姿。これは角端なのか、それとも……。
瀬名が無言で、二発、三発と拳銃を撃ち込んだ。だが、怪物に効いている様子はない。
突然、黒い腕のひとつが沙杏に向かって伸びてきた。
「ちょっ!」
抵抗する間もなく、沙杏は全身を包まれるように、巨大な黒い手に掴まれてしまう。
ところが意外にもその力加減は優しく、痛みもなければ、このままでは握り潰されてしまうという恐怖感もない。
(敵意は……ない?)
やはり姿が変わっただけで、この怪物らしきものは角端だと思っていいのだろうか。
沙杏は現状、全身がすっぽりと巨大な手の中に収まっているため、外の様子がまったく見えないし、ろくに身動きも取れない。だから、声を張り上げて尋ねるしかなかった。
「ねえ、角端! これ、あんたなの!? いまってこれ、どういう状況!?」
角端から返事はなかった。
その代わり、と言ってもいいのだろうか。鼓膜だけでなく、肌でも振動を感じ取れるほどの咆哮が聞こえてきた。
異常におどろおどろしく、吐き気を催すような――それでいて美しく透き通った、物悲しい声色だった。
醜悪さと美しさが共存する、奇妙な叫び。これをこのまま聞き続けたらまずいと、沙杏は直感した。理由はわからないが、とにかく本能が危険を訴えている。
唐突に、沙杏の脳裏に映像が流れ始めた。
黒い服を着た中年の男が、水の張った洗面器に老婆の顔を突っ込み、力ずくで押さえつけているシーンだった。老婆はもがきながら水の中でなにやら叫んでいるようだが、ゴボゴボというくぐもった音が漏れるばかりで、実際にはその叫びは聞こえてこない。
映像が切り替わる。
よく晴れた朝。住宅街の交差点のど真ん中で、数十人の老若男女が前ならえをしながら並んでいた。完全なる等間隔の、寸分の狂いのない、一糸乱れぬ整列。
住宅街に設置されている市の防災スピーカーから、女性の叫び声が大音量で流れ始めた。それはおそらく、水中に吸い込まれて誰にも届かなかったであろう老婆の本来の叫び声を、ダイレクトに伝えたものだと思われた。きっと市の職員の誰かが、親切心で流したに違いない。
ボリューム調整を間違えたのか、叫び声が大きすぎて、音割れが起こっている。それを整列した数十人の老若男女が、無表情で聞いている。前ならえをしたままで。
沙杏はなんだか、自分の首を掻き切って死にたくなった。しかしもどかしいことに、いまは身動きが取れない。困ったな。早く死にたいのに。
怪物の咆哮が止まない。ただ聞いているだけで、記憶の中から楽しい思い出だけが消去されていくような、暗い気持ちにさせられる。
楽しい思い出がそんなにない人生でよかったなあと、沙杏は思った。
――寒い。
ふわふわとした絶望感に沈んでいた沙杏を、突如『寒い』という極めて現実的な感覚が襲った。悪夢にうなされていたところを、平手打ちで起こされたような気分だ。
沙杏はふと、我に返る。
自分はいま、なにを考えていたのだろう? なにを見ていたのだろう?
しかしいまや、そんなことはどうでもよかった。
寒い。とにかく寒い。この寒さはいったい?
相変わらず黒い手に全身を掴まれたままで、身動きが取れない。外の状況もさっぱりわからない。
角端は? 瀬名は?
わからない。ただひらすら寒い。寒い。寒い。
気づいたときには、沙杏は地面の上に立っていた。傍らには、武道服姿の角端が倒れている。
(これは、なにが……?)
状況が変わりすぎていて、沙杏は唖然とした。
雪。
真夏なのに、くるぶしの辺りまで雪が積もっていた。辺り一面が白く覆われ、幽霊マンションの壁は凍りついてさえいる。
あの黒い怪物は消え去り、また、瀬名の姿も見当たらない。
「角端、大丈夫!? なにがあったの!?」
沙杏は跪いて、角端に語りかけた。
「………瀬名伊織のように、素早い相手に攻撃を当てる方法は三通りしかない」
角端の声は、心なしかいつもより弱々しかった。
「ひとつ、相手をスピードで上回る。ふたつ、相手の意表を突く。みっつ、避けようがないほどの広範囲を一度に攻撃する。我がおこなったのは、三番目のやりかただ。このゴーストタウン全域を、ブリザードで覆った」
「そんなこと、できるの……?」
簡単に言ってくれるが、町ひとつを猛吹雪で覆うだなんて、もはや自然災害の域だ。現に雪が積もっているとは言え、これを狙って起こしただなんて、魔法を使える身としても、信じられない。
「我の本来の力を解放した。貴様も薄々勘づいていよう。あの醜い怪物こそが、我の正体なのだ。見苦しいものを見せたな」
「見苦しいだなんて、そんな……」
「ふ、繕わなくてよい。あの姿は力を際限なく発揮できるが、周囲の者の精神を汚染する。貴様も巻き込んでしまった」
精神の汚染。
確かにあの怪物の姿をした角端の近くにいるあいだ、沙杏の思考は歪んでいき、支離滅裂な幻覚を見ることになった。もう少しあの時間が続いていたら、廃人になっていたかもしれない。
「でも、そうするしかなかったんでしょ?」
「あのままでは負けていただろう。しかし、なるべくならあの姿になりたくはなかった。あれは刑務所側に使用を禁じられ、封印されていた力だ。それを強引に解放したがゆえ、消耗が激しい。もうこの戦闘では使えん」
「消耗って……それ、大丈夫なの?」
「死にはしない。それよりもだ。荒月沙杏よ、我は貴様に謝らなければならない。ブリザードによって、瀬名伊織を一時的に遠ざけることはできた。だが、倒した手応えはない。ヤツは貴様に妙に執着していた。おそらく、我が力を使い切ったことに気づいた段階で、ここに戻ってくるだろう。……すまない。護衛が任務だと言っておきながら、敵を撃退できず、そればかりか貴様を危険に晒し続けている」
「……違う、違うよ、角端。謝るのはあたしだよ!」
角端の先ほどの攻撃で、沙杏の精神に悪影響は出た。だが、その力を使ってくれなければ、今頃は瀬名に敗北していたことだろう。
黒い手で沙杏の全身を覆った意図も、いまならわかる。あれは吹雪に直接晒されないように、守ってくれていたのだ。
一貫して、彼は身を犠牲にして戦ってくれている。
それに比べ、自分は――
「あたしが無理を言って、自分の都合で、伊織と決着をつけるとか言って、こんなところまで出てきて! なのに、いざ戦いになったら、なんの役にも立てないで、角端を酷い目に遭わせて……。ごめん、あたしがここに来たいなんて言わなければ! ほんとに、ごめん……」
「謝るな」
珍しく、角端の口調に柔らかな温度が込められている。それは単にいま、彼が弱っているからというだけではない気がした。
「我が最終的に貴様を止めなかったのは、逃げだすよりも、戦うほうが生き残る可能性があるかもしれないと判断したからだ。自信を持て。貴様の魔法は強い」
「でも、伊織には全然通用しなかった」
「よいか。悔しいが、瀬名伊織の言ったことは正しい。『道具は使いよう』なのだ。それは魔法とて同じこと」
「…………」
「貴様からすれば、瀬名伊織は絶対的な強者に見えるかもしれない。だが、それは違う。ヤツが本当に絶対的な存在なら、我らの攻撃を避ける必要などないではないか。貴様をこんな人気のないところに呼び出したり、手紙を送って揺さぶったりする必要もなかった。そんな小細工などはせず、堂々と刑務所に乗り込んで、正面から貴様をさらえばよかったのだ。だが、ヤツはそれをしなかった。なぜか? できないからだ。ヤツは貴様が思っているほどの男ではない。それは幻だ。そして貴様はその幻を払うために、ここに来たのではなかったのか?」
「角端、あんた……」
「考えるのだ。ヤツを倒す方法を。我らが真に力を合わせれば、勝機はある」
※
数分後、角端の予想通り、瀬名は何食わぬ顔で沙杏のもとへ戻ってきた。
余裕そうな態度は崩していないが、角端を警戒しているのか、五メートルより内側にはけして近づいてこようとしない。
「いや、驚いたね。こんな季節に雪が降るなんて。いいものを見た」
「そうだね。こんな状況じゃなきゃ、はしゃいでたかも」
「うん。ところで、きみのボディガードはどこへ行ったんだい?」
「疲れて寝ちゃった」
現在、角端の姿はどこにもない。沙杏の影の中に戻っている。
だがもちろん、寝ているというのは大嘘だ。人間の姿で戦う程度の力はまだ残っている。彼はいま、いつでも瀬名に奇襲をかけられるよう、影の中から抜け目なく隙を伺っているところだ。
もっとも、そんな嘘が通じる相手とも思えない。しかしそれで構わない。沙杏と角端の狙いは、わずかでも瀬名の精神を揺さぶり続けることにある。
「そんなことより、昔さ、伊織は言ってたよね。強い炭酸が嫌いだって」
「……言ったっけ?」
「そうだよ。あたしもそう、北から薄いけど、乾かしたばっかり!」
そう言って、沙杏は思い切り真正面から、足元の雪を撒き散らしつつ、瀬名に向かって走りだした。
「? なんだ、なにを言って……」
瀬名が困惑の表情を浮かべる。
それはそうだろう。沙杏だって、自分がなにを言っているのかわからないのだから。
角端は、瀬名のようなスピードの速い相手に攻撃を当てる方法は三つあると言っていた。『スピードで相手を上回る』、『相手の意表を突く』、『広範囲を同時に攻撃する』。ここから沙杏が採用した戦法は、二つ目――『相手の意表を突く』。
だから沙杏は、わざと意味のわからないことを口走りながら、正面から突撃したのだった。しかしながら、困惑こそすれ、この程度のことで瀬名が隙を見せるとは考えにくい。
だから沙杏は、より彼を動揺させるため、奇行に奇行を重ねる。
瀬名に向かって走っている途中で、くるりと身を反転させ、
「紅雷撃!」
誰もいない後方に向けて、電撃を放った。
その攻撃は当たらない。瀬名と真逆の方向に撃っているのだから、当たり前だ。
だが、これでいい。この奇行の狙いは、最初から瀬名を攻撃することではない。
第一に、瀬名の注意を引きつけること。第二に、意味不明な行動を取ることで、瀬名の思考をさらに乱すこと。
そして最も重要な狙いは、沙杏の後方に、強力な光源を作りだすこと。
この作戦で使用するのは電撃そのものではない。副次的に発生する、光のほうだ。
稲妻が閃き、沙杏の影の面積が一瞬にして増大する。それは瀬名を飲み込んで、彼の背後をも黒く塗り潰した。
角端が移動できるのは、沙杏の影の長さぶんだけ。それでは、その影が、瀬名の背後にまで到達しているいまならば?
待ちかねていたとばかりに、角端が姿を現す。
完全に、瀬名の背後を取っていた。
角端は決め台詞も技名も言わず、重ねられた両手から、人間一人を丸々飲み込めるほどの巨大な青白い光線を放つ。
「……まさか!」
瀬名が一瞬遅れて、沙杏と角端の意図に気づき、後ろを振り返る。
その一瞬の遅れが、敗因だ。
すでに角端の放った光線が、瀬名の目前にまで迫っている。もはや絶対に避けられない距離――のはずなのに。
やはり、瀬名伊織は常人ではなかった。野生的とも言える異常な反応速度で、彼はなんと、すんでのところで、光線の範囲のギリギリ外へ、自身の身体を逃がすことに成功したのだった。
ここまでやっても。
ここまで不意を突いても、瀬名に攻撃は当たらない。
「鏡面反射」
魔法円が、浮かび上がる。
いい。ここまでは想定内だ。
完全に意表を突いたとしても、瀬名が一撃目を避ける可能性があることは、沙杏も角端も予想していた。
だから二人が懸けていたのは、最初から、さらにそのもう一手先。
沙杏は影を伸ばすことで、角端に瀬名の背後を取らせた。つまり三人の位置関係は、瀬名が、沙杏と角端に挟まれるという形になっている。
その位置で角端が光線を放ち、瀬名が避けた場合、その先に立っているのは誰か?
――反射魔法を唱えた、沙杏だ。
鏡には映らないはずのヴァンパイアを、しかし沙杏は鏡面反射の内側に捉える。かつては憧れとして、いまは恐怖として、眼前に広がり続ける強大な幻影の底を映し出すように。
(これで、決める……!)
光線は魔法円に到達した瞬間に速度を倍加させ、角度を変えて跳ね返り、再び瀬名へと襲いかかった。
意表を突いた一発目は外れた。だがその上で、さらに意表を突いた二発目は――さすがの瀬名も、かわしきれなかった。
青白い巨大な光線が、全身を飲み込む。彼の身体は一瞬で氷漬けになり、粉々に砕け、無数の破片となって散った。




