物語なんていらない 4/?
分厚い雲はどこかに消え去り、月の輝きが再び廃墟の中を照らしていた。
血溜まりの中に沙杏が横たわっている。その傍らにはもう、瀬名伊織の姿はない。
沙杏の表情と呼吸と心臓の鼓動は完全に失われていて、どんな名医であっても、彼女を蘇生するのにはすでに手遅れのように見える。
そんな彼女の影の中から、“もう一人の沙杏”が這い出てきた。
「角端! 大丈夫!?」
もう一人の沙杏――いや、彼女こそが、本物の荒月沙杏だ。
床に倒れているのは、沙杏の姿に化けた角端だ。瀬名に胸部を貫かれる直前、彼は瞬時に沙杏を影の中に引き込み、そして自身は入れ替わるように表に出ていって、瀬名の攻撃を代わりに引き受けたのだった。
「どうして、こんなこと!」
角端は当然のように、淡々と答えた。
「我の任務は、貴様の監視と護衛だからな」
「だからって……こんな……ここまで……」
胸部に風穴の空いた、痛々しいという言葉では言い尽くせない無惨な姿。どう楽観的に見積もっても、助かっているようには思えない。
それでも望みを込めて、あるいは現実逃避で、沙杏は尋ねる。
「ねえ、大丈夫なんだよね? 死んじゃったりしないよね? ねえ!?」
「うむ、問題ない」
角端はやはり淡々とした、なんの感慨もない業務的な口調で言うと、何事もなかったかのように上半身を起こした。
「へ……?」
瀕死の重傷を負っている姿と、平然と起き上がる動作とにギャップがありすぎて、沙杏は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
いや、無事ならいいんだけれど……。
「言ったであろう、我は人間ではないと。この手の攻撃は致命傷になりえん」
「……ガチ?」
「ここで嘘をつく意味はない」
「なんだ、よかった……。びっくりしたわ……」
時間差で安堵が追い付いてくる。
ほっとして気持ちに余裕ができると、角端の変身した姿が、あまりにも沙杏自身に似ているのが気になってきた。鏡を見ているみたい――というのも違う。自分と同じ顔をした人間が立体感を伴って目の前に存在しているせいで、感動と気色悪さを同時に覚えるという奇妙な感覚に陥った。
「あんた、あたしに似すぎよね。さすが毎日あたしのお風呂覗いてるだけあるわ」
「人聞きの悪いことを言う」
「違う違う、褒めてんの」
と言ってから、これでは毎日風呂を覗いていることを褒めてるみたいだと思って、慌てて付け加える。
「いや、そっくりに変身できるところがすごいなって思っただけで、お風呂覗くのは普通にやめてほしいんだけど」
「ふむ」
「どういうリアクション?」
ふむってなんだ、ふむって。相変わらず角端の考えていることはよくわからない。
わからないけれど。
――案ずるな。どんなことがあっても貴様のことは守り通す。
少なくとも彼は、自分の発した言葉を守ろうとする人物だということを、今日知った。
「あのさ……」
「なんだ」
「ありがとね。助けてくれて」
「仕事だからな」
またビジネスだ。
その仕事に懸ける覚悟と熱量はどこから来るのだろう。身代わりになってまで護衛の任務を全うするというのは、簡単にできることとは思えないけれど。
まあ、なんだっていい。むしろビジネスだと言い切ってもらったほうが、いまは心地良いかもしれない。
親身になって、味方の振りをして、甘い顔で近づいてくるような大人たちには、正直ちょっと疲れてしまった。
「さて、いつまでもここに留まっているわけにはいかんな」
沙杏に化けていた角端が、黒い絵の具のようにどろりと溶けて、瞬く間に青い武道服を着た男の姿に変わった。先ほどまで空いていた胸の風穴も綺麗に塞がっている。
またそれと同時に、床に広がっていた大量の血液も消えた。綺麗に拭き取ったという次元ではなく、まるでペイントソフトでレイヤーごと削除したかのように、血液だけが跡形もなく消失していた。
「いま、外で瀬名伊織と特別チームが交戦中だ。我らはその間にここから離脱する」
「あたしたちは、このまま帰るだけ?」
「我らの任務はすでに終わっている。戦闘はプロに任せておけ。もっとも――」
角端がなにか言いかけたとき、遠くから男の叫び声が聞こえてきた。なぜだか、その声の主はもう二度と声を発することはないだろうという、不吉な気配がした。
「やはりな。急ぐぞ。時間はない」
「ちょっと、いまの悲鳴って……」
「今回編成された特別チームだが、おそらく助からないだろう」
「どういうこと? ……え、負けちゃうってこと?」
「その可能性が高い」
「はあ!?」
角端の言っていることの意味がわからない。
「どうして? あの針品っておっさん、あんなに偉そうって言うか、自信満々だったじゃん!」
「やつが弱いわけではない。だが、先ほど対峙して確信した。瀬名伊織のほうが明らかに上だ。やつでは勝てん」
「でも、伊織のために集められたチームなんでしょ? その辺の力の差とか、ちゃんと計算してあんじゃないの!?」
「力を見誤ったか、驕りがあったか、功を焦ったか、はたまた悪い政治が働いたか……いずれにせよ、今回の作戦、正当な手続きを踏んでいない感がある」
「なによそれ……」
なにが特別チームだ。
だが悪態をついている場合ではない。先ほど聞こえてきた悲鳴のことを考えると、この場における負けとは、スポーツやゲームにおける負けとは比較にならない重い意味を持っているはずだ。
この状況で、自分はどうするべきか。沙杏が結論を出すまでに時間はかからなかった。
「あたしも戦う!」
瀬名が人を傷つけている現場にいながら、黙ってそれを見過ごしたり、ましてや逃げるだなんて、そんなことはできない。
もしも。
もしもあの銀髪の少女がこの場にいたら、彼女は逃げだすだろうか?
「だめだ」
「だめじゃない! あたしがやんなきゃいけないんだよ! ……これはけじめでもあるの。あたしの罪は、あんなやつを信用して、野放しにしてきたことなんだよ。だから、行かなきゃ」
「気持ちでなんとかできる問題ではない」
「別に適当に言ってるんじゃないの。あたしは魔法が使える。そこそこ戦えんのよ。角端、あんたさ、没収したあたしの杖、まだ持ってんじゃないの?」
「……あるには、ある」
「じゃあなんも問題ないって!」
「…………」
現在の角端の姿は、顔が黒く潰れており、表情が見えない。けれど、なにかを考え込んでいるような雰囲気ではある。少なくとも、即座に反対はしてこない。
沙杏はもうひと押し、戦うためのそれらしい口実をでっちあげる。
「どっちにしろ、ここで逃げたって、瀬名に追い付かれたら今度こそ殺されるでしょ? だったら、ここでみんなと一緒に戦ったほうがまだ生き残る可能性は高いんじゃない?」
「…………」
「黙ってるってことは、反対してないって受け取るからね! あたし、行くから!」
沙杏は立ち上がり、足早に歩きだす。角端は賛成はしなかったが、引き止めもしなかった。
玄関を出て共用通路に出ると、マンションの敷地内にいくつかの人影が見えた。中には倒れている人もいるようだが、沙杏のいる四階からは細部まで確認できない。
廃墟には電気が通っていないので、当然エレベーターも動いていない。階段へ急ぐ。ノンストップで一階まで駆け降りるつもりでいたけれど、途中、踊り場の暗がりに人が倒れているのを見つけて足を止めた。
「大丈夫!?」
慌てて駆け寄って声をかけるが、反応はない。
倒れているのは、スーツを着た老齢の男性だった。胸から血を流しているが、それほど深刻な怪我には見えない。
沙杏はもう一度声をかける。
「大丈夫ですか?」
「よせ、もう死んでる」
落ち着き払った口調で、角端が言った。
「え……?」
沙杏には、人の生き死にを正確に見極める知識はない。だからここは角端の判断を信じるしかないのだが――。
彼の「もう死んでる」という言葉によって、目の前の景色が物理的に変化することはない。沙杏の目には、ここで倒れている男性が、やはりそれほど大きな怪我を負っているようには見えないのだ。
これで、死んでる? 本当に?
生まれて初めて目の当たりにする死体。
精神的なショックが大きすぎるのか、それとも実感が湧かなすぎるのか、
(動かない人間って、なんだか大きく見えるな)
と、あまりにも的外れな感想が頭をよぎった。
死体を前にして、なにをどうしていいかわからない沙杏とは違い、角端は冷静に死人の顔を検め、呟いた。
「こいつ、針品哲久だな」
「針品って……待って、あたしにめっちゃ暴言吐いてきた、あのおっさんだよね?」
「そうだ」
「えっ? え?」
沙杏は困惑を隠せなかった。一昨日に会ったばかりの針品と、目の前の死人の顔とが、全然一致しないのだ。
別人? 記憶違い?
……いや、違う。よくよく観察してみれば、倒れているのは針品哲久だとわかる。でも、角端に教えられなければ、絶対にそうだとは気づけなかった。
なにせ、顔が違いすぎる。一昨日喋ったときの針品は、下品で、不快で、嫌らしく、浅ましく、だけど確かに活力に溢れていた。特に(彼の価値観でいうところの)犯罪者が酷い目に遭っているさまを嬉々として語るあの表情は、褒められたものではないが、“生きてる”という感じだった。
ところがいま、人を苛立たせるために日頃から厳しく統率されていたであろう彼の表情筋は、完全にその役目を終えていた。皺が深い溝を作ったまま固定されており、一昨日会ったときから二十歳は老け込んでしまったように見える。
死に顔は意外にも穏やかで、一目には、人のよさそうなおじいちゃんが、昼下がりにまどろんでいるかのようだ。
沙杏の知っている針品哲久は、そこにはもういない。
なにが彼を決定的に変えてしまったのかということに思いを巡らせた瞬間に、沙杏はようやく、実感として、人の死を知った。
「――――ッ!」
沙杏は右手で口許を押さえたまま、虚空を見つめ、凍りついたように動かなくなる。
「荒月沙杏」
「…………」
「荒月沙杏!」
角端が、呆然としゃがみこんでいる沙杏の肩を揺する。
「瀬名伊織に立ち向かうにせよ、逃げだすにせよ、ここで立ち止まるのは悪手だ」
「……わかってる、わかってるよ。止めなきゃ、伊織のやつを。そう、あたしが、止めなきゃ」
止めなきゃ――と、うわごとのように繰り返しながら、沙杏はふらふらと立ち上がる。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
「珍しいじゃん、角端。あたしを気遣ってくれるなんて」
「戦場では平常心を保てない者から死ぬ。いまの貴様では、戦闘において高いパフォーマンスを発揮することは難しいだろう」
「ふふっ、どういうフォローの言葉よ。変わんないね、あんたは」
やはり角端は、人間の気持ちがわからないのだろう。これでは慰めや気遣いというより、ゲーム攻略のためのアドバイスだ。
でも、不思議と安心する。
沙杏は口元にシニカルな笑みを作った。
「大丈夫だよ。あたしの精神がまともだったときなんて、たぶん、今日まで一度もないんだから」
沙杏が一階まで駆け降りてきたときには、すべてが終わっていた。
マンションの敷地内に倒れている、人、人、人。おそらく、針品と同じ特別チームのメンバーだ。その全員が微動だにせず、また、うめき声すら上げない。
彼らはこのマンションが廃墟になったときから、実はずっと一緒にここに打ち捨てられていたのではないかと感じるほど、ゴーストタウンの風景に早くも馴染んでしまっていた。
そんな音のない風景の中に、返り血を浴びた瀬名伊織がぽつりと立っていた。月明かりの下、無表情で、しかし目つきだけが異様にギラついている。
――ヤツは、ヴァンパイアの記号だ。
生前の針品の言葉が、ふいに甦った。
「沙杏ちゃん! よかった! 生きてたんだね!」
瀬名は沙杏に気づくと、心底安心したような、穏やかな表情を浮かべた。
「ごめん! さっきはさ、このまま生きていても辛いだろうから、どうせならひと思いに殺してあげようと思ってやったんだけど……やっぱりあとになって辛くなってきてさ。沙杏ちゃんは殺さないで、無理矢理にでも連れて帰ればよかったなって、後悔してたところだったんだよ。ああ、よかった」
瀬名の態度は、不快感を覚えるほどに軽かった。
まるでレストランでAという料理かBという料理かで悩み、Aを頼んだ直後に「Bにすればよかった!」と言っている人みたいな、子供じみた軽さだった。
人を何人も殺しておいて。
人の人生をめちゃくちゃにしておいて。
「伊織……」
沙杏は彼の輪郭を確かめるように呟く。そしてその輪郭にハンマーを振り下ろすように、吼えた。
「伊織ィッッッ!!!!」
いままで自分は、こんなやつを信じていたのかという情けなさ、浅はかさ、悔しさ、悲しさ、虚しさ、苦さ、重さ、痛さ、切なさ、やりきれなさ……言葉にできない想いのすべてが爆発して、ないまぜになって、しかし完全に溶け合うことはなく、むき出しの鈍器となって、無人の街を殴りつける。
瀬名は笑った。
「おいでよ、沙杏ちゃん。俺たちのところへ。悪役が、悪役らしく生きられるための組織があるんだ。そこに来れば、きっときみも幸せになれるよ」
二人の会話は、もはや表面上ですら成立していなかった。
それでいい。
沙杏はこれ以上、瀬名と意味のある言葉を交わしたくなかった。
「……ふう」
と、一息。そして。
「角端、お願い」
沙杏が呟くと、まるで雨を逆再生したかのように、地面から――いや、影の中から、一本の木の棒が飛び出してきた。顔の前まで跳ね上がってきたそれを、沙杏は右手でキャッチし、すかさず瀬名に向ける。
魔法の杖。
かつて沙杏が刑務所に入る際に没収された、魔法を使うために必要なアイテム。それがいま、再び彼女の手の中に戻ってきた。
「紅雷撃」
杖の先から、紅い稲妻が走る。
決着の時だ。




