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物語なんていらない 3/?

 瀬名伊織――本名、エミール・ヨアン・クザ。


 彼の手紙に指定されていた場所は、某県に位置するゴーストタウンだった。


 現時刻、午前一時半。人が生活していた跡を残して死んだ町を、沙杏は月明かりを頼りに歩く。


「ねえ、角端。お願いがあるんだけど」


 沙杏は自身の足元に向かって呟いた。月が明るいため、真夜中にもかかわらず、自分の影の輪郭が意外にはっきりと見える。


 影の中から、返事があった。


「言ってみよ」


「もし伊織を……瀬名を見つけても、すぐにみんなを呼ばないでほしいの。ちょっとだけ、瀬名と話がしたい」


 現在、角端を除いて、沙杏に同行者はいない。瀬名を警戒させないためだ。


 そして沙杏が瀬名との接触に成功したうえで、それが罠ではないと角端が判断した場合、ここから少し離れたところで待機している対・瀬名伊織特別チームに集合の合図を送る手筈になっている。


 ちなみに特別チームのリーダーは、一昨日、横暴な態度で沙杏に接してきたあの白髪交じりの初老の男だ。名前は針品はりしな 哲久てっきゅう


 彼は異能力を用いた犯罪を専門に捜査する世界警察カロス・ロブリーという国際組織の一員で、これまでに幾度となく凶悪な異能力者を検挙してきた優秀な捜査員らしい。


 あんな性格で優秀なんだ、と沙杏は複雑な気持ちになる。それとも、あんな性格だから凶悪犯と渡り合えるのか。


 ともあれ、針品を筆頭とした特別チームをこの場に呼ぶ権利を持っているのは、沙杏の護衛役であり監視役の角端だ。


 その角端に、少し瀬名と話したいから、すぐに合図を送らないでほしいと、沙杏は頼んだのだった。


「なぜだ」


 当然の疑問だろう。


「貴重な情報を引き出せるかもしれないでしょ? 瀬名のやつ、たぶんあたしと二人きりじゃないと話さないこともあると思うよ」


「…………ふむ」

 

 数秒の間。


「よかろう。ただし、時と場合による。状況によっては待てん」


「それでいいよ。ありがと」


 貴重な情報を引き出せるかもしれないというのは嘘ではない。しかしどちらかと言えば、瀬名と話す時間を作るための口実だ。もしも瀬名が逮捕されたら、今後彼と腹を割って二人きりで話せる機会はそうそう巡ってこないだろう。だとしたら、今日が最初で最後のチャンスになるかもしれない。


 警察の捜査能力を疑っているわけじゃない。けれど沙杏はどうしても、瀬名本人の口から真相を聞きたかった。


 前方に、廃墟となった団地が見えてくる。


 同じ形のマンションたちは規則正しく整列していて、いまもまだ、新しい住人を待っているかのよう。敷地はフェンスによって封鎖されているが、それは人の立ち入りを禁止するためというよりは、幽霊マンションの群れがかつてここに住んでいた人々を追いかけていかないように押し留めておくための檻に見えた。

 

 えいっ、と呟きながら、沙杏は菱形ひしがたの網目に手をかけ、フェンスを乗り越える。敷地の内側に入った瞬間、気温が下がったような気がした。


「はあ……こっわ……」

 

 幽霊マンションの雰囲気が怖いというだけではない。

 

 沙杏がほぼ同行者がいない状態でここまで来ているのは、瀬名を警戒させないためではあるが、もう一つ、現実的な理由がある。


 それは、今回の呼び出しが罠だった場合、沙杏一人の犠牲で済ませるためだ。


 のこのこと集合場所に出向けば、酷い目に遭う可能性がある。痛いのは嫌だ――根元的な恐怖だけに、誤魔化しようがない。


 また、瀬名に会えたとしても、それはそれで、真実に近づく恐怖というのもある。


 いずれにしても、気が滅入る。沙杏は、償いをするためならなんでもすると誓った。でもそれは、心がなにも感じなくなることとイコールではない。


「案ずるな。どんなことがあっても貴様のことは守り通す」

 

 相変わらず、淡々とした口調で角端は言った。


「……結構、ロマンチックなこと言ってくれんのね」


「貴様の監視と護衛が、我の仕事だからな」


「ビジネスじゃん」

 

 苦笑しながらも、沙杏はちょっとだけ安心した。

 

 刑務所では、角端は二十四時間常に影の中から沙杏を監視していた。ちょっとくらいサボってよと愚痴りたくなるほどのその勤勉さが、いまこの場においては頼もしく感じる。


「よし、行こっか」

 

 月明りの下、瀬名が待ち構えているであろう幽霊マンションの一棟を、沙杏は睨むように見上げる。


 すると、マンション全体に血管が浮かび上がり、生々しく脈を打った――ように見えた。


 もちろん血管なんて存在しない。建物に絡みついているツタがそう見えただけ。


 しかし、いまのが本当にただの目の錯覚だったと言い切れるのか。沙杏はなぜだか、自信が持てなかった。



 ※



 幽霊マンションの内部はやや埃っぽく、壁の色は剥げ、所々に植物が入り込んでいるものの、想像していたよりはずっと小綺麗なのが意外だった。

 

 廃墟にありがちなゴミの不法投棄や、荒らされた形跡が見当たらない。

 

 自然には浸食されているのに、人間には一切浸食されていないという偏りが、理由もわからず不気味に感じた。

 

 C棟四階、407号室。そこが瀬名伊織との待ち合わせ場所だった。

 

 本当にこんなところに彼がいるのかと思ったけれど、入口のドアノブを回すと、面白いほど簡単に扉が開いた。

 

 廃墟に電気が通っているわけがないのに、部屋の中にはうっすらと明かりが灯っていた。よく見ると、光源は部屋の中にいくつか置かれているランタンだった。

 

 部屋の奥から、なにかがこちらへ向かってくる。それが四つん這いの人間だと気づいて、沙杏は悲鳴を上げそうになった。


 そんな沙杏の気も知らず、四つん這いの人間は顔を上げ、どこか間の抜けた声で言うのだった。


「あっ、沙杏ちゃん、久しぶり」

 

 飾ったところのない、けれど野暮ったくもない、色白の黒髪の青年。たとえば混雑した電車内で理不尽に足を踏まれたとしても、けして怒らない――というよりも怒れない、むしろ逆に謝ってしまうような、優しげで温厚な眼差しをしている。


 その青年の顔を見た瞬間、ここに来るまでに脳内を巡っていたあらゆる不安や緊張や考えが、いっせいに飛んでしまった。沙杏はただ無意識に、彼の名前を呟く。


「伊織……」

 

 青年――瀬名伊織は、眼尻に皺をくしゃりと寄せて、無邪気な笑みを浮かべた。


「見て見て。今日ね、沙杏ちゃんと会うから、ずっとここの掃除してたんだよ!」


 ひょいと、瀬名は手に持っていた雑巾を沙杏の前に掲げた。そんなもの見せられても。


 四つん這いでいたのは、雑巾がけをしていたからだったのか。


「そ、そうなんだ」


「髪切った? かわいいね」


「え? ちょ、なによ……」


「本当は料理が美味しいお店とかで会えたらよかったんだけど、そういうわけにもいかなかったから。でもせっかく沙杏ちゃんと会えるんだからね、せめて掃除くらいしとこうかと思ってさ。見てよ、廃墟とは思えないくらい綺麗になってるでしょ?」


「はあ」


 なんだこれは。あまりの緊張感のなさに、ペースが乱される。


「おいで。奥で話そうよ」


 ふいに瀬名が距離を詰めてきて、沙杏の肩を軽く叩いた。かつて憧れだった人の匂いが、沙杏の甘い記憶を撫でながら通りすぎていく。世界がくらりと揺れて、そのまま倒れてしまうかと思った。





 407号室の中は、瀬名が言っていた通り、廃墟とは思えないほど綺麗に掃除されていた。


 住人が置き去りにしていったであろうダイニングテーブルもピカピカに磨き上げられ、味はあるのに小汚さはない。


 瀬名は沙杏をテーブルにつかせると、キッチンの床に置かれたリュックからメタリックブルーの水筒を取り出した。


「コーヒー、飲む? ここじゃ淹れられないから、家で淹れてきたんだ」


「いや、コーヒーとか言ってる場合じゃ……」


「今日はどの気分? ホット? アイスもあるよ。砂糖はありかな?」


 沙杏はコーヒーの飲みかたにこだわりがないのがこだわりだ。砂糖やクリームの量はそのときの気分で変える。瀬名はそれを覚えていて、わざわざ沙杏に希望を聞いているのだ。


「……じゃあ、ブラックのアイスで」


「おっけー」


 瀬名は持参したらしいカップにコーヒーを注ぎ、沙杏の前に置く。それから彼は向かい側の席に座った。


「沙杏ちゃん、刑務所に行ってたんだよね? 大丈夫だった? 酷いこと、されてない?」


「大丈夫だったけど」


「そっか、よかった」


「…………」


「コーヒー、飲まないの? あ、疑ってる? あはは、別になにも入ってないよ!」

 

 瀬名はもうひとつのカップにコーヒーを注ぎ、それを飲み干すと、「ね?」と、おどけるように笑った。


(……なんで伊織はこの状況で普通に喋ってくんの? 私が変なの?)


 瀬名があまりにも自然体すぎて、沙杏も釣られてしまいそうになる。


 だめだ。やるべきことを思い出せ。自分はここに、真実を知るために来たんじゃなかったのか。

 

 廃墟に電気は通っていない。それでも、ランタンの光と窓から入ってくる月明かりで、部屋の中は充分に見通せる。


 瀬名の表情がよく見える。この部屋に闇に覆われたものはない。怖いものなんて、ひとつもない。


 沙杏は本題へ踏み込んだ。


「ねえ伊織さ、あのさ、その前にさ、話すこと……あるじゃん。あるよね?」


 やや間を置いて、瀬名は俯きながら答えた。


「うん、そうだよね」


「なんで、あたしに……あんなことさせたの?」


 どうして瀬名は、沙杏に魔法生物を使ったテロ行為をおこなうよう仕向けたのか。


 瀬名の目の色が変わる。


「させた? 違うでしょ。沙杏ちゃんは自分の意思で世界に復讐しようとしたんじゃないの?」


「それは…………。うん、それはそう。それはそうだよ。あたしの意思だった」


 いくら仕向けられたとは言え、行動に移したのは自分の意思だ。そしてあの銀髪の少女のことを傷つけたのも、紛れもなく自分自身だ。それを人のせいにするつもりはない。


「でも、あたしが知りたいのは、その前の話だよ。警察の人が言ってたんだけどさ、あたしに暴力を振るったあの人と、伊織は仲間だって。それって、本当なの?」


「……そっか。聞いちゃったか」


 瀬名は少し気まずそうに苦笑してから、頷いた。


「うん。沙杏ちゃんを虐待した人と俺は仲間だよ」


 認めた。あんまりにもあっさりと。


 無意識のうちに、沙杏は大声を張り上げていた。


「なんで……なんで、そんなこと!」


「ごめん」


「騙してたの!?」


「……ごめんなさい」


「あたしさ、ねえ、あたしさぁ……! 伊織のこと信じてたんだよ!? 地獄から救ってくれた人なんだって、本当に、本当に、信じてたよ! 好きだったよ! あんたに会ってから、人生が初めて、楽しかったんだよ! なのにさ、なんで!? なんで騙したの!? 助けるつもりならさ、最初から虐待なんてしないでよ! どういうつもりなの!? ねえッ!」


「本当に、ごめんね」


 瀬名は余計なことは言わなかった。一言も言い訳はせず、神妙な面持ちで謝罪を続ける。


 かえって後ろめたさを感じさせないその潔い態度に、沙杏はふと「なにか事情があったのかな」と思った。


 あってほしいと思った。


「なんで?」


「…………」


「どうして、そんなわけのわかんないことをしたの?」


「きみにはね、復讐の物語が似合うと思ったから」


 聞き間違いかと思った。瀬名の言っていることが根本からわからなかったからだ。


「どういう意味」


「俺たち記号ツリーツェが失ったものって、なんだと思う?」


「なんの話をしてるの?」


「だから、俺たちのような、ボツになったキャラクターが失ったものってなんだろうねって話だよ」

 

 違う。そんなことを訊いているんじゃない。もっともっともっと、手前の部分から説明してほしいのに。


 互いの理解が噛み合わないまま話は進む。


「俺たちは作者に捨てられたよね? でも、死んではいない。いまこうして生きてるんだし。だから、命は失ってないわけだ。じゃあ俺たちが失ったものはなにか。――それは、物語だよ」

 

 瀬名の表情や仕草に狂気は感じない。至って自然体だ。先ほど、コーヒーはホットがいいかアイスがいいかと言っていたときと、まったく同じトーンで語っている。


「俺たち記号ツリーツェは、いまも物語を失ってしまったままだ。本来語られるはずだった話がボツになったんだからね。そしてその物語は回収されていない。言うなら俺たち記号ツリーツェは、物語をなくしたキャラクターなんだよ」


 瀬名の言っている内容自体は理解できないでもない。ボツになったキャラクターは、物語の舞台に上がることはできなかったのだから、物語がないのは当たり前だ。


 だが、それをいまここで語る意味がわからない。


「沙杏ちゃん。物語のないキャラクターに、生きる意味ってあると思う?」


 過激な問いかけとは裏腹に、瀬名の口調は柔らかい。


「なんでもない日常にただ流される人生なんて、どれだけの価値があるんだろうね。特に理由もなく生き、理由もなく死んでいく。劇的な見せ場もなく、伏線もなく、日々起こる出来事を恣意しい的に繋ぎ合わせて、これが生まれた意味だとか、運命だとか、無理矢理自分に言い聞かせて、納得したふりをしながら一生を終える。そんな人生、キャラクターとして――というか、人として虚しすぎると思わない?」


 数年前、沙杏の虐待問題が解決した直後のこと。瀬名は、当時の沙杏に「もう大丈夫だからね」と優しく微笑みかけ、怯えていた彼女を安心させた。


 そしていま、瀬名はそのときとまったく同じ笑みを浮かべている。


「俺はね、沙杏ちゃんにキャラクターとして死んでほしくなかった。キャラクターとして生きてほしかった。だから、“世界を恨み、復讐を誓う女の子”の役と、物語を、きみにあげたんだよ」


「…………」


 言葉にならなかった。


 意味がわからなすぎて怖いという感覚を、沙杏は初めて知った。かろうじて口から漏れた言葉は、


「なんなの……あたしはそんなの、頼んでない……」


「自覚はないかもしれないけどさ、沙杏ちゃん、俺にはわかる。きみはもともと“悪役”のキャラクターなんだよ。それも悲劇の悪役のね。だから言ったでしょ? きみには復讐の物語が似合うって」


「あたしが、悪役……?」


「そう。でも、それって悲しいことじゃないんだよ。悪役にしか語れないことって、たくさんあるからね。それよりも、キャラクターとして大事なのは、自分の役割をまっとうすること」


「やめてよ……わかんないよ。伊織の言ってること、全然わかんない! なにが物語よ! 悪役よ! あたしの生きかたを、役割を勝手に決めないで!」

 

 叫ぶつもりなんてないのに、勝手に激情が喉の奥から溢れてくる。

 

 しかしそれは怒りではない。強いて言えば悲しみだ。どこに向けられた悲しみなのかはわからないけれど。


「あたしは、伊織の言う物語のために、虐待されたの!? 騙されたの!? なんなのよ! そんな苦しい物語なんて、あたしは欲しくなかった! ないほうがマシだった! 伊織とだって、こんな出会いかたはしたくなかった!」


「本当にそうかな? 考えてごらん。人はね、悲劇を乗り越えて成長するものだよ。沙杏ちゃんにとっては、一見苦しいだけの物語だったかもしれない。でもそれを乗り越える過程で、沙杏ちゃんはたくさんのものを得たんじゃない? 成長とか、気づきとか、大切な友達との出会いとか、ね」

 

 瀬名が沙杏に向ける眼差しは、あくまでも優しい。第三者にこの瞬間だけを切り取って見せれば、愛娘に向けるそれだと勘違いされてもおかしくはないだろう。


「今日までいろいろと隠していてごめんね。でも、もう騙したりはしないから」

 

 そう言って、彼はそっと手を差し伸べる。


「沙杏ちゃん、刑務所にはもう戻らなくていいよ。俺と一緒においで。そうすれば、たくさんの物語をきみにあげる。時に楽しく。時に熱く。時に悲しく。時に美しく。起伏に富み、すべての出来事に意味がある、キャラクターとして生まれてきてよかったと心から思えるような、最高の物語と、成長と、結末を、きみにあげる」


「…………」

 

 沙杏は返事をせず、手を取らず、ただ、一度だけ大きく息を吐いた。

 

 ……もういい。もう、話すことはない。


 さよならを言うときが来たのだ。目の前の男から。そして、沙杏が今日まで見てきたあらゆる幻想と未練から。


「ごめん、伊織」

 

 沙杏は椅子から立ち上がり、別れを告げる。


「あたし、水族館に行かなきゃだから。だから、行けない」

 

 瀬名は、どこか寂しげに口元を綻ばせた。


「そう。沙杏ちゃん、綺麗になったね」

 

 突然、部屋を照らしていたランタンが点滅を始め、やがて完全に消えた。

 

 続けざまに、偶然とは思えないタイミングで、分厚い雲が月を覆い隠した。

 

 夜は光を失い、沙杏の視界が暗闇に包まれる。


「でも、俺は昔の沙杏ちゃんのほうが好きだったよ」

 

 正面に座っていたはずの瀬名の声が背後から、しかも耳元で聞こえた。


「世界中の人間を不幸に叩き落とすことしか考えていなかった、あのときの眼。理不尽な色の炎が灯った、あの眼は美しかった」

 

 ねっとりとした囁き声。瀬名の息が耳にかかる。


 その間、沙杏は逃げるどころか、身じろぎひとつできなかった。

 

 瀬名の右腕が、沙杏の胸を背後から貫いていたからだ。


「これでお別れだね」

 

 そして、腕が引き抜かれる。身体の中央に空いた不自然な穴から大量の血を撒き散らし、沙杏は声もなく床に倒れ込んだ。


 暗闇の赤い海に沈んでいく彼女の瞳は、早くも色を失くし始める。


 その瞳に映る瀬名は――


「ふふっ」


 眼尻に皺をくしゃりと寄せて、無邪気に笑っていた。

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